第3週・ルヒティンの刻

からん。
開店早々、来客を告げる涼しげなドアベルの音と共に、元気のよい声が店内に響いた。

「やーっほーカーくーん!」

入ってきたのは、派手な配色の服を身にまとい、弦楽器を背負った少年のようだった。
小さな手をぶんぶんと振って店内に入ってくると、カウンターにいたマスターがぱっと表情を輝かせて飛び出てくる。

「ミニたーん!久しぶりいぃぃぃ!」
「カーくーん!」

ひし。
前回同様に熱い抱擁を交し合い、再会を喜ぶ二人。
ミニたんと呼ばれたこの吟遊詩人は、名をミニウムといった。

「まあ久しぶりっていうほど別に久しぶりでもないような気もするけど」
「それはゆわないやくそくでしょっ、おとっつぁんー」
「あはは、まま、座ってよ。何飲む?」
「んうー、てんねんすい」
「あい、天然水いっちょー」

おどけた様子で言って、コップを用意するマスター。
ミニウムは弦楽器をことんとそばに置くと、よっこいしょ、と小さく言ってカウンターの椅子に腰掛けた。

「はい、お水ー」
「はわわ、ありがとうございま…!」
「で、今はなんでこの辺りにいるの?」
「んうー?んと、んと、かんこう?」
「あれ、そうなんだ?特に何かあるわけじゃない?」
「へいわ、へいわ」
「そっかーよかったー、またうちの可愛くない妹が何かやらかそうとしてんのかと思っちゃったよ」
「いもーとちゃん、さいきん、みない、ね?ね?」
「いやいや、見ないほうが平和だよー」
「そぉ、だねぇー。カーくんは、さいきんどぉ?」
「相変わらずだねぇ。お客さんは少ないけど、楽しくやってるよ。
ストーカーと天然ちゃんが来たり、ここでしか食べられない麺を作ってくれとか無茶ブリするお客さんや、派手に兄弟喧嘩する子達とか…ああ、人探しをしてる子もいたな」
「ひと、さがし?」
「うん、あの………って、あれぇ?」

言ってドア付近の壁を指差そうとして、眉を寄せるマスター。
その視線の先には、何故か無残にべろんと破れたポスターのような紙がある。

「なんでー?!今朝お掃除したときには、ちゃんとこの似顔絵……あ」
「にが、おえ?」
「そこで切るとまずいもん食べて吐いたみたいだね」
「この、べんべろりん、にがおえ?」
「似顔絵だったもの、かなー」

ぺろり。
壁にかろうじて画鋲一本で止まっている状態だった紙らしき代物は、水でびしょびしょに濡れて悲惨なことになっていた。当然、何が描いてあったのかまったくわからない状態になっている。

「お姉さんを探してるんだってさー。
大体の特徴聞いて僕が似顔絵描いてあげて、目立つようにドアのそばに貼っておいたんだけど。
今朝ドアのお掃除したときに一緒に水がかかっちゃったのかな。
全然気づかなかったやー、しまったなー」

マスターは弱った様子で頭をぽりぽり掻いた。
不思議そうに首を傾げるミニウム。

「また、かいてあげれば、よくない?ない?」
「んーまー、そうなんだけどさー。残念なことに、青を切らしちゃってるんだよね」
「あお?」
「そのお姉さんね、青い髪に青い目のひとなんだよ。だから、青い色使って描いてあげてたんだけど、青い色使い切っちゃってさー」
「あお、よくつかうのん?」
「今度のミューたん新曲衣装のデザインコンセプトが海の青なんだよ!シースルーの布を何枚も重ねたふわふわの、端っこは波をイメージした白いチュールで…」
「すとっぷ・ざ・オタがたり!」
「ミニたんひどい……まあそういうわけで、青だけ特別に使っちゃってたんだよね。
んー、今日せっかく安息日だけど、描き直しはまた後日になっちゃうかなぁ…」

かろうじて青い何かで塗られていたことだけがわかるべろべろの紙を丁寧に剥がしながら、そう言ってため息をつくマスター。
ミニウムはその様子を首を傾げて見やってから、言った。

「カーくん、ぼく、かってきたげよっか?」
「え?」

マスターは驚いてミニウムを見下ろした。

「いいの?」
「いいよー!
今日もきゃくひき、しようとおもってきたけどけど、ここどうせきゃくひいてもおきゃくさんこないから…!」
「うわー言いたい放題。でも助かるよー、お願いしていい?」
「おっけー、おっけー!」
「んじゃ、今からお店の場所と、画材の銘柄と色番号書くから、ちょっと待っててねー」
「いろばんごう……」

そうそう子供のお使いのようには行かない予感に、ミニウムはこっそりと呟くのだった。

第3週・ミドルの刻

からん。
ドアベルの音と共に店に入ってきたのは、死刑宣告を待つような表情で、何故か熊のぬいぐるみを抱えた、ミケだった。

「……こ、こんにちは、マスター」
「お、ミケくんじゃーん。どしたのそんな、井戸から這い上がってきたゾンビみたいな顔して」
「つっこむ気力がないんですけど……胃薬、後でください」
「ミケくんは胃薬ばっかり飲んでるねえ。あんまり無理しちゃだめだよー?」
「はは、ありがとうございます…」
「とりあえずミルクティーでも煎れよっか?」
「…はい、お願いします…」

暗い表情でテーブル席に座るミケ。
マスターはすぐにミルクティーを煎れると、ミケのところに持ってきた。

「はい、どうぞー」
「ありがとうございます……」

熊のぬいぐるみを傍らの椅子に置き、ため息をついてからミルクティーを一口。
マスターが嘆息してそれを見下ろし、何か言おうと口を開きかけたとき。
からん。
ドアベルの音がして、もう一人の来客を告げた。

「っ……!」

びくう。
一目でわかるほどに飛び上がってドアを振り返るミケ。

「……って、オルーカさん……でしたか…」
「ミケさん、いらっしゃったんですね。こんにちは」
「……はは、こんにちは」

気の抜けたような挨拶を返すミケのところに、にこりと笑って歩いてくるオルーカ。

「今日はおひとりなんですか?もしよかったらご一緒しても?」
「あ、ええ、はい…あの、後でひとり来るんですけど」
「あ、お待ち合わせなんですか?それじゃあ遠慮した方が…」
「あ、いえ、よければそれまでは…」
「そうですか?それじゃあ」

