辞めておしまいなさいな。
復讐なんて くだらないコト。

アナタが自由に使えるはずの時間。
自由に使えるはずのお金。
注がれるはずの愛情。
希望に満ちた未来。
みんなみんな、その憎い相手に捧げてしまうんでしょう?

ねえ。
アナタは、復讐しているの?

それとも…愛を歌っているの?



吟遊詩人 ミニウムの歌より

「なるほど……」
全員の報告を終え、冒険者たちは皆一様に難しい顔で唸った。
「ええと…クロさんの手帳にあった、ハンス、という名前なんですけど…」
セラがおずおずと、補足するように言う。
「お屋敷の方に、ハンス、という名前に心当たりはないか、とお聞きしたところ、先代…カエルスさんの主治医のお名前が、ハンス・ダールベルグ先生、とおっしゃるのだそうです」
「お医者様のお名前が、1ヶ月ごとに…ですか」
ベルは少し驚いた様子で言い、それからまた考えに沈んだ。
「クロの死亡事件に関係あるのか無いのかよくわからないけど、ガイアデルト家の内部事情は少しずつわかってきたね」
ストライクが言い、一堂は皆そちらを見た。
「それぞれをもっと掘り下げてみたら、どこかで事件と繋がるのかもしれない。そしたら、自殺か他殺か事故か、わかるかも。
事故は、うっかり転落死が起こるような状況ではなかった点からして、考えにくい。誰かの意思が働いている気がしてならないけど…まだ、絞り込むのは早いかな」
自分で言って、肩を竦める。
「幸い、事件が自警団の管理下に置かれたことで、連続殺人の起こるリスクは減った。俺たちは調査に集中できる」
「そうですね、そちらは安心していいと思います。
その分、僕らは調査を責任持ってしっかりとしなければならないわけですが…」
ミケはまだ少し混乱しているようだった。
「ひとまず…整理してみましょうか」
一堂を見回し、仲間たちもそれに応えるように彼を見返す。
「化粧台のメモ、髪飾りを持っていた…このことから、クロさんはチャカさんの部屋に入ったことがあるのではないか、と考えられます」
「そう…ですね。まあ、飛び降りるときに入ったといえばそれまでなんですけど」
ファリナが苦笑して同意すると、ミケはそちらを向いた。
「飛び降りた、ということは、ファリナさんはクロさんが自分の意思で飛び降りたと思っているんですね?」
「えっ。あ、はい…ボクは、クロさんは自殺だという考えから変わっていません」
ファリナが言うと、セラが遠慮がちに口を挟む。
「でも……昨日、私もクロさん自殺説をストライクさんに否定されましたけど…確かに、その通りだと思うんです」
胸の前で手を組んで、困ったように俯いて。
「仮にウルさんの目がチャカさんから商会に向いても、商船の運航表一枚、どうすればいいか分からない今のウルさんでは、会社が傾くことが目に見えています。自分が死んだら、商会がどうなるかわからないクロさんではないと思います。ストライクさんの言うとおりだったと思います。
クロさんが居なくなると、商会で働く人はみんな困ると思うんです。クロさんが本当にウルさんや商会の事を思っていたなら、自殺する理由が思いつきません……」
ファリナはセラの言葉に、こちらも困ったように眉を寄せた。
「確かに…動機の点を考えると、不自然なのは認めます。ボクはあくまで、状況として、自殺と考えるのが一番自然だ、と思うんです。
飛び降りに迷いはなかったようですし、前から考えていたことがあったのではないでしょうか?突発的とは考えにくいです」
「飛び降りに迷いがない、というのも、あくまで『俺の見たクロの記憶』に基づくものだぞ?」
念を押すように、千秋。
「言っておくが、俺の術も万能ではない。むしろ熟練度は低い方だ。クロの記憶を全て読み取ったと、言えるかもしれないし言えないかもしれん。実際、見えたものはかなり輪郭がぼけていたし…これは、クロが髪をかなりの頻度で染めていたことも関係しているのかもしれんな。髪が傷んでいることで、読み取りにくくなった。そう考えることも可能だ。
とにかく、迷い無く飛び降りたように『見えた』が、それが『全て』とは限らん、間に見ることの出来なかった何かがあったかもしれないし、無かったかもしれない、とだけ言っておこう」
「そうなんですか…」
ファリナは少し残念そうに肩を落とした。
「では、飛び降りた、のでなく、落ちた…と今はしておくとして。
クロさんが落ちるまでのクロさんの行動がチャカさんの行動とタイミングが良すぎるのは、もしかしたら二人はお仲間だったとか?」
「えぇ?」
この意見には、仲間たちも驚いたようだった。
「チャカと、クロが、か?」
「それは…どうなんでしょう」
眉を寄せるミケ。
「だって、クロさんはチャカさんを追い出すために、ファリナさんたちを雇ったんですよね?」
「ええ。クロさんがチャカさんを追い出そうとしていた理由は、僕たちが雇われた理由でもある、ウラノスさんとの縁を切らせるため…これは問題ないでしょうね」
「…でも、仲間なんですか?」
「…あれっ」
自分で言っていることの矛盾にきょとんとするファリナ。
「そ、そういえばそうですよね……あれ…で、でも、チャカさんが降りてきたタイミングでクロさんが4階に行って落ちるなんて、タイミングが良すぎませんか?」
「示し合わせたと考えることもできるけど……どちらかがどちらかに合わせて行動した、とも考えられるよ」
落ち着いた様子で、クルム。
「そうか…チャカさんがクロさんの、あるいはクロさんがチャカさんの様子を見ながら、それに合わせて行動した、という可能性も…」
ファリナはなるほど、と頷いた。
「そうなると…メモのことが気になってきますよね。チャカさんを追い出すためにボクたちを雇っていながら、ボクたちにはチャカさんの秘密なんて教えてくれなかった。口外出来ないほど重要な事だったのかもです」
「その、メモのことなんだがな」
そこで、千秋が言いにくそうに口を挟む。
「あれは、本当にチャカに向けたものなんだろうか?」
「というと?」
ベルが促すと、そちらの方を向いて。
「他の誰かに向けて書かれた物なのではないか、ということだ。
例えば……レア、とかな」
「ええっ……」
セラが目を丸くして声を上げる。
千秋は続けた。
「クロがチャカに向けて置いておくならば鏡台の裏よりももっと目立つ場所に置くだろうし、チャカであれば部屋に隠さずに処分する方法はいくらでもあると思う。
……何より、チャカの秘密を探るために俺達が雇われたんだ。
クロにはチャカが魔族だということは伝えたが、だからとしてあんなメモを残すだろうか?
故に、あれはチャカではなくレアに向けて書かれたのではないかと思っている」
千秋の言葉に、視線を厳しくするベル。
「千秋さんは、レアさんが犯人だと仰りたいのですか?」
「そうとは言っていない。だが、完全にそうでないと決めてしまうのもまた、危険なことだ。
俺は、クロの死に、何らかの形でレアが関わっているような気がする。
無論、レアが犯人といっているわけではないし、明確な証拠と言えるものも無い。
だが……もしも仮にクロの自殺だったとしても、その遠因に彼女が関わっているような気がしてならない」
「そうだね……ここまできて、彼女に何の関係もありませんでした、って言うのはさすがに、苦しい気がするな」
僅かに眉を寄せて、ストライクも続く。
「直接犯人ではないにしろ、まったく無関係の赤の他人です、ってのはないと思うよ」
「それは……わたくしもそう思いますけれど…レアさんとクロさんは兄妹である可能性も、皆無というわけではありませんし」
しぶしぶ、と言った様子で頷くベル。
そこで、ミケが嘆息した。
「確かに、あのメモがチャカさん宛てかどうか、というのは、不確定ではありますね」
「ミケさんまで…」
なじるような視線のベルを、ミケは静かに見つめ返した。
「誤解しないで下さい。でもだからといって、じゃあレアさん宛てである、と即座に決め付けるのもちょっと、飛躍しすぎだと思います」
「そうだね。チャカの部屋の鏡台の裏にあるのが不自然だという理由でチャカ宛じゃないとするなら、チャカの部屋に入ったこともないレア宛てのものだとする方が不自然だと思うよ、千秋。レアに宛てたものが、どうしてチャカの部屋にあるんだろう?」
クルムも頷いて続き、千秋は腕組みをして唸った。
「むう。それもそうだな……」
「とにかく、メモについてはチャカさんに聞いて反応を見てからでも判断するのは遅くないでしょう」
ミケは一旦そう結論付けて、次の話題に移った。
「整理を続けてみますね。
クロさんは、髪を『何らかの理由で』染めていて、『何かの』薬を飲んでいる。『何かがあって』ひと月前から今後の予定を書かなくなり、身辺整理でもしていたのか、ベッドメイクやゴミの片付けまでしていて、配達の日を待っていた。黒髪で褐色肌の女性に『何故か』追わせながら、『何故か』チャカさんの部屋から、身を投げた、と……」
あえてレアのことを「黒髪で褐色肌の女性」と含みを持たせた言い方をするミケ。
ファリナがうーんと唸った。
「髪染めに、コロンもあったということでしたよね……何を隠していたんでしょうか…
ひと月半前、というのも気になります。何かがあったのか、調べてみた方がいいでしょうね」
「チャカさんの髪飾りを…握っていた、んですよね」
セラがおずおずとそれに続く。視線がそちらに集中すると、緊張したように視線を彷徨わせた。
「えっと、そのぉ……。自殺する時に、強く握り締めるとしたら、それは好きな人の持ち物だと思います」
思い切って言った言葉に、仲間たちがきょとんとした顔をする。
「好きな人の…持ち物、ですか?」
セラが何を言いたいのかわからない、といった様子で、ファリナ。
セラは慌てて、言い繕うように言葉を続けた。
「えっあのっ、髪飾りは女性を象徴するアイテムだし、クロさんは2人が別れることを望んでいたし、それにチャカさんが美しいことはクロさんも認めてたから。
…変なこと言ってごめんなさい」
最後は申し訳なさそうに肩を縮めて、小さく言って。
「…まあ、どんな可能性も、捨てない方がいいよね」
フォローするようなストライクのセリフに、少し安心したように息をついた。
「あとは…ピルケースのお薬、なんですけど」
自分で作り出した妙な空気を払拭するように言って、セラはテーブルの上においていたピルケースを手に取った。
「クロさんの持ち物から出なかったので、常に持ち歩いていたわけではないようですね。これについても調べたいんですけど、薬に詳しい人…」
と言いながら、仲間たちの方を見回すが、仲間たちも心当たりがないといった様子で互いの顔を見合わせている。
「……ですよね…私も薬にはあまり詳しくありませんし…」
「……薬、と言えば」
ミケが苦い表情で口を挟んだ。
「……チャカさんは、以前の事件で、仮の姿で薬屋を営んでいましたよね…」
「えっ、チャカさんが薬にお詳しいんですか?!」
嬉しそうに歓声を上げるセラ。
が、仲間たちの冷たい視線に気づき、ごまかすように咳払いをした。
「え、ええと。そうですか、チャカさんが薬に詳しい。……ということは、このお薬の入手経路はチャカさんかもしれないですね」
「…そうか、それは考えてませんでしたね…」
ふむ、と唸るミケ。
「チャカさんに、薬について、訊いてみるのはいいかもしれません。そのときの状況によりけり、ですけど…どういう反応が返ってくるか、というのには興味がありますね。
もちろん、プロであるハンス先生に訊くのは大前提として」
「そうですね、ハンス先生に確認できるといいんですけど」
セラも真剣な表情で頷く。だいぶミケには慣れてきたようだった。
「…クロは、何故ハンス医師に会っていたんだろうな?」
クルムが考え込みながら言い、ミケも同じような表情で頷く。
「ええ。カエルスさんの事もあるかもしれないけれど…やはり、この薬に関係があるんじゃないか、と思います」
「クロさんがご病気である…ということですね」
ベルが用心深く言い、そちらにも頷きかけて。
「その可能性は否定できないと思いますよ」
「ご病気……几帳面そうな方でしたし、精神的な病でしょうか…」
セラが言うと、ミケは僅かに眉を顰めた。
「それは……ちょっと偏見じゃないかと思うんですけど。どちらにしろ、ハンス先生のところに行って確かめられるでしょう」
そう結論づけて、話を先に進めた。
「ぽろぽろ出ていることを挙げていくと……レアさんにお使いを依頼したヤマニー工芸は、半年ほどの間で、結構ガイアデルト商会と取引をするようになった。ヤマニーでは今までに何度かレアさんに仕事を頼んでいる、ということ。
それから、レアさんは母親から父親や兄の詳しいことを聞いたことはない。レアさん自身は白い肌で黒い髪、黒っぽい目の、どっちかというとクロさんに似ている容姿である、ということ。
ウルさんの母親は元メイドで、突然子どもができたから結婚する、ということでカエルスさんの妻になりましたが、『もうここにはいられない』と言って失踪。現在行方不明、ということ。
それから…チャカさんサイドでは50年前の会社設立倒産の記録を持って行った、ということ。
…このあたりは、もう少し調査が必要ですね。何か繋がりが出てきてくれると、いいんですが」
ふう、と嘆息して。
そうして、一呼吸置いて、続ける。
「あとは…カエルスさんは30年前に好きな人がいて、その人のために豪華な一室作るくらいに好きだった。……ので、そのためにお仕事頑張ったのかなぁ、と。でも、その女性が過去30年の間で訪ねてきたのは1度きり。容姿を聞くにチャカさんみたいな容姿だった」
そこまで言って、ふ、と息をついて。
「これは、勘なんですけど。ベルさんに対して、『寿命の違う種族を愛したらどうする』という問いを投げかけていたんですよね?」
「ええ」
「そういう質問が出るってことは、その女性が自分よりも長生きの種族だったと知っていたんじゃないかな」
「やはり…そう思いますか?」
複雑そうな表情で、ベルは言葉を返した。
「わたくしも…その、30年前の女性というのは、チャカさんなのではないかと思うのです。
そして…この事件は、そもそもがその30年前から始まっているような気がするのです」
「ええ、僕もです」
ミケが頷いたことで確信を得たのか、ベルは真剣な表情で頷いてから言葉を続けた。
「わたくしも、ファリナさんの仰る通り、クロさんは自殺であると思います。
そうして、恐らく彼はガイアデルト商会に潰された会社の関係者だと思います」
「関係者……ですか」
ファリナが呟くと、そちらを向いて頷いて。
「ええ。潰された会社の社長の息子、でしょうか?……兎に角、そういった立場にあったではないのかしら?」
「え…っと、どうして…そう思うんですか?」
セラが不思議そうに尋ねる。
「カエルスさんは『例え自分を殺しに来た相手であったとしてもかまわない』というようなことを仰っていました。
ウルさんの出自などについて『知らない』の一点張りですが、実はもろもろの事情を全てを承知した上で『それでも構わない』と思っているようにも、わたくしには思えたのです」
「なるほど……」
ストライクは興味深そうにベルの話を聞いている。
ベルは続けた。
「もし、そうだとしたら彼は復讐のために商会に入社したのでしょう。
けれども、カエルスさんやウルさんの複雑な事情などを垣間見るにつけて、自身の復讐という考えに疑問を抱くようになったのではないかしら?」
「…というと?」
ミケが続きを促すと、ベルは少し眉を寄せた。
「元々、責任感のある方ですから、いくら恨みがあるとはいえ、目の前の仕事に没頭してしまった可能性もあります。
そうしているうちに、孤独なウルさんに同情し、彼の事を本当の弟のように思ってしまった。本当に潰された会社の関係者だとしたら、ウルさんに自己投影した可能性もありますね」
そこで少し息をついて、続ける。
「その上、復讐すべきカエルス本人は商会にまったく興味がない様子で……むしろあの方はクロさんに対して好印象をもっていた様子にも思えましたから、クロさんにとっては至って善良で、ちょっと孤独に屈折した老人くらいにしか見えなかったかもしれません。
おや?とクロさんは思われた事でしょう。
そうして、クロさんも色々と調べたのでしょうね」
仲間たちは黙ってベルの話を聞いている。
ベルはさらに続けた。
「その結果、自分の人生をめちゃくちゃにしたのは昔のカエルスの恋人なのではないか、と思うようになったのではないでしょうか。カエルスが無茶な経営をした背景には、30年前の女性が関係あると想像するのは左程難しいことでもないでしょう。
わたくしたちが少し聞き込みをするだけで、これだけの情報があつめられたのですから、商会の事実上のトップであったクロさんに、できないはずがありませんよね?
そうしているうちに、ウルさんがチャカさんを連れてきたのです」
そこで、表情を少し厳しくして。
「チャカさんとの間に何があったのかはわかりませんが、そこで彼が考えたのが『30年前の美女=チャカ』という系図であったのだと思います。それで『お前の秘密を知っている』という文章を送りつけたのではないかと。それは、間接的に『お前は何者だ?』というような意味も内包されていたのではないでしょうか?
もしかしたら、チャカさんとクロさんの間にはクロさんがチャカさんのことを30年前の女性と同一人物と思わせるような、何らかのやり取りがあったのかもしれません。
もし、本当にそうならば…クロさんはチャカさんのことを相当恨んでいたはずです。
もしも、彼が自殺を考えていたとして、その結果が今回の事件であるとして。
それは、クロがチャカの髪飾りを手に持ったまま投身自殺した十分な理由になりうると思います。クロさんがご病気であったとして、また、それを苦に自殺を考えていたとしても、チャカさんに罪をなすりつけようとする十分な理由にはなりませんよね?」
「うーん……」
ミケは難しい顔をして唸った。
「ちょっと、思ったことなんですけど。
まず、ベルさんは、カエルスさんとお話しをされて、『今の』カエルスさんは、商会に全く興味がない、善良で孤独な偏屈老人だ、と判断されたんだと思います。
けれど、現役を引退するまでのカエルスさんが果たして同じだったかどうかは、わからないと思いますよ」
「そう……でしょうか?」
眉を寄せて、ベル。
それには、千秋が頷いた。
「そうだな。カエルスは『欲しいものが手に入らなかった』から『商会に興味がなくなった』んだ。逆に言えば、欲しいものを手に入れるための手段として商会を大きくし、なりふり構わない経営をしてきた。悪逆非道の会社として噂になり、年に何度も、会社を潰されて恨みを抱いた暴漢が屋敷にやってくる程度にはな。その行為は決して善良とは言い難いだろう」
ふ、と息をついて、続ける。
「そしてクロ自身も、何年かはそのカエルスの命令を受けて、表立っては言えないようなことをやってきているはずだ。依頼を受ける時に会社のことについて触れると、何か関係があるのか、と、敵意とも取れる言葉を返してきた。触れられたくない何かがあるのは間違いないだろう。
俺はカエルスが善良で孤独な偏屈老人には、どうしても思えないがな。今はそう見えないこともないかもしれないが、現役時代は別人だったと思う」
「そう…なのですか…」
悲しそうに目を伏せるベル。
「それに…クロが、30年前の美女をチャカだと思った、っていうのも…どう、なのかな」
さらに、難しい表情で考えながら、クルムが続いた。
「オレたちは、チャカが魔族だと知っている。だから、30年前の美女がチャカじゃないか、っていう発想がすぐに出てきた。
けど、普通は…30年も姿が変わらない女性がいるなんて、考えつかないよ。ベルはエルフだから、そういう感覚がよくわからないかもしれないけど…オレたちも、クロも、人間だ」
「そうですね…チャカさんが魔族だと知らなくて、その30年前の女性というのも姿を見たわけでなく、1度屋敷に来たきりだということしか聞いていないとすると……まあ、親子って好みが似るんだな、くらいにしか思わないかもしれません」
ミケも同意して頷き、それから眉を寄せた。
「ましてや、ずっと商会にいてカエルスさんを裏で操っていたというならともかく、1度来たきりの、詳細もよくわからない女性に対して、直接的に原因となったカエルスさんを差し置いて恨みを持つというのは…ちょっと、僕には想像できないですね。家族を殺した犯人を目の前にして、犯人の動機が彼の愛していた女性のためだったと知って、犯人を差し置いてその女性に対して恨みを持つようなものでしょう?
ちょっと…不自然だと思いますよ」
ミケの言葉に頷いて、クルムがさらに続く。
「それに…チャカは、クロとあまり話さなかった、って言ってたしな。事務的に少しやり取りをしただけだ、って」
さらにクルムが言うと、ベルは不本意そうにそれに反論した。
「それは…チャカさんが隠し事をしているのではないでしょうか?」
「そうかな…?話したなら話したって、チャカなら言うと思うんだけど…隠す理由も見当たらないし」
「そうでしょうか…」
「それに、30年前の女性がチャカだと疑っていたなら、チャカが魔族だと言ったときに、あそこまで驚かないと思うんだ。
どうりで30年も姿が変わらないはずだ、と納得が先に来るんじゃないかな。
あの時、クロはかなり動揺していたよ。動揺したクロを見たのは、あれ1度きりだったな…もっとも、そんなに長く接したわけではないんだけど」
最後は少し悲しげに眉を寄せて。
「そうなのですね…」
落胆した様子で俯くベルに、ミケがさらに言う。
「そして、これが一番、不自然だと思うのが、ですね」
「……はい」
ベルは表情を引き締めて彼を見た。
「クロさんがそこまで彼女に強い恨みを持っていたとしたら、なおさら、クロさんが自殺をする理由にはならないと思うんです」
「……セラさんの仰ったように、自殺を他殺に見せかけ、その罪を擦りつけることが目的なのでは?」
「なぜ?」
「なぜ…って……」
「なぜ、わざわざ自分の命を犠牲にしてまで、チャカさんに罪を擦り付けるという不確実な方法を取らなければならないんですか?
そこまで強く恨んでいるなら、同じ命を賭けるなら、僕は相打ち覚悟でチャカさんを殺すことを選びますよ。その方がずっと確実です。
クロさんがもし病気だとして、どうせなくなる命なら、と考えたのならなおさら、確実な方を取ると思うんです」
「それは……確かに…」
ベルは呟いて俯いた。
「あ、あのっ…じゃあ、やっぱり、チャカさんに罪を着せて、ウルさんに嫌わせるため…だったんじゃ?」
そこに、セラがおずおずと意見を挟む。
「それも…どうだろうな」
そちらには、千秋が答えた。
「ウルの目を覚ましてやり、チャカを追い出すことが目的なら…なにも、クロが死ななくてもいいんじゃないかと思う。
チャカが魔族だということ、奴が今までしてきた所業を物的証拠や証言と一緒に突きつけてやれば、一発解消とまでは行かなくてもかなり関係にヒビを入れることが可能なんじゃないのか。
まして、その為に俺たちを雇っておきながら、それを無視して自殺をしその罪をチャカに擦り付ける必要があるとは思えん」
「そ、そうですよね…」
セラはまたしゅんと肩を落とした。
「では…それについてはもう少し考えを巡らせてみることにいたします」
ベルが再び口を開き、表情を引き締める。
「それとは別に…これは証拠らしい証拠は全くありませんが。
先ほども申し上げた通り、レアさんとクロさんは兄妹である可能性も、皆無というわけではありません。
クロさんの親御さんの経営する会社が潰された時、ご両親は離婚されて、お母様はまだ生まれたばかりのレアさんを連れてシェリダンにやってきたのではないかしら?」
「レアさんのお兄さんというのは、やはりクロさんだということですね?」
ファリナが確認するように言い、そちらに向かって頷く。
「ええ。クロさんは、失踪…というか音信不通であった、母と妹を捜していた。
そうした所、ついにレアさんを見つけたのではないでしょうか?
そこで、ヤマニー工芸に注文をしてレアさんが此処に来るような理由を作った。
もし、仮にクロさんがご病気であれば、最後に生き別れの家族に会いたいと思うのは心理的に無理のないことだと思います」
「……でも…クロさんはレアさんに会うことも話すこともせずに亡くなっていますよね?」
不思議そうに問うファリナ。
ベルは難しい表情で頷いた。
「ええ。クロさんが自殺だとするなら、それがどうしてかは、わたくしにも理解できません。
あの明るいレアさんのような人と、チャカさんを見間違えるとはわたくしには思えませんから、きっとチャカさんとレアさんを勘違いしたというのは違うと思いますけれど……」
「……そうなるとますます、クロの自殺説からは遠くなるな」
「えっ……」
ストライクが言い、ベルはまたきょとんとした。
「レアとチャカを見間違えるとは思えない。だからチャカを誘い出して罪を着せようとして自殺したという説も通らなくなる。
生き別れの妹を呼び寄せておいて、会いもせずに自殺するのは不自然……だろ?クロの自殺を否定する要素ばかりだ」
「た、確かに……」
ベルは混乱した様子でまた俯いた。
「ただ、見間違えのことに関しては、見間違えるはずがないっていうのはベルの主観だよ」
そこに、クルムが口を挟む。
「近くで見れば、チャカとレアの雰囲気は全く違うからすぐ分かるけれど…屋敷のメイドも間違えるほど二人が似ているのなら、クロも二人を見間違えたんじゃないか?
レアもクロを見た時の事を『遠目だったけどイケメン』って言っていたから、クロの方も、遠目に見て、ちゃんと確認していなかったかもしれない」
「そ、そうでしょうか…」
まだ混乱した様子で、ベル。
クルムは続けた。
「それから、四階の部屋まで移動する時も、追いつかれないように距離を取っていたようだし。
彼は落ちてしまうまで、レアの事をチャカだと思っていたんじゃないかな」
「クロさんは、レアさんをチャカさんだと思って、彼女を誘い出すつもりで行動していた……ということですか?」
ミケが言うと、そちらに向かって頷いて。
「ああ、オレはそう思う。なぜそんなことをしたのかは…まだ、想像の域を出ないけど」
言い置いて、少し考えて。
「クロは、自分の置いたメモをチャカが読んだなら、自分と彼女が二人きりになった時、チャカは自分に、メモのことを聞いてくると思ったんじゃないかな。
レアが自分を追いかけてきたことで、自分を追いかけてくる褐色肌に黒髪の女性……つまりそれはチャカだと誤解して、彼女を4階まで誘い出した。
どんなつもりがあったかは…まだよくわからないけど。チャカを誘い出して、彼女に自分を殺した罪を着せようと自殺した、っていうのは……セラの言う通り、オレも違うと思うな。あんなにウルの世話を焼いていたクロが、自分が居なくなった後のウルの事を考えずに、己の命を掛けてチャカと別れさせようとはしないと思う」
そう言って、仲間の方を向いた。
「『秘密』の件でチャカと交渉するつもりで、バルコニーの縁で停止するのを、追って来る人を気にしすぎて、目測をあやまったのかもしれないし…
…うん、まだここに関しては何とも言えないな。判らないことが多すぎる…これからの調査で、謎が解けるといいんだけど」
そう締めくくると、仲間たちも一様に難しい顔をする。
「ああ…混乱してきましたね…事件の謎もそうですけど、親子関係もとっても複雑です…」
そこに、セラが混乱した様子でため息をついた。
「私たちが勝手に複雑にしているだけ、なんでしょうか…。昨日までは、ウルさんとクロさんが、レアさんとチャカさんが似ているなー。それだけだったのに、今は何もかもが怪しく思えます」
「えっ、ウルさんとクロさんって似てますか?」
ミケが速攻でつっこみ、セラはびくっと肩を震わせる。
「えっ、あの、クロさんがウルさんのお兄さんなんじゃないかって……あ、あれっ、そう思ってたのって私だけですか…?!」
「いえ、兄弟というか、クロさんはカエルスさんの息子かなとは思ってましたけど」
「はいはーい、俺も思ってたよ。まー、似てるとは思わなかったけど」
軽く挙手をして、ストライク。
「カエルスの反応からして、クロがカエルスの息子ってセンは捨てて良さそうだ。ベルの言う通り、クロとレアが兄妹っていうセンは、まだ取っといていいと思うけどね」
「あ、あの……それに……」
セラはおそるおそる自分の意見を述べた。
「ウルさんは本当にカウさんのお子なんでしょうか…?」
「えぇ?」
意外そうなベルの声に、そちらを向いて言い募る。
「…だ、だって、昨日ミケさんも言ったじゃないですか。『カエルスさんは、基本的になんだかウルさんに対して、親として無関心』って」
また恐る恐るミケの方を見て。
ミケは冷静な表情で頷いた。
「ええ。親なのにあの態度は、正直、ないと思いますよ。ネグレクトにもほどがあります」
「で、ですよね」
肯定されているのになぜか怯えた様子で、セラは続けた。
「執事様も同じよう言っていました。それに、奥方のネクスさんにだって無関心だったと。
ネクスさんが生んだのは、本当にカウさんのお子だったんでしょうか?
クロさんが息子か確かめたなら。ウルさんが本当の息子か確認したほうがいいと思います」
「それは……ないのではないかしら」
ベルは眉を顰め、穏やかに反論した。
「暴漢が怖いというくらいでは母親は息子を置き去りにして失踪したりはしません。むしろ、それが原因ならば『息子をこんなところに置いておけない』と思って子供連れで出ていくのではないかと思います…もしそうなったとして、カエルスさんは『息子を返せ』と言うようタイプの方ではありませんよね。
実行しようとすれば可能ではあったと思いますが、彼女は息子を置いてたった一人で失踪しています。息子を置いてゆくくらいですから、ウルさんがカエルスさんの実の息子であることは間違いありません。もし、違う相手の子供だったら何があっても置いて行きはしませんよ、普通。
ですから、ウルさんはカエルスさんの息子です」
やけに強い口調で言って、感情移入した様子で辛そうな表情を見せる。
「これも、根拠は全く無いのですが…ネクスさんが出て行ってしまった理由も、もしかしたら30年前の女性にあるのではないでしょうか」
「…っていうと?」
クルムが促すと、ベルはそちらの方を向いた。
「結婚した夫が冷たい、息子にも関心が無い様子だ…。普通の女性ならば、死ぬほど悩むに決まっています。もし、その原因を彼女が知ってしまったとしたらどうでしょう。
夫がかつての恋人にまだ未練がたらたらで今でもその人をずっと愛している…というかその相手がいつかまた自分の元へと返って来てくれるのを待っているようにも見えたかもしれませんね」
「…まあ、それは僕も少し思いましたよ」
頷いて同意するミケ。
「『もうここにはいられない』っていうのは、『もうこんなところには、いられない』という場所とかカエルスさんに愛想を尽かした言い方じゃなくて、感情的に『いたくない』って言っている気がするんですよね。
カエルスさん、もしかしてその30年前の女性に、『君以外は誰も何も愛さないよ』とか言っちゃって、律儀に他の物を切り捨てまくってきたのかなぁとか」
言ってはみたものの、理解は出来ないというように、やや投げやりな口調で。
ベルは辛そうに頷いて、胸に手を当てた。
「ネクスさんは、カエルスさんのことを本気で愛していたのではないかしら。
ですから、ネクスさんが出て行ったのは30年前の女性が原因だとわたくしは思います。
……やはり、チャカさんですか?」
「そこまでは…決める要素は、今は無いよな」
ネクスに感情移入した様子のベルに、冷静に言葉を返すクルム。
「ちょっと危険かもしれないけど、チャカとカエルスに直接訊いてみるしかない。判断するのはそれからでも遅くないと思うよ」
「……はい、そうですね」
ベルは慎重に頷いた。
ふ、と嘆息するクルム。
「それに…チャカが、勝負を申し出てきたっていうのも気になるな……どういう、つもりなんだろう」
「あの方たちに僕たちに計り知れるような考えがあるとも思えませんけどね」
また投げやりな様子で、ミケ。
クルムは眉を寄せて、ミケを見た。
「これは、オレの勘なんだけど……チャカは、この事件とは別の目的でこの屋敷に来て…巻き込まれただけなんじゃないか、と思うんだ」
「クルムもそう思うか」
そこに千秋も身を乗り出す。
クルムはそちらに向かって頷いた。
「クロが死んだのは、チャカにとって予想外のことで…それに興味を持って、オレたちが調査するなら勝負をしないか、と持ちかけてきたんだと思う」
「30年前の女がチャカだとするならば、だ」
クルムの言葉に、千秋が続けて。
「人間の主観で『遠い昔』に袖にした男の誠意と今の覚悟を…たわむれに見に来てみたらその息子に口説かれて。
予想外の事に興味を覚えてつきあっていたら今回の事件に巻き込まれたのではないかと…俺は思うんだが」
「まー、自分でやったことに対して、推理勝負しかけてくるとはどういうことかってなりますよね」
まだ投げやりな様子で、ミケも続く。
「リリィ……えっと、ユリさんがチャカさんのお使いで登記簿を取りに行ったのは、その『推理勝負』とやらの一環、とも考えられますけど。…50年分の登記簿って、キリがいいから50年なのか、それとも理由があるんでしょうかね。
…あの方たちはあの方たちで、この事件を解くつもりなのかもしれないですね。そうすることでどういう結果を引き寄せたいのかは、皆目見当がつきませんが」
「勝負ねえ…ここは、受けとくべきかな?事件を解決したい冒険者としては」
茶化したようにストライクが言うと、ミケは肩を竦めた。
「正直、僕はどうでもいいんですよね……今の感じだと。受けても受けなくても困らない」
「…まあ、確かにな」
千秋が頷くと、そちらを向いて。
「勝負というか…どちらが真相に先に辿り着くか、で、先を越されて困ることをあえて挙げるとするなら。
……こちらがわかっていないことをいいことに、真実に乗せてあること無いこと言われること、くらいでしょうかね…」
「…あること、ないこと?」
意味を量りかねてファリナが問うと、ミケは眉を寄せて視線を逸らした。
「まあ、例えば…『実はレアさんが犯人』とか、『実はクロさんはウルさんのことなんか大嫌いで、いつでも死ねばいいと思っていた、間接的な犯人はお前だ』みたいなことをウルさんに言う、とか…」
「え、えええ?!」
色々な意味で予想外のコメントに、驚きの声を上げるファリナ。
「チャカさん、って、そういうことを言う人なんですか…?」
「…だから、どんなことを言われても不思議じゃない、ということが言いたかったんですが」
ミケは複雑そうに眉を寄せた。
「まあ、オレはチャカがそういうことで嘘をつくとは思えない…けどな」
クルムが同じような表情でその後に続く。
「チャカが見せるのは、いつでも、オレたちが認めたくなくて目を逸らしてしまいがちな『真実』だ。
どんなに趣向を凝らして嘘をついても、一番人の心を傷つけ、絶望に陥れるのは、実は『本当のこと』なんだって…チャカは、いつでもオレたちにそう言ってきたんだと思う」
「本当の…こと」
セラは呟いて俯いた。
今朝方のチャカとのやり取りが思い出され、背中をざわりと不快感が通り抜けていく。
はあ、とミケがため息をついた。
「…わかって、いますけどね。ああ言うからには、僕らが何かをすることで、まぁ、チャカさんが期待する何か……『みんなが見ないようにしていた何か』が表に出る…それによって、今の彼らの関係とかが粉々になるのかもしれない予感は、ひしひしとします。
僕の目的であるレアさんの無実を晴らすこと、が。必ずしもみんなが…特にウルさん辺りが、納得できることには繋がらないのかもしれないし、それをすることで別の誰かが凄く困る事になるのかも知れない。
仮にクロさんが自殺だとすると、そもそもクロさんを殺した犯人というのが存在しないということになるので」
そこまで言って、またため息をつく。
「…本当に。何をするのが正しいことなのか、あの方たちを相手にすると、わからなくなります。
それでも、僕は、僕が正しいと思うことをするしか、手段は無いんですけど」
「謎を解くだけじゃ終わらない、ってことか。なんか、ややこしくなってきたな」
複雑な表情のストライク。他の冒険者たちも同じような表情で互いの顔を見合わせている。
「ま、わからないことをいつまでも想像で話していても埒が明きません」
ミケはもう一度だけ短く嘆息すると、光の戻った瞳で改めて仲間たちを見回した。
「本当は、クロさんが自殺だということも、30年前の女性がチャカさんであるということも、その女性から全てが始まったということも……もっと言えば、レアさんが犯人でないということも、クロさんがウルさんを大切に思っていたということも、何もかも僕たちの思い込みでしかないのかもしれない。
けれど、それをそれと判断するには……推理をするには、まだ情報が足りていません。
僕たちはまだ、何もかもを決めるべきではない。真実を見つけるためには、まだ判らないことを調べていかないと」
決意のこもったミケの瞳に、仲間たちも真剣な表情で頷く。

