Mieken de=Piece

「…………」
腕をまくったワイシャツに黒のスラックスという、いつもと違ういでたちで。
こころもち青ざめた人待ち顔で、ミケは真昼の月亭の前に立ち尽くしていた。
そろそろストゥルーの刻になろうかという時刻。まだ陽は落ちる気配を見せないが、大通りの屋台もぼちぼち開き始め、時折、可愛らしい仮装をした子供たちが楽しそうに駆け抜けていく。
大通りから少し外れた場所にあるこの真昼の月亭は、大通りほどの賑わいは見られない。ただ、遠くに聞こえる喧騒が、祭りの熱気をかすかにこちらにも伝えていた。
「あ、いた」
びくう。
後ろからかけられた声に、身をすくめるミケ。
「まさか炎天下に待たせたりしないわよね、と思ってたけれど。感心だわね」
こつ、こつ、と石畳に響く音に、恐る恐る振り返る。
「あははは、も、勿論です。お久しぶりです、先生」
優雅に歩いてくるのは、清楚な黒いワンピースを身に纏ったエルフの女性。輝く金の髪から覗く大きな耳に、神が作り上げた最高の芸術品と称えられる完璧な美貌。
黙って立っていれば誰もがその美しさに陶然とするだろう。
が。
にこり。
淑やかな、美しい笑みを浮かべて、ミケの前で立ち止まって。
「……元気にしているなら、もっと早くに手紙出しなさいね、この馬鹿弟子がっ」
だす。
前フリも何もなくいきなりピンヒールでミケの足を踏みつける。

昼下がりの裏通りに、ミケの絶叫が響き渡った。

ことの始まりは、数日前。
定宿の主人がミケ宛の手紙を渡してくれた。
「誰でしょ……う!?」
ひらり、と差出人を確認して、絶句する。

ミルフィール=ヴァストフォレスト。

流麗な字で書かれたその名前に、ミケは条件反射で背筋が凍るのを感じた。
以前、幻術が大きく関わる依頼を受けたときに、久しぶりに手紙を書いて。それから幾度かやり取りはしているのだが。
未だに、たまに訪れる手紙に戦慄する自分がいる。
「今回は、何でしょうかね…」
かさ。
出来ればあまり見たくないが、見なければ後でもっと悲惨なことになりかねないので封を切る。
ふわり、といい香りのする、淡いブルーの便箋には、ただ一言。
『洸蝶祭、そっちに行くから、荷物を持ちなさい』
ミケは一瞬硬直して、それからゆっくりと視線を遠くへやった。

「……端的に言うと、奢れということですね……」

「あの、先生。今日はまた、どうしてヴィーダまで?……ついに、人狩りですか?」
「ほほほ、あなたも面白い冗談が言えるようになったのねぇ……?」
ミルフィールの笑顔に薄ら寒いものを感じて口を噤む、『口は災いの元』の体現者。
彼女はそれは華麗に流して、すい、と視線を移した。
「出店でマジックアイテムを探そうと思って。色々な物が流れ込んでいるみたいだし、どうせならあなたがいた方が、手広く探せるじゃない」
大通りに並ぶ屋台。真昼の月亭で近況報告をしている間に陽も落ち、大通りの屋台は準備を整えて威勢のいい呼び声を飛ばしていた。
食べ物から雑貨、アクセサリーや薬草に至るまで、種々雑多の屋台が所狭しと軒を並べている。確かにマジックアイテムの屋台もあろうが、この中から探し出すのは至難の業のように思われた。
「が、頑張りますが……」
普段出もしない屋台の案内をしろという無謀な命令に、それでも逆らうことは出来ずに頷くミケ。
「で、どのようなものがよろしいのでしょうか……?」
「そうねー」
ミルフィールは興味深そうに屋台を見回しながら、言った。
「洸蝶祭と言えば、死者と話せるアイテムが出回るらしいじゃない。本物を探したいわよね」
「え、本物を、ですか?…あるんですか、そんなものが」
「さあ、あるんじゃない?」
「えー……」
「何、死者が怖いの?」
「そういうわけではないですけど…」
「ま、それが本命で後は面白そうな物?要は何でもいいのよ。そう言うわけで、行くわよ」
言って、足を速めるミルフィール。
(死者は怖いですが、先生はもっと怖いです……)
その一言はさすがに口に出さずに、ミケもそれに合わせて足を速めた。

「これが、金貨1枚ですってぇ?あなた、客を舐めてるの!?」
「わあああ、先生、やめてー!一般市民にケンカ売っちゃ駄目です!」

「これ欲しいなー。いくらになる?」
「んー、金貨5枚ってところかな」
「えー、高い。もっと負けて?」
「いや、先生それ以上は無理ですから!」
「大丈夫よ、こういうときは女の武器を使うのよ?」
「おんなのぶき…?」
「ええ、こうして可愛らしく首を傾げてね、片手に火の玉待機させておけば大抵のところは負けてくれるから」
「先生、その武器は女性限定ではありませんっていうか脅迫です!」

