ンリルカの悪夢-残酷な未来

「んっふふ、ホーント、イイお部屋……」

ンリルカは上機嫌でシャンパングラスを傾けていた。
ディナーも終わり、それぞれの部屋へと戻った後。
他の者たちはもうそれぞれの部屋で夢を見ているのだろうか。
会いたい者の夢を。
「家族、ねぇ……」
普段とは少し違う声音でひとりごちるンリルカ。
過去の記憶が、彼女の脳裏に鮮明に浮かび上がってくる。

『結婚を許して貰ったら、僕の故郷に戻ってふたりで暮らそう』

『彼』の優しい声音までが、まるで耳元で囁かれているように鮮やかに思い出された。
変声期前を思わせる、少し高めの声。
褐色の肌、柔らかなまなざし。
『彼』のすべてが、彼女を優しく包み込む。

「アリョーシャ……」

ンリルカはぽつりと、『彼』の愛称を呟いた。
アレクセイ。
その愛称「アリョーシャ」を口にするのは、彼女だけの特権だった。

記憶の中で、彼女の肩を抱き、アレクセイは優しいまなざしで将来を語る。

『僕は子供たちに剣術を教えるよ、君は傍で小さなお店を開けばいい。
僕の厳しい稽古にも、君の焼いた美味しいマドレーヌがあれば、きっと子供たちの機嫌もすぐ直るよね。
お店には君の好きな綺麗な可愛い小物もたくさん置いて、君に似合う、にぎやかで楽しい店にしよう』

楽しげに笑うアレクセイの声。
だが、何故だろう。
『彼』の表情だけが思い出せない。
何よりも愛しく、大切だった『彼』の笑顔。
なのに、何故。
不思議な感情にとらわれつつも、ンリルカは心のどこかで納得していた。

思い出せないのではない。思い出してはいけないのだ。
何よりも愛しく、何よりも大切だった『彼』の笑顔。
その笑顔を、『彼』から奪ったのは。
その笑顔を、この世から消してしまったのは。

まぎれもない、ンリルカ自身だったのだから。

「……アリョーシャ…」

目を閉じてみても、『彼』の笑顔はまぶたに映らない。
そのことに、少しだけ切なさを感じながら。
椅子に座ったまま、ンリルカの意識はすうっと眠りに落ちて行った。

「………ズ……ンズ」

遠くから、自分を呼ぶ声がする。
懐かしい、愛しい声。
ンリルカの意識は、その声に引き寄せられるようにして急激に形をとった。

「んっ……」

目を開けようとして、眩しさに手をかざす。
すると、その手の向こうから、再び懐かしい声が響いた。

「おはよう、ンズ」

まだ完全に目覚めていない意識のまま、ゆっくりと目を開くンリルカ。
目が光に慣れ、かざしていた手を退けると、アレクセイの優しいまなざしとぶつかった。
まっすぐに自分を見つめる、ダークブラウンの瞳。
「今日はやけにお寝坊さんだね。めずらしい」
アレクセイは優しくそう言うと、ンリルカの額をそっと撫でる。
「ごめんね?目は覚めたかな?」
ンリルカの様子を窺うようにそう言って、アレクセイは体を起こし、カーテンをさっと引いた。
「本当はもっと寝かしていてあげたかったんだけど…君の寝顔可愛いし。
でも、朝からずっと稽古してたからさ、剣術道場の子供たちがみんなお腹を空かしちゃっているんだよ」
短く揃えたダークブラウンの髪が、窓から入り込んだ風に揺れている。
朝の日差しが、『彼』の赤褐色の肌を鮮やかに照らし出していて。
「それに…じつは僕もおなかぺこぺこなんだ」
顔だけ振り返り、少しいたずらっぽく笑うアレクセイ。
猫科の動物のような愛らしい瞳に、ンリルカの茫然とした表情が映っている。
「どうしたの?そんな驚いた顔して?」
アレクセイはきょとんとした表情で、目をいっぱいに見開いているンリルカの顔を覗き込んだ。
それから、ふと思い出したというように頷いて。
「嗚呼、もしかして眼鏡探してるのかな?」
ふっと微笑んで、サイドテーブルにある眼鏡を取り、ンリルカに手渡す。
眼鏡と共に彼女の手に触れたその手は、柔らかく、温かい。
「アリョーシャ…?」
ンリルカはまだ茫然とした表情で、目をいっぱいに見開いてアレクセイを見た。
「ん?なに?」
にこり。
アレクセイが無邪気に微笑む。
思い出せなかった、思い出してはいけなかった、『彼』の微笑み。

