謎のダンジョン -ルヒティンの刻-

はあ、はあ、は……
朝早くから街中を走り回り、ミケは息を切らせてその場に立ち止まった。
もともと体力はあまりない。少し走っただけでも限界だ。
一緒に走っていた猫が心配そうににゃあと鳴く。

「ただ遊ぶんじゃ、面白くないでしょう?」

ずいぶん懐かしい気のする…からかうような、妖艶な微笑を浮かべて、彼女は言った。

「だから…かくれんぼをしましょう」
「かくれんぼ?」
「ええ。マターネルスの第40日…新年祭の始まる日ね。場所はヴィーダ市街全域。アタシはどこかに隠れているから、見つけて頂戴。
新年の鐘が鳴るまでにアタシを見つけられたら、アナタの勝ち。見つけられなかったら、アタシの勝ち。シンプルでしょ?」
「えー、ヴィーダ全体でしょう?僕に不利すぎませんか?」
「それもそうねぇ……じゃあ、こうしましょう。アタシの可愛い部下たちに、それぞれヒントを持たせるわ」
「ヒント?」
「ええ、アタシの居場所を示すヒント。
部下たちは同じようにヴィーダをウロウロしていてもらうから、あのコたちを捕まえればヒントを貰えるわ。もちろん、タダでとは言わないけど」
「戦って勝ったら、ということですか?」
「それも、あのコたちに任せるわ。歩いていれば見つかるように、隠れないでいてもらうし」
「…助っ人を頼んでも?」
「それは好きにするといいわ。ヴィーダは広いから」
「……わかりました。それでいいです」

彼女はもう一度楽しそうに、にぃ、と笑った。

「じゃあ、新年祭の日にね。楽しみにしてるわ」

「早速ですけど……これは、僕一人では無理ですね……」
開始200メートルで、ミケは眉根を寄せて呟いた。
「行く道で知り合いに会ったら、協力をお願いしましょう…しょっぱなから無理は禁物です」
にゃあ。
心配そうに鳴くポチを、笑って抱きあげて。
今日のいでたちは、いつもの魔術師のローブとは違う、街中を駆け回る仕様になっている。黒の上下にロングコートを羽織り、やはり寒いので首には薄緑色のマフラー。いつも垂らされ三つ編みにしている長い栗色の髪は、今日は頭の上でひとつに括られていた。
「…というか……この辺にこんな場所、あったかな……?」
キョロキョロとあたりを見回して、呟く。
場所は中央公園のほど近く。まだ朝も早く、人通りはそんなにない。中央公園や大通りのように、出店が建ち並ぶような場所でもない。
それなのに、見覚えの無い風景があたりに広がっていた。
「何かのアトラクション……ですかね?昨日まではこんな建物、無かったと思うんですが……」
猫を肩に乗せて、正面に立っているレンガ造りの建物の方に歩いていく。
アトラクションならば、誰かが外に立って案内なりをすると思うのだが…
「…誰もいませんね」
ひょい。
入り口から顔を覗かせてみるが、中は暗くてよくわからない。
「……あれ」
奥の方を見ると、かすかに何か光っているような気がする。
「何でしょうか……」
ミケは好奇心に導かれるまま、その光を追って建物の中に入っていった。
二歩、三歩。
その光に到達するほどに歩いたとは思えないのに。
ぶわ。
「うわっ」
急に辺りがまぶしい光に包まれ、ミケは思わず目を閉じた。
「…な、何…が……えっ」
光圧が消え、恐る恐る目を開くと。
そこには、形容しがたい光景が広がっていた。
「……な、何ですか、これ……」
逆さまに吊り下がっているテーブルと椅子。天井に、壁に広がる階段。登っていった先には入り口があり、上なのか下なのかも判らない。
いつか見た騙し絵のような、三次元を超越した不思議な光景だった。
「…まあ、僕自体二次元なんですけど」
そういうこと言ったらいけません。
「しかし、歩けるんですかね、ここ……」
恐る恐る足を踏み出してみると。
「わ、歩ける」
ふわふわ。
何となく歩いている気がしなかったが、それでもこの騙し絵の中を歩くことはできるようだった。
進んでいるのか戻っているのか、上っているのか降りているのか、それすらもあやふやになりそうだ。
「…まるで、僕の心の中みたいですね」
自嘲気味に言って、ミケは苦笑した。
やがて、正面に大きな扉が見えてくる。
「この向こうには……砂漠が広がってたりとか、しませんよね」
それは何だか色々とシャレにならなそうだ。
ミケは一瞬躊躇ってから、ドアのノブを回した。
その先にあったのは。
ある意味、全く想像の範疇を超えた光景だった。

「いいから、早くつかまれ!」
「~~っ、もう!」
裾が長くふわふわと広がっている、薄緑色のドレスを纏った少女が、いかにも王子様然とした真っ白い服に身を包む少年に手を引かれて、塔の窓から飛び出した。
ペガサスというのだろうか、羽のついた馬にまたがった王子に抱きつくような格好で脱出する姫。ギリギリの所で姫のドレスの先を魔物の爪が掠めていく。
大変ドラマチックな光景だ。
が。
その王子と姫には、見覚えがあった。
「リーさんと……エリウスさん……?!」
以前会った時の格好とは全く違っていたが、その王子と姫は紛れもなく、以前受けた依頼の主、リーとエリウスだった。
呆然とその様子を見守るミケをよそに、ペガサスはすいと空を一周して、地面に降り立つ。
そして、その背から2人が降りると、まるで光の泡のようにさっと空に溶けて消えた。
「もう……!一体、どうなって……る………」
姫の姿でドレスの裾を律儀に上げながら憤慨するリーの視線が、ミケのそれとぶつかる。
瞬間、固まる2人。
「…み……ミケ……」
見る見るうちにリーの顔が赤くなっていく。
ミケもつられて真っ赤になると、慌ててぺこりと頭を下げた。
「し、失礼しましたっ!」
くるりと踵を返して、もと来たドアに手をかける。
そこでやっと我に返ったリーが、顔を真っ赤にしたまま必死でそれを追った。
「ミケちょっと待ってえぇっ!ドア閉めちゃだめー!!」