「あら、このお店面白そう」
「ちょっ、そろそろ荷物が崩れそうなんですけど……」
「いらっしゃいませー、見ていってくださいねー」
「………っっ!!」
「どんなものを置いてあるの?」
「呪いグッズが主になってます。ほらこれなんて、自分が勇者になる夢を見せたままずっと眠らせられる呪いの……」
「この店だけは、シャレにならないからやめてくださいっ!」

…などと、ミケは真っ青になりながら「たのしいおかいもの」に必死でツッコミを入れ続け、僅か半刻の間にかなりぐったりしてしまった。
「ミケ、わたくし、疲れたんだけれど」
ミケの様子を全く気に留める様子もなく、面倒げに言うミルフィール。
ミケは嘆息して、山盛りの荷物にかけていた浮遊魔法を解除し、空いていたベンチの上に置く。
「そこに座っていてください。今、何か買ってきますから」
「あらそう。じゃ、お願いね」
ミルフィールはにこりと笑ってベンチに腰掛け、足を組む。
ほどなくして、紙コップを2つ持ったミケが戻ってきた。
「どうぞ」
「ご苦労様」
ミケが差し出したコップを笑顔で受け取り、そのまま口をつけるミルフィール。
ミケはそのそばに立ったまま、自分もコップに口をつけた。
「なかなか、見つからないわねえ」
「そうですね、まあ死者の声が聞こえるアイテムなんて、本物がそんなにごろごろ転がってたら大変ですから」
「にしたって、こうガラクタばかりでは探す気も萎えるわ。ボッタクリも多いし」
「はは、こういうところは多少高くても雰囲気を楽しむものですよ」
「人間ってよくわからないわね」
「ていうか、これだけ大量に買っておいて文句とか…」
「何か言った?」
「いえ、なんでも」
そんな会話を、2人がしていると。

「ねえ」

突然かけられた声に、2人はそちらを振り向いた。
そこには、14歳くらいの少女が立っている。背中までの灰色の髪に、快活そうな表情が印象的だ。腰にはどこかで見たような銀の剣が下げられていた。
「あの、何か困ってる?私が力になれることなら相談に乗るよ?」
初対面の少女に唐突にそんなことを言われ、2人はきょとんとして顔を見合わせる。
「ええと」
気を取り直して少女の方に向き直るミケ。
「ちょっと、死者と話ができるアイテムというのを探しているんですよ。まぁ、屋台も露店も多いし、なかなか見つからなくて」
困るというほどではないのだが、今話していたことをそのまま伝えてみる。
まあ、こんな少女がそんなものを知っているとは思えないのだが、問われたので、という様子で。
が。
「あ!それなら、あっちの方の怪しげな雰囲気のお店で、それっぽいものを見かけたよ」
「え、本当ですか」
予想に反してあっさりと少女が答えたので、ミケは思わず身を乗り出した。
苦笑する少女。
「…話したい人とも自由に話せないなんて、世の中は難しいよね」
「え、あ、はい、そうですねえ」
ミケは少女の言葉にどうコメントしたものか困って、とりあえず流してから礼を言った。
「ありがとうございます。行ってみますね。でも。駄目ですよ、こんな遅い時間に女の子1人では。危ないですよ」
「あはは、大丈夫だよー」
あっけらかんとした様子で手を振る少女。
「困ってるみたいだから、力になりたかったんだ。いつも親友がお世話になってるんだもの」
「え、親友……?」
「じゃあね!」
ミケが問い返す前に、少女は踵を返して再び人ごみの中へ消えていった。
呆然とそれを見送るミケ。
「……親友。ええ、誰のことでしょう?」
首をかしげると、座っていたミルフィールがにやりと唇の端を歪める。
「ほうほう、あんな年頃の子にまでコナかけてるのかしら?」
「かけてません!」
「でも、心配ねぇ。暗くなってから子どもが1人じゃあ」
「でも、ナイフ持ってましたね。案外腕に覚えがあるのかもしれませんね」
「そうねぇ。確か、向こうの方のお店だって言ったわよね?行ってみましょうか」
言って立ち上がり、少女の指し示した方向に向かってさっさと歩き出すミルフィールに。
「あ、はい、行きましょう」
ミケは慌てて荷物に浮遊魔法をかけなおし、その後に続くのだった。

