第4週・ルヒティンの刻

「おっはよー!!」

からからからん。

ドアベルを派手に鳴らして入ってきたのは、褐色肌に赤金のメッシュの髪をした、いろいろと目に痛い少女だった。
彼女の姿を認め、マスターは嬉しそうに破顔する。

「お、ロッテちゃんじゃーん。久しぶりー」
「なんかみんな来てたみたいだから来た!」
「はいはい、メタ禁止」

ロッテと呼ばれた少女は親しそうにマスターと言葉を交わし、慣れた様子でカウンター席に座る。
そこで、初めてカウンターの中にいる執事の姿に気が付いたようだった。

「お。誰このイケメン」
「初めまして。アルヴと申します」

にこりと微笑む執事に、ロッテは人懐こい笑みを向けた。

「カー兄のお友達?ボク、ロッテ。よろしくね」
「ロッテさんとおっしゃいますと、ティーヴァ様のご息女の……」
「そそ。カー兄の姪っ子だよん」
「どうぞ、良しなにお願い申し上げます」

恭しく礼をし、執事はロッテの注文したトマトジュースを慣れた手つきで用意した。
友人と姪がすんなり意気投合したことにか、マスターは嬉しそうに言葉を続ける。

「今日は天使ちゃんは?」
「おうちに帰ってるよ。おにんぎょさんに会いに行くんだって」
「そっかー」

その言葉にも若干嬉しそうに頷くマスター。

「キルくんは最近どう?」
「んーと、こっちにはいるみたいだけど」
「みたい、って?ロッテちゃんに会いに来ないの?」
「んー、なんか、飼ってたペットが行方不明になっちゃったんて」
「ペット?」
「そ。アイツのことだから悪趣味なペットだろーけど、呼んでも来なくなっちゃったんだってさ」
「呼んでも……まあ、召喚してもってことか。キルくんでもそんなことあるんだねえ」
「その辺はボクにもよくわかんないけど、まあなんかそれで大変ぽいよ」
「んじゃ、ロッテちゃんは絶賛さみしーモードなわけだ」
「んふふ、カー兄なぐさめてくれるのーん?」

冗談とも本気ともつかない口調でそんなやり取りをしているマスターとロッテを、執事が微笑ましげに眺める。

「これが俗に言うフラグというものですね?」
「はいはい、メタ禁止」

天丼は2回まで!

第4週・ミドルの刻

「こんにちはー」

からん。
昼過ぎにドアベルを鳴らしたのは、もうすっかりなじみの客だった。

「あ、ミケくんじゃーん。いらっしゃい」

にこりと陽気な笑顔を向け、来客を招き入れるマスター。
ミケが迷いなくカウンター席に腰掛けると、図ったようなタイミングでおしぼりと水が差し出される。

「ていうか、おかえり?かな?先週ミリーちゃんに連れてかれちゃったっきりだったでしょ」
「その節は、不可抗力とはいえ食い逃げをしてしまい、大変申し訳ありませんでした……こちら、代金になります」

ちゃらり。
台上に置かれた銀貨に、マスターは軽い笑いを返す。

「はは、いいのにー」
「いや、よくないでしょう普通に」
「お代なら、あの後ミリーちゃんが戻ってきてミケくんの分も払ってったよ?」
「へっ?」

マスターが語る意外な事実に、ミケは気の抜けたような声を上げた。
ひょい、と首をかしげ、マスターは続ける。

「だって、ミケくんそんなつもりないのに連れてっちゃったのはミリーちゃんでしょ?
当たり前みたいに払ってったけど」
「い、いいいえ、そんな!ミリーさんに払わせるつもりなんて」

真っ青になって動揺するミケ。

「いいんじゃない?ミリーちゃんが自由意思で払ってったんだし」
「そんな、移動魔法で送っていただいた上に代金まで払っていただいて、申し訳ないですよ…」
「本音は?」
「そんな借りを作ってしまったらあとでどんな労働をさせられるか…」
「だよねー」
「って何言わせるんですか!」
「はいはい。まーあれじゃない?ミリーちゃんもあそこでささっと送ってっちゃわないとまた直前でヘタレて帰らないとか言い出すと思ったんじゃない?」
「う」

