Innocent Persuasion

冒険者達は暗い表情で、鏡の中の世界からセイカの自宅へと戻ってきた。
皆一様に視線を泳がせ、明かされたあまりの事実に対処しきれずにいるようで。
ただ一人、セイカだけが、いつもと変わらぬ無表情で歩みを進め、居間のザブトンに腰を下ろす。
「……冒険者殿らには面倒をかけ、申し訳ないと思っている。
だが、お判り頂けたと思う。丹羽野が私を討ち、私が魔物だったと報告する以外に、手段はないのだ」
セイカが言うと、冒険者達ははっとして彼女を見た。
いつものように、目を閉じたまま。
心眼は、心が平静な時にしか発動できないもの。今の彼女の心は、いたって平静であるということだ。
つまり、それだけ決意の固いものだと。
「そうであろうか。儂は、そうは思わぬ」
身を乗り出して反論したのは、マシュウだった。
「そして、フミタカ殿が身を投げたは、セイカ殿のせいではあるまい」
「……どういう、ことですか?」
ミケが問うと、マシュウはそちらを向いた。
「己の罪に気づいたから、それだけで身を投げたのではない。
酷な話ではあるが、セイカ殿はレイナ殿の身代わりにしか過ぎぬ。
夜にフミタカ殿が見ていたのは、セイカ殿ではなくレイナ殿なのだ。
あれほど愛しあい、あれほど睦みあっていたレイナ殿。自分は完全にレイナ殿を理解していると自負していたが、実はそうではなかった。
レイナ殿を苦しませていた、と思い込んだのではなかろうか。
愛するが故に、苦しませていた。その思いの為せる技であったのではなかろうか。
フミタカ殿は、自らの業によって滅びたのじゃ。宿命に抗えず、命を絶ったのよ」
腕を組んで唸り、再びセイカの方を向いて。
「もし、セイカ殿が抗わなければ如何になっていたであろうかのぉ。
いくらお主が若く健康であっても、度重なる責めでは長くは持つまい。いずれ、レイナ殿と同じ運命を辿っていたであろう。
その時、フミタカ殿は如何になる?
当然、悲しもう。そして、やがて、レイナ殿の面影を探し、同じ所業に及んだのではないか?
これを罪と呼ぶのであれば、更に限りなく罪を繰り返していたやもしれぬ。
セイカよ。お主は、この悪因縁・悪業から、フミタカ殿を救ったのじゃ。解脱なさしめたのだ。決して恥ずる事なぞ無い。胸を張って生きるがよかろう。
儂はそう思っておる」
セイカの表情は動かない。
マシュウは続けた。
「それに、おぬしには、まだするべきことも有ろう。
鏡の中の世界…この忌まわしき場所を封印せねばなるまい。これはおぬししか出来ぬであろうし、おぬしの使命であろう。
この件につきことさら事実を公表するも、必要無かろう。我らが承知すれば済むことじゃ」
「そう……ですよね。要は文隆さんの裏の顔を知られたくない、ということでしょう?」
暮葉も頷きながらそれに続く。
「隠し通せれば、手段は何でもいいんでしょうか?わざわざ命を絶つ必要は、わたしもないと思います。まぁ、わたしは屋敷を焼き払えばいいのではないか、ぐらいの考えしか及ばないですが」
眉を寄せて首をかしげながら。
「文隆さんの裏の顔を知っている者はここの数人だけ。皆喋ることはないだろうし、その辺の手掛りは残らないと思うのだけど…」
「うむ。セイカ殿に疑念を抱いているギルドの重鎮のみを、事実を告げずに納得させればよいのであろう。それは、ムツブ殿が『調査の結果、疑念を抱くような事実は何も無かった』ということでは収まらぬのかのぉ。
一番疑っていたであろうムツブ殿が納得したとあらば、他の方々も納得してはくれぬのだろうか」
マシュウが続けて頷き、ムツブのほうを向いた。
「一番疑っていたであろうムツブ殿が納得したとあらば、他の方々も納得してはくれぬのだろうか。
無実の証明が、有罪の証明より、遥かに困難なことであることは、判るつもりじゃ。
困難なことではあるが、この任、ムツブ殿にお願いするしかなかろう。
ムツブ殿の信頼感に帰するところが多かろうが、充分な能力をお持ちと存ずる」
それから、再びセイカの方を向いて。
「ほれ、セイカ殿も、意地を張らず、頼むがよかろう。ギルドに残る方が、鏡の謎を追求するのにも都合がいいじゃろうて。解明の暁には、その成果をフミタカ殿の業績として発表すればよい。
いかがであろうかな?」
「………残念だが」
セイカは目を閉じたまま、ゆっくりと首を振った。
「それで彼らが納得すると思うのなら、私はとうにその手段を取っていた。
そう判断しなかったから、私はそうしなかった。それだけのことだ。
納得の行く事実の出ぬまま、何もなかったと茶を濁して終われば、いつまでもわだかまりは消えぬ。
丹羽野はああ言ったが、本当にきちんと調べれば。丹羽野は逆に操られ取り込まれてしまったのではないか。そう思い、第二、第三の丹羽野にならぬという保障はどこにある?」
そして、暮葉の方を向いて。
「そちらの女性も。簡単に考えておられるようだが、ことはそれほど単純ではない。
義父上の裏の顔を知られず、なおかつ私の無実を証明する術がない、ということが問題なのだ」
「あ……」
暮葉はセイカの言葉に、表情を変えた。
「義父上の事情を知らせぬだけならば、それは容易だ。何も屋敷なぞ燃やさずとも、あの鏡を叩き割ればよい。破壊せずとも、鏡の使い方を知る者がいなければ、あれはただの鏡だ。
そちらの御仁は鏡の謎を解明と仰っていたが、鏡の構造とかけられた魔道の理論自体はすでに義父上のレポートで解読済みだ。その上で私自身が空間に作用する術を組み上げた、と申し上げたように記憶するが…まあ、それはいい。とにかく、あの鏡を処分し、義父上の所業に至る証拠を消すのは容易だ、ということだ。僅かな義父上の形見だ。処分するに忍びなく、今でも保管しているのだが」
ふ、と息をついて、セイカは続ける。
「しかし、私が義父上を殺していないと証明するためには、義父上が自殺であるという話をせねばならぬ。ならば、そのことに触れぬわけにはゆくまい。義父上の自殺の原因が、私であろうと、叔母上であろうと同じこと。私は義父上を死に追いやったことに責任を感じて死を選んだわけではない」
マシュウの方にちらりと顔を向けて、再び暮葉のほうを向いて。
「皮肉なことに、私のこの体中の傷が、義父上の所業を証明する。私自身が、他ならぬ最大の証拠というわけだ。いっそ、私も一緒に燃やせばよい。魔物であった、それを退治したという名目付でな。焼死体になれば、体の傷など判別できはすまい」
「………」
沈んだ表情で黙り込む暮葉。
と。
「…なァ、いいかげんにしてくんねェか」
静かに怒りの篭った声が、その会話に割って入った。
セイカは目を閉じたまま、声の主…ヴォルガのほうに顔を向ける。
苛つきを表情に貼り付けて、両手をポケットの中に入れたまま。
ヴォルガはぎら、とセイカを睨みつけた。
「レディにこんなこと、言いたかないんだけどな…
けど、どうも頭にくんだよ…他人の為だとか抜かして自分を大事にしねェ奴ってのがよ」
はぁ、と憤りを逃がすようにため息をついて。
「結果的に断罪っつー最悪な逃げでお義父さんはケリつけたわけだがよ……」
「逃げ、だと?」
セイカが静かに問い返し、ヴォルガは僅かに視線を鋭くした。
「そうだろ。自分の行為を罪だと自覚して、断罪のために自殺する…『罪の意識』からの逃げだとしか思えねェだろうが。
死んだ人間のことだ…今更何言っても遅すぎなんだがな」
「………」
セイカは何か言いたそうだったが、口をつぐんで続きを促した。
「その行動が良いか悪いかはともかく…義理とは言え娘には財産残しておいてくれたワケだ。最後まで幸せに生きてってもらいてェと。それを…」
ぎり、と再びセイカを睨みつけるヴォルガ。
「誰にも頼らず、お義父さんの残していったものを守っていくのが使命だと感じた。だがサナコウジの一件で、自分ではダメだと感じた、だって?
……んなもん、無理に決まってんだろ!」
それでも抑えきれないといった様子で、セイカに言葉を叩きつける。
「お義父さんだって歪んだ愛をもっていたにせよ、奥さんを心の支えにしてたろうし、古株の連中と共に協力してた筈だ。
思い上がったこと抜かしてんじゃねェぞ…。一人で生きてこうなんざ不可能なんだよ!絶対にな!」
体が勢い余って僅かに動く。
「いいか…自分を大事にできねェ奴が他人の世話焼いてんじゃねェ!
少なくともアスはキミを大切な人だと思ってる…アスにキミと同じ思いをさせる気なのか?
火事で両親を亡くしたキミなら…キミが死んだときアスがどういう思いをするか分かると思ったんだがな…」
怒りのまなざしをまっすぐセイカに向け、ヴォルガは彼女の返事を待った。
セイカはしばらく目を閉じたまま沈黙し…やがて、ゆっくりと目を開いた。
「……それで?」
「…は?」
彼女の発せられた言葉に、眉を顰めるヴォルガ。
彼女は静かに続けた。
「奇麗事だけは立派に述べる。
…だが、それだけだ」
「………っ」
言葉を詰まらせ、眉を吊り上げるヴォルガ。
セイカはたたみかけるように言葉を続けた。
「私はひとりでは生きてはいけぬ。誰かに頼らずに生きるのは不可能だ。
私は自分を大事にはしていない。そのような者に人の世話を焼く資格は無い。
…私が死んだら、おそらく最も悲しむのはアスだ」
そこで、ぎ、と視線を鋭くする。
「……そのようなこと、私が一番理解している」
「…っ、だったら、何で自分を殺せとか平気で言えるんだよ!
大切な人を失う辛さを知ってるんだろ?!その辛さをアスにも押し付けるつもりかよ!」
「アスには済まないと思っている。先ほどもそう言ったはずだ」
激昂するヴォルガとは逆に、冷静な声で答えるセイカ。
「アスが受けるであろう心の傷も理解している。それは本当に済まないと思う。
だが、それを理解したうえで…私はギルドを選んだ。そう言っているのだ」
「なっ……ンだよそれ!」
吐き捨てるように言うヴォルガを、再び冷たい眼差しで射るセイカ。
「奇麗事を述べ、命を大事にし、心を入れ替えて。
それで、何が変わる?
ギルドの者達の不信は払拭できるのか?
義父上の罪はなかったことになるのか?
ギルドは崩壊の危機を免れるのか?」
「…っ………」
ヴォルガは言葉を詰まらせた。
さらに視線を鋭くするセイカ。
「義父上を逃げだと言ったな。逃げだ逃げだと言葉で言うのは簡単だ。
だが、ぬしこそ、奇麗事ばかりを並べ立て目の前の現実から逃げているだけではないか。
それで、何が変わる?」
「……っ……だからって!何でキミが死ぬ必要があるっていうんだよ!」
ヴォルガはじれったそうに言い募った。
「キミはフミタカに歪んだ愛の捌け口にされていた。ただそれに抵抗しただけだろう。
キミに罪はない。ここにいる全員がそう思ってるはずだ。ムツブもさっきの話聞いてキミを咎める程腐っちゃいねェだろ。
それを、ムツブに殺してもらって、評議長は魔物だったので退治しましたメデタシメデタシ。ってか?
ざけんじゃねえぞ。
キミに財産を残して死んだフミタカが、キミにそんなことを望んでたとでも思うのかよ!」
「そ、そうです…死ぬなんて、絶対ダメです……!」
コンドルも必死な様子で言い募る。
「セ、セイカさんがこんなことで死んでしまうなんて、フミタカさんだって望むはずがないんです……!子供が死んで欲しいなんて思う親はいないんです……!」
何かを重ねているのか、泣きそうな表情で訴えていて。
「悪ィが、俺もヴォルガやコンドルに同意だ」
ヴォルガの向かい側で、リウジェもセイカに真剣な瞳を向けた。
「俺は、フミタカの所業を全部ぶっちゃけるべきだと思う。
とりあえず、フミタカはお前に幸せになってもらいたいって思ってたはずだ。自分の罪を隠すためにお前に命を落として欲しいなんて思っちゃいないと思う。
その辺どうなんだ?見方によっちゃ、お前はフミタカの遺志に背いてるって言ってもいいかも知れねェ
んだぞ?」
「確かに」
セイカは緋色の瞳をリウジェに向けた。
「私の死は義父上の望むところではなかろう。
が、義父上が苦労の末に作り上げたギルド、義父上を敬愛していた部下達の信頼……
これが壊れることもまた、義父上は良しとせぬはず」
「んじゃあ逆に聞くが、その部下連中の信頼ってのはどれっくらいなんだよ?
フミタカのアレを晒して、それで速攻手の平返すような奴が『敬愛していたものたち』になんのかよ?」
リウジェが眉を寄せて言うと、ヴォルガもそれに続いた。
「まったくだ。古株どもに真実を話してその結果が最悪になろうが、そりゃあソイツらの結びつきなんざソンナもんだったってだけだろ」
「……いや……まあ、それで何にも気にしないやつってのはある意味怖いが……」
自分で言っておいて自分でつっこむリウジェ。
「多分『そんなまさかあの人が』って頭抱えて悶えるのが正解だろうな。そこからどう動くかはそいつの勝手になるけどな」
腕組みをして唸り、ちらりとムツブのほうを見やって。
「なァ、リウやんの言ってることも分かってくれねェか?
嘘で塗り固められたもんを唯一の支えにした結びつきなんざ寂しいじゃねェか」
リウジェに続き、ヴォルガが訴えかけるように言う。
「それにだ。確かにアンタが魔物として死ねばこの事件は無事解決で終わるよな…だがよ、ムツブはどうすんだ?
今度はムツブにこのこと一人で抱えてろってか?重いもんほっぽってムツブに抱えさせて消えるのか?
部下にこんな重いもん背負わせてそのまんまってワケにゃいかねェだろ評議長殿…手ェ貸してやれよ。
自分のために他人に手を借りるのを嫌うなら、ムツブのために一緒に抱えてやればいい…物は言いよう、って奴だな」
「…だから、私はあの場で戦いを仕掛けたのだ」
ふう、と息をつき、セイカは僅かに気鬱な表情で答えた。
「あの場で丹羽野が戦い、私を討っていれば、丹羽野は『評議長を誑かし殺した魔物を倒した』だけだ。重いものを背負うことも無かったろう。
出来れば、何も知らせることなく、その事実を『真実』としたかった。
……邪魔をしてくれた者がいたゆえ、それは叶わなかったがな」
言外に自分たちのことを言っていると察し、複雑そうな表情をする冒険者。
セイカは続けて、ムツブに視線をやった。
「…真実を知る事を選んだのは、丹羽野だ。
その真実が丹羽野にとって辛いものであることも、私は事前に告げた。
それでも、丹羽野はそれを選んだのだ。
自分の選択は、自分で背負うしかない…それは誰もが同じはずだ」
ふ、と再び息をついて。
「私は、ただ義父上を信じ、慕っていただけの罪もない者達に、そのような辛い選択はさせたくない。
『彼らの結びつきがその程度』であれば、彼らを傷つけても構わぬと言うのか?彼らが何をしたわけでもなかろう。それがそのように罪なことなのか?
真実、ギルドとは何の関わりも無い義父上のプライヴェートを晒し、義父上が考えあって告げておられなかったものを勝手に暴き、義父上を尊敬し慕っていたものたちを幻滅させ、今まで信じてきたものを壊し、傷つけて。
それで、何が残る?」
僅かに咎めるような視線を、ヴォルガとリウジェに向ける。
「義父上の秘密を晒し、ギルドにとってどんな利があるというのだ?
それで絶望に落とされこそすれ、誰も救われはしない」
「何も全部包み隠さずバラせ、って言ってンじゃねえよ」
イライラした様子で、リウジェは反論した。
「お前の口から、それっぽい事を言うってのが重要になるんじゃねェか。
フミタカは妻を…その…………ってまでは言わなくていいんだよ。
ぶっちゃけ、薄皮一枚ぐらいまでは真実を言うべきだと思うんだよな。
フミタカだって人間だ。神でも何でもねえ。一つぐらい、何かあって当たり前だ」
とん、とテーブルの上に手をついて。
神妙な表情で、続ける。
「お前とギルドの連中との溝を埋めるには、お前が腹を割って話すしかない。
部下連中の信頼を裏切るって言うが、そればっかりはフミタカの自殺でチャラにしてもらうしかねえ。
腹立つ話だよなあ、ッたく!娘に厄介事全部押し付けやがって。
あとはお前が、どれだけ誠意見せられるかだ。
お前が、離れていこうとする連中とか頭抱えてる奴らを、どうやって導いてやるかが鍵なんじゃねえの
?」
懇々と説得するリウジェ。が。