苦笑して座ったオルーカも、ミケほどではないが少し沈んだ表情をしている。
水とお絞りを持ってきたマスターを見上げ、少し照れたように注文をした。

「えっと、精進料理、って出来ますか」
「精進料理?ああ、お客さんは尼さんなんだっけね。大丈夫だよー、早速作るね!」
「ありがとうございます」

いつもの笑顔でカウンターに引っ込んだマスターを見送り、改めてミケのほうに向き直るオルーカ。

「どうしたんですか?ミケさん」
「え?」
「なんか難しいお顔をされてますよ」
「……ああ」

ミケは苦笑して、それから視線を逸らした。

「……家出して、やっと生き別れにした姉と再会することになりました……」
「へ~お姉さんですか」

興味津々のオルーカ。
やっと再会できるのだ、喜ばしいことのように思えるが…

からん。

再びドアベルの音が鳴って、やはり大仰に肩を震わせるミケ。
オルーカもつられてそちらの方を向くと。

「……マスター、また、来ました」
「おっ。アフィアくんだ、いらっしゃーい」

現れたのは、旅装束の少年、アフィア。
陽気に挨拶をするマスターにつられるように、オルーカもにこりと笑ってアフィアに声をかけた。

「アフィアさん、こんにちは」
「オルーカ。こんにちは」

アフィアは一礼するとカウンターに腰掛け、マスターに注文する。

「今日は、マスター、こだわりの一品、注文します」
「こだわり?」
「はい。マスター、こだわってるもの、ください」
「んー、ごはんで?飲み物で?」
「なんでもいい、です。口に入るもの、でなくても、いいです」
「そっかー。じゃあ、とっときのお茶、煎れたげるねー」

言って、ノレンの向こうに姿を消す。奥の部屋にその「とっときのお茶」があるのだろう。
水を飲んで一息つくアフィアに、オルーカはテーブル席に腰掛けたまま声をかけた。

「アフィアさんもこちらの常連さんなんですか?」
「常連、いうか……あ、れ?」

きょろきょろと辺りを見回すアフィア。
奥の部屋から出てきたマスターに、若干焦り気味で声をかける。

「マスター、似顔絵、どう、なりましたか」
「あっ、そうなんだよー、ごめーん」

マスターは困ったように眉を寄せた。

「ちょっと失敗して、今朝破損しちゃってさー。もう一度描いて、アフィアくんが書いたのと同じメッセージ書いて貼っておくから。ごめんね」
「……そう、でしたか」

アフィアはほっとしたような、しかし少し残念そうな様子でため息をつく。
そこに、オルーカがきょとんとして問うた。

「似顔絵?どうかしたんですか?」
「ああ、えっとね、アフィアくんが生き別れのお姉さん探してるって言うから、僕が似顔絵描いて張り紙しておいたんだよ。アフィアくんに頼まれて」
「生き別れのお姉さん?」

つい先ほども聞いたフレーズに、オルーカが驚いた様子で言い、正面に座っていたミケもぎょっとしたようにアフィアを見る。

「アフィアさんも、生き別れのお姉さんがいらっしゃるんですか」
「…そう。姉さん、探してます。……も、って、どういう、こと?」
「実はこちらのミケさんも、生き別れのお姉さんが」

言って、ミケを紹介するオルーカ。

「アフィアさん、こちらはミケさんです。とっても頼りになる、魔法使いさんなんですよ」
「頼りになるかどうかはともかく…初めまして。僕はミケと申します。……オルーカさんのお知り合いの方なんですね。よろしくおねがいします」
「…アフィア、いいます。よろしく」
「以前依頼で一度ご一緒したことがあるんです」
「そうなんですか。お若いのに、依頼を受けられるんですね」
「………」

ミケの言葉に不思議そうに視線を返すアフィア。
まあ確かに、多少忘れられがちだがミケの若すぎる外見そのものはアフィアとそう大して差はないように思える。
アフィアは気を取り直して、カウンターから2人に向き直った。

「ミケさんも、お姉さん、探してる、ですか?」
「あ、いえ、僕はどっちかというと探されてるというか……」
「…探され、てる?」
「はは、僕実は家出してきてまして。姉はずっと僕を探して旅をしていたらしいんです」
「ミケさん、お姉さん、探してない?」
「……どっちかっていうと、逃げてましたね……」
「…逃げてる?なぜ?」

心底理解できない、というように、首を傾げるアフィア。

「ミケさん、お姉さん、嫌いですか?大事、ない、ですか?」
「……そうじゃない、とは思うんですけど……複雑なんです、色々と」

本当に複雑そうにそう呟いてから、ミケは苦笑してアフィアに問い返した。

「アフィアさんは、お姉さんを探していらっしゃるんですね。いいなあ、仲が良いんでしょうね」
「…うち、姉様、離れ離れ、なりました。ずっと、探してる」
「そうですか…僕は自分の意思で離れたんで、そこが違うんでしょうね。
似顔絵はだめになってしまったんですか…よければ、特徴を伺っても?もしかしたら、見たことあるかもしれませんし」
「そうですね、是非教えてください」

オルーカにも言われ、アフィアは少しためらうような表情を見せながら、それでも説明を始めた。

「姉様、青い髪、青い目、してます。うちに、少し似てる、思います」
「青い髪、青い目、ですか……」
「…ミルカさんじゃないんですよね」
「違うんじゃないですか」
「違います」

きっぱりとアフィアが言い、二人はうーんと唸りながら首を傾げる。

「すいません、ちょっと心当たりないですねぇ…」
「そうですね、僕もちょっと、心当たりはないなあ」
「……そう、ですか……」
「もし見かけたら、ご連絡しますね」
「…お願い、します……」

少し気落ちしている様子のアフィア。
ミケも、そして当のオルーカもそんな様子なのだが、彼女は努めて明るく2人に話しかけた。

「お2人とも、ご兄弟がいらっしゃるんですね……あの、ちょっとお聞きしたいんですけど、兄弟って…」

と、オルーカが話を切り出そうとした、まさにその時。

ばたん!からん!

