第4週・ルヒティンの刻

「おっはよーごっざいっますぅー」

からん。
変な節をつけて挨拶しながら、ミニウムがドアを開けて入ってくる。
マスターは笑顔で挨拶を返した。

「おはよーミニたん。ご機嫌だねえ」
「ぼくはいつでもごきげんですん」

とことこと店内に入って、椅子のひとつに座る。

「カーくん、にがおえ、なおったね」
「え?ああうん、描きなおしたんだよ」

先週、べんべろりんの似顔絵だったものが貼られていた壁には、精密な女性の絵が描かれた紙が改めて貼られていた。
青い髪に青い瞳の、やや中性的な顔立ちの女性。
最近この店に来るようになった、アフィアという少年の姉の似顔絵だ。

「これで、ミニたんが間違えることもないよね」
「ちゃんとおぼえましたん」
「んふふ、今日は何か起こりそうな気がするなぁ」
「なにか?」
「うん。いわゆるひとつの、フラグってやつ」
「ふらぐ」
「こーゆーシーンをわざわざ差し挟むってことは、これについて何かが起こるって事さ」
「メタはつげん」
「あはは。どっちにしろ、楽しみだね」

マスターは改めて張り紙を見つめながら、楽しそうににこりと微笑んだ。

「今日はなんだか、楽しくなりそうな予感。僕のこういう予感って、当たるんだよねぇ」

その色濃いオレンジ色の瞳には、かすかに魔性の輝きがともっていた。

第4週・ミドルの刻

「……こんにちは…」

からん。
ドアを開けて入ってきたのは、沈んだ表情のアフィアだった。

「いらっしゃい、アフィアくん。元気ないねえ」
「…はい。こないだの人、人違い、でした」
「あーまー、そらそうだろうねえ」

先週、姉と同じ青髪青瞳の女性がいたと聞いて急いで飛び出して行ったアフィアだが、そのすぐ後にそれが人違いであったことがわかっている。
マスターは苦笑して、カウンターに座ったアフィアに水を出した。

「ま、そういうこともあるよ。元気出して。何にする?」
「マスター、任せていいですか?」
「うん?そう?
じゃあ、何か元気の出るもの作っちゃおうかな」

マスターは笑顔で、手早く飲み物を作ると、アフィアの前に置いた。

「はい、ハーブティー。エルダーフラワーっていう花のお茶だよ。
疲れを癒して、元気が出るんだ。飲んでみて?」
「……ありがとう、ございます」

アフィアはマスターの差し出したお茶を、ゆっくりと一口すすった。

「…おいしい、です。香り、フルーツみたい、です」
「そうでしょ?このシロップもね、風邪ひいたときとかにいいんだよ。
ま、今日はゆっくりしてって」
「……はい、ありがとう、ございます」

そこに、ミニウムがとことこと歩いていって、アフィアの顔を覗き込む。
きょとんとするアフィア。

「……?」
「さがしびと、みまちがえちゃって、すみませ……!」
「…似顔絵、ダメになってた。あなた、悪くない、思います」
「にがおえ、もうもどってるから、こんどはちゃんと、おぼえましたん」
「…え」

振り返って見れば、元の状態に復元された張り紙が貼ってあって。
アフィアは少し安心したように息を吐いた。

「マスター、似顔絵、また、描いてくれた、ですか」
「うん、ダメにしちゃったのも僕だしね。今度は気をつけるね」
「ありがとう、ございます」

少し嬉しそうな無表情で、アフィアはしばしもじもじした後、言いづらそうにもう一度マスターのほうを向いた。

「マスター、お手洗い、借りていい、ですか」
「ん?トイレ?そこのドアだよー」

マスターがバックルーム入り口の隣のドアを指差すと、アフィアはそそくさとその中に姿を消す。
そして、トイレのドアが閉まるのとほぼ同時に。

からん。

「ごめんなさい!水を一杯もらえる?!」

慌しい様子で、一人の女性が店内に飛び込んでくる。
マスターとミニウムは、彼女の外見に目を見開いた。

背中ほどまでのゆるいウェーブのかかった青い髪に、強い意志を宿した青い瞳。
先ほどまでこのカウンターでハーブティーを飲んでいた少年とよく似ている、中性的な面差し。
彼女が飛び込んできたドアの横に貼ってある似顔絵によく似た女性が、そこにいる。

「今、外で人が倒れてて!
急いで医者を呼んでもらったけど、とりあえず水だけでもと思って。
ここ、喫茶店でしょ?お水、ちょうだい!早く!」
「あ、う、うん」

彼女の勢いに気圧されるようにして、マスターはグラスに水を入れ、差し出す。
彼女は半ばひったくるようにしてそれを受け取ると、足早にドアから出て行った。

「ありがとう!じゃあね!」

からん。
もう一度ドアベルの音がして、ドアが閉まる。
マスターとミニウムが呆然とそれを見送ったところに、ざー、と音がして、トイレからアフィアが出てきた。

「マスター、ありがとう、ございました」

息をついてカウンターに座ってから、マスターとミニウムの様子に気づいて首をかしげる。

「…どうかした、ですか?」
「…アフィアくん」

ようやく我に返ったマスターが、アフィアのほうを向いて言った。

「今、お姉さんが」
「え」
「アフィアくんにそっくりな、青い髪と青い瞳の女の人が、今来てすぐ出てったんだよ。
人違いってこともないんじゃないかな。あれだけ似てたから」
「な……!」

がたん。

思わず立ち上がった拍子に、アフィアが持っていたエルダーフラワーティーのカップがテーブルの上に転がる。
ばしゃ。

「あー」
「……マスター、それ、ほんと、ですか」

服が濡れるのも構わず、アフィアは緊迫した表情でマスターに問うた。
慌ててカウンターを出て駆け寄るマスター。

「ホントだよ、ホントだけど、ほらなにやってんのアフィアくん、めっちゃ濡れちゃってんじゃん!
ほらほら、こっち来て!乾かすよ!」
「あ……」

マスターに手を引かれて、アフィアはようやく自分の服が濡れていることに気づいたようだった。
マスターに促されるまま、ノレンを越えてバックルームへと姿を消す。
どうやらバックルームのさらに奥の部屋で体を拭いて着替えをしているらしかった。ドア越しのくぐもった声だけが店内にわずかに届く。
ミニウムはそれを聞きながら一人、カウンターの椅子に座って空白の時間をもてあましていた。

と。

からん。
ドアベルが鳴って、再び先ほどの女性が店に入ってくる。
手には空のコップを持っていた。

「あ」
「さっきはありがとう、無事にお医者さんのところに行けたわ。
これ、コップ。店のご主人に渡しておいて?それじゃ」

女性はことんとグラスをカウンターの上に置くと、短く言ってさっさと出て行ってしまう。

「あ、あうあう、どぉしよ……」

ミニウムはしばらく女性の出て行ったドアとバックルームの方向を交互に見やっていたが、やがて決意したように立ち上がると足早に店の外へと出て行った。
そしてそれと入れ替わるように、マスターとアフィアがバックルームから戻ってくる。

「マスター、すみません、ありがとう」
「どーいたしまして。服、そのまま外でもあるいてればすぐ乾くと思うから」
「外……」

マスターを見上げるアフィアに、にこりと微笑みかけるマスター。

「行っといで。お姉さんかもしれない人でしょ」
「……はい」

アフィアは少し嬉しそうにうなずいて、そのまま会計をすると、足早に店を後にした。
満足げにそれを見送ってから、店内を見回すマスター。

「あれー、ミニたんどこいっちゃったんだろ?」

首をかしげながら、アフィアの食器と女性が置いていったグラスを片付けて洗い始める。
と。

からん。

「カーくん、あおいこ、いる?」

再びドアが開いて、ミニウムが店内に入ってきた。

「ミニたんどこ行ってたの?いきなりいなくなるからびっくり………ってあれ」

そして、ミニウムに続いて入ってきた女性に目を丸くするマスター。
それは、先ほど水をもらいに来て去っていった、アフィアの姉と思われる女性だったのである。

「なんか、私を探してるって言われて戻ってきたんだけど?」

さばさばした様子で言う女性に、マスターは苦笑を返した。

「あー、探してる人は入れ違いで出てっちゃったよ。とりあえず座って?待ってたら来るかもしれないし」
「ええ、ありがとう」

女性はにこりと笑って、マスターに勧められるままにカウンターの椅子に腰掛けた。
ゆるいウェーブのかかった青い髪の毛を蝶の髪飾りで彩り、利発そうな瞳と面差しはやはりアフィアによく似ている。
ただ、表情に乏しいアフィアに対して、彼女は生き生きとした表情を瞳にたたえており、言葉も片言ではなく流暢に喋っている。
服装も旅装束のようなものではなく、普通の街娘と言っても差し支えなかった。

「何か飲む?」
「そうね、じゃあ紅茶にアプリコットジャムを入れてくれる?」
「かしこまりー」

笑顔で返事をして、手際よく紅茶を入れ始めるマスター。
ミニウムはテーブル席のほうに移動して、控えめに楽器を弾き始めた。

「はいどうぞ」
「ありがとう。美味しそうね」
「それで、探してる子なんだけど。お姉さんを探してるんだって。ほら、あの張り紙」

マスターが指差すほうを見て、張り紙を見やる女性。

「うわぁ。本当に私そっくりね」
「でしょ?探してる子、男の子なんだけどね、自分に似てるって言うからそのとおりに描いたんだ」
「え、これあなたが描いたの?」
「うんそう。その子に頼まれてね。アフィアくんっていうんだけど、知らない?」
「アフィア?」

