外伝1:ハゴロモ
「現生界か…」
簡素な椅子に腰をかけて、ミシェルはため息をついた。
正直に言って、現生界に行ってどうにかなるとはとても思えなかった。そんなに根の浅い問題ではないのだ。だが断らなかったのは、自分に気を使ってくれたエルフィの顔を潰したくなかったからだ。もとより、ミカエリスの命令に逆らえるはずもないが。
「…こんな時まで…」
ミシェルは、両手で顔を覆って、かぶりを振った。エルフィは純粋にミシェルのことを思ってやってくれているのに、そういう考え方しかできない自分が嫌だった。
エルフィと初めて会ったのは、まだ軍官学校に入る前のことである。ミシェルの父は賢人議会の議員で、幼い頃からミシェルも議会に名を連ねることが出来るようにと、厳しく育てられてきた。そんな父に連れられて議場にやってきたミシェルは、議会が始まる前に公聴席を抜けだして人気のない中庭でぼぅっと池を眺めていた。父には議会の様子を見ておけと言われたが、始まるまでに戻れば大丈夫だろうと思っていた。
すると、池に映る自分の背後に、見慣れぬ人影が現れた。
「こんな所で、休憩ですか?」
振り返ると、自分より少し年上らしい、美しい女性が立っていた。ややくせのある金髪に、優しい微笑みをたたえた焦げ茶色の瞳。ゆったりとしたデザインのスーツを着ているが、議員の者ではないようだ。ミシェルは彼女も公聴者であろうと踏んだ。
「休憩という言葉は適切ではありません。まだ議会は始まっていないのですから」
いつもの感情のない事務的な口調でミシェルが言うと、彼女は可笑しそうにくすくすと笑った。
「それもそうね。でもこんな所に来るのはわたくし一人だけだと思っていたものですから。わたくしの特等席…などと、勝手に思っていたのですよ」
「…あなたは、いつもここに?」
「いつも議会に来るのかという質問でしたら、それは違います。今日は特別なの。議会に来た時にいつもこの庭に来るのかという質問でしたら、ええ、全くその通りですわ。ここに来ると、とても心が安まるの」
彼女はそこまで言うと、急に思い出したように両手を合わせた。
「…まだ名前を聞いていませんでしたね。わたくしは…エルファレーナといいます。エルフィと呼んで下さい。あなたは?」
「…ミシェラヴィル。ミシェルで結構です」
いつもなら、初対面の、それも素性の知れぬ者に名乗ったりはしないのだが、エルフィの優しげな雰囲気に警戒心が薄れたのか、ミシェルは素直に名乗った。相手がフルネームを名乗らなかったので、ミシェルもセカンドネームのみを名乗る。
「あなたも、議会を見に来たのですか?」
ミシェルが訊ねると、エルフィは微笑んで頷いた。
「あなたも公聴者ね?まだ若いのに、感心ですね」
「私は…父に連れられて来ただけです」
「お父様は議員なの?」
「ええ。私も将来議員になるのだから、議会の様子を見ておけと言われました」
「将来議員に?まぁ…議員になるのは、とても難しいのですよ?よほど優秀な天使でないと、なれないのに…もう決まったかのように仰るのね、あなたのお父様は」
「議員には…なれると思います。私が…そう望まれたのですから」
「…あなたは、議員になりたいと思っているの?」
「父の期待には、応えるべきだと思っています」
「お父様の仰ることなら、あなたの意志に反することでも、あなたは従うの?」
ミシェルは質問の意味がよく分からなかった。
「…父が、そう望んだのですから」
ミシェルがそう言うと、エルフィは急に悲しげな表情になった。
「では何故、あなたはお父様の意志に従うの?」
「何故?」
ミシェルは眉をひそめて問い返した。
「私が、父の娘だからです」
「………」
エルフィは悲しげな表情のまま、黙り込んだ。
「…もうすぐ議会が始まる時間ですね」
時計を見てミシェルが言う。
「私は先に、公聴席の方に戻っています」