先ほどの少女が示した店は、なるほど確かに『怪しい』雰囲気の店だった。
一歩間違えば呪いグッズなのではないかと誤解されかねない風貌の商品が所狭しと並べられている。
店主は黒いフードを目深に被った(おそらく)男性で、薄暗い屋台の奥からぎろりと2人を睨み上げる様子はちょっとしたホラーだった。
「ここに、死者の声を聞くアイテムがあるって聞いたんだけど」
少し引き気味のミケに対し、ミルフィールはなんら気にした様子もなく店主に話しかけた。
店主はじろり、とミルフィールを見ると、黙って手前を指差す。
手の平ほどの大きさの、巻貝。
「これが?」
ミルフィールはそれを手にとって、店主に確認した。
無言で頷く店主。
ミルフィールは手に取った巻貝をしげしげと眺め、からかうような笑みを漏らした。
「本物なんでしょうねぇ?」
「……嫌なら買うな」
ぼそりと低い声で言う店主。男性だというのは間違いではないようだ。
ミルフィールはくすりと笑った。
「冗談よ。効果はどのくらい?」
「…そんなに長くはねぇ」
「そう。じゃ、いただくわ」
「えっ、買うんですか?」
彼女があっさりと言ったことに、驚くミケ。
ミルフィールは顔だけミケのほうを向けて、頷いた。
「ええ」
「え、本物…なんですか?」
「さあ、それはわからないけど」
そして、手の上の巻貝に視線を移して。
「かなり高度な魔法がかけられてるわ。今までのものとは比べ物にならないくらい。ひょっとすると、ひょっとするかもよ?」
「そう……なんですか…」
拍子抜けしたような声を出すミケ。
ミルフィールは再び店主の方を向いた。
「それで?おいくらなのかしら」
「……金貨10枚」
ぼそりと返ってきた言葉に、再び驚くミケ。
「そ、そんなにするんですか?!僕、もうこれ以上持ち合わせないですよ?!」
今までの買い物でかなり軽くなってしまった財布をちゃらちゃらと確かめて。
ミルフィールは仕方なさそうに嘆息した。
「仕方ないわねぇ。わたくしが出すわ」
「え」
「10枚でいいのね?」
ちゃらり。
懐から財布を出し、中から金貨を取り出して店主に渡すミルフィール。
「……まいど」
「先生、いいんですか?」
ちょっと信じられない、という様子で問うミケに、ミルフィールは仕方なさそうに肩を竦めた。
「まあ、わたくしの買い物だし?無い袖を鼻血が出るまで振ってみても効果はなさそうだし」
「……この荷物は全部先生の買い物ですが……」
「何か言った?」
「……いえ…ナンデモアリマセン……」
ミケは色々と諦めて、それでも目的が達せられたことに安心して踵を返し…

どん。

ちょうど後ろにいた誰かにぶつかって体制を崩す。
「おっと、すみません……あれ」
慌てて相手に謝ると。
「……あれ、ミケ」
「ジルさん。お久しぶりです」
ミケよりかなり背の低いその人物は、以前共に仕事をしたこともある獅子獣人の少女、ジルだった。
「すみません、前方不注意で」
「……いや……私もよそ見しながら歩いてたから……」
言うジルの様子は、少しそわそわしているようで。
ミケは少し眉を寄せた。
「危ないですよ、こんな時間に。さっきも同じくらいの子が1人でいましたけど……暗いし、人も多いし、あまり1人で行動しないほうが」
「……ごめん……でも、どうしても探さなくちゃいけないんだ…」
「…探す?何か、なくされたんですか?」
きょとんとしてジルに問うミケ。
ジルは僅かにためらって、言った。
「……大事な、物を。どうやら、盗まれたらしい……」
「盗まれた?大変じゃないですか」
ミケの表情が険しくなった。
「大事なものって、一体何なんですか?」
「……短剣」
ジルは言って、ミケをまっすぐに見返す。
「銀色の、凝った細工の…大きな金の宝石がついてる、鞘で…これくらいの大きさの」
これくらい、と手で示して。
「ねえ、それってさっきの子が持っていたものじゃない?」
ミケの後ろに立っていたミルフィールが口を挟み、ミケはああ、と頷いた。
「そういえば…そうでしたね。どこかで見た剣だと思いましたけど、そうだ、ジルさんが持っていた剣だったんですね」
「持ってた……?」
興味深そうに身を乗り出すジル。
ミケは頷いた。
「ええ。こう…長い灰色の髪で、快活そうな感じの女の子です。ちょうど、ジルさんと同じくらいの年でしたよ。
盗みをするような悪い人には見えませんでしたけど……親友が世話になっているから、と親切にしてくれて。
心当たり、ありません?」
問われ、僅かに首をかしげるジル。
「……さあ。そんな知り合い、今はいないはずだけど」
今は、の含みが気になるが、ミケは流して頷いた。
「そうですか?それならいいんですけれど。人も多いし、暗いし。行くのなら、お気を付けて。同じ事を、彼女を捕まえたら言っておいてください。……親切にしていただきましたから」
たとえ、彼女が盗みを働いたとしても。親切にしてもらったことは確かだから。
落ち着いた表情でそう言うミケに、ジルもゆっくりと頷く。
「わかった……それで、その人はどっちに行ったの?」
「あちらの方に行かれましたよ」
「……ありがとう。それじゃ」
ジルは短く言って、ミケの指差した方向に駆けていった。

