重い重い決断

とても、とても悩んだ。

あのひとは、私の気持ち次第だけれど、できるなら愛し合った証が欲しいと言った。
それはおそらく、私よりずっと早くこの世を去ってしまう自分の代わりに、私の傍に誰かがいて欲しいという気持ちもあったのだろうと思う。
あのひとは、とても優しいひとだったから。

とても悩んだ。

私の血を引くことで、生まれてくる子に課してしまう孤独。
私に子供が育てられるのだろうかという不安。
おそらく確実に訪れるであろう、私の故郷の干渉。
いろいろなことが、私に子を作ることをためらわせる。

あのひとと子を成せるチャンスはただ1度きり。おそらく次の時までに、彼の命は終わりを告げるだろう。
刻々と迫る期限に追い立てられながら悩み、それでも私は最終的に重い決断を下した。
あのひとと愛し合った証を……あのひとがいた証を残したかったのは、私も同じだったから。

けれど。

今になっても、それを正しかったと思う気持ちと共に、重苦しい気持ちが私の胸を苛むのだ。

私は、親になるべき存在では、なかったのだと。

逃げる娘、追う母

「え、ちょ、リーさん?!」
ミケの呼びかけも空しく、リーはミシェルと呼んだ女性の手を引いてサザミ・ストリートを一目散に駆けていく。
アフィアはちらりとそちらの方を窺い、知己の間柄であるセレストとユキに軽く手を挙げた。
「じゃ、また」
「えっ」
「あっ、はい」
会ってすぐの別れの挨拶にきょとんとして2人が返事を返したところで、たっ、と駆け出しリーの後を追う。
ミケは逡巡したが、すぐに後ろのミシェルを振り返ると、慌てた様子で言った。
「すみませんっ、風花亭にいてもらうか、どこか行くなら言付けしていってくれますか?僕、リーさん追いますので!」
「え、ちょっと、ミケー?」
間延びした声を上げるミシェルの返事を待たず、踵を返して駆け出すミケ。
魔術師らしくそれほど速くはなかったが、あっという間に小さくなったミケの後姿を見送りながら、ミシェルはやはりのんびりと言った。
「気の早い人ねー」
「……いえ、彼の反応はもっともだと思いますが……」
むしろ、いきなりそっくりさんが現れて娘がそれをつれて逃げたという状況でそこまで落ち着いてる方が疑問です、とは口には出さずに、セレストがミシェルの方を向く。
同様にミシェルの方を心配そうに見上げたユキが、おそるおそる尋ねた。
「えっと……どう、しますか?」
「もちろん、リーたちを追うわよー。ミケも追いかけてくれてるところ悪いけど、風花のマスターにはリーを探しに出たって言付けておきましょうねー」
笑顔であっさりと答えるミシェルに、ほっとしたように笑みを浮かべるユキ。
「あの、じゃあ、僕もお手伝いします!」
「えー?」
ミシェルはユキがそう言ったのが少し意外な様子だった。
ユキは彼女に再び屈託のない笑みを向けた。
「ここまでご一緒したんですから、ちゃんと会って話せるようになるまで付き合いますよ!
早くリーさんが見つかるといいですね」
「………」
ミシェルは無言で首を傾げ、何かを考えている様子だ。
そこに、セレストも頷いて言う。
「そうですね、乗りかかった船ですし。こんな不可思議な状況のまま放り出されては気になって眠れなくなってしまうかもしれないですから」
少しおどけて言ってから、すっと真剣な表情になって。
「確認しておきますが、そっくりな姪ごさんとかご親戚とかじゃないですよね……?」
「そうねー、それは違うわー」
「ですよね…あちらのそっくりさんも『ミシェル』と呼ばれていたし、リーさんの反応見る限りじゃ違うとは思うんですけれど、まあ念のため」
まだ少し混乱した様子で苦笑すると、リーの去っていった方を見る。
「あっという間にいなくなってしまいましたね……一緒にいたの、アフィアさんでしたよね。以前ご一緒した。相変わらず足が速いですね…」
「だよね。ちっちゃいのにすごいなぁ…」
自分のことを棚にあげて、ユキも感心した様子で言った。
ミシェルとそっくりな女性の手を引いて逃げ出したリー。傍らにいたアフィアもそれを追い、こちらにいたミケもそれを追っていった。4人の姿はあっという間に人ごみに消え、もう見えない。
セレストは嘆息した。
「今から追いかけて追いつくとも思えませんし…また地道に人に聞きながら足取りを追いましょう。
派手に走り去っていきましたから、先程より証言も多いでしょうし」
にこり、とミシェルに微笑みかけて。
「一番事態を把握していらっしゃるのは、ミシェルさんでしょうし。俺も一緒に行きますよ」
「………」
ミシェルは首をかしげたまましばし考え、それから少し俯いた。
「…そうねー、この際その方がいいでしょうねー。
……やっぱり、困ったことになりそうだしー」
「その、困ったこと、というのは…もう一人のミシェルさんのことですか?それとも、リーさんが彼女を連れて逃げたこと、ですか…?」
直球を投げるセレストの傍らで、ユキも再び心配そうにミシェルを見上げる。
ミシェルは小さく嘆息した。
「それも、道々話すわー。とりあえず、行きましょうー」
そうして、3人はサザミ・ストリートへと足を踏み出したのだった。