心当たりがあるだけに言い返せないミケ。
マスターはにこりと微笑んだ。

「まー、いいんじゃない?代金突っ返したらそのほうが感じ悪いから素直に受け取っておけば。
その代わり、お土産とお土産話の一つもしてあげればそっちのほうが喜ぶと思うよ」
「ですかねー……一応生クリーム大福とお酒を買ってきてますけど」
「え、ミリーちゃんって両刀なの?」
「りょ、両刀?!」
「甘いものもお酒も両方いける人のことを両刀って言わない?」
「あ、は、はい、そうですね……いえ、知りませんけど。甘いものとお酒って両立しないものなんですか?」
「まあ一般的にはそうだねえ。お酒飲む人はあまり甘いもの食べないことが多いよ」
「そ、そうなんですね…」
「まー、お酒飲まない人にはわかんないよねー。大丈夫、別々に食べればいいんだし」
「うう…」
「で、ミケくんが『両刀』っていう言葉で何を思ったかについては追及しないでおくよ」
「せっかく流したのに!」

次々とやってくるマスターのツッコミに辟易しながら、ミケは荷物をごそごそとあさった。

「マスターにもあるんですよ、お土産。お約束の、焼きまんじゅうです」
「おっ。なに、ほかほかじゃーん」
「さっき帰ってきましたので。ぜひ焼きたてを食べてもらいたくて」
「ありがとー!いっただっきまーす」

ミケが差し出した袋に入っていた、手のひらより一回り大きいまんじゅうを、楽しそうに頬張るマスター。

「………んむ」
「いかがですか?」
「変わった風味だねえ。でも、美味しいよー」
「それはよかったです」

ミケは上機嫌で、道具袋から次々と取り出した。

「…後は本当に、うどんと、(温泉)饅頭と、シュガーラスクとお酒をお持ちしたので…よろしければ、適当にお客様にでも分けてあげてくださいなー」
「うわー、ありがとー。この後来るお客さんにサービスで出しとくね。
アルヴん、これバックにしまっといてくれる?」
「承知いたしました」

マスターが傍らの執事に土産群をパスすると、執事は恭しく礼をしてそれをバックヤードへと運んでいく。
それを見送ってから、マスターは改めてミケのほうを向いた。

「んで、どうだった?おうちは」
「どうだったか、と聞かれますと……」

ミケは多少げっそりした表情で、呻くように感想第一声を吐き出した。

「……心の準備したりとか、流石にいきなり家に泊まるのは難しいから宿取ってとか、いろいろ考えていたことが全て無に帰しましたよねー……家の前にいるのに、手元には猫とお財布くらいしかないとか、衝撃的過ぎました……」
「あー…まあ…それはねえ…」

言いにくそうに言葉を濁すマスターに、さらに畳みかけるミケ。

「しかも、ミリーさんガンガン歩いていっちゃうし!なんでかクローネ兄上と知り合いだから顔を見ようと思うって、僕引っ張っていかれるし!感慨って何ですかね!?」
「はは、物事は勢いが大事って言うしさ」
「勢いありすぎですよ…まあそんな感じで、すっごい騒がしく、家出していた家に帰ってきました……ミリーさんに呼ばれて出てきたクローネ兄上がポカーンとしていたのが、意外でした」
「ミリーちゃんとおにーさんは知り合いだったんだ?」
「ええ。何だか知らないけど、そうみたいです」

詳細は相川GMのシナリオ「マスカレード・ナイト」を参照。

「……そのまま自棄で『ただいま、兄上!……帰るよっていう手紙より先に本人が着いちゃった☆』って。
そうしたらクローネ兄上が3秒くらい固まってから、『おか、えり?……手紙追い越すの、良くないね。親しき仲にも礼儀ありとかまぁうんもういいや。ごめんね、ミリー校長。ちょっと待ってくれると嬉しいな。……父上、兄貴!ミケが帰ってきたんだけどー!』って、わたわたしてました……。もう!もうどうしていいやら全然わからなかった……!」
「ミケくんおにーさんの真似上手いね」
「うれしくありません」
「まーおにーさんが慌ててたのは伝わったよ。それくらい久しぶりだったんだよね?」
「はあ、まあ……」
「で、勢いあったとしてもそろそろその辺で感慨が来るもんでしょ。どうだったの?久しぶりのおうちは」
「あー……」