そうして、次の日の調査内容を決める相談は、その日も夜遅くまで続いたのだった。

「…おはようございます」

爽やかな朝。
綺麗に晴れ渡った空には全く似つかわしくない、重苦しい挨拶の声に、ユリは振り返ってにこりと微笑んだ。
「おはようございます、ミケさん。いいお天気ですねえ」
天気と同じく、晴れやかな清々しい笑顔を見せる彼女とは対照的に。ミケの顔は、この上ない不本意さを隠そうともしない、苦々しいもので。
「あの、…………お願いがあるんですけど」
嫌そう。
すごく嫌そう。
とても人にお願いをする態度ではないが、それはユリにとっては気にならないらしかった。相変わらずの笑顔で、可愛らしく小首をかしげる。
「あら、ミケさんが私にお願いだなんて、珍しいですねえ」
「…僕もまさかあなたに自分から頭を下げてお願いをする日が訪れるなんて思ってませんでしたよ……」
はあ、とため息。
ユリはくすくすと笑った。
「そうですねえ、私これからまたおでかけしなくちゃいけないんですよー」
彼女の言う通り、ミケが声をかけたこの場所は屋敷の正面玄関。まさにこれから出かけるところという様子のユリに声をかけたのだ。
ユリの言葉に、ミケは表情を引き締めた。
「じゃあついて行かせてください。……正直な話、チャカさんの方で何を調べているのかが気になります。なので、できたら教えて欲しいです」
「あら、あらあらー。本当に正直ですねえ」
「やかましい」
再び苦い表情になったミケに、ユリはまたにこりと微笑んだ。
「そうですねえ。もしかしたら、お話によっては私の手間が省けるかもしれませんし。
ミケさんのお願い、とりあえず聞いてみてもいいですよー?」
「……ありがとうございます」
やはりあまりありがたいと思ってはいない表情で、ミケはそれでもとりあえず礼を言った。
すると、ユリは眉を寄せて辺りを見回す。
「うーん、でもこんなところで立ち話もアレですよねえ」
あからさまな誘導の言葉に、ミケはまた苦い顔になる。しかし、それをぐっとこらえて、彼女が望んでいるであろう言葉を口にした。
「……お、お茶とケーキでよければ、どこかで奢らせてください……是非」
「あら。あらあら、いいんですかー?」
とたんに満面の笑みを浮かべるユリ。
ミケはそちらを恨めしそうに見やってから、足を踏み出した。
「…いいお店を知って……ああ、あなたは知ってるのかもしれませんが……とにかく、お連れしますから」
「うふふ、まさかミケさんがデートに誘ってくださるなんて思いませんでした」
「デートじゃありません」
「男女が2人で連れ立ってお茶しに行くことを世間一般ではデートって言うんですよ」
「世間一般がどう思おうと断じてデートではありません」
そんな漫才のようなやり取りを繰り広げながら、ミケとユリは玄関を後にするのだった。