「……ちょっと、落ち着いてよ。リウジェ」

思わぬ方向から、横槍が入った。

Innocent Refutation

「ンだよ、ジル」
不機嫌そうな表情で、横槍を入れたジルのほうに顔を向けるリウジェ。
ジルは淡々と言った。
「……今は、感情に振り回されるべきじゃない。
冷静になれとは言わないけど、今すべきことを忘れないで」
「はァ?」
盛大に眉を顰めるリウジェ。
「……確かに、あなたの言っていることは正論だね。それは、不可能ではないかもしれない。
でも」
僅かに眉を寄せて、咎めるような表情を作る。
「これ以上、セイカさんに辛い思いをさせるの?
………そんなものが、解決策と言えるの?」
「………っ」
鼻白むリウジェ。
ジルが言葉を切ると、クルムがそれに続いた。
「フミタカさんは表の顔と裏の顔を持っていたけれど…それは決して、みんなを騙していたっていうことじゃないと思うよ。
騙すための嘘なら、なにかしら綻びは出る。嘘があれだけの偉業を残し、人々から尊敬を集めていたとは考えにくい。
昼の、人々に尊敬される評議長の彼も、夜の、残忍で非道な彼も、どちらも本物で、フミタカさんの持つ一面だと思う」
悲しそうに眉を寄せて、首を振って。
「フミタカさんのしたことは決して許されることじゃない。
本人に悪意が無かったとしても、彼の行いが元でレイナさんは亡くなっているし、その間違いがセイカを酷く傷つけた」
ちらりとセイカに目をやって、再びリウジェのほうを向く。
「けれど、彼に酷い目に合わされたセイカが、心底この公表に反対している。
フミタカさんを慕い尊敬する人々を傷つけることも、フミタカさんの名誉を傷つけることも望んでいない。
ならば、フミタカさんの表の顔しか知らず付き合っていた人々に、今頃になって、わざわざ裏の顔を伝えるべきでは無いと思う。亡くなった彼の墓を暴いて、公に断罪するようなことはしなくてもいい」
「……実際、公表しても、あんまり良いことはないと思いますよ……セイカさんの言葉を借りるなら、公表をすることに『ギルドにとっての利はない』でしょう」
ミケも真面目な表情でそれに続く。
「多分、凄くこじれますよ?少なくとも、アカギさんって女性は、絶対に、納得しないどころか僕らに敵対します。……僕らは彼らの信任を得ているわけではない。最悪たぶらかされた手先だと思われてもおかしくない。僕らが何を言っても、この真実を彼らは認めないでしょう。そして、フミタカ氏を冒涜したと言い出しかねない」
「そんなもん、やってみなきゃわかんねェだろうが」
「そうかもしれません。でも、やってみて駄目だった時、僕らは何を責任取れるんですか?」
「……っ……」
ぐっと言葉に詰まるリウジェ。
「セイカさんはシビアな目で見て、そういうリスクのあるやり方より、自分の命を捨ててでもリスクのないほうを選んだ、ということでしょう。その方法が正しいかどうかはともかくとして、リスクの少ない方を選ぶことに関しては理解できます。
リウジェさんの言うことは、理想ですよね。でも、言うだけ言って、あとをセイカさんだけに押し付けることにはなりませんか?」
「……そりゃあ……」
「壊せばいいと言い、壊して、壊した後は何もしないのでは、無責任ですよ?
それをしたいのでしたら、できるかぎりバックアップをするべきです。その手段を、出して欲しい。それがあって、納得できるのなら、僕は考えてもいいと思うんですが……」
「………」
黙り込むリウジェ。
「……悪いが」
と、黙っていたセイカが口を開いた。
「バックアップの手段を出されたとて、私は義父上のことを公表するつもりはない」
きっぱりと。
意志をたたえた瞳で、セイカはリウジェに向かって言った。
「そちらの御仁は何か勘違いをされているようだが…」
ちらり、とヴォルガの方に目をやって。
「私が何のためにこのようなことをしているのか、判らぬか?」
「何のため…って、フミタカの名誉や古参のヤツらのためだろ?」
少し怯んだ様子で、ヴォルガ。
セイカは目を閉じて首を振った。
「戯けたことを」
ふ、と息をついて。
「義父上のためでも、丹羽野たちのためでもない。
私にとって、義父上が作り上げたギルドと、義父上の名誉が、何物にも代えがたく大切なものであるからだ」
そして再び目を開き、リウジェを見る。
「その二つを犠牲にし、私の無実などというどうでも良いものなど欲しくはない。
その二つを守るためなら、私の命など惜しくはない」
「…っ、なんだそれ!」
リウジェは眉を吊り上げて声を荒げた。
「お前が無実ってそれ凄い重要だろ。俺の依頼内容それなんだけど。
お前の、言ってみれば思い込みで、ほっとかれるこっちは無視か。ギルドのために」
「ぬしらの依頼など知ったことか」
落ち着いた、だがきっぱりとした口調でセイカは言った。
「私がぬしらのことを無視すると言うのなら、ぬしらとて私の目的を無視して自分の都合だけを通そうとしているのだろう。
人に偉そうに説教するのなら、まず自分でそれを成してからにするのだな」
「……っぐ……」
言葉に詰まるリウジェ。
セイカはさらに続けた。
「私は、義父上の秘密を晒すことが、ギルドにとって何の利になる?と訊いたはずだ。
しかし、ぬしの反論からはギルドにとって利になることは一つも上げられぬ。
『嘘をつくのは良くない』という、酷く綺麗に聞こえる自己満足のためだけだ」
表情のこもらない瞳でじっとリウジェを見つめたまま、セイカは静かに締めくくった。
「ギルドにとって利にならぬことは出来ぬ。それだけだ。
それが嘘であろうと、真実を隠すことであろうと、構わぬ」
リウジェはなおも眉を吊り上げたまま、しばらくセイカのほうに顔を向けていたが…
やがて、ぱっと手を上げて息を吐いた。
「チッ、分かったよ、わかりました、降参だ!」
かぶりを振って、再び深いため息をつく。
「そこまで言うなら、俺には何も言えねぇっつうか、元々何か言えた立場でもねェんだけどな。
わァってるよ、ほとんど俺の意地っつーかエゴだ。それでも何とかぶつけてみたンだが、ない知恵絞って慣れねェ事するもんじゃねぇな」
「リウやんも陥落かァ。そんじゃオレも白旗上げるとすっか」
ヴォルガも仕方なさそうに苦笑する。
「悪かったな。…ちと頭に血が昇ってよ。
ま、オレは本業の方の仕事仲間の連中からみりゃ甘ったれのクソガキだからな…
綺麗事だの偽善だのてなァ~聞きなれてるし、自分でも損な性格だってのはある程度理解してらァ~。
どうもキミの意思は変わりそうにねェし…しゃあねェが無理は言わねェ。
大事なもん守るために命張るっつ~のはよしてもらいてェ、人が悲しむのが嫌だなんつーのも、結局はオレの我侭なんだしな」
「まあ、今更言っても意味ねェとは思うが……」
リウジェは頭を掻いてから、神妙な面持ちでセイカに告げた。
「……後悔だけはすンじゃねェぞ」
「無論だ」
淡々と答えるセイカ。
それで、ヴォルガとリウジェは納得したようだった。
…が。
「待ってください。それはセイカさんが死んで丸く収まるのを容認するということですか?」
じっとそれを聞いていたファンが、身を乗り出して反論した。
「私は納得行きません。彼女が何をしたと言うのですか。
抵抗も認められずにただ欲望のはけ口となって嬲られているのが彼女の生きる価値だというのですか。
フミタカ氏が自殺して、一人残された彼女はもうフミタカ氏の裏の真実を隠し、ギルドの不満を鎮めるために死ぬしかないというのですか。
そんなことがあっていいはずはありません」
真摯なファンの表情に、複雑そうな顔をする冒険者達。
当のセイカがそれを望んでいるのだ。そしてこれだけの説得にもかかわらず、彼女の意志は動かない。
だが、ファンはセイカの方を向いて語りかけた。
「秘密を明かすくらいなら死ぬと言いましたね。
確かに私も、もし貴女と同じ状況に置かれたら秘密を隠そうとするでしょう、父、母、兄弟、家族はかけがえの無い存在ですからね。もしかしたら私も貴方と同じ行動を取る可能性もあります。
ですから秘密を公開しろとは言えません」
目を閉じて首を振って。そしてもう一度、セイカの方を向く。
「ですが、これだけの人数が揃っているのです。死ぬしかないと結論付けるのは、まだ早いのではないでしょうか?」
「………」
セイカは黙ってファンの話を聞いている。
ファンは続けた。
「先ほどまでは真実を知るものが貴女しかいなく、一人で結論を出すしかなかったかもしれません。
しかし、今真実を知る人は貴女を含めれば13人います。
13人全員で考えれば、何か良い案が浮かぶと思いませんか?」
「…そうだね」
ジルがぼそりとそれに続く。
「死にたいなら、死ねばいい。
……でももう、死んでも解決にはならないと思うよ。
私たちが事実を知った時から……いや、きっと最初から。
これは、セイカさん一人の問題じゃないんだから」
無表情のまま、僅かに考えて。
「………全員が不幸な思いをしなくて済む妥協点は、どこかにあるはず。死ぬのは、それを探してからでもいいんじゃない?」
「セイカさん、自分をもっと大事に思って考えてみてください」
ファンがさらに言葉を続ける。
「貴女は自分が死んでもいいと思っているかもしれませんが、死なないで欲しいと思っている方がいます」
アスの方をちらりと見て、セイカに視線を戻して。
「彼だけではありません、あの世にいらっしゃるフミタカさんも、ここにいる全員が貴女に死んで欲しくないと思っているでしょう。
貴女はまだこの世に、この国に、このダザイフに必要なのです。
希望と生きたいという意志を持ってください」
「……生きたくないと思っているのではない、誤解しないで頂きたいが」
セイカは淡々とそれに答えた。
「ただ、私の目的のために、それしか手段がないと思っているだけだ。
生きられるのならば生きたいと思っている」
あまりそう思っているとは思えない口調で言われ、微妙な表情をするファン。
「ならばなおさら。ここにいる全員で、貴女が死なないで済むための道を見つけ出しましょう。
人の手に持てる荷物には限りがある。貴女は一人で背負いすぎなのです。
持ちきれない荷物は、信頼できる仲間の方達に持ってもらっても良いのではないでしょうか」
冒険者達を、そしてムツブとアスを見やって。
「人は互いに助け合って生きる生き物です、人が人に頼るのに権利など要りません。
貴女にはその信頼し合える、共に歩んで生きていける方がいます。
ムツブさんも、もう貴女のことは信頼できる方だと思っている事でしょう」
「……っ、あ、あぁ……」
いきなり話を振られ、曖昧な返事を返すムツブ。
ファンは眉を寄せた。
「どうされたのですか、ムツブさん」
ムツブは眉根を寄せ、ゆっくりと額を押さえた。
「済まぬ……情けないが、あまりの事に頭の中が真っ白で……私からは、何も…」
「ムツブさん……」
いたましげな表情で口をつぐむファン。
「しっかりしてください、ムツブさん。そんなこと言ってる場合じゃないですよ」
と、その横でミケが身を乗り出した。
「僕も、セイカさんを死なせて事態の収拾を図る、というのはおかしいと思います。だって、彼女がしたのは、沈黙していたことくらいでしょう?」
「む………」
僅かに唸るムツブ。
ミケは続けた。
「後は彼女の能力です。それは、ギルドの魔導師に評判を聞いていますし、あなただって、分かっているはずです。ならば、フミタカ氏の事を隠匿するだけならば、別に死ぬ必要は無いと思うのですが、どうですか?」
「それは……」
複雑そうな表情のムツブ。ミケは嘆息した。
「僕も、魔導師ギルドの者です。フミタカ氏のことで、ギルドに変な噂がたって、みんなで支えてきたこのギルドが壊れてしまうのは、正直、嫌です。
そして、セイカさんを殺して収拾を図るのは簡単かも知れませんが、僕はそんな方法取りたくありません。……一人で頑張ってきた人を、見殺しにして……いいえ、自分の手で殺して終わりにするのは、嫌です。ひととして、それはどうかと思います。
……真実は知りたいと思いました。けれど、その真実を皆にばらすかどうかは別問題だと思うんです」
「ふむ、そうだな。故人の悪い趣味をわざわざ掘り返して言いふらすのは趣味じゃない」
千秋も難しい顔で頷く。
「そ、そうですよ……そんなの、絶対ダメです」
先ほどよりは多少落ち着いた様子のコンドルも、否定の意を表した。
「フミタカさんやムツブさん達が長い時間かけてやってきた事が、無意味になってしまいます。
そ、それに、ギルドがなくなったら困る人たちがいる事も忘れちゃいけないコトです」
コンドルの言葉が終わったところで、千秋がむう、と唸る。
「だが、セイカが自分で冤罪をかぶろうというのも気に入らん。死んだ人間に義理立てするのは立派なことだが、モノがモノだ、命をかけてまですることじゃないと思っている」
「しかし……セイカも言っていたように、その二つを両立させるのは無理では……」
弱気な様子でムツブが言うと、ミケはしばらく考え込んで、やがて顔を上げて彼ににこりと微笑みかけた。
「これは、ご相談なんですが……」
「む」
表情を正し、聞く体制をとったムツブに、ミケは微笑んだまま、言った。

