Fanbnill Alasis

「そこの兄ちゃん!ちょっと見ていかねぇかい!?」

唐突に呼び止められ、ファンはそちらを振り向いた。
10代半ばほどの、穏やかな表情をした少年である。シャツにジャケットというカジュアルないでたちと、髪の全てを覆い隠すように巻かれたバンダナが少しアンバランスか。
振り返った先には、仮装道具が並ぶ屋台。洸蝶祭である今日、あちこちで見かける類の店だ。
ファンに声をかけたのは、その中央で魔王のような大きな角をつけて黒いマントを羽織っている、40がらみの男性のようだった。彼は人懐こい笑みをファンに向けて、続けた。
「そう、アンタだよアンタ。折角の祭りなのに仮装もせずに歩くなんて勿体ねぇ。アンタに似合いそうなものを見繕ってやっからちょっときな!」
言われ、ファンは戸惑ったようにその屋台の前まで歩いてきた。
「…いえ、しかし私は仮装はちょっと…」
「何だアンタ!洸蝶祭に仮装しなくていつ仮装するよ?まわり見てみな、みんな何かしら着てんだろうが」
心外そうな店主の言葉に、素直に周りを見回すファン。
大通りほどではないが、普通に屋台で賑わう通り。行きかう人々はみな大なり小なり魔物の装束を身に纏い、カラフルな色彩が通り中に広がっている。この中では、確かに普通の格好をしているファンだけが酷く浮いて見えた。
しかし……
「いえ、そろそろ私は帰ろうと思っていたところなので」
申し訳なさそうにファンが言うと、店主は目を丸くした。
「えぇ?!祭りはまだ始まったばかりじゃないか!これからがメインだってーのに、もう帰っちまうのかい?!」
「いえ…私はそもそも、祭りに出かけたのではないのですよ。出先から帰ってきたところで…」
「なら、もういいじゃねえか。そのまま祭りを楽しんじまえば」
「あ、いえ、しかし……」
ファンは戸惑って、空を見上げた。
ストゥルーの刻が始まったばかり。夏だから日は長く、まだ沈む様子は見せないが、遠くの方は薄暗くなってきていて、もうまもなく暮れてしまうことを告げている。
「…私は、日が沈む前に、帰らなくてはならなくて」
困った様子で言うファンに、店主は眉を顰めた。
「はぁ?せっかくの祭りに、そんな辛気臭ぇ顔して遊びにも出ないでどーすんだよ?」
「いえ、いいのです、私は、お祭りは……」
「なんだなんだ、ワケアリか?しょぼくれたツラしやがってよぉ、何かあったのか?」
よほど世話好きなのだろう、客になりそうもないファンの様子に、心配そうに身を乗り出す店主。
「ええと……」
ファンは戸惑った。『帰らなくてはならない』事情は話すに話せない。が、『しょぼくれたツラ』の理由なら多少は話せる。
心配してくれている店主が嬉しくもあったし、と、初対面であるにもかかわらず、ファンは苦笑して話した。
「人探しを、しているのです。手がかりの全く無い状態で……今日も情報を集めに行ったのですが、変わらずで。
少し、疲れを感じていたところなんですよ。それが、表情に出てしまっていたのでしょう」
「人探し?」
きょとんとする店主。
「手がかりが全く無いって…名前とか出身とか、色々あるだろう?」
「いえ、出身も……名前すら、全くわからないのです。最近、種族だけはようやくわかりましたが…」
「はぁ?名前もわかんないって、いったいなんだってそんな奴を探すんだい?」
わけがわからない様子の店主に、ファンは苦笑を返した。

「……私の、両親なので」

物心ついた頃には、ファンの側には誰もいなかった。今自称している年も、本当の年なのかわからない。ファンを育てた存在の言葉を信じるほかない。自らの身体に顕れる、『夜になる前に帰らなくてはならない』特徴でかろうじて、どういう出自なのかを推測する程度だった。
だが先日、不思議な力を持つ少女の口から、ファンの出自がどういう種族のものであるのか告げられるという出来事があり、ファンはそれから暇を見つけては両親の手がかりを求めて奔走していた。
しかし、名も出身も判らないのでは調べようがない。もともとそれほど情報網の伝があるわけでもなく、途方に暮れていたのだった。

