フィリーの悪夢-あるいは、ありえた今

「フィリー……フィリー。起きなさい。朝ごはんできたわよ」

遠くから声が響く。
初めて聞く、それでいて懐かしい声。
徐々に覚醒してきた意識の中で、フィリーは声の主の記憶を探った。
誰だっただろう。
全然知らないようで、でもとても良く知っている気がする。
記憶の中を丹念に探り、たどり着いた言葉は。

「……おかー……さん……?」

「ほらっ!いつまで寝てるの!」
がば。
ブランケットを剥ぎ取られて、フィリーの意識は一気に覚醒した。
30代半ば程の女性。少し中年太りをしてしまっているが、自分によく似た顔つきの女性が、憤慨した様子で腰に手を当てる。
「朝ごはん!出来たって言ったでしょ!早く着替えていらっしゃい」
「はーい………」
ふわ、とあくびをして、フィリーはベッドから降りた。
クローゼットから水玉のワンピースを出す。こないだの10歳の誕生日に父が買ってくれたもので、彼女のお気に入りだった。
傷も焼印もない腕を袖に通し、髪をまとめてポニーテールにする。
「…よし、っと」
フィリーは満足げに微笑んで、リビングへと向かった。

「おはよう、お父さん」
「おはよう、フィリー」
フィリーがリビングに入ると、新聞を読んでいた父がにこりと微笑んだ。
母より少し年上の、優しそうな男性。母と似たような体型だ自分もいつかはあんなふうになるのだろうか。
「ほら、冷めないうちに食べなさい」
「はーい、いただきまーす」
テーブルに置かれたパンと目玉焼きは、シンプルだけれどもとても美味しい。母は毎朝、このパンを手作りするのだ。
「ごちそうさま。行ってくるよ」
「あなた、お弁当」
「ああ、ありがとう」
朝食を食べ終えて立ち上がった父に、母が弁当の包を渡す。父は笑顔でそれを受け取り、フィリーの方を見た。
「じゃあ、行ってくる」
「いってらっしゃい、父さん」
フィリーは笑顔でそれを見送り、目玉焼きを載せたパンを頬張った。

「母さん、お洗濯物干し終わったわよ」
「あら、ありがとう」
手伝いを終えてキッチンに戻ると、甘い匂いが当たりに漂っていた。
「わぁ、パンケーキ?」
「当たり。今日も遊びに来るでしょ、二人で食べるといいわ」
「うん!」
フィリーは嬉しくなって、甘い香りをまとった母に抱きつく。
「あらあら、パンケーキが作れなくなっちゃうでしょ」
しょうがないわね、と言いながら抱き返してくれる母。
フィリーは母の香りを胸いっぱいに吸い込んで、ぎゅっと彼女を抱きしめた。

「私のには、メープルシロップいっぱいかけてね」
「はいはい」
フィリーのわがままを笑って聞きながら、母はまぶしそうに空を見上げる。
「今日もいい天気ね」
「そうね……あ!来た!」
母につられて庭の方を見たフィリーが、門をくぐって入ってきた少年を見て駆け出す。
ぱたぱたぱた。
彼女が玄関へ駆けつけた時には、少年はもう扉を開けて中に入ってきていた。
「もう!呼鈴くらい鳴らしてっていつも言ってるじゃない!」
「っせえな、いーだろ別に、俺が来たことくらいわかってんだし」
「れーぎってものがあるでしょ!」
彼は、隣に住む幼馴染の少年だった。綺麗な顔立ちに、長い耳。エルフである彼は、しかしその綺麗な顔立ちが台無しになるくらい無愛想で、口が悪かった。
しょっぱなから喧嘩腰でやり取りをしながら、リビングに入る2人。
甘いパンケーキの香りに、しばし喧嘩を中断する。
「どう、美味しい?」
「……美味しいです」
母がにこりと笑いかけると、少年はぶっきらぼうにそう返した。お世辞のような言い方だが、彼の本音であることをフィリーは知っている。
「ごちそうさまー。お母さん、ありがと」
食器を片付けると、2人はソファに座って本を読み始めた。
もう何度も何度も読み込んで、表紙が擦り切れてしまった本。
心優しい魔道士が、旅をしながら困っている人や動物を助けていく話だ。
「おめー、それよく飽きねーな」
少年がぶっきらぼうにそう言うと、フィリーは頬を紅潮させてうんと頷いた。
「だって、好きなんだもの。すごいわよね、この魔道士!
私も、将来はこんな魔道士になりたいなぁ」
「……へっ、無理に決まってら」
「っ、なんでよ」
「魔道士はどんな時でも冷静じゃないとダメなんだぜ?
おめーみてーにいっつもプリプリ怒ってるヤツがなれるわけねー」
「私がいつプリプリ怒ったっていうのよ!」
「今」
「もおおぉっ!むかつく!」
ばし。
「ってえな、何すんだ!」
べん。
言い合いになって、そこから手が出るのもいつもの展開だった。
「あんたたち、またケンカして!いいかげんにしなさい!」
「だってぇ!」
「こいつが!」
ばちん。
「ったぁぁい!もうっ、こうしてやる!」
ぼか。
「ってえな!このやろ!」
「なによー!」
「こいつ!」
次第に白熱していく喧嘩。
最初は仲裁しようとしていた母も、終いには応援しだした。
「ほらっ、フィリー!お腹ががら空きよ!やられる前にやんなさい!」
昼下がりには疲れて眠り、昼寝が終わるとまた喧嘩が始まる。
いつの間にか日もとっぷり暮れ、父が帰ってくるまで飽きずに喧嘩は続いていた。
「またやってるのか、いいかげんにしなさい!」
父が実力行使で二人を引き剥がすことで、ようやく喧嘩が終了。
「まったく……毎日毎日、よく飽きないな、お前たちは!」
呆れたように嘆息する父。
フィリーは叩かれたり引っ掻かれたりでヒリヒリする顔をさすりながら、だって、と口に仕掛ける。
するとそこに、母が冷たい飲み物を差し出した。
「はい、お疲れ様。オレンジジュースよ」
少年と一緒にオレンジジュースを飲んでいると、父が二人の前に座って交互に顔を見やる。
「で、今日の喧嘩の原因は?」
「……だって、コイツが、私が冷静じゃないから魔道士になれない、って」
「ホントのことだろ」
「なによ!」
「ほら、いいかげんにしろ!」
また喧嘩が始まりかけたフィリーの肩に、父が優しく手を置く。
「フィリー、魔道士になれるかどうかはお前の努力次第だよ。決して無理なんていうことはない」
「そうよね!」
「だが、人の役に立ちたいと思うなら、魔道士じゃなくてもいいだろう。
長い人生の中で、お前が本当に自分に向いてると、なりたいと思うものになりなさい」
「父さん……」
フィリーは父を見上げて、それからにっこりと微笑んだ。