ミケはしばらく視線をさまよわせてから、複雑な表情でつぶやいた。

「久しぶりに家に帰ってきて、思いました。…………僕、お坊ちゃんだったんだなって」

妙な感想に眉を寄せるマスター。

「おぼっちゃん?」
「普通大きくなってから帰ると、家が小さく感じるとかそういう感動があるって聞いていたのに、大きかったんですよ……あれー?」
「おっ。家柄自慢?」
「家柄自慢なんですかねえ?!こんな家に生まれたのになんで僕は時々食うにも困る生活してるんだろうとしか思いませんでしたけど!」
「なんでって、そりゃあ家出してきたからでしょ?」
「あっさり真実を突かないでください」
「それに、向こう見ずで無鉄砲で命を大事にしないからだよね?」
「わかってるんですからほっといてください!」

ぜえぜえ。

容赦のないマスターのツッコミに律儀に返してから、ミケはふうと息をついた。

「みんな元気そうで、ちょっと安心しました。小さい頃はもっと家族内がよそよそしかったような気がしていたんですけれどね。
距離取っていたのは、僕だったのかもしれないな、とは思いました」
「まー、そんなもんかもしれないねー」
「……で、父親に殴り倒して出て行ったことを謝って。……クローネ兄上に音信不通だったことを凄く怒られて。もっと早く連絡くらいしなさいって、怒られて。……うん、それしか怒られなかったんですけれどねー」
「まあ、おにーさんはミケくんと会えてたしね」
「そうですよね」
「まあ、普通は10年以上生死不明の音信不通とかやらないと思うし」
「……ですよねー……」
「で、他の人たちは?」
「……後から帰ってきた姉上は抱き付いて泣かれたかな」
「あばらは大丈夫だった?」
「マスター…僕、一応回復魔法使えるんですよ…」

切ないやり取りをしてから、マスターはにこりと微笑んだ。

「でも、ミケくん、すっきりした顔してるじゃん。
よかったんじゃない?ご家族に会えて」
「そうですね……」

ミケの表情に、ふわりと暖かさが広がる。

「父は、なんていうか、小さくなったような気がします。
まぁ、僕も大きくなったからなんでしょうけれど、こんなに丸い人だったっけとは思いました。
後々、二人で話す機会がありましたけれど、普通の感性の人でした。金銭感覚とか今の僕に近いのかな、と」
「貧乏なの?」
「身も蓋もないことを言わないでください。けんやく…そう、倹約家なんです」

地味に言い訳がましく言ってから、再び家族に思いを馳せて。

「グレシャム兄上は……なんかもっとこう、普通の人だった気がするんですけれど、ちょっと違うというか。
こういう言い方は、失礼だし良くないと思うんですけれどね。……リリィさんと通じるような、僕の考え方の斜め上のことを、唐突にやるんですよ。吃驚しました」
「失礼だし良くないっていうのは、百合ちゃんに例えてるから?」
「え、わざわざ言わなきゃわかりませんか」
「あーうん…まあ、いいけど」
「あと、猫がお好きらしくて、ポチを可愛がってくださっていました」
「それでポチちゃんの毛並みが異様にいいんだねえ。いいごはんもらったんだねー?」

つやつやの毛並みになったポチの喉をマスターが撫でると、ポチは気持ちよさそうに喉を鳴らす。

「その兄上と一緒にいてツッコミを入れるクローネ兄上は、凄く常識的な人で頼りになるなぁって、思いましたよ」
「僕はおにーさんとおねーちゃんしか見たことないけど、まあ、ミケくんが言うならそうなんだろうね」
「姉上は……まだお互いに距離感が良く分からないんですよね。最初だけきゅうと抱き付かれましたけれど、その後はちょっと距離を取ってて」
「あばらは大事だもんね」
「はい……あ、いや、うん、どう接していいか、僕もわからないし、多分姉もわからないんですよね。こればっかりは急には変えられないから、様子を見ながら、かなと思っています」