「嘘を、ついてもらえませんか?」

Innocent Plan

「……う、嘘?」
面食らった様子で言葉を繰り返したムツブに、ミケはけろりとした表情で頷いて見せた。
「はい。セイカさんは、一人で黙って背負っていこうとしましたけれど、僕は弱いし卑怯なので、そんなことはできません。是非とも、セイカさん含めてみんなで一個の大嘘ついてほしいんですよ。
一人でつくなら、死ぬしかないかもしれない。けれどみんなでつくのなら、死なずに済む方法があると思うんです」
ムツブから、セイカの方に視線を移して、続ける。
「セイカさんは魔物ではなかった。けれど、ギルドの幹部の皆さんはそうは思わない。
魔物にいて欲しいのならば、魔物を作りましょう。けれど、それはセイカさんと別個として。誰かを犠牲にせずに、一人でなんか背負わずに、ギルドも残して、セイカさんも死なせない」
そこで、再びムツブに視線を戻して。
「そんな、嘘を吐きたいんです。ご協力、いただけませんか?」
「嘘……ですか。あまり好きではありませんが…しかし、それでセイカさんが命を落とさずに済むと言うのなら…」
苦い表情のファン。
「…具体的には、どういう風に?」
ジルがポツリと訊ねると、ミケは頷いてそちらを向いた。
「さっきも言いました。魔物がいないなら、作ってしまえばいいんですよ」
そして、冒険者達を見渡しながら、順を追って説明していく。
「まずは、魔術師ギルドの広間にあの鏡を持ち込み、一緒にセイカさんにいてもらいます。そうですね、ムツブさんに、魔物の気配を感じるとか言ってもらって。
それで、古株の皆さんに、魔物の正体が掴めたかも知れないので、冒険者を使って具現化させたいっていう話を持ちかけるわけです」
「……ふむ」
ようやくショックから立ち直った様子で、ムツブが真剣な表情を見せる。
ミケは続けた。
「古株の方々が部屋の近く…鏡を確認できる位置に来たら、ムツブさんに何か適当に呪文とかを唱えてもらって…で、僕が、セイカさんから何か透明な魔物を引っ張り出したような幻影を見せます。
…こんな風に」
ミケがテーブルの上に手をかざすと、テーブルの真ん中から透明なスライムのようなものがにょっと伸び上がる。
「うわっ」
「…な、何だ幻影か……また騙されたぜ……」
「相変わらず、ミケの幻影はすごいね……」
その様子に驚く冒険者たち。
ミケはにこりと笑って幻影を消し、続けた。
「ここで、中は危険ですとか言って部屋のドアを閉めて、古参の人たちが入ってこれないようにした方がいいと思うんですよ。中に入ってこられると、タネがバレてしまうかもしれないので」
「…なるほど」
頷くジル。
「そして、魔物をその身の中から引き出されてぐったりしているセイカさんを僕が介抱するように見せかけて、部屋の隅へと移動します。そこで、僕はずっとその魔物の幻影を操ります。
そして、他の皆さんでその魔物を攻撃し、倒してもらう、と」
「べ、別の魔物を作り出して…セイカさんは悪くなかった、っていうことに、するんですね」
コンドルが言い、ミケは頷いた。
「フミタカ氏は、魔物に取り付かれたセイカさんを救うため、命がけで戦った。それが、セイカさんの体に残る傷の痕の説明です。しかし、力が及ばず、彼女の体の中に封印するのみに留まり、その戦いでフミタカ氏も命を落とすことになってしまった。魔物に操られ、自ら転落するように仕向けられた…そういった筋書きを作るんですよ」
「なるほど……」
感心した様子で頷く暮葉。
「……じゃあ、サナコウジさんのことは……」
ジルがポツリと言い、少し考えてから、その続きを口にする。
「…彼が掴んでいた『ギルドを揺るがす事実』っていうのは、セイカさんが魔物に取り付かれてた、っていうことで…それをどうにかしようとするあまりに、短絡的な行動に走ってしまった…っていうことにすれば、いいかな……」
「それは、いい考えですね」
頷いて賛成するミケ。
「フミタカさんの施した封印のおかげで、弱体化した魔物を何とか冒険者達の手で倒すことが出来た。
もう心配はいらないと思うけれども、事件は事件としてマヒンダの総本山にセイカさんを送って上の指示を受けることにする。取り込んだ魔物の力を吸収して、セイカさん自身も魔道士として成長しているので、実力は変わっていないだろう、ということにする、と」
「そ、そうして、もう一度ギルド長に戻れるようにするんですね……」
コンドルが言い、ミケはそちらの方に向かって頷いた。
「その通りです。あらかじめ、マヒンダの総本山に繋ぎを取ってもらって…確か、クルムさんが総評議長と面識がありましたよね?」
言って、クルムのほうを見るが……
「……?クルムさん?」
クルムはなにやらアスと小声で話しているところだった。
再び呼びかけられて、そちらを向く。
「あ、ああ、ごめん。うん、女王の事件の時に知り合ったけど……でも、ミケも確か、人形の事件の時にマリーと会ってなかったか?」
「えっ」
ミケはきょとんとして思いを巡らせて、ああ、と手を打った。
「そういえばそうでしたね。あまりに昔過ぎて忘れてました」
私も忘れてました。
「まあでも、ちょっと話しただけの僕より、深く関わったクルムさんのほうが適任ですよ。
それで、繋ぎを取ってもらって、セイカさんに有利な事実が出るように…まあ、実際、セイカさんが魔物でないことも、評議長として高い能力を持っていることも事実なのですから、少し事情をお話して、調査で出たことをそのまま伝えてもらうだけでいいと思いますけどね」
「はー……すげェな、ミケは」
ヴォルガが感心したようにため息をつく。
ミケは苦笑した。
「いや、僕は完璧な嘘とか作戦とか、立てられないので。
こっちの方が良いっていうのがあったら、ぜひ言って欲しいんですけど」
「……そうだな……俺自身にはこうという案はないんだが……この状況を何とかできそうなものなら、ひとつある」
千秋が、言っておもむろに懐を探る。
そして、中から何やら巻貝のようなものを取り出した。
「それは?」
「……これは、盗聴のマジックアイテムでな」
と、千秋が言った途端。
がらり。
唐突に窓の開く音。
そして。

「話は全て聞かせてもらったよ」

「うわあ!!」
窓からにゅっと顔を出した大柄な女性に、冒険者の何名かが悲鳴を上げた。
「……柘榴殿……!」
セイカも驚いた様子で腰を浮かす。
「あいや。なに。構わずとも良い」
柘榴は鷹揚に言いながら、おもむろに窓を乗り越えて室内に入った。
……一応履物は脱いでいるようだ。
「あ、あんた…?」
呆然とした様子でヴォルガが言うと、柘榴はそちらへ笑みを向けた。
「…そう身構えなくてもいい。
こんな身なりをしてはいるが、取って食いに来た訳じゃないからねえ。
私の名は、カノトヤマノ・アオイヒメ。
あるいは、彼からは柘榴の名で聞いたこともある者もいるのではないかな」
「あっ……あ、ああ。あの。へえ、こちらが本物ですか……」
やはり呆然とした様子で、それでも感心したように頷くミケ。
以前関わった依頼で、千秋の記憶の中にある柘榴をかたどった幻術を見たことがある。なるほど、それに違わない大柄でダイナミックな女性だ。
柘榴はそれは承知なのか、特に問いたださずに頷くと、セイカの方を向いた。
「それにしても……ふふふふ。
聖華、君も強情だな。
だが、文隆の秘密を今明かされるのは私にとっても不都合だからね。手を貸そうじゃないか。
策も考えてあるのだよ。ふふふふ……」
怖い。
何と言うか、全身から漂う威圧感と得体の知れぬ雰囲気が、冒険者達に言葉を挟むことをためらわせる。
柘榴は再びミケを振り返ると、言った。
「先ほどの策、私も同じようなことを考えていたのだよ」
「えっ。え、あ、ありがとうございます」
わけもわからず礼を言ってみるミケ。
「ただ、古参を部屋から閉め出すと言っていたね。君が幻術を使っているのを悟られるのを防ぐため…ということだが」
「ええ。僕が操っているのを悟られてしまったら、これが計略であると見抜かれてしまう可能性があります。それはあまりよろしくないと」
「ふむ。ならば、幻術を使わなければ良いのではないかね?」
「えっ」
きょとんとするミケに、柘榴はにぃ、と笑みを浮かべた。
「実は、ここにいる千秋だが。体を霧のように変えられるという特異体質なのだよ」
「ええっ」
「特異体質言うな」
憮然として言う千秋。
「……千秋さん、吸血鬼だったんですか」
「いや、そのネタはやめてくれ」
「つまり、この千秋に、魔物役をやってもらおう、ということだ」
「なにっ」
言われた当の本人が驚いて声をあげる。
柘榴はそれには構わず、続けた。
「先ほどのミケの意見も取り入れて…ふむ、そうだね。
実は聖華には魔物が取り憑いていた。それに気づいた文隆が彼女を引き取り、何とか引きはがそうと苦心した挙げ句に
肉体的苦痛を伴う施術まで行い、魔物の封印に成功したものの、精神の一部を魔物に乗っ取られて自害させられてしまった。
しかし、最近その封印が解けかけており、だから我々にも魔物の存在が分かった。
フミタカ氏の最後の封印により力を減ぜられているので、倒すなら今だ……
…というようにしてはどうだろう?」
「あ、あの」
柘榴の問いかけに、コンドルが恐る恐る手を上げた。
「何かな、可愛い坊や」
「あ、あの、えっと、その、肉体的苦痛を伴う施術を行う、っていうのなんですけど…えと、そ、それだと、やっぱりフミタカさんがセイカさんを傷つけたことになってしまうので、えっと、秘密裏に祓い屋を雇って、その施術を行った、っていうことにすれば……」
「…なるほど」
頷く柘榴。
コンドルは続けた。
「えと、そ、そうすれば、一度は祓い屋にその施術をすることを許したけど、あまりのひどさに迷いが起こって、そこを魔物に付け入られて精神を乗っ取られた、っていう風にすることが出来ると思うんです…」
「素晴らしい。ぜひその筋書きでいきたいね。どうだろう?」
鷹揚に柘榴が言い、ミケも頷いた。
「ええ、その案で良いと思います」
「では、千秋に変装をしてもらってだね。霧になった状態で聖華にまとわりつき、そのまま聖華にギルドに駆け込んでもらう」
「おい、ちょっと待て。俺は魔物役を了承した覚えは」
千秋が止めようとするが、完全に無視して続ける柘榴。
「古参の目の前で、冒険者の誰かがこの、まばゆい光を放つアイテムを使って、『聖華と魔物を引き離す』。そこで千秋に実体に戻ってもらい、アイテムの光にひるんで外に逃げてもらう。
そこに、睦殿と私、それに残りの冒険者諸君が待ち構え、『魔物を退治する』という筋書きだ」
柘榴はにこりと笑って、冒険者たちに言った。
「なに、この千秋は殴っても殴っても目減りせぬ便利な人形だと思ってくれて構わない。
死なない限り驚異的な速さで回復するから、今回の仕事で溜まった鬱憤を晴らすつもりでボコボコにしてくれたまえ」
「って、おい!人の話を聞け!」
「ですが、本当に千秋さんを倒してしまうわけにはいかないでしょう。魔物を倒した、というのはどうされるおつもりですか?」
やはり千秋を無視してファンが言い、柘榴はそちらを見た。
「おい、だから俺を無視して話を進めるなと」
「私の術で、砂を巻き上げるものがあるのだよ。とどめだと言って高く巻き上げて視界を奪い、その隙に千秋にはまた霧に戻ってもらう。そして、その砂を固めて千秋そっくりの石像を作ってね……ああ、これも私の術でだね。その石造を粉々にして、魔物は倒した、というわけさ」
「なるほど……確かに、僕という細工師がいない分、見破られる可能性は低いですね。部屋を締め出す必要も無いし」
言って考え込むミケ。
「……でも、やはり、お芝居とはいえ千秋さんを攻撃するのには抵抗が」
「おお、俺は人権を主張して良いのだな」
「手加減しちゃったらお芝居だってバレるじゃないですか」
「そっちかっ!」
「あ、で、でも、それは…あの、セイカさんの空間魔法を千秋さんの周りに張り巡らせれば…思いきり攻撃できるんじゃ…」
コンドルが言って、セイカの方を向く。
「あ、あの、セイカさん……」
「……出来なくはないと思うが…私はその時、魔物を引き剥がされて倒れている、という設定なのだろう。維持できるという保障はないが…やれるだけのことはやってみよう」
「あ、ありがとうございます……!」
嬉しそうな表情で頭を下げるコンドル。
「では、及ばずながら私も力になります。今朝の戦闘では何も出来なかったので…」
ファンが表情を引き締めて言った。
「私は虫を作って自由に操ることが出来るので、魔物の使い魔の様に演出させれるかも知れません。良かったらお使い下さい」
「まァ、納得はいかねェが…取り合えず、オレにやれる事がありゃ~言ってくれ手は貸す」
ヴォルガもしぶしぶ頷く。
「柘榴の姐さん!千秋への攻撃はマジになってもOKっすか?」
柘榴もまた楽しそうな表情で頷いた。
「もちろんだよ。思う存分打ちのめしてくれたまえ」
「おいっ!」
千秋のツッコミも空しく消えて。
「……まァ、協力してやるよ。こうなったらセイカを何とかしねェと、後悔もへったくれもねェからな」
こちらもしぶしぶと言うリウジェ。
と思うと、千秋のほうに噛み付くように言い募る。
「いーか、手伝うのは仕事だからだぞ!俺はこれでいいとはちっとも思ってねェんだ。――思ってるだけで、別の解決法が出せねェのが悔しいけどな。
とにかく、これで何とかなるってンだったらキッチリ何とかなってもらおうじゃねェか。俺はその手伝いをするだけだ。仕事抜けるってのもアリだが、でないとただ働きになるし、俺が気持ち悪ィ。
とっとと片付けて、葬ってやろうじゃねェか。あの胸糞悪ィ真実って奴をよ」
「ありがとうございます。みんなでやれば、きっと上手く行きますよ」
苦笑してミケが言うと、今度はそちらに顔を向けて。
「っても俺は頭使う事は苦手だし演技とかも物凄く上手いわけじゃねェ。その辺扱い辛いだろうが……まあ、やれる事はやってやるよ」
強硬に秘密を話すことを主張していた2人が折れたことで、その場全体が千秋の案の流れになったようだった。他の冒険者たちも、口には出さずとも協力の姿勢を表情に表す。
「ムツブさんとセイカさんも…それで、いいですよね?」
ミケが改めて訊くと、ムツブは神妙な表情で頷いた。
「それが最善の策のように思う。皆様方にはご苦労をかけるが、よろしくお願いしたい」
「セイカさんは…どうですか?」
ミケはセイカの方を向いて、再び問うた。
「お話ししたとおりです。皆で話し合えば、これだけの策が出る。
あなたが死ぬ必要なんて、もうないんです」
セイカはやや沈黙して…やがて、首を縦に振った。
「……その案ならば、問題はないだろう。
迷惑をかけるが、私からもお願いする」
「………よかった」
ミケはふっと表情を和らげた。
「では、どうするね?ミケの幻術と千秋のタコ殴りと」
「おいっ」
柘榴が改めて言い、ミケはうーんと唸った。
「そうですねえ…冗談はさておくとしても、千秋さんを攻撃するのには抵抗があるんですが……クルムさんはどう思いますか?」
と、クルムのほうを向くと。
彼はやはり、アスと小声で何事かを話していて。
「クルムさん?」
「あ、ああ、ごめん。聞いてるよ」
クルムは慌ててミケのほうを向いた。
「そうだね、オレも演技とはいえ、千秋を攻撃するのは気が引けるな」
「って、いうか、さっきからアスさんと何をお話してるんですか?」
不思議そうに首を傾げるミケ。
「アスさんも…さっきから一言も話されてませんけど。
この案…どうでしょうか?クルムさんの意見も聞かせてください」
「あ……うん」
クルムは困ったように返事をして、アスを一瞥した。
アスも眉を寄せて首を傾げる。
「……お2人とも、どうしたんですか?」
様子のおかしな2人に、ミケだけでなく他の冒険者たちも視線をやった。
クルムはややためらって、それから言った。
「盛り上がってるところ、申し訳ないんだけど……
ミケや千秋の案は、それは良い案だと思うよ。
でも…そうやって『偽りの真実』を演じて、事件が解決されたように見せても…彼女への疑いを逸らしても…それは、根本的な解決にはならないと思う」
表情を引き締めて。
「セイカが言っていたね、自分がいる限り、自分に疑いを持って、調べようとするものが出るだろうって」
「それは……でも、疑いをかけた『魔物』が倒されれば…」
反論するミケ。
しかし、クルムの表情は崩れない。
「ワラシナさん、ヒロヤスさんはともかく、ヒロムさんとカナデさん…特にカナデさんは2年前の事件のことで相当セイカを恨んでいるようだし、納得しないだろう。
セイカを疑い続けて、これから先また彼女の事を調べるかもしれない」
「じゃあ、どうしろと?」
じれたように、千秋。
「お前もさっき、文隆の秘密は明かすべきでないと言っていたろう。
偽りの事実を作るのでなく、聖華を死なすのでもなく……文隆の秘密を守りきる手段があると言うのか?」
「………」
沈黙するクルム。
「クルムさん」
その後ろからアスが呼びかけ、振り向くクルム。
アスは無言で…しかし、瞳に意思をたたえて、頷いた。
クルムもそれに頷き返し、再び冒険者たちのほうを向く。
「さっき、セイカの話を聞いてから……ずっと、思ってた事があるんだ」
ぐ、と拳を握り締めて。