勢いよくドアが開き、派手なドアベルの音と共に、ものすごい勢いで女性が飛び込んできた。

「ミケ?!」
「っ………!」

今度こそ正真正銘、飛び上がらんばかりに身体を震わせてそちらを見るミケ。
飛び込んできたのは、この世のものとも思えぬほどに美しく、はかなげな女性だった。
真っ白に血の気の引いたミケとは対照的に、頬を高潮させ、感動に瞳を潤ませて手を広げる。

「会いたかったわ、ミ……!」

ぼす。
感動的な再開の抱擁を遮るように、ミケがその腕に熊のぬいぐるみを投げ、彼の代わりのようにぬいぐるみが鯖折りにされる。
腕の中でありえないほど二つ折りにされた熊のぬいぐるみに顎をうずめ、恨めしそうにミケに視線を送る女性。
ミケは額に汗を浮かべつつ、引きつった笑顔を彼女に向けた。

「姉上、お久しぶりです。…………お変わりなく」
「まぁ……。ええ、ありがとう。……再会したときくらい、ぎゅっとさせてくれても良いと思うわ?」
「…………やです……」

そのぬいぐるみと同じ運命にされるのはごめんだった。
そう。その美しくはかなげな、そしてその実怪力無双な女性こそが、ミケの姉。
名を、ノーラといった。

「あ、私はアイスミルクティーでお願いいたします」
「あい、かしこまりー」

あまりの迫力に思わずテーブル席からカウンターに移動したオルーカと、カウンター席で微妙に肩を縮めたアフィアが見守る中、ノーラはかなり上機嫌でミケの向かい側に座り、注文をした。
マスターはいつの間にかオルーカの精進料理をカウンターに移動させており、美しい出来栄えのその料理をぱくりとつまみながら、オルーカは固唾を飲んで2人の様子を見守る。

「元気そうね、ミケ!あなたが家を出てから、私、毎日ずっと心配していたの……」
「……それは、悪かったと、正直思っています。申し訳ありません。父上や兄上方にも心配をおかけしました」

素直にそう言って、頭を下げるミケ。
少しためらってから、再び顔を上げ、ノーラをまっすぐに見据える。

「あの、僕、魔導師になったんです」
「……クローネ兄様から聞いてるわ?魔導師になりたかったのなら、言ってくれたら良かったのに。そうしたら、私も、お手伝いできたと思うの」

少し不満そうに、ノーラ。

「周りが何を言ったって、気にしなくていいのに。私は、絶対にあなたを守るし、味方でいるから!」
「……そうじゃなくて、僕が家を出たのは」
「だから、一緒に帰りましょう?」

言い返そうとするミケの言葉を遮って、ノーラはミケの手を取った。
限りなく優しく美しい、天使のような笑顔を浮かべて。

「お兄様達は、冷たい。クローネお兄様は、私にあなたのことは教えてくれなかったし。
昔からグレシャムお兄様はずっと『そのうち帰ってくる。放っておけ』って。手紙が来た後も、よ?
酷いと思います。ミケが怪我とかしていたらどうするおつもりだったのかしら」
「……姉上」

だが、ミケは別のことに引っかかったようだった。

「手紙を見て、グレシャム兄上は、『そのうち帰るだろうから』と?」
「そうよ」
「……そうですか……」

ミケは俯いて何かを考え、それからまた顔をあげてノーラを見た。

「姉上。グレシャム兄上の言うとおりです。そのうち、1回家に戻るつもりです。僕は魔導師として一人前になるし、そのために頑張ってる。
だから、あなたに守ってもらわなくてもいい。あなたがそう思っていてくれたことは知っているけれど、大丈夫ですから。だから、今は帰りません」
「……ミケ」

ノーラは心底驚いたというように目を丸くし、それからもう一度、とがめるような表情でミケに顔を近づけた。

「どうして?魔導師の勉強なら、うちでもできます。そうでしょう?帰りにくいのなら、私も一緒にお父様達に謝るし、私たちだって力になれるもの」
「姉上、僕は大丈夫だと」
「だって、あなたは私が助けてあげなきゃ」

にこり。
ノーラは再び、天使のような微笑を浮かべた。
天使のように、無邪気な、慈愛に満ちた……そして、残酷なまでに自らの正義を信じきった笑みを。

「1人じゃ、危ないわ。私が付いて居なきゃ、あなたは何もできなかったんだもの」

本当に、心から、ミケのことを想っていますという調子で語られた言葉に。
ミケの表情から、一気に血の気が引いた。

ぎり。
音がするかと思えるほど、強く手を握り締め。

「……さい」
「ミケ?」
「放っておいてください……!」

ともすれば憎しみとも取れるほどに強い視線を姉に向けて、ミケは腹の底から彼女に怒鳴りつけた。

「僕は、あなた方が……あなたがいるから、家を出たんです!
僕は、あなたの所有物じゃない!1個の人間なんです!」

あまりの剣幕に、ノーラが、そしてカウンターで見守っていたオルーカたちもが驚いて絶句する。
ミケは厳しい視線はそのままに、静かな怒りをたたえて言葉を続けた。

「何も、できなかった。ええ、そうです。自分の夢だって、掴んでいられなかった。
あなた方のようには、とてもなれなかった。
僕は僕でしかない、だから、僕だからできることを探した。
兄上たちのように、誰かの幸せを守っていける、そんな力が欲しかった。
けど!」

吐き捨てるように言って、視線を逸らす。

「あなたは目の前で微笑みながら、僕のためだと口にしながら、僕に何一つさせようとしなかった。
あなたは、僕の意志などどうでも良かったんでしょう?
僕に何が出来て、何を思い、何を夢見ているかなんて、あなたは知らないし、知ろうともしなかった。
あなたは僕が必要だったんじゃない、『自分がいないと何も出来ない弟』が欲しかっただけなんですから!」
「…そんな、ミケ、ちが」
「家にいる限り、僕は、きっと自分の無力を嘆きながら、あなた方の背を見て駄目になっていく。
僕は弱いから、あなた方を見て、比較して、勝手に傷ついて絶望していく。
だから、家を出たのに」

はあっ。
勢いよく息を吐いたミケを、ノーラは驚愕の表情で見返した。
混乱した様子で、少しずつ、言葉を紡いでいく。

「ミケ、そんなこと、ないわ?あなたが大事で、心配で」
「……1人では何も、できない子だから?」
「え?」
「あなたがいなかったら、何もできないから?」
「そうじゃないけれど……でも、あなた1人じゃ」
「いい加減にしてください!」

ばん!