苦笑しながら、それでもまんざらでもなさそうな表情で語るミケ。

「その後、しばらく家で過ごしてきました」
「しばらくおうちにいたんだ?」
「ええ。もう、すっごい居心地悪いですね!世話を焼かれるって慣れてないと厳しいですよね」
「あはは、そうかもねー」
「……結局、家にいられなくて、魔導士ギルドにお仕事探しに行ってました……」
「そういうところが貧乏しょ……倹約家なんだねえ」
「今貧乏性って言おうとしましたよね」
「ま、じっとお世話されるだけっていうのがむずかゆい気持ちはわかるよ」
「そうなんですよ。……まるでただ家に居るのがいたたまれなくてハロワでお仕事を探しているような気分でしたよー」
「はははは」

乾いた笑いを浮かべるマスター。
ミケは続けた。

「その間に、先生にもお土産持っていって、帰ってきました、と報告をしたんですけれど…」
「先生って、確か、洸蝶祭の時に連れてきた美人さん?」
「あ、はい。そうです。よく覚えてますね」
「僕は君のことなら何でも覚えているのさ…」
「それはまあともかくとして」
「あ、スルーされた」
「…『そう。まぁ、それはいいからちょっと手伝ってちょうだい』とこき使われてきました。気を使ってくれたのか、本当に興味ないのか半々くらいだと思いますが」
「ミケくんせんせーの真似うまいね」
「うれしくありません」

天丼は二回まで!

「で、父も兄も騎士だし、姉もミドルヴァース様の神殿で働いているので、なんとか休み合わせて母のお墓参りに行って、帰ってきました。……ちょっとこの年になると、家族で出かけるって変な気分でしたけど、面白かったかな」
「年のせいじゃなくて、ミケくんが久しぶりに帰ってきたせいだと思うけどね?」
「はは、そうですかね」
「まあでも、よかったんじゃない?」

マスターはまた、にこりと人懐こい笑みを浮かべた。

「なんだかんだ逃げてたのが、帰れるようになって、ずっと会ってなかった家族と会えてさ。
昔みたいに話をして、急には仲直りできなくても、それはこれからって思えるようになって」
「…はい、そうですね」

ミケもにこりと、すっきりとした笑みを浮かべる。

「ちゃんと、帰れました。本当にありがとうございました。特にマスターにはうだうだ愚痴を聞かせてすみません。また頑張ろうって、思いました」
「ははは、お客さんにすっきりして帰ってもらうのも僕の仕事だからねー」

マスターに礼を言ってから、執事のほうにも顔を向けるミケ。

「アルヴさんも」
「わたくし、でございますか?」

きょとんとする執事に、ミケはまた柔らかい笑みを浮かべる。

「……帰ろうかな、と思ったのって、アルヴさんのホテルに泊まった時に見た夢がきっかけだったんですよ。
……あれがなかったら、まだ帰る気にならなかったと思うので」
「左様でございますか」
「……何かしたわけではないと思うかもしれませんが、お礼を言わせてくださいね」
「勿体無いお言葉でございます」

なんかしたんですけどね、とはおくびにも出さないマスターと執事。
執事はにこりと笑ってから、そういえば、と続けた。

「先週、わたくしのハーブティーをお飲みになられた後、ここでお休みになられましたよね」
「え?ああ、はい」
「ずいぶん苦しげなお顔をなさっておられましたが、どのような夢をご覧になっていたのですか?」
「あー……」

ミケは嫌なことを思い出した、というように、どんよりと表情を曇らせた。

「ええと、気が付いたら羊の角が生えていて。トランクス一枚で、良く分からないパズルのような塔を、ひたすら登る夢です。
何故か下から巨大な赤ちゃんとリリィさんがわーっと追いかけてくるんですよ。怖かったですよねー」
「あー、あれ怖いよねー。落ちたら死ぬんだよね。登れたの?」
「……ははは、パズル系ですよ、知力10なめんな、と叫びながら登りましたよ」
「はは、さすが」
「さーて…」