ファンの言葉に、店主は気の毒そうに眉尻を下げた。
「あぁ…そりゃあ、悪いこと聞いちまったなぁ」
「いえ、お気になさらず。ご心配くださってありがとうございます」
「なら、兄ちゃん。それなら耳寄りな情報を一つくれてやるよ」
「耳寄りな情報……ですか」
きょとんとするファン。
店主はイタズラっぽくウィンクした。
「だが、タダで教えるのも面白くねえ。だから兄ちゃん、このグリズリーの衣装を買っていかねぇか?代金は金貨1枚だ」
ずい。
店主は屋台の隅に吊るされていた着ぐるみを取り上げ、ファンに差し出した。
「き、金貨一枚、ですか」
その耳寄りな情報とやらが、果たして本当に有用なものであるのか保証はない。それに対して、この衣装を買うという名目であっても金貨1枚は法外なのではないか。
僅かに眉を寄せたファンに、店主はまた人懐こい笑みを浮かべた。
「1人でぐるぐる悩んでたって、正解は見つからねぇもんさ。たまにゃぁ気晴らしに、祭りを楽しむのも悪くねぇ。
そうして心に余裕ができりゃ、ぽっといいことを見つけられたりする。人生なんてそんなもんさ」
「……」
ファンは静かに目を見開いた。
店主は、自分の不確かな情報を口実に、ファンに衣装を与え、祭りを楽しませようとしているのだ。
浮かない表情をしていたファンの慰めに、少しでもなるように、と。
「……そうですね」
ファンはふっと微笑んだ。
「では、いただきましょうか」
「あいよ、毎度あり!」
店主は豪快に笑って、ファンが差し出した金貨と引き換えにファンに着ぐるみを渡した。
店主の口車に乗せられたような気もしなくもないが、悪い気はしない。
「んじゃあ、約束の耳寄りな情報、な」
と、店主は急に神妙な表情になって、ファンに顔を近づけた。
「……洸蝶祭。様々な伝承がある祭りだが、そのほとんどは所詮伝説と言われてる。しかし、この情報はデマじゃぁねえ。
絶対に存在するとこの俺のカンが告げている!耳の穴かっぽじってよぉく聴けよ」
「……はい」
すでにこの時点で怪しさ全開なのだが、同じく神妙な表情で素直に頷くファン。
店主は続けた。
「フルーの第15日、つまり今日だな。水の女神フルー様があの世とこの世を繋ぐ扉を開けるとされているこの特別な日に、世界のそこかしこに、『会いたい人に会える場所』が現れる、っつー言い伝えがあるんだ」
「……会いたい人に……会える場所、ですか」
「ああ。それがどこかはわからねえ。どういう風にして会うことが出来るのかもわからねえ。そこかしこ、っつーくらいなら、このヴィーダにもひとつくれえ現れるかもしれねえな」
「ど、どこかわからないんですか……」
神妙な表情の割にあまりにも不確かな情報に、少し拍子抜けしたような顔をするファン。
金貨1枚も払わせておいてこの結果。普通に激怒してもいい話だが、ファンは素直に頷いた。
「…わかりました、ありがとうございます。あとは、自分で調べてみますよ。
グリズリー、ありがとうございました。お祭りも、楽しませていただきますね」
もともと、店主の好意が嬉しくてのこと。本当に楽しむかどうかは置いておいて、そのことに礼を言うファン。
店主は嬉しそうに微笑んだ。
「ああ、がんばれよ、それじゃあな!」

