外伝1:ハゴロモ
 現世界に通じるただひとつの道は、誤って入ったり、邪な目的で通る者が無いよう、厳しく管理されている。
 ミシェルは整えた旅支度を持って、天界のはずれにある「門」へと降り立った。
 「これは、ヒューリルア。通達は届いております。どうぞお通り下さい」
 門番は久しぶりの来客に張り切って敬礼した。
 ミシェルは相変わらずの無表情のまま会釈をし、静かな声で門番に告げる。
 「私が現世界に行くということは異例のことです。多分に非公式の要素も含まれますので、軽々しく口にしないように。いいですね」
 「心得ております」
 門番は恭しく礼をすると、門の中心にある青い宝石に手を触れた。
 彼の手から、彼の頭の上の輪の波動パターンを感知して開く門。この波動パターンは天使によって異なり、ちょうど指紋のような役割を果たす。事実上、この門を開閉することが出来るのは彼しかいない。
 「それでは、お帰りになる時はこの通信機で私をお呼びください。現世界の方の門に近付かない限りは発動しませんが、これを無くされますと天界に戻ってくることは不可能になりますので…まあ、ヒューリルアに限ってそのようなことはないと思いますが」
 門番はそう言って、羽飾りのようなブローチをミシェルに渡した。
 暗に誉められたのだが特に反応はせず、ミシェルはブローチを胸元につけると会釈をして門の中に足を踏み入れた。
 ふわり、と身体が浮く感覚がして、目もくらむほどの光がミシェルを包んだ。と思うと、次の瞬間、ミシェルは鬱蒼とした緑に囲まれていた。
 頭を少し振って、天界と現世界の「気配」の違いに慣れようとする。
天界の門からつながる場所は、現世界の地図では中央に位置するセント・スター島である。と、知識では知っていたが、なにぶん実際に来るのは初めての経験だった。何から何まで、天界と様子が違う。いつも光に満ち溢れ、白を基調とした街並みが整然と並ぶ天界に比べて、現世界はさまざまな色が満ち溢れているように思えた。
座標軸を確認しておかなければ、と、あらかじめ用意したピラミッドのような形のアイテムを取り出す。この位置にくることが出来なければ、天界に帰ることは出来ない。それと、門番にもらったブローチと…
と、胸元を探って、ミシェルははっとした。
ブローチがない。
ミシェルは慌ててあたりを見回した。まさか来てすぐになくしてしまうとは。天界からの転送のはずみで胸から外れてしまったのだろうか。
「あの」
後ろから突然声をかけられ、ミシェルは驚いて振り向いた。
そこには、見掛けは自分と同い年くらいの男性が立っていた。
あまり手入れのされていない、無造作に結ばれたブラウンの長い髪。背は高く痩せていて、小さな丸めがねの奥にまるでそれが生まれたときからの顔の造作とでもいうようにニコニコと微笑んでいる瞳がある。笑みの形で閉じられているため、色までは見て取れない。だぼっとした、シンプルなデザインの服に身を包んでいる。
「これ、もしかしたらあなたの物ですか?」
男性はやはりニコニコしたまま、手に持っていた物を差し出した。
ミシェルが探していた羽根型のブローチ。
「…はい、私のものです。返していただけますか」
ミシェルは特に驚きも慌てもせず、淡々と男性に言った。
男性は面白そうにくすり、と笑うと、
「ナノクニに行かれたことはありますか?」
「ナノクニ?」
言われて、ミシェルは少しだけ眉をひそめた。聞いたことはある。現世界にある、独特な文化を有した小国だ。
「いいえ、ありませんが」
不審に思いながらも素直に答える。男性はなおもニコニコしたまま、手の中のブローチを眺める仕草をした。もっとも、実際は目を閉じているので、見えているわけはないだろうが。
「あの国に伝わる昔話に、ハゴロモというのがあるんですよ。天女が地上に降りて水浴びをしている隙に、地上の男が彼女の羽衣を奪ってしまう。天女はそれがないと天へ帰れない。返してくれと言う彼女に、男は返して欲しければ自分と結婚しろと迫るのです」
ミシェルは少し、どきりとした。
「何となく、あなたが天から降りてきた方のように思えたので、そんなことが頭に浮かびました」
…この人間は、何かを知っているのだろうか?いまだに瞳さえ見せない男の笑顔に、そのようなそぶりはまったく見られないが…
ミシェルは警戒しつつも、男性に問い返した。
「…では、私はそのブローチを返してもらうために、貴方と結婚しなくてはならないのでしょうか」
男性は苦笑して、ブローチをミシェルに差し出した。
「とんでもないですよ。彼は可哀想な人だったんです。物で人の心を繋ぎ止めることなど出来ない…最後までそのことが判らなかった。だから余計に、悲しい思いをしなくてはならなかったのです」
ミシェルは少しだけ不審げに眉を寄せて、ブローチを受け取った。男性はまだ微笑んだまま、続けてミシェルに問うた。
「旅の方ですか?」
「ええ…まあ」
「ここは…旅をするには少々不適格なところですね。特にあなたのようなお若い女性が。失礼ですが、道に迷われたのではないですか?」
ミシェルは少し考えた。確かにこのような深い森の中を、自分のような外見年齢の女性が歩いているのは尋常でないかもしれない。そうしておいたほうが無難だろうと判断すると、ゆっくりと頷いた。
「…ええ。よろしければ、滞在できるところを紹介して頂きたいのですけれど」
男性は、そうですねえ、と顎に手をあてて考えると、困ったように眉を寄せた。
「ここは街からだいぶ離れたところなんですよ。今から街に行くとなると、それこそ着いた頃には夜中になってしまいます」
「では、貴方はどうしてこのような所にいらっしゃるのです?」
自然に、疑問が口をついて出た。
男性はにこりと微笑んで、答えた。
「私は生物学者なんですよ。このあたりに居を構えて、このあたりの生物の生態を調査しているんです」
「では…」
こんなにすんなりと口から言葉がつむぎ出されることに、内心ミシェルは驚いていた。
「今日のところは、貴方のお宅に留まらせて頂けますでしょうか」
男性は初めて驚いた様子で、目を開けた。
深い、血のような赤い色の瞳。彼の雰囲気には、おおよそそぐわない。
「え?そ、そんな。今初めて会った異性の家に滞在するのは、危険ですよ?」
「貴方は、危険な方なのですか?」
ミシェルが無表情のまま首をかしげて問うと、男性はさらに困った様子で眉を寄せた。
「そ、そういうわけではないですが…けどしかし…うーん…仕方がないですね。あなたがそれでいいと仰るなら、今日のところは私の家にいらしてください。たいしたおもてなしも出来ませんが」
「ありがとうございます。私は…ミシェラヴィル・シュタルト。ミシェルと呼んでください」
ミシェルが名乗ると、男性はまた元のようににっこりと微笑んだ。
「私の名はティーフロット・トキス。ティフでいいですよ。よろしく、ミシェル」