「………何か、おかしくないか?」

Innocent Truth

「セイカの話では、フミタカさんの頬の火傷は、彼女がつけてしまったものだということだった。
その事があって、フミタカさんは自分の罪に初めて気付き、自殺をした、って。
つまり、フミタカさんの頬の火傷は、彼が死ぬ8日前についたものなんだ」
ナノクニ独特の、タタミと呼ばれる床。
草で編まれたその表面に、ナノクニの礼に乗っ取って膝をついて座る。
「マシュウも言ったとおり、セイカがこの期に及んで嘘をつくとは思えない。
セイカが話したほかの事実は、オレたちが調べたものと食い違いはなかったしね。
そんな肝心なところで嘘をつく意味がないんだ。
……でも、だったら」
自分の膝の前に手をついて身を乗り出して。
クルムは、目の前の男に、問うた。

「……なぜあなたが、その火傷のことを知ってるんだ?」

年のころは、四、五十。
長く伸ばした黒髪を後ろでゆるくまとめ、紺色のキモノの上に同色のハオリを重ねて纏っている。
孤児院の院長……コシラカワ・タカミは、表情のない顔でまっすぐにクルムを見つめ返していた。
「セイカは、フミタカさんの死の8日前に彼に炎の魔法をかけ、火傷を負わせてしまったと言っていた。
でも、あなたは『養子縁組の手続きをしてから一度も会っていない』はずのフミタカさんの火傷を、知っていた、と言う。
どうして情報に食い違いがあるんだろう?セイカかあなたのどちらかが証言を偽っていることになる」
「いや、待たれよ、クルム殿」
クルムの後ろに同様に座っていたマシュウが、片手を上げてそれを止めた。
「実は儂も、火傷の証言の食い違いについては疑問に思っておった。しかし、それはセイカ殿の勘違いではなかろうか?
儂はそう思ったから、先ほどの考えを述べた。文隆殿の死はセイカ殿のせいではなく、レイナ殿のためである、と」
「どういうこと?」
クルムが問い返すと、マシュウは頷いて続けた。
「聞けば、レイナ殿も魔道の心得のある方であったとか。あの火傷は、セイカ殿と同様の経緯でレイナ殿がつけたものではなかろうか。それに気付かぬまま、同じところを焼き、すぐさま治したが痕は残った。当然じゃ、その痕はもともとついていたものなのじゃからな。
それならば、タカミ殿がその痕を見ていても、なんら不思議はあるまい」
マシュウの言葉を聞き、クルムは眉を寄せて首を振った。
「残念だけど、それはありえないんだ、マシュウ」
「なんと?」
眉を顰めるマシュウ。
「もし火傷の痕が以前からあったとしたら、だよ。
家族として彼と共に暮らしていた、いくらでもその火傷を見る機会のあっただろうセイカも、セイカと出会う前にずっと仕事仲間として過ごしてきたはずの古参の人たちも、数少ない友人として親しく付き合ってきたテオドールさんも、火傷のことは知らなくて…それなのに、養子引き取り手続きをしていたほんの数日間しか会っていないはずのタカミさんが、その火傷のことを知っていたっていうのは…どう考えても、おかしいんだよ」
「む、むぅ……」
答えに詰まって黙り込むマシュウ。
それに続くようにして、アスが口を開く。
「セイカさん、フミタカさんの火傷の痕は、あなたがつけたものであると…断言できますか?」
セイカは目を開いた真剣な表情のまま、頷いた。
「無論だ。私は義父上の髪を整えるお世話も毎日していた。あの事件の前に、義父上に火傷の痕など無かった」
「……つまりは、そういうことです。
セイカさんに、フミタカさんの火傷の痕について嘘をつく理由などない。
しかしそれは、タカミさんにとっても同じことです。『フミタカさんに火傷の痕があった』という、何の意味も無い嘘をつく理由はありません。人が嘘をつくのは、何か隠したい事があるからでしょう。
しかも、現実にフミタカさんに火傷の痕がある以上、タカミさんが『フミタカさんの火傷の痕を見た』という事実そのものは本当なのです。存在を知らないものを、あったと嘘はつけませんからね」
ふ、と息をついて。
「ならば、嘘は別のところに……『セイカさんを引き取ってから、フミタカさんとは会っていない』という言葉。それこそが、タカミさんの嘘だったのではないでしょうか。
それが嘘だとばれてしまうと都合の悪い……隠したいことがあるから作り出す、嘘です」
「あなたは、セイカがフミタカさんに火傷の痕をつけてから、フミタカさんが亡くなるまでの8日間の間に、フミタカさんに会ったんだ」
クルムがそれを引き継ぎ、再びタカミに向かって言った。
「それも……髪をかき上げないと見えないような火傷の痕を見る事が出来る……不自然な体勢の、フミタカさんに」
「!………」
冒険者の間に動揺が走る。
クルムは続けた。
「でも、あなたはその火傷の痕がいつどうやってついたかなんてことは知らなかった。だから、前からあるものだと勘違いをしてしまった。
それで、マシュウが『何故セイカを引き取ったのだろうか』という質問をした時に、その火傷の痕とセイカの火事のことを結び付けて考えてしまったんだ」
「……そう、か……引き取る手続きをしていた時も、そこは髪で隠れてたから、あの時にも火傷の痕はあったんだろうと思ってしまった、っていうことですね……」
ミケが言い、そちらに向かって頷く。
「フミタカさんが亡くなったとき。自殺と断定したかった自警団も、一通り関係者の事情聴取やアリバイの確認をしたはずだ。その中に、タカミさんは含まれていたのかな?」
「……ううん。この人の名前は無かった」
フミタカの事件の調書を確認したジルが、きっぱりと否定する。
「当然だ。あなたはフミタカさんが亡くなった4年前に、セイカを引き取る手続きをしただけの関係だから。
…表向きは、ね」
意味ありげにクルムが言って、そこで言葉を切る。
タカミは無表情のまま黙っていた。
と。
「……どういう……ことですか、院長」
腰を浮かせ、膝立ちで問うたのは、セイカ。
「院長が……義父上の火傷の痕のことを、知っていた?
何故です。院長と義父上は何の…何の繋がりもないはず」
とつ。
タタミに音を立てて立ち上がり、タカミに詰め寄る。
「まさか……まさか、貴方が、義父上を……」
胸倉を掴みかからんばかりに詰め寄って、決定的な言葉を吐こうとした、その時。
「………っぐっ……!」
セイカは、びくんと体を震わせて、その場に立ち止まった。
「……?!」
異常なその様子に、訝しげな顔をする冒険者達。
セイカは目を見開いたまま両手を上げると、そのまま頭を抱えてしゃがみこんだ。
「……っう……ぁあっ!」
苦しげな悲鳴を上げるセイカ。
タカミは無表情のままそれを見下ろしている。
「いけない、セイカさん!」
アスが慌てて立ち上がり、彼女に駆け寄った。
「セイカさん、セイカさん!しっかりしてください!」
「…っうぅっ……く……っ!」
なおも苦しそうに頭を押さえるセイカ。
アスは僅かにためらって、それから大きな声でゆっくりと、セイカに語りかけた。

「彼は、もうあなたの支配者ではありません!
あなたを支配する人間は、もうこの世にはいないんです!」

ぴた。
セイカの身体の震えが止まり、今までの苦しみようが嘘のような表情で顔を上げる。
「……っ……私、は……」
「セイカさん……よかった」
安心して表情を崩すアス。
「アス……こりゃ、一体なんだってんだ?」
リウジェが問うと、アスはそちらに向かって真剣な表情を作った。
「半信半疑でしたが…今の様子で、確信がもてました」
いたわるようにセイカの肩に手を置いたまま、クルムのほうを再び振り返って。
「クルムさん。先ほどお話したときに仰っていましたね。
まだひとつ、疑問があると」
「……っ、あ、ああ……」
セイカの状態に困惑した様子のクルムが、それでも頷いて疑問を口にする。
「セイカは…孤児となった自分を育ててくれた恩があるにしても…フミタカさんにあんなに酷い事をされたのに、何故彼の望み、行為を受け入れようとしたんだろう。あまつさえ、己に彼の咎を封じ込めて、ムツブさんに討たせようなんて。
セイカはフミタカさんを愛して受け入れたレイナさんじゃない。いくら自分を養ってくれた恩があるからって、あそこまでのことをされて、どうして彼を憎まずにいられたんだろう。
彼の名誉を守るために命までかけようと…どうして、そんな気持ちになれたんだろう、って」
「そういえば……そう、ですよね。
実の親ならまだしも、義理の親です…しかも虐待までされて、憎まないのって……言われてみれば、不自然です」
呆然とした様子で、暮葉。
「憎まないのではなくて、憎むことが出来なかったんですよ」
セイカの肩をいたわるようにさすりながら、アスは言った。
「……自分の支配者に対して、どんな仕打ちを受けても、受け入れ、憎まず、むしろ至らなかった自分の咎だと摩り替えるように。
必要ならば、命さえ投げ出す道を選ぶように。
彼女はそういう少女になるように、『作られてしまった』んです」
「そ、それって、どういうこと……ですか?」
怯えた様子でコンドルが問う。
アスは痛ましそうに目を閉じ、それから顔を上げて目を開くと、タカミの方を向いた。
「それは……もうすぐ、説明してくれる方が現れると思いますよ」
そしてタイミングよく、彼の言葉と重なるようにして。
とっとっとっとっ。
入り口の方から、軽快な足音が響く。
そして。
「アス、言った通りだったぜェ!」
しぱん!
勢いよくフスマを開けて飛び込んできたのは……
「…ヴォルガ?!」
「そ、そういえば、どこに行っていたんだ?」
「オイオイ、そりゃないぜェ。オレってそんなに存在感無いかァ?」
私の口からはちょっと。
「それよりアス、お前の言った通りだったぜ」
「そうですか、ありがとうございます」
アスは穏やかに微笑んで、ヴォルガに礼を言った。
「アス、ヴォルガは何を?」
クルムが言うと、アスはそちらを向かずに、再びタカミの方を向いた。
「タカミさんは、あの時フミタカさんと関わりのない人物として、調査の対象から外れました。
ならば、改めて調査をすればいい…それだけのことです」
「表の世界のことを調べるんなら時間はかかるかもしれねェがな。
裏の世界のことを調べるのに、たいした時間は必要ねェ。
あんた、随分有名人なんだな」
にやり、と口の端を吊り上げて、ヴォルガはタカミに言った。
「どんなに辛い仕打ちをしても一心に自分を慕い、尽くしてくれるナノクニのチョウチョウさん…
裏の世界では大層な評判だそうだぜ、あんたの『商品』はよ」
胸糞悪そうに吐き捨てるヴォルガ。
「報告を聞いたときに、少し違和感があったんですよ」
アスはなおもセイカの肩に手を置いたまま、それに続いた。
「セイカさんと同年代の、仲の良かった子供が…もうダザイフにはいない、連絡も取っていないだろう、と仰っていたそうですね。
引き取られたのは良いでしょう、喜ばしいことです。しかし、その引き取り手の中に一人もダザイフの人間がいないというのは……これは、どういうことなのでしょうか?」
僅かに嫌悪感を表情に表して。
「その時は、そういうこともあるのかと思いましたが……ダザイフで孤児院を経営していて、一人もダザイフからの引き取り手がいないということがあるものでしょうか?
それと、セイカさんがフミタカさんのことを憎んでいないということから…もしかしたら、と思って、ヴォルガさんに調べていただいたんです」
「まァ、聞いての通りだ。
コシラカワ孤児院ってのは、表の姿。
裏では、『引き取った主人に決して逆らわない、献身的で従順な奴隷』を売る、人身売買組織だった、ってワケだ」
「そ、そんな……!」
悲しそうな表情で言うコンドル。
「まァ、引き取られてった子供達は、まさか自分が売られたなんて夢にも思ってなかったかもしれねェがな。
あんたはそうやって、孤児達を洗脳し、商品として売りさばいてたんだ」
「なんてことを……!」
ヴォルガの言葉に、怒りの表情を見せる暮葉。
「セイカさんをしても、それに気付かないほどに…孤児院という閉鎖された空間で、普段の生活の影に隠れて、少しずつ。本人も無意識のうちに、『支配者』に対する絶対的な服従と、献身たるべきであるということを刷り込まれていったんです」
アスはセイカを見下ろしながら、淡々と説明した。
「フミタカさんの魔道の専門は、移動術を始めとする空間に作用する魔法であったと、セイカさんは仰いました。ですから、このような心理術は彼の手によるものではないでしょう。
当然、実のご両親でいらっしゃるレンさんと愛美さんの手によるものであるはずがない。
ならば…セイカさんが多くの時間を過ごされた、孤児院で施された…そう考えるのが自然です」
呆然とした表情で、アスを見上げるセイカ。
「フミタカさんは、セイカさんが抵抗して魔術を使い……セイカさんは少し混乱されていたようですが、実際には、今と同じような事が起こったのではないでしょうか」
アスは痛ましげにセイカを見やって、続けた。
「深層心理に刷り込まれた暗示に反するほどの恐怖…そして、暗示に反したことでの反動。セイカさんの様子は尋常でなかったに違いありません。
フミタカさんが悟ったのは、セイカさんに対して酷いことをしてしまったという事だけではなかった。
セイカさんが、何か強烈な精神支配を受けている。自分がどんな仕打ちをしても抵抗しなかったのは、レイナさんのように自分を受け入れていたからではなく、その精神支配のせいなのだ、ということを、悟ったのです」
そうして、再びタカミに視線を移す。
「そして、さっきの僕と同じ結論に至ったフミタカさんは……おそらくは、ます孤児院を調べたのでしょう。そして、ヴォルガさんが持ってきてくださったのと同じ情報を手に入れた。
そして、タカミさんに会いに行ったんです。
………セイカさんの洗脳を、解くために」
「………」
冒険者たちは固唾を飲んで、アスの言葉の続きを待った。
「しかし、タカミさんにとっては、それを知ってしまった…しかも魔術師ギルドの評議長として社会的地位もあるフミタカさんの存在は、非常に都合が悪かった。…あるいは、セイカさんの洗脳を解かなければ、全てを公にし、その人身売買組織そのものを潰す、と告げられたのかもしれません。
とにかく、そうなった以上、タカミさんの取るべき行動は…一つしかなかった」
話し合いと称して呼び出し…そして、崖から突き落とした。
アスの沈黙が、その続きを容易に想像させた。
「えっ……ちょ、ちょっと待ってください」
ミケが眉を寄せてそれを中断する。
「じゃあ、じゃああれはどうなるんですか?
…フミタカさんが残した、遺書ですよ」
「あっ……!」
言われて思い当たった、というように、クルムが声を上げる。
「そうだ……タカミさんが殺したんだとしたら、フミタカさんが遺書を残すはずがない……!
…アス……!」
混乱した表情でアスを見るクルム。
しかし、アスはそちらに向かってにこりと微笑んだ。
「簡単ですよ」
「えっ」
きょとんとして声を上げるミケ。
アスはそちらの方にも、柔らかく笑みを向けた。