一方、リーを追って走り出したミケは、人ごみを掻き分けてどうにかリーに追いついていた。
「ちょ、リーさん、どこ行くんですかっ!どういうことなのか、よく分からないんですが?!」
「話はあと!とにかくママから逃げなきゃ!」
リーはミケを振り返ることもせず、ひたすらに傍らの女性の手を引いて走っている。
ミケはそれ以上追求をやめ、とにかく彼女の言うとおりに走ることにした。
魔術師の身に長距離走はかなりこたえる。だんだん真っ赤になっていくミケの顔を、顔色ひとつ変えずに隣を走るアフィアが走りながら窺っている。
「はしれる?うち、だっこする?」
「へ?!」
ミケは突拍子もないことを言われて驚いたが、すぐにぶんぶんと首を振り、息も絶え絶えに言葉を紡いだ。
「い、いえっ、だ、大丈夫だと!いざとなったら魔法で飛びますっ!……いえ、あの、抱きかかえるのは勘弁してください……」
「了解」
アフィアはあっさりと言うと足を速め、再びリーの隣を走る。重ねて言うが、結構な速さで走っているにもかかわらずあまり息が乱れた様子はない。
「母親、双子?」
「え?!」
逃げている最中にそんなことを訊かれ、仰天して聞き返すリー。
アフィアは慌てるそぶりもなく、走りながら淡々と言葉を並べていく。
「同じ顔、双子、考えられます。ミケ知らない、会ったことない、理屈通ります。
でも、なぜ、逃げる?」
「……っ、だから、話はあとで……」
「うち、手伝う、しますか?」
「えっ」
重ねてアフィアがいった言葉に、きょとんとする。
アフィアはさらに続けた。
「いるべき時、いるべき場所、いなかった、いいました。今から、向かう、ですか?」
「え、と、いいえ、とにかくママから逃げなきゃ……」
「一人より、二人、目的、成功する、思いませんか?」
「っ………」
リーはそこでようやく、アフィアが契約延長の申し出をしようとしていることを理解した。
淡々とした物言いで、自分のことを思ってではないことは明らかだったが、それならば契約さえすれば事情はどうあれ力を貸すだろうと理解できる。
リーは表情を引き締めると、頷いた。
「お願いするわ。報酬はあとで相談しましょう」
「了解。あそこにいた人、見つからないよう、逃げる。こっち」
ぐい。
アフィアはリーの手を取ると、前触れもなく方向転換した。
「きゃあっ?!」
普通に走っていたリーも、ついでに彼女が引っ張っていた『ミシェル』も、その反動で放り出されたように体制を崩す。
「え、ちょっとー?!」
ミケは状況を飲み込めずに、必死にそれについていくのだった。

「あっちに行ったそうですよ」
道行く人に聞き込みをしたセレストが、戻ってきて北の方向を指差す。
「じゃあ、行きましょうー」
「ずいぶんぐねぐね走り回ってるみたいだね…」
ミシェルも頷き、辟易したように呟くユキと共に3人で歩き始める。
彼女の言葉の通り、もう3人は四半刻ほど、サザミ・ストリートを中心とした住宅街の細い路地をぐるぐると歩き回っていた。
リーたち4人はずいぶんちょこまかと走り回っているらしい。4人もの人間が盛大に走り回っているので相当目立つらしく目撃者も多かったが、あちこちを走り回っているせいで目撃証言がバラバラでかえってどこに向かったかが特定できずにいた。
「あ、すみません、ちょっとお聞きしたいんですが……」
少し歩いた先で、セレストが再び道行く人に尋ねる。
その男性は、ああ、と頷いて彼らが今来た方向を指差した。
「その人たちなら、あっちで見たけど」
「えええ?!」
向こうではこちらに来たと言われ、こちらではあちらで見たと言われ、行く先を見失って頭を抱える。
「仕方ないわねー、少し休憩しましょうかー」
「いいんですか?」
「んー、行き詰ってるところでじたばたしても仕方がないでしょー。喫茶店ででも休憩しましょうー」
「……先ほどから思ってましたが、ミシェルさん、冷静ですよね…」
「そうー?これでも心の中では動揺してるのよー。ああどうしましょうどうしたらいいのかしらー」
全く感情のこもらない棒読みで言われ、げんなりするセレスト。
「……まあ、とりあえず適当なところに入りましょう。いいですか、ユキさん」
「あ、うん、もちろん。ちょっとのど渇いてきたよね」
ユキは頷いて言って、視線を動かす。
その先に小さな喫茶店を見止め、ぱっと表情を輝かせて。
「あっ、ハーフムーンだ!そっか、ここはサザミ・ストリートだったね!」
嬉しそうにそう言って、ミシェルとセレストに笑顔を向ける。
「お茶するなら、あそこにしようよ!お茶もケーキもすっごく美味しいし、マスターもすごくいい人なんだよ!」
「そうなんですか。では、ユキさんお気に入りのお店にしましょうか。よろしいですか、ミシェルさん」
「……ええ、構わないわー」
微妙な間が気になったが、ひとまず3人はその喫茶『ハーフムーン』に入ることにした。