嫌な思い出を払拭するように紅茶を飲み干すと、ミケは銀貨を一枚テーブルに置いて立ち上がった。

「じゃあ、ミリーさんにもお土産を持っていきますのでこの辺で。また遊びに来ますね!」
「はーい、まいどありー」

からん。

晴れやかな表情のまま、ミケは意気揚々とドアベルを鳴らし、店を後にするのだった。

第4週・レプスの刻

からん。

「いらっしゃ……あれ」

昼下がりに訪れた客に一番驚いたのは当のマスター本人であったようだ。

「チャカちゃんに百合ちゃんじゃん。どーしたの、こないだ来たばっかりなのに」

名を呼ばれた妖艶な美女とそのしもべは、驚いた顔のマスターに鷹揚な笑みを返す。

「あら、アタシが連続で来たら何か不都合なことでも?」
「不都合っつーか、単純に怖い」
「ご挨拶ね」

くすりと鼻を鳴らす主人の横で、リリィが上機嫌な様子で身を乗り出す。

「ミケさんがお菓子買ってきてくださったっていうので!」
「情報早いね。つーか早すぎじゃね?」
「うふふ」

微笑むリリィの視線の先には執事の姿。

「アルヴんの仕事が早かったのかー」
「ミケ様がお二人にお菓子をご馳走して欲しいと」
「え、うそそんなん言ってた?」
「…心の奥底で切望されていた気がしまして」
「ミケくんにそれ言ったら全力で否定されると思うよ」
「アクションに書かれていたと申し上げたほうがよろしかったでしょうか」
「はいはい、メタ禁止」

マスターは仕方なさそうに、ミケが置いて行った焼き菓子をチャカとリリィに出す。

「ミケくんの故郷の名物なんだって」
「ぐーて……で、ろわ?」
「ラスクらしいよ。有名なんだって」
「へぇ、いただきますー」
「チャカちゃんにはお酒ね」
「あら、ありがたいわ」
「オゼの雪どけ、っていうらしいよ」

しばし、ラスクをかじる音と酒を注ぐ音だけが店内に響く。
そして、おもむろに執事がマスターに訊ねた。

「これが、噂のステマというものですか?」
「ははは、こんなあからさまなのステマとは言わないよ」

第4週・ストゥルーの刻

からん。

日が沈んでしばらくしてからドアベルを鳴らしたのは、少し前に店を訪れた青年だった。

「いらっしゃーい」

マスターが笑顔で迎え、グレンは会釈をしてカウンター席に座る。

「こないだ来てくれたお客さんだよね?おっしょーさんのツケ返しに」
「覚えてたのか」

グレンは少しだけ驚いた様子だった。

「そりゃまー、来てくれたお客さんのことはみんな覚えてるよ?」
「覚えるのが可能であるほどに人口密度が少ないですからね」
「アルヴんうるさい」

マスターと執事の漫才にくすりと鼻を鳴らしてから、グレンは取り繕うように言った。

「あー……こないだ言ってたハーブティー、飲みに来ようと思って」
「ああ。でも確か、おっしょーさんがおごってくれるとか言ってなかった?」
「そうなんだがな……」

はあ、とため息をつくグレン。

「あのオッサン、自分から『奢ってやってもいい』とか言い出したはずなんだが。
結局、週ごとに『ちょい待って、今は所持金が――』とか『いっやー、すまんね。今週は先約が――』とか手紙が降ってきて」
「ああ、パターンだねぇ」
「これ、いつまで経っても奢ってもらえないやつだよな」
「まあ、そういうやつだろうねぇ」

はぁ、ともう一度ため息。

「俺の方からは連絡手段がないし、このままだと期間限定のハーブティーを飲み損ねそうだし、先に飲んで後から代金請求してみようかと」
「あはは、あっさり踏み倒されそうだけどね」
「俺もそんな気はしてる。まあそれならそれで仕方ないさ」
「んじゃ、アルヴん、入れたげて?」
「畏まりました」