からん。
「いらっしゃーい」
ドアベルの音と共に、陽気なマスターの声がかかる。
「こんばんは、マスター」
「あれ、ミケくんじゃーん。いらっしゃい」
喫茶ハーフムーンにやってきた2人は、洸蝶祭にもかかわらず相変わらず閑散とした店内に足を踏み入れた。
テーブル席に座ると、マスターはニコニコしながら水とお絞りを持ってくる。
「はい、どーぞー」
「あ、ありがとうございます」
「ありがとう」
「今日もまたすっごい美人さん連れだねー」
「え、えええ?あいたー!」
思わず驚きの声を上げて盛大につねられるミケ。
ミルフィールはにこりと笑った。
「この子がいつもお世話になっているようね。一応、わたくしの弟子なの」
「わ、お師匠さん?」
マスターは興味津々の様子で瞳を輝かせる。
「魔法の?」
「そう。これでも、それなりに使えるのよ?………まあ」
そこで、すい、と目を細めて。
「あなたほどでは、ないでしょうけれど?」
ぎく。
なんとなく冷や汗をたらすミケ。
ミルフィールは一目でマスターの力量を…彼が、魔族だということを見破ったということだろうか。
が、当のマスターは全く気にする様子はなく、へらりと人懐こそうな笑みを浮かべた。
「へえぇ、そうなんだぁ。ミケくんはよく来てくれる、常連さんなんだよ」
あなたほどではない発言はものの見事に流して。
ミルフィールもさして気にする様子もなく、にこりと微笑み返した。
「あら、そう。どう、この子?何か粗相はしていない?」
「えーとんでもない。上客さんだよー、今日はいないけど、猫ちゃんも可愛いし」
今日はミケの使い魔のポチは宿で留守番だ。
「それで?わたくしの他にも、美人をここに連れてきているのね?この子」
「ええっ?!」
ミルフィールの質問に、マスターではなくミケが先に盛大に驚く。
「え、ちょ、そんなことは、っていうかなんで」
混乱するミケに、くすくすと面白そうに笑うミルフィール。
「さっきこの人、今日『も』『また』美人を連れてる、って言ったわ。ということは、今までにもここに美人を連れてきているということよね?」
「うっ……!」
答えに詰まるミケの代わりに、マスターがあっけらかんと答える。
「そうなんだよー、ミケくん来るたびに違う美人さん連れててねー」
「あらぁ……そうなの」
「ちょ、違います先生、ていうかマスターも誤解を招くような言い方はやめてください!」
意味ありげなニヤニヤ笑いをする2人に真っ赤になって弁明するミケ。
「もう!いいから注文……あ、あああ、そうだ」
ミケは今度は青くなって、先ほどまでの買い物行脚ですっかり軽くなってしまった財布を取り出した。
「……マスター、すみません。持ち合わせこれなんですけど!できる限りこの人の要求に応えてください……」
「ええ?」
驚いた様子のマスターに、がくりと肩を落とすミケ。
「僕、水で……ああ、せっかく生活に余裕ができたと思ったのに……」
「…っていうことらしいけど、どうするー?」
マスターはとりあえず財布を受け取って、ミルフィールのほうを向いた。
「何があるの?」
「一通りは」
「この子はいつも何を?」
「紅茶とかかなー」
「じゃあ、わたくしも同じものを。何か甘いものはある?」
「今日は洸蝶祭限定のフェアリーケーキがあるよー」
「あら、じゃあそれを頂戴」
「以上で?」
「以上よ」
「んじゃ、ミケくんの分も頼めるね。いつもの紅茶でいい?」
「ええっ」
ミケは意外な展開に少し驚いたようだった。
「え、あの、いいんですか?」
「大丈夫じゃない?」
ちゃらちゃらと、手の上で財布の重さを確かめるマスター。
「2人、同じ紅茶だから、大きめのポットで持ってくるね。ちょっと待っててねー」
マスターは言ってミケの財布をテーブルの上に置き、さっさと引っ込んでいった。
狐につままれたような表情で座りなおすミケに、くすりと鼻を鳴らすミルフィール。
「いいお店じゃない」
「ええ、まあ」
「まあ…あの人はなかなか曲者のようだけれど?」
「え、そうなんですか?」
きょとんとするミケに、ミルフィールはくすりと笑った。
「まあ、こちらで元気でやっているようで何よりだわ。毎回違う美人を連れてくるくらいには?」
「もう、それはいいですから…」
「ふふふ。まあ、音信不通でないだけよしとしましょう。未だに手紙ひとつよこさないわが弟に比べたら、上出来だわ」
「ペルルさん、まだ音沙汰無しですか?」
「ええ、ひとつも」
ミルフィールは嘆息して、視線だけをミケに移した。
「あなた、会っていない?あの子に」
「いえ、存じませんけれど」
さらりと嘘をつくミケ。
本当はナノクニで見かけたのだが、その時約束した手前、知らないフリをすることにしている。
「……そう」
ミルフィールはただにこりと微笑むだけだった。

