外伝1:ハゴロモ
「では、賛成百四十、反対五十一により、この法案を可決いたします」
広い、静かな議場に、落ち着いた、無表情な声が響く。
「本日の議題を全て消化いたしました。以上で天界賢人定例議会を閉会いたします。次回の定例議会は四十日後です。政令庁よりの法案以外に議案のある方は、三日前までにわたくし宛に通信を下さるか、勤務時間内に直接議長室までお持ち下さい。では、解散します」
議場の中心にいる女性は、先程と変わらぬ事務的な口調で淡々と続ける。まだ若い、くせのある銀髪を短くカットした、淡い紫色の瞳の美しい女性。声は特に大きいというわけではなく、彼女は滅多に(というより、決して)感情にまかせて声を荒げるようなことはなかった。しかし、どんなに議場が騒然としても(実際にはそのようなことはほとんどなかったが)彼女の「静粛に願います」という声は妙にはっきりと響き、まるでその場が一瞬にして凍り付いてしまったかのように、静かになってしまうのだった。
彼女の口上が終わると共に、191人の議員達は思い思いに席を立ち、退室していく。
彼女は、目の前に広がる書類をてきぱきとまとめ、席を立ち、出口に向かった。
議長を示す、鮮やかなピーコックブルーのスーツ。黒のハイネックシャツ、白いタイトスカート。
そして、背中からのびる白い大きな2枚の翼。頭上に輝く天使の輪。
彼女の名は、ヒューリルア・ミシェラヴィル・シュタルト。
「大天使」の名の下に、天界の天使達を管理する組織「賢人議会」の総議長である。
「…明かりが…」
視界に入った自宅に明かりが灯っているのを見て、ミシェルは怪訝な表情になり、次に短く嘆息した。自分の家に入ることの出来る他人は、彼しかいない。
彼女は地面に降り(当然だが、飛んでいたのだ)、翼をしまった。天使の羽根はしまうことが可能である。翼は、天使の「気」を物理力に干渉させることで具現したもので、消すと頭上の「天使の輪」も消える。見かけは、現生界にいる「人間」種族と全く変わらない。議会や儀式など、公式の場では出しておくのが決まりだが、私生活では特に必要がない限りしまっておく者が多い。別に出すことで精神的に負担がかかるというわけではない。単に邪魔なのだ。
ミシェルは無言で鍵のかかっていないドアを開ける。ドアの向こうには、予想通りの男がいた。
「遅かったな」
短い金髪を丁寧になでつけた、軍服姿の若い男。切れ長の青い瞳はどこか冷たい輝きを放ち、端整な顔立ちに氷のような印象を与えている。
「フィーヴ…勝手に私の家に入らないでと言わなかったかしら?」
ミシェルは無表情のまま、男…ミリテイル・フィーヴェラスト・サラディに言った。フィーヴもやはり無表情で答える。
「婚約者の家に入ることに何か問題があるか?」
「婚約は婚約でしょう。まだ結婚したわけではないわ。結婚するまで貴方と私は他人よ」
「随分な言われようだな。私との結婚が意に染まぬか。断れぬ縁談でもあるまい」
「断る理由もないでしょう。貴方が…貴方がたが欲しいのは、賢人議会の議長と、『最も賢しき者』ヒューリルアの称号だけですもの」
「それでも断る理由にはなる」
ミシェルの言葉を肯定も否定もしないフィーヴに、ミシェルは一瞬押し黙った。しかし表情は変えずに、続ける。
「…どうでもいいの。伴侶を持ち、子を成し、子孫を残す。ただ生命の営みとしてのそれがあるだけ。相手が誰であろうと私にとっては大した差ではないわ」
「なるほど。恋愛感情がなくとも結婚は出来るというわけか」
「ええ。私は求められたからそれに答えるだけ。私情をはさむ必要がどこにあるというの?」
「普通ははさむと思うが…」
ミシェルは目を閉じて嘆息した。