そして、玄関から少し離れた階段の陰に隠れて。
「み、ミケさんがユリさんとデート…?!なんてチャレンジャーな…ミケさん、Sに見えたけど、M…なんでしょうか……」
まさしく覗き見をしていた家政婦よろしく、ひとりで盛り上がるセラがいたとか。

「こんにちわ。頼んでたガイアデルト商会がらみの調査結果、出来てる?」
一昨日、訪れた探偵事務所。
ストライクはドアを開けて開口一番、いつもの軽い口調でそう言った。
「………」
奥のデスクに座っていた探偵は、無言でのそりと彼に目をやり、それから立ち上がる。
「……大したことは、判らなかったぞ」
デスクの脇に用意してあったらしい報告書を取り上げ、ストライクの方に歩み寄って。
ストライクは苦笑すると、そこにあったソファに腰掛けた。
「構わないよ。聞かせてよ」
「その前に」
探偵は報告書をばさりと翻し、僅かに鋭い視線をストライクに投げた。
「…何か、俺に言うことは無いのか」
「言うこと?あ、調査してくれてありがとう、とか?」
「とぼけるな」
探偵の口調には、淡々とした中にも苛立ちが見て取れる。
「お前は、依頼者の名義で報酬を払うと言った。ガイアデルト商会理事補佐、クロノ・スーリヤだ。
が、その肝心の依頼者が、一昨日午後、転落死している。このことについて、何か釈明は無いのかと言っているんだ」
「あー、そうだよね、ごめん」
ストライクはまた軽い口調で言って苦笑した。
「釈明って…報酬の話だろ?」
「他に何がある」
「ですよねー。ただまあ、クロは自分の名前で費用を請求させるように言ったし、クロの名前で請求すれば支払われるんじゃないかなあと思うんだけど」
「確証は無いわけだな?」
「んー、万一支払われなかったら…その時は、俺が払うしかないかな。やっぱ。安くしといてね☆」
可愛らしい仕草でそんなことを言ってみるが、探偵の視線の温度は上がらない。淡々と、言った。
「確証の持てない話に結果はやれん。資金の出所をはっきりさせてくるなら考えたが、そうでもないようだしな。
費用が回収できないリスクを差し引いた報告だけさせてもらう」
探偵の言葉に、ストライクはしまったなあと苦笑した。せめて、クロの個人資産から支払われる確約をウルなり他の誰かなりにもらってくるべきだったと思う。もっとも、クロが死んでしまった時点で探偵に頼んだことはある程度意味を成さなくなってしまったのだから、ストライク自身このことをさほど重要と捕えてもいなかったわけだが。
「まあ、しょうがないね。教えられる範囲内で、お願いするよ」
「……まずは、カエルス・ガイアデルトだが」
探偵はなおも憮然とした様子で、報告書を読み始めた。
「一昨日の経済誌のスクラップからの分析と、大して変わらない。強引な経営で多くの競合会社を潰し、かなりの恨みをかっていたようだ。莫大な業績をあげ、個人資産はかなりの額にのぼったが、息子のようにそれを遊びなどに散財することは無かったらしい」
「金をひたすら貯めてた、ってこと?」
ストライクが訊くと、探偵は僅かに視線をやった。
「…会社の取引とは別に、特定のジャンルの業者と個人的に取引をしていたようだ。これは、噂の域を出ないが」
「…特定のジャンル?」
眉を顰めるストライク。
探偵は嘆息して、淡々と言った。
「…オカルト。出所不明の呪術、正体の知れない新興宗教まがいの団体、あるいは効能の確認されていない古代の薬、そういったものを扱う、一言で言えば胡散臭いものだ。ものがものだけに、噂に囁かれる程度だが」
「ふーん……」
ストライクは腑に落ちたような落ちないような表情で唸った。ことによると、カエルスはかなり本気で、永遠の命を欲していたのかもしれない。
ストライクをよそに、探偵は続けた。
「…息子のウラノスだが、こちらも評判通りの放蕩息子だ。貴族や成金御用達の学校にエレメンタリーから通っていたが、素行にかなり問題があり、その頃からかなり評判が悪かったらしい」
「…みたいだねー」
昨日の主婦たちの話を思い出しながら、ストライクは苦笑して相槌を打った。
「父親の引退後、後を継いで理事になったが、こちらもかなり名ばかり、サインをして印を打つだけのお飾りの理事だったというのがもっぱらの評判だ。商会の金を使って繁華街で遊び歩いているという噂も多く聞く。おそらくはその通りなのだろう」
ウルの事は調べたことや見たものの通りであるらしい。ストライクは頷きながら探偵の話を聞いた。
「ウラノスが最近囲いいれたという女だが……こちらのことは、残念だが全く足取りがつかめない。本名からそれまでどこにいたのか、何から何まで判らない状態だ」
「あー、それはあまり期待してなかったから大丈夫だよ。ごめんね、無理なこと頼んじゃって」
ストライクは苦笑して手を振った。
魔族のことなど、1日や2日調べたところで判るはずもない。ダメ元で訊いてみたが、やはりダメだった、というだけの話だろう。
探偵は僅かに眉を寄せたが、追求しないことにしたのか、そのまま続けた。
「最後に、亡くなったクロノ・スーリヤだが」
はらり。
報告書をめくって、言葉を止める。
それに気づいたストライクは、片眉を寄せて訊いた。
「なに、どうしたの」
「……こちらも、経済誌を纏めた通りだ。5年前にカエルスの片腕として理事補佐に就任、代替わりしてからはほぼ一人でガイアデルト商会の経済を支えていた。商会に入るまでの経歴は、不明」
「…それで、どうして止まるわけ?チャカと同じで、何もわかんなかった、っていうだけだろ?」
「商会に入ってからの経歴は容易に追えるのに、か?」
じろり、と、探偵は鋭い眼差しをストライクに向けた。
「クロノ・スーリヤという人物の足取りは、ガイアデルト商会に所属している間しか追えん。生まれた時からヴィーダにいるのなら、実家や通っていた学校、若い頃の噂は少なからずあるはずだ。かといって、外からヴィーダに来たのならその形跡があるはずだが、それも無い。商会に入る前、クロノ・スーリヤという人間は存在していなかった、そうとしか思えんということだ」
「……それって…」
ストライクは用心深く言った。
「…クロ……と、名乗ってた人物は、身分を偽って入社した、っていうこと?」
探偵は、やはり用心深く答えた。
「そう考えて、ほぼ間違いないだろうな」

「すみません、ちょっとお伺いしたいんですけど」
「なにー、またあんた?」
ファリナが声をかけたメイドは、振り返って苦笑した。昨日の、黒髪をお下げにした利発そうなメイドである。
ファリナは苦笑して彼女に歩み寄った。
「また聞き込みで申し訳ないんですけれど…協力してもらえますか?」
「いいよー。あんたもがんばるよねー」
言うメイドの表情はファリナに対する親しみが表れていた。頼りなげだが、一生懸命な様子のファリナに好感を持っているのがわかる。
ファリナはそれには気づいていないのか、手元のメモを見下ろして早速質問をした。
「ええと…この会社の仕事内容やお屋敷の様子で、1か月ほど前に何か変わったことはありませんか?」
「んー…仕事内容のことはあたしたちにはちょっとわかんないなあ」
メイドは眉を寄せて考えた。
「1ヶ月前でしょ?んー……ごめん、ちょっと思い当たんないわ」
「そうですか…わかりました、ありがとうございます」
ファリナはメモを取ると、次の質問に移る。
「クロさんは、いつも身辺整理みたいに部屋や執務室をきれいに片づけてたんですか?」
「身辺整理、って」
メイドは可笑しそうに笑った。
「でも、確かにねー。クロさん、ちょっと病的な潔癖症だったよ。あたしたちには、いつも自分の部屋の掃除は自分でするからいいって言ってたんだ」
「そうなんですか」
ファリナは少し驚いたように眉を上げた。
頷いて続けるメイド。
「うん。あんまり、他人に部屋に入られたり、物触られたりするの好きじゃなかったみたい。たまにいるでしょ?そういう人。
だから、長期の出張とか、よっぽど長く部屋を空けるときに、たまに入って空気の入れ替えをしたり埃取ったりしてたくらいだよ。
その時も、あたしたちがやる以上にすっごい整頓されてたなー」
「……ゴミ箱も、とかですか?」
「ゴミ箱?ああ、うんそう、ゴミ箱もいつも空だったよ。よく知ってるね」
「そうですか……」
彼女の言葉からすると、クロの部屋の一種異様な整いようは、何も今に限った話ではないらしい。
「でも…せっかくお掃除してくれるのに、自分でやっちゃうなんて…そんなに、気になるものですかねえ」
「さあねー、その辺はあたしにもよくわかんないけど」
ファリナの呟きにメイドは少し考えて、それからにまりと意地悪げな笑みを浮かべた。
「何か、見られたくないものがあったとか?」
「……見られたく、ないもの?」
きょとんとするファリナに、楽しそうに笑って。
「エロ本とか!ほら、ああいうおカタそうな人に限って、ムッツリスケベだったりするじゃん!」
「じゃん、って、ど、同意を求めないで下さい」
ファリナは困惑した表情で頬を染めた。
「……でも…そうですね……見られたくないもの、かぁ……」
そうして、そのまま考えに沈むのだった。

「床も壁もピカピカだし綺麗な病院。それに、ナースさんも美しいです」
ダールベルグ医院にやってきたセラは、医師に面会を頼んでから、待合室できょろきょろと辺りを見回していた。
カエルスの主治医だけあって、いかにもセレブという感じの立派な個人病院である。
聞けば、完全予約制で、1ヶ月先まで予約でいっぱいなのだとか。予約しようと連絡を取ったセラが受診できるはずもなく(まあ、そもそも診察してもらおうというところから少しおかしいのだが)、仕方なく事情を話して診察の合間に面会の時間を取ってもらったのである。
待合室は高そうな椅子や調度品が並び、セラは物珍しげにそれをしげしげと眺めていた。看護師たちがそれを見て可笑しそうに笑っているが、特に気にはならないらしい。
「この紙コップは何に使うんでしょうか?」
セラは棚の上に置かれていた紙コップを手に取った。
白い普通の紙コップだが、内側にはなにやら模様が書き込まれている。
「あ、もしかしてあそこにあるコーヒーメーカーで、自由に飲んでいいの、…かな?」
セラは少し離れたところにあるコーヒーメーカーに目をやり、首をかしげてそちらに歩み寄る。
さすがセレブ医院というのか、『ご自由にお飲みください』と書かれた札の傍らに、引き立てのよい豆の香りが漂うコーヒーメーカーがコポコポと音を立てている。
そしてそのコーヒーメーカーの隣にもちゃんと紙コップ――模様の描かれていない紙コップが積まれているのだが、セラはそれには気づかないらしく、コーヒーの入ったボトルを手に取ると手に持ったコップに注ごうとした。
「あ、あなた何やってるの?!」
通りがかった看護師が慌ててそれを止める。セラはきょとんとして彼女を見返した。
「え、あの、コーヒー…飲んじゃダメでしたか?」
「あなた、そのコップどこから持って来たの?」
コップを取り上げて、半ば叱りつけるように訊く看護師。
セラはコップを取り上げられて空いた手で、先ほどコップを取ってきた方を指差した。
「え、あそこから……あら?」
先ほどは気づかなかった、コップの下に下がっている手書きの紙に気づいて、読み上げる。
「えーと…検査用……この線まで、お………えぇぇええええ!!?」
狭い待合室に、セラの素っ頓狂な声が響いた。