からん。
「いらっしゃーい」
涼しげなドアベルが鳴ると、中から男性の愛想のいい声がする。
ユキは駆け込む勢いで中に入り、満面の笑顔を中の男性に向けた。
「こんにちは、マスター!」
「あれーお客さん、いらっしゃい。久しぶりー」
親しそうに声をかけるユキに、やはり親しげに返事を返す男性。ディセスなのだろうか、浅黒い肌にとがった耳をしたなかなかの美丈夫で、黒いベストにロングエプロンといういかにもウェイターですという格好をしている。ユキがマスターと呼んだ通り、この店の主人なのだろう。
「今日は大勢だね。またお師匠さんの兄弟?」
「ううん、今日は違うの。今ちょっと人探ししてて、ちょっと休憩がてら寄ったんだ」
「そっか。3人いればテーブル席かな、まあ座ってよ。今お水持ってくからね」
「はーい。ミシェルさん、セレストさん、座ろう?」
ユキに促され、3人は窓際のテーブル席に座った。出窓に鎮座する美少女フィギュアにセレストが少しぎょっとするが、ミシェルもユキも特に気にした様子はない。
3人が席についてすぐに、マスターが3人分の水を持ってやってきて、それぞれ注文をすると軽やかにカウンターの中へと戻っていった。
「ふぅ……なかなか、みつからないね……」
水を飲んで一息入れてから、肩を落として言うユキ。
セレストも重い表情で俯く。
それとは対照的に、ミシェルは相変わらずのんびりとした様子で言った。
「まあ、そういうこともあるわよー。あまり焦らないで、気長に探しましょうー」
「でも……」
ユキは心配そうに視線を上げ、ミシェルに言い募る。
「…ミシェルさんはもう一人のミシェルさんを見ても、特に驚いた様子はありませんでしたよね。
何故驚かなかったんですか?」
「えー?」
唐突な質問に、ミシェルはしかしにこりと笑みを深めた。
「そうねー、予想通りのものがあったからよー」
「じゃあ、もしかしたらもう一人のミシェルさんの存在、というかもう一人のミシェルさんがいるということを、知っていたんですか?」
「ええ、知ってたわー」
「やっぱり……」
ユキは真面目な表情で、先ほどミシェルの家を訪れたときのことを思い出す。
「近所のおじさんへの質問も、思い返すと、ミシェルさんは何日目になるのかって聞いてて、街には一ヶ月いなかった、ということも訂正してませんでしたし…」
「そうねー、ご近所さんを無用に混乱させるのは忍びないでしょうー?」
「え?」
きょとんとするユキに、ミシェルはまた笑みを深めて。
「あの人は、つい最近私を見たって言ってたわー。でも、私は彼に会った覚えはないわー。ということはー、ご近所さんが『私と見間違える誰か』が『私として』会話をしたことになるわねー」
「ええ、その通りですね」
そちらにはセレストが相槌を打つ。
ミシェルは続けた。
「なら次にすることはー、私のそっくりさんの動向を知ることでしょうー?そのためにー、それは私じゃない別の誰かだなんて言って混乱させてしまったらー、正確な情報が得られなくなるかもしれないわー。
だからー、忘れたフリをしてー、いつのことだったか聞き出したのよー」
「なるほど……すごいなあ、ミシェルさん……」
ユキは感心した様子でミシェルの話を聞いている。
「じゃあ、家からなくなっていたものってなんですか?その、もう一人のミシェルさんが持っていってしまったんでしょうか…?」
「いいえー、それはリーが持ってるわー」
「リーさんが?」
再びきょとんとするユキ。
「え、どうしてわかるんですか?」
「ふふ、見ればわかるのよー」
にこにこしたまま意味ありげに微笑むミシェル。やはり、『なくなったもの』や『見てわかる理由』を口にする気はないらしく。
ユキは僅かに眉を寄せて、さらに質問した。
「リーさんが何故あんな行動をしたのか……心当たりとか、ありませんか?」
「そうねー……」
ミシェルは少し黙って何か考えてから、ポツリと呟いた。
「…失くしたくない、んでしょうね」
「失くしたくない、って……その、リーさんが持ってる、『なくなったもの』のことですか?」
「そうよー」
「あの、それって、一体……」
「………」
ミシェルは口を閉ざしたまま、言いにくげに首を傾げている。
困ったような顔をしたユキと交互に顔を見比べて、セレストが口を挟んだ。
「では、質問を変えて…というか、戻していいですか?」
はっと顔を上げてそちらを向くユキとミシェルに、にこりと微笑んで。
「それで、あの方は……ミシェルさんとそっくりなあの方は、よく似た姉妹でないのだとしたら、一体どういう方なんですか?
その口ぶりと落ち着きようから、ミシェルさんはその正体をご存知なんでしょう?」

小さな喫茶店に、沈黙が落ちた。

彼女の秘密

「げほげほ、あ、あの……リーさん、じ、事情……っ!まず、その……ぜーぜー」
あちこちを走り回り、結局中央公園まで戻ってきた。辺りに追っ手がいないことを確認してからようやく足を止めると、体力のないミケはすでに半死半生の様子だった。
リーは繋いでいたミシェルの手を離し、心配そうにミケを覗き込む。
「大丈夫?ミケ。ごめんなさい、巻き込んでしまって」
「い、いえ、それ、は、いいん、ですっ、けど……!み、みず……」
「みみず?」
「みずですっ!」
「はい、水、汲んできた」
いつの間にか近くの水飲み場から汲んできたらしい水をアフィアが差し出すと、ミケは軽く礼をして一気に飲み干す。
「…はあっ。ありがとうございます、アフィアさん」
「気にしない。やっぱり、抱えた方、よかった?」
「い、いえ、それはちょっと……」
もう一度ふうと息をついて、リーに視線を移して。
「リーさん、あの、まず……そこにいらっしゃる女性を、紹介して欲しいんですが。その方が、あなたが探していた方で、よろしいんでしょうか?」
リーから、その傍らに佇むミシェル…にそっくりな女性、に視線を移し、ゆっくりと問う。
傍らの女性のことを『刺激しないように』と聞いていた手前、直球で誰とは聞けない。
とはいえ、ミケが学生街で会った女性が本物の『ミシェル』…正真正銘のリーの母親であることは明らかなので、今目の前にいるのは『そうではない別の誰か』ということだ。
ひとまずは刺激しないよう、ミシェルや母親というキーワードは避け、リーやこの女性の反応を見ながら突っ込んだ事情を聞こう、そう思っていたのだが。
「いま、つれてる、母親、ですか?」
「あ、アフィアさん?!」
あっさりと突っ込んで訊いてしまうアフィアにミケは仰天した。
きょとんとしてミケのほうを向くアフィア。
「どうした?似た女性、2人。リー、こっち、連れてきた。リー、母親、探してた。この人、母親、違う?」
「いや、あの、そうなんですけど……っ!」
リーやミシェルと初対面のアフィアからすれば、至極冷静で客観的な見解だ。おそらく普通の状態ならミケもそう訊いただろうし、その判断は全く間違っていない。
正直、ミケ自身もかなり混乱していた。
ミシェルのことを良く知るミリーの談によれば、『娘を探している女性』がいた。銀髪に薄紫の瞳、フレアスカートにショール…つまりは、ミシェルによく似た外見をしている女性。だが、ミシェル本人に会ったのなら『ミシェルに会った』と言うはずだ。ということは、それはミシェルではないということになる。
ミリーは思わせぶりな言い方をしたり故意に口を閉ざすことがあるが、嘘は言わないし口を閉ざすのはそうするべき正当な理由があるからだと思っている。
ということは、ミシェルがヴィーダにいない間、ミシェルにそっくりな女性がヴィーダにはいた、ということだ。そのそっくりな女性とは、おそらく目の前にいる彼女のこと。
だが、リーははっきりと『母を探している』と言った。そして、ミシェル本人と、それにそっくりな女性が顔を合わせた時、リーは迷わずに『母ではない女性』の手を取った。
そっくりで取り違えたというのは、おそらくない。リーはミシェルのことを『ママ』と呼ぶが、あの時ははっきり『ミシェル』と呼んでいた。
よって、リーは、『母を探している』と嘘をついて、『母ではない女性』を探していた、ということになる。
一体どうなっているのか、どこまで訊いていいのか。
混乱した様子でミケが唸っていると、リーは仕方なさそうに嘆息した。
「……ごめんなさい、混乱しているわよね」
申し訳なさそうにそう言って、傍らの女性の方を向いて。
「ミシェル。これからあたしはこの人たちと話すけど、あたしがいいと言うまであなたは喋らないで」
「わかったわー」
かなり機械的な命令じみたリーの言葉に、ミシェルと呼ばれた女性は特に変わった様子もなくにこやかに頷いた。
きょとんとするアフィアとミケ。
母親に対する態度とは思えないのはもちろん、友人や、もっと言えば人に対する態度とも思えない。まるでペットに言い聞かせるような言い方だ。
リーを良く知るミケはもちろん、アフィアも依頼を受ける時の誠実な対応から、彼女が人に対してそんな態度を取るということに違和感があった。
リーは再び彼らの方を向くと、真剣な表情でゆっくりと言った。
「彼女は『ミシェル』。あたしが探していたのは、このひとよ。でも、ミケの知っている、あたしの『血縁上の母親』ではないわ。嘘をついてごめんなさい、混乱させたくなかったの」
「い、いえ、あの…それは、いいのですが」
なおも混乱した様子で、ミケはさらに問うた。
「無事に見つかったようで良かったんですが……事情を、お聞きしても?さっき……向こうでもリーさんを、探していた、と言っていたんです。どうなっているんでしょうか?」
「向こう、というのは、ママのことね?」
「はい。ミシェルさんも……ええと、ややこしいな。僕の知っているミシェルさんも、リーさんを探していらっしゃいました」
ミケはきっぱりとそう言いきってから、言い難そうに視線を逸らして続ける。
「…実は、ミシェルさんを良く知る方に、ミシェルさんの居場所をご存じないか訊きに行ったんですよ」
「ママを良く知る人?」
「ええ、ミシェルさんの旧知の方だそうです。信用できる方です。
その方が言うには、ミシェルさんでない誰か……おそらくは今ここにいらっしゃるこの『ミシェルさん』が、ここ数日ずっと『娘を探していた』というんですよ。
その『娘』というのは……」
「ええ、あたしのことよ。彼女は、あたしを探して回っていたんだと思う」
「でも、リーさんのお母さんは僕の知ってるミシェルさんなんですよね?」
娘、ってどういうこと?と、言外に問うミケ。
リーは渋い顔をして視線を逸らした。
しばし、沈黙が落ちる。
ミケはしばらく考えてから、おもむろに口を開いた。