「あ……」
「あれ……」
ミケの先導で2人がドアの外に出ると、それまで彼らを取り囲んでいた風景が…ミケが歩いてきた騙し絵の世界も、リーとエリウスがいた魔物の住む塔も、それらを隔てていた扉さえ、先ほどのペガサスのようにふわりと空に溶けて消えてしまった。
同じように、リーとエリウスが着ていた王子と姫の服も消え、以前会った時の彼らの服装に戻る。
「…消えて…しまいましたね」
「何だったのかしら……」
狐につままれたような表情をするミケとリー。
リーの隣で少し難しい顔をしているエリウス。
ともあれ、リーはひとまず安心した顔でミケに微笑みかけた。
「いきなりわけわからない世界に迷い込んじゃってどうなることかと思ったけど、ミケのおかげで助かったわ、ありがとう」
「い、いえ、僕は別に何もしてませんが」
まだちょっと恥ずかしいのか、目を逸らしたまま頬を掻くミケ。
「それにしても、久しぶりね。元気そうで良かったわ」
変わりない様子のリーに、ミケも安心したように微笑んだ。
「お2人こそ。お元気にしていますか?」
「ええ、おかげさまで」
「ミケさんもお元気そうで良かったです」
エリウスも柔らかい笑みを浮かべて言う。
ミケはそちらに向かって、微妙に心配そうな表情を向けた。
「エリウスさん……お師匠さまは向こうでおとなしく……?」
「え……っ、え、ええ……」
エリウスは一瞬きょとんとしたような顔をしたが、すぐに苦笑を返した。
「便りのないのが良い便り…と思うことにしています…」
「はは、そうですか……」
つられて苦笑するミケ。
「お元気そうなら、良かったです。……ええと、仲良く今日はデートですか?」
「えっ……」
ミケの言葉に、今度はリーがきょとんとして軽く頬を染めた。
と、それにはエリウスが笑顔で答える。
「そうですね、せっかくの新年祭ですからね」
「ちょ、エリー!」
ミケの言葉を全く否定しないエリウスに、さらに頬を染めるリー。
リーはミケのほうを向くと、弁解するように言った。
「違うの、ロッテも一緒だったのよ」
「ロッテさんも?」
「ええ。でも、さっきの世界ではぐれてしまったみたいで…ミケはロッテ、見てない?」
「いえ……残念ながら」
心配そうな表情になるミケとリー。
「彼女ならよほどのことがない限り大丈夫でしょう。こうして僕たちも無事だったのですし」
笑顔のまま、慰めるように言うエリウスに、ミケも苦笑する。
「そうですね、あまりそういう心配はしてないんですけど」
「それに、僕としても、彼女と3人よりはリーと2人きりで新年祭を楽しみたい気持ちもありますし」
全く変わらぬ笑顔のまま臆面もなく言うエリウス。ミケとリーは再び頬を染めた。
「な、何言ってるの!もう……」
「は、はは……」
どう返事していいものか、乾いた笑いを浮かべるミケ。
所在なさげに視線を動かしてから、言いにくそうに、続ける。
「あ、あの………お二人は…その、恋人同士、なんですよね?」
「えっ?」
さっきから、リーの頬の毛細血管は休まる時がない。
代わりに、笑顔のままのエリウスが答える。
「そうですね、そういうことになりますが…突然どうされたのですか?」
「あ、いえ、その……」
ミケは恥ずかしそうに頬を掻いた。
「…良いなぁと思って。好きな人がいるのって」
「…ミケ?」
照れつつも、様子のおかしいミケが気になった様子のリー。
ミケは構わず、少し恥ずかしそうに苦笑した。
「その…お幸せですか?人を好きになるって…どんな気持ちがするものなんでしょう…?」
「ど、どんなって……」
唐突なミケの質問に、今度はリーが視線を泳がせる。
「ええ、幸せですよ」
やはりリーがまごまごして答えられずにいる間に、エリウスがさらりと答えた。
「え、エリー?」
驚いてそちらを見やるリーをよそに、にこりと微笑んで。
「僕も以前は、人を好きになる気持ちというものがあまりよく判っていなかったと思います。僕に良くして下さる方々に誠意を尽くして接するのが当然で、その中に優劣などありませんでした。周囲の望むように振舞うのが僕の役目で、それに満足していましたし…やがては、父の決めた方と結婚して、子孫を残すのだと、漠然と考えていました」
「エリー……」
エリウスの話に、神妙な表情になるリー。
思いがけず真面目な答えを返され、ミケは戸惑い半分の表情で、さらに問いを重ねた。
「……今は、違うんですか?」
「…そうですね」
にこりと微笑むエリウス。
「リーは…それまでの僕の世界を、がらりと変えてしまいました。
上手く言えませんが…彼女は、他の誰とも違います。特別、なんです」
「……っ」
再び顔を赤くするリー。
エリウスは続けた。
「誰かに望まれるからではなく、僕自身が『何かをしたい』と思ったのは、初めてでした。
彼女のために何かをしたい、彼女の笑顔を見ていたい、彼女と共にありたい、と。
そういう願いが湧き出てきて、僕は初めて『生きている』んだと実感しました。
彼女は、ただ周りに動かされるだけの人形だった僕に、命を与えてくれたんですよ」
「も、もも、もういいから!」
ニコニコ笑いながら面白いほどにつるつると惚気るエリウスを、真っ赤になったリーが必死に止める。
「あ、あはは、い、いいですねぇ、羨ましい…です…」
つられて赤くなりながら、乾いた笑いを浮かべるミケ。
と。
「あー!!いたいた、もー、探しちゃったよー!!」
聞き覚えのある声が後ろから聞こえ、リーがぱっとそちらを向く。
「ロッテ!」
「もー、なんなのここ。ばかなの?」
うんざりしたような声が近づいてきて、ミケも笑顔で振り向いた。
「ロッテさん、お久しぶりです。ご無事でよかったです。
ああ、じゃあロッテさんにも聞いていい………で………す…………」
言いかけたミケの表情が、リーの表情同様、びき、と固まる。
「あ、ミケじゃーん久しぶり♪どしたの、そんなカッコしてー」
「あ……いえ…えっと……」