「患者さんもおるのですから、待合室ではお静かに願います」
「はい……すみません……」
セラはしゅんとしてそう謝った。
しばしの待ち時間の後に面会を許されたハンス医師は、50がらみの男性だった。太っているというほどではないが、胴回りはこの年頃の男性らしく、少したるんでいるのが白衣の上からでも判る。銀縁眼鏡をかけ、白髪は少し薄い感じが否めず、お世辞にも見目麗しいとは言いがたい容貌だ。セラがしゅんとしているのは、半分以上そのせいかもしれない。
「それで、ガイアデルトのお屋敷からいらっしゃったということですが?」
ハンス医師の物言いは、丁寧だが明らかに迷惑そうな響きがこもっていた。
セラはおずおずと、ハンス医師に問うた。
「ええと…一昨日、お屋敷で起きた事はご存知ですか?」
「人が落ちて亡くなった、ということでしたな。新聞で読みましたよ」
「では…亡くなったのが、クロさん……クロノ・スーリヤさんだということも、ご存知ですか?」
クロの名前を出すと、ハンス医師は僅かに眉を寄せた。
「……クロぼっちゃ……いや、クロノさんのことでいらしたのですか」
その声には、さらに迷惑そうな響きが込められている。
「…亡くなったのがクロノさんだということは、存じていますよ。残念なことですな」
ため息混じりにそう言って。
セラはハンス医師に、訴えかけるように言った。
「あの、私、この事件のことを調べている冒険者なんです。私がお世話になった人が、クロさんを殺した疑いをかけられていて…私、どうしてもその人の濡れ衣を晴らしたいんです。協力…していただけませんか?」
セラの必死の訴えに、ハンス医師は困ったように眉を寄せた。
「…私の答えられることでしたら、お答えしましょう」
セラはぱっと表情を輝かせた。
「ありがとうございます……!じゃ、じゃあ、あの……」
そうして、道具袋から昨日のピルケースを取り出す。
「これは昨日、クロさんのお部屋と執務室で見つけたものです。
これが何の薬かわかりますか?」
「………」
ハンス医師は苦々しい表情でその薬を見やった。
そうして、搾り出すように、ゆっくりと告げる。
「……私が、処方した薬、ですよ」
「そうなんですか…」
やっぱり、という表情で、セラ。
「クロさんはご病気だったんでしょうか?この薬は、どういうものですか?」
「………痛み止めです」
「いたみ、どめ?」
セラはきょとんとして首を傾げた。
ハンス医師は痛ましげに目を閉じた。
「……麻薬ですよ」
「ま、麻薬?!」
いきなり飛び出た危険なワードに驚くセラ。
ハンス医師は目を開けてセラを見た。
「もちろん、合法なものです。体を襲う強い痛みを麻痺させるための薬…クロノさんには、もうこの薬しか、差し上げられるものは無かったんですよ」
「えっ……それって……」
眉を寄せてセラが言うと、ハンス医師は辛そうに目を逸らした。
「…内臓の病です。仕事を辞め、安静にして、手術をすれば助かったかもしれない……だが、あの方はそうしなかった。
おそらくは今回亡くならなくても、あと1年も持たなかったでしょう。
この薬無しでは、立っているのがやっとのはずです。もちろんこの薬も、強いものです。体調によっては手足に痺れが出たり、感覚器官が正常に働かないこともある」
「感覚…器官?」
「目や鼻や耳…何かを感じる役目をおっている場所ですよ。もちろん、いつもそうだというわけではありませんが」
「そう……なんですか……」
思ったよりクロの病状が深刻だったことに、眉を寄せるセラ。
「そうすると…病を苦にして自殺とか……。あったりしませんか?」
恐る恐る訊くと、ハンス医師は苦い顔をした。
「…先ほども言ったでしょう。仕事をやめ、安静にして、手術をすれば助かったかもしれない。だが、あの方はそうしなかった」
「……どうして…」
「それは、私にはわかりかねます。だが、そんな人が、病を苦に自殺すると思いますか?放っておいてもあの方は死ぬ。しかもそんな状況にしたのは、他ならぬあの方なんです。死にたくないなら、病を治したいなら、他に取るべき道はいくらでもあったし、それが可能だった。私は何度も、あの方にそう申し上げてきたんです」
「………」
医師の言葉は切実で、ただの患者という以上のものを感じる。セラが絶句してハンス医師を見つめていると、医師は喋りすぎたというように視線を逸らし、ため息をついた。
「…新聞には、ガイアデルト邸で転落死があり、亡くなったのがクロノさんであったということしか載っていませんでした。私は患者としてのクロノさんしか存じ上げません。事故か、自殺か、それとも誰かに殺されたのか、私にはわからない。
けれど、個人的な意見を申し上げるなら、病を苦にしての自殺ということだけはないと、私はそう思います」
「……あ、ありがとうございます……でも、あの……」
セラは訊いていいのかというようにおずおずとハンス医師に問いかけた。
「…私の勘違いだったらごめんなさい。でも、先生は…クロさんと、親しかった…んですか?」
先ほどの切実な様子と、それにここに来るまでにいだいていた疑問もある。
「先生は、ガイアデルド氏の主治医ですよね。でも、クロさんの手帳には先生の名前が何度も出てきました。いつ頃から、どういったお付き合いがあったんでしょうか?」
ハンス医師は重い表情で嘆息した。
「……彼の、お父上と付き合いがあったのですよ。彼のことは子供の頃からよく知っています」
「クロさんの…お父さん、ですか……?」
不思議そうに首を傾げるセラ。
ハンス医師は目を閉じてかぶりを振った。
「…患者さんのプライベートをお話しするつもりはありません。彼もそれを望まないでしょう。このことについては、これ以上何もお話しすることはありません」
「…そ、そう、ですか……」
セラはしゅんとしつつも、それ以上訊けない雰囲気を察して、別の質問に移った。
「…では、一ヵ月半前からクロさんに変化はありませんでしたか?その頃から手帳に空白が増え始めたのですが……」
「心当たりはありません」
妙にきっぱりと、ハンス医師は即答した。
きょとんとするセラ。
「えっ…あの、些細な事でもいいんです。クロさんは仕事の事はあまり話さないと思うので、悩みがあったとか、プライベートで、何でもいいので気になった事はありませんか?」
「先ほども申し上げた通り、患者さんのプライベートをお話しするつもりはありません。それ以前に、あの方は私にそういうことを話す方ではなかった。私に心当たりは、ありません」
「そ、そうですか……」
なんとなく気圧された様子で言ってから、セラは気を取り直して次の質問に移った。
「では…ええと、先代…カエルスさんの病気は、4年前からと聞きました。先生はその頃から主治医を? お付き合いは長いんですか?」
「お体を壊されて、当院にいらっしゃいました。そうですね、4年前です。
今は当院にお越しになれる体調ではないので、定期的にこちらの方から往診していますが」
「あの、先代の容態はそんなに悪いんでしょうか…?」
恐る恐る訊くと、医師は難しい表情で唸る。
「そうですね…出来るだけ動かさない方がいいでしょう。ただ、あの方の場合、病状よりも気力が影響している部分が大きい」
「気力……?」
「病は気から、と言うでしょう。あの方の場合、体の不調はもとより、体を動かしたい、生きたいという気持ちそのものが低下している、それが病状をより進ませていると思われます」
「じゃっ、じゃあ…!」
セラは表情を輝かせて、医師に詰め寄った。
「実は今、それはそれは美しいお姉さんがお屋敷にいらっしゃいまして、その美しさは愛の女神リーヴェルも裸足で逃げ出すほど!
ハンス先生も是非見に来て下さい、寿命が3年は延びますよ!!」
「はっ……はあ……?」
いきなり明後日の方向にすっ飛んだセラの発言に、あっけに取られた様子の医師。
ちなみにリーヴェルは幼女ですが。詳しくは@wikiをご参照ください。
セラはその勢いのまま、続けた。
「2人を会わせたいんです。可能でしょうか? 
先代の初恋の方かもしれないんです、上位種族の方なので外見も変わっていません。カエルスさんの病気もきっと吹っ飛びます」
「……」
ハンス医師の眉が僅かに動く。
セラはそれには気づかずに、そこで表情を曇らせた。
「でもその方、今は当代の恋人で……会わせたら、逆にショックになってしまうかもしれないですよね。
先生は2人を会わせることをどう思いますか?一緒に立ち会って下さい、とお願いしたら来て頂けますか?」
セラの質問に、ハンス医師は難しい顔をした。
「……先ほども申し上げた通り、カエルスさんの病状はあの方の気力によるものが大きいです。
あの方が行きたい、と仰るなら、そうするのが一番いいことでしょう。その場合は、私も出来るだけご協力しますよ」
「そうですか…!ありがとうございます!」
「…ただ」
嬉しそうに礼を言うセラに水をさすように、ハンス医師は冷静な声で付け加えた。
「…個人的な感想を申し上げるなら……例えば私が、初恋の人に会える、ということになったとして。
私とは別の男と、幸せな家庭を築いている姿を見るのは…少し、複雑な心境ですよ」
「そう……なんですか?」
不思議そうに首を傾げるセラ。
ハンス医師は苦笑した。
「男というものは、一度関係を結んだ女性は、いつまでも自分のことを想っていてくれると…そう、思いたい生き物なんですよ。実際にはそのようなことは無いと、頭の隅で理解していつつも…それを、認めたくない。
女性には、なかなか理解されにくいと思いますが」
「あ、あの…すみません、よくわからなくて……」
「お若い方にこのようなお話をして、申し訳ない」
医師は苦笑を深めて、遠くを見るような目をした。
「一度は愛を誓った女性が、今は自分のことなど何とも思わずに、別の男と人生を歩んでいる…それを目の当たりにするくらいなら、私なら…会わないことを選びますね。男というものは、思うより繊細な生き物なのですよ」
「…カエルスさんも…そうなんでしょうか……?」
不安そうにセラが問うと、ハンス医師はまた苦笑した。
「さあ。カエルスさんがどう仰るかは、私にはわかりません。どちらにしろ、私はカエルスさんの意思にお任せして、最大限の協力をいたしますよ」
「あ、ありがとうございます……」
まだ不安げなセラに、医師はふう、と息をついた。
「…さて。次の患者さんがそろそろ来る時間です。これくらいで…よろしいですか?」
「えっ。あ、は、はい!以上です、ありがとうございました!」
セラは丁寧に礼をして、ダールベルグ医院を後にするのだった。

「なんだよ、まだ訊くことあんのか?」
チャカの部屋……VIPルームを訪れた千秋とファリナに、ウルは面倒げな視線を向けた。
「ああ…なに、それほど時間はかからない。面倒だろうが、事件の真相を知るためだ。協力願いたい」
「真相って、だからあのレアとかいう女が犯人なんだろ?ったく、めんどくせえなぁ」
言って顔を背けつつも、ウルには二人を追い返す気は無いようだった。
ファリナは緊張の面持ちで、ウルの隣にいたチャカに目をやる。
「チャカさんも……ご協力、願えますか」
「アタシは構わないわよ」
チャカは嫣然と微笑んだ。
昨日は自警団がまだ調査をしていたこのVIPルームは、今日になってようやく入室の許可が出た。チャカは自分の部屋に戻り、ウルはチャカについて部屋に入ってきていたのだろう。
ファリナと千秋は目で合図をすると、早速二人に質問を始めた。
「ええと、まずは…クロさんが握っていたあの髪飾りは、いつどこで買ったものですか?」
「あの髪飾りか……」
ウルは嫌そうに視線を逸らした。
「よく覚えてねえけど……ウチと取引のある宝石商をウチに呼んで、オレが選んで買ったんだよ。2週間前くらいだった、かな」
「そのくらいで間違いないか」
千秋がチャカに確認すると、チャカは薄く微笑んだ。
「ウルはたくさん贈り物をくれるから……正直、アタシもどれをいつ買ってもらったのか、よく覚えてないわ。ごめんなさいね?」
「ちぇっ、チャカはつれねーなぁ」
ウルはそれすらも愛しいというように、苦笑してチャカに言った。
「オレが買ってやったヤツ、ぜんぜんつけやしねーし」
「っふふ、大丈夫よ……贈り物に込められたアナタの愛だけは、きちんと受け取っているから」
チャカの言葉に、満面の笑みを浮かべるウル。
「ははっ、なんだよ照れるじゃねーか。な?!こーゆートコが、他のカネ目当ての女とは一味違うわけよ!」
千秋とファリナにチャカの良さを力説するが、2人は微妙な表情で。
「はあ……」
「…では、最後に見たのは……」
「だから、よく覚えてないの。気がついたら無かった、っていう感じ。特につける気も無かったし、そんなものよね?」
「そう、か……」
チャカの答えに、千秋は僅かに残念そうに嘆息した。
ファリナはメモを見下ろして、次の質問に移る。
「クロさん、実は髪を黒から金に染めていたらしいんですよ。そのことは知っていましたか?」
「え、マジで?」
ウルは少し驚いたようだった。
「んな話、聞いたことねえよ。そうなんだな。あんま髪染めるとか、しなさそうなやつなのにな」
不思議そうに首を傾げるが、それ以上追及する気はないようで。
ファリナは質問を続けた。
「1か月ほど前に、何か変わったことはあったりしましたか?クロさんの様子が変わっていたりとか…」
「1ヶ月前?」
ウルはきょとんとしてから、首をかしげた。
「さー……いつもと同じだったと思うぜ?」
「1ヶ月前って、アタシがウルと会った時くらいじゃない?」
チャカが言い、ウルはそちらを向いて。
「お、もうそんなになるか?…んーでもやっぱ、特に何もなかったぜ?」
「そうですか……」
残念そうに嘆息するファリナ。
「…見てもらいたいものがあるのだが」
千秋はそう言うと、ごそごそと袂をあさり、中から紙切れを一枚出した。
「サツキの立ち会いでこの部屋を調べさせてもらったとき、クロが遺したと思われるメモを発見した」
ひらり、と二人の前にその紙を広げて見せると、ウルの表情が驚愕に変わる。
「お前の…秘密を知っている……クロ…?!なんだこりゃ?!」
腰掛けていたソファから立ち上がりかけて、ウルは千秋の持っていた紙をひったくるようにして奪った。
「あら…どこにあったの?それ」
チャカは特に驚いた風もなく、視線だけをメモから千秋に移す。
「…化粧台の裏だ」
「あらあら。どこへ行ったかと思ってたけど、そんなところに入り込んじゃってたのね」
おそらくは昨日のことをサツキから聞いているだろうに、チャカはわざとらしくそう言って笑った。
眉を寄せる千秋。
「……このメモを知っているのか?」
「ええ。一昨日…だから、事件のあった日ね。その昼間に、この部屋のドアに貼ってあったわ」
「なっ……」
千秋は驚いて絶句した。
「…何故、そんなところに…」
「さあ?それは貼った本人に聞いてもらわないと」
くす、と面白そうに笑うチャカに、さらに言い募る千秋。
「そうじゃない。そのメモが、どうして鏡台の裏にあるんだ?」
「ドアからはがして、読んで。多分鏡台の辺りに放り出しておいたんだと思うけど。風にでも飛ばされたんじゃない?」
「…何故、処分しなかった?」
多少呆然とした様子で、千秋が問う。
チャカは平然と答えた。
「処分?どうして?」
「なに?」
「アタシには、知られて困る『秘密』なんてひとつもないわ?」
にぃ、と。
紅く彩られた大きな唇を蠱惑的に歪めて、チャカは言った。
「だから、このメモが何を言っているのか、何を言いたいのかもわからない。当然、処分する必要も無いわ?」
「………」
千秋は用心深くチャカを睨みやった。
その傍らで、ウルは呆然とメモを見下ろしている。
「この字……クロの字だ。なんで、こんな……」
ひたすら混乱しているようで。
ファリナはそれを気の毒そうに見やりつつ、ウルに声をかけた。
「あの…ウラノスさん、追加でチャカさんとは別に質問したい事があるのですけれど、別の部屋でお話しできませんか?」
「あ?」
ウルは混乱の抜けきらない表情でファリナを見上げる。
「…チャカと一緒だとまずい質問なのかよ?」
「…っ、あの、そ、そうです!」
一瞬戸惑ってから勢いよくそう答えるファリナ。
チャカがくすくすと笑い声を上げた。
「ふふ、正直ね。いいじゃない、ウル。いってらっしゃい。アタシはここで待ってるから」
ウルは複雑そうにそちらを見やって、それから嘆息した。
「チャカがそう言うならいいけどよ…いいぜ、下のオレの部屋に行こう。
……これ、返しとくぜ」
ウルは先ほど千秋からひったくったメモを、千秋に返した。
無言で受け取る千秋。
ウルはそのまま踵を返し、ドアのほうへ向かった。
「なにグズグズしてんだよ。行くぞ」
「はっ、はい!」
慌ててそれに続くファリナ。
二人が出て行き、ドアがパタンと音を立てて閉まると、千秋は改めてチャカに目をやった。
面白そうにそれを見返すチャカ。
「…アナタは、まだアタシに用がありそうね?」
千秋はふうと息をつくと、静かにチャカに言った。
「直接こうして顔をあわせるのは、ムーンシャインの事件以来になるな。覚えてもらっているかは分からないが」
「あら、よく覚えてるわ?ムーンシャインの森で初めて会ったわね。最後のバトルは、ウチのサツキが可愛がってあげたらしいじゃない?」
「…色々と思うところはあるが。まずは聞きたいことを先に聞かせてもらう」
「どうぞ」
チャカはまた面白そうに笑ってみせた。
千秋は一呼吸置いて質問を始める。
「まずは、先ほど聞いたクロのメモと髪飾りについて、事実であるかを確認したい」
「アタシが、嘘を言ってた、と?」
「…ウルに気兼ねして言えなかったことがあったかも知れない。念のため、そこは押さえておきたい」
「っはは、さっきの答えがウルに気兼ねしていたように聞こえたの?」
「……まあ、そうだろうな」
髪飾りとメモ、どちらの質問もウルにとってはあまりよろしくない類の答えだろう。そこでそんな嘘をつくことに意味は無い。
「…では、髪飾りが無くなった後に、クロと1対1で会ったりしただろうか?」
「さっきも言ったけど、髪飾りがいつ無くなったのかわからないのよ。だから、その質問に答えることは出来ないわね」
「そうか……そうだな」
「もっとも、あのコと1対1で話す機会なんて、この屋敷に来てから一度も無かったけど?」
「……ならそう言え」
千秋は嘆息すると、質問を続けた。
「では、初対面の時はどうだった?」
「初対面?」
「ああ。この屋敷に初めて来た時か?クロは最初にお前を見て、どんな様子だった?」
「初対面、ねぇ……」
チャカは何かを思い出すように視線を彷徨わせた。
「…あまり、変わらない様子だったわよ。アタシの方を見て短く挨拶をして…それから、ウルがアタシをここに住まわせるって言ったらすごくヤな顔してたわ。そうしてから、アタシの方もうさんくさそうに見てた」
「そうか…」
クルムに頼まれた質問の答えを心の中に留め置き、千秋は一呼吸置いて、メインの質問をした。
「……少し話は逸れるが。カルエス、という男を知っているか?」
チャカの瞳が僅かに細められる。
「商会を一代で成長させ、この屋敷を建てたというが今は離れた住処に一人で暮らしている。
……30年前、褐色肌に黒髪の女性がこの屋敷に泊まったことがあるそうだ。心当たりは……いや」
千秋は一呼吸置いて、視線を鋭いものにした。
「もっと直接的に言おう。それはお前か?」
沈黙が落ちる。
チャカはしばらく千秋を見つめ、それからおもむろに部屋の中を見渡した。
「…この部屋。素敵な部屋でしょう?」
豪奢な装飾が施された部屋。
他の部屋のように、いかにも成金趣味な見せ掛けだけの豪華さではない。本当に良いものを厳選し、尽くせる限りの贅沢を尽くして作った、そんな印象がある。
チャカはもう一度、千秋に視線をやって。
それから、にこりと微笑んだ。
「…アタシの為に作ってくれた部屋なのよ」
千秋はそれをまっすぐ見返して、静かに問うた。
「…カエルスの30年前の恋人というのは、お前なんだな?」
にこり、と微笑むチャカ。
「30年…もうそんなになるのね。アタシがあの日、この部屋を訪れてから」
どこか懐かしそうにもう一度部屋を見渡して。
「カウはとても魅力的だったわ。エネルギッシュで、ギラギラしてた。なんとしてでもアタシを手に入れようと必死だったわ。
自分に正直なコは大好きよ。アタシの好みではなかったけど…アタシも、カウのことは嫌いじゃなかったわ」
千秋はしばらく黙っていたが、チャカにそれ以上喋る気がないのを見て取ると、おもむろに口を開いた。
「…このことは、ウルには?」
「訊かれてないから、話してないわ?」
「そうか……」
千秋は嘆息して、静かに言った。
「最後にひとつ聞きたい。事件とは直接関わりは無い質問だ」
「…何かしら?」
チャカが促すと、千秋は僅かに黙って、それからまた口を開く。
「寿命が異なる種族の男女が、一緒になることはできると思うか?」
部屋に沈黙が落ちた。
チャカはやはり面白そうに千秋を見つめ、しばらくの沈黙の後にゆっくりと首を傾げる。
「……アナタは、どう思うの?」
「…俺か?」
「ええ。まずアナタの意見を聞きたいわ」
「俺は……その答えはイエスであると思う」
「へえ?」
面白そうに視線を向けるチャカを静かに見つめ返し、千秋は続けた。
「お前ような魔族は極端だろうが、そのほかの種族にも人間より寿命が長い者が多くある。
俺達が年老いても彼女達はまったく変わらず、いつかそのまま見取らせてしまうのではないかという不安もある。
彼女を一人遺し、悲しませてしまうのではないかと」
何かをこらえるように目を閉じて、そしてまた目を開いて。
「だが、俺はこう思う。
それは人間同士だって変わらないんじゃないか。
死病で余命数ヶ月であったとしても、そんな彼や彼女に恋をする者がいないと言い切ることはできない。
では、そんな彼らは自らの余命を理由に愛をはぐくむことは出来ないのだろうか?
俺はそんなのは違うと思う。
……別に、病気でなくたっていい。事故や事件に巻き込まれて、一方が命を落とすことだってある。
それは、人間であっても寿命の長い上位種族であっても変わりはないはずだ」
「…ええ」
ゆっくり頷くチャカ。
千秋は続けた。
「つまりは、好きだった人に先立たれてしまうのはいつかは必ず訪れることだということだ。
生きている以上、人間同士でも、異種族間であったとしても。
寿命が違う異種族のカップルの場合、ただちょっとどっちかが先に死ぬ可能性のほうが高いだけだ。
極論すれば歳の離れた夫婦とさほど違いは無い。老い先短い方が遺されてしまう時も、ある」
「そうね」
相槌を打つチャカをちらりと見て、千秋はまた何かを思い返すように目を閉じた。
「俺自身、先立たれた経験がある。そしていつかは、俺が先に旅立つ日が来るかも知れない。
相手の方が寿命が長い種族であったとしても、一緒に過ごした年月はお互い同じように輝くものだと、俺は信じている」
そう語った千秋を、チャカは目を細めて見つめた。
「ずいぶん情熱的ね……誰のことを想って言ってるのかしら?」
千秋はその問いに、目を開いて眉を寄せる。
「…野暮なことは訊くな、まったく」
「きゃはは、確かに?ごめんなさいね?」
楽しそうに笑うチャカ。
「それで?俺に答えを聞いたんだ、お前も聞かせてくれるんだろうな?」
「そうねぇ…」
チャカはゆったりとしたソファに肘をついた。
「……アタシは、残念ながら違う種族のヒトを愛したことは無いけれどね?
違う種族のヒトを愛してしまったヒトなら知ってるわ」
「…ほう?」
「……アタシの、にいさまよ」
チャカの瞳が、いつもとは違う輝きを帯びたような気がした。
「……お前の、兄?」
「ええ。にいさまは、魔族でありながら人間の女性に恋をしたわ。アタシたちにとっては一瞬ともいえる時間しか生きることのない種族…それでも、一族の制裁を受けることになっても、にいさまはその女と愛を貫く道を選んだの」
「それで……どうなったのだ?」
千秋が促すと、チャカはにぃ、と微笑んだ。
「にいさまは、その女を逃がすために……一族の追っ手の攻撃を全て自分が受けて、死んだわ。その女より先に死ぬことになったの」
「っ………」
絶句する千秋に、にこりと微笑むチャカ。
「アナタの言う通りね。寿命がどうであろうと、ヒトなんていつ死んでしまうかわからない。明日死んでしまうかもしれない、それが怖くて恋なんかできないというのは滑稽なことね」
くすくす、と笑って。
「結局は、愛を育むことができるかどうかじゃなくて、愛を育む気があるのかどうか。そうじゃない?
ヒトって、やってできないことなんか何もないと思うわ?やる気がないなら、それはもう無理だけどね」
「……成る程な」
「…ただ」
頷いた千秋に、チャカはさらに言った。
「…その結果がどうなろうと、それは自分の選んだ道の行く先にあったもの。それは、理解して甘んじて享受しなければね?」
「…どういう意味だ?」
漠然とした言葉に、眉を顰めて問う千秋。
チャカはもう一度、にこりと笑った。
「自分よりずっと寿命の長いモノを愛した…そして愛を育んだ。もちろん、相手だっていつ死ぬかなんて判らないわ?けど、普通に暮らしていたら確実に自分が先に死ぬ。
相手より先に老いさらばえ、弱って衰えた醜い姿を晒して、若いままの相手の前で最後に醜い姿を相手の目に焼き付けたまま死んでいかなくちゃならない…自分が死んだ後の世界は、自分にはどうすることも出来ない。
自分が死んだ後の世界で、相手が誰を愛そうと…自分には、もうどうすることもできないのよ」
「………」
千秋は黙ってチャカの話を聞いている。
「自分が死んだ後、相手が自分のことなんてすっかり忘れて、新しい相手と楽しそうに笑う……自分が愛した瞳も、唇も、身体も、相手の全てが別の誰かのものになる。それが……アナタに想像できる?」
千秋の視線が鋭くなった。
くすくす、と楽しそうに笑うチャカ。
「もちろん、それでどう思うかも人それぞれだわ?新しい相手と幸せになって欲しい、なんていう綺麗ごとを言う人もいるかもしれない。
けど…アタシは、違うわね」
「……というと?」
厳しい視線のまま千秋が言うと、チャカはそれまでの面白そうな微笑をぐっと深め、ぞっとするような凄絶な笑みを浮かべた。
「…そんなことになるくらいなら。
アタシの手で、相手を殺してあげるわ。永遠に、アタシのものにしてあげる」
「っ……」
絶句する千秋。
豪奢なVIPルームに、沈黙が落ちた。