マスターは紅茶とケーキを運んでくると、またさっさと奥に引っ込んでしまった。
奥でなにやらがさごそと音がするが、何をしているのだろうか。
「なかなか美味しいじゃない」
可愛らしい蝶をあしらったレモンケーキを堪能しながら、ミルフィールが言う。
「ええ、ここで出るものはどれも美味しいんですよ」
「店の雰囲気も良いのに、何故流行らないのかしら?」
「…先生、あの出窓を見てください…」
「………理解したわ」
微妙な雰囲気になってしまったので、話題を変えてみた。
「ところで、このアイテムですけど、どうなさるんですか?」
言って、先ほどの店で入手した巻貝型のアイテムを指差す。
ミルフィールは軽い調子でさらりと返した。
「ああ、はい、試して。人体実験GO」
「はい!?」
思わず眉を寄せるミケ。
ミルフィールはフォークの先をミケに近づけて、続けた。
「確か。亡くなっていた家族、いたわよね?お母様だったかしら?」
「……はい」
微妙な反応を返すミケ。
「いや、でも、きっと僕のところになんか来ませんよ。きっと、実家の方を見に行ってるんじゃないかな、と思いますよ」
「……そうかしらねぇ……」
ミルフィールは片眉を顰めてしばし考え、それからまた視線だけをミケに戻した。
「あなた、末っ子、だったかしら?」
「あ、はい。兄が2人と、姉が1人ですが。話したこと、ありましたっけ?」
「そのくらいまではね」
ミルフィールは頷いて、片手で頬杖をついた。
「どんな人たち?」
「そうですねぇ……僕も家出する前までしか見ていませんけれど、今の事は、話だけは聞いてます」
ミケは言って、僅かに遠い目をした。
「一番上の兄は、今は騎士として出世されているそうです。
クローネ兄上……もう1人の兄も騎士で、元気そうですね。よく、お使いだかなんだかでこっちまで来るので、時々会いますよ。家族の近況はクローネ兄上からです」
そこまで言って、苦笑して。
「この間、少し……気まずい思いをさせたと思うので、手紙でも出した方が良いのかなとか、思っていますけれど。騎士をやっている父も、……元気だと、聞いていますし」
家族の話をしたからか、普段あまり思い起こすことのない記憶がふわりと蘇る。

真面目な父だった。母が亡くなって、幼かった4人の子どもに苦労しただろう事は想像に難くない。だからか、あまり遊んでもらったり甘えたりした記憶はない。
長兄は感情をあまり表に出さないけれど、沈着冷静で武勇に優れた人だった。頭も良かったけれど、とてもマイペースな人だったように思う。
クローネは、昔は長兄とは仲が悪かったような気もするけれど、普段は明るく笑っていた覚えがある。それは、今も変わらない。周囲に気を遣う人だったんだなと、再会してから気がついた。

「姉上は……ええと、最近クローネ兄上から、旅に出たと聞いています」
「そうなの?」
「とても、可愛らしい方でした。お嬢様、という単語がぴったりなんじゃないかなぁ。きっと、今頃は大変綺麗になっているんじゃないかな……と兄上の顔を見て思うんですけれど」
母そっくりに……それこそ、目の前の師匠にすら迫る勢いで超絶美形に育っていた兄を思い出し、そう告げる。
きっと姉も、あのまま成長していれば、相当な美人になるに違いない。
それが、余計に胸のもやもやを助長するわけだが。
「そう、じゃあ、心配ねぇ。あなたと同じ感じでしょ?一人旅なんて、きっとすぐに悪い人にでも騙されて、とか」
ミルフィールの言葉に、ミケは苦笑した。
「ああ、凄く騙されそうですね。ただ戦闘に関しては……」
言いかけて、少し青ざめる。
「……ええと。姉上は……家を出るにあたって家から剣とセスタス持ち出したっていうから……大丈夫じゃあないかな……と」
「セスタス?」
ミルフィールは少し首を傾げた。
「……わたくしの記憶が確かなら、メリケンサックのような格闘補助器具の総称、だけれど?」
「…その通りです」
あまりにも『お嬢様』に似つかわしくない単語に、思わずため息が漏れる。
「……小さい頃から、近接格闘の才能が……あったみたいで。護身術を覚えてきた、教えてあげるから……と、技をかけられた時には、僕は殺されるんじゃないかと思ったんです」
何かを思い出しながら、青ざめた顔でぶるっと震え上がって。
「善意です、善意で教えてくれたんです!ただ、力の加減を分かってくれないだけで!」
格闘の才を持つ姉と、魔術書より重いものが持てないミケ。本気で技をかけられれば、それこそ命の危機だっただろう。
弟がいじめられないようにと、善意で覚えてきた護身術だっただけに、怒ることも出来ず。
ミルフィールは半眼で言った。
「…………ミケ。話を聞いた限りだけれど。わたくしがあんたたちの母親なら、お姉さんのところかあなたのところにいくわね。だって、不安だもの」
「ぐっ」
「せっかく手に入ったんだし、使ってご覧なさいよ。まぁ、ほら。誰も出てくれなかったら出店の人を締めてくれば良いんだもの。そして賠償を要求するから」
「そ、それは止めてあげてくださいよぅ……。それに、僕は、いいです。話したいこと、ないですから。遠慮します」
「あら」
「……もうこんな時間になってしまいましたか。そろそろ、戻りましょうか。マスター、お会計をお願いします」
ミケは逃げるようにして立ち上がり、マスターに声をかけるべくその場を離れる。
ミルフィールはつまらなそうに嘆息した。
「変わらないわね、家族のことになると」