恭しく礼をし、執事はハーブティーのブレンドに取り掛かった。
沸騰した湯がポットに注がれると、ふわりとやわらかい匂いが店内に漂う。

こぽぽぽ。

執事はポットの中身をティーカップに丁寧に注ぐと、ほとんど音を立てずにグレンの前に置いた。

「どうぞ」
「サンキュ」

グレンはティーカップを手に取ると、漂う香りをそっと吸い込む。
柔らかでありながらどこかスパイシーな香りに、不思議と気持ちが落ち着くような心地がした。

「そういえば……確か、会いたい人に会えるハーブティーだったか」
「夢の中で、ですね」

にこり、と微笑む執事。
グレンは俯いて黙り込んだ。

「お客様には、お会いしたい方はいらっしゃらないのですか?」
「……いや、そういうわけじゃ……」

グレンはわずかに逡巡して、それでもゆっくりとティーカップを口につけた。

……暗い。

暗い場所に一人、じっと蹲っていた。

外からは、陽気に駆け回る少年たちの声がかすかに聞こえてくる。

楽しそうな彼らの声は、しかし彼にとっては、恐怖以外の何者でもなかった。

子供の頃の体格の差というのは、大人が思うよりずっと致命的だ。
彼よりもずっと大柄で、乱暴で、意地悪な少年たちは、彼にとって恐怖と嫌悪の対象でしかない。

少年たちは彼を見るたびに、彼には思いもつかないような汚らしい言葉で彼を罵倒した。
機嫌を損ねれば手足が飛んでくることもあった。物を壊されたことも、汚されたこともある。

だから、彼は少年たちから身を隠すため、建物の奥にあるこの薄暗い部屋で息を潜めていた。
早く少年たちが飽きて、ここから去ってくれる、それだけを一心に祈りながら。

だが。

こつ、こつ、こつ。

近づいてくる小さな足音が、彼の体をびくりと震わせる。

こつ、こつ。

足音は規則正しいリズムでだんだんと大きくなる。まっすぐに、この部屋に近づいてくることが伺えた。

こつ、こつ。

足音が止まり、がちゃり、とノブが回されるのを見て、彼は思わず目を閉じて身を縮ませる。

かちゃり。

「グレン、ここにいたんだね」

聞こえてきた声に、彼は安堵と呆然が入り混じったような声を出した。

「ねえ……さん……?」

姉は何かの本を抱えて、上機嫌で部屋の中に入ってきた。
彼の隣に座ったかと思うと、うきうきと分厚い本を開く。

「その本、何?」
「魔法の本だって」
「どうしてそんなもの……?」
「えへ、先生の部屋からこっそりね」

悪びれることなく微笑む姉。
ちらりと覗いた本の内容は、本当に彼の知る言語で書かれているのかわからないほどに、何が書いてあるのかさっぱりだった。
ところどころに何かの図があるが、やはり何を意味するのかまったくわからない。

「ふむふむ……大気中の火のエレメントを…」

しかし姉には意味が分かっているようで、真面目な顔をしてうんうんと頷きながら、ぶつぶつ本の内容を復唱しているようで。
自分には全く意味の分からない内容をすらすらと読んでいく姉を、彼はとにかく尊敬していた。

「これで、私がグレンを守ってあげられる」

本を読み終えると、姉は嬉しそうにグレンに笑顔を向ける。
基礎は本を読んで理解したから、あとは感覚で応用できるとよく分からないことを言っていた。

それからしばらくして、彼を悩ませていた少年たちは、彼と共にいる姉の姿を見ると真っ青になって逃げていくようになった。
彼も姉から魔法を教わり、少しずつ出来ることも多くなっていって。
姉のように魔法を自在に使い、姉の助けになることが、彼の目標になっていった。

姉と、姉のもたらす魔法が、彼にとっての世界の全てだったのだ。

からん。

眠りこけているグレンの後ろでドアベルが鳴る。

「いらっしゃーい」

マスターの声に応えるように、その男性はにまりと微笑んで手を上げた。
こぎれいな服を着た、40代ほどの男性。身だしなみもきちんとしていて、ぱっと見礼儀正しい紳士といった風情だ。

「空いてる席座ってね」
「ああ、いや、飲みに来たんじゃねえんだ」

男性はカウンター席で突っ伏して寝ているグレンを見下ろして、ちょいちょいと指差す。

「こいつにハーブティー奢るっつったんでね」
「あー、このお客さんのおっしょーさん?」

合点のいった表情でマスターが言うと、男性は悪戯っぽく笑った。

「そうそう。奢るって言った手前、金だけ払いに来た」
「一緒に来ればいいのに」
「いやぁ……野郎2人が連れ立って喫茶店とか微妙だろ。酒場へ呑みにならまだ分かるけどなぁ」
「お酒ちょっとならあるよ?」
「いんや、コイツにはまだ早いよ。んじゃ、これ代金な」