「すみません、わざわざ移動してもらっちゃって」
「別に。チャカの前で聞きづらい話なんだろ。ンな話、オレもチャカに聞かせたくねーし」
ファリナがすまなそうに肩を縮めると、ウルはつまらなそうにそう言って嘆息した。
「で?オレに聞きたい話って、何よ?」
「ええと、ですね……」
ファリナはパラパラとメモをめくって、質問を確認した。
「クロさんから、チャカさんのことで何か言われていたことはありましたか?クロさんはウラノスさんのお友達関係などを心配していたようですが…」
「チャカのことか…」
ウルは少し渋い顔をした。
「あんま、良くは言ってなかったな、正直。財産目当てだとか、早く手を切れとか、オレのダチに言ったのと同じようなこと言ってたよ」
「そうなんですか…初対面の時は、どうでしたか?」
「初対面?」
「あっ…は、はい。初めてこのお屋敷にチャカさんが来たとき、になりますか?
そのときのクロさんの様子を聞かせて下さい」
「どーだったかな……」
ウルは片眉を寄せて記憶をたどった。
「…他の女をウチに連れてきたときと同じだった気がするぜ。そっけねー感じ。一応挨拶はしたけどよ。
んで、今日からウチに住むから、っつったらえれー驚いて、チャカのことすげー睨んでたけど」
「そうですか……」
ファリナはメモを取りながら、質問を続ける。
「それは、いつのことだったか覚えてますか?」
「いつ?」
「ええ、チャカさんがこのお屋敷に来たのが、正確にいつのことだったのか」
「えー、んなの覚えてねーよ」
ウルは不満そうに眉を寄せた。
「1ヵ月前くらいだったけど、正確な日付とか覚えてるわけねーじゃん。んなの、あんま気にしねーし」
「そ、そうですか……」
ファリナは肩を竦めて、ウルの答えをメモした。
クルムに頼まれた質問もしたし、いよいよ、と一呼吸置いて。
「ウラノスさん。あなたはチャカさんが、あなたとあなたの周りの人達にとって好ましからざる経歴を持っていたとしたら、その過去を訊きたいとか、知りたいとか思いますか?」
「は?」
唐突な質問に、眉を寄せるウル。
ファリナは申し訳なさそうに続けた。
「ごめんなさい、今は捜査段階で、これ以上詳しい事は言えないんですけれど…」
「…要するに、チャカにうしろ暗い過去があったら聞きたいか、ってことか?」
「そ、そういうことになります」
思ったよりウルの様子が落ち着いていて、ファリナはかえって慌てた様子で頷いた。
ウルは、けっ、と白けた様子で肩を竦めた。
「バカバカしい。んなもん、チャカが喋りたかったら喋るだろ」
「えっ……」
ファリナはきょとんとした。
ウルは不機嫌という様子でなく、しかし眉を顰めてファリナを見た。
「何もやましいことがない人間なんかいねーだろ。オレだって、誉められねーよーなことばっかやってきたしよ。そんなん、根掘り葉掘り訊かれたら、オマエだってヤだろ?」
「えっ、は、はい……」
「チャカもオレの昔のことなんて聞かねー。今のオレだけを見てくれてんだよ。だから、オレもチャカの昔のことは興味ねー。話したいなら話すだろ、話さねーってことは話したくねーってことだ。なら、いいだろ、訊かなくても」
「ウラノスさん…」
ファリナは少し感動した様子で呟いた。
ウルは再び眉を寄せ、続ける。
「オレはむしろ、ンなわざわざ掘り起こされたくねー過去を得意んなって暴いて、聞きたくもねーのに聞け聞けとかエラそーにしてるヤツの方がガマンなんねーよ。何様だってんだ」
「そう…ですか……」
ファリナは少ししゅんとして、メモに目を落とした。
昨夜の話し合いでウルに聞くことになっていたのはそれで終わりだ。が、ファリナにはもうひとつ、聞きたいことがあった。
「あと、もう一ついいですか?」
「いいから早く聞けよ」
「はっ、はい」
ウルにせかされ、ファリナは慌てて言葉を紡ごうとし…
こんこん。かちゃ。
「失礼する」
「千秋さん」
出鼻をくじくように千秋が入ってきて、きょとんとそちらの方を見た。
千秋は部屋に入りドアを閉めると、ファリナとウルを交互に見る。
「話の途中、すまない。俺もいいか」
「あっ、は、はい、ボクは構いません」
「何でもいいけど早く終わらせろよな」
不機嫌というよりは通過儀礼のように一応ウルが言い置き、千秋はああと頷いてファリナの横に行った。
「ファリナが何か聞こうとしてたんじゃないのか。俺はその後でいい」
「あっ、はい、ありがとうございます」
ファリナは礼を言って、改めてウルに向き直った。
「ウラノスさん…あなたの愛する人……例えばチャカさんが長寿の種族だったとして、あなたはそれに見合うだけの寿命が欲しいと思いますか?」
「は?」
再び眉を寄せるウル。
ファリナは慌てて言った。
「あ、これはさっきの経歴が知りたいかーの質問とは全く関係ないです。ウラノスさんなら、この問いかけにどういう答えを出すのか気になって。
個人的な質問ですし、機嫌を損なわせてしまったのならごめんなさい、答えなくてもいいですから」
「別に機嫌を損ねるとかじゃねーけどよ…なんだ、それ」
ウルは眉を寄せながら首をひねった。
「チャカが長生きする種族だったら、ってことか?」
「はい。例えば…ベルさんみたいなエルフのように、1000年生きる種族だったら、どうですか?」
「どう、つってもなー。そりゃあ、長く一緒にいれんのに越したこたねえけどよ」
いまいち実感のわかない、という様子で、ウルは言った。
「じゃあ寿命延ばしたいかっつーと……わっかんねーな。その時になってみねーと」
「そう……ですか?」
不思議そうに、ファリナ。
ファリナの質問の意図がわからない、というよりは、純粋に「寿命が違う」ということの実感がわかない様子で。
かといって、仮にチャカが長寿の種族だったら将来どうなるのか、というシミュレートをするかといえば、そういうことにも考えが及ばないようだった。
要するに、何も考えていない、ということだが。
ファリナが戸惑っていると、隣で千秋が嘆息した。
「…似たような質問になると思うが」
千秋が喋り始めたので、そちらを見るウル。
「寿命の異なる種族の男女が、一緒になることは可能だと思うか?」
「は?」
先ほどと同じ反応。不機嫌というよりはやはり、何に対してもそういう反応を返すようで。
千秋はさらに続けた。
「例えばウル、お前が病か何かで余命幾ばくもなかったとしよう。あるいは健康だったが、チャカの方がエルフのような長命の種族だったとする。
お互いの残された時間が圧倒的に違って、チャカの方が後に遺されるのが確実だったなら、お前はチャカに恋をしただろうか?」
「ったりめーだろ、何言ってんだよ」
ウルは眉を顰めて言った。
「さっきから、何なんだオマエら。長寿だとか、寿命が違うとか。
オマエら、んなウツワの違いで人を好きになったり好きになんの辞めたりすんのかよ?ちっちぇーな」
ウルの言葉に、静かな驚きを見せる千秋。
ウルは続けた。
「オマエ、ソイツが人間だから、エルフだから好きになんのか?違うだろ?ソイツがソイツだから好きになるんだろ?
ソイツが好きで、好きだから一緒にいて、一緒にいて楽しくて、それで全部じゃねーか。
先のことなんて、今から考えてどーすんだよ?オレらだって、明日誰かに刺されて死ぬかもしんねーんだぞ?
この屋敷に5年住んでみろ、そりゃあスリリングだぜ?」
「ウルさん……」
年中暴漢が殴りこんでくる屋敷に幼い頃から暮らしてきたウルの言葉に、ファリナは悲しげな視線を向けた。
当のウルはそれすら笑い飛ばすようにへっと鼻で笑って、続ける。
「先のことなんざ、先になってから考えりゃいいんだよ。
何が起こるかわかんねーこと心配して、今楽しめること楽しまねーなんてアホだろ?」
「そうか……」
千秋はふむ、と唸って、ウルに言った。
「……少ししか話は出来なかったが、クロもお前がどれくらいチャカに本気だったのかを気にしていたと思う。俺が聞きたいのは、つまるところそういうところだったんだが……」
「オレの本気を、他のヤツに証明してやる必要なんかねーよ」
ウルは反発するように言った。
「オレが本気だろうと遊びだろうと、他のヤツに口出しされるいわれはねー。
クロの言うことは、ダチに関しては正しかったかもしんねー。だけど、チャカだけは譲る気はねーよ。
これは、クロにも言ったことだけどな」
「そう、ですか……」
ファリナは神妙な表情でウルの言葉を聞いている。
けばけばしく飾り立てられたウルの部屋に、再び沈黙が戻った。

からんからん。
「いらっしゃいニャせー」
ドアを開けてすぐに、可愛らしい少女の声がしたことに、ミケは少なからずぎょっとした。
ここは、サザミストリートにある喫茶「ハーフムーン」。クルムの言葉が正しいなら、チャカの兄が経営する喫茶店である。
そうとは知らずにこの店に通っていたわけだが、ここは確か主人であるマスターが一人で経営していた喫茶店だ。一度、吟遊詩人がいたこともあったが…それも少女ではなかったはず。驚いて店内を見ると。
「あら。ミケじゃニャいの。営業スマイルして損したニャ」
「え……あ、キャット…さん?」
疑問形で少女の名前を呼ぶミケ。
キャットと呼ばれた少女は、チャカが言っていた「にいさまに預けた」彼女の飼い猫…猫獣人である。いつもはチャカと同じリュウアン風の装束を身に纏っている彼女は、しかし今、絵に描いたようなメイド服を着ていた。確か耳も、普通の人間の耳が猫のように変化したものだったはずだが、頭の上側にカチューシャでつけたように並ぶ、いわゆる典型的なネコミミになっている。ついでに言えば語尾も「ニャ」ではなかったはずだが…
ミケの混乱の様子を察したのか、キャットはつまらなそうに肩を竦めた。
「マスターが、コッチの方が萌えるからって、このカッコと喋り方してるんだニャ」
「あ、そ、そうなんですか……」
ちょっと引き気味でミケが言うと、奥のノレンからひょこりとマスターが顔を出す。
「猫ちゃん、お客さん?……あれ」
顔を出したマスターは、20代半ばほどの青年である。喫茶店のマスターに似つかわしくないざっくりとした長い黒髪に、メガネで遮られた切れ長のオレンジ色の瞳。のほほんとした表情をしているものの、その容貌は文句なしの美丈夫で……チャカと同じエスタルティの血を引いているからなのだと、改めてミケは納得した。
「あ、マスター!」
「あれ、お客さん……えっと、ミケくんだっけ?」
「ちょっと、マスター!聞いちゃったんですけど!」
噂話を始めるおばさんのようなことを言って、ミケは険しい顔でマスターに詰め寄った。
「おおっと、なになにー?」
「マスター、チャカさんのお兄さんなんですって!?凄い吃驚なんですけど!」
マスターはきょとんとして、それからへらっと笑った。
「あー、クルムくんから聞いたんだ。ふーん、結構仲いいんだね、ふたり」
「じゃあ、本当なんですね?!……なんか色々横流ししていたら、泣きますよ!?」
「横流し?」
マスターがきょんと首を傾げると。
「へぇ、ミケさん横流しされたらまずいようなこと色々お話してたんですか?」
ミケの後ろから、楽しそうな声でユリがそう声をかけてきた。
そちらの方へ笑顔を投げるマスター。
「あー、百合ちゃんじゃん。久しぶりー」
「お久しぶりです、カーリィさま。キャットがお世話かけてます」
「いやいや、よく手伝ってくれてるよ?お客さんいないけど」
「カー………リィ?」
2人のやり取りに、きょとんとするミケ。
ユリはそちらを見て、それからまたマスターの方を見た。
「あら。もうチャカさまのお兄様だっていうことはバレてるんですから、言っていいんですよね?」
「あー、まぁいいんじゃない?」
マスターは苦笑して言い、ミケのほうを向いた。
「僕の名前ね。カールヴェクトロ・デル・エスタルティ。カーリィって呼んでもらってるんだ」
「……男性なら、カールじゃないんですか?」
「だって、それだと萌えないじゃん」
きっぱり断言するマスターに、ミケは何か色々なものをこらえて眉を寄せた。
「……僕は今まで通り、マスターと呼ばせてもらっても?」
「あは、そうしてくれると嬉しいなー。喫茶店のマスターやってたら、マスターって呼んでもらったほうが萌えるし♪」
よくわからない世界だが、そのあたりのことはあまり考えないようにして、ミケはため息をついた。
「というわけで、お茶と……胃薬を……」
よく考えたら、ユリという爆弾を抱えて、何故わざわざチャカの兄のところに来てしまったのか。この店は確かにいい店だが、なんとなく前門の虎、後門の狼といった風情だ。きりきり痛む胃を押さえて、ミケは苦しげにそう言った。
と、ユリが横から割って入る。
「ミケさん、お茶で胃薬飲んじゃダメですよ」
「……え、そうなんですか?」
「ええ、お薬は極力、お水かお白湯で飲んだ方がいいですよ?胃薬ならなおさらです」
「…胃痛の原因に言われるのは非常に釈然としませんが…」
「ねえねえミケくん、胃薬ってコーラで飲むと逆流するんだって!試してみない?!」
そこにさらに、楽しそうな顔をして割り込むマスター。
ミケは眉を寄せたままそちらの方を向いた。
「なに危険な人体実験させてんですか。嫌ですよ」
「フリ○クもあるけど」
「それは冗談抜きで死にますからやめてください」
ああ、やっぱりこの人も魔族なんだなあ、と改めて思うミケ。
「じゃあもう、胃薬はいいですから…お茶と……彼女にも何か……ええと、何が良いですか……?」
ユリの方を向くと、ユリはにこりと微笑んだ。
「あっ、じゃあ、ミルクセーキと…ケーキ、何があります?」
「今日はねー、桃のタルトとミルクレープ、あと抹茶のシフォンならすぐ出せるよ」
「わぁ、じゃあ抹茶のシフォンでお願いします。カーリィさまのケーキ、美味しいんですよねぇ」
ユリはマスターにそう言い置いて、さっさとカウンターに腰掛けた。キャットがそこに水とお絞りを持ってくる。
ミケは嘆息して、彼女の隣に座った。
「んふふ、ミケくん今日は百合ちゃんとデートなの?なんだ、モテモテだねぇ」
カウンターの中で飲み物を作りながら上機嫌でマスターが言うと、ミケは即座に否定した。
「デートじゃありません」
「待ってくださいカーリィさま、聞き捨てなりません。ミケさんモテモテなんですか?」
真面目な表情で割って入るユリ。マスターは笑顔のままそちらを向いた。
「うん、モテモテだよー。こないだもねえ」
「ちょっとマスター、横流ししたら泣きますよって言ってるそばから余計なこと言わないで下さいよ」
「まあっ、ミケさんたら私というものがありながら別の女と!」
「あなたも何言ってんですか。あなたがいたからといって何かを制限されるいわれは何もありません」
「ミケさんひどい!あの時私に囁いた言葉はみんな嘘だったんですか?!」
「僕があなたに何を言ったっていうんですかー!!」
「あはははー、2人はラブラブなんだねえ」
「ちょっと待ってくださいマスター、激しく納得いかないんですけど!」
「ええ、そうなんですラブラブなんですよー。もう、ミケさんったらいつまで経ってもツンデレでー」
「そうなんだー、でも辛抱だよ百合ちゃん、そのうちデレ期がやってくるから!」
「うーん、ツンじゃなくなったミケさんはミケさんじゃない気がするんですけど、デレ期も捨てがたいですよねー」
「…もう……誰でもいいからこのグダグダな流れをどうにかしてください……」

