ユキの悪夢-『あの日』の記憶

かちゃ。
薄暗い裏通りにある、民家のドアが開く。
中から出てきた男性に、ユキは笑顔で駆け寄った。
「リグさんっ!終わった?」
「……ああ」
頬の血を拭って、リグと呼ばれた男性は頷いた。

彼の名はリグトゥ・ファレゼ。
ユキの「師匠」であり、育ての親でもある男性だ。
彼の『仕事』が終わるのを、ユキは家の外でじっと待っていたのである。
彼の後について大通りへ向かうと、背後で先ほどの民家に人が入っていくのを感じた。
ユキは、何が起こったのか知っている。リグが何をしたのか、頬の血は何なのか。自分が何を教えられているのか。
だが、それは今は関係ないことだった。リグの仕事が終わり、自分の隣を歩いている。それがユキのすべてで、それ以外のことは考えにも上らなかった。
親鳥を追いかける雛鳥よろしく彼の後ろをちょこちょこと歩いていると、不意に彼の足が止まる。
「リグさん?」
きょとんとして見上げるユキ。
リグはいつもの冷たい無表情で彼女を見下ろすと、ぽそりと言った。
「……今日は出かけるか」
「えっ……」
それが、街に連れ出してくれるという意味なのだと、理解するのに数瞬かかった。
その間に、リグは彼女の返事も待たずに大通りの方へと再び歩き出す。
ユキは満面の笑みを浮かべて、勢い良く返事をした。
「うんっ!」

大通りはいつもの賑わいを見せていた。
一人で買い物に出ることなどはあったが、リグとこうして連れ立って歩くのはいつ振りだろうか。
いつもの町、いつもの人々。何も変わらないはずなのに、隣にリグがいるというそれだけですべての景色が違うような気がする。
ユキはうきうきしながらリグの横を歩いていた。
すると。
「………」
ぐい、と不意に腕を引っ張られて、きょとんとしてそちらを見る。
「…リグさん?」
不思議そうにリグを見上げるが、リグは無言のままユキの腕をぐいぐいと引っ張った。
「っ……?」
不思議に思いながらも、手を引っ張られるままリグについていくユキ。
リグは無言のままユキの手を引き、一軒の店に足を踏み入れた。
いかにも高級そうな服が並ぶブティック。
店員も客も品のよさそうな者ばかりで、リグとユキは明らかに浮いている。
リグはそこで手を離すと、ユキに目をやってぼそりと言った。
「……何でもいい。好きなのを選べ」
「え、でも…」
唐突な言葉に戸惑うユキ。
確かに彼女好みのきれいな服はたくさんある。が、リグが彼女にそんなことを言うのは珍しい、というか初めてのことであったし、服以外でも彼女に何かを買い与えることがめったにないため、彼の意図が読めずに混乱してしまう。
「…………」
リグは無言のままユキを見下ろしていたが、それが彼の肯定の意だということは知っていた。
ユキは戸惑いつつも、色とりどりの服に手を伸ばす。
普段触れない色合いのものは、手に取ってみるだけで楽しかった。
「これ…もいいけど……うん、これにしよう」
どれも気になったが、最終的に淡い黄緑色のワンピースと白いカーディガンを選び、試着室へと足を運ぶ。
春を思わせるその色にそでを通すだけで、なんだか気分が明るくなった。
さっとカーテンを引き、真っ先にリグに見てもらおうとあたりを見回す。
と。
「ここ、よく来るんですかぁ?」
「おにーさんみたいなイケメンが来るなら、常連になっちゃおっかなぁ」
リグはカウンターの近くで、数人の女性に囲まれていた。
自分とはまったく違う、華やかな装いの女性たちに、ユキは声をかけられずに立ちすくむ。
が。
「……終わったか」
リグは女性に構うことなく、ユキの方にまっすぐ歩いてきた。
ユキの前で足を止め、片膝をついて目線を合わせる。
「これか?」
「あ、うん」
そっと髪を整えられ、やはり戸惑ってしまうユキ。
似合うかどうかは、返事が無いのがわかりきっているので訊かない。
リグはユキにその服を着せたまま、会計を済ませて外に出た。
「ふふっ」
ユキは楽しそうにリグの隣に並んで歩く。
リグが街へ連れ出してくれて、服を買ってくれて、一緒に歩いてくれる。
今日は、なんて素敵な日なのだろう。
うきうきしながらあたりを見ると、クレープの屋台が目にとまった。
「……食べたいのか?」
「うんっ」
素直に頷き返すと、リグは嘆息して進行方向を屋台へと変えた。
「いらっしゃいませー。何になさいますか?」
「えっと…えっと、この、イチゴとカスタードのやつ」
「銅貨3枚になりますー」
店員の言葉に、リグは無言で支払いを済ませ、その場を立ち去る。
店員が手際よくクレープを作るのを、ユキは楽しそうに見やっていた。
「お待たせいたしましたー、ストロベリーカスタードでございますー」
「ありがとう!」
ユキははしゃいだ様子でそれを受け取り、近くのベンチに座っていたリグのもとへと駆けつけた。
ほくほく顔で隣に座り、一口。
「美味しい!」
口いっぱいに広がる甘みとイチゴのさわやかな酸味に、思わず隣のリグを見上げた。
「リグさんも食べる?」
「…………」
リグはたっぷり30秒は黙って、それからためらいがちにクレープを口にした。
もぐ、と咀嚼して、顔をしかめる。
「…………あまい…………」
「あ、そ、そっか。リグさん、甘いの嫌いだった……ご、ごめんね」
「いや……いい」
リグは短く言って、いつの間にか買っていたコーヒーを流し込んだ。
なんで嫌いって断らないんだろ、と思いながら、ユキは残りのクレープを口に放り込む。
間接キス、という言葉は、まだ彼女の辞書にはなかった。