「あらぁ、まともに生活できてるのね。感心したわ」
ミケの定宿に案内されたミルフィールは、面白そうに部屋を見回した。
「よいしょ」
「いきなりベッドの下を覗くとか、どんだけですか!」
「……ミケ、近くの屋台にお菓子買いに行きましょう、一緒に」
「その都市伝説は怖すぎるからやめてください」
「ほら、男の子の部屋の場合、こういうところに色々あるっていうじゃない」
「ペルルさんの部屋でやってくださいよ!」
「馬鹿ね。あの子がそういう本とか隠すわけないじゃない。堂々とそこら辺に置いてあるわよ」
「……ですよねー」
ミケは嘆息して、棚のほうに足を向けた。
「紅茶で良いですねー?」
「そうね、頼むわ」
さっき飲んだばかりだが。
ハーフムーンほどではないが、ミケも紅茶は好きで茶葉は常備している。
魔法で湯を沸かし、カップに注いでテーブルに持ってくると、ミルフィールはいつの間にかミケの使い魔であるポチを膝の上に乗せて上機嫌で撫でていた。
撫でられているポチは可哀想なくらいガチガチになって怯えているのだが。
「やぁねぇ、取って食べたりしないっていうのに」
「…………ちょっと人見知りなんですよ、ははっ」
使い魔と術者は精神の繋がりがある。おそらくはミケの恐怖がポチに伝わっているのだろうが。
ミルフィールはポチを好き放題モフりながら、改めて周りをぐるりと見回した。
「あら、オルゴール発見」
すぐそばの棚の上にある箱に目を留めて言う彼女に、ミケはああ、とそれを手に取った。
「実家から兄上に持ってきてもらったヤツですね」
「随分古いのね」
「母の、形見の品なんです」
僅かに寂しそうな微笑みを浮かべるミケに、ミルフィールは僅かに神妙な表情になった。
「……そういえば、さっき、聞き忘れたわね。どんな人だったの?」
「どんな、人ですか」
少し考えるミケ。
「僕が、小さい頃に亡くなりました。だから、実際はよく覚えていないんですよ。身体の弱い方だったみたいで、いつもベッドで横になっていましたね」

目を閉じて、思い出す。
姉に引っ張られて、よく花を摘んで母に届けた。
そうすると、身体を起こして、とても優しく笑って「ありがとう」と言ってくれた。
迷わず抱きついていく姉に、いつも戸惑って立ちつくして。
そうして、いつも、呼び寄せて頭を撫でてくれた。