ミケが強くテーブルを叩く音が、店中にこだました。
ノーラも、そしてカウンターの3人も驚いて身を竦ませる。
ミケは怒りの形相のまま、叩きつけるようにノーラに言い放った。

「……僕は、あなたが……嫌いです!今、邪魔なのはあなたなんです!だから帰ってください!」

時が止まったように、店内に沈黙が訪れる。

はあ、と。
荒いミケの息遣いだけがこだまし、それが彼を我に返らせた。

「……。っ」
「え、あ」

正気の戻った彼の目の前には、みるみるうちに目に涙をためていく姉の姿。
紅潮していた顔が、再び蒼白になっていく。

「す、すみません!その」
「わ、私……、ごめんなさ……!」

がたん。
立ち上がった表紙に足がもつれ、バランスを崩したノーラの瞳からほろほろと涙が零れ落ちる。
彼女は構わず、足早に店外へと駆けていった。

からん。

「姉上……っ」

むなしく響くドアベルに、追いかけようとしたミケの足が止まる。
何故かはわからない。だが、床に縫いとめられでもしたかのように足が動かなかった。

「駄目だ……」

呆れたように言って、ミケは再び腰を下ろした。

「少しは……僕も成長したかな、と思ったのに」
「ミケさん……」

こちらもようやく我に返ったオルーカが、心配そうにミケに歩み寄る。

「あ、あの……ミケさん、追いかけなくていいんですか?」
「え、あ……ええと」

自分たち以外のギャラリーがいたことにようやく気づいた様子のミケは、少し戸惑ってから苦笑した。

「ええ。今は、駄目です。……僕がもうちょっと落ち着いたらにします」
「そ、そうですか…分かりました」

オルーカも戸惑った様子で、少し迷ってから、再びミケに問う。

「ミケさんにとって…、その、兄弟ってどういう存在なんですか?兄弟ってやっぱり…よく喧嘩するものなんでしょうか」
「……結構、難しいことを聞くんですね?」

唐突なようなそうでもないような問いに、ミケは苦笑してから、手の中で揺れる紅茶の表面に視線を落とした。

「大嫌いで、できることなら完全に縁が切れて他人になれたらいいな、と思ってましたよ、昔」
「えっ……」
「……まあ、そう思うっていうことは……どんなに嫌だと思っても、離れられないもの、なんでしょうね、僕にとっては。
兄弟に限らず、家族ってそういうものじゃないでしょうかね。ふとした仕草に、好みに、どこかに繋がりを感じてしまう。
こうやって離れていても、顔を合わせたら毎日顔を合わせていた頃に戻ったような、そんな気がしました」
「ミケさん……」

複雑そうに言うミケを、やはり複雑そうに見つめるオルーカ。
ミケは苦笑して、オルーカに問い返した。

「……で、オルーカさん、急にどうして、そんなことを?
先日ここで会ったとき、何かあったでしょう?それから落ち込んでしまって。
今も元気ないですし、どうかしましたか?」
「あ、ええ、実は……」

オルーカは肩を落として、ミケに、そしてアフィアにもわかるように、先週のササとモモの喧嘩の件をかいつまんで話した。

「…というわけで、兄弟げんかに首を突っ込んで、ササさんとケンカしてしまったんです…」
「ああ……それで、凄く気まずい雰囲気になっていたんですね……。でも、手をあげるのはやり過ぎだと、僕も思いますけどね」
「そ、そうですよね…暴力は、いけません…」

ミケの言葉に励まされるように、強い表情で頷くオルーカ。
しかし、それからまた自信なさげに俯く。

「でも……よくわからなくて。
兄弟げんかって、どんな感じなんですか?」
「どんな感じ……っていうと?」
「えっと、例えば、私とミケさんがけんかしたら…その、何か仲直りのきっかけが必要じゃないですか。タイミングを見計らって、どちらかから謝って…って。
でも、モモさんは『次に会ったら忘れてる』って言うんです。それが、私にはよくわからなくて……
お互いに謝ったりしないのに、自然にもとの状態に戻れる、っていうことですか?そんなことあるんでしょうか……」
「はははー……たった今、してたんですけど。うちは、ちょっとそういう訳にはいかないと思います」

苦笑して首を傾げるミケ。

「どういう感じと言われても……難しいですね。今、家族関係叩き壊したような、そんな喧嘩だった……つもり……なんですけど……
冷静に考えてみる と、末っ子が癇癪起こしたようにしか……見えなかったらどうしよう」
「あの、見ていた限りは、お互い言い分があるようですし…か、家族関係を叩き壊したりとか、そんなには見えなかったですよ、 大丈夫ですよ、多分…」

おろおろしながらそんなフォローを入れてみるオルーカ。
と。

「言いたいこと、言える、それ、家族、思います」

唐突にアフィアが口を挟んだので、ミケは少し驚いてそちらを見た。
アフィアは相変わらずの乏しい表情のまま、不思議そうに首を傾げる。

「ミケさん、さっき、姉さん、嫌い、言った。嫌い、ですか?」
「……っ……」

直球で尋ねられ、言葉に詰まって俯くミケ。

「…本心だと、思ってました。ずっと言いたくて、言い出せなくて、胸の底にドロドロと溜まっていた…吐き出せばスッキリするって、ずっと思ってた。
……でも、姉上の涙を見て、そうじゃないって、思いました。
…好きか嫌いか、大事かそうじゃないか、二元論で尋ねられれば、僕は姉上も、兄上たちも、好きだし、大事です」
「……よく、わからない」

アフィアはなおも不思議そうに、淡々と言った。

「不思議です、家族、大事、考えている。どうして、そんな、大ゲンカ、する?」
「……良く、分からないんですよ」

苦笑するミケ。

「どちらか選べと言われれば、好きだし、大事です。姉上を泣かせてしまって、すごく辛かった。でも、胸を張って好きとは言えない自分がいるのも確かで……
……わかって欲しい、から……かな。認めて欲しい、かもしれません。お荷物だったから、そうじゃないんだって、そう思って欲しいのかも。
……はは、本当に、子どもなんだな、僕は」
「姉さん、ミケさん、心配、してた。心配、かけるの、よくないです」