ユキとリグのショッピングはまだまだ続いた。
ユキが何気なく店を見たことに目ざとく気づき、リグは普段からは考えられないほどいろいろな物を買ってくれる。
ユキは嬉しくなると同時に、わけのわからない不安を感じてリグを見上げた。
視線に気づき、見下ろすリグ。
「……どうした」
「えっと、あの……」
よくわからないけど不安だ、とは言えずに、言葉を探すユキ。
「…手、繋いでも、いい?」
そんな言葉がついて出た。
手を繋げば、この不安も消えるような、そんな気がして。
しかし、ハッとしてあわてて手を振る。
「あ、あの、嫌なら、別に……」
「……構わない」
嘆息して手を差し出すリグを、ユキは信じられないという表情で見上げた。
しかしすぐにぱっと顔を輝かせ、その手を取ろうと手を伸ばし。
その時。
ぶわ、と。
頭から何かが降ってきて、ユキは思わず悲鳴を上げた。
「きゃ?!」
思わず目を瞑り、身を縮める。
…が、一向に何かが起こる気配はない。
「……?」
恐る恐る目を開けると、あたりにはなぜかヒマワリの花が散らばっていた。
「……え?え?」
真面目に状況が分からない。
ぽかんとしているユキに、隣のリグは顔を手で覆い、肩を震わせていた。
「っ……安心しろ、ただの幻術だ」
リグはどうやら笑っているようで。
そして、彼の言によれば、頭上から降ってきて今周りに散らばっているこのヒマワリは、幻術だという。事実、彼がさっと手を払うとあっという間に消えてしまった。
そこまで理解して、ようやく彼にからかわれたことに気づき、ユキはぷっと頬を膨らませた。
「むぅ……」
可愛らしく拗ねる彼女にまだくつくつと笑いながら、リグは再び手を差し出す。
「幻術だが……お前へのプレゼントだ。それでいいだろ」
「……うん」
プレゼントと言われて機嫌を直したユキは、素直にリグの手を取った。

(………あれ)
いつの間にか、ベッドの中にいた。
あたりはすっかり暗くなっており、日が暮れて家に帰ってきたのだと思いだす。

あの日と、同じ。

(……これ、って)
そこまで思い至って、ユキはようやく、これが夢であることに気付いた。
あの日の夢。リグが突然姿を消す前日の、不自然なほどに楽しかった日の。
そして、目が覚めたら。次の日、自分がお使いに行っている間に。
リグは姿を消してしまうのだ。自分に何も告げずに。自身を探すようにというメッセージだけ残して。
ざわり。
計り知れぬ不安と不快感が、ユキの胸を支配した。
このまま。
このまま、何もしないでいいのか。
明日には、リグはいなくなってしまう。
それが、何も変わらないとしても。