そんなはずは。
そんなはずは、ない。

『彼』が微笑みを浮かべるはずがない。
『彼』の手が温かいはずがない。

『彼』、は。

あの日。

自分のせいで、“死の呪い”を受けたはずなのだから。

ふ、と。
あの日の光景が、ンリルカの脳裏にフラッシュバックする。

あちこちから黒い煙が立ち上る。
どこもかしこも黒く焼け落ちた都市は、地獄そのものだった。

はあ、はあ。

ンリルカは息を切らせて、泥と煤まみれになりながらその中を駆け抜ける。
腕の中には、くったりと力を失ったアレクセイの体。

「たすけて!誰か助けて!!」

焼けつく喉を奮い立たせて、叫ぶ。
叫んで叫んで声が出なくなっても、掠れた喉で助けを呼んだ。
だが、ンリルカの呼び声に応える者はいない。
この黒く焼け落ちた都市に、命のある者は彼女一人だけだった。

ずるり。
ンリルカの腕から、アレクセイの体が滑り落ちる。
「あっ」
どさ。
地面に落ちたアレクセイの体を、ンリルカは必死に抱き起した。
「アリョーシャ!アリョーシャ!!」
いくら呼びかけても、アレクセイのダークブラウンの瞳は人形のように生気のないまま、その視線はンリルカをすり抜けて虚空へと注がれている。

「アリョーシャ……!」

ンリルカはそれでも、愛しい者の名前を叫び続けた。

かたかた。
フラッシュバックした記憶に小さく震えるンリルカを、アレクセイは怪訝な表情で覗き込んだ。
「どうしたの?…怖い夢でも見た?」
「アリョーシャ!!」
ンリルカはこらえきれずに目の前のアレクセイをぎゅうと抱きしめる。
温かく、柔らかい『彼』の体。生きて動いている『彼』を確かに腕の中に感じ、ンリルカはたまらずに涙をぽろぽろとこぼした。
「ンズ…どうしたの?」
驚いた様子でンリルカを見下ろすアレクセイに答える余裕などなく、ンリルカはわあわあと泣きながらアレクセイの胸に頬をこすりつけた。
「アリョーシャ!ワタシ…あ、うぅ、アリョーシャアリーシャ…!!!」
言いたいことはたくさんあったが、たくさんありすぎて言葉にならなかった。
ただ嗚咽を漏らして泣き続けるンリルカを、アレクセイが優しく抱きしめ返す。
「そんなに怖かったの?今日はやけに甘えん坊さんだね」
子どもをあやすようにンリルカの頭を撫でるアレクセイ。
ンリルカは体を離し、濡れた瞳でアレクセイを見た。
「あ、アリョ…シャ…ご、ごごめんなさい!ごめんなさいごめんなさい!んっく…ワ、ワタシ、あなたを…あなたのことを…!」
「大丈夫だよ」
アレクセイはンリルカの言葉をさえぎるようにそう言うと、再び彼女を引き寄せ、ギュッと強く抱きしめた。
ぽん、ぽん。
アレクセイの優しい手が、ンリルカの背中をそっと叩く。
「その怖い夢と今、どちらが夢でどちらが現実でも、僕は」
ンリルカの黒い鰭に頬をこすりつけるようにして、アレクセイは低く囁いた。