女性は眉を寄せて首を傾げた。

「……知らないわ。弟はいるし、うん、確かに私によく似ているけど。それは私の弟の名前じゃないし」
「あ、そういえば結局アフィアくんのお姉さんの名前は聞いてないな。おねーさんは、お名前は?」
「私?私の名はパルテノ。アフィアという名前は知らないわ、残念だけど」
「そうなんだ?」

マスターもきょとんとして首を傾げる。

「でも、こんなに顔も似てて、おまけにブルードラゴンっていうなら、偶然とは思えないけど」

ブルードラゴン、と言われたことに、女性…パルテノは少し驚いたように瞠目して、それからにこりと微笑んだ。

「…やっぱりわかるのね。どんなものかは判らないけど、とてつもない力を持っているのは私にもわかるわ。あなたも、あの子も」

ちらり、とミニウムのほうを見て。
それから、マスターに再び視線を戻す。

「その、私を探しているという男の子も、青竜族なのね?
でも、私の弟はこんなところまで出てくるような度胸もないし。きっと偶然よ。
……いえ、もしかしたら、よくある話、なのかも知れないけど」
「よくある話?」
「…あなたたちくらい力が大きければ、何か知っていることはないかしら。聞いてくれる?」

パルテノは一口紅茶を含むと、神妙な顔つきになって話し始めた。

「2年前、ここよりもう少し北のほうにある村で、原因不明の病気が流行したの。
そこの村人たちは何故か、病気の原因を近くの竜族の集落にあるとして、竜の集落に攻め入ったの」
「へえ」

マスターは特に深刻そうになる様子もなく、いつもののんきな表情で話を聞いている。
パルテノは続けた。

「竜の集落は全滅。私の友人がそこに住んでいたけれど、結局亡くなってしまったわ。
私は、その事件の真相を追って旅をしているの」
「そうだったんだ」
「…青竜族の心臓は不老不死の妙薬、なんていうデマが流れたこともあったし。私はその線じゃないかと思っているわ。
だから、生き別れの家族を探す青竜族、なんていうのは、実際よくある話なんじゃないかな」
「そっかなー」

たとえそうだとして、アフィアとパルテノの顔が似ている説明はつかない。
納得いかない様子のマスターに、パルテノはもう一度にこりと微笑みかけた。

「ね、そういう話、聞いたことない?何でもいいから、手がかりがほしいの」
「んー、残念だけど知らないなあ。それこそ、そんな妙薬を探してる人間ならやりそうな手口だしねー」
「そっか」

パルテノは苦笑して、紅茶の残りを飲み干した。

「ごめんなさいね、あまり楽しくない話しちゃって。
その、探してる子ももう来ないみたいだし。私もこれで失礼するわ」

銀貨を1枚置いて、立ち上がる。

「ごちそうさま。美味しかったわ」
「まいどありー」

マスターから釣りを受け取ると、パルテノは笑顔で店を後にした。
演奏を終えたミニウムが、不思議そうに首を傾げる。

「またまた、ひとちがい?」
「んー、どうだろうね。少なくともパルテノちゃんは弟を探してる風じゃなかったね」
「ほろぼされた、おともだちの村のなぞ……」
「ははっ、『私の友達の話なんだけどね』って自分のこと相談するのは、よくある話だよね」

マスターは意味ありげに笑って言い、それからパルテノが出て行ったドアのほうを見た。

「ま、会えるなら会えるし、会えないなら会えないでしょ。じたばたしても始まらないよ。
こればっかりは、神様の思し召すまま、ってとこかな」
「かみさま?」
「PLっていう」
「メタはつげん」
「ははっ」

そんな会話を交わしていると、再びドアベルが鳴った。

からん。

「こんにちは、マスター!」

元気よく入ってきたのは、長い金髪をポニーテールにした、快活な少女。
マスターは彼女を見てにこりと微笑んだ。

「あれーっ、レティシアちゃんじゃん、久しぶりー」
「ホント、お久しぶり!忙しくてなかなか来られなくて、やっと今日来られたのよー」
「今日は何、デート?」
「えっ?!」

少女…レティシアの後ろにいる人物を見やって言うマスターに、彼女は動揺して振り返る。

そこにいたのは、上等そうな服に身を包んだ金髪碧眼の青年。
名をルキシュといい、ヴィーダにある魔道士養成学校の生徒であった。

そして、デートかと話を振られたルキシュはレティシアよりさらに動揺して頬を染めた。

「でっ……な、何を言ってるんだ!僕は別に…このっ、か、彼女がどうしてもって」
「あーはいはいはい、まあとりあえず座ってよ。テーブル席空いてるよ、テーブル席以外も空いてるけど」
「そっ、そうね、テーブル席に座ろっか、ルキシュ」

昼時にもかかわらずガラガラの店内。
レティシアは気を取り直して、笑顔でルキシュをテーブル席に誘導した。
マスターが水とお絞りを持ってきて、二人の前に置く。

「はいどーぞ。ご注文は?」
「えっと、私はランチで。
ルキシュもどう?ここのランチ、美味しいわよ」
「そう、だね……」
「ルキシュから見たら、庶民の味っていうかもしれないけど…。
何事も、経験しなきゃわからないってね」
「別に、そんなことは思っていないよ」

苦笑して言うルキシュ。ならいいけど、とレティシアはほっとしたように笑う。

「あ、もう食事済ませてきちゃったならいいのよ。ここはお茶も美味しいから」
「いや、昼食はまだだけれど……失礼、ランチの内容は?」
「えっとねー、今日はパスタとドリアの2種類だよ」
「えっ、2種類もあるの?」
「うん、だからレティシアちゃんもどっちか決めて?」
「えーえー、どっちも美味しそうだしなあ……」

悩むレティシアに、マスターはにこりと微笑みかけた。

「じゃあ、2人でひとつずつ頼んだら?」
「あっ、マスターナイスアイディア!ねえルキシュ、それでいい?」
「あ、ああ……構わない、けど」

少し戸惑ったように、それでも頷くルキシュ。
レティシアが笑顔で、じゃあそれで、とマスターに言うと、マスターはごゆっくりと言ってカウンターに引っ込んでいった。

「ふう…ここ、本当に美味しいのよ。小さいけど、穴場なんだ」
「ふうん。確かに…小さいけれど、趣味のいい内装をしているね」
「でしょ?あのマスターの手作りなんですって」
「それは…なかなか、すごいね……おや、この小さな人形は……」
「ストップ!それ以上ソレに関して興味を持っちゃダメよ。
じゃないと、恐ろしい事になるわ………」
「……そ、そう?」

レティシアの得体の知れない剣幕に、出窓に置かれたフィギュアから手を引っ込めるルキシュ。
レティシアは店内をぐるりと見渡し、テーブル席のそばにいたミニウムに目を留めた。

「あっ!えーと確か、ミニウム、だっけ?」
「そうですん。ティっちゃん、おひさしぶりー」
「ふふ、また曲お願いしてもいいかな?何か、癒されるようなの」
「わかりましたん」
「あ、楽器だけでいいから」
「……ぶー」

ミニウムは少し不満そうに、それでも弦楽器で穏やかな曲を奏で始める。
レティシアは笑顔で椅子に座りなおすと、ルキシュに言った。

「えっと……急に呼び出してごめんね。
ルキシュのこと、気になっちゃって」
「……え?」
「元気そうで安心したわ。
どう?魔道の勉強楽しんでる?」
「あ、ああ、そっちか。問題ないよ」

どぎまぎした様子のルキシュ。
レティシアはそれは特に気に留める様子はなく、少し言いにくそうに言葉を続けた。

「それと………あの。
ウォークラリーで優勝した後、お家の人の反応・・・変わった?」
「……ああ」

ルキシュは苦笑して、首を振る。

「知らせたけれど、特に何も。知らせを見たのかどうかも怪しいね」
「なにそれ!ひどいわ!!せっかくルキシュが頑張ったのに!!」

まるで自分のことのように憤慨するレティシア。
ルキシュは苦笑を深めた。

「いいんだよ。あの人たちも忙しいんだろう。余裕のあるときに知ってもらえればそれでいいよ」
「ルキシュ………」
「…どうして、だろうね。どうでもいい、とかじゃなくて、本当に気にならなくなったんだ。
あの人たちが僕をどう見てるか、どう評価してるか、ってことが」
「え……?」
「僕の力を、僕自身が認めていて…それを知ってくれてる人がいる、っていうだけで、以前はあんなに感じていた、焦りのようなものが…全く消えてしまった。
そのたった一人が認めてくれれば、知っていてくれればそれでいいって、思えるようになったんだ」

言って、レティシアに視線を移すルキシュ。
その青い瞳には、抑えきれない想いがこめられているようで。
だが。

「…でもっ、ルキシュがあんなにがんばったんだから、もっと認められてもいいと思うわ、私は!」
「……はは、そう、だね」

おそらく彼の言う『たった一人』であろうその本人は、全く視線の意味に気づかずに憤慨を続けている。
これは全くもってミケのことは言えない。
ルキシュは仕方がないというように苦笑して、憤慨する彼女を見やった。