「リーさん、ひょっとして………」

「そういえばドッペルゲンガーの話ってありましたよね」
セレストが少しおどけたようにそんなことを言い出したので、傍らのユキはきょとんとして彼の方を見た。
「ドッペルゲンガー?」
「ええ。死霊ではなく、今現在生きている人間が、その人がいるはずのない全く別の場所で目撃される、という現象のことです」
「そ、そんなことがあるの?」
「まあ、幽霊とか、都市伝説の類ですね。自分のドッペルゲンガーを見た者は近いうちに死ぬ、と言われているとか」
「えええっ?!」
過激なことを言われて声を上げるユキ。
セレストはなだめるように微笑んだ。
「まあ、そういう話があるっていうだけです。さっきも言ったとおり、都市伝説の類ですよ。
でも、そうだとしたら、リーさんがミシェルさんのそっくりさんを連れて逃げた理由も説明がつくかな、と。前提がトンデモ話なので、まあシャレとして聞いてもらえればいいんですけど」
ギャグを説明せざるをえなくなった時のような微妙な気まずさでそう言うセレストに、ユキも俯いて呟く。
「リーさんが逃げた理由、かぁ……」
失くしたくないのだろう、とミシェルは言った。何を、何故、とは言わなかったし、話してくれる様子もないが。
やはり口を閉ざしたままのミシェルをちらりと見やり、セレストは続けた。
「こっちは事情がさっぱりなので、リーさんがミシェルさんに隠し事しているんじゃないか、だから逃げてしまったのでは、くらいの認識ですけど」
「隠し事?」
ユキが問い返すと、そちらに頷いて。
「俺は、リーさんが、自分が会いたくないから一緒に行ったんじゃなくて、あちらのミシェルさんに会わせたくなかった、だから連れて逃げたように見えたんですよ。
こちらのミシェルさんと、あちらのミシェルさんを会わせたくない、じゃあそれは何かって考えた時に、ぱっと思いついたのがドッペルゲンガーだったんで…まあ、これはないと思いますけど」
嘆息して言ってから、再びミシェルに視線を戻す。
「後はあちらのミシェルさんが昔の記憶しか持っていなくて、彼女にとっては未来に起こる事を知らせたくない、とか……?」
「昔の、記憶……?」
また唐突にこぼれた言葉にきょとんとするユキ。
セレストはミシェルの方を見据えたまま、続けた。
「ちょっと考えていたんですけれど。
あちらの彼女がミシェルさんに『そっくり』なだけの別人か、姿を映しただけの存在だったらリーさんが隠す必要はないですよね?こんな人がいたんだよって話題にするだろうし、知りあいを驚かせるつもりだったとしても先に見つかってしまったら隠す意味がなくなりますから。
ということは、リーさんにはあちらのミシェルさんをこちらのミシェルさんに合わせたくなかった理由があった、ということになる」
ミシェルは依然として黙ったまま目を閉じている。
ユキは固唾を呑んで、セレストの次の言葉を待った。
「ミシェルさん」
セレストは僅かに身を乗り出して、ゆっくりとミシェルに問う。
「彼女はひょっとして、記憶や感情まで映した『もうひとりのミシェルさん』なんですか?
リーさんはそれを知っているから、ミシェルさんに会わせないようにしているんでしょうか」
「もうひとりの……ミシェルさん……」
セレストの言葉を、ユキがゆっくりと繰り返す。
ミシェルはなおも黙ったままだ。
重い沈黙が流れる。
と。
「はーいお待たせー」
重い空気を破ったのは、のほほんとしたマスターの声だった。
見れば、3人の注文をトレーに乗せたマスターが、にこにこしながらカウンターからこちらに歩いてくる。
「なーんかマジメな話みたいだけど、まあお茶でも飲んで一息入れてよ」
「ありがと、マスター」
「すみません、いただきます」
ユキとセレストは笑顔で言って、マスターが出した飲み物に口をつける。
ミシェルはまだ黙ったまま、カプチーノにも手をつけようとしなかった。
マスターはミシェルの方を見て、にこりと微笑む。
「おねーさんのそっくりさんの話をしてるの?」
「え?」
まさか話に入ってくるとは思わなかったのだろう、ユキがきょとんとしてマスターを見る。
マスターはにこりとユキに微笑みかけた。
「こないだね、このおねーさんにそっくりな人、このお店に来たんだよ」
「ええっ?!ホント、マスター?!」
驚いて立ち上がりかけるユキに、笑顔で頷くマスター。
「うん。娘さん探してるっていって、ここに来てたよ」
それから、再びミシェルの方を向いて、変わらぬ口調で言った。