アフィアは淡々と、しかし少し咎めるように、ミケに言う。

「うち、姉様、生死、不明です。
でも、旅、している時、姉様、似ている人、噂、聞きました。それで、探すこと、決めました。
もし、姉様、生きているなら、うち、一人じゃなくなります。それ、すごく、うれしいです」
「アフィアさん……」
「姉様、生きてるか、無事か、うち、すごく、心配です。
同じ思い、姉様に、させたくない。そのためにも、姉様に、会いたい、早く。
ミケさんも、姉さんに、同じ思い、させたらダメ、思います」
「………そうですね……」

苦笑してそう言い、しかしミケはアフィアの言葉に反論はせずに逆に問い返した。

「…アフィアさんは、きっとお姉さんと本当に仲が良いんでしょうね。さっきも言いましたが、羨ましいです。
アフィアさんにとって、お姉さんってどういう方ですか?」
「………」

アフィアは少し考えて、それから言った。

「今、一番、会いたい人、です」
「離れ離れになってしまった、んですよね?お気の毒に……」

いたましげなオルーカの言葉に、僅かに頷いて。

「姉様、うちとちがって、行動力、ありました。
知力、体力、どれをとっても、かなわない。うるさいこと、ありますが、間違ったこと、言わない人、です」
「そうなんですね……あの、けんかとかには、なったりしないんですか?」
「けんか……」

呟いたアフィアの表情は、心なしか少し青ざめていた気がした。

「……姉様、強い、です。うち、とても、かなわない……」
「…その気持ちは、よくわかる気がしますよ……」

どこか諦めたような表情で、ミケも同意する。
それから、苦笑して。

「…僕も、アフィアさんみたいに、意思に反して引き裂かれたのなら、姉上のことが心配になるし、探しもすると思います。
でも、これは自分で決めたことだから……」
「………」

まだ理解は出来ないというように、黙ってミケを見返すアフィア。
ミケはさらに苦笑を深めた。

「でも……そうですね。僕にとってはそうでも、姉上にとっては『意思に反して引き裂かれた』ことなんですよね。
ちゃんと話し合って、納得の上で出てくれば、こんなことにはならなかった。でもあの頃の僕は、いっぱいいっぱいで……まあ今もですが。
……要するに、子供なんです。今も。……情けないですね」
「………」

アフィアも複雑そうな表情で俯く。
が、ミケはどこかすっきりしたような顔で言葉を続けた。

「でも、初めてちゃんと姉に言いたいことが言えて、ちょっとすっきりした感じはありますけども。
言い方が、どうしても良くなかったので、反省はしています。後悔はしてません」
「兄弟喧嘩って…複雑ですね…私、分からなくて…」

眉を寄せて呟くオルーカに、心配そうに尋ねるミケ。

「…ササさんとモモさんのことですか?」
「…はい。モモさんは、なんでもないって言ってたけど、やっぱり気になって…」
「うーん……」

ミケもつられて眉根を寄せ、難しい表情で考えた。

「……喧嘩をしても、すぐに何でもなかったように振る舞えるのだとしたら、それはそこに絆があるからじゃないでしょうか」
「…絆……ですか?」
「いつものこと、っていう んでしょうか。近しいからこそできる、そんな気がしますよ。後は、喧嘩の度合いによるかと」
「そう…ですね…」

ミケの言葉を噛みしめるように、頷きながら考えるオルーカ。
ミケは苦笑した。

「多分、ササさんにしてみたら『また妹は我が儘を言って』くらいの日常茶飯事で、妹さんにしてみたら『駄目もとでねだってみるか』くらいの感覚 だったのかも知れませんね。
家でどこまでやっているかにもよりますけども。妹さんがそう言うなら、そういうものなのかもしれませんよ」
「そっか…そうなんでしょうか……」
「…姉上は、一生懸命世話を焼いてくれていたんですけど、僕はそれがあんまり嬉しくなかった。でも、純粋に好意だから言い出せなくて。
……僕は兄姉と喧嘩なんか、したことなかった……自分の気持ちを言ったこと無かったんだから当たり前ですけれど。
だから、そうやって言いたいことを言える関係が、そうやって自然に甘えてたしなめてって言う関係が羨ましいなぁって、思うんですよね」
「そうかもしれませんね…兄弟にも、色々あるんですね…」
「親子喧嘩と一緒ですよ。家族だからこその喧嘩なのかもしれませんねー。…………うん、一般的な解答ならば」
「なるほど…家族、ですもんね」

熱心に頷きながら聞いているオルーカに少しくすぐったさを覚えて、ミケは苦笑しながら彼女に問い返した。

「で、そんな事を聞いているオルーカさんは一人っ子なんですか?」
「え?ああ、はい。私、兄弟いないんですよ。
両親と私と、三人家族で。
だから小さい頃から兄弟って羨ましいなって思ってて…
でも羨ましいなって思ってるだけで、どういうものなのかっていうのは…
ちょっとあんまり、考えたことがなかったのかもしれません…」
「一人っ子なんですか。僕は一人っ子が羨ましいですよ。または下に弟妹がいる人とか。
家族で喧嘩とかは、あんまりしなかった方ですか?」
「ええ、実は家族で喧嘩も…あまりしたことなくて。
私、遅くになってできた子だったんで、今考えると両親に溺愛されてたなって…。
喧嘩…したことない…かもしれません。叱られたりとか、そういうことならあったんですけど」
「そうなんですね。うーん……そうだなあ、凄く近しい友達と喧嘩みたいな感じだと、思いますよ」
「近しい友達と喧嘩、ですか…それはちょっと分かる…ような」
「アフィアさんやレティシアさんところみたいに、仲が良い兄弟もありますし。ああいう感じなら羨ましいですね」
「ああ、そうなんですね…レティシアさんのところは、仲良しさんなんですねぇ…」

光景を思い浮かべているのか、暖かい表情でそう呟くオルーカ。
が、すぐに慌ててミケの方に向き直る。

「あ、決してミケさんところは仲が悪いとか、そういうつもりでは…!」
「はは、気にしないでください。あの状況見て仲良し兄弟だと思う人はいませんよ。
あまり、お役に立てなくてすみません。あとはササさんに直接、お話を聞いてみては?」
「ええ、はい、そのつもりです」