「…僕は、君を愛している」

「ままー、ぱぱー」
その時、ドアの向こうから声がして、アレクセイはやれやれというように体を離した。
「――と――か。ふたりとも来ちゃったのか」
ンリルカの涙をぬぐいながらアレクセイが呼んだ2つの名前は、よく聞き取れなかった。
「…え?」
きょとんとするンリルカを見て、アレクセイがおかしげに笑う。

「やだな、そんな顔して。僕たちの子供の事も解らなくなっちゃうくらいまだ寝ぼけているのかい?」

にこりと微笑むアレクセイ。
がちゃり。
ドアの開く音がして、ンリルカは茫然とそちらを見た。
ドアの向こうからは白い光が溢れ、そしてその光はまたたく間に部屋全体を満たしていく。

幸せな、残酷なほど幸せな夢は、そこで、途切れた。

「お忘れ物はございませんでしょうか」
ホテルの出口で、アルヴが例によって丁寧な口調で問う。
ンリルカは上機嫌で笑ってひらひらと手を振った。
「大丈夫ぅ、もともとそんなに荷物なんてなかったし?
あーんでもぉ、みんなが寝静まった頃にアルヴくんのベッドにインしようと思ってたのにうっかり寝ちゃったわぁ~、失敗ぃん☆ それが忘れ物っていうか、心残りかしらぁ」
「左様でございますか」
抜群のスルー力で流すアルヴに、ンリルカはまたふふふと微笑みかけた。
「でもぉ、料理もお酒も美味しくてその割に料金イイし、最高のホテルだったわぁ~♪支配人は超イケメンだしね♪」
ぺろりと舌舐めずりをするンリルカを、アルヴはまたもやスルーするかと思いきや。

「……ですが、お客様は当館を消し去るためにいらっしゃったのでございましょう?」

ンリルカはわずかに瞠目して、アルヴを見た。
しかしすぐに、にっと微笑む。
「…なぁんだ、やっぱりバレちゃってたのねぇ」
「わたくしは、お客様のご推察の通りの存在でございますから」
「ふぅん」
多くを語らないアルヴに、ンリルカは苦笑して肩をすくめた。
「ま、そういうコ・ト。『会いたい人の夢を見られるホテル』なんて、営業妨害になりかねないと思ったんじゃなぁい?まったくぅ、ホテル王ったってケツの穴のちっちゃい奴らばっかりよねぇん、ンリェンが広げてあげちゃおっかしらぁ」
「未知のもの、理解が及ばないものを恐怖するのは、生物としてごくまっとうな本能であるかと存じます」
「まぁねぇ?でも、こんな良いホテルを、下らない個人の野心でなんとかしようなんて考える方が野暮よねぇ?」
「そう思っていただけたことが、わたくしにとっての何よりの報酬でございます」
「だからぁ、今回はンリェン、そんなホテルありませんでしたぁ、やっぱり噂は噂よねぇって報告するつ・も・り。
でもぉ、一応『気をつけて』ねぇ。“よくわからないモノ”をなんとかしたいと思う人は世の中にたくさんいるからぁ。ま、アルヴくんなら全然平気そうだけどぉ☆」
「ご忠告、有り難く承ります」
アルヴの対応は相変わらず丁寧で、そして底知れない。
拒絶しているわけではなく、かといって受け入れられているわけでもないその態度に、ンリルカはもう一度苦笑した。
「ワタシねぇ、夢とかほとんど見た事なかったんだけど~ホント噂通りなのね、このホテルってぇ」
「お客様も、会いたい方の夢をご覧になりましたか」
「えぇ、すごい夢見ちゃったわぁ」
笑顔で尋ねるアルヴに、ンリルカは満面の笑顔でゆっくりと言った。

「…最高の悪夢をね」

に。
凄絶な微笑みを浮かべるンリルカ。
アルヴは穏やかな表情でそれを受け止める。

会いたい人に、夢で会えるホテル。

そのロビーで、会いたい人の夢を見た客と、その夢を見せた支配人が、静かに相対している。
ンリルカはじっとアルヴを見つめ、感慨深げに告げた。

「さすが『ナイトメア・ホテル』ね」