「あれは、遺書ではなかったんです」

Innocent Conviction

アスはなおも彼を見上げるセイカの肩から手を下ろし、立ち上がった。
「ムツブさん。持ってきていただけましたか」
「あっ……あ、ああ」
またしても怒涛の展開に呆然としていたムツブが、弾かれたように反応して腰を浮かす。
「役所から預かってきた。フミタカ様が預けられた文書だ」
懐から封書を取り出して、アスに差し出す。
アスはムツブのところまで歩いていってそれを受け取ると、カサカサと開いた。
「やっぱり、報告を受けた時、妙な文書だな、と思ったんです。
読んでみますね」
こほ、と小さく咳払いをして、改まって。
「……私、皆崎文隆は、その原因に関わらず、身体・精神に何らかの事態が起こり、魔術師ギルド長の職を続けられなくなった場合、娘である聖華にその任を委譲し、以後一切の権限を聖華の判断に委ねる事を宣言するものとする。
また、私個人の所有する土地・家屋・資産の全てを聖華に相続させるものとする。
…皆崎文隆。慶遥34年、ディーシュの第20日」
淡々と読み終えて、肩を竦めて。
「…ずいぶんと、回りくどい言い方をしますよね。
遺書ならば『私が死んだら』でいいと思いませんか?」
「それは……確かに」
頷く千秋。
「…だが、ずいぶんときっちりした性格の御仁だったようだ、それもその癖なのでは?」
「そう捉えることも出来ますが……
…これは、死ぬことを前提とした文章ではない、のではないでしょうか」
「……どういうことだ?」
眉を顰める千秋。
アスは頷いて、セイカの方を見た。
「考えてもみてください。
このコシラカワ孤児院は、孤児院のように見せかけた人身売買組織でした。
……フミタカさんが、普通にセイカさんを引き取ったのだと思いますか?」
「あ……!」
冒険者たちから再び声が上がる。
「当然、タカミさんはフミタカさんに対しても『商売』をしたのでしょう。
フミタカさんが何故セイカさんを望むのかはわからない。しかし、セイカさんに非常に執着していたフミタカさんは、彼にとっていいお客さんだったことは想像に難くありません。
金を出さないのなら、他の人に売ってしまう……そう言われれば、フミタカさんに否と言えるわけがなかった。
フミタカさんは、セイカさんをお金を出して買ってしまったのです。
それこそが……フミタカさんの『罪』だったんです」
「なん…という……」
ムツブが呆然として声を上げる。
「この国では、人を売った者はもちろん、買った者にも重い刑罰が課されます。
やっと軌道に乗り始めた魔術師ギルドの評議長が、やむをえない事情とはいえ、人を買ったなどということが公になったら大変なことになる。
だから、やむをえなかったと言い訳をして、フミタカさんは目をつぶるしかなかった。
けれど、セイカさんに精神支配が施されていると知って、彼は初めて、己の罪を正面から見つめなおし……そして、罪を償う決心をしたのです」
「それが……あの日記の文面だったというわけですか……」
ファンが言って息をつく。
アスは頷いた。
「フミタカさんは、セイカさんの精神支配を解いた後…どちらにせよ、コシラカワ孤児院のことを公にするつもりであったのだと思います。
しかしその場合、彼の身にも重い刑罰が課せられることになる。もうギルドの評議長を続けることはできなくなります。
そして、彼が服役すれば…セイカさんは、再びもとの、身寄りのない子供に戻ってしまう。
それに、もし自分の交渉が失敗すれば。自分が逆に闇から闇に葬られてしまうようなことになったら。
身寄りを失い、そして精神支配を受けているセイカさんは、再びコシラカワ孤児院に戻され…誰ともわからぬ男に蹂躙される生活を送ることになるかもしれない。
フミタカさんは、それを何より避けたかった。だからこの文書を、誰の手も及ばない公正な『役所』という施設に託したんです」
手にしていた『遺書』をたたみ、再びセイカの元へと歩きながら。
「自分が捕らえられ、刑に服している間も、セイカさんが安定した生活を送れるように。
もしか、自分が闇に葬られるような事があっても…コシラカワ孤児院の手が及ぶことのない、安定した『地位』と、『帰る家』をセイカさんに確保してあげられるように。
フミタカさんは、そう考えて、セイカさんをギルド長にと指名したんです」
「なんと……フミタカ様はそこまで考えていらしたのか……!」
驚きの表情で息をつくムツブ。
アスは再びセイカの前で足を止めると、その場に膝をついた。
「アス……義父上は……私は……」
呆然と呟くセイカに、優しく微笑みかけて。
「セイカさん。あなたは正真正銘、フミタカさんを殺してはいなかったんですよ。
あなたのつけた傷は、彼を少しも傷つけてなどいなかった。
彼は自殺をしたのではありません。
むしろ、あなたのために自分の罪を見つめ、それを償って、綺麗な身になって……あなたと、再び家族として暮らすことを望んでいた。
そのために、彼は一人で戦いに赴き…そして、無念の死を遂げたんです」
「……ぁ………」
はらり。
セイカの緋色の瞳から、涙が一滴溢れ出す。
アスは彼女の肩に再び手を置くと、その瞳を覗き込むようにして、微笑みかけた。
「あなたは、誰も殺してなんかいない。
あなたは……本当に、無実なんですよ」
「……アス………!」
かくん。
セイカは体中の力が抜けたようにくずおれ、それを支えるように身をかがめたアスの胸にもたれかかって、静かにすすり泣いた。
「大丈夫ですよ」
アスは優しくセイカの背中を撫でながら、言った。
「あなたは、『ちょっとした親子喧嘩』で、お父さんにきつい仕打ちをしてしまって後悔していて…
タイミングよくお父さんが亡くなってしまったものだから、それを自分のせいだとずっと思っていただけです。
お父さんは、あなたのために頑張って、でも心無い人に命を奪われてしまったんです。
それが判ったのですから…もう、その『親子喧嘩』の内容なんて、明かす必要は無いんです。
もう、あなたが死ぬ必要なんて…どこにもないんですよ」
2人の様子を、冒険者たちは…もちろんムツブも、ほっとしたような表情で見つめていた。中には目頭を押さえている者もいる。
「さて、一件落着したところで」
一番後ろで控えていた柘榴が、す、と腰を上げる。
「諸悪の根源を捕らえるとしようか」
「…柘榴さん?」
きょとんとする冒険者達に、柘榴はにやりと笑みを向けた。
「なに、私はミカドから、こういった犯罪者を独断でしょっ引いても良いという権限を頂いていてね」
「ええっ?」
思わぬところから飛び出した設定……もとい柘榴の素性に、驚く冒険者達。
柘榴はすっと表情を引き締めると、タカミに向かって言った。
「刑部省正四位下、辛山葵姫である。
小白河孤児院院長、小白河鷹深。
その方、孤児院と偽りて罪もない孤児達を洗脳し、外国に売りさばいていた罪。
また、それを知った魔術師ギルド前評議長、皆崎文隆を、己の保身のために崖から突き落として殺害した罪。
もはや言い逃れは出来ぬ。神妙に縛につくが良い」
凛とした声が響き、室内が静まり返る。
タカミは初めと変わらぬ無表情でしばらく黙っていたが……
やがて、にこりと穏やかな笑みを作った。
「大変面白い小芝居を見せていただきましたよ。ありがとうございました」
「……何だと?」
気色ばむ冒険者達。
「私が、人身売買組織の元締め?そのような、素性も知れぬならず者の言うことを頭から信用されるとは、刑部省の権威も地に落ちたものですね」
「んだと!」
眉を吊り上げるヴォルガ。
タカミの様子は変わらない。
「そのような裏の知識に通じているということは、どうせろくな素性のものではないのでしょう。己のやったことを、何の罪もない他人に擦り付けて嘘をつくくらいは平気でする」
「てめェ、いいかげんにしろよ!」
立ち上がりかけるヴォルガを、周りにいた冒険者達が抑えて。
タカミは笑みを浮かべたまま、冒険者達を見渡した。
「文隆さんを私が殺したなどということも…とんでもない濡れ衣を着せられたものです。
あまりに突拍子がなさ過ぎて、反論の機会を逸してしまいましたよ」
「でも、火傷のことは……!」
クルムが言うと、そちらに向かって嘲笑を投げる。
「火傷の発言ひとつで、とんでもないところまで妄想を膨らめられる、その想像力には感服ですよ。
文隆さんの火傷のことは、私が他の方の火傷を見たのを勘違いしてお伝えしてしまったのでしょう。
それと同じ場所に、たまたま文隆さんにも火傷があった。それだけの話でしょう?」
「馬鹿な!そんな偶然があるわけない!」
千秋が言い、そちらにも顔を向けて。
「あるわけがないといわれても、あったのですから仕方がないでしょう。
それに、よしんば私が火傷のある文隆さんに会ったことがあるとして。
それが、どうして私が文隆さんを殺したことになるのですか?」
「………っ」
言葉に詰まる冒険者達。
タカミは満足そうに笑った。
「お判りでしょう。今貴方達が述べられたのは、『私が犯人であってもいい理由』であって、『私が犯人である証拠』ではない。文隆さんが、私を犯人だと言った訳ではないのでしょう?
私を捕らえるのならば、私が犯人である確たる証拠をもってせねばならない。
確たる証拠もなしに罪人という刻印を打てば……処分されるのは、貴女の方ではないですか?
……辛山葵姫どの」
「………」
柘榴は黙ったままそれを聞いている。
反論する術を持たずに、悔しそうな表情でタカミを睨む冒険者達。
タカミの言うことが詭弁であることはわかっていた。おそらくは、真実はクルムとアスが述べた通りなのだ。状況は全て、彼が犯人であることを示している。
しかし、犯人が彼であると指し示す証拠が無いのもまた、事実だった。
「………っ……」
泣き止んだセイカも、悔しそうな瞳でタカミを睨んでいる。
と。