しっかりとした表情で頷くオルーカに、ミケも安心したように微笑んだ。

「色々お話して、僕も少し、落ち着きました。ありがとうございます。
もう少し……頭を冷やしてみようと思います。
……姉上は……多分、大丈夫だと思いますし。すみません、失礼します」

言って、会計を済ませ、ふらふらと出て行く。
それを心配そうに見送って、オルーカも息をついた。

「私も、今日はこれで失礼しますね。なんだか、色々考えたくて…」

アフィアに向かって言うと、アフィアは少しきょとんとした様子だった。
それを気にすることなく、にこりと優しく微笑みかけるオルーカ。

「お姉さん、見つかるといいですね」
「あ、ありがとう、ございます」

ぎこちなく礼を言うアフィアにもう一度微笑みかけて、オルーカは会計をしようとした。
伝票を確認しながら、マスターは相変わらずののんきな様子で言う。

「あ、ねえお客さん、こないだのおにーさんが置いてったお金、どうする?」
「えっ?」
「ほら、さっき言ってた、ササくん、だっけ?あのおにーさんが金貨1枚置いてっちゃったじゃん。それだけでも多いのに、おねーさんもお代置いてったでしょ」
「あ、ああ、そういえば……」

あの時はケンカになったショックで頭が上手く回っていなかったが、確かにササも自分も代金を置いていった記憶がある。

「…二重に支払っちゃってたんですね…!」
「うん。はいこれ、おにーさんが置いてった分」
「え、あの、どうしよう」

手のひらの上に金貨を乗せられて、おろおろするオルーカ。
しばらく迷ってから、うん、とひとつ頷いて、金貨を握り締める。

「私から、渡しておきます。…お話聞く、いいチャンスだと、思いますし…」
「そうだねー」

にこり。
マスターはオルーカに綺麗な笑みを見せた。

「がんばってね、おねーさん。僕はおねーさんが兄弟のことわからないのは悪いことじゃないと思うし、そうしてわかろうとするおねーさんはすごいと思うよ?」
「マスター……」

綺麗な笑みで励ましの言葉を言われ、思わず再びぽうっとなるオルーカ。

「…あの、ちなみにマスターはご兄弟は……」
「うん?いるよー、たくさん」
「たくさん?!」
「うん、ミケくんとこよりいる。でも、ミケくんとこより参考にならないと思うなあ」
「え、それはどうして……」
「僕にとって兄弟は、『人生で一番最初に出会う敵』だからね」
「えっ……」

思いもよらぬことを言われてきょとんとするオルーカの肩にそっと手を置いて、マスターは出口へと促した。

「さ、思い立ったが吉日だから、早速ササくんをお誘いしといで。がんばってねーん」
「あ、は、はい……」

戸惑いながらも、促されるままに店を後にするオルーカ。
すると、それと入れ違いに、再びドアベルが鳴った。

「ただいまかいりましたん」
「おっ、ミニたん、おかえりー」

帰ってきたのは派手な装束の吟遊詩人、ミニウム。
なにやら紙袋を高々と掲げ、ドヤ顔でマスターに差し出す。

「はい!あおのもの、買ってきたよ、よー」
「ありがとー、助かったよー」

紙袋を受け取るマスターに、アフィアが声をかけた。

「マスター、あおのもの、なんですか?」
「ああ、うん、ほら、さっきアフィアくんのお姉さんの似顔絵、だめにしちゃったって言ってたでしょ?
新しく描くための画材を買いに行ってもらってたんだよ」
「…なんだか、もうしわけない、です」
「え?ああ、いいんだよー、画材は他のにも使うんだしさ」

マスターと会話しているアフィアを、不思議そうに見やるミニウム。

「…にがおえ、たのんだの、このひと?」
「うん、そうだよー」
「んっとね、さっき、あおいかみ、あおいめのひと、見かけましたん」
「え」

がたん。
ミニウムの言葉に腰を浮かすアフィア。

「それ、どこで、みましたか」
「んうー、この通りを、むこーにずーーーーっといったところですん」
「……っ、マスター、おあいそ、します」

アフィアは慌しくカウンターの上に銀貨を1枚置くと、慌てて店を後にした。
からん。
嵐のように去っていったアフィアを見送ってから、再び顔を見合わせるマスターとミニウム。

「…で、その青髪青目の人ってどんな人だったの?」
「んっとね、ひらひらふりふりのふくきて、かみのけくるくるだった」
「……あー、それは違う人だねぇ……」

マスターは苦笑して言い、まあいっか、と流すと、ミニウムが持ってきた紙袋の中身を確認した。

「……あれ。ミニたん、これ違うよ」
「えー?」
「これ、『ナイチンゲールの歌声』じゃん。ちがうちがう、『午前7時30分の露草』だよー」
「……おなしじゃーん……」
「おなしじゃないっ」
「むぅ…いーもん、またかってくるもん」
「んふ、お願いねーん。あっ、ついでにトーンの60番と72番も買ってきてもらっていいー?」

若干うんざりした様子のミニウムに嬉々として追加注文をするマスター。
長い長いランチタイムが、そろそろ終わりを告げようとしていた。

第3週・レプスの刻

からん。
ドアベルの音が来客を告げ、マスターはそちらの方を向いた。

「幾月ぶりかのう、主殿」

入ってきたのは、ナノクニの装束をまとった地人の女性…おりょうだった。
にこっと笑いかけるマスター。

「あれー、お客さんまた来てくれたんだ。
2週間ぶりかな?来てくれてありがとー」
「そうか、まだそれほど経ってはおらぬか。
何やらずいぶんと時が経ったような気がしてならぬ」

どっしりとカウンターに腰掛け、ため息をつくおりょう。

「ちとナノクニの使いと遊んでおった故、顔が出せなんだ。
勝負の前に酒を酌み交わそうと言ったのだがな。
聞く耳持たずにかかってきおった。
まったく無粋な話じゃ」
「そうなんだー、お客さんも大変だねえ」