きん。ぐしゃ……
「……?」
グリズリーの衣装を抱えて再び帰途についたファンは、遠くの方で何か妙な物音がするのを聞いた。
「何でしょうか……?」
首をかしげ、音のする方に足を向ける。
広い通りから少し外れた裏通りは、皆祭りに出ているからか人気も少なく、まだ日も沈みきっていないのにかなり薄暗い。
きん。ぐぎゃああ。ざあっ。
足を進めていくに連れて、音は大きくなっていく。
「これは……」
それが、戦いのときに発せられる音だと察知して、ファンは足を速めた。
たたっ、た。
薄暗い曲がり角に駆けつけたところで、目を見開く。
「やあっ!」
あまり広くないその路地で、14歳ほどの少女が、ナイフ1本で異形の怪物と戦っていた。
「なっ……」
あまりのことに絶句するファン。
怪物は少女よりも一回りは大きい、蝙蝠の翼を持った獣のような姿をしていて、牙も爪も大きく鋭く、少女は手にしたナイフでどうにかそれをしのいでいる様子だった。
今のところ少女に怪我はないようだが、少女が不利なのは明らかだ。ファンは慌ててそちらに駆け寄った。
「何をしているんですか!早く逃げてください!」
「えっ」
少女は駆け寄ってきたファンを驚いた様子で振り返り、怪物と距離を取る。
「あなたは?」
「そんなことより、早く逃げてください!」
「ええっ、嫌だよ!」
少女は心外そうに首を振った。
「今逃げたら他の人が魔物に襲われるかもしれないんだよ?」
きっぱりとしたその様子に困惑するファン。
「しかし……このような得体の知れない魔物、あなたの身も危険ですよ!?」
「私ね」
少女は得意そうに言って、またナイフを構えた。
「目の前の問題から逃げて先延ばしにするのって、あんまり好きじゃないんだ…!」
「だからといって…」
少女はファンの言葉を無視して再び怪物に向かって駆け出す。
「でや!」
きん。
少女が繰り出すナイフは、しかし怪物の爪にはじかれて。
大振りのナイフの割に、戦い慣れている様子ではない。
「…っ、……全く、仕方ないですね…!」
ファンは抱えていた着ぐるみをひとまず地面に置くと、自らも身構えた。
「……はっ!」
気合と共に、ファンが何かを投げる。
ざ、ざっ。
ファンが投げた黒い刃のようなものは、あやまたず怪物の羽と四肢を掠めていった。
ぐぎゃああああ!
苦しげな悲鳴を上げてのけぞる怪物。
「今です!」
「わかった!」
ファンの掛け声を受けて、少女がナイフをひらめかせ、無防備になった怪物の身体を切り裂いた。
ぎゃああぁぁ……
身体を裂かれた怪物は、悲鳴と共に黒い塵になって消えていく。
少女は息をついて、ナイフを鞘に収めると、ファンを振り返った。
「ありがとう、おかげで助かった」
「いえ、これくらいのことは…」
屈託のない微笑で礼を言う少女を、改めて見やるファン。
見かけは、やはり14歳ほどの少女に見えた。長い灰色の髪に、同じ色の瞳。街娘のような軽装には似合わない大振りのナイフがとりわけ目を引いた。銀色の鞘には請った装飾が施されていて、その中央には大きな金色の宝石が埋められている。
どこかで見たような剣だが……今は思い出せなかった。
少女は不思議そうに首をかしげた。
「それにしても、どうしてこんなところに来たの?表通りはお祭りで賑わってるのに」
「いえ、私はお祭りが目的ではないので……帰る途中に物音を聞きつけて、こちらに」
「そうなんだ、ありがとう、ごめんね」
「いえ、それはいいのですが」
「でも、お祭り楽しもうよ。せっかくなんだからさ。お祭りが目的じゃないってことは、他に目的があるっていうこと?」
「それは……」
ファンは言いよどんで、先ほどの店主の言葉を思い出した。
『会いたい人に会える場所』。
怪しさ全開の眉唾物の話だが、年に一度しかないこの日に、というなら…探してみるのもいいのかもしれない。
「……会いたい人に会えるという場所、というのを、を探していたのです」
「会いたい人……どんな人?」
さらにつっこんで聞いてくる少女。
ファンは俯いて目を閉じた。
「両親です。実は顔も生死の行方も何も知らないのですけどね」
「そうなんだ」
少女に哀れむような表情は伺えない。それは、ひょっとしたら彼女も同じ境遇にあるからかもしれないが。
初対面の少女に、何故そう思ったかはわからない。だが、ファンは不思議と、自然に口が動くのを感じていた。
「……私は、両親に会ったことが無いんです。捨てられたのか、災害にでも巻き込まれて生き別れてしまったのか、事実は何も分かっていません。ですが、ほぼ赤子に等しい頃の私は、気がついたら森に居ました。ある人に助けられて」
正確には、人ではないのだが。
僅かに苦笑して、ファンは続けた。
「別に両親を恨んでいるわけではありません。きっと何か事情があったのだと思いますし、つい最近まで探そうとはあまり思っていませんでした。ただ、以前に両親に関する情報を少しだけ耳にして、興味の赴くままに探して、会いたい人に会える場所、というものの情報を手にして、今に至るわけです」
「…うーん、難しい相談だね……」
少女は困ったように眉を寄せて、首を傾げた。
「でも、その、会いたい人に会える場所、っていう話。私も聞いたことがあるよ」
「…本当ですか!」
ファンは思わず身を乗り出した。
その勢いに思わず苦笑する少女。
「っても、聞いたのは歌なんだけどね」
「歌……?」
「そう。吟遊詩人が歌ってた歌。だから、伝承としてはあるんだよね、きっと」
「吟遊詩人……ですか」
ファンは表情を引き締めた。
知っているにしろ知らないにしろ、その歌を全て聞くかその吟遊詩人に話を聞けば、更なる手がかりが得られるかもしれない。
「その吟遊詩人は、どういう方でしたか?どこにいらっしゃいましたか?」
「えっとねえ、男の子だったよ、たぶんだけど。私と同じか、もうちょっと下かも?すっごい派手な色の服着ててね、歌は普通に歌うけど喋り方は幼児みたいなんだよ」
「えっ……それって」
可笑しそうに言う少女の言葉に、ファンはひとつの可能性に思い当たった。
「ミニウムさん……?あの、ひょっとしてハーフムーンという喫茶店にいませんでしたか?」
「ハーフムーン?ううん、喫茶店には入ってないけど……この先の、サザミ・ストリートで見たよ」
「サザミ・ストリート……ありがとうございます!では!」
ファンは礼もそこそこに、律儀にグリズリーの着ぐるみを抱えなおすと、足早にその場を去った。
少女はしばらくそれを見送ってから、やがて踵を返し、通りの方へと消えていくのだった。