少年も帰ってゆき、父を交えての夕飯。
父が今日の出来事を語ってくれ、母が作ってくれたおいしいハンバーグを食べる。
それから、父と一緒にお風呂に入った。少し出っ張っている父のお腹をフィリーが不思議そうに触ると、父はくすぐったいと言って体を揺らした。
お風呂から出てくると、母がふかふかのブランケットでフィリーを包んでくれる。
フィリーは満面の笑みを浮かべて、両親におやすみのキスをした。
ベッドに戻れば、ブランケット同様、太陽の匂いが彼女を包む。
今日も一日、楽しい日だった。母は優しくて、母の作るものは何でも美味しい。父は言葉少なだけれど、言うことはいつも正しい。となりの少年は無愛想で口が悪いけれど、最も心を許せる友人だった。
すう、と睡魔が襲ってくる。

夢の中で。
まだ10足らずの少女である「自分」は、愛情いっぱいの幸せな家族に囲まれ、のんびりとした平凡で幸せな時間を過ごしていた。
明日は必ずやってきて、明日も明後日も両親は変わらず自分を愛してくれていると信じて疑っていない、幸せな少女。
だからこんなにさっさと眠ってしまえるのだろう、と思う。

私は。
私はもう少し、両親と話したい。
母の甘い匂いに包まれ、父の優しさに甘えていたい。
もう少し。

あと少しだけ。

「………ん…」

少しの切なさと共に、フィリーは目を開けた。
最初に見えたのは、豪勢な作りの室内。ありえない程ふかふかのベッドは、確かにお日様の匂いがする。
「夢……か」
つぶやいて、体を起こす。
幸せな夢だった。孤児院の暮らしとは違う、静かで、穏やかで。なんでもない時間が流れていく、悲しいくらいに幸せな夢。
「……ま、でも、夢は夢よね」
フィリーは、目覚めてどこかホッとしている自分を感じていた。
夢の中の暮らしは、幸せすぎて。今までの彼女の人生が否定されたような気分になる。
だから、目覚めてよかった。目覚めた今が、現実。
彼女の体は傷だらけで、あちこちに痛々しい焼印がつけられている。この体を丈夫な旅装で包み、少ない路銀で日々をどうにか過ごしながら、はぐれてしまった無愛想で口の悪い相棒を探す旅に戻るのだ。

「……ふふっ」

そのことを思い出して、フィリーは唐突に笑った。
夢の中に現れた少年。隣の家の、幼馴染のエルフの少年。
まさか、「相棒」があんな形で夢に現れるとは。
孤児院で出会ったときは、彼はもうすでにフィリーと同じくらいの見た目だった。当然だ、彼はエルフなのだから、人間よりもずっと寿命が長い。彼の子供の時の姿など、見たこともなかった。
「子供の時のあいつに、会ってみたかった、ってことなのかしらね」
そう思うと、我ながらおかしさがこみ上げる。

『魔道士はどんな時でも冷静じゃないとダメなんだぜ?
おめーみてーにいっつもプリプリ怒ってるヤツがなれるわけねー』

夢の中の彼の言葉を思い出す。
それはやはり、現実でも彼がフィリーに向かって言った言葉だった。
それが悔しくて、フィリーは必死で魔道の勉強をした。その甲斐あって、どうにか魔法はものにすることができた。まあ、専門とは言えず、剣と半々になってしまったが。

『魔道士になれるかどうかはお前の努力次第だよ。
だが、人の役に立ちたいと思うなら、魔道士じゃなくてもいいだろう』

夢の中で、父が言った言葉。
これもまた、相棒である彼が自分に向かって言った言葉だった。
その言葉でフィリーは、自分にやれることで人の役に立とうと思ったのだ。

「なかなか、いいこと言うわよね」
そうひとりごちて、フィリーは自嘲気味に笑った。
「ま、結局のところ……私の会いたい人っていうのは、あいつだったってことなのかしら」
あまり認めたくはないが、全くあったこともない両親と同程度には、彼に会いたいと思っているということなのだろう。

会いたい人に、夢で会えるホテル。

フィリーはふっと笑って、立ち上がった。
「さーて………それじゃ、会いたい人探しの旅に、戻るとしましょうか」
どこか、晴れやかな表情で。
フィリーはそう言うと、お日様の匂いのするベッドを離れるのだった。