言いながら水とお絞りを出すマスター。
おりょうは水を一口飲むと、お絞りで指を一本ずつ拭っていく。少しオヤジくさい。

「それがそれがしの業であろうのう。
受け止めるはそれがしの義務かもしれぬ」
「まー、それだけお客さんに夢中だったってことだよー。
それがどういう意味でもさー」

へらっと笑って微妙なコメントをするマスターに、おりょうは生真面目に重々しく頷いた。

「うむ。やはり、強い思いが強いものを生みだすのだろう。
たとえそれが憎しみや怒りであってものう」
「ははっ、真理だねー」

遠い目をするおりょうに、やはり脳天気なコメントを返すマスター。

「で、今日は何にするー?」
「ふむ。以前の麺の話じゃがのう、主殿流のナノクニ風ソバが気になって仕方がなくてな。こうしてまた食しに来たのだ。
どうかのう、主殿。また作ってはもらえぬかのう」
「わ、覚えててくれたんだー、嬉しいな」
「当たり前だ。あの料理、最近食した中では頭一つ分抜けて旨かった。
あれほどの腕前の職人が打つ蕎麦とはどんな味がするのか、ぜひ賞味してみたい」
「ははっ、嬉しいなー」

マスターは言葉のとおり嬉しそうに笑った。

「そんじゃ、張り切ってソバを作っちゃおうかな。
また麺を打つところからやるから、少し時間がかかっちゃうけどいい?」
「もちろんだ。
その間はまたそれがしが適当な話をして進ぜよう。
今回もまた血生臭いがの」
「ソバに血なまぐさい話を練りこんでくんだね、いいねぇ~」

茶化すように言いながら、棚から普段使わない道具を出してくるマスター。
おりょうは感心した様子でそれを覗き込む。

「まずは材料の準備か。
いや、用具も多いな。その麺棒は大きいのう」
「これはナノクニで買ってきたやつなんだよー。
僕なにごとも形から入る主義なんだ!」
「…それは威張ることなのか?」
「いやいや、形は大事。んで?血なまぐさい話って?」
「おお、そうじゃったな」

おりょうは居住まいを正すと、また一口水を含んでおもむろに話し始めた。

「先日の話では、剣士として色々あったと話したのう。その色々の一つじゃ」
「ふむふむー?」

相槌を打ちながら、大きな板の上で粉と水をまとめていくマスター。
おりょうは話を始めたばかりだというのに、再び興味深そうにそれを覗き込む。

「おお、そば粉と水が瞬く間に一つの塊になったぞ。
見事な手際だな、主殿」
「これが案外難しいんだよねぇ。それでー?」
「おお、そうじゃった」

再び気を取り直して話に戻る。

「それがしの村は地人の集落だったのは話したな。
村の周りは戦乱が続いていたのだが……
急に勢力を拡大した豪族が周りをごっそり平定しようと攻めてきたのだ。
それまでだらだらと争っておった近隣の領主共が共闘……の真似事をした。
まったく、余計な血をどこまで流したのか、けろりと忘れおってのう」
「まあ、自分が流した血じゃなきゃ忘れるよねぇ。いや、忘れるっていうか気にも留めてないんだろうねー」
「主殿も毒舌じゃのう。まあ、その通りなのじゃろうな」

べしべしと塊を叩きつけながら辛辣なコメントを返すマスターを、再び覗き込むおりょう。

「ふむふむ。
そば粉の練り方といい、塊を何度も叩きつける工程も鮮やかだのう。
なかなか体力がないとできぬものだな」
「僕こう見えても男の子ですからー。それで?」
「む。そうじゃった。さすがに脱線しすぎかのう」
「いいんじゃない?読んでる人は読みにくいかもしれないけど」
「読んでる人?」
「ううん、こっちの話ー。で?」
「ふむ」

おりょうは再び居住まいを正し、話を続けた。

「それで、戦いが始まった。
領主共と豪族の間で色々と策を講じておったようだがそれがしはよく知らぬ。
結局野戦になってな、領主共は一部を除いて総崩れになってのう、豪族が追い討ちを始めおった」
「ま、にわかタッグなんてチームワークはガタガタだし長続きはしないよねぇ」
「まさにその通り。しかも、領主共の中にへそ曲がりがおってな。
豪族の軍勢の追い討ちで伸びきった陣形の隙を突いて豪族の総大将の本営を奇襲したのだ」
「おおっと、抜け駆けしちゃったんだねー」
「うむ。それがしたち、地人の村の兵はその中におった」
「なるほどー、抜け駆けて大活躍、だねー」

ぺし。
よく練った後に再び纏めた生地の塊を手のひらで叩くマスター。
おりょうは再び興味深げにカウンターを覗き込んだ。

「その生地を、今から伸ばしていくわけじゃな」
「そうだねー。あ、そうだ。お客さん、どうする?」
「む?」

唐突なマスターの言葉に、きょとんとするおりょう。
マスターは笑顔で続けた。

「前にお客さん、ここでしか食べられない麺、って言ってたじゃん」
「うむ、確かに」
「普通にツユで食べても良いけど、ソバを使ってこっちの料理にアレンジするのもできるよー。
これもある意味、ここでしか食べられない麺、だよね!」
「うむ、ここでしか食べられぬ麺というそれがしの望みを覚えていてくれたこと、それがしも感じ入った」

おりょうも嬉しそうに頷く。

「ここまで覚えていてもらえれば、それがしとて嬉しい顔になるというものだ。
ツユも中々に難しく旨みを決める肝心なものでもあるがの。
ここでしか食べられぬというところが良いではないか」
「そうだねー、普通のソバならナノクニ行けばいつでも食べられるわけだしね」

マスターは頷いて続けた。

「ペペロンチーノとかにすると、結構イケるよ。意外ににんにくと合うんだよねー」
「主殿の流儀に全てお任せしたい。
そうすれば先ほどの主殿の言葉のとおり、より希少な麺になるからのう。天下に二つとあるまい」
「そっかそっか、じゃあペペロンチーノにしてみるねー。結構美味しいんだよ、待っててねー」
「うむ、これは出来上がりが楽しみじゃな。
手際を見ていても楽しめるのう」

早速台の上で麺を伸ばしていくマスターを、興味深げに覗き込んでから、おりょうは今度は自分で我に返った。

「おお、話が途中だったのう。
結局へそ曲がり領主の手勢は豪族の本陣に突入した。
豪族の将を討ち取ることはできなかったし、へそ曲がり領主も討ち死にをした。
が、運が良かったのか一時的に本陣の幕の中を制圧できた」
「おおっ、すごいじゃーん」