暢気そうにひらひらと手を振るロッテ。
問題なのは、彼女ではなく。
「…ちょっと。何であなたが一緒にいるのよ」
先ほどまでとは打って変わった険悪な声で、リーがロッテの背後にいる問題の人物に言った。
ロッテと同じ褐色の肌。一見穏やかそうなオレンジの瞳にかかる片眼鏡。つややかに伸びる長い黒髪、紫を基調としたエキゾチックなデザインのローブ。
「……キル……さん…」
呆然とした表情で、ミケがその名をぽつりと呟く。
キルはミケのことは気にならないのか、優雅な微笑をリーに向けた。
「何故と仰られましても。姫君をあのような訳の判らぬ世界に置き去りにしたのは貴女ではありませんか?」
「…っ、別に置き去りにしたわけじゃ…!」
「私は、姫君をお助けに参上したのですよ。礼を言われこそすれ、非難される覚えはないと思うのですが?」
「……っ!」
悔しそうに口をつぐむリー。
ミケは2人の口論を、微妙にハラハラした気分で見守っている。
リーとロッテ、それにエリウスが共に旅をしているのは知っていた。
そして、ロッテがキルと想いを通じ合わせたことも。
しかし、リーとロッテを仲介に、天使と魔族が一堂に会することになるということまでは、全く頭が回っていなかった。
「…え……と……」
気まずそうにエリウスに目をやれば、先ほどまでの笑顔は消え、しかし露骨に嫌な表情はしていない。ほんの僅かに、よく見なければ判らぬほど僅かに眉を寄せ、迷惑そうな表情をしているだけだ。
エリウスの心を読める術者がいたのなら、さながら「このボケ魔族が、ヘタこきやがって」とでも聞こえただろうが…
「んふふ、ほらほら2人とも、ミケが困ってんじゃーん」
ロッテがからかうように言って、ようやくミケはこわばった体を動かした。
「え、いえ、その」
「…ごめんなさいね、ミケ。気にしないで」
まだキルを警戒しつつも、すまなそうにミケに謝るリー。
「いえ、そんな。…でも、あの。え、えーと……今の状況、特にまずい物じゃない、ですか?」
こちらも未だ慣れぬ様子で恐る恐る問うミケに、リーは複雑そうな表情を返した。
「…あなたの言う意味では、まずい、ということはないわ」
「彼が表立って現世界で何をしたというわけではありませんからね。
僕も彼の討伐の命を受けて現世界に降りたわけではありませんし。
無駄な争いは却って混乱を招きます。ここは、不本意ですが見なかったことにするしかないでしょうね」
僅かに迷惑そうな表情のままエリウスが補足し、ミケはよくわからなそうに、それでも頷いた。
「そう…ですか。そういうものなんですね…」
「つーか、何か話してたんじゃないの?」
今までのやり取りを聞いていたのかいないのか、恐ろしくどうでもよさそうな表情でロッテが話を元に戻す。
「ボクにも訊くとか何とか、さっきゆってなかった?」
「あ、ああ、ええと」
怒涛の流れに混乱しながらも、ミケも改めて話を戻した。
「恋愛ってどういうものなのか、お2人に伺っていたんです。
よかったら、ロッテさんにも聞いていいですか?」
「れんあい~?」
何かものすごく意外そうに繰り返し、ロッテはまじまじとミケを見た。
「なにどしたのミケ。悪いモンでも食べた?」
「ど、どういう意味ですか。答えに困るようなら別にいいですけどっ」
「恋愛、ねえ」
ロッテは嘆息して、ちらり、とキルの方を見た。
そして、もう一度ミケに視線を戻して、僅かに首を傾げる。
「…無くても生きていけるけど、無いと生きてる気がしないもの?」
「疑問形ですか」
「や、いきなりなんかそんな哲学的なこと訊かれてもさー」
「哲学的…ですよねえ」
苦笑するミケ。
ロッテはにっと笑って、後ろ手でキルを引き寄せた。
「いーじゃん、ただスキってだけで」
その肩にことんと頭を預けて。
「スキで、欲しい。ただそれだけ。
それに愛とか恋とか名前つけてるだけでしょ?
わざわざ難しく考えないで、気持ちのままでいればいいんじゃない?」
その、気持ちのまま、というのが難しいのだが。
口には出さずに眉根を寄せたミケに、ロッテは苦笑した。
「んー、納得してないってカオだね。
キミはどーなの、キル」
と、顎を上げて傍らの恋人に振る。
「私ですか?」
キルは意外そうにロッテの方を見た。
「そ。キミ」
軽く頷くロッテ。
そこでそっちに振るんですかと思ったが、ミケはとりあえず黙って答えを待った。
「そうですね……」
キルはきょとんとした表情のまま、ミケのほうを見、それから、リーの方を見て。
そして、再びロッテを見て、にこりと微笑んだ。
「……私の、すべて、でしょうか」
「は?」
ロッテの眉が寄る。
キルは長い袖で隠された手を、そっとロッテの顎に当てた。
「私の世界は、貴女がすべてです。
貴女以外のものに、興味などございません。
ですから、私のすべて、ですよ」
「ぅ」
目を丸くして硬直するロッテ。
頬を染めつつも不機嫌そうなリー。
げんなりを通り越してうんざりした表情のエリウス。
「…キミに訊いたのが間違いだったかもしんない…」
ロッテは紅潮した頬を誤魔化すように頭を振って、再びミケのほうを向いた。
「ゴメンね、あんま参考になんなくて」
「い、いいいえええ、その、勉強になりました」
力いっぱい首を振るミケ。
「……それにしても、何だったのかしらね?さっきのは…」
恋愛話がひと段落ついたところで、リーが強引に話を戻す。
「さっきの…変な世界のことですか?」
「あれ、ミケも見たのん?」
ロッテが問い、ミケは釈然としない顔で頷いた。
「はい。建物の入り口から入ってみたら、奇妙な世界に出て…ドアを開けたら、エリウスさんとリーさんが王子さ」
「それはもういいから」
ミケの言葉を強引に遮って、リー。
「変な世界に出て、変な格好をしてたと思ったら、急に元に戻って……何か、大掛かりな魔法か何かかしら?」
「…………」
真剣な表情で考え込んでいるエリウス。
と。