「……で?」
マスターと一緒にひとしきりミケをからかい、飲み物もケーキも堪能して一息ついてから。
ユリは改めて、ミケに微笑みかけた。
「私にお願いって、何ですか?」
「ああ……危うく本来の目的を忘れるところでした…」
ミケは力なく笑って言い、そのまま視線をユリの隣の椅子に移動させる。
「………それ」
そこには、紙束の入った紙袋。
「…昨日、新聞社から借りてきた、資料、ですよね」
ストライクから聞いていた、ユリが新聞社から借りていったという資料。社員の話によれば、過去50年間の会社の登記簿の写しなのだという。
ユリは笑顔のまま頷いた。
「ええ、はい。そうですよ」
「それを、貸して欲しいんですけれども。……返却は勿論行かせてもらいます。あとは、さんじゅ……昔、チャカさんがまいた種について、とか教えてくれませんか?」
「あらあら、ダイレクトに来ましたねえ」
ユリは可笑しそうにくすくすと笑った。
「じゃあ、先に。昔チャカ様がまいた種に関しては、私は何度も申し上げた通り、何も知りません。申し訳ないですけど」
「…そうですか…」
「で、こっちの資料ですけど」
がさ、と、ユリは隣の椅子に紙袋を自分の膝の上に置いた。
「お貸ししてもいいですけど、私、まだこれ使うんですよねえ。それからでも構いません?」
「使う?……何に、ですか?」
眉を顰めるミケ。
ユリはにこりと微笑んだ。
「ていうか」
「…はい?」
「ミケさんばっかりこっちの手を知りたがるって、不公平じゃありません?こっちが何調べてるのか知りたかったら、ミケさんたちの捜査結果も教えてくださいよ」
「…っ」
ユリが思いもよらぬことを言ったので、ミケは驚いて軽く絶句した。
肩を竦めるユリ。
「…まあ、教えたくないなら、別に良いですけど?」
「…そうですね、あなたの言うことももっともです。ここまで僕たちが調べたことを、お話しますね」
ミケは特に抵抗はない様子でそう言って、息をついて。
それから、昨日の調査と、一昨日の経緯についてをかいつまんでユリに話した。
「……と、いうことなんですけど」
「なるほど……」
ユリは視線を泳がせて、何かを考えているようだった。
ミケは嘆息して、彼女に言った。
「で?僕の方ばかり喋るのは不公平ですよ、あなたの方も聞かせてください。あの資料で、何を調べたんですか?」
「ああ、はい、すみません」
ユリは意識をこちらに戻して、にこりと微笑んだ。
「でも、多分ミケさんたちがやろうとしていることと同じですよ。
この中で、今回の事件の関係者がいないかどうか、探していたんです。
ガイアデルトは、かなり悪質な手段で業績を広げていたようですし、動機を探るならまず、そこからですよねえ」
「……そうですね」
用心深く頷くミケ。
ユリは変わらぬ笑顔のまま、あっさりと言った。
「でも、なかったんですよねー」
「………え?」
きょとんとするミケ。
ユリはもう一度にこりと微笑む。
「ですから、この資料の中に、なかったんです。関係者と同じ、あるいは関わっていることを連想させる会社の名前。
クロさんの『スーリヤ』。捕まったレアさんの『スミルナ』。それから、ウルさまのお母様の旧姓『リュビア』。あとは、レアさんに荷運びを頼んだ『ヤマニー』でしたっけ?あはは、ヤマニー工芸はシェリダンの会社ですもの、ヴィーダの登記簿にはないですよねえ」
「そ、そうですね……」
「とにかく、そのいずれの名前も、ありませんでした。空振りですかねえ」
「そう……なんですね…」
「…ただ」
考えに沈みかけたミケに、ユリが静かに付け加える。
そちらを見ると、口元には確かに微笑みを浮かべていたが、その瞳には真剣な光が宿っていて。
めったに見ない彼女の表情に、ミケは表情を引き締めた。
「ガイアデルトに潰されたことが動機に関わっているとして…もし、復讐を考えてガイアデルトに潜入するのなら。
こんな、資料を見てすぐに判っちゃうような名前のまま潜り込むわけがないんですよ。ましてや、カエルスさんは自分が闘って叩き潰した会社の名前をよく覚えているでしょうし」
「っ……そう…ですよね」
ミケは虚を突かれ、言葉を詰まらせた。
「…でも、カエルスさんは『自分を殺しに来た相手だとしても、仕事が出来るならかまわない』と……」
「カエルスさんがそう言ってることなんて、会社の内部に入らなきゃ知りえませんよ」
再びにこりと微笑むユリ。
「復讐を考えて潜り込むのなら、そうと悟られないようにしなければならない。復讐を考えている相手だと悟られ、追い出されるようなことがあったら計画は台無しです。潰された会社の関係者だったならば、その会社の名前も、その会社を連想させるようなものも全て捨て、別人になって潜り込みますね、私なら」
「クロさん…あるいは、レアさんや……ネクスさんが、身分を偽っている、ということですか?」
「さあ、それは調べてみないことには何とも」
ミケの問いに、ユリはまたにこりと微笑んだ。
「ですから、この資料、まだ使うんです。その後でよければ、お貸ししますよ?」
「……いえ、残念ながら」
ミケは半眼で嘆息した。
「僕らが調べようとしたことを、あなたはすでに調べて、そしてその調査が無駄になったことまで教えてくださいました。
今借り受けても…おそらくは、何も判らないでしょう。あなたの言うことが本当なら、ですが」
「ああ、私が嘘をついてる可能性もありますねえ、確かに」
また一転して楽しそうに笑うユリ。
ミケは半眼のまま、彼女をじろりと見た。
「…それで?その空振りに終わった資料を使って、何を調べるつもりなんですか?教えていただきたいんですけれども」
「ふふ、そうですねえ。教えてあげてもいいですけどー」
ユリはやはり楽しそうに、指を一本立てた。
「交換条件です」
「交換条件?」
眉を顰めるミケ。
「ええ、簡単なことですよ。私を、自警団に連れて行ってください」
「……はいー?」
ミケの眉がさらに寄った。
「本当はこれを持って、図書館に行って調べてくるつもりだったんですけど。それ、かなりめんどくさいんですよね。自警団に行って調べられるなら、そっちの方がお手軽なんで。過去の記録と組織力ばかりは、私ではどうにもなりませんからねー。ミケさんが来てくれて、よかったです。自警団と繋ぎの取れない人だと、交渉になりませんからねえ」
「……で、それを教えてくれるって事は、付いていって、何を調べるのかまで教えてもらっても良いんですよね?」
「ええ、もちろん。その為の交換条件ですから」
「……手伝わせていただくので、調べて出た結果も教えてくれませんか?」
「ええ、一緒に調べたらいいと思いますよー」
「…そうですか」
ミケは思うよりあっさり交渉が進んだことに拍子抜けした様子で、それでも彼女の機嫌が変わらないうちに、と頷いた。
「分かりました。自警団のフレッドさんに紹介して、事件について調べたいことがあるんで、と言えば良いんですね?」
「はい、よろしくお願いしますね。
あっ、でもこのケーキ、食べ終えてからにしてください。もったいないですから」
ユリはそう言って、まるで年頃の少女のように(見かけは全くその通りなのだが)残ったケーキに向き直る。
その様子を見ながら、ミケは嘆息して残りの紅茶に口をつけた。
「……聞いても、いいですか」
「はい、なんでしょう?」
ケーキを食べながら上機嫌のユリに、ミケは表情を引き締めて訊いた。
「クルムさんからは、『チャカさんの目的は知らない。道具にはそんなものは知らせなくて良い、知る必要はない』と仰っていたと聞いています」
「ええ、そんなふうに言いましたね。その通りだと思いますよ」
「……でも、あなたは、……腹立たしいくらい聡明な方です」
不本意そうに、それでも、認めぬわけにはいかない、というように、ミケは言った。
「調べていることから、資料から。推測は、しているのではないですか?教えていただけるのなら、教えてほしいのですが」
ユリはきょとんとしてミケを見…それから、咀嚼していた口の中のケーキを飲み下して、にこりと微笑んだ。
「そうですねえ」
すい、と、何かを考えるように視線を動かして。
「ミケさんのお話を聞きながら、いくつか。考えたことはありますよ」
「……聞かせてもらっても?」
「そうですねー…」
人差し指をあごに当て、首を傾げて。
「…例えば、クロさんの手帳ですけど」
「はい」
「ハンス、って、お医者さまの名前なんですよね?」
「そうらしいですね」
「ピルケースを2つも持ってて、どうやら何かのお薬を飲んでいたようだった。っていうことは、クロさんは月に一度、そのお医者様に診てもらっていた、と考えていいと思います」
「そうだと思います」
「でも、ミケさん」
にこり、とユリは改めて微笑んだ。
「ミケさん、スケジュールノートはつけられます?」
「あまり…そういう習慣はないですね」
「冒険者さんだと、そうですよねえ。ま、私もつけませんけど。
でも、例えばスケジュールノートをつけるとして。病院に行く予定を書くときに……」
そこで、意味ありげに間を置いて、首を傾げて。
「お医者様のファーストネームって、書きますか?」
「えっ……」
きょとんとするミケ。
「例えば、医者、とか、病院、とか……書くとしても、ファミリーネームの方じゃないです?ていうか、通っているお医者様のファーストネーム、ご存知です?」
「そう…言われてみると」
たいていの個人病院はファミリーネームの方を屋号に掲げている。くだんのハンス医師も、『ダールベルグ医院』としていたはずだ。
カエルスの主治医だったのならフルネームは知っているだろうが、ただの主治医というだけなら大抵はファミリーネームの方を呼ぶだろう。
ユリはにこりと微笑んだ。
「スケジュールノートにファーストネームを書く、っていうことは、ファーストネームで呼ぶような間柄だった、と、私なら考えます」
「………」
「同年代なら、お友達か…まあただ、カエルスさんの主治医もやるとなると、クロさんと同年代の若いお医者様っていうのは無理がある気がしますねえ。お金持ちって、同じだけの権威を自分の周りにも求めますから。
でもそうするとますます、自分より偉いはずのお医者様を、ファーストネームで呼ぶのが不自然になってきますよね」
「……そう、ですね」
「…そうなると、考えられるのは。私が、同じ理由でお医者様をファーストネームでお呼びしていたからなんですけど」
「……はい」
「……自分の主治医でもあった場合です」
「……え?」
ユリの言葉の意味が判らず問い返すと、ユリはまたにこりと笑った。
「私は、子供の頃から王宮付きの典医に診ていただいていました。身分は、私のほうが上でしたから、おじいちゃんの偉いお医者様でしたけど、私はファーストネームで呼び捨てにしていました」
彼女は過去、一国の女王だった。自分とは遠い世界の話に、返す言葉もなく黙って聞いているミケ。
「ですから、クロさんもそうだったという可能性はあると思いますよ?
セレブ御用達のお医者様を、ファーストネームで呼び捨てに出来るほど……彼もかつて、そんなお医者様をお抱えにし、ファーストネームで呼び捨てに出来るような身分…あるいは、それだけの財産がある家にいた。
…つまりは、まあ」
と、膝の上の資料に目をやって。
「この中にある、かなり派手にガイアデルトにやられた家の子供だった。そういう可能性は、あると思います」
「……なるほど」
ミケは苦い顔をして、ため息をついた。
ハンス医師がクロと懇意にしているとあらかじめわかっていれば、彼がガイアデルトに来る以前のことも、訊きようによっては聞けたかもしれなかった。…彼の、本当の経歴も。
「あとは、そうですねえ」
「…はい」
さらに続くユリの話に、再び表情を引き締めるミケ。
「クロさんは、妹であるレアさんを探して、見つけて、ここに呼び寄せるためにヤマニー工芸に何度も商品を発注していた、っていうのが、ミケさんたちの見解ですよね?」
「……ええ、そうなります」
「なんで、そんな面倒なことわざわざするんでしょうね?」
「えっ……」
ミケは再びきょとんとしてユリを見返した。
先ほどと同じ仕草で、首を傾げるユリ。
「だって、生き別れの兄妹なんでしょ?兄ですって名乗り出て、会いに行くなり、暇がないならお金を送って呼び寄せるなり、すればいいじゃないですか。ましてあのレアさんて方、気さくで優しそうな方でしたし、今頃何のつもりだとか言って突っぱねるような人じゃありませんよね?」
「……確かに」
ミケは呆然と呟いて、それから眉を寄せて考え込んだ。
そんなミケに、笑顔で問いかけるユリ。
「まあ、そうしなかったっていうことは……そうしてはまずい理由が、何かあったということですよね?」
ミケは苦い表情で、彼女に視線をやった。
「……あなたには、判っているんですか。その、理由が」
「やだ、そんなわけないじゃないですか。私はクロさんじゃありませんもの」
可笑しそうにくすくすと笑うユリ。
「ねえ、ミケさん」
「…何ですか」
ユリは改まった様子で、ミケの前で首をかしげた。
「もし、ミケさんが、自分の会社を潰されちゃって、明日から食べるものも困るような状況になっちゃった、として。
………いや、これじゃ今の状況とあまり変わりませんよね」
「うるさいです」
「うーん。じゃあ、ミケさんが、自分の家族も、お金も、何もかもを奪われたとしたら。その奪った人に、復讐したいと思います?復讐するとしたら、どうやって復讐します?」
唐突のような、そうでもないような質問に、俯いて考えるミケ。
「……そうですね、復讐したいと、思うでしょうね。どうやって……と言われると、ちょっと困るかな。
例えば。強盗とかが入って、家も家族もお金も、ってなったら、その人探して、どんな手段であろうとも殺そうと思いますね」
うん、と頷いてから。
「例えば。家族というより恋人を取られて家とかも騙されて取られて……っていうのなら、なんかもういっそ、復讐するより、僕は首をつった方が良いんじゃないかと思うんじゃないかな」
「あら、意外に消極的ですね」
「僕は、あなたほど強くありませんから」
ユリの方を半眼で見て、続ける。
「で、例えば……商売上のことで、圧力かけられて家がなくなって、家族が首をつって、お金もない状態で1人取り残されたとしたら。
そんな才能があったとしたら、同じように会社を立ち上げて、頑張って相手を吸収合併できるところまで頑張ろう、と思うかな。……殺したり同じ目に遭わせたり、というよりは……僕は同じ分野で勝負して、勝って。押しつけられた不幸ごとひっくり返して、幸せ掴んで見返してやりたいかな、と思うんですけれど。どんな形であれ、少なくとも面と向かって文句は言ってやりたいなぁ」
「なるほど、なるほど。ミケさんらしいですねえ」
ユリは楽しそうに、ミケの話に頷いて見せた。
ミケがユリ……リリィに対し、彼女が魔族によって魔力強化を施されていると知りつつも、彼女と同じ魔法で、知力で、彼女に打ち勝ちたいと強く願っていることは、彼女も良く知っていた。
同じ分野で勝負し、勝つことが復讐だと言うミケの言葉は、なるほど彼の内面を良く表しているのだろう。
「私なら…そうですねえ」
ユリは少し考えてから、またミケに微笑みかけた。
「ふふ、私の執念深さはミケさんもよくご存知ですものね。
殺してあげるなんて、そんな優しいことしませんよ。ずっと私の手の中で、苦しみ続けるさまを見守ってあげます」
ユリの言葉に、ミケは呆れ半分でため息をついた。
「……強者の意見ですね……」
彼女がかつて、自身が治めていた国に裏切られ、国1つを百年近くにわたって呪い続けていたことを思い出す。
「僕は弱いんで、そんな生かさず殺さずなことはできないんです。いっそ死んだら楽だと思えるような仕打ちは、力がある人にしかできませんしねー」
「あら、力のあるなしなんて、関係ありませんよ。力がなければ、手に入れればいいんですから」
「それが、強者の論理だと言うんです」
「ああ、ミケさんの言う『力』っていうのは、物理的なものじゃないんですね」
ユリはさらりと言って、微笑んだ。
「精神的なものなんですね。何が何でも、何かを手に入れよう、打ち滅ぼそうと願う強い『想い』。それが、ミケさんにはないんですね」
「…っ……」
ミケは虚を突かれて言葉を失い、憮然として嘆息する。
「……そうですね。僕に、そこまで自分に情熱があるのかどうかも怪しい」
例えば、百年も。そんなに長い間、ひとつのものを思い続け、注げるだけの気持ちが、自分にあるだろうか。
複雑な思いで、ミケはユリを見やった。
かつて、彼女はミケに向かって、愛と憎しみは同じところから出ているものだと、だからミケさんは私を愛しているんですと言った。
だとするならば、それは逆もまた然りで。
深く、深く。あの国と、その民とを愛していたから、同じだけの深さで…許すという光もささぬほど、深く、深く、あの国を憎み続けるのだろうか、と思う。愛情が、執念に変わるのだろうか、と。
(…ま、言ったら絶対笑われるし、言ってやりませんけど、そんなこと)
半眼でユリを睨むミケに気づいているのかいないのか。
ユリは楽しそうに、飲み終えたミルクセーキのグラスに残った氷を、ストローでつついた。
「でも、今の私とミケさんの意見だけでも、こんなに違うんですものね?」
「はい?」
「復讐、の定義です」
にこ、と笑って。
「私は手の中で弄ぶことが復讐だと思うし、ミケさんは同じ分野で成功して見返してやることが復讐だと思う。
じゃあ、クロさんにとっての『復讐』って、一体なんだったんでしょうね?」
「クロさんにとっての『復讐』……」
「まあ、もっとも、これもクロさんが、ガイアデルトに潰された会社の関係者だったと仮定して、の話ですけど」
用心深く言い置いて、続ける。
「でも、例えばクロさんにとっての復讐が、カエルスさんを殺すことだとしたら。もうとっくに、やってると思うんですよね。
理事補佐になって5年。いくらでもそのチャンスはあったんです。でもやらなかった。一番、カエルスさんの近くにいたのに、です」
「……ええ」
「じゃあ、クロさんにとって、『どうなること』が復讐だったんでしょうか?
この事件のポイントは、そこにあるような気がしますよ?」
ユリはまたにこりとミケに向かって微笑みかけ。
ミケは真剣な眼差しで、考えに沈んだ。
「……クロさんの……復讐………」