なにもしなかった、という悔いだけは、残したくない。

「壊したら……」
「いなくなれば……」
ぽそり、ぽそりと。
あの時と同じように、聞き取れないほどの声でつぶやくリグ。
ユキはぐっと手に力を込めて、体を起こした。

「リグさん……?」

びくり、と。
リグは体を震わせて彼女を振り向いた。
いつもの無表情。
だが、動揺しているのは彼女にもわかった。
「えっと、その……大丈夫……?」
どう声をかけたものか、逡巡しながら問うユキ。
リグは少し沈黙して、やがて立ち上がった。
「…………気にするな。さっさと寝ろ」
ふい、と背を向けて。
そのままドアへと向かうリグ。
「……っ」
いけない。
このまま行かせてはダメだ、と、強く思った。

次の瞬間、ベッドを飛び出したユキは、リグの背中にひしと抱きついていた。

再び、びくりと体を震わせて立ち止まるリグ。
ユキはぎゅっとリグを抱きしめたまま、震える声で問うた。
「リグさん……ほとんど聞こえなかったけど、いなくなればって何?
リグさん、僕と一緒にいるの嫌なの?」
リグの体が、少しだけ緊張を孕む。
「………」
しかし、彼は何も言葉を紡がない。
それは、ユキにとっては肯定と同じだった。
「……やだ…」
ぐ、と。
喉につかえたものを吐きだすように、ユキは言った。
「やだやだ、ずっとリグさんと一緒にいたいよ!
一人はやだ、リグさんがいなくなるの、やだぁ……!」
ほろほろと涙が零れ、リグの背中を濡らす。
そのまま、彼の背中に顔をこすりつけるようにして、ユキは子供のように泣きじゃくった。
「わがままかもしれないけど、でも……僕、頑張るから、もう二度とわがままなんか言わないから!
リグさんのこと大好きなのに、なんで傍にいれくれないの!?
寂しいよ、辛いよ、リグさんいないの、もうやだぁ……!」
いつしか、彼女は夢の中のリグにではなく、今のリグに思っていたことを吐き出すように叫んでいた。
自分を探せ、と言って姿を消したリグ。
彼を探し出すために、必死になって寂しさにも耐え、あちこちを探し、情報を集め。
それでも、彼は見つからない。彼がそばにいない、それだけで身を切られるほどに辛いのに。
彼に疎まれていたのだと思うと、今すぐこの身を裂いていなくなってしまいたかった。
部屋中に響く、ユキの嗚咽。
リグはしばらくのあいだ、その体勢で黙ってユキの言葉を聞いていたが、やがてそっと彼女の腕を解き、振り返って向かい合う。
「……馬鹿だ」
「っう……っく」
しゃくりあげるユキの頭をそっとなでると、ユキは涙に濡れた瞳でリグを見上げた。
リグはもう一度、ゆっくりと告げる。
「お前は馬鹿だ。誰がお前と一緒にいるのが嫌だと言った?
勝手に思い込んで、勝手に泣くな」
そっと、ユキの涙を拭う。
ユキは黙ったまま、リグの顔を見上げた。
表情のない、端正な顔立ち。それが今は、ひどく優しい色をまとっている。
彼女にしかわからない、彼の変化。
「……一度しか言わない。
お前は甘えたで、お人好しで、馬鹿で、ひどく鈍い奴だが……俺は、お前を嫌いだなんて思ったことは、一度もない。
…………こんな、忌み嫌われるような化け物と一緒にいれくれるのは、お前だけだ」
「っ化け物なんて思ったこと……!」
「ないのは知ってる。お前はいつもそう言うからな。
……いいか、俺にとってお前といることは苦痛でもなんでもない」
ふ、と。
本当によく見ていなければわからないほど僅かに、彼の瞳が優しく緩む。
「それだけは覚えておけ……ユキ」
「!……うん」
久しぶりに彼の口から紡がれた自分の名前に、ひどく嬉しくなって微笑むユキ。
その幸せな気持ちのまま、すうっと意識が遠のいていく。
まだ。

まだ離れたくない。

伝えたいことがたくさんある、のに。

「………あ……」

次に見えたのは、無駄に豪奢な天井だった。
徐々に意識が形を取る。迷った先でたどり着いたホテル。
分不相応なもてなしに、美味しい料理。少し居心地が悪いくらいに豪華な部屋。
そうして、彼女は夢を見た。
最も会いたいと願う、愛しい男の夢を。

「リグさん……」

会いたい人に、夢で会えるホテル。

ユキは少しの切なさを噛み締めて、それでも胸に広がる愛しさと共に、その名をそっと呟くのだった。