「僕も造形やるから思わずガン見しちゃったよー。すごく良く出来てるよね。おねーさんが作ったの?あのお人形」

唐突に飛び出したその発言に、ユキとセレストは絶句する。
「えっ……」
「お人形……あれが……?」
明らかに混乱している2人をよそに、ミシェルが閉じていた目をゆっくりと開き、マスターを見上げた。
だが、その瞳はそれまでの彼女の雰囲気とは全く違う、冷たく鋭いもので。
「……人の事情を軽々しく口にするのは、あまり褒められることじゃないわね」
やはりそれまでとはうって変わった冷たい声音に、ユキとセレストも驚いて彼女の方を見る。
目を開いたミシェルは、先ほどまでの暖かな笑みが嘘のように、仮面のような冷たい表情をはりつけていた。
「ミシェルさん……?」
「……」
その変わりように、恐怖に近い驚きの表情で彼女を見る2人。
が、マスターは動じることなくにこにこ笑いながら言い返した。
「かもねー。でもあれがおねーさんの事情かどうかなんて僕にわかんないじゃん?」
「わからないうちは口をつぐんでいるべきじゃないかしら。
あなたにも、知られたくない事情の一つや二つあるでしょう?少ないお客をこれ以上減らすのは私も忍びないわ」
「言うねー」
マスターは苦笑して大げさに肩を竦めた。
「でもさあ。軽々しく喋るのも、重々しく黙ってるのも、どっちもどっちでしょ?
おねーさんがそうして黙ってたって、何の解決にもならないことない?
おねーさんが喋らないでいても、このお客さんたちが見たことはずっと残り続けるし、なんかの弾みで僕みたいなのからポロっと情報が漏れるかもしんないでしょ?」
漏らした張本人であるにもかかわらず何故か偉そうなマスター。
ミシェルの冷たい視線とマスターの冷めた視線が静かに火花を散らすのを、ユキとセレストははらはらしながら見守った。
と。
「………そうね」
ミシェルは再び目を閉じてため息をつくと、テーブルの上のカプチーノを手にとって静かに口に含む。
ふ、と息をついて目を開くと、再びユキとセレストに視線をやった。
「不本意だけど、彼の言うとおりね。黙っていてごめんなさい。全て話すわ」
その表情は、やはり暖かさの欠片もない、仮面のような冷たい表情で。
ミシェルはゆっくりと2人の顔を見回すと、静かに言った。

「彼の言う通りよ。リーが連れて行ったあの女性は、私が私に似せて作った、人型のゴーレムなの」

「ゴーレム、ですか」
アフィアは相変わらず無表情で淡々としていたが、それでも若干驚いている様子だった。
ミケはそちらに頷きかけてから、言葉を続ける。
「リーさんは、いるべき場所にいなかった、と言っていました。けれど、ミシェルさんご本人はここしばらくの間ヴィーダにはいなかった。しかし、ミシェルさんにそっくりなこの『ミシェルさん』はいて、リーさんはそちらをずっと探していた。
そして、先ほどのリーさんの『ミシェル』さんに対する『命令』ともいえる物言い。以前、ゴーレムマスターさんが関わったお仕事があって、そのときに色々お聞きしたんですが、ゴーレムに着実に行動を実行させるためには、どうとでも取れる曖昧な言い方でなく、確実に条件付けをしなければならないそうですね。そのときの命令の仕方にとてもよく似ていたんです。
ということは、ヴィーダのお家にいた、ミシェルさんそっくりの……お留守番専用のゴーレムさんとかですか?とか、考えてみますが、なんともかんとも」
「さすがはミケ、ね」
リーは苦笑して、傍らの女性を見上げた。
「その通りよ。彼女はママが作ったゴーレム。ママそっくりの、ね。どちらも『ミシェル』で紛らわしいから、彼女のことは『コピー』と言うわね」
「ちょっと、待つ。いいですか」
アフィアはまた教師に質問するように手を挙げた。
「どうぞ」
「ゴーレム、土人形、違いますか。それ、どう見ても、人間」
それ、と指差したのはくだんのコピー。
彼女はリーの命令を守り、黙ったままニコニコと佇んでいる。
リーは頷いて、アフィアの方を向いた。
「そうね、ゴーレムは素材として、どこにでもある土や岩を使うことが多いわ。けど、実際は命の通わないものなら何でもいいの。人形でも、もっと言えば人の形をしていなくてもいい。高位の術者は、例えば剣に命令をして動かすことも出来るそうよ」
「なるほど、それ、すごくいい造りの、人形、ですか」
「そう。限りなく生体細胞に近い人工物を使って作った、人形よ。触ってみて」
リーに言われた通りに、コピーの手を触ってみるアフィア。
ふにふにと肌の触感を確かめ、僅かに目を見開く。
「とても、人形、思えない。まるきり、人間、そのものです」
「さすがはミシェルさんですねえ」
ミケも感心したようにそれを覗き込む。
アフィアは不思議そうにミケを見上げた。
「ミケ、母親、知ってる、ですか。うち、魔法のこと、専門的な知識、ない。けど、これだけのもの、作る、とてつもない技術、思います」
「そうですね、ミシェルさんはとても優秀なマジックアイテムクリエイターなんですよ。少し事情があって、あまり表立って活動してはいないんですが」
「そう、ですか」
事情があって、の部分には、触れるべきでないと思ったか単純に興味がないのか特に突っ込んでは訊かずに、アフィアはリーのほうを向いた。
「それで、留守番ゴーレム、連れて、なぜ、逃げる?作ったの、母親、何か、問題でも?」
リーはアフィアの質問に、僅かに辛そうに目を伏せる。
「……咄嗟のことだったの。とにかくママに見つかりたくなくて、早く見つけて元に戻したくて、依頼を出した…まさか、このタイミングでママが戻ってきてるなんて思わなかったから……」
「元に、戻す?」
違和感のある言葉にミケが首を傾げると、リーは俯いたまま頷いた。
「ええ。ミケが言った『留守番用のゴーレム』というのは的確ではないわ。今は彼女は使われていないの。もう彼女を使う目的がないから」
「目的、ですか?」
「ええ」
リーはもう一度頷いて顔を上げ、傍らのコピーを見上げた。