と、そこにマスターが2人分の食事を持ってやってくる。

「はいおまたせー、パスタランチとドリアランチね。レティシアちゃんはどっち?」
「うーん迷っちゃうなあ、ルキシュはどっちがいい?」
「僕はどっちでもいいよ」
「そう?じゃあ……こないだはパスタだったから、今日はドリアにしようかな!」
「はーい、じゃあレティシアちゃんがドリアで、こっちの色男がパスタね」

手際よく料理を置いて、マスターはごゆっくりと言い残してカウンターに再び戻った。

「いただきまーす!」
「………本当だ、美味しいね」
「でしょー!パスタも美味しいけど、ドリアも絶品だわー!ルキシュのパスタも美味しい?」
「ああ、美味しいよ。君が言うだけあるね」
「んー、そっちもちょっと食べてみたいなあ。ちょっともらうね」
「えっ……」

言って、持っていたフォークをためらいなくルキシュのパスタに伸ばすレティシア。
控えめにくるくると少しだけパスタを巻き取ると、止める間もなくぱくりと口の中に放り込む。
ルキシュはとたんに顔を赤くした。

「っ……」
「んー!やっぱり美味しい!あ、ルキシュもこっち食べる?」

そのままのフォークでドリアをすくってルキシュのほうに向けるレティシアに、ルキシュの顔が最高潮に真っ赤になる。

「い、いらないよ!」
「そう?美味しいよ、遠慮しないで食べて?」
「いらないったら!さ、さっさと食べなよ、さめるだろう?!」
「んー、美味しいのに」

レティシアは不満そうに、ルキシュに突き出したフォークを口の中に入れる。
全くもってミケの(以下略)
ルキシュは真っ赤になったままうつむいて、自分のパスタの、レティシアがフォークを刺した部分をじっと見つめるのだった。

「学校、楽しいみたいね」

食事も終わり、マスターが皿を下げて食後の飲み物を持ってきたところで、レティシアは改めてルキシュに言った。

「うん?どうしたんだい、いきなり」
「ううん、私も学校に行ってる頃は、新しい事を覚えるのが楽しくて仕方なかったから、気持ちは良くわかるなぁって」

懐かしそうな表情で言うレティシア。
ルキシュは紅茶を一口飲み下すと、僅かに身を乗り出した。

「…その、前にも言ったけど」
「ん?」
「もう一度……学校で学んでみる気は、ないの?」
「え……」
「マヒンダの学校には劣るかもしれないけれど、フェアルーフの学校にもここにしかない特色がある。
こないだのウォークラリーのことも、あれはあの校長でなければ出来ないイベントだろうしね。
勉強になることも多いと思うんだ…」

前にも一度断られている手前、少し遠慮がちに、それでも言葉を続けるルキシュ。

「その……もう一度、学校に…うちの学校に、来る気はない?」
「うーん……」

レティシアはやはり渋い表情だ。

「そりゃいきたいけど、ほら、私冒険者で通うためのお金もないし」
「それなら……体験教室はどうだろう?」
「体験教室?」
「この間、生徒からの進言で、外部の人間に安価で講座を開くことになってね。
早速教室が開催されて、なかなか好評だったんだ。
外部の人間はもちろん、学生も希望があれば受講が出来る。
これなら、そんなにお金もかからないし……」
「あー……そんな素敵なチャンスもあるんだー。
それなら行きたいなぁ」

レティシアはやっとにこりと笑顔を作り、ルキシュに言った。

「ルキシュと一緒に勉強できたら、それはとっても素敵な事よね?」
「…レティシア………」

再び、ルキシュの瞳に熱が灯る。
テーブルの上で握り締めた拳に、ぐっと力を込めて。

「僕も……僕も、君と……その、一緒に」
「ルキシュ?」
「だから、その……僕は、君が」

と、カウンター付近で聞いてないふりをしていたマスターとミニウムの耳がダンボになったところで。

からん。

「こんにちは、マスター。……あ」

またしても最悪のタイミングで、否、最良のタイミングと言えるのか。
空気読まない大王の名をほしいままにするミケが、ドアを開けて店内に入ってきた。

とたんに、ガタンと音を立てて立ち上がるレティシア。

「ミ……ミミミミミケ!!」
「こんにちは、レティシアさん。会えて嬉しいですよ」
「久しぶりね!!私も会えて嬉しいっ!」

笑顔でレティシアに挨拶をするミケに、胸の前で手を組みつつ熱い視線を送るレティシア。
ルキシュの表情が見る見るうちに憮然としたものになっていく。
ミケはそちらに気づくと、微妙な表情を向けた。

「……あれ?こんにちは、ええと、ルキシュさん?…………な、何か、僕、都合が悪いときに入ってきましたか?」
「いや、別に」

無愛想に言って、ルキシュは立ち上がった。

「行こう、レティ。マスター、会計をお願いするよ」
「え、ええっっ?!あ、うん、わかった……」

いきなりの愛称呼びで所有権を主張するルキシュ。
レティシアはそれには気づかない様子で、残念そうにミケに視線を送る。

「ん~残念。
私たちランチ終わっちゃったの。ミケと一緒にお茶したかったわ」
「ええ、今度は僕ともお茶してくださいね」
「もちろん!うわぁ、ミケと一緒にお茶……ここここれってデートのお誘い?!」

一瞬にして舞い上がるレティシアの手を、ルキシュはやや乱暴につかんで引き寄せた。

「ほら、行くよレティ!学校に行って、詳しい書類をもらってくるんだから!」
「あ、う、うん、それじゃあミケ、またねー」

半ばルキシュに引きずられるようにして、レティシアは店を後にする。
ミケはそれを不思議そうに見送りながら、ぽつりと呟いた。

「……お話の邪魔しちゃいましたかね……」
「……ミケくんのそれはさ、実はわざとなの?」
「え、何がですか?」
「これが、くろみけ……!」
「ちょっと人聞きの悪いこと言わないでくださいよ」

言いながら、ミケはいつものようにカウンター席に腰掛けた。

「マスター、アイス抹茶ラテ、一つで」
「うい、かしこまりー」

ミケの注文に、早速マスターがグラスを取り出す。
と、そこに。

からん。

再びドアベルが鳴り、新たな来客を告げた。

「ハァイ、また来たわ」

聞こえてきた声に、ミケはぎょっとして振り返る。

「み、ミリーさん?」
「あら、ミケじゃない。お久しぶり」

ゆったりとした動作で入ってきたのは、まさに先ほどまでいたルキシュが通う魔道学校の校長、ミリー。
ミケにとっては、先日の仕事の依頼人である。

入ってきたミリーに、マスターが笑顔で声をかけた。

「あ、ミリーちゃん。やっほー、また来てくれたんだ」
「え」
「お料理も食べてみたくて。やってるんでしょう?」
「もちろん。ランチでいい?」
「ええ、お任せするわ」
「え、え」

まるで常連客のように会話する二人をきょとんとして見比べるミケ。

「隣、いい?」
「あっ、はい、もちろん、どうぞ」

ミリーがミケの隣に座り、ミケはどうしていいかわからずに肩を縮めた。

「えーと、こ、こんにちは、ミリーさん。奇遇ですね……」
「そうね。あなたも来てたのね、この店。あたしは最近来るようになって」
「そ、そうなんですか……」

当たり障りのない会話をしながら、だらだらと冷や汗を流すミケ。

そう、このサイトに登録されたPCの中で彼だけが知っている。
カウンターの中で上機嫌でラテを作っているマスターと、自分の隣に座る女王然とした女性の正体を。
かたや、魔界で名を馳せる魔貴族エスタルティ家当主の末弟、カールヴェクトロ・ディ・エスタルティ。
こなた、天界から翼を封印して現世界に降りた降下天使、ミレニアム・シーヴァン。

魔族と天使に挟まれているこの状況。冷や汗どころの騒ぎではない。まさに一触即発である。
しかし、まるで普通の店主と常連客のように親しげな会話を交わしているところを見ると、ひょっとしたらお互いの正体を知らないのだろうか。
だとすると、お互いのことに言及するのは薮蛇のような気がしないでもない。

(ロッテさんは相手が魔族なのかどうか見分けられたから、知っていたとしてもおかしくはないですけど…
……いや、同じ種族だからわかったのであって、ひょっとしたら種族が違えば見分けられなかったりするのかも…)

などと、内心で戦々恐々としていると。

「はいミケくん、抹茶ラテー」
「あ、ありがとうございます、マスター」
「こないだは大変だったねえ。お姉さん、あの後どうなったの?」
「あ、ああ。ええと、なんだか心配した兄が近くにいてくれたみたいで、無事に拾ってくれたみたいです。迷惑、かけてしまいました」
「そうなんだ。あのお兄さんも苦労人だよねえ」
「はは、そうですね…って、苦労かけてるのは僕なんですけど」

マスターが抹茶ラテとともに話題を振ってくれたので、若干ほっとしてその話題に乗る。

「誰かに理解してもらうのって、難しいですね。家族だって言うのに、凄く難しい」
「そうだねえ、家族だからっていうのもあるかもねー」
「……お二人は、どうなんでしょう?お二人にとって、家族ってなんですか?」