「しかし……そろそろ日が暮れてしまいますね…行くにしても、急がなければ…」
日はすでにかなり傾いており、人通りはますます多くなっていた。
ファンは焦った様子で、人の波の間をすり抜けながら歩き…
どん。
「おっと」
「あ……ごめん」
案の定、ぶつかって足を止める。
と。
「……あれ、ファン……だっけ?」
ぶつかってきた人物に名前を呼ばれ、ファンはきょとんとした。
彼より少し背の小さい、14歳ほどの少女。短く揃えられた栗色の髪から、大きな猫科を思わせる耳が覗いている。
ファンは彼女の顔を不思議そうに眺め、首をひねった。
「あなたは……ええと……特徴的な猫耳なので顔は覚えているんですが」
「猫じゃない……」
憮然とした無表情で言う少女に、にこりと微笑んで。
「ああ、そうでした。猫じゃないのがジルさんでしたね」
「……絶対わざとだ……」
以前ナノクニで受けた依頼で、共に関わった少女だった。もちろん覚えている。この少女には何かからかいたくなる要素があるのだ。
まああまりからかいにもなっていないわけだが、そんなことを考えながらファンはジルに言った。
「ジルさんは、お祭りを楽しんでいらっしゃるのですか?」
「いや、私は……」
「しかし、いくらお祭りとはいえ、こんな時間にお1人で?」
「……探し物をしているんだ」
「探し物?」
きょとんとするファンに、言いにくそうに答えるジル。
「……剣、を」
「剣ですか?」
「…私が持っていた剣。起きたらなくなってて…どうやら盗まれたみたいなんだ」
「盗まれた、とは穏やかではありませんね」
ファンは身を乗り出した。
「その剣というのは、どういうものなんですか?」
「これくらいの大きさで、銀色の…凝った装飾があって、これくらいの大きな金色の宝石がついてるんだ」
手振りを交えて説明するジル。
ファンは僅かに眉を寄せた。
「それは……先ほどの方が持っていた……」
「……見たの?」
ジルの目が僅かに見開かれ、身を乗り出す。
ファンは苦い表情のまま、首を振った。
「いえ、しかし……差し出がましいとも思いますが、あの人は人のものを盗むような人では無いと感じました。お二人の間に何かあったのですか?」
心配そうなファンの言葉に、淡々と答えるジル。
「……さあ?持ち去ったのは事実。どんな理由があろうと、私はその人に会ってその理由を聞くだけ……」
「そう……ですか……」
「……それで……その人はどこに?」
「あちらの…クレープの屋台が出ているところの路地を入っていったところに」
ファンは今歩いてきた道を振り返って、道を指し示した。
淡々と頷くジル。
「ありがとう…………それじゃあ」
「はい、お気をつけて」
挨拶もそこそこに駆けていくジル。
ファンは嘆息して、それを見送った。
「何事も無く穏便に事が運べばいいのですが……っと」
そこで、空がかなり暗くなっていることに気づき、焦りの表情を見せる。
「しまった、もう日が暮れてきましたね……」
まだハーフムーンまでは距離がある。この人ごみの中で、日暮れまでに到着するのは厳しい。
「どうすれば………」
ファンは呟いて、それから、腕に抱えたグリズリーの着ぐるみを見下ろした。

からん。
「いらっしゃー………」
喫茶ハーフムーンの扉がドアベルの音と共に開き、マスターはそちらを向いて絶句した。
のそのそ、と、グリズリーの着ぐるみが歩きにくそうに入ってくる。
「……お客さん、なかなか本格的なコスだねぇ」
3秒で気を取り直したマスターは、入ってきた気ぐるみにそう言って笑いかけた。
グリズリーは中に入り、ドアが閉まるのを確認してから、すぽ、と頭を脱いだ。
「……ふう。こんばんは、マスター」
「あー、ファンくん。久しぶり、いらっしゃい」
着ぐるみの中から顔を出したファンに、へらりと笑いかけるマスター。
「どうしたのいきなり。ファンくん、コスとかしなさそうに見えるのに」
「こす……?」
「あー、えっと、仮装?」
「ああ、ええと、必要に迫られて、というか。とりあえず、紅茶をいただけますか」
「おけー。ホットのダージリンでいい?」
「それでお願いします」
ファンはマスターにそう言い置いて、身体は相変わらず着ぐるみのまま、カウンターに足を進めた。
カウンターの端の席に座っている、ミニウムの隣に。
「ミニウムさん、お久しぶりです」
「いよっ!ファンくーん、おひさ…!」
しゅた、と元気に手を上げて返事をするミニウム。あの少女の言っていた通り、蛍光オレンジの大きな帽子と蛍光グリーンの短衣という目に痛いいでたち。長い亜麻色の髪で隠れて、顔の半分はあまりよく見えない。それでもその人懐こそうな表情は、見るものを和ませた。
以前に関わった事件で知り合ったこの小さな吟遊詩人は、喋りこそ拙いが、時折不思議に思わせぶりなことを言うことがあった。ファンは真面目な表情で、ミニウムに身を乗り出す。
「実は、貴方を探して、ここまで来たのです」
「ぼくー?」
ミニウムはきょとんとして首を傾げた。
真剣な面持ちで頷くファン。
「はい。『会いたい人に会える場所』……について、何かご存知ではありませんか?」
「んうー…」
ミニウムは首を傾げたまま形容しがたい呟きをもらして、それから抱えていた弦楽器をぽろん、と鳴らした。
ぽろ、ぽろん。
その指先から、不思議な雰囲気の音が紡ぎだされていく。
ミニウムはゆっくりと息を吸うと、歌い始めた。