「……彼女は、あたしを育てるために、作られたものなの」

生みの母、育ての母

「…夫は、リーが物心つくかつかないかくらいの時に、亡くなったの」
相変わらず冷たい表情で、ミシェルは淡々と語りだした。
ちなみに、マスターは言うだけ言って早々にカウンターに戻り、皿を磨いている。
「……私は、とても…遠いところから夫の元にやってきて、夫と家族になって、リーが生まれて…
夫が早くに亡くなることはわかっていたし、あのひとはたくさんのものを私にくれたから、いなくなって悲しいし寂しいけれどリーと2人でやっていけるって思ってたわ。
…でも、ダメだった」
「ダメ……?」
ユキが小声で問うと、静かに目を閉じて。
「……私は、想像以上に精神的に夫に依存していたみたい。
夫と暮らしていた家も、夫が身につけていたものも、夫の残したものも、何もかもが彼がいなくなった現実を見せつけいるようで耐えられなかったの」
「そんな……」
痛ましげに声を上げるユキ。
セレストも神妙な顔でミシェルに訊いた。
「リーさんがいても、ダメだったんですか?旦那さんの忘れ形見でしょう?」
ミシェルは目を閉じたまま、ゆっくりと首を振る。
「……リーを見るのが、一番辛かった」
その表情も声音も、先ほどから変わらぬ仮面のような冷たいものだったが、それは荒れ狂う感情を硬く閉じ込めているようにも見えた。
「リーの笑顔も、しぐさも、たどたどしく話しかけてくる言葉も、何もかもがあのひとを思い起こさせて、あの人がいなくなったことを突きつけられて、とても辛かった」
「そんな……」
「………」
やはり痛ましげに声を上げるセレストの傍らで、ユキは黙ってその言葉を飲み込んでいた。

『…とても愛しているけれど。
とても、辛くなるわ。あの子を見ていると』

先ほど、ミシェルが呟いていたことが頭をよぎる。
なぜ辛くなるのだろう、と思っていたが、こういう理由だったのか、と思う。母親もいなければ子供を生んだこともないユキには、ミシェルが非情なのか、それとも死に別れた夫君をそれだけ深く愛していたのか、判断は難しい。
ミシェルを酷いとも可哀想ともいえずに、ユキはただ口をつぐんだ。
ミシェルは、なおも淡々と続ける。
「このままでは、私は辛さのあまり自分ごとあの子を手にかけてしまうかもしれない。壊れているのは私にもわかったの。
だから最後の理性で作ったのが、あのゴーレムだった」
「あなたの感情と記憶を全て移したゴーレムに、あなたの代わりにリーさんを育ててもらう……ということですか?」
「感情と記憶については後で説明するけど、要するにそういうことよ。
あのゴーレムにリーの世話をしてもらって、私は私の傷が癒えるまで別の場所で暮らす。
それがあの時点で私に出来うる最善のことだと思ったし、今もそう思ってるわ」
再び、沈黙が落ちる。
ミシェルの取った手段の是非はともかく、あの『ミシェルにそっくりな女性』が一体何者なのかはわかった。
次に理解すべきは。
「では、あのゴーレムは今もミシェルさんの家でリーさんのお世話をしていて、リーさんがいなくなったために探しに外へ出た、ということですか?」
セレストがさらに問うと、ミシェルは首を振った。
「いいえ。リーはもう一人で家を出て旅をしているのだから、お世話をする必要はないでしょう?」
「では……」
ミシェルはセレストに視線をやりながら、どこか遠くを見つめているようにも見えた。

「……約束をしたの。あの子と」

「ママはパパが死んでからふさぎ込んでしまって、家から離れた場所に研究室を作ってそこで暮らすようになったの。
あたしはまだ小さくて、自分ひとりでは暮らせなかったから、あたしの世話をするためにママが作ったのが、このコピー。
通常のゴーレムよりかなり多くの命令を搭載していて、経験によって記憶も蓄積して学習することが出来る……日々の暮らしの面倒はもちろん、ちょっとイレギュラーなことが起こったとしても問題なく対応できるわ」
「すごいですね……」
再び感嘆の声を上げるミケ。
以前関わったゴーレムマスターもかなり高度なゴーレムを作っていたが、外見も振舞いもここまで人と見分けがつかないゴーレムとなればもうこれは人の手に余る領域だ。
もっとも、ミケはミシェルがそもそも人でないことを知っているので、さすがという感想しか出てこないわけだが。
「…家から離れた研究室って、ひょっとしてゼゾにある、遺跡みたいな…?」
「知ってるの?そう、あの遺跡を改造した研究室にずっと閉じこもって、あたしはもちろん、他の誰にも会わずにいたの」
「そうだったんですね……」
ありえないほど罠の張り巡らされた遺跡を思い出し、納得するミケ。確かにあそこならば、誰とも接触せずに過ごすことが出来るだろう。
詳しくは「賢者のわすれもの」をご参照ください(CM)
「では、リーさんは実質はそのコピーさんに育てられた、と」
「記憶がない頃はずっとママが見ていてくれたんだと思うわ。けど、物心ついてからママが帰ってくるまでは、ずっと彼女が見ていてくれたの」
「そうだったんですか……」
正直、あの穏やかで優しく、冷静で賢いミシェルが、自分のコピーを作って娘の面倒を見させるほどにふさぎ込んでしまったという図が全く想像できない。
「寂しくなかった、ですか」
淡々とアフィアが訊くと、リーは苦笑した。
「寂しくなかったといえば嘘になるわ。けど、おぼろげだけど、パパが亡くなってママがどんなに悲しんでいたかは覚えているの。
もっと酷いことになる前に、このコピーを作ってあたしを任せたことは、ママの愛情だったと思ってるわ」
「もっと酷いこと……」
発言の意図が読めなかったミケに、静かに視線を向けて。
「…例えば、あたしと一緒に命を絶ってしまう、とか」
「そんな……」
「そうしてもおかしくないくらい、ママの悲しみようは深いものだったの。それは、あたしも納得していたわ。
一人なのは寂しいけれど、コピーもいるし、あれだけ悲しんでるママに無理を言うことは出来なかった」
「………」
淡々と語るリーの言葉に、ミケは言葉を返せずに黙り込んだ。
母の姿をした母ではない人形と2人で過ごしていたリーの気持ちも、そんなことをせざるを得なかったミシェルの深い悲しみも、あまりに途方もなさ過ぎて想像もつかない。
リーはふっと遠い目をすると、言葉を続けた。
「……ママはどうにか持ち直して帰ってきてくれたわ。あたしも成長して、ママの手を借りずに一人で旅も出来るようになった。
それは純粋にママのおかげだと思うし、感謝もしてるわ。でも、どうしてもひとつだけ、譲りたくないことがあって、ママにお願いをしたの」
「お願い、ですか」
アフィアが言うと、リーは遠い目をしたまま頷いた。