「後で聞くと、体調の悪いときも多かったみたいですが、そんなことは、全然僕らは気がつかなかったから、無理も大分していたと思います。……綺麗なひとでしたよ。歌も上手かったかな。……顔も声もはっきり思い出せないのが、残念ですけれど」
どこか夢見るような口調で言いながら、ミケは記憶に残る母の姿を思い浮かべてみた。
ぼんやりとしたイメージ。長い髪を揺らしておっとりと笑う母。その声も顔も、なかなか思い出せない。
ミルフィールは嘆息した。
「実際、声が聞けるかも知れないのなら、使って謝ってみたら?残念だと思うのなら」
「…………逆に、聞きますが」
ミケは目を開き、眉を寄せて師に問う。
「どうして僕に使わせようとしてるんですか。ご自分で使えばいいじゃないですか。嫌です」
「……何か、母親に言われたくないことでもあるの?」
「別に、ないですけど」
師の言葉に、ミケは拗ねたように視線を逸らした。
「でも、何を話して良いか分からないですし」
「そんなの、適当に向こうから話を振ってくれるでしょう?もしかしたら言いたいことが山のようにあるかも知れないじゃない、あんたの半生について」
「……う」
返す言葉を失って、黙り込む。
心当たりが山ほどあるだけに、反論がためらわれる。
はあ、とミケは息をついた。
「死んだ人の声を聞けるのは、そりゃ、良いかもしれませんけれど。……いいでしょう、思い出で」
ミルフィールは、珍しく自分の命令をかたくなに固辞する弟子を、じっと見つめた。
「……怖いのかしら?」
かすかにミケの肩が震える。
「母親からあなたに否定の言葉が出ることが。もしくは声が返らない……要するに無関心であることが」
「…………そう、です」
ミケは諦めたように言って、もう一度ため息をついた。
「兄上にも、他の皆さんにもよくないって言われるんですけど…僕は、自分のことをそんなに価値のある人間だとは思えなくて。
他の兄弟はみんな、母上に似てとても美しいのに…僕だけ似なかったし。騎士の家に生まれたのに、何も引き継げなかった。
それを、母上に咎められるのが…見限られるのが怖い」
俯いたまま、苦笑して。
「昔の、優しかった母上のまま…記憶をとどめておきたいんです。わかって、いますけどね。逃げだっていうのは」
「それなら、それでいいじゃない」
ミルフィールはもどかしそうにミケに言った。
「否定されたら、納得させるようになればいい。声が返らなかったら、不良品だったのよ。そう思えばいいじゃない」
苦笑したまま、ミルフィールの方を見るミケ。
「……先生は、前向きですね……」
「あなたが後ろ向きなのよ。……っていうか、この間の手紙!やけに後ろ向きで、兄に迷惑かけてとか、小さくいらっとするのよ」
「……す、すみません」
そこまで来て、ようやくミケは、彼女が何故今、わざわざ、ヴィーダまで足を運んだのかということに思い至った。
彼女の言う、先日の手紙。あれで落ち込んでいたことを心配して、来たのだ。
日ごろ破天荒で傍若無人でも、実はとても面倒見が良いということは知っている。
突然魔導師になりたいんだと言ってきた自分を弟子にして、住み込ませてくれるくらいには。
ミルフィールは仕方なさそうに嘆息した。
「心底嫌なら、別にいいわよ。やりたいことはやる。やりたくないことはやらない。わたくしの流儀だから」
「やりたいことだけやるあなたが手紙を読んでここにいる……つまり、背を押そうと思って来てくれた、と」
ぎゅう。
ミルフィールはそれには答えずに、膝の上の猫の首を絞める。
ギブギブ、というように机を叩く猫を、その苦しみが自分に伝わっていつつも微笑ましげに見つめるミケ。止めろよ。
ふ、と息を吐いて、ミケは憑き物が落ちたようなすっきりとした声音で言った。
「……やっぱり貸してもらって良いですか、あの貝」
「……壊さないでよ?わたくしが買ったのだもの」
「はい」
「そう。じゃあ、どうぞ」
ミルフィールは荷物から出した巻き貝をミケに手渡した。
「立派になったかどうかは分からないけれど、魔導師としてどれくらい成長したのかは、ここら辺にあるレポート読んで判断してあげる。まぁ、本当に駄目だったらもう一回鍛え直してあげるわよ」
「う、はい。頑張ってるつもりです……」
早速近くの棚にあったレポートを手に取るミルフィールに、またずーんと気落ちするミケ。
しかしそれも、これから始まるかもしれない母子の会話に耳を傾けるつもりはないという、彼女なりの意思表示なのだろう。
ミケは苦笑して、小さく礼を言った。

改めて、椅子に腰掛け、巻貝を両手の平で包むようにして持つ。
「……もし、側にいたら。声を聞かせてくださいますか?」
静かな部屋に、ミケの呼びかけが響いて、そしてまた静寂が戻る。
ミケは目を閉じて、耳を傾けた。
『………』
「………?」
何か、囁くような声がしたような気がして、ミケは手元の貝をに当てる。
その声は、どこか遠くから響くような、それでいてすぐ側で発せられているような不思議な響きで、ミケの耳に届いた。

『こんばんは、私の坊や。元気そうで、安心したわ』

僅かに目を見開くミケ。
「先生」
呆然とした声でミルフィールに語りかけ、彼女はレポートに目を通しながら気のない返事をする。
「んー?」
「当たりです。良かったですね。本物です」
「そぉ。ちゃんと返してよね」
そっけない返事に、ミケは苦笑して、もう一度貝を耳に当てた。
「え、ええと、あの、お久しぶりです、かな……?」
『そうね、久しぶりね。声を覚えていてくれて、良かった』
貝から響く母の声は、とても嬉しそうで。
ミケも思わず微笑む。
「そう、ですね。完全に忘れていてもおかしくないかと、自分でも思っていましたから」
何を話したらよいかわからないまま言葉を紡ぐ。短期間の効果だけだということだが、あとどのくらい持つのだろうか。
「あの、もしかして毎年、来てたり、しました?」
『勿論。我が子の成長を気にしない親などいないわ?ちゃんと家の方にも見に行っているから、大丈夫』
母の声は楽しげにくすりと笑った。
『……魔導師になって、頑張っているわね。見ていたわ。
ふふ、あなたも風魔法が得意って、やっぱりわたくしの子だなぁって思って、嬉しかった』
「……はい?」
思わぬ言葉に眉を寄せるミケ。
『なぁに?』
「いえ、あなた『も』って、やっぱりあなたの子だって、どういう意味かなと」
『あら。わたくしも、昔は、風魔法が得意だったものだから。あなたのように冒険には出られなかったけれど』
「…………え、初耳ですけれど」
驚いた表情で、ミケ。
母が家で魔法を使った姿など、ただの一度も見たことがない。
『そうね、結婚してからはあまり使わなくなっていたから。回復魔法と風魔法が、得意だったのよ』
「…………いや、他の兄上方みたいに、僕にあなたの容姿が受け継がれていないから。今日の今日まで実は橋の下で拾われた子だったとか、そんなオチはないかなと思っていたのに」
『そんな訳ないでしょう』
母の声は意外そうだった。
「いや、ありそうな気が」
『ミケ』
母の声が、僅かにたしなめるような響きをもった。
『今の言葉は、あなた自身にも、他の兄弟にも、わたくしたちに対しても、とても失礼よ。訂正なさい』
「……あ」
もし本当に、そうだったならば。
色々と、諦められたのに。
そんな、自己保身から来る願いで、大切な家族を貶めていたことに気づき、恥じ入るミケ。
「……そうですね、ごめんなさい」
『ふふ、わかってくれればいいの』
また優しげな響きに戻った母の声に、ミケは微笑した。
「ああ、でも、そうですね……小さい頃読んで覚えた魔法は、そうすると母上の本だったわけですね。代々騎士家で本格的な魔術書があるなんて、不思議だなぁと思ったんですよね」
『そういうことね。今度、クローネにでも持ってきてもらうと良いわ。今のあなたなら、そうね……』
母は今も家にあるだろう、書庫の本棚の詳しい場所を挙げていく。
それを心のメモにしっかりと書きとめ、ミケは言った。
「母上?」
『なぁに?』
母の声は、どこまでも優しげで。
その姿は、今は見えないけれど。きっとあの日のままの、優しい微笑をたたえているのだろうと思う。
曖昧だった母の顔が、今ははっきりと思い出せる。
ミケは目を閉じて、低く言った。
「心配かけて、申し訳ありません。騎士にはなれなかったけれど、魔導師としてもっと頑張りますから」
『……大丈夫。わたくしは、心配していないわ。だから、騎士でも魔導師でも好きなように生きなさい。あなたの人生だもの』
「でも」
ざっ。
ミケが何かを言いかけた瞬間、それを遮るようにして雑音が貝から響いた。
「あ……あれ?母上?」
『そろそろ……時間のようね』
母の声はなおも優しく、ミケに言う。
『見守っているから、自分に素直に、決めた方向へ進みなさい。
立派にならなきゃ、なんて、わたくしはどっちでもいいと思うの。
だって、わたくしが望むのは』