水の女神が扉を開く
儚く光る蝶たちのため

残した家族に
愛した人に
会いたいと願うたくさんの人に
焦がれる想いを叶えるために

水の女神が道を作る
儚く光る蝶たちのため

蝶たちの姿は
儚すぎて
会いたいと願うたくさんの人の
目に映ることも叶わぬから

水の女神が力を送る
儚く光る蝶たちのため

会いたいと願うたくさんの人と
蝶が言葉を交わせるように
会いたいと願うたくさんの人の
焦がれる思いを叶えるために

ぽろりん。
ミニウムが最後の音を弾き終え、ハーフムーンに再び静寂が戻る。
「この…歌は……」
呆然と呟くファンに、ミニウムはいつもの調子で言った。
「フルるんのうた、だよー」
「フル……水の女神フルーの?」
「そ。フルるんはねぇ、ちょーさんたちのために、いつも、いっぱいちからをくれるのです。
でも、フルるんのちから、どこにとどくのかは、いつもらんだむ。ぐーぜんのであいに、きたい……!」
「ちょ……ちょっと待ってください」
ファンはミニウムの言葉に眉を寄せた。
「では、『会いたい人に会える』というのは……」
「ちょーさんが、あいたいひと、だよ」
「つまり……つまり、フルーの導きによってこの世に帰ってきた、死者、ということですか…?」
「そそ、そー」
「そんな……」
ファンは少なからず落ち込んだ表情で、俯いた。
「その場所を見つけられたとしても…もし、そこで会うことが出来たなら…それは、もう、この世にはいないということの証明だということ……」
「ファンくん、だれか、あいたいひと、いるのです?」
嘆くファンの様子に何かを思うのか思わぬのか、ミニウムはいつもの調子で問いかける。
ファンは自嘲気味に苦笑した。
「ええ……未だに会ったことのない、私の、両親に……」
「んうー…」
「……判っていました。幼い私を1人残して置き去りにせねばならなかった理由が、何かあったのだろうと。
その理由には…両親がすでに亡くなっているということも…含まれるかもしれない、と」
片手で額を覆って、力なく首を振る。
「…私は…会うべきなのでしょうか……最悪の予想が当たっていたことを確かめることになったとしても……」
こと。
そこに、紅茶を持ってきたマスターが静かに現れ、ファンの前にポットとカップを置いた。
「はい、おまたせ」
「マスター…あ、ありがとうございます」
「ファンくんはさ、どっちにしたいの?」
マスターはにこりとファンに微笑みかけた。
「死んでても、会いたい?死んでるのを知るくらいなら、会わないほうがいい?
事実が変えられない以上、あとはファンくんがどうするかだと思うよ」
「………」
ファンは出された紅茶を一口飲んで、しばし、目を閉じて考えた。
「………私は………」
たっぷりの沈黙の後に、目を開けてマスターの方を見る。
「…私は、会いたいです。たとえ、亡くなっていたとしても…この目で、一目見たい」
「そっか」
マスターはにこりと微笑んで、ミニウムのほうを向いた。
「ミニたん、案内してあげたら?」
「うぇ?」
きょとんとして首をかしげるミニウム。
「ミニたんならわかるでしょ?今からならマティーノの刻にも余裕だし」
「んうー……」
ミニウムは首をかしげたまま考えていたが、それより先にファンが慌てた様子で口を挟んだ。
「ちょ、ちょっと待ってください。マティーノの刻……ですか?」
「うん?そうだよ?」
至極当然、といったように、マスター。
その後にはミニウムが続いた。
「フルるんが、扉をあけるの、マティーんの時間。まよなか、まよなか」
「そ、その時間でないと…駄目なのですか?次の朝や、昼間では……」
「扉をあけてるのは、あさまでだよー。それまでに、ちょーさんはまたフルるんのところにもどって、フルるんが扉しめるの」
「そんな……」
愕然として俯くファン。
「夜中だと、何か困ることでもあるの?」
不思議そうにマスターが問うと、ファンは少しためらって、頷いた。
「…はい。もしかしたらマスターは、以前の私と暮葉さんの会話をお聞きになっていたかもしれませんが…
私の…父は、土着の神とうたわれるほどの力を持った獣人。母は巫女の力を持った月光人なのです。
夜になれば…私は母と同じように、身体から光を放ってしまう…」
「えー」
マスターは意外そうに声を上げた。
「あ、それでグリズリーのコスしてたんだー。あれなら全身すっぽりだから確かに光は漏れないよねー。
でも、別に気にすることなくない?」
肩を竦めて、つまらなそうに。
「確かに、光人ってあんま見かけないけどさ、全然見ないって程じゃないよ?ましてやこのお祭りなんだから、周りだってランプだらけで明るいし、変な格好してる人だっていっぱいいるしさ。思ってるほど目立たないと思うなあ」
「いえ……実は、それだけではないのです」
ファンは再び、苦々しげに俯いた。
「夜の私を変えてしまうのは、母の血だけではありませんでした……おそらくは、父の血が。月の光の影響を受けて、私を……獣へと、変えてしまうのです」
「獣?」
きょとんとするマスター。
何か心当たりでもあるのか、黙っているミニウム。
ファンは頷いて、続けた。
「私は…月の光を浴びると、己の制御の利かない、殺戮を求める凶暴な獣になってしまうのです。
この力が、多くの命を無に帰してしまったこともありました…ましてや、このように人が集まるところでその力を表に出してしまったら……今度こそ、私は取り返しのつかない罪を犯してしまう……!」
「へー、狼男くんなんだ、ファンくんって」
ファンの血を吐くような告白も、マスターは恐れるでもなく悲しむでもなく、へらっとそんな反応を返す。
「んじゃあ、凶暴化しちゃったファンくんを止めるには、朝が来るまで月の光が届かないところに閉じ込めとくか、殺しちゃうかしかないの?」
さらりと恐ろしいことを言うマスターに、逆にファンがぞっとする。
「そっ……それは、この…石を額に押し付ければ」
ファンは毒気を抜かれた様子で、自らのバンダナの…髪にぐるぐると巻きついている布の先端にあしらわれた不思議な宝石のようなものを手に取った。
「それで、私の意識は戻ります。あとは、またもとの通りこのように髪に巻きつけ、月の光の届かぬ場所に……」
「あれ、それじゃそれ、いっつもファンくんの額に貼り付けとけば万事解決じゃね?」
「はっ?」
マスターの思いもかけぬ言葉に、ファンは素っ頓狂な声を上げた。
「えーだって、それ額に当てれば意識戻るんでしょ?じゃ、いつでもそのバンダナ使って額にくっつけとけば暴走することないじゃん」
「そっ……それは……」
まったく、思ってもみなかったことを言われた様子で、ファンは口ごもった。
「やってみて駄目だったの?」
「い、いえ…やったことは……」
「んじゃ、ファンくんの意識を取り戻してくれるその石を、魔術師ギルドとかにお願いして鑑定してもらって、何でそうなるのか解析してもらってさ。その力を、魔法とか他の技術で再現できれば、もしかしたら自分でコントロールできるかもしれないじゃん?
さらによく調べれば、もしかしたらファン君を暴走させてる力そのものをどうにかできるかもしれない」
「そ、そう…ですね……」
「そういう努力、今まで何にもやってこなかったのー?」
不思議そうに、マスターは問うた。
「たくさん人殺しちゃったこともあったんでしょ?それがやだって思ってたんでしょ?んじゃ、そのやなのを変えるためにファンくんは何かしたの?月の光怖い怖い、月の光で変わっちゃう自分怖い怖いって、ただ逃げ回ってただけ?」
「ま、マスター……」
マスターの残酷な言葉は、まるでナイフで斬りつけたようにファンに痛みをもたらした。
しかし、事実だった。この恐ろしい力に翻弄されるばかりで、それに抗うことなど、考えもしなかった。
くす。
マスターは面白そうに鼻を鳴らした。
「ファンくんは、さ」
人差し指を、自分の鼻先に当てて。
「…好きなんだよ。そういう、自分が」
「………な…」
絶句するファンに、マスターはさらに続けた。
「月の光で暴走しちゃう自分。抗えない強大な力を持って、次々に人を屠っていく自分。望まない殺しをしちゃう、愚かで可哀想な自分……そんな自分が、大好きなんだ。
だから、自分の力を恐れて嘆いていても、それに抗おうとはしない…もし自分からその力が消えちゃったら、大好きな自分じゃなくなっちゃったら、困るからね」
「ち、違います!」
ファンは必死でそれに反論した。
「私は、決してそんなことは……!」
「んじゃ、何でなんにもしようとしないの?」
「っ、それは……」
ぐ、と言葉に詰まり、俯いて。
マスターはもう一度、くす、と鼻を鳴らすと、今度はその人差し指を、とすん、とファンの左胸に当てた。
「…ファンくんが、ココ、に飼ってる子。…ううん、もしかしたらファンくんが飼われてるのかな?」
「………っ?!」
ファンはこれ以上ないくらいに目を見開いて、マスターを見上げた。
に。
その笑みは、いつもの呑気そうな表情のように見えて。
…その実、果てしなく、冷たく暗い。今までそこにいたマスターという人物とは全く違う生き物がそこにいるような気がして、ぞくり、と悪寒が背中を駆け巡る。
「この子のせいだってことは……今まで一度も、考えたこと、なかった?」
「マスター…貴方は……一体……」
戦慄の表情で、ファンはぼんやりと言った。
にこり、と笑みを深めるマスター。
「あまり、ね。当てにしすぎないほうがいいよ。ファンくんが…人間でいたいと思うなら、さ」
その戦慄は、自分のものだったのか、それとも……
吸い寄せられるように、マスターから視線が話せない。
このまま、彼に飲み込まれてしまうような錯覚が襲って。