「…フィーヴ。私は貴方が嫌いよ。軍官学校にいた頃から嫌いだった。私は官僚組の、貴方は軍人組のトップで、お互い口もきいたことはなかったけれど、あなたの噂は良く耳にしていたわ。人を人とも思わない、権力主義の冷たい男だとね」
「私も君の噂はよく耳にしていたよ、ミシェル。必要なものしか見ず、必要なことしか喋らず、必要な行動しかしない、まるで魔法生物のような無表情女。だが今は、私は近衛軍の総指揮官で、君は賢人議会の総議長だ。不思議なものだな」
近衛軍というのは、天界の秩序を維持し、外敵から「大天使」を守る組織のことである。外敵というのは、主に天使族の仇敵とされる「魔族」であるわけだが、魔族が天界に攻め入ってくると言うことはすなわち魔族と天使の全面戦争を意味する。よって、後者はほとんど名目の域を出ていない。天界の秩序を乱す天使を捕縛し、場合によっては排除・追放する役目を負う。要するに、警察である。
フィーヴはその近衛軍の総指揮官であるわけだが、ミシェルが三五八歳、フィーヴが三七三歳、共に現在の役職に就くには異例とも言える若さである。二人は近衛軍と賢人議会に入る天使を養成する「軍官学校」の同期であるわけだが、在籍当時からそれぞれの分野で天才の誉れが高く、卒業してわずか十年足らずで今の役職に就いたときにはずいぶんと世間を騒がせたものだった。それを讃え、大天使はフィーヴには「最も猛き者」ミリテイルの、ミシェルには「最も賢しき者」ヒューリルアの称号を与えている。
「…そうね。私は学校にいたときから貴方が嫌いだった。貴方に突然求婚されて、貴方と会って話をして、貴方を知ったけれども、やはり私は貴方が嫌いよ。でも、貴方が私と結婚したいというなら、しましょう。キスしてもいいし、抱かれてもいい。安心して、まだ処女だから。貴方の要求は全てのんだわ。この上何を、貴方は私に望むというの?私に貴方を愛せと言うの?それは贅沢というものだわ」
「何故だね?君は求められたことには応えるのだろう。私が愛を求めたとすれば、愛をもって応えてもいいのではないか?」
「それは矛盾しているわ。右方向と左方向に同時に歩き出すことは出来ないでしょう。私は私の心を封じているから、貴方の望みに応えることが出来るのよ。貴方を愛するために心を解放したら、私は貴方の望みに応えられなくなってしまう」
「…何故だ…?」
フィーヴの表情は動かない。だがその声には、哀れむような響きが隠っていた。
「何故自分の心を消してまで、他人の望みに応える?それで君に、得る物はあるのか…?」
「ないわ。私はそうすることしかないから、そうしているだけ」
「何故それで生きて行ける?君は何の為に生きているんだ?」
フィーヴの問いに、ミシェルは一瞬沈黙した。
「…わからないわ」
「わからない?君にもわからないことがあるのか?」
「私に最もわからないのは…私の心。何も望まず、何も欲しがらない私の心。私が他人の望みに応えるのは、望むことが出来るのが羨ましいからなのかもしれないわ」
「君は…」
言葉の先は続けずに、フィーヴは立ち上がり、ミシェルに歩み寄った。眉一つ動かさないその顔に、そっと手を触れる。
「キスしてもいい、抱かれてもいい…か」
ゆっくり呟くと、そっと唇を重ねた。
ミシェルは目も閉じず、身じろぎもせず、ただされるがままにしている。
フィーヴは唇を離し、鼻と鼻が触れ合うほどの距離で、低く呟いた。
「…成程。確かに、人形を抱いてもつまらぬだろうな。君と寝るのは、子を成すときだけにしておこう」
「………」
「失礼したな。また来る」
フィーヴは言って、ミシェルの脇を通りすぐ後ろのドアを開けた。
「フィーヴ」
振り向かずに、ミシェルはフィーヴをするどく呼び止めた。
「何だ」
顔だけ振り向いたフィーヴに、ミシェルは目を閉じて短く嘆息する。
「…何でもないわ」
フィーヴは少し眉を寄せたが、そのまま部屋を出ていった。