伸ばした麺を折りたたみ、大きな包丁で細く切っていきながら、マスターは気が入っているのかいないのかよくわからない返事を返す。
おりょうは再び興味深げにそれを覗き込んだ。

「ふむふむ。麺に切り出していく包丁さばきも見事なものだ。
麺の太さを均一にしておくのはかなり難しかろう。
その包丁、相当重いものであろうにのう」
「そうお?そんなことないよー。ほら、僕男の子だし」
「そうか…男女の力の差はそれがしが思うより大きいものやもしれぬな」

そんなことを話しながら、マスターは切った麺を束ねて大きな鍋の中に投入する。
それから、大きな包丁で叩き潰したにんにくを弱火でじっくりと火を通し始めた。

「ふむ、蕎麦の茹で方もまた難しいのう。
しかし【あるでんて】を生麺で再現するのは難しくないかのう。
いや、そこに蕎麦とパスタの違いがあると見た」

きらりと目を輝かせるおりょうに、マスターはへらっと笑顔を返す。

「お客さん、そんな言葉よく知ってるねえ。
でも、アルデンテじゃないと美味しくないっていう思い込みを抱いてたら、新しい料理の創作なんてできないよー?」
「む、これは一本取られたな。まったく、主殿の言う通りじゃ」

おりょうは神妙な顔つきになると、あわてて話を戻した。

「続きじゃ。
幕の中には色々なものがあった。
それがしが持ってきたのは刀だったのじゃが、これがまたいわく因縁つきの面倒な刀だったのじゃ」
「おお、ありがちだねー。ナノクニはそういうの多いよね!」
「うむ、そこからはまたいつか話そうかの」
「来週はナノクニの刺客が来ないといいよねー」
「まったくじゃ」
「まあ、来週話せなくてもまた次回来てくれればいいんじゃない?多分やるし」
「次回?」
「ううん、こっちの話ー」

マスターはそんなことを言いながら、茹で上がったソバを手早く湯から上げ、弱火でローストしていたガーリックオイルへと投入する。

「おお、早業じゃの。
手際が良い。作り慣れているというのもあろうがな。
あー、水を一口飲むうちにできてしまったではないか」
「ふふふ。はいっ、どうぞー。ペペロンチーノ風ソバだよー」

こと。
マスターは手早く盛り付けたソバをおりょうの前に置いた。

「おお、では頂くとしよう」

ずず。
フォークですくった麺を音を立てて啜ってから、眉を寄せて首を振る。

「おお、いかんいかん。
蕎麦の癖が出てしもうた。
いや、しかしこれは……」

むう、と唸って。

「信じられんが蕎麦とオイルソースは相性が良いのう。
オイルソースに入れた蕎麦の茹で汁が良いつなぎになっておるのやも知れぬな。
蕎麦の喉越しもまた秀逸じゃ。
これは食が進みおる。具も悪くない。これはベーコンとチーズか。
食が止まらぬぞ──」

ぶつぶつと呟きながら、瞬く間に皿の上の面を平らげていくおりょう。
あっという間にすべてを食べてしまうと、満足げに息を吐いた。

「主殿、素晴らしい麺であった。
こうしてまた来れたことに感謝せねばなるまい」
「そこまで言ってくれるなら嬉しいなー」
「しかし主殿。
ペペロンチーノと蕎麦とは良い点に気付かれたのう。日頃の精進の賜物であるな」
「そうお?喜んでもらえたなら良かったよー」
「気に入ったぞ、主殿。
この街に入ったらまずはこの店に来るとしよう。
主殿の麺以外のものも食べてみたいでのう」
「わー、嬉しいなー。ぜひぜひ、また来てねー」
「うむ、必ず寄らせていただこう」

おりょうは満足げに言うと、会計を済ませて店を後にするのだった。

第3週・ストゥルーの刻

「ただいまかいりましたん」

からん。

ドアが開いて、再びミニウムが帰ってきた頃には、日はすっかり暮れていた。
マスターはカウンターを出てミニウムに駆け寄り、持っていた紙袋を受け取る。

「ありがとーミニたん、お疲れ様だったねぇ」
「こんどは、それで、せーかい?せーかい?」
「どれどれー」

紙袋の中身をごそごそ見て、満足げに頷くマスター。

「うん、これでオッケー!ありがとね、ミニたん」
「おやすいごようー」

ミニウムは上機嫌でカウンターまで歩いていくと、彼(女)にとっては若干高い椅子に腰掛けた。
マスターもカウンターに戻り、グラスを用意する。

「なんか飲む?」
「ロッコーのおいしいおみず!」
「ははっ、りょーかい」

グラスに水を注いでミニウムに出し、一息入れるマスター。
ミニウムも一口水を飲むと、ぷはー、と中年男性のようなため息をついた。

「そだそだ、カーくん」
「うん?」
「んっとね、かわったひと、みたよ」
「変わった人?」
「んうー、なみなみのぎんぱつでね、スカートにストールのおねーさん。にこにこしてるのん」
「…どこが変わってるの?」
「あのおねーさんね、ぼくまえにどっかで見た、よよ。
てんからおりてきた、てんにょさん」
「天女さん?」

首を傾げるマスター。
先日尋ねてきた、降下天使の女性だろうか。
いや、彼女は確かストレートの金髪だったし、ストールも持っていなかったし、ニコニコというよりはニヤニヤだったはずだ。

「天女さんがいたの?」
「ぼくがまえにみたのは、てんにょさん。
でもきょうみたのは、ちがうかんじ」
「そうなんだ」

再び首を傾げるマスター。
ミニウムが『変わった』と表現するからには、この世界ではめったに見ない存在であることは間違いない。
だが、ミニウムの言葉からそれが何者であるのか判断するのは不可能に近い。

「ま、いっか」

マスターは軽く言って片付けて、再びミニウムのほうを向いた。

「ミニたん、またしばらくいるの?」
「んう?ぼく、またきゃくひきすればいい?」
「ははっ、そうしてくれると嬉しいなー。ミニたんいると、僕も楽しいし」
「そお?そお?んじゃ、いちゃおっかなーふふふん」

ふふふ、と楽しそうに笑い合う二人。

それきり、客の来る気配もなく。
喫茶ハーフムーンの夜が、静かに更けていくのだった。

…To be continued…

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