さらに話を振ると、マスターはははっと笑って言った。

「あは、僕の家族はねえ、人生で一番最初に出会う敵、って感じかなあ。
ちょっとでも油断するとヤられるからさあ。意味は御想像にお任せするけど」
「……う」

状況を知っているだけに、コメントに困るミケ。
マスターは続けた。

「まあ、いろんな意味で、一人で生きてく力をくれる家族だよね!
それ以上の何者でもないけどね!」
「……あー、マスターのところは、そうですよね……。
妹さんとか甥っ子さんを見ていると、なんとなく……ご姉弟みんな、ええと、か、変わってますよね!そんな気がしました」
「ははは、微妙なフォローありがと。
まあ、家族だろうと他人だろうと、気が合う人は合うし、合わない人は合わないし。
ただまー、甘えは出るよね。言わなくてもわかってくれるはず、なのにそうじゃないからムカつく、とかさ。
他人なら絶対にそんなことしないのに、おっかしいよね」
「…そうですね…それはあるかもしれません」
「まあ、僕の可愛くない妹とかは家族だろうと他人だろうと一方的に自分の要求突きつけて利用しまくるんだろうけど。
うーん、やっぱ僕んとこの家族じゃミケくんの参考にはならないんじゃないかな?」
「あ、う、いえ、あの、お話してくださってありがとうございました」

困惑した様子を隠しきれないまま礼を言うミケに、隣のミリーがくすっと笑う。

「ならそうね、あたしは『人生で一番最初に出会う他人』かな」
「他人………ですか」
「そう。家族は他人の始まり、ってね。
お互いのことに干渉しない家族だったわ。知ってはいるけど、口出しはしない。興味もない。
ま、だからあたしが出て行くのにも何にも言わなかったのかもねえ」
「………」
「なに?」
「あ、いえ。ミリーさんって、なんかこう1人で産まれてきました!みたいな、最初から完成型みたいな気がしていました……。
親、いたんだなぁって、変な感慨が……」
「ミケは本当に包み隠さないわねえ……」
「あ、いえ、ミリーさんちらしいご家族ですね!普通なら……ご家族なら出て行こうとしたときに止めても良さそうですけれど」
「ふふ、止めたってあたしは出てきたでしょうけどね」

ミリーは可笑しそうに言って、それから遠くを見るような目をした。

「家族ってね、ルーツであって寄りかかる場所じゃないと、あたしは思うのよ。
自分の生まれた場所、自分の根幹を作った存在。でもそれだけ。帰ってくる場所、ですらない。
帰る場所っていうのは、自分で作るものだからね。
でも、自分で作った場所を眺めて、やっぱりあの家族から生まれたんだなって思う。
それくらいがちょうどいいんじゃないかしらね」
「…なるほど。お二人は、冷静に家族を分析しているって言うか、見られるんですねぇ……それが大人ってヤツでしょうか。ありがとうございます」

真面目な表情で礼を言うミケ。
ミリーはマスターが出したランチのパスタをくるくると器用に絡めながら、またくすりと微笑んで言った。

「それにしても、ずいぶんマスターの事情に詳しいのね?」
「え」
「妹や甥御さんも知ってるんでしょ?ずいぶん仲がいいと思って」
「あ、え、その、はい、縁があって」
「そう」

どぎまぎしながら答えるミケに、笑みを深めて。

「ミケはずいぶんいろんな知り合いがいるのね。……魔族、とか」

ぶっ。
飲みかけていた抹茶ラテを吹き出すミケ。
すると、カウンターの中のマスターが笑顔で続いた。

「そうそう。ミケくんいろんな知り合いがいるんだよねー。天使とか」

げほ。げほげほ。
さらに動揺して咳き込むミケ。

「う、けほけほ、いいいい、いや、ええと、こ、こういうときどういう顔をしたらいいのか良く分からないんですが!?」
「笑えばいいと思うよ」
「マスターの声は石田彰さんで決定ですか」
「いやいや、ここは満を持して宮野真守」

よくわからない会話を展開させながら、ミケは動揺の抜けないまま辺りをきょろきょろと見回す。
さすがに、そこにいるミニウムまでが人を超越した存在だとは、彼は知らないが。

「なにキョロキョロしてるのよ」
「ミニたんは僕が何者なのか知ってるよ?たぶんミリーちゃんのことも」
「え、そ、そうなんですか?」

困惑した様子で、ミケは二人を交互に見た。

「大丈夫なんですか!?2人は一緒にいて大丈夫なんですか!?
……多分、マスターは今んとこ特に悪いコトしてないと思うんで、このままにしていてもいいと思うんですけど!」
「そうそ、特に悪いことしてないよ、ミューたんと幼女にハァハァしてるくらいで」
「マスター、僕がせっかくフォローしてるのに煽らないでください!」

面白そうに茶化すマスターと何故か必死のミケに、ミリーは面白そうに笑う。

「そんなに心配しなくても、あたしはもう天界とは何の関わりもない存在だから、何もしたりはしないわよ。
話は楽しいし、料理は美味しいし、いいお店じゃない?ここ」
「あははーありがとー」

和気藹々としたその様子は、とても天使と魔族の会話とは思えない。それが逆に薄ら寒い気がして、ミケは再び肩を縮めた。

「……い、いいならいいんですけど……マスター、おかわりください」
「はーい。まあま、そんなにビクビクしなくても、ミケくんの前でどうこうなったりはしないよー」
「それは、僕の前じゃなければどうこうなると…?」
「いやぁ、先のことは誰にもわからないからねぇ」
「……うう、心臓に悪い……」

げっそりとした表情でうなだれるミケ。
ミリーはパスタの最後の一口を飲み下してから、彼に問うた。

「で?何で家族の話とかになってるわけ?お姉さんがどうとか、何かあったの?」
「あ、ええと……それがですね」

ミケは難しい顔をして、先週の経緯をミリーに語る。

「……と、いうわけで。難しいですね、やっぱり」

ため息とともにそう言うと、カウンターの中のマスターが片眉を顰めた。

「んー、あのお姉さんはさー。ミケくんは自分がいなきゃ何も出来ないって言ってたけど。
ミケくんがいなきゃ何も出来ないのは、あのお姉さんのほうだよね」
「……えっ」

思いもよらぬことを言われた様子で、マスターの方を見るミケ。
マスターは首を傾げて、続けた。

「まったくもって、ミケくんの言う通りだよ。
お姉さんは、『自分がいないと何も出来ない弟』が欲しかっただけ。ミケくんが本当はどうかなんて、どうでもよかったんだよね。
『自分が必要とされてる』って感じられる何かがそばにいなきゃ、不安でしょうがなかったんだよ。
『自分がいなくちゃ立ち行かない存在』が、自分を必要としてくれる、っていうことが重要で、むしろそうじゃなきゃ自分ひとりで立つこともできない。
それって自信のなさの裏返しなんじゃないかな?」
「そう……なんでしょうか?」
「うん。ミケくんをそんだけ必死になって何年も探し回ってたのは、『ミケくんにはお姉さんが必要だから』じゃない。
『お姉さんにミケくんが必要だったから』だよ。
その証拠に、ミケくんのお兄さんたちは別にほっとけって態度だったんでしょ?
そらそうだよ、お兄さん達にミケくんは『必要ない』んだもん。いい意味でね。
お兄さん達は一人で立っていける。でもお姉さんはそうじゃないから、必死でミケくんにすがってるんだよ。
僕にはそう見えたけど」
「………」

マスターの容赦のない言葉に、俯いて考え込むミケ。
と、そこにミリーが続いた。

「ま、現場を見たわけじゃないあたしが言うのもなんだけど。
話を聞く限りで、そのお姉さんはもうちょっと『家族離れ』すべきね」
「家族離れ……ですか」
「そう」

ミリーは真面目な表情で頷いて、続ける。

「子供はね。いつか大きくなって、自分が育った『家族』っていう枠を出て、自分で『家族』を作り上げるものよ。
それが『大人になる』っていうこと。
新しい家族を作る力を、知識を、心を育てるのが『家族』の役割。
だから、そのお姉さんは明らかに間違ったことをしてるわけ」

に、と笑って。

「守ってあげて、お世話をしてあげて、代わりに何でもやってあげて。
その末には、自分の力じゃ何も出来ないニートがいっちょあがり、ってね」
「…………」
「いくらじれったくても、自分がやった方が早くても。
やり方を教えた後は手を出さずに、明らかに間違ったことをするまで手を出さないで見守る、それが一番効率のいい教育だわ」
「…そう……なんですよ、ね。冷静に考えれば……」
「ま、それをしなかったお姉さんは、彼の言う通り。
まさに『自分がいないと何も出来ない弟』を養成したかったのかもしれないわね。
ミケが何でも出来るようになったら、彼女の存在意義が無くなるから」
「………」

マスターと同様に、遠慮容赦のないミリーの言葉に、俯いて考えるミケ。

「……そう、なのかな。そうだとしたら、なんだか」

うわごとのように呟いて、少し黙って。
どこか遠くを見るような目で、続ける。

「かなしい、と。そう思うかな。どうしてと、言われても困るのですけれど。失望した、とかそういうんじゃなくて、かなしいと、思ったんです」
「そう」

短く相槌を打つミリーの方は見ずに。

「僕なんかに、縋らなきゃいけないほど、寂しかったりしたんでしょうか。僕の世話を焼いていなければならないほど、自分に自信がなかったんでしょうか。そうだとしたらそれは、なんだか、かなしいですね。
姉は、多分クローネ兄上が気がつかないくらいだから、きっと僕のこと以外ではちゃんとした人なんだと思います。自分の力の加減忘れて、いきなり誰かにベアハッグしないと思いますし。
あんなに、なんでもできたのに、自分に自信がないと……思うのでしょうか」
「そうだねー、それは多分、ミケくんの周りの人も、ミケくんに対してそう思ってるよ」
「え」