「コピーを、処分しないで欲しい、って」

「処分、ですか……」
ミシェルの言葉に、セレストは少なからず驚いたようだった。
「それはまた、どうして?というより、ミシェルさんはどうしてゴーレムを処分しようと思ったのですか?
あれだけのものを処分してしまうのは、正直俺ももったいない気はしますが」
「もったいないからこそ、よ」
ミシェルはやはり、冷たさを感じるほどに淡々と、セレストの問いに答える。
「あなた達は、あれがゴーレムに見えた?」
「いえ、言われるまで人間だと思ってましたし、言われてもまだ信じられないです……僕が、あまり詳しくないからかもしれないけど」
ユキの言葉に、セレストも同様に頷いた。
「俺もです。ゴーレムは専門外ですけど、あれがゴーレムだとしたらとてつもない技術だと思います」
「そう。あれは、人の手には余る技術だわ。だから人の目に触れないように処分しなければならないの」
ミシェルの言葉は冷たく断定的で、反論の隙を与えない。
「やむをえない理由があってあれを作った。けれどその必要がなくなったのなら、あれが外に出て人に存在を知られるのはとても危険だわ」
「で、でも、人を傷つけたりするものじゃないんでしょ?」
戸惑った様子でユキが言うと、ミシェルは冷たい表情のまま首を振った。
「あれを分析されて、同じものを作られてしまったら?命のない、切られても痛みを感じない、ある程度の判断力を備えたものが、大量殺戮の命令を搭載されてためらいなく周囲の人間を無差別に殺すことにならないと言える?」
「あっ………」
思いもよらないことを言われ、しゅんとするユキ。
すると、セレストが言った。
「では、家から決して出ないように命令すればいいのでは?ゴーレムなのですし、命令には従うはずでしょう?」
「あれだけの状態を維持するのは定期的なメンテナンスが必要よ。そのまま放っておいては、いつ命令系統に異常が起きて『家を出るな』という命令が消去されるかわからない。
けれど、私もあれをメンテナンスするのは辛いの。本当は、見るのも」
「そうですか……」
夫の面影のある娘を見るのも辛いというなら、娘を放り出して閉じこもった、という自分の行為をまざまざと見せつけるゴーレムを見るのもまた辛かろう。
その是非はともかく、気持ち自体は理解できる。
セレストは、ふむ、と唸って、首を傾げた。
「では、リーさんはどうして、ゴーレムの処分を拒んだのでしょう?
ミシェルさんの感情と記憶を移したゴーレムならば、ミシェルさんが本来の立場に戻ればそれほど変わりはないのでは?」
「それなんだけど」
ミシェルは僅かに首を傾げ、冷静に遮った。
「あのゴーレムに私の記憶も感情パターンも入っていないわ。最低限の一般常識と現状把握、それから、夫の感情パターンを入力してあるの」
「旦那さん、の?」
ユキが少し驚いた様子で言うと、そちらに頷きかけて。
「夫はリーが物心つく前に亡くなってしまったから、リーに少しでも同じものを触れさせたいという気持ちで、ね。記憶を入力してるわけじゃないから全てが同じではないけれど、行動や言動のパターンは同じになるようにしてあったわ」
「なるほど、それで……」
ゴーレムのメンテはおろか見るのも辛いというのは、そういう理由もあったのか、と納得するセレスト。
「ということは、リーさんはミシェルさんとゴーレムを同一としては捕らえられず、実質自分を育てた母であるゴーレムを処分して欲しくないと願ったということですね」
「ええ」
「じゃあ、あの、家からなくなってたもの……リーさんが持ってる、失くしたくないもの、って……」
ユキがおそるおそる問うと、ミシェルはゆっくりと頷いた。