ちゃらり。
カウンターの上に銀貨を置き、男性はきびすを返して帰………

…ろうとして、もう一度きびすを返し、寝こけているグレンを横から覗き込んだ。
そして。

どこからか取り出したペンで、おもむろにグレンの顔に落書きを始める。

ぶっ、と吹き出しそうになるマスターにしーっと人差し指を立て、男性はグレンの顔に思うままに情熱をぶつけた。
ぐりぐりと頬に渦巻き、まぶたに目、額に肉と定番の落書きをしたところで、満足げに身を起こす。

「よーしよし、オレ渾身の作っ!」

男性は満面の笑みで頷くと、じゃっ!と颯爽と手を振り、店を後にした。

「ん………」

ゆっくりとまどろみから引き戻され、グレンは寝ぼけ眼で体を起こした。

「俺……」
「ぐっすり寝てたみたいだったから起こさなかったよー。大丈夫?」
「ん……ああ、大丈夫だ。疲れてたのかな……」

ふわわ、とあくびをするグレンの顔を、マスターと執事が生暖かい目で見守っている…ような気がする。
執事は張り付いたような笑みをグレンに向けると、そっと訊ねた。

「会いたい方には、お会いになれましたか」
「あー……うん、そうだな……」

グレンはあいまいな表情で視線をそらした。

「姉さんの夢を見たよ。オッサンに拾われる前の……そうだ、あの格好にも覚えがある」
「お会いできたのに、浮かない表情をしていらっしゃいますね」
「……そうか?嫌じゃないんだがな……」

複雑な表情で息をついて。

「あれは過去で、もう姉と会うことは叶わなくて、そもそも“あの頃のような自分”も既にいない。
師匠の元での経験・記憶が今の俺を形作っているからな。
改めて思い返してみると他人の記憶のようにも感じるんだ」
「小さい頃の記憶なんてそんなもんかもしれないね」
「ああ…今の俺では殆んど共感もできないし。
それなのに……」

そこで、わずかに辛そうに眉を寄せた。

「姉さんとの思い出は記憶の中にしかない。
……姉の死と一緒に多くのものを置いてきたんだ、と実感させられるよ」

ちゃら。
カウンターに突っ伏して、なんとはなしに首から下げていたネームタグを手に取る。

アデレード。

ネームタグに書かれていた名が、抑えている気持ちをさらに増幅させる。
じわ、と目の端が何かに歪むような錯覚を覚えて。

そこで、カウンターに置かれた紙片が目に留まる。

「……?」

何の気なしに手に取ると、頻繁に彼の目の前に降ってくる手紙と全く同じ筆跡で、おそらく彼に宛てたであろうメッセージが書かれていた。

『水性ペンがオレの優しさ』

「は………?」

眉を寄せると、マスターがちょいちょいと窓の方を指差した。
促されるままに、そちらの方を見るグレン。
そして。

「あー……そういえば、あのオッサンが何の含みもなく『奢る』とか言う訳がない……」

寝起きで怒る気力もなく、グレンはのろのろと立ち上がると、顔を洗うために洗面所へと向かうのだった。

第4週・ライラの刻

「さて、わたくしはそろそろ失礼いたします」

すっかり片付けも済んだ後で。
執事は恭しく礼をすると、マスターににこりと微笑みかけた。
マスターは苦笑して肩をすくめる。

「お客さんあんま来なくてごめんね。美味しくいただけた?」
「ええ、もちろん。大変美味しくいただきましたよ」

再び満足げに微笑む執事。
ならよかった、とマスターは息をついた。

「ホテルに戻るの?」
「ええ。また、お客様をお待ちする生活に戻りますよ」
「ちょっとだったけど楽しかったよ。また遊ぼうね」
「ええ、ぜひ」

ふわり。

執事が再び綺麗な笑みを浮かべると、すう、とその姿が薄くなる。

「ばいばい、またねー」
「貴方の夢にも参上いたしますよ」
「うわお、お手柔らかに」

手を振るマスターに一礼して、執事の姿は完全に消えた。

「さーて」

しゅる。

マスターが、紐タイを手早く外し、襟をくつろげる。
そのまま、に、と不敵な笑みを浮かべ。

「僕も、とりかかりましょっかねー」

すべての音を沈黙に溶かす夜の闇に、マスターの楽しげな声もまた、溶けて消えていった。

“New-Welcome to Cafe Halfmoon” 2016.7.1.Nagi Kirikawa