マスターの言葉に、きょとんとして彼を見上げる。
マスターはにこりと微笑んだ。

「ミケくんはこんなに出来るのに、何でそんなに自分に自信がないのかなって。たぶん周りの人はそう思ってる。でもミケくんは、自分に自信がないんでしょ」
「……はい」
「こないだ言ったよね、ミケくんの基準に照らして、ミケくんが出来てるって思わなきゃ、何をどんなに出来てたって関係ない、自分は劣ってるって思うんだよ。
同じように、お姉さんにもお姉さんの基準があって、それが達成されてなきゃ劣等感を感じる。
劣等感、っていうのも違うかな。お母さんが亡くなって、悲しくて寂しくて、自分を支えるものがなくて、それでミケくんにすがったんだろうね。
お母さんがいないなら、自分がお母さんになればいい、ってさ。
だから、自分が抱いている『お母さん』っていう像から少しでも外れることは許されなかった。それ以外のものが受け入れられなかったんだよ」
「…………」

再び俯くミケ。

「僕の見ていた姉は、いつでも柔らかく笑って、何でもできる人でした。兄たちも、そう。
だから、できないのは僕だけなんだと思っていたんですけれど。
……あんな顔を見たのは、初めてでした。
思い切り拒絶して、喚いて……でも、昔癇癪を起こしたときのように、きっと困ったように笑って『しょうがないわね』って言うような気がしていたんですけれど」
「はは、結局ミケくんもお姉さんに甘えてたわけだ」
「…そう、ですね。まさしく『末っ子の癇癪』だったんです」

苦笑して言って。

「傷つけるつもりで、言ったのに……傷なんか付かないような気がしていました。
逆に泣かれて、凄く吃驚したんです。何故、あんなに傷ついたのか、あのときわからなかった。
ショックは受けると思いましたけれど。僕が手を振り払うはずがない、と……僕に依存していたと……それなら少し、理解できるかな」
「子供のころって、親や兄姉、先生とかがすごく大きくて不可侵の存在に見えたりするのよね」

ミリーの言葉に、そちらに苦笑を向ける。

「分からないんですよね。僕から見た家族は、一番近くにいるけれど、手の届かないほど遠くにいる人たちですから。それでも、なんだか」
「…なんだか?」
「姉を、僕が守らなきゃいけないように思うなんて、思ってなかった」

ミケは戸惑ったような、くすぐったそうな、複雑な表情で言った。

「今だって、充分に怖いし、顔見たくないし、面と向かって話したら酷いことを言いそうな気がするんですけどね。
……僕に依存している、僕を駄目にしようとしている、というなら。僕も悪いんでしょうね。姉の人生、僕が駄目にしていると思うんですよ。
……だから、すがるというなら、突き飛ばして、自分で立てるように……僕が手を伸ばせたらいいですね」
「……そうね」

暖かい笑みで頷くミリー。
ミケはどこかすっきりとしたような表情で、息を吐き出した。

「手紙書きましょう。僕の心配しなくて良いから、って。それが正しいのかどうかは分からないんですけど。
面と向かって話よりは、僕もきっと冷静に言えると思いますし。
……おかしいなぁ、顔見て、縁切って清々するかと思ってたのに、関係を修復しようとしてるなんてね。しかも、引っ張り上げるのが僕、みたいな感じで。
……はは、ちょっと前なら絶対、あり得ないと思ってたのに」
「大人になったんだよー」
「はは、そうです、かね。だとしたら、嬉しいんですけど」

複雑そうに微笑んで、2杯目の抹茶ラテを飲み干して。

「……なんとなく、少し離れて冷静に見られるようになったのか、自分のことだけでいっぱいじゃなくなったのか。凄く不思議な感じです。
姉が落ち着いたら、本当に1回帰ってみようかなー……ちょっと兄たちの印象が変わるかも知れないし……
うん、分からなかったら直接会って話した方が分かりやすいですよね!」
「はは、その意気その意気」

無責任に煽るマスターに、ミケはすっきりとした笑顔を向けた。

「もうちょっと……整理して、姉と話してみます。……ありがとうございました」
「うん、がんばって。うまくいかなくてもまた、ここに愚痴りに来ればいいよ」
「はは、そうならないことを祈ってます。ミリーさんも、ありがとうございました」
「ま、がんばんなさい。お兄さんの気苦労、少しでも減らせるといいわね」
「……はい!」

ミリーの言葉の含みには気づかずに、笑顔で頷くミケ。
長い長いランチタイムが、そろそろ終わりを告げようとしていた。

第4週・レプスの刻

「……で?」

ミケが帰った後も、ミリーはまだ残ってマスターやミニウムと話をしていた。

「あなたは一体、何者なわけ?」

ぴ、と指差した先には、ミニウム。
ほえ?と首を傾げて、いつもの口調で答える。

「ぼく?」
「他に誰が?」
「ぼくは、ミニウムってゆいます!よろしくしてね…!」
「名前を聞いてるんじゃなくて」

面白そうに唇の端を歪めるミリー。

「見たことない力。それもとてつもない、ね。あたしのものとも、彼のものとも違う。
あなた、一体何者?彼とはどういう関係?」
「おおっ、浮気相手を問い詰める本妻みたいなセリフ」

茶化すマスターは無視して、ミニウムをじっと見つめるミリー。
ミニウムはんうう、と考えて、言った。

「カーくんは、ぼくのともだち、だよよ」
「友達、ねえ」

ミリーは面白そうに微笑んだまま、納得はしていないよというように相槌を打つ。
ミニウムの様子は変わらず、相変わらずの調子で不明瞭な言葉をつむいだ。

「ミリりんは、てんにょさん?」
「天女?」
「てんからおりてきた、てんにょさん?」
「ああ…まあ、そうね」
「ぼくこないだ、もひとりてんにょさん、みたよよ」
「もう一人?」
「なみなみのぎんぱつでね、ショールにスカートの、てんにょさん」
「ああ、それならあたしもよく知ってるわ」
「んう、おともだち?」
「ええ、とっても仲のいいお友達よ」

にこり。
迫力のある笑みを浮かべるミリー。

「んっとね、でも、こないだみたの、ちょっとちがう」
「違う?」
「ちょっとかわった、てんにょさん。なにかが、おかし?」
「……詳しく、話して?」

ミリーは視線を鋭くして、身を乗り出した。

「こないだ、こうえんにいたよ。なにか、さがしてましたん」
「…探してた?何を?」
「なにを?だれを?どこを?わかんなーい」
「………」

ゆっくりと視線を移し、立ち上がって。

「…ちょっと、出かけてくるわ。これ、お代」
「出かけてくるってことは、戻ってくんの?」
「さあ、どうかしらね」

気もそぞろな様子でそれだけ言うと、足早に店を後にする。
からん、とドアベルの音だけが店内に残り、マスターとミニウムはきょとんとしてそれを見送るのだった。

第4週・ストゥルーの刻

「マスターこんにちは!」

からん。
ドアベルの音とともに元気よく入ってきたのは、以前ここに来たことのあるユキという女性だった。
笑顔で迎えるマスター。

「いらっしゃい、お客さん。また来てくれたんだねー。
前のカッコもよかったけど、そういう可愛いカッコもいいねー」
「あ、ありがとう!」

マスターの褒め言葉に照れたように首を縮めるユキ。
言葉の通り、彼女は以前訪れたときに着ていたような冒険者仕様の服ではなく、年頃の少女が着るような可愛らしいデザインの服に身を包んでいた。
桃色と白のコントラストが愛らしい、レースをふんだんに使った服。頭にも同じ仕様のリボンが飾られていて、とても冒険者のようには見えない。

ユキは少し嬉しそうに頬を染めると、マスターに言った。

「あのね、今日久々に師匠の兄弟に会うんだ!」
「お師匠さんの、兄弟?」
「うん。あ、でもこの前一緒に来たアルさん……金髪の人とは違うよ」
「そうなんだ、兄弟たくさんいるんだね」
「うん!今日の人は、アルさんの弟で、師匠のお兄さん。
会う度にもっと可愛い格好しなよって言うから……。
これが精一杯のおしゃれかな?僕あんまり可愛くないし……」
「えー、そんなことないよー?
お客さんは十分可愛いと思うよー?」

マスターは意外そうに言って、それからにこりと微笑む。

「良かったら僕がお化粧とかしてあげよっか?
自慢じゃないけど結構上手いんだよ」
「え、いいの?」

ユキは一瞬驚いたように目を見開いてから、少し緊張した様子になった。

「じゃ、じゃあ……お願いしても、いい?」
「もっちろん。じゃあ、あのテーブル席のとこ座って?僕メイク道具持ってくるねー」
「あ、はいっ」

ユキは短く返事して、マスターの指し示した席にちょこんと座る。
ややあって、バックルームからマスターが小さいトランクのような箱を持って出てきた。
テーブルの上にその箱を置くと、ぱちんと留め金をはずして開く。
中には、カラフルな化粧品が所狭しと並んでいた。