「昨日は調査にご協力くださり、ありがとうございました」
ベルは再び、カエルスの家にやってきていた。
昨日同様に執事に取次ぎを求め、昨日同様、憮然としてベッドに横たわるカエルスの前で丁寧に礼をする。
「他の調査員の面々とも話し合った結果、もう少々お聞きしたいことが出てきました。宜しいでしょうか?」
「……好きにしろ」
「……では」
ベルは一礼して、真剣なまなざしをカエルスに向けた。
「ウルさんのお母様…もとい、カエルスさんの奥方様のことですが。奥方様はお屋敷のメイドをしていらしたのですね?」
「…執事が話した通りだが?」
相変わらず、無愛想に答えるカエルス。
ベルは続けて言った。
「奥方様とご結婚なさった経緯など、宜しければ教えて下さい」
「執事が話した通りだ」
カエルスは面倒げに言った。
「ネクスが妊娠した。責任を取れと言われ、責任を取った。それだけだ」
「…っ、わたくしが申し上げているのはそういうことではなくて…」
ベルは焦れた様子でカエルスに言い募った。
「ネクスさんが妊娠されたということは……そう、なるようなことをネクスさんとされたということでしょう?
その経緯をお聞かせ願いたいと申し上げているのです」
言いにくそうに言葉を濁して。
「手を出した経緯を教えろと言っているのか。ならそう言え」
カエルスは皮肉げに笑った。
「…したたかに酔って、記憶を無くした。次の朝目覚めたら、ネクスが横にいた」
「なっ……」
ベルは絶句した。
酔った勢いでネクスに手を出したというのだろうか、この男は。自分に逆らうことの出来ぬ、雇われのメイドに。
驚き、愕然とした後に…ふつふつと怒りが湧き上がる。
ベルはきつい視線でカエルスを睨みやり、続けた。
「……では、ウルさんは貴方の実のご子息ということで間違いはごさいませんね?」
「ネクスがそう言うのなら、そうなのだろう。責任は取った、養ってもやった。何が不満だ?」
「……っ……」
怒りのあまりに絶句する、ということがあるのだと、ベルはどこか他人事のように思っていた。
しかし、ここで怒りをぶつけ、以降の質問が出来ないようなことがあってはならない。ベルは必死で怒りを抑え、質問を続けた。
「…これは、確認事項なのですが。クロさんの出自について…また商会に入社した経緯について、本当に何もご存じありませんか?」
「くどい。同じことに何度も時間を割くな」
「…昨日、『たとえ儂を殺しに来たものであったとしても』というような事をおっしゃっていらしたので…もしかしたら、何もかも分かった上でクロさんを入社させたのではないかと思ったのですけれども」
ぎろり。
カエルスが鋭い視線でベルを睨み、ベルは一瞬ひるんだが、気を取り直して睨み返した。
く、とカエルスの喉が鳴る。
「獅子には、同類の匂いがわかる」
「……は?」
明後日の方向に飛んだ話に、眉を寄せるベル。
カエルスは低い声で、淡々と言った。
「安全な柵に囲われ、決して己の足で危険な外界に出ることはせず。大きな力に守られながら、日々安穏とした暮らしを送ることを幸せと思う……そんな、羊には判るまい。
自分の望むもののためなら、どんな危険に見舞われようと、どんな犠牲を払おうと、ただその為にすべてを注ぐ…その為に命を賭ける、それが獅子だ。
リスクを恐れるあまりに何も望まぬ羊は、獅子に食われる運命だ。羊を食うことに、罪悪感などかけらも感じぬわ。
…クロは、そんな獅子の目をしていた。自分の望みの為に、他のすべてを食いちぎり、飲み干す。そんな獅子の目をな」
どこかぞっとするような視線で、カエルスは続けた。
「儂は羊には何の興味もない。同じように、儂の望みのために何の役にもたたなかった商会にももう、何の興味もない。
だがな…もし儂の作った商会を継ぐものを作るとするなら……それは、儂と同じ獅子にこそ相応しい。
努力もせぬ羊に商会を腐らせられるのは御免だが…儂を食いちぎるほどの強い獅子なら、相応しいだろうよ」
にたり。
カエルスは背筋の凍るような笑みを浮かべた。
「自分の望みのためには、自らの体も、得られるはずだった幸せも……自分の子すら犠牲にする。
そんな獅子の子なら、あるいはと思ったのだがな……見当はずれもあるものだ」
「えっ……」
ベルはカエルスの言葉に眉を寄せた。
「…それは、どういう……」
「…質問はそれで終わりか?」
出鼻をくじかれ、ベルは眉を寄せた。このことについて、これ以上喋ることはない、ということか。
ベルは嘆息し、とっておきを出すことにした。この質問は最後にするつもりだったが、どうにもこの老人は腹に据えかねる。
もはや昨日言っていた『善良で孤独な老人』という認識を、ベルは完全に覆していた。
「……チャカさんという女性に覚えはありませんか?」
ベルの質問に、カエルスは無反応で彼女を見返した。
さらに続けるベル。
「褐色の肌に黒髪を持ったとても艶麗な女性ですが…如何でしょう?」
「……チャカが、ヴィーダに来ているのか?」
カエルスは、やはり淡々と言った。
望む反応のあったことに、喜色を僅かに面に表すベル。
「…チャカさんを、ご存知なのですね?」
「…ヴィーダに来ているのだな」
いまいちかみ合わない2人のやり取りだが、お互いに望む反応は得られているようだった。
カエルスは何ともいえぬ微笑を漏らした。
「そうか……チャカが来ているのだな」
ベルは表情を引き締め、カエルスに訊いた。
「彼女が魔族だということは、ご存じでしたか?」
カエルスは僅かに沈黙し、そしてまた淡々と答えた。
「…知っている」
「貴方は彼女のことを愛していらっしゃいましたか?」
その質問には、喉の奥で可笑しそうに笑った。
「くっ……愛していた、か。羊どもの言いそうな、甘ったるい言葉だ」
眉を顰めるベル。
カエルスの視線が、嘲笑するような表情を帯びた。
「…儂は、あの女が欲しかった。心の底からな」
「………」
ベルは、理解できないといいたげな視線をカエルスに送り、さらに続けた。
「永遠の命が欲しいというのは……彼女と一生を共に過ごせるような時間が欲しかったと、そういう意味なのでしょうか?」
「…あの女を手に入れるには、人の寿命は短すぎる……それだけだ」
始めの笑みは消し、淡々とカエルスは言う。
ベルはさらに問うた。
「もし、今一度チャカさんに会えるとしたら……。いま現在、彼女が貴方にとって決して好ましくないような立場にあったとしても、会いたいとお思いになりますか?」
「好ましくないような立場、か………」
カエルスはつまらなそうに言い、唇の端を吊り上げた。
「……ウルの女にでもなったか?」
「……っ」
いきなり事実を言い当てられ、絶句するベル。
カエルスは可笑しそうに肩を揺らした。
「はっは……あの女のやりそうなことだ。そうでなくてはつまらん。
儂も見せてもらうとしよう。あの女が撒き散らしていった種が、どんな花を咲かせるのかをな」
「……それは、会いたいというお答えと理解して宜しいですか?」
「馬鹿を言うな」
ベルの問いに、カエルスは一転むすりと口を引き結んだ。
「チャカに、儂に会う気があるなら。あの女の方から、儂の元を訪れるだろう。
そういう………約束だ」
「……約束?」
カエルスの言葉を繰り返し、首を傾げるベル。
カエルスはそちらに嘲るような視線を投げた。
「おい、耳長」
「…っ」
き、と睨み返すベル。
「自分の質問ばかりで、儂の質問は無視か?」
カエルスの言葉に、ベルは静かに息を吐いて、それから答えた。
「…昨日のご質問ですわね。わたくしのような寿命の長い種族が、もし儚い命しか持たぬ人を愛してしまったら、どうするのか……と」
カエルスは沈黙して、ベルの言葉を待っているようだった。
ベルは視線を鋭くした。
「ではカエルスさん、貴方はどうなさいますの?愛する人が貴方よりもはるかに長い人生を生きるとしたら、自分が相手を取り残して先にこの世から旅立つ定めだとしたら……どのような選択をなさいますか?」
カエルスは僅かに眉を潜め…それから、低く言った。
「質問したのは儂だ。それに答えもせず、儂に質問ばかりをするのか。
ずいぶんと、躾のなっていない耳長だな」
「………っ」
遠慮のない物言いに、またかっと怒りがこみ上げる。
しかし、今回ばかりは彼の言い分は正しかった。自分はカエルスの質問には答えず、さらに質問を重ねている。礼のなっていない行為と言われても仕方がない。
ベルは己を落ち着かせるために息を吐き、ゆっくりと告げた。
「寿命が違う種族どうしが恋に落ちてしまったら。
……生きるスパンが違いすぎる相手を愛したとしても、わたくしは悲観したりはしないと思いますの。エルフとヒューマンは相対的に生きる時間の長さが違うけれども、人の一生分の時間というのはエルフにとっても決して『短い』ものではなくってよ」
カエルスは黙ってベルの話を聞いている。
「残されるのも、先立つのも……きっと同じくらい辛いでしょうけれど。
でも、そのようなこと考えあぐねていたら……例え同じ種族どうしでも愛し合うことなど、できはしないのではないかしら?」
問いかけるように言ってみるが、カエルスの反応はない。
ベルは僅かに眉を寄せたが、続けた。
「わたくしだって、こうしてヒューマンと交わって60年も生きていれば、人の死に目に会う機会だって、一度や二度ではありませんでしたわ。
それこそ…お世話になった先代の座長や一座の仲間にだって何人も先立たれてしまったわ。
中にはそれこそ心の底から慕って止まない方だっておりました。
だからといって、人を愛することを止めようだなんて、考えたこともありませんし……先立たれてしまう定めだからこそ、一緒に過ごす時間がかけがえがなくて尊いものなのですもの」
ベルは祈るように胸元で手を組み合わせた。
「一緒に時を重ねるというのは…どちらかがどちらかに先立たれる定めも内包されるのは当然ですわ、これは恋愛に限りませんけれども……しかし、だからといって誰も愛さないというのは偏屈すぎて眩暈がしそうですわ。
共に過ごした日々が無になるわけがないのだから」
そうして、改めてカエルスを見て。
「それに……一生涯ただ一人の人を愛し続けるというのは少女小説めいていてとてもロマンティックな話ですけれども、たとえ生涯に二人の人を愛したところで、その愛が分散されるわけではないわ。
だからこそ、貴方がチャカさんを愛したからといって、ネクスさんを愛することができない……というのは間違っているわ。
わたくしには、自分を愛してくれている周囲の人間を全て不幸にしてまで、過去に固執する理由が分からないのです」
き、と視線を鋭くして。
「……今を大切にできない方に過去を愛する資格はないわ」
部屋に沈黙が落ちる。
「……くっ」
カエルスはまた、嘲笑するような笑みを浮かべて肩を揺らした。
「…いかにも羊の考えそうな、綺麗に飾られた飯事のような理想論だな」
「……っ……」
「お前に資格だ何だと言われる筋合いはない。お前は大層ネクスのことを美化しているようだが、お前がネクスの何を知っている?儂の、チャカの、何を知っているというのだ?
聞きかじった他人の一部に自分の理想を載せて高説を垂れるな。馬鹿馬鹿しくて話にならん」
「……確かに」
ふう、と、ベルは息をついた。
「…貴方の話を聞くまでは、わたくしは先程のように思っておりました。ですが、事実は違ったようですわね。
…貴方はネクスさんを愛することができなかった…いいえ、貴方はネクスさんを最初から愛してなどいなかった。そして、ネクスさんもおそらくは……ネクスさんは貴方の暴虐に人生を狂わされた、被害者だったのですね。そして……ウルさんも」
ベルは悲しげに目を伏せ、そうしてもう一度、カエルスに厳しい視線を向けた。
「貴方のような方に人生を狂わされたネクスさんが、そしてウルさんが、ただただお気の毒ですわ」
吐き捨てるように言うと、カエルスは嘲るように笑みを深めて。
「お気の毒…………か。まあ、どうでもいいことだ」
「…っ、どうでも……!」
ベルがまた激昂して身を乗り出すが、カエルスはそれを正面から見返した。
「だが、お前の考えは非常に参考になったぞ、耳長」
「…っ……?」
思ってもみないことを言われ、ベルは言葉を失った。
に、と再び唇を歪めるカエルス。
「お前達、寿命の長い種族は。
短命の種族と愛を誓っても、そいつが死ねばまた新たな相手を見つけ、別の愛を誓うのだな。
前の相手のことなど、まるで無かったかのように。その同じ口で、別の相手に愛の言葉を吐くのだな。
その事実を……お前を残して死んでいくであろうその相手が、何とも思わぬと思うか…?」
「………っ」
息を呑むベル。
カエルスは可笑しそうに肩を揺らした。
「くっ、別に責めているわけではない。それが道理だ。お前達にとっては当然のことだろう。
儂は、儂の考えが間違っていなかったことに安堵したというだけだ」
「…貴方の、考え……?」
眉を寄せるベルに、カエルスは面白そうに視線を向けた。
「寿命の違う者同士が愛を育めるか?過ごした時間が輝かしいものになるか?そんなことはどうでもいい」
その瞳の輝きは、昨日の無気力な老人のものとは明らかに違っていて。
「寿命の違うものを、完全に手に入れることは出来ない。それがすべてで、それが全力で抗うべきものだ。
それに一生を捧げたことを、儂は悔いてなどおらん。儂は、間違っていなかった」
「………」
ベルは絶句して、昨日とは別人のように変貌した老人を見つめた。
その姿は、おそらくは若い頃の…エネルギーに満ち溢れた彼そのものなのだろう。
だが…それは、およそ彼女の理解の及ばない、何か未知の生命体になったようにも、見えた。

「ここ、か……」
ストライクは、屋敷の雇用契約書から、ネクスを派遣した家政婦協会に問い合わせ、ネクスの実家にやってきていた。
協会の方も、あまりに過去の話で当時の担当者が在籍しておらず、ならば実家にということで紹介してくれたのだ。
「リュビア」と表札の掲げられたその家は、ガイアデルト邸のような無意味に豪奢な屋敷ではないが、一般水準以上の暮らしが想像されるそこそこに大きな家だった。
ノッカーを叩くと、ややあって静かに扉が開き、中から老婦人が顔を出した。
「……どちら様ですか」
ストライクは改まって礼をした。
「ガイアデルト商会で起きた死亡事件で、自警団に捜査協力している冒険者です」
昨日の調査で、下手に嘘をつくのは危険だと学習したストライクは、ミケのアドバイスでそう名乗ることにしていた。
「お訪ねしたのは、ネクス・ガイアデルト婦人…ネクス・リュビアさんについて、いくつかおうかがいしたい事があったからです。恐縮ですが、ネクスさんをよくご存知の方に、お話をお訊きしたいのですが」
老婦人は僅かに眉を寄せ、それからドアをさらに開いて、ストライクを招きいれた。
「……どうぞ。お入りください」

「…テミス・リュビアと申します」
用意してきた茶をストライクに出し、向かいのソファに座ってから、老婦人は丁寧に礼をした。
慌てて、ストライクも礼をする。
「ショット・ストライクです。わざわざありがとうございます。
あの、貴女はネクスさんの……」
「姉、です。当家には男児がおりませんでしたので、私が婿を迎えております」
「そうですか…」
ストライクは頷いて、早速質問を始めた。
「では早速ですが、ネクスさんはガイアデルト家にお勤めになる前は、どちらで、どのようにお暮らしだったんですか?」
「この家で、普通に暮らしておりました。ガイアデルトに勤める……という言い方も、少々違うかと」
「…というと?」
「行儀見習いのようなものでした。お嫁入り前に、世間を知ることと、一通りの家事を身につける…私達はそれなりの暮らしができておりますけれども、貴族や富豪のように使用人を雇うほどではありませんから…このあたりでは、割と普通に行われていることです」
「そうですか……では、ネクスさんは行儀見習いとして、家政婦協会を通してガイアデルトに行かれた、と」
ストライクは頷いて、それから眉を寄せた。
「お嫁入り前…と仰いましたが、ネクスさんには結婚のご予定がおありだったのですか?」
ストライクの質問に、テミスは僅かに眉を寄せた。
「…そういう…お話がありました。残念ながら、行儀見習いに行くより先に、破談になってしまいましたけれども」
「破談に……すみません、もう少し詳しくお願いできますか。お相手は……」
「確か……」
テミスは記憶を掘り起こすように視線をさまよわせた。
「…リオン…ええ、確かリオン・ヘリオトールという名前だったと思います。
ネクスと懇意にしていて……お父様が、貿易会社の社長でいらしたんです」
「貿易会社の……」
ストライクは言って、眉を顰めた。
頷いて続けるテミス。
「学生の頃からのお付き合いで…ネクスが行儀見習いを終え、リオンがお父様の後を継いだら、結婚することになっていました。
ですが……そんな折、リオンの会社が倒産してしまったのです」
「倒産…!」
僅かに目を見開くストライク。
テミスは悲しげに頷いた。
「リオンは会社も家も失い、結婚の話も白紙に戻りました。
私はネクスを気の毒に思い、予定していた行儀見習いを取りやめようとしたのですが…しかし、ネクスは予定通りに行く、その代わりに行き先を選ばせて欲しい、と……」
「…ガイアデルト邸に行くことは、ネクスさんが決められたことだったんですね?」
「…はい。当時はまだ、ガイアデルト邸は出来て間もない頃で、暴漢が無闇に侵入するということもありませんでしたから…特に疑問も無く、行かせたのですけれども…」
はあ、と、テミスは後悔したというようにため息をついた。
「ちょっと、いいですか」
ストライクは身を乗り出し、さらに聞いた。
「その、リオンさんの会社が倒産した原因が…ガイアデルト商会だということはありませんか?」
困ったように眉を寄せるテミス。
「さあ…私は商売をしないものですから、そのあたりの事情はよく判りません」
ストライクは僅かに残念そうな表情をし、それから気を取り直して質問を続けた。
「そうですか……では、ネクスさんは、お屋敷のご主人、カエルス氏とご結婚なされましたよね。そのなれそめについてご存知ですか」
「それが……」
テミスは俯いて、もう一度ため息をついた。
「ガイアデルトに行ってから、ネクスはこちらに一切連絡を取っていなかったんです。こちらから会いに行っても何やかやと理由をつけて会ってはくれず…
…あの子がお屋敷のご主人と結婚したということも、私達は家政婦協会の連絡で知りました」
「ええっ……そんなことが、あるんですか?」
驚いた様子で、ストライク。
テミスは悲しげな表情で頷いた。
「結婚式も披露パーティーのようなものもせず、籍を入れただけのようでしたが……あの子に、何があったのかと…それだけが心配でした。
あのお屋敷に行く前は、そんなことはなかったのです…少し気が強いところはありましたけれど、家族思いのいい子でした……」
「そう…なんですか……」
確かベルが聞いてきた執事の話では、ネクスはおとなしい感じの女性だったということだが……
ストライクは首を捻ってから、続けた。
「では…ネクスさんがお子さんを残して家を飛び出された経緯も……」
「…はい。私達は、ネクスから何も聞かされず、何も相談されませんでした。その知らせも、家政婦協会を通じてあのお屋敷の執事さんが下さったくらいで……」
「では、お子さんのことについては、どうですか」
ストライクはさらに聞いた。
「ガイアデルト商会の当代、ウラノス氏だと聞いていますが、間違いないですよね」
「そう、聞いております」
「別にお子さんがいらっしゃるというお話はありませんか」
「ないと思います」
妙にきっぱりと、テミスは言った。
眉を寄せて問うストライク。
「断言しますね?何か…根拠のようなものが?」
「ガイアデルトに行くまでは、私達の元にいました。ガイアデルトに行ってからは、家政婦協会が。結婚してからは、ガイアデルトの家がネクスのことを見守ってくださっていました。別に子供がいるなら、耳には入っているはずです」
「ガイアデルトを出て以降のことは……」
「それも、ありえません」
「…というと?」
ストライクが促すと、テミスは僅かな沈黙の後に、俯いて告げた。
「………亡くなりました」
「……亡くなった?!」
驚いて声を上げるストライク。
テミスは小さく頷いた。
「家を出たと連絡があった、1週間後。郊外の湖で死んでいるのを発見されました。
遺書はありませんでしたが……当時、自警団の方は、状況から見て自殺だろうと……」
「…自殺………」
呆然と呟くストライク。
テミスが出した茶は、もうすっかり冷めきってしまっていた。