「カーくん、そこまでー」

唐突にミニウムの声が、それを遮った。
ばっと振り返るファン。
ミニウムは楽器を下ろして、よいしょ、とカウンターの椅子から降りた。
「しょーがない、なー。ぼく、ファンくんのこと、つれてったーげる、ね」
「えっ……」
「フルるんが、ちからをおくる、ばしょ。ぼく、わかるから」
「ほ、本当ですか!」
そういえば、元はそんな話をしていたのだった。何故ミニウムが突然そんなことを言い出したのかは判らないが、願いが叶うのは有り難い。
が、ファンはすぐにまた気落ちしたように俯いた。
「し、しかし、お話したとおり、私は月の光を浴びると……」
「そーれはー、ぼくが、なんとかしたげる、からー」
ぽろりら。
ミニウムは置いた楽器を再び手に取ると、慣れた様子で弦をはじいた。
「ムウらんの、ちから。おさえたげること、できるのです。
ぼくががっきひーてるあいだは、だいじょーぶいぶい!」
「ほ、本当ですか!」
ファンは嬉しそうにミニウムに詰め寄った。
「でもでも、まちなかは、たいへんたいへん!
ファンくん、ぬいぐるみ、きてきて?」
ミニウムの言葉に、慌てて着ぐるみの方を向いて。
「はっ、そ、そうですね。では、着させていただきましょう……」
ふたたびもそもそとグリズリーの着ぐるみを着だすファン。
それを見やりながら、ミニウムはこっそりマスターに話しかけた。
「カーくん、やりすぎ」
「あっはは、いやーつい面白くってさー」
「カーくんのかお、いもーとちゃん、そっくりだった、よー」
「うわマジで?それはちょっと反省しないとだなー」
もそもそと着替えをするファンの横で、こそこそとそんな会話が繰り広げられるのだった。