「うわあ、これマスターの?」
「うんそう」
「え、あ、あの、マスターってお化粧するの?」
「やだなーお客さん、今は男もお化粧の時代だよ?」
「そ、そ、そうなんだ」

でもこの中性的な顔立ちをした美丈夫なら、化粧を施してもさぞ綺麗になることだろう、となんとなく納得するユキ。

「んじゃ、目ぇ閉じてて。綺麗にしたげるからねー」
「は、はいっ」

緊張した面持ちで、ユキはそのまま目を閉じた。

「はい、できたよー」

マスターに言われ、恐る恐る目を開けるユキ。
もちろん、目を開けたところで彼女の顔が見えるわけではないのだが。

「はいっ、鏡」
「あ、ありがとう……」

マスターに手鏡を渡され、こわごわ中を見る。

「うわぁ……!」

鏡の中のユキは、綺麗に化粧を施され、見違えるほどに可愛らしくなっていた。
ピンクと白の装いにぴったりの、パステルカラーを基調とした女の子らしいメイク。
アイラインも彼女の目元をパッチリと彩り、決してケバ過ぎない淡い色合いが彼女自身の魅力を引き立たせている。
髪の毛もふわりと結いなおされ、大きなピンクのリボンが形よくセットされていた。

「マスターすごい!僕じゃないみたいだよ!」
「いやいや、これがお客さんの魅力だよー。ね、お化粧したほうがかわいいでしょ?」
「うん!あの、ありがとう、マスター!」
「どういたしましてー」

マスターは手早く化粧箱を片付けると、カウンターの中に入る。

「お師匠さんのお兄さんが来るのに間に合ってよかったね。今日は何にする?」
「わ、えっと、えっとね」

ユキも慌ててカウンター席に座り、メニューとにらめっこした。
しかしどうにも決められなかったようで、上目遣いでマスターを見る。

「あの……マスター」
「うん?」
「パイが欲しいんだけど……どれがお勧め、かな?」
「パイかー。今日はラズベリーのパイとマロンのパイがあるよ。どっちにする?」
「あ、じゃあラズベリーで!それと~……紅茶お願いします!
あ、パイは後でお願いします!」
「はーい、かしこまりー」

マスターが笑顔で言ってポットの準備をし始めると、ユキはそわそわと時計を見たりしながらあたりをキョロキョロと見回した。
と。

「あれっ」

テーブル席のほうにちょこんと座っていたミニウムに目を留め、とことこと歩み寄る。

「君、お客さん?」
「ううん、カーくんのおともだち。きょーは、おうた、うたっちゃいますん」
「おうた…あっ、もしかして……吟遊詩人さん?」
「そのとーりー」
「初めまして!僕、ユキレート=クロノイア。
ユキって呼んで欲しいな」
「ミニウムです!おうた、うたいます。なににする?する?」
「あ、じゃあ静かで優しいうたがいいな!」
「りょーかーい」

ぽろん。
ミニウムは慣れた手つきで楽器を鳴らすと、アルペジオで奏でながら静かにスキャットで歌い始めた。
その様子に楽しそうに微笑んで、再び席に戻るユキ。

「はいどーぞ、紅茶だよー。アールグレイね」
「わっ、ありがとうマスター!」

それと同時に紅茶のポットと温められたカップを出され、ユキはうれしそうにカップに紅茶を注いだ。
ミルクと砂糖を入れ、香りを楽しみながら一口。
かた、とカップをソーサーに置いた、その時だった。

からん。

ドアベルの音が来客を告げたかと思うと、白い影が店に飛び込んでくる。

「ユキ~会いたかったよ~!」

間延びした声とともに、その白い影はカウンター席に座っていたユキに後ろから抱きついた。
驚いてそちらを見るユキ。

「セルさん!」

がしかし、その人物が待ち人であったことを理解すると、どうにか体をひねって腕を回し返す。
金の混じった長い白髪をひとつにくくり、いかにも研究者ですといった様子の生白い肌と白衣。アイスブルーの瞳以外は真っ白、という印象の青年である。
セルと呼ばれた男性は、ひとしきりユキを抱きしめると、満足した様子で体を離し、改めて彼女の姿を見つめた。

「今日は可愛い格好してるね~、やっぱりユキは可愛い格好が似合うよ~」
「えへへ。ありがとうセルさん!」

ユキは照れたように笑うと、カウンターの中のマスターを指し示した。

「でもね、髪とお化粧はマスターにしてもらったんだ」
「マスター~?」

ひやり。
ユキからマスターへと視線を移したセルは、先ほどまでのいとおしげな視線から一転、凍りつくような冷ややかな表情を瞳にたたえていた。
それには気づかず、嬉しそうにマスターに青年を紹介するユキ。

「この人がね、師匠の三番目のお兄さん!
セルシーク=ファレゼっていって、いろんなものを研究してる研究者なんだ。
いろんな部門でたくさん賞とってるんだよね?」
「そうなんだー、すごいねー」
「まあね~どうでもいいことだけど。俺は研究よりユキの方が大事だよ~」

セルは再びにこりと笑うと、ユキの頭を撫でる。
ともあれ、二人は仲良くカウンターに座り、セルもユキと同じ紅茶を注文した。

「マスターの作るケーキはすっごく美味しいんだよ!今日はラズベリーのパイにしたんだ!」
「へえ、どれどれ」

ニコニコ笑いながらパイを食べるユキの手をとり、そのフォークに刺さっていたパイの欠片をそのまま口に放り込む。

「あー、何するのセルさん!」
「へぇ、思ってたより美味しいよ。ユキが選んだだけはあるね」

ユキの抗議も軽く流し、セルはマスターに再び冷たい笑みを向ける。

「そぉ?喜んでもらえたなら良かったよー」

大人の対応をするマスター。
ユキがそちらに、小声でフォローを入れた。

「あのね、セルさんって心許してない人には、ちょっと素直になれないとこがあるんだ。
だからあれがセルさんなりの誉め言葉なんだよ!」
「はは、ツンデレさんなんだね。大丈夫だよ、気にしてないから」
「つんでれ?」
「それよりお客さん、さっきそのおにーさんがぎゅってしたときにリボン曲がっちゃったみたいだよ」
「えーっ?!」

マスターの言葉に驚いてぱっと頭の上に手をやるユキ。

「トイレに鏡あるから、直してきたら?」
「う、うん、そうする。ごめんねセルさん、ちょっと行ってくるね!」
「いってらっしゃ~い」

ひらひらと手を振ってユキを見送るセル。
彼女がトイレに入り、パタンとドアを閉めた、その時。

「……ところで、マスター」

先ほどまでの間延びした声とは全く違う低い声音で、セルはマスターをじろりと睨み上げた。
表情が冷たい、どころの騒ぎではない。はっきりと警戒の色を瞳に貼り付けて。
殺気の入り混じった黒いオーラを隠そうともせずに、マスターに問う。

「あの子に随分気に入られてるみたいだけど、手を出したりしてないよね?」
「手を出す?」

マスターはそれに気づいているのかいないのか、いつもののんびりとした様子でははっと笑った。

「あはは、僕あの子の名前も知らないよ?僕が掴んだのはあの子の胃袋だけー。
それに僕のストライクゾーンは6歳から10歳までだからー。成人女性に興味は無いんだよねー」
「……ああ、そう……」

逆にドン引きな回答を返され、引きつった顔で答えるセル。

「ま、まぁ……それならいいよ。
ユキはきっと、名前をもう教えた気になってるんだろうね……。
そういうところが可愛くて仕方ないんだけど」

ユキが可愛いと言いたくて仕方がないらしい。セルは一瞬表情を緩めると、さらに言った。

「あの子は、ユキレート=クロノイア。
うちの愚弟が拾ったにしてはひねくれないで、可愛げもあって、傲慢でもなく、思いやりがあって、異性と遊び歩かない、まともな子だよ。
名前聞いてないってこと、ユキに言うのはやめてよ。妙に気にするところあるから」
「ははっ、僕は普通はお客さんのことは『お客さん』って呼ぶから大丈夫だよ」
「………」

そういうことを言いたいんじゃないんだけど、という表情で、しかし言っても無駄だと思ったのか口をつぐむセル。
ふ、と笑うと視線を逸らし、嘲るように呟いた。

「…ま、ストライクゾーンにはまらなかったことを幸運に思いなよ。
あの子に手を出したら、どんな奴だろうと実験体にするって決めててね……」
「あはは、じゃああの子のお師匠さんが実験体第一候補だねー」

マスターの言葉に、セルは一瞬ぴくりと表情を動かした。
それから、何かを思い直したのか、嘆息して言葉を続ける。

「…まあね。でも実験体に出来たためしは一度もないよ。
あいつの方が強いし、勘もいいからね」

苦い表情で言うと、ふう、と息をついて立ち上がる。
懐からなにやら白い封筒を取り出すと、マスターに差し出して。

「俺そろそろ研究に戻らないといけないから、あの子に渡しておいてもらえるかな?」
「いいよー。お兄さんが置いてったって言えばいいんだよね?そこに置いといて」

手紙に触れずにそう言うマスターに、セルはそのまま手紙をカウンターの上に置くと、さらに2人分の代金を重ねて置き、踵を返した。

「ユキに声をかけられないのはすごく残念だけど、そろそろ馬鹿な弟に頼まれたものを完成させないとね。
それじゃ」
「はーい、まいどありー」

マスターは笑顔でひらひらと手を振り、セルを見送る。
そこに、トイレのドアが開いてユキが再び現れた。

「ごめーん、なんか思ったより難しくて時間かかっちゃっ……あれ?セルさんは?」

セルの姿がないことにきょとんとするユキに、マスターが苦笑して言う。

「なんか、研究の続きがあるって、帰っちゃったよ。忙しい人なんだね」
「うん。普段はよく篭って研究してるから。
そっか……帰っちゃったんだ。もっといろいろお話したかったんだけどなぁ……。
セルさん忙しいもんね」