「あれ。ミケ?それに、リーとエリー…ああ、ロッテに……キルまでいるのか。
どうしたんだ、こんなところで?」

後ろから聞き覚えのある声がして、一同はそちらを向いた。
「あっ、クルムさん!」
「やっほークルム♪ひっさしぶりー」
「偶然ね、こんなところで」
道の向こうからやってきたのは、一同すべてと面識がある、クルムだった。
クルムは足早に5人の下に駆け寄ると、懐かしそうに相貌を崩した。
「ほんと、久しぶりだな。みんな新年祭に?」
「うん、そー。去年はあんまし回れなかったしねー」
ロッテが答えると、クルムは嬉しそうに微笑んだ。
「そうなんだ。
…でも、それにしては随分大通りから外れてるね。ここに何かあるの?」
「それがね……」
リーが複雑そうな表情で、クルムに事情を説明した。

「そうか…それは、妙だな…」
リーの話を聞いて、クルムは顎に手を当てて考え込んだ。
「新年祭のアトラクション…という訳でもなさそうだし…
どうして、こんなところにそんな変なものが出来てしまったんだろう…?」
「あー……ええと」
ミケは少し気まずそうに、切り出した。
「もしかしたら…ですけど」
「何か心当たりが?」
クルムに言われ、頷く。
「実は……ええと、どこから話そうかな。
僕、チャカさんとある勝負をしてまして」
「チャカと?!」
突如出てきた名前に驚くクルム。
「勝負って……どうしたんだ?ミケ」
「あっ、いえ、その、戦うわけじゃないんです。遊びみたいなもので…鬼ごっこというか…かくれんぼというか。僕はチャカさんを見つけなければならないんですよ。
で、そのための手がかりを、彼女の4人の部下が持っていて、まずそれを探そうと思ってるんですけど…」
「……その、4人の部下の誰かが、このおかしな空間を作ったかもしれない、っていうことね?」
リーが言葉を続け、頷くミケ。
「その可能性もあるかな、と思ったんです。
部下の中には、精神に干渉する術を使う人もいますし…」
いまいましげに眉を顰めて。
「でも…そうだとしたら、手がかりをミケに渡すのを妨害するためだけにこんな空間を作って…あたしたちみたいに巻き込まれる人が出てくるのは大変だわ」
リーも真剣な表情で眉を顰めた。
「ですよね…これは、止めに行かなければ……」
「……!待ってくれ…!」
考え込むミケに、クルムが鋭く言った。
「クルムさん?」
きょとんとするミケをよそに、クルムは真剣な表情で視線の向く方に駆けていった。
「これは……」
しばらく行った先でしゃがみこみ、何かを拾ったようだ。
一同はクルムを追って歩いた。
「何か、あったんですか?」
「……髪飾り?」
クルムの手の中にあったのは、華奢な鳥をかたどった銀細工の髪留めのようだった。
クルムは半ば睨むようにして髪留めを見つめながら、低く言った。
「…これ…オレがテアにあげたやつだ」
「テア?」
「…クルムさんの下宿先に暮らしている娘さん、でしたね」
首を捻るリーに、エリウスが補足するように確認すると、クルムは髪留めを見つめたまま頷いた。
「うん。今朝、お使いに出たまま帰ってこないから…探しに来たところだったんだ。
まさか……」
「テアさんが……この空間に迷い込んでしまった……と…?」
言葉を途切れさせたクルムの後に、ミケが続く。
クルムはさっとミケを振り向くと、真剣な表情で告げた。
「ミケ、ここはオレに任せてくれないか」
「えっ」
告げられた言葉に、驚きの表情を見せるミケ。
「テアがここに迷い込んだかもしれない以上、オレはこの中に入る必要がある。
ミケはまだ他に3人も見つけなきゃいけないんだろ?
手分けした方がいいと思うんだ」
「そ、それは…願ってもないことですが。
でも…いいんですか?」
テアが迷い込んだダンジョンを作り出したのは、もしかしたら自分の責任かもしれないのに。
申し訳なさそうに問うミケに、クルムは安心させるように微笑んだ。
「もちろんだよ。テアを探し出して、このダンジョンを作った張本人を探し出して、元に戻してみせる。
そうして、ミケの言う手がかりを聞き出してくればいいんだよね?」
「はっ……はい!ありがとうございます、クルムさん」
ミケは嬉しそうに言って頭を下げた。
すると。
「僕も行きましょう」
「エリー?」
突然申し出たエリウスに、むしろリーが驚いたようだった。
「エリー。…いいのか?」
クルムも驚いた様子で問うと、エリウスはにこりと微笑んだ。
「精神に干渉する術者ならば、僕の力がお役に立つと思いますし。
お供させてください」
「エリウスさんまで…すみません、ありがとうございます」
ミケはエリウスに向かっても申し訳なさそうに頭を下げた。
「では、私達は叔母様を探してお話をお聞きしてまいりますね」
続いて、キルがさらりと言って歩き出そうとすると。
「ちょっと、何さりげなくロッテを連れて行こうとしてるのよ」
リーが鋭くツッコミを入れる。
「おや、貴女はそちらの天使について行かれるのでしょう?
ならば、私が姫君をお連れするのがちょうど良いかと」
「なんでそうなるのよ!」
「あああ、また始まってしまった……」
キルとリーの口論におろおろするミケに、それはさておいてクルムが声をかける。
「じゃあミケ、もし手がかりを見つけられたら、どうして知らせたらいいかな?」
「あ、そうでした……ええと、そうですね…判りやすいところがいいですよね。
大通りの突き当たり、中央公園に面したところに、確かオープンカフェが出てたと思うんですよ。そこで待ち合わせということで…いいですか?」
「わかった。必ず手がかりを持っていくから、ミケも頑張ってくれ」
「はい、ありがとうございます、クルムさん」
話の落ち着いた2人をよそに、リーとキルの口論は終わりそうにない。
ロッテだけが楽しげに見守る中、残りの3人はこっそりと嘆息した。