「………そう、仰ると思っていました」

笑顔で言ったアスに、冒険者達の表情が変わる。
アスはもう一度セイカをいたわるように撫でると、立ち上がった。
「だから僕は、この文書をムツブさんに持ってきていただいたんですよ」
そして、先ほどの『遺書』を、もう一度取り出す。
「セイカさん。この文書……確かに、フミタカさんのものなのですよね?」
「あ……ああ。間違いない」
きょとんとした表情で、それでもアスに答えるセイカ。
アスは微笑んで、続けた。
「……その、根拠は?
この文書が、フミタカさんが作ったのだと装って作られたものでなく、間違いなくフミタカさん本人のものであるという根拠は、一体なんだったのでしょうか?」
「あっ……そういえば、確認はしていませんでしたね」
遺書を調べに行ったファンが、思い当たった様子で言う。
「役所の方の話では、魔道的な何かだったのではないかということですが……」
「その通りだ」
セイカは頷いた。
「魔道感知をして、義父上の魔力が感知された。魔力の波動は人によって違い、一人として同じものはない。義父上の魔力を帯びた文書ならば、それは義父上本人の手によるものだろう」
「………何故、フミタカさんの魔力を帯びていたのでしょうね?」
「…何だと?」
アスの言葉に、眉を寄せるセイカ。
アスはゆっくりと、続けた。
「自分の文書であると証明するために、魔力を込めたのでしょうか?
……この文書自体に、何らかの魔法がかかっているということは、ありませんか?」
「!………」
目を見開くセイカ。
「……貸せ!」
アスの手からひったくるようにして、『遺書』を奪って。
「……月狐の爪!」
ぱきん。
呪文と共に、物理的な音とは思えぬ鋭い音があたりに響く。
そして。
「………これは……!」
改めて文書を見、驚きの表情を作るセイカに、冒険者達もわらわらと集まってその文書を覗き込んだ。
「!」
「わ……」
「すげェ……」
先ほど読み上げた、スミで書かれた文の下にある大きな空白に……新しい文字が浮き上がっている。
セイカはゆっくりと、その文を読み上げた。
「………聖華。
これを読んでいるということは、私はもうこの世にはいないのかも知れぬ。
私はお前に、きちんと詫びる事が出来ただろうか。
お前が、残酷な心の支配によって、私の仕打ちを耐えざるをえなかったのを知らず、お前に甘え、お前を酷く傷つけた。どんなに詫びても詫び足りぬ。
私はこの文書を預けた後、お前を預かっていた…そして、お前に残酷な支配を植え付けた、小白河殿に会いに行く。
お前の支配を解き、そして私の罪を償うために」
慎重に紙の上に視線を滑らせながら、セイカは続きを読み上げた。
「これを読んでいる時に、全てが終わり、孤児院のことが世に明かされ、小白河殿が私と共に刑に処されているのならばよし。
もしそうでないのなら……私は彼の手によって葬られていると思え。
お前に、そして多くの罪も無い子供達に心無い仕打ちをした彼を、私は許さぬ。
たとえ葬られるとしても…私は必ず、彼に印を残すつもりだ。この手紙と同じ、印を。
それをもって、彼の罪を白日の元に晒してくれ。
……お前と共に過ごした時間は、私に幸福を与えてくれた。願わくば、私の罪が贖えたら、再びお前と家族として過ごせることを。……文隆」
最後の二文を読むセイカの声が震え、フミタカの名で締めくくられる。
セイカは丁寧に『遺書』をたたむと、きっ、とタカミの方に鋭い視線を向けた。
す、と手のひらを彼に向けて。
凛とした声で、呪文を唱える。
「……月狐の爪!」
ぱきん。
再び鋭い音が響き、タカミの身体が衝撃に揺れる。
そして。
「……ああっ!」
タカミの頬の奥…ちょうど、フミタカの火傷があったであろう位置に、黒い斑模様が現れる。
セイカはタカミを睨んだまま、ふ、と息をついた。
「………義父上の魔力だ。間違いない」
セイカの言葉に、にぃ、と再び笑みを見せる柘榴。
愕然とした表情のタカミに、ゆっくりと歩み寄って。
「……もう、言い逃れは出来ないね。
おとなしくすることだ」
「………」
タカミは無言で、がくりとうなだれた。

Innocent Denouement

「こちらが、報酬になる。受け取っていただきたい」
「ありがとうございます」
「む、かたじけない」
ムツブから差し出された金袋を受け取り、ファンとマシュウは軽く礼をした。
「あまりお役に立てなかったような気もしますが…全てが丸く収まり、ほっとしています」
穏やかに笑みを浮かべるファン。
「タカミ殿は、どうなったのじゃろうか?」
「それは、私の方で処理させてもらうよ」
やや後で千秋と共にいた柘榴が、マシュウの問いに答える。
「どうやら、あの孤児院は相当、叩けば埃の出る場所だったようだ。
在籍していた孤児達の保護やら、顧客の割り出しやら…やれやれ、骨の折れる仕事になりそうだよ」
「けっ……身寄りのねえ子供を金持ちの玩具にするために育てるなんざ、吐き気がするぜ。
ギッタギタに痛めつけてやれ」
リウジェが嫌悪感をむき出しにして言い、柘榴は笑顔で頷いた。
「ふふ、もちろんそのつもりだ」
「あ、あの、セイカさんは……」
同じく報酬を受け取ったコンドルが、ムツブの傍らにいたセイカにおずおずと言った。
「セイカさんは、これから……」
「……そうだな。今まで通り、ここで評議長を務めようと思う」
今は目を閉じたまま、静かに答えるセイカ。
「…そして、丹羽野を始め、古参の皆にも…今回の事件のこと、そして佐中小路のこと…全て話すつもりだ」
「えっ……」
コンドルのみならず、他の面々も驚いてそちらを見る。
セイカは続けた。
「無論、話す必要の無い義父上の秘め事は伏せたまま…佐中小路の件は、私の勝手な我侭で情報を伏せていたのだ。全てを話し、赤城にも謝罪をするつもりだ」
「オイオイ、いいのかよそんなことして。大丈夫なのか、相当ヒステリー女なんだろ?」
リウジェが言うと、セイカは頷いた。
「納得してもらえるまで、何度も話すつもりだ。
どう引き止めるかは、私の出方次第……ぬしがそう言ったのだろう?」
「ん、まあそうだけどよ……」
モゴモゴと居心地の悪そうなリウジェ。
「…存外、私が口を閉ざさず古参を頼っていれば、もっと早くに真実に近づけたのかもしれぬ。
二度とそのようなことにならぬよう…これからは彼らと良い関係を築いていきたいと思う」
「そ、そうか……」
意地を張られるのも苛つくが、素直になられたらなられたでむず痒い。
「まだしばらくはごたついていると思うが…落ち着いたら、マヒンダに向かうつもりだ」
「……マヒンダに?」
コンドルの傍らにいた暮葉が、首をかしげる。
セイカは頷いた。
「院長が私にかけた精神支配を解かねばならぬ。
そして、そのノウハウも伝授して頂くつもりだ。私と同様に精神支配をかけられた子供達を救うためにな」
「そうですか……」
暮葉は複雑そうな表情をした。
「……聖華さんは、お義父さんのことを…今は、どう思っていらっしゃるんですか?」
「………そうだな」
セイカは目を閉じたまま、胸の上に手をあてた。
「…私が義父上に逆らうことが出来なかったのは、院長がかけた精神支配のせいかもしれぬ。
だが、私は義父上を、父として、魔道士として、ギルドの評議長として尊敬し、敬愛していた。
この気持ちまでもが…邪な術のせいではない。私は、そう信じている」
「そうですか……」
今度は少し嬉しそうに言う暮葉。
「私もだ」
それに続く形で、ムツブも言った。
「フミタカ様の一面だけを見て、判断は下せぬ。私たちを導き、ギルド招聘を成し遂げたフミタカ様もまた、真実のフミタカ様だ。私はこれからも、フミタカ様を尊敬し続けるつもりだ」
「それならば、よかったです」
暮葉はそちらにも嬉しそうな笑みを向けた。
と。
「評議長」
奥からギルドの職員がやってきて、セイカに声をかける。
「何だ」
「魔道通信が入っています」
「私にか?」
「いえ、フェン・リウジェさまと仰る方に、ということですが」
「俺か?」
意外そうな声をあげるリウジェ。
「誰だ、ンな物好きは」
「ええと…フェン・クヮンホァさまと……」
「ンだとー!!」
急に大きな声をあげるリウジェに、職員はもちろん冒険者達も驚いてそちらを見やる。
「あのババアが一体何の用だってんだ!どこだ、その魔道通信ってのは!案内しやがれ!」
「あ、は、はい、こちらです……」
ちょっとどころでなくドン引きの職員が、おそるおそるリウジェを案内する。
「皆様方は、これからどうされる?」
ムツブが冒険者達に問うと、ファンが答えた。
「私は、薬の材料になりそうな草花を探しにナノクニの森を散策しようと思います」
「そうか。ここにも薬草の資料などはある。参考にされると良いだろう」
「はい、ありがとうございます」
「マシュウ殿はどうされる?」
マシュウの方に話を振ると、彼は重く頷いた。
「うむ。過去を無くしたという儂の業に従い、宿命に従い運命を探すのみじゃ」
判るような判らないような事を言って、ふうと息をついて。
「儂の過去を知っていそうなミケ殿とクルム殿にお伺いしたが、やはり詳しくは思い出せないそうじゃった。ひとまずは、方々の話の足跡を辿っていく所存じゃ。まずは、マヒンダになるのであろうか…」
遠い目をして空を見てから、再びムツブに視線を戻す。
「儂の因果、業、由来を探す長い旅になるかもしれぬが、人助けをしながら路銀を稼ぎ、ゆるりと参るつもりじゃ」
「そうか。旅の無事を祈る」
「有難い。皆の衆も息災に過ごされよ。何処かで合い見えたときは、酒なぞ酌み交わそうぞ」
手を上げて挨拶をし、マシュウはその場を後にした。
「では、私も失礼します」
「うむ、ファン殿もお気をつけて」
「ありがとうございます」
丁寧に礼をして、ファンもその場を去る。
「では、私たちも行こうか、千秋」
柘榴が促し、千秋がああ、と頷く。
柘榴はもう一度セイカの方を向くと、確認するように言った。
「しかし、本当に良かったのかね?あの鏡を手放してしまって」
セイカの家に残っていた例の鏡は、マジックアイテム収集家の柘榴が是非にと所望し、セイカが了承したため、今はすでにセイカの家から運び出されている。
セイカは特にためらいもなく頷いた。
「ええ。義父上の形見ゆえ、保管しておりましたが……望まれるものの元へやったほうが、義父上も喜ばれるでしょう」
「ふん……。
まあ、そのうち気が変わるかも知れないからねぇ。これは、大切に保管しておくよ」
「有難うございます」
「では、私もこれで失礼する。またこちらに来た折には、寄らせて頂くよ。行こうか、千秋」
「わかった、わかったから髪を引っ張るな。…ったく……」
千秋は柘榴を人睨みしてから、改めてセイカに向き直る。
「……まあ、ああいう奴だというのは今に始まったことではないしな。
利するところがある間はつきあってやるつもりだ。
セイカも……当分は苦労することの方が多いだろうが、困った事があったら、せいぜいこいつを使い倒してやればいい。
どうせ暇人だからな。餌をぶら下げれば喜んで力になってくれるだろうさ」
「有難く心に留めておく。千秋殿も息災で過ごされよ」
「ああ。ではな」
千秋も一礼すると、柘榴に続いてその場を後にした。
「……では、私も失礼しよう。この後、約束があるのでな」
セイカも一礼して、その場を後にする。
「ほ、他の方々は……」
きょろきょろしながらコンドルが言うと、ムツブはそちらを見下ろした。
「ミケ殿、クルム殿、ヴォルガ殿にはすでに報酬をお渡ししている。もうどこかへ行かれたようだが……コンドル殿は、ジル殿をご存知ないか?報酬をお渡ししたいのだが、姿が見当たらぬのだ」
「あ、あの、えっと……」
コンドルはごそごそと封筒を探ると、封書を取り出した。
「こ、これ……ジルさんから、ムツブさんに渡してほしいって……」
「ジル殿が?」
驚いてそれを受け取るムツブ。
封筒と一緒に、なにやら皮袋。中には金が入っているようだ。
「ふむ……一体……?」
ムツブは訝しげな顔で、カサカサと封を開け、中を改めた。

「…………何と………?!」

『ニワノムツブ様
突然のこのような無礼を、どうかお許しください。
今回の一件で、私は貴殿の役に立つばかりか、何の役に立つこともできませんでした。なので、報酬はいりません。
既に頂いた分は、返せる範囲でお返しいたします。足りない分も、いずれお返ししたいと思います』

「……ふぅ……」
ギルドからずいぶん歩いたように思う。
昨日の天気が嘘のように、からりと晴れ上がった空を見上げて、ジルは足を止めて息をついた。
「……コンドルには、悪いことしちゃったかな……」
なんとなく、彼を欺いているような気になって、罪悪感がちくちくと胸を刺す。
ジルはもう一度はあ、とため息をつくと、視線を空から下げ……
「……あれ」
そこに、ナノクニの町並みとは少し違う雰囲気の建物を見止める。
土壁ではなく、レンガ造りの建物。中央にそびえる小さな塔には、銀色の鐘が下がっていて。
「ああ……ディーシュ教会って、こんなところにあったんだ……」
建物に向き直り、どこか遠くを見るような瞳でそれを見上げるジル。
「…………」
しばらくじっと見上げていたが、やがて俯くと、再び足を踏み出す。
(私はもう、手を引いたんだ。今更訪ねても、迷惑なだけだろう)
そんな思いを抱いて。
ジルはその場を立ち去ろうと……
きい。
「あれ、ジル?」
思わぬところから聞こえた声に、ジルは驚いてそちらを見た。
「………クルム?」
ディーシュ教会の扉から出てきたクルムは、思いもよらぬ姿になっていた。
「……どう、したの。その、服」
「うん、セイカから借りたんだ。フミタカさんの若い頃の服だって」
そう。クルムは、若草色のハオリに黒いハカマという、ナノクニの装束に身を包んでいたのだ。
「ジルは、もうこの町を出るのか?今朝、姿が見えなかったけど」
「う、うん……」
屈託なく微笑むクルムに、再び罪悪感がむくむくと頭をもたげて。
「ジルさん。こんにちは」
続いて出てきたアスに、ジルは少し緊張した表情を向けた。
「アス……」
「もう旅立たれるのですか。お名残惜しいですね。最後にご挨拶ができて良かったです」
「……迷惑、じゃなかった?」
「迷惑?」
ジルの言葉にきょとんとするアス。
「……何がですか?」
「……私が……訪ねて」
「…何故ですか?」
心底不思議そうに、アス。
そんなことない、と笑顔で言われるよりも、自分の考えが馬鹿馬鹿しいもののように思えてくる。
「あの………アス…」
「はい、なんでしょう?」
再びにこりと微笑むアス。
ジルは少しだけ戸惑って、それから口を開いた。
「……ごめん。そして、ありがとう」
アスはきょとんとして、それから再び微笑む。
「僕はジルさんに、謝られるようなこともお礼を言われるようなこともしていませんよ。
もしジルさんが、僕のために何かが変わったと感じているのなら…それは、僕の力ではなくて、ジルさん自身の力です」
「……そう、かな……」
よくわからなそうに首を傾げるジル。
「はい。ジルさんが、僕の言うことに耳を傾ける気になって下さったから、ですよ。
ジルさん自身の声だけでなく、他の人の声にも耳を傾けるようになった時……人と『繋がり』を持つことが出来た時、人は変わるのだと思います。多くは、良い方向に」
「繋がり……」
ぽつりと呟きながら、ジルは、もうこの世にはいない親友の言葉を思い出していた。
『人はね、一人で生きることなんて絶対にできないの。だって、生んでくれる人も、育ててくれる人もいなかったら、ジルはここにいないでしょ?
それだけじゃない。人は、どこかで、何かしらの形で、きっと他の誰かと繋がってる。それは、私とジルみたいに、目に見える関係じゃないかもしれない。でも、自分からその道を閉ざしてしまったり、見ない振りをして孤独に生きてちゃ、いい繋がりは生まれないよ』
ジルは、アスが、自分には見えていなかった何かを見せてくれたような気がしていた。
しかし、それは彼女が『見る』気になったからだ、彼女の力だと、彼は言う。
「……これが……繋がり、なのかな」
ジルが呟くと、アスは笑顔で頷いた。
「ええ。セイカさんは、今まで意図的に『閉ざしていた』古参の方々との『繋がり』を開放することで、もっともっと幸せになることでしょう。
ジルさんにも、同じ幸せが訪れることを、お祈りしていますよ」
「……私に…できる、かな」
俯いてジルが言うと、アスは再び頷いた。
「ええ。僕の言葉に耳を傾けてくださったジルさんなら、きっとできますよ」
そうして、顔を上げて、その先を続ける。
「さしあたっては、彼の言葉に耳を傾けてみては、どうでしょうか?」
「……えっ?」
明日の言葉に顔を上げ、彼の視線を追って振り向くと……
「ジル殿!」
道の向こう側から、ムツブが息を切らせてこちらに駆けてくるところだった。
「……ムツブ…さん……」
アスは再び微笑んで、言った。
「では、僕たちはこれで失礼しますね。
ジルさんも、お元気で」
「じゃあな、ジル」
アスに促され、クルムもアスと一緒にその場から離れる。
一人取り残されたジルの元にムツブが駆け寄り、足を止めて息を整えた。
「……ジル、どの」
「……ムツブさん」
ばつが悪そうな顔をするジル。
ムツブは息を整え終えると、持っていた皮袋をすい、とジルに差し出した。
「…報酬だ。受け取って頂きたい。お返し頂いた前金も入っている」
ジルは困ったようにそれを見上げる。
「………でも、私は……何の役にも……」
「役に立ったか立っていないかを、何故ジル殿が判断される?」
ムツブは僅かに眉を寄せ、子供にしかりつけるように、言った。
「私はジル殿に依頼をし、ジル殿はその依頼を遂行した。報酬が払われるのは当然のことだ。
ジル殿の勝手な判断で、私の意向を決めないで頂きたい」
そして、無理やりジルの手を取り、皮袋を持たせる。
「……でも……」
「ジル殿」
ムツブは腰をかがめ、ジルと目線を合わせた。
「……私はセイカの話を聞こうとはせず、自分の判断だけで動き、失敗した。
もっと彼女と関わりを持っていれば、このようなことは無かったかもしれなかった」
皮袋を持たせたジルの手を、包み込むようにして。
「ジル殿はまだ若い。この年寄りを見て学ばれよ。
自分の思いだけで決め付けるな。自分の判断だけで動くな。自分と関わる多くの者の言葉を聞け。
……私と同じ轍は、踏むな」
「…ムツブさん……」
ジルはムツブを見、そして頷いた。
「……わかりました。……ありがとう」
ムツブは、おそらく初めて、笑みを作り、ジルの頭を撫でた。
「ジル殿の旅に幸多からん事を祈る。またダザイフにお越しの折は、訪ねられると良い」
「…うん、そうする……」
ジルは無表情で…しかし、どこか嬉しそうな無表情で、こくりと頷いた。