「ええ。あのゴーレムのことよ」

「ママはコピーを処分しない代わりに、あたしと約束をしたの」
リーはなおも遠い目で、淡々と語った。
「ひとつは、コピーを起動するのは、あたしが家にいる間だけ。また旅に出る時は、コピーをスリープさせていく、ということ。
ひとつは、ママはコピーに関わらない、メンテもしないし相談にも乗らない、ということ。
最後のひとつが」
そこで、僅かに辛そうに目を閉じて。
「……もしコピーが誤作動を起こして、人の目に触れるようなことがあったら、そのときはコピーを処分すること」
沈黙が落ちる。
リーにかける言葉を見つけられず、いたましげに彼女を見やるミケ。
リーは顔を上げて、続けた。
「あたしはママと約束をして、その通りにしたわ。コピーをヴィーダの家に置いて、ママがいない時に帰ってきて起動させてた。
ママがコピーを見るのが辛いっていう気持ちはわかってたから。
そうしたら、ママがコピーの話し方を真似て喋ってくれるようになった」
「えっ」
ミケはきょとんとして声をあげた。
「ミシェルさんの喋り方って…素じゃないんですか」
「昔はああいう話し方じゃなかったの。今も、たまに…たとえば、ママの故郷の話をする時とかは、素の喋り方に戻るわ。あたしの喋り方に近いかも」
「そうだったんですね……」
ミシェルの素の話し方を知らないミケは、やはり想像もつかなくてひたすら感心するばかりだ。
リーは続けた。
「コピーは、ママの外見と喋り方にパパの思考パターンをミックスさせているから、ママとパパを融合させたような感じになってるのね。
ママも、コピーを想うあたしの気持ちを汲んでくれたのか、それとも、コピーを処分することになった時にあたしがそのことを受け止められるようにかはわからないけど、コピーを装って接するようになった。
それは嬉しかったし、これで良いと思ってたわ。この状態がずっと続くなら、それが一番良いって。
でも……恐れていたことが、起こってしまった」
「コピー、誤作動、起こした、ですね」
アフィアの言葉に、ゆっくりと頷いて。
「家に帰ったら、コピーが置いてあるはずの場所にいなかったの。すごく探して……でも、あたしとママ以外にあの家に入れる人はいないし、ママがコピーに触るはずはないから、何かのはずみで起動してしまったとしか考えられない。
コピーはあたしの世話をするように命令されているから、家の中にあたしがいないのを知って、あたしを探しに出たんだと思うわ」
「なるほど……」
「あたしはコピーを探して…とにかく、ママに知られる前に見つけて連れ戻さなきゃって。でもなかなか見つからないから、依頼を出すことにしたの。
コピーがゴーレムだということを知られないように、あたしの本当の母親を探すっていうていで。コピーも、娘であるあたしを探しているでしょうし、人手を増やせばすぐに見つかると思ったわ。
まさか、同じタイミングでママがヴィーダに帰ってきてるなんて……」
はあ、とため息をついて、リーは額を手のひらで覆った。
再び、沈黙が落ちる。
「それで、これから、どうする、ですか」
淡々とした声で沈黙を破ったのは、アフィアだった。
顔を上げてそちらを見るリーに、さらに言葉を続ける。
「ミシェル、追ってくる。うち、なに、できますか」
「アフィア……」
アフィアは先ほどと同じように、契約の延長と確認をしているのだと知ったリーは、複雑そうに彼を見た。
そこに、ミケも同様に声をかける。
「どうするか、というか……リーさんは、どうしたいんですか?」
心配そうに、いたわるように声をかける。
「とりあえず逃げちゃったんですけど、逃げ続ける事って、できないと思うんですよ。
親子だし、家族というか家庭って、帰る場所なんじゃないかな、と思っているので。リーさんの帰る家って、ミシェルさんのいる場所なんじゃないかな、と思っているのです。新しい家庭とか、自分の住む場所とかそういう感じで」
「……?」
ミケの言いたいことが良くわからずに首を傾げるリー。
ミケは気まずそうに視線を動かした。
「……まぁ、親兄弟のいる場所が帰る場所、なんて思いこみだと、わかってるんですけどね。
でも、先ほどのような理由があったとしても、リーさんとミシェルさんは家族なのですし、ミシェルさんの家がリーさんの帰る場所だと思うんです」
「………」
リーは浮かない表情のまま、俯く。
ミケはもう一度彼女に視線を戻すと、さらに言った。
「ずっと、逃げ続けるわけじゃ、ないんでしょう?……というか、あなたはそんなこと、しないと思っています。時間が欲しいとか、そんな感じかな、と思ったんですが」
「………」
リーはもう一度、額を手で覆って、深くため息をついた。

「………わからない……どうしたらいいか、わからないの……」

約束の履行

「事情はわかりました」
一通りの話を聞き終え、セレストは改めて言った。
「それで…ミシェルさんは、これからどうするつもりですか?
リーさんを追いかけて見つけるとして……その後は?」
セレストの質問に、ユキも心配そうにミシェルを見る。
ミシェルは相変わらずの冷たい表情で、淡々と言葉を紡いだ。
「もちろん、ゴーレムを処分するつもりよ」
その声音は無機質でよどみない。
一切の感情をはさまない、彼女こそが血の通わぬゴーレムなのではないかと錯覚させるような。
「ゴーレムが誤作動を起こして、人の目に触れるようなことがあれば、処分する。
あの子と交わしたのは、そういう約束だったのだから」
「………」
「………」

狭いカフェが重苦しい沈黙に包まれる。
セレストとユキは、先ほどまでニコニコしながら共に娘を探していた優しい女性が、急に理解の及ばぬ生き物になってしまったような錯覚を覚えながら、その姿をじっと見返していた。

「ママと交わした約束は守らなきゃならない、その理由も全て理解しているわ」
リーは額を手で覆ったまま、苦しげに言葉を吐き出した。
「ママのことは尊敬してるし、感謝してるし、間違ってないと思ってる。
ママの辛い気持ちもわかるし、尊重したい。
でも」
ふっと顔を上げて、悲しげな視線をコピーに向けて。
「あたしにとっての『母親』は、あの人じゃないの。
あたしに毎日ご飯を作ってくれて、あたしの話を聞いてくれて、あたしに本を読んでくれて。
毎日傍にいてくれて、あたしの支えになってくれたのは、彼女なの。
あたしの『母親』は、ママじゃないの、『ミシェル』なの……!」
すがりつくようにコピーのショールをぎゅっと握り締めるその姿は、傍目で見ても痛々しい。
リーは辛そうに目を閉じて、震える声で続けた。
「ゴーレムに感情はないわ。処分されるということに対して悲しみも怒りもない。
自分がもう動くことはない、そのことを事実として認識するだけ。
だから、彼女が可哀想とか、そういうことじゃないの」
ぐ、と握った手に力を込めて。

「あたしの我侭なのはわかってる。でも。
『ミシェル』を失いたくない。
あたしから『母親』を奪わないでほしいの……!」

ひとけのない公園に、押し殺したようなリーの言葉だけが響いて消える。
ミケとアフィアはかける言葉を見つけられず、その姿をただ見つめている。

「処分するつもりよ」

「あたしから母親を奪わないで」

交わることのない母娘の言葉は、やはり交わらないまま沈黙の中へと溶けて消えていくのだった。

To be continued…

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