→ミドルの刻・謎のダンジョンへ
→ミドルの刻・住宅街へ

謎のダンジョン -ミドルの刻-

「でも、エリーまでついて来てくれるなんて、正直驚いたな」
ミケと別れ、結局ロッテもキルに連れられて別方向に行ってしまい。
リーとエリーと3人で謎のダンジョンに侵入したクルムは、どこか嬉しそうにそう言った。
「そうね、あたしも少し意外だったかも。エリーが進んでこの手のことをやりたがるなんて」
そう言うリーも、少し嬉しそうで。
エリーは片眉を顰めると、肩を竦めた。
「…この手の感覚操作は俺の分野だからな。これだけの規模のものが野放しになっているのは確かに危険だ。
……万が一の可能性もあるしな」
「…万が一?」
首を捻るリーから、半眼で視線を逸らす。
「…いや。言霊ということもあるからな、口に出すと本当になりかねん。今は辞めとくよ」
「?…そう」
不思議そうに、それでもリーはそれ以上の追及をしなかった。
「……そういえば、クルムには普通の態度なのね、エリーって」
「は?」
唐突に話が変わり、再びリーの方を向くエリー。
リーはにこりと笑って、エリーとクルムを交互に見る。
「さっき、ミケがいる時は『エリウス』だったじゃない?でも、今は普通に『エリー』だなって」
「ああ…」
エリーはまたつまらなそうに肩を竦めた。
「化けの皮を知ってるヤツに繕ったって仕方がないだろ。あっちのヤツはあっちの俺しか知らないからな」
「急にこのエリーで接しても、ミケも混乱するだろうからね」
言外に、ミケを気遣って仮面をつけたと言いたげに、クルムも微笑む。
エリーはもう一度肩を竦めたが、何も言わなかった。
「でも、その格好で…ミケ驚かなかったのかな?前の依頼の時とは随分感じが違うけど…」
クルムは言って、眉を顰めた。
確かに、いかにも魔道士然とした前回のローブに比べ、今着ているのは同じ色とはいえ膝上のハーフパンツに臍まで見える短衣だ。髪もまとめてくくっているし、口調と態度だけ丁寧にしても随分印象が違うのではなかろうか。
すると、エリーは当然のことのようにさらりと言った。
「ああ、あいつにだけは以前の俺の格好を『見せて』おいたからな」
「……あ、そうか…幻術で」
言われて納得するクルム。
術の対象となる人物の五感に働きかけ、実際にない感覚をさもあるかのように感じさせる…無論、その逆も然りだが…幻術とはそもそもそういう術だ。リーやクルムにはこのエリーが見えているが、ミケには髪をおろして丈の長いローブを着た『エリウス』の姿が見えていたのだろう。
「まったく…面倒なことばっかりするんだから…」
リーは少し不満げだ。エリーはにべもなく手を振った。
「俺の勝手だろ。少なくともお前に面倒はかけてないね」
「…もう……」
エリーには取り付く島がないと判断したのか、リーは不思議そうに辺りを見回した。
「でも、本当に不思議な空間ね…ここ」
今歩いているのは、それこそ薄暗い洞窟の中のような場所だった。
あたりに光源は見えないが、岩壁の形がうっすらとわかる程度には明るい。
「今は変わってないけど…さっきは、入った瞬間に服が変わってて、気付いたらロッテもいなくなってて……ロッテが消えたように見えたのも、あの服も、出てきたモンスターも…みんな、エリーがやってるような幻術で、ありもしないものがそう見えていただけだったのかしら?」
「そうだね…このダンジョンを作ったのが本当にチャカの部下の仕業なのか…それはわからないけど。
でも、それこそ、前にエリーから受けた依頼の時の世界と同じような感じだ」
クルムも辺りを見回して言う。
と、リーはクルムの方を見た。
「ジョン先生が、幻の世界を作り出したのよね?確か」
「うん、そうそう。見たことも聞いたこともないような世界なのに、すごくリアルに感じられて…エリーのお師匠様の術っていうのは本当にすごいんだなって思ったよ」
感心したように言うクルムに、リーは微笑んだ。
「よかったら、聞かせてくれない?その世界でのこと。
エリーは何でか話したがらなくて、聞かせてくれないのよ」
「ああ、オレの見たのでよければ」
「あたしも出てきたんでしょ?」
「うん、本当にリーそっくりで、オレも驚いたよ」
「エリーの化けの皮がはがれたのよね?」
かなり楽しそうにつっこんでくるリー。
クルムは苦笑した。
「ああ、途中までは頑張ってたんだけどね、さすがにリーが…」
「おい、それはいいだろ」
不機嫌まっしぐらで止めに入るエリー。
リーが不満そうに口を尖らせた。
「いいじゃない、聞いてみたいのに」
「まあまあ。エリーが話したくないのなら、オレも辞めておくよ」
苦笑したまま、クルム。
「でも、それ以外のところなら、いいだろ?オレも楽しかったし」
「…好きにしろよ」
やんわりと押すクルムに、エリーはなおも仏頂面のまま、それでも首を縦に振った。
「じゃあ、お許しも出たし。
でも、オレたちが行った世界は、他のみんなと違って、そんなにこの世界と大幅に違うっていうわけじゃなかったんだ。他のところはもう、全然見たこともないような世界だったんだけど…オレ達のところは、周りの景色とか服装とかはあまりこの世界と変わらなかったな。
まあ、オレもエリーも冒険者じゃなかったし、エリーもリーも天使じゃなかったし、リーにいたってはお金持ちのお嬢様だったしって、別の世界に紛れ込んだみたいではあったんだけどね」
「お、お金持ちのお嬢様?」
初耳だったらしく、驚くリー。
「うん。オレもエリーも、貧乏な平民でさ。でも、やっぱり2人は恋人同士で、義理の父親に無理矢理結婚させられそうになるリーを助け出すんだよ」
「へ、へぇ……」
少し想像してしまったのか、微妙に頬を赤らめる。
「オレが今探してる…その、テアっていう子も、オレの記憶の中から再生されて出演してたんだ。リー付きの小間使いで、エリーとリーの仲を応援してて…最後はリーに着せられるはずだったウェディングドレスを着て入れ替わって、リーを逃がしたんだよ」
「へぇ……ちょっと、会ってみたいわね。その子に」
テアの話に、リーは興味を持ったようだった。
クルムは嬉しそうに微笑む。
「うん、きっと現実でもリーと気が合うと思うよ。機会があったら、是非一度会って欲しいな」
「ええ、是非」
クルムの笑顔に、リーも眩しそうに微笑んだ。
「でもあのウェディングドレス、リーが着るはずだったんだし……あのドレスを着たリーも、少し見てみたい気がしたな」
「えっ?」
名残惜しそうに言うクルムに、リーはきょとんとした。
すると、今度はエリーに向かって言う。
「エリーは、見てないんだよな。着替えた後のリーを連れ出したから」
「あ…ああ、そうなるが……」
戸惑い気味に返事をするエリー。
クルムは再びにこりと微笑んだ。
「可愛いドレスだったよ。リーによく似合うと思った。肩のあたりはすっきりしたデザインで、でも裾は細かい細工のレースが何重にもついてて…スカートは高級そうな布地をたくさん使ってて、すごく広がるんだ。風を受けるとふわりと広がって……」
ふわ。
クルムのセリフに呼応するように真っ白い布がふわりとなびく。
「えっ……」
「……そうそう、ちょうどそんな感じのドレス……って…!」
いつの間にか、リーがクルムの言ったとおりのウェディングドレスを着ている。
周りの景色も、洞窟ではなくステンドグラスから明かりが漏れる教会に早変わりしていて。
「…これは……!」
「や、やっぱり…ジョン先生の術のように、オレの記憶を読み取って再生するような術なのかな…?!
リーのドレス……あの、幻術の世界の中のドレスと全く一緒だ…!」
驚いて呟くクルム。
だが。
「……いや、違うな」
冷静に言ったエリーの言葉に、振り返る。
「何で……って!」
振り返った先にいたエリーは、リーのウェディングドレスに呼応するように真っ白なタキシードに身を包んでいて。
最高潮に不機嫌な顔で、言った。
「あの世界の中に、相手の男のタキシードはなかった。俺もクルムも見ていない。今の会話の中に、そんな話も出てこない。誰かが想像してみたというたぐいの物じゃないんだ。
となれば……このドレスとタキシードは、俺たち以外にあの世界のことを知っている者の仕業だ、ということだ」
「そ、それって……」
困惑気味に呟くクルム。
エリーは沈痛な面持ちで、はあ、とため息をひとつつくと、教会の中に高らかに声を響かせた。
「…先生!この辺りにいるんでしょう!
ネタは割れてるんです。おとなしく出てきてください!」
「えぇ?!」
驚いて辺りをきょろきょろと見回すリー。
大きく張り上げたエリーの声が、教会の中に反響し、やがて聞こえなくなる頃。
恐ろしく緊張感の無い声と共に、それは現れた。

「もー、だからバレるって言ったじゃなーい。おじさまのせいよー?」
「だってだってー、あの嬢ちゃんのウェディングドレスを見てみたかったんじゃぁ~。エリウスはおまけじゃ、おまけ!」

神父が立つ机の裏に隠れるようにしていた二人が、そんな言葉と共にひょこりと顔を出す。
その意外な面子に、3人はぎょっとしてその名を呼んだ。
「じょ、ジョン先生?!」
「ま、ママ?!こんなところで何してるの?!」
神父と尼の格好に身をやつしていたのは、渦中のエリーの師、ペヨン・ジョン・ウィンソナーと……リーの母親、ヒューリルア・ミシェラヴィル・トキスだったのである。