母の声が響いて、ミケの表情に驚愕が広がり。

ぱき。

硬い音が響いて、ミケの手の中の貝殻は粉々に砕けて落ちた。

「壊れちゃった?」
「すみません」
音を聞きつけて問うミルフィールに、苦笑を返すミケ。
ミルフィールは特に起こる様子もなく、冷めた紅茶を口にした。
「お母様は、何か言ってた?情けない、とか。帰ってこい、とか、もっと頑張れ、とか」
「いいえ。ただ」
「?」
首を傾げるミルフィール。
ミケは優しい表情で、手の平に残る砕けた貝を見下ろした。

「幸せに、おなりなさい……と」

それだけ言い残して、母の声は途絶えた。
その言葉が、ミケの胸の中に暖かく染み渡っていくのがわかる。
ミルフィールはふっと笑うと、頬杖をついた。
「そう。また難しいことを言うわね」
「そうですね。まぁ、そうなれるように努力します」
「頑張ってね」
あっさりと言い置いて、立ち上がって。
「……じゃあ、流石に遅くなってきたからそろそろ帰るけれど。その貝の代金は貸しにしておいてあげるから。早めに返してね」
「は、はい!?」
やはりあっさりと言い放たれた爆弾発言に、思わず声を上げるミケ。
ミルフィールは眉を寄せ、指を頬に当てて首をかしげた。
「あれほど、返してねって、言ったのに。ミケの馬鹿」
はあ、とわざとらしすぎるため息をついて。
ミケは必死に言い返した。
「ちょ、さっき結構な金額払ってましたよね!?僕、自分の生活でカツカツなんですけど!?」
それをものともせずに、にこりと綺麗に微笑み返すミルフィール。
「利子は、ナシにしてあげるわ。優しいわね、わたくしも」
「…………は、先生は慈愛に満ちあふれた方です……」
ミケは速攻で諦めた。
ここで否定しようものなら、それこそ法外な利子が加算されるに違いない。まだ自己破産はしたくなかった。
くす、と鼻を鳴らすミルフィール。
「ま、実技だけじゃなくて机のお勉強も疎かにしちゃ駄目よって事よ」
「だだだだだ、駄目なんですか!?僕、魔導師として駄目なんですか!?」
「んー、まだまだよねー。特に机の上の方」
「……実技だけ叩き込んだ人のセリフとは思えない……!あなたはお勉強だけしかできないのね、とか言ってた人の……!」
「……文句があるの?」
「ありません」
「よろしい。じゃあ、頑張ってね」
「……魔導師ギルドに行って、レポートの仕事探してこよう……」

ぱたん。
嵐のように現れて、嵐のように去っていった師。
閉じられたドアを見守って、ふう、と息をついて。
ミケは窓辺に歩み寄ると、空を見上げる。

「母上、なんか、幸せはもの凄く遠い気がしてきました……」

夜も更け、ますます賑わいを増していく洸蝶祭。
空に浮かぶ月が、静かに見守る母親のごとく、その様子を淡く照らしていくのだった。