残念そうに言って、ユキは再びカウンター席に座った。
すると、マスターがカウンターの上に置かれた封筒を指差す。

「あ、そこにある手紙、あのおにーさんが置いてったよ。渡しといてくれって」
「え?セルさんから僕に?」

ユキは驚いて、手紙を手にとって開封した。
カサカサと開いて内容に目を通し、驚きに目を見開く。

「これ……!」
「なんて書いてあったの?」
「これ……これ、リグさんからの手紙だ…!」

ユキは言って、その手紙にぐっと顔を近づけた。
文字の一つ一つを食い入るように見つめ、真剣に読んでいく。

それは手紙というよりも、メモに近い代物だった。
内容も、知らない人にはついていくなと言ったはずだの、後先考えずに行動するなだの、最初から最後まで説教ばかりである。

「リグさん……」

その内容の辛辣さに、だんだん落ち込んで涙ぐむユキ。
だが、最後にぱっとメモを裏返すと、その表情は瞬く間に喜びに染まる。

「マスター…!」
「どしたの?」
「見て!これ!」

ユキが差し出したメモの裏には、一言。

『さっさと課題を達成しろ、馬鹿弟子』

「弟子だって!僕のこと、まだ弟子だって認めてくれるんだ!見捨てられたわけじゃないんだよ!」
「あー……よかった、ねぇ……」

微妙な表情でコメントを返すマスター。「馬鹿」の部分は彼女にとってはどうでもいいことらしい。
ユキはぐっと涙を拭うと、嬉しそうな表情で立ち上がった。

「マスター!僕、頑張って師匠を探す!
それでまた一緒に暮らせるようになったら、またマスターに会いに来るね!」
「うん、がんばってねー」
「それじゃ、お代…」
「ああ、あのおにーさんがお客さんの分も置いてったよ」
「え、セルさんが?んもー、みんなして子ども扱いして…」

ユキは少しだけ不満そうに呟いてから、気を取り直してマスターに手を振る。

「じゃあ、ごちそうさま!また来るね!」
「はいよー、まいどありー」

マスターが手を振り返すと、ユキは大切そうにメモを抱きしめてドアのほうへと駆けていく。
からん。

「……っと」
「わわっ、ごめんなさい!」

入ってきた人物とぶつかりそうになって、慌ててぺこりと頭を下げるユキ。
そのまま店を出て行くユキと入れ替わるようにして、その人物は店の中に入ってきた。
ナノクニの装束を纏った男性。初顔である。

「いらっしゃーい」
「失礼。はぁふむぅんという茶屋は、こちらでよろしいか」
「うん、そうだけどー?」

きょとんとするマスターに、男性はすっと紙を差し出した。
ナノクニの技術で作られた紙が、手紙の封筒サイズに丁寧に折りたたまれている。

「こちらの主人に渡すよう、おりょうという剣客から承った。お納めいただきたい」
「おりょうちゃん……ああ、ナノクニの地人剣士さんだね。そりゃーどうも、ご苦労さまー」
「では、御免」

男性は慌しく一礼すると、そのまま店を後にする。
マスターがカサカサと手紙を開くと、おりょうが書いたであろう丁寧な文字がつらつらと並んでいた。

『此度(こたび)は文にて失礼致す。
主殿はご健勝であろうか。

またナノクニから客が訪れてきたゆえおそらく店には行けまい。
今度はどんな料理を頼もうかと楽しみにしておったが残念至極だ。

冬になったらまた行けると良いのだがのう。
久々にふぉんでゅが食いたくなっての。
いや、ナノクニの鍋物も捨てがたいのだが、それがしの体が求めるのだから仕方がない。
次にそれがしが行くまでに香り高いチーズと口当たりの良いパンを用意しておいてくれ。

期待しておる。

追伸:パイナップルのサラダを用意しておったら斬ると思われよ。

            扇谷稜』

手紙を読み終わり、マスターは隣で覗いていたミニウムに顔を向ける。

「………これは、用意するなよ?絶対するなよ?ってことだよね」
「おやくそく、おやくそく」

2人で頷きあってから、マスターはカサカサと手紙を折りたたんだ。
と。

からん。

ドアベルの音がして、来客を告げる。

「いらっしゃーい」

マスターの声に出迎えられたのは、硬い表情をしたオルーカだった。

「あれっ、オルーカちゃんだ。いらっしゃい」
「あ…どうも…」

マスターが改めて挨拶しても、いつものようにぽうっとすることもなく、短くそっけない挨拶を返す。
オルーカの後ろからはササが続いて入ってきたが、こちらにいたっては軽く会釈をするのみで。

オルーカは他に客のいない店内を見渡すと、テーブル席に目を留めた。

「あそこにしましょうか…」
「…そうだな」

言葉少なに席に座り、注文をとりに来たマスターにも最低限の言葉でオーダーする。
ややあって、オルーカにハーブティー、ササにコーヒーが運ばれてきても、2人はほとんど無言のまま飲み物を口に運んでいた。

一言で言って、気まずい雰囲気。
険悪なのではない、お互いに相手の出方を伺ったまま硬直しているような、そんな雰囲気だ。

やがて、かたん、とカップをソーサーに置いたオルーカが、口火を切った。

「あのう…」
「ん…」
「先日のことなんですけど…」
「うん…」
「お金、重複して払ってたそうなんです…」
「………へ?」

す、と、マスターから受け取った金貨を差し出すオルーカ。

「ササさんが払ったこと気づかなくて、私もモモさんとの飲食代を払ってしまって、二重支払いになってたらしくてですね…」
「…そうだったのか?じゃあその金はオルーカがもらっておけよ」
「これはササさんのお金ですよ。ササさんが受け取ってください」
「いいって。あの時はオレが奢るってことだったんだし。オルーカ、もらっとけって」
「いえ、実はこれ、モモさんのホテル代…ですよね?その分、余計に入ってるんです。だからササさんのものです」
「あ、ああー。モモのホテル代か…そいやそうだったな…」

ササはようやく思い当たった様子で、財布を探ると、銀貨を何枚か取り出した。

「じゃあ、モモのホテル代はオレがもらって…残りは割り勘にしないか?」
「…どうやらそうするのが一番いいみたいですね」
「うん。ほい、これ、オルーカの分」
「はい、確かに」

ちゃら。
硬貨を受け取って、頷いて懐にしまって。
再び、沈黙が落ちる。

ややあって、再びオルーカが話を切り出した。

「それで、そのモモさんのことなんですけど…」
「ああ、うん…。こないだのこと、だよな」
「はい…」
「…恥ずかしいものを見せて…悪かったな…」
「え…?いえ、そんな…」
「せっかく一日付き合ってもらって、疲れてるところを…見苦しい兄弟喧嘩なんかでしめて…ホント、悪かった。反省してる」
「あ、あの」

申し訳なさそうに頭を下げるササを、オルーカは若干おろおろしながら止めようとした。
だが、ササはそんなオルーカのようすが目に入らない様子で、というか自分の気持ちを吐露することに精一杯であたりが見えていない様子で、さらに続ける。

「あんなの、人様の前でやるもんじゃないよな。それもこんな公衆の面前で…オレもまだまだガキってことだよなぁ…オルーカ、ほんとごめんな」
「いえ、あの、そうじゃなく」
「ああいうのは、オルーカの前でやるべきじゃなかったよな。別れてから、言い聞かせればよかったのに…あの時はついカッとなって…ホントに、」
「サ、ササさん!」

とうとう、オルーカはやや大きめの声を出してササをさえぎった。
きょとんとして顔を上げるササ。

「ん?」
「あの、そうじゃないんです」
「そうじゃない…って?」
「私、一人っ子なんです!」
「…へ?」

唐突な話の展開に、思わずぽかんとするササ。
オルーカは先ほどまでのササのように、懸命に自分の気持ちを口にした。

「それで、その…今まで、兄弟喧嘩ってものを見たことがなかったんです」
「…そうなのか?」
「はい…だからこの間はちょっと、びっくりしてしまったというか」
「そりゃ、そうだよな。あんな醜態…」
「いえ、だから!違くて、ですね。私なりに、兄弟喧嘩について考えてみたんですけど」
「…え?」

オルーカは気まずげに視線を動かしながら、先週ミケたちに聞いたことを話す。

「兄弟がいるっていう人に、お話を聞いたりもしました…その方が言うには、『喧嘩をしても、すぐに何でもなかったように振る舞えるのだとしたら、それはそこに絆があるからじゃないか』って。『近しいからこそできる』って。…それで、自分に置き換えて考えてみたんです。私には兄弟はいないけど、近しい人…たとえば、両親や、友人とだったらどうだろうって」
「…うん」
「…兄弟とは、違うかもしれませんけどね」
「うーん…違う…んじゃないかな。やっぱり。少し」
「そうですよね。でも、ちょっと分かった気がしたんです」
「分かった?」
「はい」