「ミニウムさん……そろそろ、いいでしょうか。かなり、苦しいのですが……」
着ぐるみの隙間から見える景色は、どうやら森の中のようだった。辺りに人気はない。どうやら、中心街からはかなり外れた森の中のようだった。
「んう、もー、ひと、いなーいよ。んじゃ、弾いててあげるから、ぬいでいーよー」
「ありがとうございます……」
ぷは。
ようやっとグリズリーの頭を取るファン。夜気に晒された素肌がほのかに銀色の光を帯びている。
額には汗がびっしりだ。夜とはいえ、真夏にこの着ぐるみはさすがに拷問に近かった。
横ではミニウムが不思議なメロディーを奏でている。なるほど、いつもは感じる破壊衝動が、全く感じられない。この少年は一体何者なのだろうか。
「……では」
安全なことが判ったので、身体の方の着ぐるみもよいせと脱ぎ、足元にたたんで置いておく。
「ここは……」
「もうちょっと、さき、ねー。フルるんのちからは、おみずのちかくにあふれるんだよ、よー」
ミニウムは器用に楽器を弾きながらそう言い、さらに足を進めていく。
ファンは黙ってその後をついていった。着ぐるみは置いたままだが。

やがて。
「これ……は……」
たどり着いた川辺には、ぼんやりと光る何かがいくつも漂っていて、幻想的な光景を作り上げていた。
ミニウムの奏でる曲ともあいまって、何かこの世のものではないような雰囲気さえする。
「これは……蛍……ですか?」
「ちょーさん、だよー」
「えっ」
ミニウムは楽器を演奏しながら、器用に言った。
「フルるんが開けた扉からきた、ちょーさん」
「これが……」
ファンは川辺で光る無数の蝶に、呆然とため息をついた。
当然、初めて見る光景だ。普通の人間には見えない死者の魂が、特定のパワースポットの力で見えるようになる、ということだろうか。
「この中に……私の、両親が……?」
ごくり。
緊張の面持ちで言うファンに、ミニウムは相変わらずの調子で答えた。
「いれば、いるよー。いたら、ファンくんのとこ、くるとおも!
こなかったら、しんでない、かもよー」
「そう……ですか……」
「ぼく、ここでひいてるから。あんまりはなれなければ、うろうろしていいよー」
「わかり、ました」
ファンは頷いてから、何かに誘われるように足を動かした。
ミニウムは川べりの石に座って、楽器を引き続けている。
その音に合わせるようにして、光る蝶がふわふわと踊る光景は、とても幻想的だった。
「………」
ゆっくりと辺りを見回しながら、足を進めていく。
と。

ふわり。

不意に、大きな蝶がファンの目の前に現れ、ファンは足を止めた。
「………」
不思議に、その蝶から目が話せない。
すると。

『お前……が私の息子か……』

直接心の中に響く『声』に、ファンは目を見開いた。
『対面するのは…お互い初めてであろう。とは言っても、私は声だけだがな……』
不思議と低く響く声。口調からも男性のものであると感じられた。
「…………あ、あなたが私の……ええと……」
ファンは蝶に話しかけようとしたが、上手く言葉にならない。
その『声』は、確かに暖かさと懐かしさを感じる。しかし、見たこともない男性を父と呼んでいいものだろうか。
すると、ファンの気持ちを察したのか、蝶は優しく語りかけた。
『好きに呼ぶがいい』
ファンはその言葉にきょとんとし、それから照れくさそうに視線を逸らした。
「……では……と、とうさん……」
蝶からも微笑ましげな、感慨深い感情が流れ込んでくる。
『……実感が湧かないものだ。それもそのはず、私はお前が生まれる前にこの世を去った。顔も名も知らずにな……』
「そう…だったのですか……」
僅かに辛そうに眉を寄せるファン。
蝶から苦笑の気配が伝わった。
『複雑な気分か?互いに初めて会った父と子同士だ。お前が私を恨もうと軽蔑していようと、どう思おうが仕方が無かろうが…』
「恨んでなど……いません」
ファンは目を閉じて首を振った。
「ですが……胸が……いっぱいな気持ちです。何故でしょう……目頭が熱い……」
感極まった様子でまぶたを押さえるファン。
蝶はしばし沈黙し、それから低く告げた。
『……すまない。私は、お前にしてやれることは何も無かったのだがな……。そして、私の所為でお前は苦しんでいるのだろう。今、お前がその姿でいるのを見たら分かる……』
蝶の言葉に、顔を上げるファン。
「では……やはりあの獣の力は……」
『間違いなく私の力の名残だ』
「そう……ですか」
僅かに俯いて。
蝶は続けた。
『私は獣から人の姿と力を得た存在だ。それに至るまではやはり相当な苦労と努力をした。
だが、そのおかげで私は土地の守り神として扱われるほどとなった。私はこの力で土地を守っていた。
しかし、巫女とはいえ、半分は人の血のお前では手に余る物なのかもしれん……』
悔いるようなその響きに、苦笑するファン。
「……父さんの所為ではありませんよ」
『すまない……私はお前には謝ることしかできん……』
なおも重ねて謝る父に、ファンの笑みが悲しそうに崩れる。
「やめてください……」
隠し切れない動揺が、声の震えとなって現れて。
『しかし……』
「恨んでないと言ったでしょう!?」
とうとう、ファンは叩きつけるように叫んだ。
「なんで謝るんですか!?俺は父さんの所為ではないと思っていると!?でも……謝られたら……辛いですよ!!この力で人を殺めたこともあります!恐れられ、虐げられた事だってあります!!」
堰を切ったように、感情があふれ出していく。
「認めたくなかった……。憤りのような物を感じる時もありました。
でも俺は父さんと母さんを尊敬しているつもりでした!俺を産んでくれた二人、尊敬してる人を恨むなんて気持ちを認めたくなかった!!」