じりりりり。
宿場『オータニ』のカウンターで物思いにふけっていたヴォルガを、魔道時計の音が現実に引き戻した。
「あん?通信か…誰だァ?」
『やっと繋がった!ちょっと!何してるのよ一体!』
時計のスクリーンに映ったのは、先日の金髪女性。
ヴォルガはにぃっと笑みを浮かべた。
「や~白猫ちゃん、オレがいなくてそんなに寂しかったのかァ~?」
『何言ってんの馬鹿!まったく、ようやく通信が繋がったかと思ったら、阿呆なことほざいてんじゃないの…』
女性は頭を押さえて言い、どうにか表情を作った。
『新しい仕事よ…』
その言葉に、ヴォルガは辺りに人気が無いことを確認する。
「おう、何だ?」
『“黄蛇”とリュウアンの紅き月に向かってちょうだい。詳しいことはソッチで…合言葉は“龍の黒真珠”よ』
「はァ?」
眉を寄せるヴォルガ。
「黄蛇と?ガ…紅狗はどうしたんだァ?オレの相棒はあいつだろうが」
『緊急の依頼で蒼鳥とゼゾよ』
女性の言葉に表情を引き締める。
「鋼鮫絡みか…?」
『えぇ…そういう訳だから今回は黄蛇と組んでもらうわ』
「やれやれ……」
複雑そうな表情で、ヴォルガはしぶしぶ頷いた。
「了解…そんじゃ黄蛇は京の都か?」
と、ヴォルガが言ったその瞬間。
「呼ばれて飛び出てオラオラオラァ!」
しぱーん!
「ってェ!!」
後頭部をいきなりハリセンでどつかれ、声を上げて頭を押さえるヴォルガ。
「お前がモタモタしてる間にとっくにご到着や!このノロマが!」
二十歳過ぎほどの男性が、ハリセンを持って胸を張っている。
ヴォルガは頭を押さえたまま振り向いた。
「オマエ!何でコッチに!?無駄金は使わねェ主義じゃなかったのかァ!?」
会話の内容からすると、このハリセンの男性が『黄蛇』なのだろう。彼はにやりと笑うと、どこへともなくハリセンを消した。
「隣町でこのはの公演があんねん。せやさかい、ボディーガードでコッチまで来てたんや。
タイミングよく今朝方仕事が入ったさかいな、このは連れてダザイフまで来たっちゅーわけや。
行きついでにこのはをゴショの屋敷まで送ってくさかい、はよ準備せいや」
「ヴォルガはん」
黄蛇の後ろから長い黒髪の女性がひょこりと顔を出す。おそらくは、彼の話に出てきた『このは』。
「ヴォルガはんにまでご迷惑かけてもうて、申し訳ありまへん」
申し訳なさそうに言う女性に、ヴォルガは笑顔を向けてひらひらと手を振った。
「気にしねェでくれ…レディを守るのは当然だからなァ~」
「おおきに」
「言うとくが、このはに手ェ出したらたたっ斬るで?」
『このはさんを送るのはいいけど、目的地へは急いでよね』
完全に置いていかれた魔道時計の向こうの女性が、ぴしゃりと言う。
「んじゃー行くとすっか……っと、その前に…リウやんに良い店教えてかねェとなァ…」
ヴォルガはぽりぽりと頭を掻いて、面倒げに立ち上がった。

「ね、シェリー」
ギルドから出て連れ立って歩くコンドルと暮葉。
二人だけだからか、暮葉も砕けた口調で、呼びなれた愛称を呼ぶ。
コンドルの方もそれに違和感は無いらしく、特に咎めることも無く返事をした。
「なに?」
「どうしていきなり館から消えたの?シェリーと1番仲良かったのに突然いなくなったから寂しかったんだよー」
突然そんなことを言い出す暮葉に、コンドルはきょとんとして、それから申し訳なさそうに眉を寄せた。
「うん…兄さまに会いにいきたかったんだ。ごめんね」
しかし、暮葉の表情は緩むことはなかった。
「誰にも言わないで出てったでしょ。御祖父様今も心配してるよ」
「そう、だよね…」
ますますしゅんとするコンドル。
暮葉は少しばつが悪そうに、話の矛先を変えた。
「それで、お兄さんを探してるって、宛てはあるの?」
暮葉の言葉に、コンドルは再びきょとんとして…それから、少しだけ嬉しそうな笑みを見せた。
「あ、うん。えっと、実はもう何回か会ってるんだ」
「えっ、そうなんだ」
少し驚いた様子の暮葉。
「どんな様子だった?元気してた?」
「…うん。元気、だったかな」
ゆっくりと頷くコンドル。
「シェリーのお兄さんかぁ」
歩きながら呟き、暮葉は唐突にコンドルの方を向いた。
「私も会ってみたいなー」
「ええっ」
コンドルは唐突な言葉に驚き、そして眉を寄せた。
「えっと…多分ダメだよ。ご、ごめんね」
不満げな様子の暮葉。
「だめ?どして?もしかしてシェリーみたいに恥ずかしがり屋さん?兄弟そろってシャイっなんだー」
「ち、違うよ…」
コンドルは慌てて否定した。
「ただ、兄さまはボクと違ってニンゲン嫌いだから…人と会いたがらないの。ごめんね」
「尚更会いたい」
まだ不満げな様子で言って、しかし暮葉はくるりと向きを変えると、ぶつぶつと呟いた。
「んー、じゃあそこらへんは紅葉を頼ろうかな。よろこんで協力してくれそうだし…」
「……?」
何を言っているのかよく判らないコンドル。大丈夫だ、わからないのは君だけじゃないから。
「あのねー」
と、再び唐突に、暮葉はコンドルの方を向いた。
「実は私、御祖父様にあなたを館へ連れ戻すよう遣わされたんだ」
「えっ」
再び驚きに表情を広げるコンドル。
そして、嫌そうに眉値を寄せた。
「………やだよ、ボクまだ帰りたくないよ」
「んー、そか」
暮葉はあっけらかんと、というよりは多少白けた様子で、答える。
「もしかして親離れする時期ですか。いや、こういったら何なんですが見た目あまり成長が目に留まらなかったものですが、しっかりと大人への階段を登ってくれてるのは一人の友人としてとても喜ばしいことです」
「親離れ……。それにあまり成長してないって、ヒドイよ暮葉ちゃん……」
コンドルは少し怒ったようだった。
肩を竦める暮葉。
「でもあんなに優しくて孫思いの御祖父様に何も言わないでこんな東の果てまでほっつき歩いてるのはなかなかに親不孝者だと思うのだけれど、そこんところどう、少年?」
「そう、だよね……」
コンドルは再びしゅんと肩を落とし…しかし、すぐに顔を上げて、きっぱりと言った。
「でも、ボク、兄さまと一緒にって、兄さまの役に立ちたいって決めたんだ。だから……ごめんね、ボクは帰らないよ」
「ふーん、そっか、役にか」
暮葉はまだ納得の行かない様子だ。
「そもそも、お兄さんがしようとしてることって、何?シェリーは何を手伝おうとしてるの?」
「え、えっと、それは…………」
口ごもるコンドル。
暮葉はその先を言う様子がない事を悟ると、仕方がなさそうにため息をついた。
「まー、このまま屋敷に戻ってもまた家出しちゃうよね、そうとう強引に。というか引っぱってつれかえるのも骨が折れそうだし。御祖父様には悪いけど、もうちょっとだけ待ってもらおうかな」
「え、いいの?暮葉ちゃん」
コンドルの表情がパッと明るくなった。
「……ありがとう」
暮葉も笑顔を返す。
そうして、二人は他愛のない懐かしい話をしながら、ダザイフの道をのんびりと歩いていった。

「人形を動かして戦闘までさせられるような研究者……か。なかなか難しい条件だな」
ミケは一人、難しい顔でダザイフの公道を歩いていた。
先日の戦闘で、『魔道人形を使った芝居の興行』という派手な嘘をついてしまった手前、その責任を取らなければならない。
「マヒンダに行くのが手っ取り早いでしょうか……でも、旅費が…」
マヒンダまで行けば、ゴーレムの研究をしている魔道士を雇って研究発表剣人形劇をしてもらうことが出来ないか、と思ったのだが。
「そうはいっても、そんなに都合良くそんなもの開発できる研究者はいないですよね。…まあ、まずは行ってみないと、ですけど」
そんなことをぶつぶつと呟きながら歩いていると、少し開けた公園のような場所にさしかかった。
「どうしようかな……」
と、何の気なしに顔を上げると。
「……あれ?」
何やら、人だかりが出来ている。それも、子供ばかりの。
「…何だろう」
何の気なしに寄っていくと、子供達の中心で操り人形を動かしている少年の姿が見えた。
透き通るような白い肌、金髪碧眼のうっとりするような美貌。長い耳がエルフであることを主張している。
「……はてさて、アマンの町での冒険も、彼ら冒険者の手で終幕です。私の語りも、これにて終了。ありがとうございました」
その少年の姿を目にしたミケの表情が、驚きと喜びにパッと開く。

「…………いたーーーーーーーーーっ!」

びくう。
人形を片付けようとしていた少年が、あまりの大声に驚いて身を竦ませる。
「なんです、急に騒いで……っと」
たたっ。
駆け寄ったミケが、興奮した様子で少年に言った。
「ペルルさん!ナイスタイミング!」
その言葉に、すっと顔色を変える少年。
「……!?」
が、その警戒の色は一瞬で消え、申し訳なさそうな表情を作る。
「すみません、実は頭を打って記憶喪失になってしまって、昔のことは何も」
「知り合いです!貸した借りがあるんで、今すぐ返してください」
記憶喪失という重大事件よりも、今のミケにはこちらの方が大事だった。ガン無視で自分の話を始めようとする。
「……いや、借りた覚えが」
「貸したんです」
きっぱりと言うミケに、返す言葉を失う少年。
が、面倒そうに眉根を寄せると、ミケの手を振り払った。
「すみませんが、借りた覚えがないし、あなたにも覚えがないので。失礼します」
「…そうですか」
ミケはすう、と半眼になると、目を閉じて呪を唱えた。
「風よ、ひととき我に鮮やかなる音を……」
そして、次に口を開いた時。
『ペルル、渡した本は、読み終わったのよねぇ?』
彼の口からは、涼やかな…しかし、底なしに冷ややかな、女性の声が紡がれた。
びくう、と少年の身体が震える。
「ねーちゃん、ごめん!今すぐっ!…………って、え……?」
自分の反応が信じられない、という様子できょとんとして。
ミケはにこりと微笑んだ。
「はははー……頭は覚えていなくても、人間身体で覚えた事は、忘れない物ですねぇ」
がし。
少年の腕を掴んで、離すもんかという表情で詰め寄る。
「お願いします、会ったことは黙っていますから……手を貸してください。脱走に手を貸してあげたでしょう?」
少年はなおも戸惑ったように視線を泳がせていたが…やがて、諦めた様子で目を閉じた。
「…………ええと、何をしたら、いいんでしょうか……」
「……敬語が使える大人になって……ちょっと感動です……」
なんとなく涙を拭うしぐさをしてみるミケ。涙など出ていないが。
しかし、感傷に浸っている暇はなかった。
「ええとですね、理由は聞かずに、このダザイフで人形劇をお願いしたいんです。対人で派手なバトル付きで。あ、報酬としてはこれが今の全財産ですから……」
説明を始めるミケを見つめる少年の姿は、控えめに形容して、絶望的な表情をしていた。