一方、その頃。
彼らがいる場所とは全く違うが、やはりこの謎のダンジョンの中に迷い込んでいる者がいた。
「はあっ、はあっ…
待てっ…!ジェナムさんっ…!」
中央公園の特設ステージから、雲にのって消えてしまった謎のピエロ――ジュナムを追いかけていたマジュール。
カツラは彼のナイフの洗礼に遭ったためもう無いが、ピエロの衣装はそのままに、マジュールは必死に走っていた。
そう、いつの間にか辺りが不思議な景色になっていることにも気づかないほどに、必死に。
「……あ、れ……」
空を見ながら走っていたはずだが、いつの間にかその空が見えなくなったことに気づいて、マジュールは足を止めた。
「ここは…しまった、どこかに入り込んでしまったのか…」
出ないと泥棒と間違えられてしまうかもしれない。
そう思いながら、辺りをキョロキョロと見回すマジュールだったが、不意にその表情が驚愕に凍りついた。
「こ、これは!?実家の、私の部屋…!?」
大きなサイズの、だが質素なベッド。簡素な机、開けっ放しのクローゼット。
そこは紛れもなく、マジュールが幼い頃から過ごしてきた彼の部屋だった。
「な、どういうことだ…?!なぜ、いつの間に…!」
マジュールに魔道の知識があれば、あるいは、クルムのようにエリーの依頼を受けていれば、この世界はマジュールの記憶を読み取って構築された幻の世界だと気づくかもしれない。だが残念なことに、彼はそのどちらにも当てはまらなかった。
突如現れた、あるはずの無い自分の部屋。
彼はすっかり、パニックに陥っていた。
「グーディオ」
びくり。
後ろからかけられた冷たい声に、体を硬直させるマジュール。
この部屋と同じ、このような所にいるはずの無い人物の声だった。
(…この声…。それに、私のことをファーストネームの『グーディオ』と呼ぶのはただ一人…そんな…!!)
体をこわばらせたまま、振り返ることさえ出来ないマジュール。
すると。
「久しぶりじゃな、マジュールや」
今度は、穏やかな老人の声が聞こえた。
「……っ?!」
そこで、はじかれたように振り返る。
「と、父さん!?それに長老様…!?」
予想の通り。
マジュールの目の前に立っていたのは、彼の父と…彼に旅を命じた村の長老だった。
「久しぶりだな、グーディオ」
自分をファーストネームで呼ぶ唯一の人物…だが、マジュールは父のことが苦手だった。
武勲で名を立てた自分のようにあれと、子供の頃から厳しくしごかれてきた事も大きいが、マジュールが料理人の夢を持ち始めてからは、一層心の溝は深くなったように思う。
声を聞いただけでも身が竦んでしまうのに…改めて顔を合わせ、その冷たい眼光にさらされて、マジュールは再び体が硬直するのがわかった。
「は、はい…。でも何故こんなところに」
どうにか返事をすると、父は冷たい目をさらにするどくした。
「何をいう。お前がどこをほっつき歩いているかわからんから、こっちから来てやったのだ」
「待ってください、今私はジェナムさんを追って…」
弁解しようとするマジュールを遮って、今度は長老がため息をついた。
「…全く、お主ときたら…。わしらがこれだけ期待をかけてお主を待っとったのにのぅ…」
優しかった長老までもがそんなことを言ってきて、マジュールは完全に言葉を失った。
「どうやら使命だけではなく、戦士の修行をもサボって、まだ料理人になろうというくだらない夢を追っているようだしな」
「…待って!そんなくだらないなど…」
父はマジュールの反論を聞き入れる気が無い様子だった。
すらり、と腰につけた2本の剣を抜く。
「どうやら、お前を連れ帰って、もう一度みっちりと鍛えなおさなければならぬらしいな」
その隣で、再びふう、とため息をつく長老。
「まったく…昔のお主は、とても可愛らしくて聞き分けの良い子じゃったのに」
「あのっ、ちょっと待って…話を…!」
慌てて2人をなだめようとするマジュールを無視して、父は剣を持ったまま本来の獣の姿へと変身する。
「行くぞ!グーディオ!!」
「うわああっ!!!」
マジュールは悲鳴をあげてその場を逃げ出した。
がちゃ。
勢いよくドアを開けると、その先に広がっているはずの故郷の風景は、何故かマジュールがいつも逗留している宿の一室に変わっていた。
「えっ?!」
驚いて先ほど父がいた場所を振り返るが、もうそこには父も長老もおらず、ただ宿の廊下が広がっているだけで。
「ゆ……夢……だった…?」
マジュールは気が抜けたような表情でよたよたと部屋の中に入った。
すると。
「マジュールさん…」
聞きなれた愛しい声が聞こえ、マジュールは慌ててそちらを向いた。
「キャティ!」
マジュールの部屋の窓の傍に佇んでいたのは、猫獣人の恋人。
「来てくれたんだね、どうして……」
と、足を踏み出しかけて。
「……キャティ?どうしたんですか?」
彼女が、目に一杯涙をたたえていることに気づく。
「マジュールさん…酷いにゃ……」
「……え?」
キャティは大粒の涙をぽろぽろと流しながら、言った。
「マジュールさんがキャティのことを置いて、自分の村に帰っちゃうなんて…!」
「えっ…待ってください、まだそうと決まったわけじゃ…」
「しかも、村に帰ったら許婚が待ってるなんて」
「えええ?!」
さすがにこの一言は聞き逃せない。
「そんなの居ませんよ!?誰から聞いたんですかっ!?」
お父さんから全部聞いたにゃ。もー最悪にゃ!マジュールさん、キャティのことを弄んでいたのね!!信じてたのに!!」
「待っ…弄んでなんか」
マジュールの必死の反論を、しかしキャティは聞く気はないようだった。

「もうマジュールさんのことなんて大嫌い!どこへでも消えるにゃ!!」

キャティの叫び声が、マジュールのガラスのハートを直撃した。
がーん。
どこからかそんな効果音さえ聞こえてきそうだ。
叩きつけるように言ってキャティが部屋を駆け去っていくと、マジュールの心を反映するように部屋が暗闇に包まれる。
突然現れた故郷の部屋、いるはずの無い父と長老、自分を信じてくれない恋人。
冷静に考えれば不自然なのは判っただろう。
しかし、ジュナム捜索に焦り、登場に動揺していたマジュールにその判断を迫るのは酷というものだ。
足元の地面がガラガラと崩れ去るような絶望感に、マジュールはただひたすら暗い表情で、フラフラとその場を後にするのだった。