普通に考えれば、当然のことといえよう。
物心ついたときには両親と言うものは存在しなかった。人と共に生きろというメッセージと、あの石。それだけが両親が残したものだった。
しかし、人と共に生きるには、自分の中に押し込められたこの力はあまりに強大だった。
傷つけ、憎まれ、虐げられた人間を疎む気持ちと、人と共に生きなければならないという強迫観念の中で、何度苦しんだことだろう。
それでも、誰かを恨まないと、そう決めて生きてきたはずなのに。

「でも……謝られたら認めてしまうじゃないですか……。父さんの所為で辛かったと思ってしまうじゃないですか……」
はあ、はあ。
肩で息をしながら、ボロボロと涙をこぼすファン。
何年分の涙を流しただろうか。
普段あまり泣かないからだろう、目の周りの毛細血管が切れて腫れているのを感じる。
蝶はファンが落ち着くまで、黙っていた。
やがて。
『………名を』
ゆっくりと。
蝶はファンに言った。
『名を……教えてくれ……』
はあ。
最後の息をつき、涙を片腕でぬぐってから、ファンは改めて蝶に目をやった。
「……ファンです。ファンブニル・アレイシス……」
『姿を……本当の姿を見せてくれ……』
「…しかし……」
ためらうファンに、安心させるような暖かい感情が流れてくる。
『……大丈夫だ。今は……あの方が、お前を守ってくれている』
ミニウムのことだろうか。
相変わらず、楽器の音はあたりに響き渡っている。
ファンはこくりと頷くと、髪にきつく縛り付けている長いバンダナを、しゅるりと解いた。

ふわり。
久しぶりに外気に晒された長い白髪が、風に乗って揺れる。
その髪も、肌と同様、銀色のほのかな光を纏っていて。
そして、右目だけが金色の、鋭く気高い光を放っていた。

蝶から、喜びと悲しみが混じった複雑な表情が流れ込んできた。
『本当に……私の息子だ……。そして、その青い左目、長く白い髪はアレにそっくりだ……』
もし姿が見えたのなら、きっと父は泣いているのだろう。
そう思えるほど圧倒的な感情が、ファンの心にも流れ込んでくる。
「父さん……」
『すまない……ファン……』
「うっ……」
『私の残した言葉が…そんなにお前を苦しめているとは知らなかった……。
良いのだ。私を恨んで良い。私を許さぬというならそれで構わぬ。負の感情を仕舞いこもうと、苦しむ必要はないのだ』
「しか……しか、しっ……」
つう、とまた涙が流れる。
蝶の暖かい光が、ファンを包み込む。
ファンの身体が放つ銀色の光と絡まりあい、ファンは父に抱きしめられているような暖かさを感じていた。
『良いのだよ、ファン。恨みは、憎しみは、確かに黒い感情かもしれん。
しかしそれと同じだけ、否それより多く、お前は人を信じ、人を愛そうと、優しくあろうとしている。
それで良い…それで良いのだ、ファン……』
「とう……さん……」
『お前がどんな子であろうと……お前が私を憎んでいようと……私は、お前を愛している』
「う……うああぁぁぁああ!!」

ファンは父の光に包まれ、再び大粒の涙を流すのだった。

ファンがひとしきり泣き、ようやっと落ち着いた頃。
蝶は改めて、ファンに問うた。
『ファン……その名は、アレが…お前の母が与えたものか?』
はっと顔を上げるファン。
「いいえ、これは……育ての親がくれた名です」
『そうか……姓が違っていたようだからな……少々気になっただけだ』
「母さんは……まだ生きているのですか?」
真剣な表情で問うファン。
蝶はゆっくりと答えた。
『……ああ、それだけは死んでも見守っている』
「父さんと一緒にここにいないということは…そうではないかと、思っていました」
『実は、今日はそのことを伝えたくて来た様な物なのだ。もちろんお前に会うためもあるがな』
「そう……なのですか?」
母のことは聞きたいが、自分のことはついでなのだろうかと拗ねる気持ちもある。
しかしそれはとりあえず横に置いて、ファンはさらに訊ねた。
「母さんは…今、どこに?」
『ファン……』
蝶から苦悩の感情が伝わる。
『ファン……。アレを……母を助けてやってくれ』
「助けて……?どういうことです?」
ファンが聞き返すと同時に。
ぽう。
蝶の光が、薄くなったような気がした。
「……父さん?」
『ああ……そろそろ時間ということらしいな』
「そんな……!」
『ならば…手短に伝えよう。
お前の母、イーリアス・フィー・クロセリアは……で封印されている……。彼女は一族に反抗したため………私に嫁いだため……バツを……』
声はだんだんと遠くなっていく。
「父さん!」
ファンの呼びかけも空しく。

『アレを……助けてやってくれ……』

かすれた声だけを残して、蝶はふっとその姿を消した。
「父さん………」
蝶が消えていった空間を見つめながら、名残惜しそうに呟くファン。
母の居場所は聞けなかったが、新たな目標が出来た…そんな気がした。

「任せてください………母さんは、きっと……私が」

決意の込められた瞳を、東に向けると。
いつの間にか、空は白々と明け始めていて。

それは、ファンの未来を明るく照らしているような、そんな気がした。