「今日はクルムさんがいらしたのですか。お疲れ様です」
自警団を訪ねると、フレッドは笑顔でクルムを出迎えた。
「ミケは別のところに行ってて…よろしくお願いします」
「こちらこそ」
軽く挨拶を終えると、クルムは早速本題に移った。
「昨日、調査中だったことの結果は…出てますか?」
「はい。何から行きましょうか?」
「ええと…じゃあ、レアの経歴から」
「はい」
フレッドは言って、傍らの書類を手に取った。
「シェリダンの公設警備隊に連絡をし、調べてもらいました。
役所にある記録によると、やはり彼女は、生まれて間もない頃にシェリダンに移り住んできたようです」
「それは、レアも言ってたな…」
「ええ。シェリダンの首都テーベィでは、転入するときには必ずそれまで住んでいた街での在籍記録を提出させるのですが、そちらに、ありましたよ。以前住んでいた場所と、結婚していた時の姓が」
「本当ですか」
クルムが驚いてフレッドを見ると、フレッドは一番上にあった書類をクルムに手渡した。
「テーベィに来る前は、ここヴィーダに住んでいたようです。その隣に二重線で消してあるのが以前の姓…まあ、つまりは結婚していた時の苗字になりますな」
「クリオ・オリンピア……」
クルムが戸籍の名前を読むと、フレッドは眉を寄せた。
「……そして」
書類から目を上げ、フレッドを見るクルム。
「クロノ・スーリヤの方ですが……ヴィーダの戸籍記録を見ても、『クロノ・スーリヤ』という人物は存在しませんでした」
「クロは……経歴を詐称していた、っていうことですか」
「はい。ガイアデルト商会にあるクロノ・スーリヤの履歴書、および入社当時の彼を知る人物などから聞き込みを行った結果、1人……かなりの確率で本人だろうと思われる戸籍記録が見つかりました」
「クロの、本当の経歴…ですね」
クルムが言うと、フレッドはゆっくりと頷いた。
「こちらです」
ひらり、と、一枚の紙をテーブルに乗せて。
「……クロノス・オリンピア……これが、彼の本当の名前です」
「…オリンピア……!」
まさに、クルムが今持っているクリオの記録の名前と同じものだった。
「やっぱり……クロとレアは、兄弟だったんだ……!」
クロのものと思われる戸籍記録を、愕然と見下ろすクルム。
「クリオは、クロのお父さんと別れた後、レアを連れてシェリダンに移った…
…離婚の原因なんかは、わかりませんでしたか」
「残念ながら、それは……なにぶん、クリオ・スミルナの経歴がこちらの手に渡ったのも今朝になってのことで、ヴィーダでの足取りはこれから、というところなのです」
「そうか……そうですよね」
昨日の今日で、そんなに何もかもがわかるはずがない。クルムは俯いて、それからまたフレッドの方を見た。
「…でも、もしかしたら……ミケが、それがわかるかもしれない資料を手に入れるために、今交渉に行ってるところなんです」
「ミケさんが?」
「はい。それを見れば、もしかしたら…離婚の原因も、クロとガイアデルト商会との繋がりも、判るかもしれない」
クロは経歴を詐称していた。つまりは、ガイアデルト商会に入社するに当たって、隠さなければならない経歴だったということだ。
ユリが持っていたという、会社の登記簿。ガイアデルトに潰されたと見られる会社の中に、おそらくあるのだろう。「オリンピア」という名を冠した会社が。会社の倒産、一家離散…という図式は、決して珍しいものではない。
フレッドは真面目な表情で頷いた。
「では、ミケさんがそれをお持ちくださるのを待ちましょう」
「はい。じゃああとは…ヤマニー工芸の方にも、問い合わせをしてくださったんですよね?」
「ええ、公設警備隊に行って頂き、報告を回していただきました」
フレッドは手もとの書類をめくった。
「昨日ミケさんにもお伝えしましたが、ヤマニー工芸はシェリダンの首都テーベィにある会社です。地元シェリダンの工芸品を広く世界に輸出している会社のようですね」
「支店とかは…あるんですか」
「いえ、それほど規模は大きくありません。扱っているのもシェリダンの工芸品ばかりのようですよ」
「そうですか……依頼のときの状況は、詳しく聞けましたか。クロと、どんなやりとりがあったんでしょうか」
「最初に売買契約を結んだときは、ヤマニー工芸の方からヴィーダに出向いたようですね」
へらり、と書類をめくるフレッド。
「社長が、その時に、理事補佐のクロノと直接値段や取引期間の交渉をしたそうです」
「値段や取引の……その時、運び人のことについて、何か話をしたでしょうか」
「運び人のことは、話題に出したようですよ。ヤマニー工芸では、運び人に冒険者を始め、フリーの人員をそのつど雇い入れることにしているそうで、雇った人間が荷を盗んで姿をくらましたりしないよう、身の証はしっかりと立てさせているそうです」
「なるほど…その時に、レアの話は出たんでしょうか?」
「よく頼む人員については、軽く経歴を話したりしたそうですよ。その時に、レアの話もしたようです」
「容姿や…生い立ちとか、身の上とか、クロは詳しく知っていた、ということですか」
「いや、そこまでは話さなかったようですよ」
フレッドはふむ、と息をついた。
「ヤマニー工芸にとっては、『きちんと荷運びをする人員であるかどうか』ということがセールスポイントです。容姿や生い立ちは、そこに関係はないでしょう」
「…そうか、そうですよね……クロの方からの質問も、無かったと?」
「レアを含む何名かを示して、どういう人間ですか、という質問はあったそうです。レアのことについては、お母さんにも何度か仕事を頼んだことがあって、そのつてでよく仕事をお願いしている、お母さんにそっくりで気立てのいい子ですよ、と話したらしいです」
「……なるほど…クロの方から、レアを運び人に指定してきたということはありますか」
「同じ質問を、クロノがしていたようです。運び人の指定は出来るのか、と」
「…それで?」
「ヤマニー工芸の方では、取引をしているのはガイアデルトだけではない、運び人もその時都合のつく人員を順次配分していかなければならないので、そこまでの要望には応えられない、と言ったそうです」
「そうですか…」
「まあ、普通は商品が目的であり、運び人を気にされることなどないですからな。ましてや、雇い入れるのはフリーの人間、こちらで予定を束縛するのは難しい」
「そうですよね……」
クルムは少し考えて、それからフレッドに礼を言った。
「ありがとうございます。情報を教えていただいて、助かります」
「こちらこそ。事件解決にご協力いただいて、ありがとうございます」
「それで…今日も、レアに会っていきたいんですが、いいでしょうか?」
「構いませんよ。こちらです」
フレッドは快く頷いて、建物の奥へと足を運ぶ。
クルムはその後をついて、奥へと歩いていった。

「こんにちは」
「アンタは……」
レアのいる部屋に入っていくと、レアはきょとんとしてクルムのほうを見た。
その腕に抱かれていたポチが、にゃあ、と泣き声をあげる。
「ポチもこんにちは」
クルムはそちらにも笑顔を投げ、改めてレアに向き直った。
「自己紹介は、してなかったよな。オレはクルム。ミケとは何度か依頼を共にしたことがあるんだ」
「ミケはんの…」
「ああ。今日はミケがこられないから、オレが代わりに。
大丈夫だよ、オレもミケと同じく、レアがやったなんて思ってない。レアの無実を晴らすために頑張るよ、よろしくな」
クルムの言葉に、レアはほっとしたように微笑んだ。
「クルムはん、やね。おおきに」
「そうだ、これ」
がさ。
クルムは行きがけに買ってきた菓子を、レアの前に差し出した。
「差し入れ。お菓子だけど…食べないか?」
「うわぁ、ほんまに?」
レアは表情を輝かせてそれを受け取った。
「むっちゃ嬉しいわぁ。ほんま、おおきに。ありがとなあ」
大仰に礼を言うレアを、微笑ましげに眺めるクルム。
「早速で悪いけど、オレもちょっと質問させてもらっていいかな」
「ええよ、どうぞ座って」
レアは頷いて、正面のイスを指し示した。クルムは後ろについてきたフレッドに確認を取ると、そのままイスに座る。フレッドも、脇にあったイスに腰掛けた。
「レアはお母さんと良く似ていると言われてたそうだね」
「そうやね、よう言われとったよ」
「お母さんもレアと同じ、黒い髪、黒い瞳で白い肌だったの?」
「せや。まあ、ウチと同じ、日焼けしとったけどな」
はは、と笑うレア。
クルムはさらに質問を続けた。
「お母さんは誰かと連絡を取っている様子はなかった?」
「誰かと、連絡?」
「ああ。もしかして…お兄さんとこっそり連絡を取り合っていたとか…なかったかな?」
「ないと思うわー」
レアは難しい顔で腕を組んだ。
「オカンがのうなった時、遺品整理とかするやん。兄ちゃんの手紙とかあったら、そん時気付くと思うわ」
「そうか、そうだよな……」
クルムはうーんと考えて、さらに言った。
「レアはもしかしたら、意図的にガイアデルトに呼ばれたかもしれない。そんな心当たり、ない?」
「意図的に?」
きょとんとするレア。
クルムはレアがクロの妹であることを告げるかどうか迷ったが、ここは告げずに話を続けることにした。
「荷運びの依頼があったとき、無理にとは言わないけど、と言われたそうだけど…」
「ああ、今回はウチが行ったことのない場所やったさかいな」
「行ったことのない…?」
きょとんとするクルム。
「今回は、ウチの行ったことないヴィーダへの荷物やったやろ。普通は、土地勘のないところに行かしたりせえへんのんよ。何かあったら困るやろ。せやけど、他に頼める人も全部出払っとって、ウチしかおらんかってん。せやから、無理にとは言わんけど、言うたんやね」
「そ、そうか……」
レアに遠慮したような物言いだったのは、クロがレアを呼びたがっていることを察して警戒したからかとも思ったが、人員の指定も出来ないということであったし、これは考えすぎだったようだ。
一通り質問し終わり、クルムが一息つくと。
こんこん。きい。
ノックの後にドアが開き、向こうからひょこりとミケが顔を出した。
「こんにちはー…?」
「あれ、ミケ?」
「ミケはん!」
意外な顔に、驚いて腰を浮かせる3人。
ミケは苦笑して、中に入ってきた。
「すみません、こちらだと伺ったものですから」
「ユリのところに行ってたんじゃなかったのか?」
「ええ、まあ、はい……」
ミケは気まずそうにドアの方を振り返った。
その視線につられるようにして、クルムが目をやると。
「うふ、こんにちは、クルムさん」
「ユリ…!」
ユリは相変わらずの笑顔で、ミケの後に続いて部屋の中に入ってきた。
「アンタは……確か、屋敷におったねえ」
きょとんとするレアに、にこりと微笑んで。
「はい。ユリです、よろしくお願いします、レアさん」
「ユリはん……」
レアが名前を呟くと、横にいたミケが嫌そうに紹介した。
「……チャカさんが連れてきた、メイドですよ」
「ああ…!あのチンピラボンボンが家に引き入れよった愛人の?」
「そうです、そのチンピラボンボンの愛人が連れてきたメイドでーす」
うふ、と、ユリは悪びれずに微笑んだ。
「み、ミケ…どうしたんだ、ユリを連れてきて……」
唖然としてクルムが問うと、ミケは嫌そうな顔でため息をついた。
「…例の資料の、交換条件です。自警団に連れていってくれと言われたんですよ」
「ユリが…自警団に…?」
やはり驚くクルムに頷きかけてから、ミケはフレッドに向き直った。
「フレッドさん。この方が、自警団で調べたいことがあるそうなんですけど、協力していただけませんか」
「ミケさんのご紹介なら…ご協力できますが……どういったことでしょう?」
フレッドは迷惑そうとまではいかずとも、戸惑った様子だった。
ユリはフレッドの元まで歩いていくと、にこりと彼に微笑みかけた。
「すみません、過去の事件の記録を、調べて欲しいんですけど」
「過去の…事件?」
「ええ」
訝しげなフレッドに、ユリは変わらぬ笑顔で告げる。

「過去、ガイアデルト邸に暴漢が侵入した事件の中で、死者が出たものをピックアップしていただきたいんです」

「!………」
全く思ってもいなかったことを告げられ、フレッドとミケ、クルムは絶句した。
「それは……考えていませんでした……!すぐに!」
フレッドはそう言って頷くと、慌てて部屋を出ていった。
呆然とした表情でそれを見送り、それから、ぎゅうと悔しげな表情でユリを睨むミケ。
「そういう……ことでしたか…」
自分が思いもつかなかったことに平然とたどり着く、そのことが悔しくてたまらないといった様子で。
「うふふ、調べてくれるようですし、少し待ちましょうね」
ユリは手を合わせて可愛らしく首をかしげた。
はあ、と息をつくミケ。
「なんや…ようわからんけど……チンピラボンボンの愛人のメイドはんが、なんで事件のこと調べとるん?」
不思議そうに首を傾げるレア。
ユリはにこりとそちらに微笑みかけた。
「チャカ様のご命令です。チャカ様もこの事件に、すごく興味があるみたいなんですよ」
「興味が……て、なんなんそれ」
レアは不快そうに眉を寄せた。
「人一人死んでんねやで?面白半分に首突っ込んで、不謹慎やて思えへんの?」
「仕方ないよ…レア。彼らは、オレたち人間とは考え方が…感覚が違うんだ」
「へっ?」
渋い顔をして言うクルムに、きょとんとするレア。
「オレたちの生き死にも、彼らには『面白い出来事』としか映らない……そういう存在なんだ」
「なに…なんなん、それ……」
「……チャカさんは……魔族、なんですよ」
「魔族……?!」
やはり渋い顔で言うミケに、レアは驚きと恐怖の入り混じった表情で声を上げた。
「魔族…魔族てそれ、ホンマなん…?!」
「…ああ、本当だよ。オレたちは…彼女の引き起こした事件にいくつか関わってきたことがある」
クルムが説明するのを、ユリはニコニコしたまま聞いている。
対照的に、レアは褐色肌でもありありとわかるほど青ざめていて。
それは皮肉にも、彼女の兄であるクロが同じようにチャカが魔族だと告げられた時の表情と、よく似ていた。
「魔族やなんて…それ、あのチンピラボンボンは知ってはんの?!」
「いえ…知らないようですよ。今のところは。そうですよね?」
ミケがユリに確認すると、ユリは笑顔で頷いた。
「ええ、ご存じないと思いますよ。チャカ様も言ってないっておっしゃってました」
レアは青ざめたまま、クルムとミケの方を向いて言い募る。
「おおごとやないの!早よ、教えたらな!なんぼあのチンピラボンボンがアホいうたかて、魔族はないやろ?!」
「…ですよねー……いつかは、告げる必要があるんでしょうけど…」
さて、どう言ったものやら、と渋い表情のミケ。
クルムも同じような表情で。
レアは戦慄の表情のまま、俯いた。
と、そこに。
「お待たせしました」
がちゃ。
フレッドが息を切らせて入ってくる。
その手には、2枚の紙が握られていた。
「ありました…!ガイアデルト邸は以前より、恨みを持った人間による侵入・傷害事件が耐えなかったのですが、過去のこの2件で死者が出たことから、プロを雇い入れ、殺さずに捕縛するよう自警団の方で指導をしたのだそうです」
「2件…?」
「ええ。23年前に1件、それから19年前に1件。どちらも、侵入した人間が返り討ちにあって死んでいるので、過剰防衛として審議されました。結局は不問になりましたが…指導が入ったということです」
「その…亡くなった人、というのは?」
「23年前の方は…当時27歳の男性です。リオン・ヘリオトール。ナイフを持ってカエルス・ガイアデルトに襲い掛かったところを、ボディーガードに返り討ちにされ、持っていたナイフで刺されて死亡しました」
この時点では、ミケとクルムにこの名前の心当たりはない。真剣な表情で、続きを促した。
「それで…もう1人が?」
「…当時39歳の、男性です。斧を振り回し、屋敷に正面から侵入して…やはり、返り討ちにされました。
名前が……イアン」
フレッドは意味ありげに間を置いて、それから静かに、フルネームを告げた。

「……イアン・オリンピア……クロノス・オリンピアの、父親です」

ミケとクルムの顔が、驚愕に歪む。
その傍らで、ユリがやはりにっこりと、優雅に微笑んだ。

「これで……すべてが繋がりました」

…To be continued…

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