「映像はいらねェよ、どうせ見えねェんだからよ。切っとけ勿体ねェ」
イライラした様子で魔道通信装置の前に座ったリウジェ。
ほどなくして、ヴン、と、通信が繋がった音がする。
と、呆れたような音声が部屋に響いた。
「元気?……って流戒、あんたねぇ。映像切るのはやめなさいって何度言ったらわかんのよこのおバカは」
声は、年配の女性のようだった。一見穏やかそうで、しかしひと癖ありそうな声音に、リウジェの眉が寄る。
「るっせーな俺には意味ねェだろ!」
「あたしには意味あるのよ自分の勝手で話進めない!一体いつになったらチンピラ気分抜けんのよ!」
「一生抜ける予定はねェよ!……あーそうだよ俺はどうせ勝手だよ」
「あら。何よ珍しい。嫌だわねえ。誰か!今すぐ洗濯物取り込んで!」
「舐めてンのかババァ!!」
「環に会いに行ったんじゃないの?何かあったの?」
そっけないようでいて、僅かに心配そうな声がかけられる。
リウジェは舌打ちすると、事の経緯を説明した。
「環の知り合いの仕事を請けた。ろくでもねぇ結果になった。他の連中はろくでもねぇままそれを隠してめでたしにしようとしやがった。俺はまったくめでたくねェ。けどめでたくねェのは俺だけだ。俺は自分がめでたく感じねェのを間違いとは思ってねェが、どうしたって間違いだって言いやがる。めでたくねぇって主張したがボロックソに言われた。それが全部正しい事を言ってる。腹立つが負けた。自分でケンカを売って勝手に負けて腹立ってるのは勝手きまわりねェ。
…そう、思ってたんだがな」
とりあえず「勝手極まりない」の言い違いには突っ込まずにおく女性の声。
リウジェが、いつになく神妙な声を出したからだ。
リウジェは僅かに黙り込んで、そしてパッと手を上げた。
「……あー、もう負けだ負け。完敗だ。俺が買っただの負けただの、めでてぇだのめでたくねぇだの、そんな小っせェことにこだわってる間に、もっと別の次元を見てるヤツがいた。
小っせェことしか目に入らないヤツに、大局も真実も見えちゃァこねェ。そいつがよーくわかったよ」
リウジェの言葉が終わると、女性ははぁ、とため息をついた。
再びリウジェの眉がつり上がる。
「なっ何だよ!また俺の事バカだとか何とか思ってるんだろ!」
女性の苦笑が聞こえた。
「違うわよ。あんたの事、無理に呼び戻したり連れ戻さなくて良かったなあ……って。あんた、ちょっと見ないうちにちょっと人間に近づいてるわよ」
「人以下か!俺は人以下か!?」
「とにかく、タンカ切ったり暴れても解決しない物事があるって事。それが分かっただけでも収穫だわ。あんたの場合は遅すぎるけどね」
「一言余計だこのクソババァ」
吐き捨てるようなリウジェの言葉も全く気に留める様子もなく。
「これで、あんたにも自分の小ささがわかったでしょう。小さなことにこだわって、勝手をして暴れていたって何にもならないってこと。もっと大きな目で物を見ることが出来るように、もっともっと強くなりなさい。強さってのは拳だけじゃないって事、今のあんたなら判るでしょ?」
「また余計言いやがってこのババ……」
ぷつん。
通信の切れた音が響いて、リウジェは言葉を切った。
「切ったか?切ったのかよ相当勝手だよなテメェも!!」
ばん。
通信機を怒りに任せて叩くリウジェ。後ろで先ほどの職員がハラハラしながらその様子を見ている。
「ちっ!……しゃーねェ、環のとこ行くか……」
もう一度こつんと通信機を蹴ると、リウジェはそのまま通信室を後にした。

「ふ……ふぁ、いや、ふわ……?」
「環(フヮン)です。リウジェさんと同じ、リュウアンの出身で、地人なんですよ」
クルムとアスは連れ立ってダザイフの道を歩いていた。
「へぇ…その、環、っていう子が、リウジェをアスに紹介してくれたのか」
「ええ。僕が困っている様子を見るに見かねて、リュウアン時代に良くしてくださった、お兄さんのような存在のリウジェさんを紹介してくれたんです。僕をとても慕ってくれているんですよ。
昔は少し悪かったこともあったようで、今も少しだけ誘惑に負けてしまうこともありますが…いい子ですよ」
「そうか。その環も、アスの心配事が解決して嬉しいだろうな」
「はい。今日も、リウジェさんにダザイフを案内するのだと言って出かけていきました」
「へえ……あ、いたいた」
歩いていく先に目的の人物の姿を見つけ、クルムは笑顔で手を振った。
「おーい、セイカ!」
クルムが呼びかけるまでもなく、セイカは目を閉じたままずっと二人のほうを向いていた。
ただ一つ違うのは、セイカはいつものハカマ姿でなく、暮葉が着ていたような、一般的な女性が着るキモノを纏っていたということ。
橙から朱に鮮やかに彩られたキモノは、はらはらと紅葉の模様が施されており、緋色の髪のセイカによく似合っていた。短くさんばらになってしまった髪も、油を使っているのか、綺麗にまとめられ髪飾りが刺されている。
「それ、綺麗なキモノだな。うん、よく似合ってるよ」
クルムが笑顔で言うと、セイカは静かに頷いた。
「叔母上の……いや、義母上の形見なのだそうだ。袖を通すのはためらいがあったが…今なら、義父上もお許しくださるだろう」
「そうですね……よくお似合いですよ」
かすかに頬を染めて、アス。
「クルム殿も良くお似合いだ。お貸しして良かった」
セイカに逆に褒められ、クルムは自分の着ている服を見下ろした。
「そうかな?ナノクニの人間でないオレが着て、おかしくないかな」
「そのようなことはない、よく似合っている」
「そう?何か、アスとここに来るまでにも、いろんな人に振り返られて、少し恥ずかしかったよ」
「ナノクニの方は、あまり異国の文化に慣れていませんからね」
苦笑して、アス。
「ですが、それは決してクルムさんを異国人として追い出そうとしているわけではありません」
「うん、わかってる。ちょっと珍しいだけだよな」
そちらに笑みを向けて、そして改めて自分の服を見下ろし、二歩、散歩と歩いて、くるりと向きを変えてみる。
「このハカマって言うのは、キモノより動きやすいんだな」
「そうだな。キモノを着ているとどうしても歩幅が狭くなりがちだが、ハカマは動きやすく、運動をするのに向いている。
私はキモノも嫌いではないが、魔道を行使するとなるとどうしてもハカマを選ぶことになるな」
セイカが言い、クルムはそちらに向かって頷いた。
「千秋もハカマだしね。もっと窮屈かなと思ったけど、案外そうでもないよ。
ナノクニの服はよく考えて作られているんだな」
「それは、ナノクニでなくても同じであろう。どの国にも、尊重すべき文化はあるものだ」
「そうだね」
キモノ話が一段楽したところで、アスが歩き出して促した。
「さあ、参りましょう。ダザイフをご案内しますよ、クルムさん」
「ああ、ありがとう。行こうか」

「この辺はずいぶん賑やかなんだね」
日もずいぶん暮れかけて、訪れた場所は人通りの多い繁華街だった。
「そうですね、ダザイフはゴショからはずいぶん離れていますが、こういった場所もありますよ」
「どこの町にもこういった場所はあるものだ。犯罪の温床にもなりうるが、発展の元にもなる。一長一短だな」
「そうか……でも、フェアルーフで見る繁華街よりはずいぶん落ち着いた感じがするよ」
きょろきょろと物珍しそうに辺りを見回しながら、感慨深げに言うクルム。
「でも、ちょっと歩けばもう、緑が豊かな田園風景が広がって…山が多くて、緑が豊かで。
風景の移り変わりがすごく綺麗だな」
「そうですね。ここからも山が見えますが…」
建物の屋根の向こうに見える山を指差して、アス。
「尾根の稜線が赤く色づいているでしょう。日ごとに寒さが深まると、あの赤い色がだんだんとふもとまで降りてくるんです。あと半月くらいでしょうか。紅葉に染まった山はまるで燃える炎のようで、とても美しいですよ」
「そうなんだ。それは是非見てみたいな」
クルムは嬉しそうに微笑んだ。
「是非また、ナノクニにお立ち寄り下さい。
秋だけでなく、冬も春も夏も、ナノクニはとても美しいですよ」
「うん、是非そうさせてもらうよ」
そんなことを言いながら、繁華街を歩き回る3人。
と、唐突にアスが足を止めた。
「?どうしたんだ、アス」
立ち止まったアスは、すぐそばにあった店の入り口から、看板をゆっくりと見上げる。
そうしてから、顔だけ2人を振り返り、にこりと笑みを作った。
……満面の笑みなのに、どこか、凍りつくような冷たさを持った笑みを。
「申し訳ありませんが、お2人ともしばらくここでお待ち頂けますか?」
「えっ……あ、ああ、いいけど」
伺っていつつ反論を許さないオーラに、気おされたように頷くクルム。
「ありがとうございます。少し、失礼しますね」
アスは浅く礼をすると、店の中へと消えていった。
「ど…どうしたんだろう、アス。このお店は……」
混乱した様子で看板を見上げるが、何と書いてあるのかわからない。
「…花見亭、だ」
そのクルムの様子を察してか、セイカが看板を読み上げる。
淡々とした声音で。
「…ゲイシャと呼ばれる着飾った女性が接待をする飲み屋だ。接待だけで終わることは稀だがな」
「……えっ」
セイカの言った意味を察して、僅かに頬を染めるクルム。
そして、急にそわそわして辺りを見回した。
「そ、そんなお店に、何で一体…?」
「………そうだな。おそらくは………」

すぱん!
勢いよくフスマが開き、中でどんちゃん騒ぎをしていた一団がふっと静まり返る。
そして、たくさんのゲイシャの中央で揉まれていた男子2人のうち、褐色肌の地人の少年が、面白いくらいに顔面を蒼白にする。
「あ……あ、あ、あ、アスさんっっ!!」
フスマを開けたアスは、にこり、と少年に微笑みかけた。
「今度やったら許しませんよと、言っておいたはずですね?環」
とつ。
真新しい畳の上に、笑顔のまま一歩を踏み出すアス。
環と呼ばれた少年は、大慌てで傍らにいたリウジェの袖を引っ張った。
「や、ヤバイ兄貴!逃げましょう!」
「んなぁっ?!」
環に袖を引っ張られ、訳もわからずにその場を逃げ出すリウジェ。
「てめぇ!何回ドジ踏みゃ気が済むんだよ!」
「結構久しぶりッスよぉおおおおお」
「そりゃあそうだろうが通算だこのバカー!!」
後ろからアスが追ってくる気配を察しながら、リウジェは環に悪態をつく。
だが、2人が店の庭先に足を踏み出した、その時だった。
「母なる御手の中で眠れ!」
アスの鋭い叫びと共に、2人の足元の土が勢いよく盛り上がる。
ぼご。
「うわあぁっ!」
「な、なんだこりゃ?!」
土は2人を囲う小さな牢獄のような形を作り、そこでぴたりと止まった。
「ああああああ」
絶望的な環の声が響き、アスがゆっくりと近づいてくる。
そして、アスが二人の前で足を止めると、リウジェはそちらに向かってくってかかった。
「てめェアス!なンで俺まで閉じ込めやがる?!」
アスはニコニコと笑みを作ったまま、こともなげに答えた。
「リウジェさんには感謝していますが、それとこれとは別です。
環はもう神に仕える身。このように誘惑されては困るのですよ」
「アスさん!オレ、もう、もう絶対しませんから!だから、兄貴だけは…!」
「あなたの『絶対しません』を聞くのは、これで5度目ですね」
環の懇願も笑顔で切り捨てて。
アスはひた、と土の檻に手を当てる。
「言って判らない者には、少しきついお仕置きをしなくてはなりません。
……覚悟しなさいね?」

「なんでだよちっくしょおおぉぉぉお!」
「すんません兄貴いぃぃぃぃ!!」

賑やかで穏やかなナノクニの夜空に、2人の空しい絶叫がこだました。

Innocent Lovers

「おかえりなさい」
教会の入り口から中に入ると、見知った顔が出迎えた。
「あっ……テオドールさん」
彼の名を呼び、表情を和らげるクルム。
「ダザイフはいかがでしたか」
「とても楽しかったです。初めて触れる文化がたくさんあって、とても新鮮でした」
「そうですか、それはよかった」
テオドールは笑顔で頷いた。
「アスは……」
「あ、セイカを送っていったようです。もう夜も遅くて危ないからって」
「そうですか。あの子も大人になりましたね」
感慨深げに言うテオドールに、クルムは一瞬ためらって、それから口を開いた。
「あの、テオドールさん。
今回は、ありがとうございました」
「え?」
突然の礼に、きょとんとするテオドール。
「フミタカさんの伝記のための取材にお付き合いくださって。
オレ、最後まで伝記作りに協力して…フミタカさんの偉業をきちんとまとめて見せます。
そして、出来た本を、一番にテオドールさんにお届けします」
「ああ……私も、協力できて嬉しかったですよ」
テオドールは再び笑顔で頷いた。
そして…様子のおかしいクルムに、すまなそうな笑みを向ける。
「フミタカさんは……立派な方だったと思います。
たとえ……あのような闇を抱えていたとしても」
「えっ……」
クルムは驚いてテオドールを見上げた。
「テオドールさん……知って……」
テオドールは苦笑した。
「……人は、神ではありません。誘惑に負け、怠惰になり、誤った道へ足を踏み入れてしまうこともあるでしょう。
人は生まれながらに罪を背負って生きています。しかし、それを背負ってあまりある幸せを生み出すことも出来る。私は、レイナさんは本当にフミタカさんを愛し、彼を受け入れていた、それゆえに幸せであったと心から思っています」
静かに目を閉じて。
「ならば、私は赦しましょう。
罪なき罪を背負ったすべての人を。
人の幸せは、赦すことから始まる…私は、そう信じています」
「テオドールさん……」
教会の大聖堂が、しん、と静まり返る。
クルムは改めて、ここは神に赦された場所なのだと……そう、思った。

「…ここでいい。すまないな」
自宅が見える門のところで、セイカは振り返ってアスに言った。
軽く礼をして、笑顔を向けるアス。
「では、また何か御用がありましたら、お申しつけ下さい」
「…ああ。では、またな」
「はい。おやすみなさい」
言って、アスは踵を返し、歩き始める。
「…………アス」
ややあって、セイカはアスを呼び止めた。
アスは足を止め、振り返ってセイカを見る。
「………」
セイカはゆっくりと目を開き、緋色の輝きを外気に晒した。
「……今回のこと、本当に感謝している」
数歩の距離をゆっくりと歩き、アスの前で足を止めて。
「ぬしがいなければ、私はずっと、あの出口のない暗闇を彷徨っていたのだろうと思う。
……ぬしが、私に光を与えてくれた。
本当に……感謝している」
「……セイカさん」
少し驚いた様子のアス。
セイカは手を伸ばし、アスの手を取って…そして、あの時のように、自らの頬に当てた。
「…ぬしの手は、本当に暖かいな」
目を閉じて、そう言って。
「……また、このぬくもりに触れる事が出来て、良かった」
「セイカさん……」
アスはさっと頬を朱に染めて…そして、セイカの頬に当てられた自分の手で、逆にセイカの手を取る。
「セイカさんが幸せになってくださる事が、僕の願いです」
そう言って、その手にはめられた手袋を、丁寧に取り外した。
「…っ、アス……」
僅かに身をよじるセイカを無視して、手袋を取り去って。
傷だらけのその手を、自らの手で包む。
「……ほら」
そして、再びにこりと微笑んだ。
「セイカさんの手だって、とても……とても、暖かいですよ」
「アス……」
セイカは僅かに目を見開いて……

そして、ゆっくりと。
嬉しそうに、笑みを作った。

「………ありがとう………」

ダザイフの夜が、静かに更けてゆく。
夜空に煌々と輝く月が、2人をいつまでも見下ろしていた。

“Innocent Sin” The End 2007.11.17.Nagi Kirikawa