オルーカは頷いて、少し嬉しそうに微笑んだ。

「喧嘩するのって、必ずしも悪いことじゃないって。その、お話を窺った方が言うには、『ササさんにしてみたら「また妹は我が儘を言って」くらいの日常茶飯事で、妹さんにしてみたら「駄目もとでねだってみるか」くらいの感覚だったのかも知れませんね』って言ってて」
「あー、うん…そうだな。あいつはいつもさー、ワガママばっかりだから…まあ末っ子だから仕方ないのかもしれないけどな」
「でも憎んでるわけじゃないですよね」
「あ、当たり前だろ!?」
「そうですよね。私、そういうの分からなくて」
「そういうのって…」
「だから、なんていうんでしょう…親しき仲のスキンシップといいますか。…ですよね?よくわからずに家族のことにむやみに立ち入ってしまってすみませんでした」
「いや、そんな…でも、スキンシップかぁ…。そんな風に考えたことなかったな。兄弟仲はいいし、喧嘩なんてしょっちゅうだからな」
「そうなんですね。…ふふ」

嬉しそうに微笑むオルーカ。
ササは少しくすぐったそうな表情で頭を掻いて、改めてオルーカに言った。

「ん…じゃあ、オルーカは、人前で喧嘩なんてしてみっともない、って言いたいわけじゃないんだな?」
「違いますよ」
「そっか。一人っ子で喧嘩なんて見たことなかったから…びっくりした?」
「それもありますが、そうじゃなくてですね。私が言いたいのは…それでも、暴力はいけないってことです」
「え?」

再びきょとんとするササ。
オルーカは身を乗り出して言い募る。

「ササさん、言ってたじゃないですか。暴力は嫌いだって。なのに、モモさんに手をあげるなんて…あれはやっぱり、いけませんよ」
「…あ!」

思ってもみないことを言われた、というように、ぽかんと口を開けるササ。
オルーカは少し厳しい視線で、ササに問いかけた。

「躾っておっしゃってましたけど、その…いつもああいうかんじなんですか?」
「う…確かに、いつもああいうかんじだ…。そ、そうだよな…暴力だよな…」
「そうですよ。暴力ですよ」
「それは…ごめん、悪かった!そういえばそうだな。小さい頃からあんなかんじだから、つい…そ、そりゃ本気では殴ってねえよ?でも…確かに、暴力は暴力だな…」
「そうですよ、モモさん、可哀相ですよ。女の子ですのに」
「…うん、確かに悪かった。これからは手は出さないよう、注意する…すまん」
「私じゃなくて、モモさんに謝ってくださいね」
「え?あー…う、うん」

気まずげな表情で視線を泳がせるササ。
が、それはそれとひとまず横に置いておく事にしたのか、改めて姿勢を正し、オルーカに言った。

「オルーカ、気づかせてくれてありがとうな…」
「いえ、どういたしまして。私も、色々考えることができてよかったです。喧嘩って言っても、色々あるんだなって分かりました」
「そっか…オレも、自分のこと見直すいいきっかけになったよ。サンキュ」
「いえ…こうやって、ササさんと知り合いになれてから、私、色々考えるようになったんです。今までも考えてなかったわけじゃないですけど、それとはまた別の方向で、ていうか」
「うん?そうなのか?」
「はい。ササさんのこともっと知りたいな、とか。ササさんならどう考えるんだろうな、とか」
「そ、そうか…」

割とストレートなオルーカの言葉に、少し照れた様子でコーヒーを飲むササ。

「それでササさん。私、考えたんですけど」
「ん?まだなんかあるのか?」
「はい」

オルーカはぐっと身を乗り出すと、そのままの語調で、きっぱりと言った。

「結婚してくださいませんか?」

ぶば。
がちゃん。
べびん。

あまりに明後日の方向から来たオルーカの衝撃発言に、ササは飲んでいたコーヒーを盛大に吹き出し、マスターは磨いていた皿を割り、ミニウムは調弦を誤って弦を切ってしまった。

「はっ!?…げ、げほごほごほ!な、なななな…!!??」
「色々考えたんですけど、ササさんのこともっとよく知るには、これが手っ取り早いと思いまして」
「て、手っ取り早いって、…け、けっこ…!い、いやちょっと待て!オルーカ、何言ってんだ!?」
「好きな方のことをよく知りたいって思うのは当然じゃないですか?それで、結婚して一緒に生活するのが、一番の近道かと」
「す、す、す、すき!?」

淡々としたオルーカとは対照的に、これ以上ないくらい動揺しているササ。

「オ、オルーカ、おれのこと、す、好き…なのか?」
「はい。お慕いしています」
「…!…!…!」
「ですから、結婚を」
「ま、待て待て待て待て!」

通常の手順を5段階くらい踏み越えていきなりやってきた衝撃の告白に、さすがにササはぶんぶんと手を振った。

「だからって結婚は…その、ちょっと突飛すぎるだろ!?ていうか、オレのこと知りたいから結婚っていうのは安直すぎるぞ!」
「そうでしょうか?好きな方のことよく知りたい、傍にいたいと思ったら、結婚が一番いいと思いません?」
「そ、それは…!いや、でもな!それだったらとりあえず、付き合うっていうほうが現実的だろ?!」
「そうですか?じゃあ、私とお付き合いしてもらえません?」
「うっ…!」
「ダメでしょうか」
「だ、だめじゃないけどよ…」

やはり淡々とした、しかしどこか緊張した様子のオルーカに、ササは顔を真っ赤にしたままもごもごと口を動かす。

「そ、そんな急にこういう話になるとは思ってなかったから驚いたっていうか、あの、予想外というかだな…それにそもそもこういう話は男から言うべきなんじゃ…」

なかなか古風な男である。

「ダメじゃないなら、お付き合いしていただけるんですね?」
「えっ…」

沈黙が落ちる。
静かに気を取り直していたマスターとミニウムの耳がふたたびダンボになった。

やがて。

「…い…いいけど……うん」

やはりもごもごとササが言い、オルーカはぱっと表情を輝かせた。

「ホントですか?嬉しいです!」
「う…そ、そう…そりゃよかった…」

ササはさすがに気の抜けた様子で、ぐったりといすの背もたれに背中を乗せる。
オルーカはきょとんとしてササの顔を覗き込んだ。

「どうしました?」
「い、いやなんでもない…。…オルーカって、結構アグレッシブだよな…」
「あはは、よく言われます!」
「よく言われるのか…」
「はい」
「はぁ…今日一日でオルーカのことが分からなくなったぜ…」
「これから知っていってくださればいいですよ」
「これから…ねぇ。…人って確かに、付き合ってみなきゃ分かんねえこと、多いな」

苦笑して頭を掻くササ。
オルーカはようやっと安心した、という様子で、ふーっと息をついて店内を見渡す。

「…あれ」

そこで、やっとミニウムの存在に目を留めたらしかった。

「楽器…吟遊詩人さんですか?」
「あい、そーです!おうた、歌いますん」
「わ、素敵ですね。じゃあ…ピアフの『愛の賛歌』をお願いしていいでしょうか」
「愛の賛歌?」
「いい曲なんですよ。私、好きなんです」
「ふーん、どういう曲なんだ?」
「それは聞いてからのお楽しみです。…お願いできます?」
「おっけー」

ぽろりん。
切れた弦は取り替え済みである。
ミニウムは張り切って、楽器を奏で始めた。

その歌詞にササが赤面するまで、あと20秒。

第4週・マティーノの刻

からん。

ドアベルを鳴らして入ってきたのは、ミリーだった。

「ただいま」
「あれ、ミリーちゃん。ずいぶん遅かったね、もう来ないかと思ったよ」
「ええ、見つけるのに少し手間取ったわ」

ミリーはふふっと笑って、後ろにいた人影に声をかける。

「さ、どうぞ」
「ありがとうー」

のんびりとした女性の声音。
ドアの横にどいたミリーの傍を通り、その女性は店内に入ってきた。

「こんばんはー」

年の頃は、どう年かさに見ても20代後半、といったところか。
ゆるいウェーブのかかった銀髪を、藍色のリボンでひとつにまとめ。
臙脂のタートルネックに灰色のフレアスカート、腕にはショールが巻かれている。
穏やかな笑みをたたえた瞳は、淡い紫色。
彼女はゆったりとした足取りで店内に入ってくると、カウンターの椅子に腰掛けた。

「いらっしゃい。何にする?」

マスターが水とお絞りを出すと、彼女はゆるく首をかしげた。

「いいえ、何もいらないわー」
「そう?」

マスターは特にそれに言及するでも無く、遅れて隣に座ったミリーにちらりと視線をやった。

「何でミリーちゃんについてきたの?」
「この方が、ここに来れば見つかるかもしれないって言うからー」

にこり。
穏やかに微笑む彼女に、隣のミリーが笑みを深める。

「彼女、人を探してるんですって」
「人を?」

ミリーの言葉を受けてマスターが問うと、女性はゆっくりとうなずいた。

「ええ。あなた、知らないかしらー?」

スターと、ミリーと。そしてミニウムと。
人が注視する中、女性は気にする様子も無く、穏やかにこう言うのだった。

「私の娘を、探しているのー。あなた、どこかで見なかったー?」

“Welcome to CAFE Halfmoon! next” 2011.9.16.Nagi Kirikawa