「…それで?納得の行くように説明していただきましょうか?」
ウィンソナー師を前に、エリーは厳しい表情でそう言った。
「まあまあ、そんな冷たい顔せんと。久しぶりに会った師匠にもっとこう、なんかないんか?」
「ありません」
相変わらずの師の様子に、にべもなく言い放つエリー。
「僕が聞きたいのはこのダンジョンのことだけです。
これは、先生の術ですね?」
「あー……まあ、わしの術といえんこともないかもわからんとゆーか……」
目を逸らしてごにょごにょと呟くジョン。
「先生!」
「まあまあエリー。そんな頭ごなしに怒鳴りつけても仕方がないでしょ?」
見かねて割って入るリー。
ひとまずエリーを落ち着かせると、ジョンに向かって優しく言った。
「この空間…あたしたちも知らずに入ってしまって、すごくびっくりしたの。
そうと判って入るならまだ楽しみようもあるかもしれないけど…そういうわけじゃないでしょ?あたし達のほかにも、迷い込んでしまう人たちがいるかもしれないわ。そうなる前に、原因を探り出そうと思ってここまで来たの」
「むう……」
「だから、知っていることがあったら教えてもらえないかしら?
もしこの原因を取り除こうとしてるなら、あたし達も協力するから…」
「むぅ……」
難しい顔で唸るジョン。
リーは眉を寄せて、顔を近づけた。
「……ジョン先生?」
「むぅ………リーちゃんはほんっっっっとおぉぉぉに可愛いのおおぉぉぉ!!」
がば。
近づいてきたリーの不意をつくようにして、ジョンがいきなり彼女に抱きつく。
「きゃあ?!」
「誰かの娘とは思えんわい!エリウスにやるにはもったいないのう!くう、ワシがあと9000年若ければ!」
「若すぎだろ?!」
思わずつっこむクルム。
「先っ生………いいかげんにしてください!」
べり。
ぶち切れ寸前のエリーが、リーにへばりついてほお擦りしているジョンを思い切り引っぺがす。
「何してるんですかいい年して!いいかげんに自重という言葉を覚えてください!」
「ええじゃろうがちょっとくらい……」
「ダメです」
「ケチー……って、あいたたたいたたたいたい!何をするんじゃミシェルちゃん!」
ぼやく間もなく、後ろから手を伸ばして頬をつねりだしたミシェルに慌てて抗議するジョン。
ミシェルはニコニコと笑顔のまま、ジョンの頬をぎりぎりとつねり上げた。
「うふふふー、誰の娘と思えないですってー?おじさまー?」
「あいたたたた!お、お前さん、ずいぶん変わったのう……」
「ママ、ジョン先生と知り合いなの?」
驚いた様子でリーが尋ねると、ミシェルは手を離してそちらを向いた。
「うふふ、ちょっとねー。これでも私、一応そっちのエリウスくんと同じ学校にいたのよー?」
「ああ、それで……」
「もっともー、おじさまに師事したことも授業を受けたことも無いんだけどー」
「そうなの?じゃあ何で…」
「おじさまは、私の父の師だったのよー。それで、私の家にもよく来ていたのー」
「そうだったんだ……」
感心したように頷くリー。ミシェルの父といえば、リーにとっては祖父だ。その祖父の師だというのだから、色々な意味で相当のものだろう。
ジョンはしみじみとため息をついた。
「あの頃のミシェルちゃんはそりゃーそっけなくってのう。じいちゃん寂しい思いをしたもんじゃ…」
「うふふ、もうおじさまったらー、昔の話はよしてって言ったでしょー?」
「いたたたいたたた、だからつねるのは辞めるがよろしいぞ!」
「え、ええと……」
すでに漫才と化しているミシェルとジョンのやり取りに、クルムが遠慮がちに割って入る。
「それで……この空間は、結局やっぱりジョン師匠の術なんですか?
オレの……ええと、知り合いが、この中に迷い込んだかもしれないんです。
知らずに入り込んだんだろうし、探し出したいんだけど……」
「なんと。そりゃあいかんのう、すぐに助け出してあげるんじゃ!」
「もーおじさまったらー、他人事みたいにー」
ぺし。
「あいた」
ジョンの額を指先で小突いてから、ミシェルはクルムの方を向いた。
「このダンジョンはねー、おじさまが作った、マジックアイテムの仕業なのよー」
「……マジックアイテム?」
「ああ、ミシェルちゃん、そんな殺生な……あいた」
ミシェルが喋るのを止めようとしてまたデコピンをくらい、黙るジョン。
「そうー。周りの魔力を糧に、周りの精神波を読み取ってダンジョンを自動構成するマジックアイテムねー。
以前、エリウスくん用に仕掛けたものは、構成する世界観をある程度あらかじめインプットしたものだったんだけどー、今回は完全にマジックアイテムの周りの精神波から情報を読み取って構築するものよー。だから、入った人によって全く違うものが見えるのー」
「…なぜ、以前の件まで、あなたが?」
すらすらと説明するミシェルに、エリーが厳しい視線で問う。
「うふふ、私は何でも知ってるのよー」
ミシェルは動じることなくさらりと答え、エリーは嘆息して黙った。
「私は、今朝ここに変なものが出来上がってるのを見かけて入ってきたのー。明らかに、人間でない物の魔力を感じたからー」
「それでこんなところに…あれ、そういえばママ、今日は魔術師ギルドのパーティーにお呼ばれとか何とか言ってなかった?」
「んー、ちょっと顔を合わせたくない人がいたからー、帰ってきちゃったのー」
「へえ…ママでもそんなことがあるのね」
顔を合わせたくない化粧美人。
「それでここに来たらー、おじさまがいたってわけー。
あとは、ご自分でご説明くださいね?おじさまー」
「ううう……」
再び、エリーの痛いほどの視線が向けられ、縮こまるジョン。
「いやな、研究課題の一貫として、そーゆーものを作っておったんじゃよ。
周りの精神波を読み取って自動構成するアイテムじゃからして、そのアイテム自体にも自己判断機能とゆーか…簡単に言えば、意思のようなものを備え付けたんじゃ」
「へえ、やっぱりすごいんだな……」
ジョンの説明に感心するクルム。
ジョンはてへへと笑って、頭を掻いた。
「じゃが、ちぃとばかり意思を強くしすぎたようでな……」
「まさか……」
「ワシの研究室を抜け出して、ついでに天界からも抜け出して、現世界に降りてきてしもうたというわけじゃ。
ちゅーわけで、ワシと数人の弟子達とで、それを回収しに来たんじゃよ」
「つまり……結局は先生が原因なんですね?」
「う……」
エリーの怒りオーラに、再び縮こまるジョン。
「まあまあエリー、今頭ごなしにジョン先生を叱りつけても仕方がないじゃない?
とりあえず、そのマジックアイテムを回収する算段をつけましょう」
リーがそう宥め、エリーはようやく嘆息して頭を振った。
「……アイテムの特徴と、止め方を教えてください。手分けして探しましょう」
ジョンはほっとしたように微笑んだ。
「いやはや、すまんのう、リーちゃん。あとでじいちゃんが好きなもんおごってやるからの!」
「先生!」
「わかったわかった、そう怖い顔をするなとゆーに。
マジックアイテムは便宜上、『ドリームメーカー』という名前がついていて、見た目もこれくらいの猫のようなものにしたんじゃ」
「猫?」
小さな子猫ほどの大きさを手で示すジョンに、リーがきょとんとして問うた。
「おお、猫じゃ。かわいいじゃろ?額に大きな動力源のルビーがついとる。白くてふわふわの猫じゃ。
ワシも研究室の連中も、『トリム』と呼んどった。それが自分の名であることは認識しているはずじゃ。
意思はあっても、知恵はそんなにないからの…それこそ、猫ほどの知覚能力しかない。言葉も解さん。言語を含まぬテレパシーは理解するがな」
「そうか…じゃあ、知らない人間が無闇に近寄ろうとしたら、怯えてまた逃げてしまうかもしれないな」
クルムが言うと、ジョンはそちらに向かって頷いた。
「そうなんじゃよ、ちと用心深い回路を組み込みすぎたせいか、見知らんモンに怯えてどこまでも逃げるんじゃ。
それで、ワシらもつい逃がしてしまってな……」
「それを止めるには、どうしたら?」
「簡単じゃ。額のルビーに触って、一定パターンの音声信号を送る…つまり、呪文を唱えればいい」
「呪文?」
「ああ。忘れんように単純なものにしておいた。トリムの名を逆さにして『ミルト』。それでトリムの回路は一時的に凍結される。トリムの作り出した『世界』も消えるはずじゃ」
「ミルト…だね。よし、わかった」
確認するように頷くクルム。
「でも、これだけの規模のダンジョンを作るようなものを、実験とはいえよく作らせましたね?
もう少し力を抑えても良かったのでは?」
エリーがやや非難気味にジョンに言うと、ジョンも不可解そうな表情で首を捻った。
「そこなんじゃ。ワシも、現世界に降りれば、そうたくさんの魔力は補充できやせんから、そのうちエネルギー切れで動かなくなるとふんどったんじゃよ。正直、ここまで大きくなるとは思いもよらんかった。
何か、大きな魔力を蓄えたアイテムでも間違えて食ったんかいの…」
うーむ。
誰も答えの出せない問いに、一同が唸る。
「まあ、考えていても仕方が無いわ。とにかく手当たり次第に探すしかないなら、手分けして探しましょう」
リーが言い、一同厳しい表情で頷いた。
「じゃあ、リーとエリー、ミシェルとジョン先生で組んで…オレは一人で行くよ」
クルムが言うと、リーが心配そうにそちらを見た。
「大丈夫?」
「ああ、心配ないよ。ここも、前に体験したジョン先生の術と一緒で、実際には実体のない幻なんだろ?
心を強く持っていれば、命の危険には繋がらないよ」
「そう…そうね、クルムなら大丈夫そうだわ」
クルムの強い瞳に、安心したように微笑むリー。
「じゃあ、あたしたちはこっちに」
「私たちは、こっちに行くわねー」
「じゃあ、オレはこっちに行くね。早く見つかるといいな」
「ああ、健闘を祈るよ。じゃあな」
「じゃあの!みんながんばるんじゃぞ!」
「もーおじさまったら、また他人事みたいにー」
「あたたただだだだ!だからつねるなといっているのですよ!」