ミシェルはそう言って、立ち上がった。エルフィはまだ少し悲しげな表情のまま、それでも微笑みをミシェルに向ける。
「あなたが議員になるのなら、また会うこともあるでしょうね、ミシェル。頑張って下さい」
「…ありがとうございます」
ミシェルは礼をすると、そのまままっすぐに公聴席へと戻った。
議会はまさに始まろうとしているところだった。ミシェルは公聴席を見渡したが、エルフィの姿はどこにもない。遅刻してしまったのだろうか。
「それでは、只今より天界賢人定例議会を開始いたします。本日は初回ですので、議事の進行は大天使様が行います」
議場に議長の声が朗々と響く。議長の合図と共に、奥の大きな扉が開き、大天使が姿を現した。
「…!」
ミシェルはその姿に驚き目を見開いた。
「第二四六代大天使、ミカエリス・エルファレーナ・シルラム。本日は賢人議会総議長より議事進行の委託を承ります。皆様、どうぞよろしく」
言って、ミカエリス…エルフィはあの微笑みを浮かべた。
そして、公聴席に顔を向け、その中にミシェルの姿を確認すると、またにっこりと笑顔を向ける。
それが、ミシェルとエルフィの出会いだった。
それから、ミシェルが父に連れられて議会を見に行く度に、そして軍官学校に入ってからも、たびたび議会に顔を出す度に、あの中庭で少しの間だけ他愛もない話をするのが、ミシェルとエルフィの暗黙の約束になっていた。
ミシェルが総議長になってからは、公的にも顔を合わせる機会が増えたが、そんな時にも、時折先程のように愛称で呼び合い、プライヴェートな話をすることがある。エルフィは大天使であったが、それ以上にミシェルにとっては数少ない、そしてかけがえのない友人であるといえた。
エルフィは本当にミシェルのことを気遣ってくれている。今回も、総議長の役職に疲れているのだろうと、わざわざこんな異例の命令を出したのだ。大天使といえど、あまりの勝手が許されるはずもない。かなり無理をしているのは、ミシェルにもわかる。
確かに、自分を知る者が一人もいないところに行くというのは、気の休まることであるかも知れない。
常に完璧であることをしか要求しなかった両親。
見せかけの友情をしか要求しなかった同級生達。
権力の恩恵をしか要求しない職場の同僚達。
そして、自分の名前をしか要求しない婚約者。
だが、自分はその要求に、出来うる限り応えてきた。
何故かは自分でもわからない。
フィーヴには、そうすることしかないから、と答えたが、それも違うような気がする。
当たっていたのは、自分に一番わからないのは自分の心だという言葉だけだ。
答えが見つかるとは思えない。
だが彼らの中にいると、答えの見つからない問いをいつまでも反芻してしまうのも事実だった。
ひととき、この問いを忘れるくらいの休息は許されるだろう。
そこまで思って、ミシェルは自分が休息を欲していたことに気付いて、苦笑した。
そして、エルフィが本当に自分のことを考えていてくれることに、胸が暖かくなるのを感じた。
ミシェルが何故エルフィと親友でいられるのか…それはエルフィがミシェルに何も要求しないからだろう。ふとそんなことを思う。
ミシェルは軽くため息をつき、荷造りを始めた。
さすがに賢人議会の制服を着ていく訳にはいかない。現生界では、街に定住しているのでないなら旅装束を着ているのが普通だ。天界にはそのような服自体存在しないのだが、ロングスカートにマントなら何とか魔道士ぐらいには見えるだろう。
情勢調査といっても、ほとんど名のみのものだ。三十年に一度正規の調査団が現生界に出向くことになっている。十年やそこらでは大した変化はないだろうし、そう細かく調べる必要もないだろう。
あとは、現地で用いられている貨幣と…
ガチャ。
身支度をしていると、突然後ろのドアが開く音がした。
誰かは判っていた。ミシェルは振り向きながら小さく溜息をつく。
「…今日は遅いのね、フィーヴ」