そして、5人は散り散りになって、魔道具『ドリームメーカー』、トリムを探すのだった。

「…と見せかけてー、ちょっとリーたちを追っかけちゃいましょうかー」
「おおっ、娘の初々しいラヴを覗き見かの?」
「うふふー、エリウスくんがおいたをしようとしたら、フィーヴの幻影を出してあげようと思ってー」
「………お前さん、しみじみ変わったのー……」

→レプスの刻・謎のダンジョンへ
→レプスの刻・喫茶マトリカリアへ

謎のダンジョン -レプスの刻-

「しかし、不思議なところだな……」
リーたちと別れたクルムは、くだんのドリームメーカー…トリムの作り出した幻術世界を、珍しそうにきょろきょろと見回しながら歩いていた。
「エリーと行った世界もすごかったけど…こっちにはあそこまでの完成度はないんだな。
まだ開発途上っていうのか…生まれたての赤ん坊みたいだ」
足を踏み出すたびに、景色を変える世界。
それはクルムの、そしてこのダンジョンに迷い込んでいる全ての人々の精神波を読み取って構築している世界だからなのだろうが。
「でも……ここからテアを…それに、トリムを見つけ出すなんて、どうやったらいいんだろう…?」
クルムは自問するように呟いた。
すると。

「あの娘の精神波を追うことだな」

突然、右手からぬっと顔を出した人物に、クルムは驚いて身を引いた。
「うわ!……あなたは…………って…あれ」
まったく見覚えのない男性だった。
背丈はクルムよりもずいぶん高い。30代後半か40代くらいだろうか、がっしりと鍛え上げられた身体を、冒険者らしい装束で包んでいる。
だが。
まったく見知らぬはずのその男性に、クルムは何故か、どこかで会ったような既視感を感じたのだ。
姿が、とか、声が、というのではない。
あえて言うなら。
「この感じ……どこかで……」
いつも感じている気がするのに思い出せないもどかしさに眉を寄せる。
ややあって。
「あ……っ、もしかして……!」
驚きの色を見せたクルムに、男性はにっと微笑んだ。
「スレイ!スレイなのか?!」
「さすがだな、クルム。この状況で動じず、よく私の名前が出てきた」

スレイ、とは。
クルムの持つ剣、「カーク・ファシル」に宿る精霊の名である。
カークは剣の銘。精霊の名はスラディエート・ファタ・ファシルという。
クルムを剣の持ち主と認めてからは、精神波でクルムに語りかけ、何かにつけて遠回りな助言をくれたりしている。
しかし、クルムもスレイのことを「剣」と認識していたから、同じ精神波であっても人の姿をしていたために気づくのが遅れたのだ。
「驚いたよ、いきなり人間の姿で現れたから。
あっ、もしかして、これもオレの意識が見せてる幻なのか?」
「いいや」
スレイはゆっくりと首を振った。
「お前一人で行動するならば、この方が話しやすいからこの形を取ったんだ」
「えっ」
きょとんとするクルム。
「…スレイ、人型になれるのか?」
「なろうと思えばな。ただ、少々疲れるんだ。
このダンジョンは魔力に満ちていて、この姿が取りやすい」
「そうなのか……やっぱり、トリムの作り出したこの空間は、魔力的にも異質な空間なんだな」
納得して頷くクルム。
「それより、さっきの話…あの娘の精神波って、どういうことだ?
あの娘っていうのは、まさか……」
クルムが真剣な表情で問うと、スレイは重く頷いた。
「ああ、お前の探している、テアとかいう娘だ」
「テアの精神波を?」
スレイの言葉の意図が読み取れず、クルムは眉を寄せる。
スレイはクルムと並んで歩きながら、ぐるりと辺りを見回した。
「この世界……魔力を糧に作られているといっていたな。
この世界を構成している魔力に……微弱だが、あの娘の精神の波を感じる」
「えっ?!」
クルムは驚いて足を止めた。
「それって……テアの魔力をトリムが吸い取って、そのエネルギーでこのダンジョンを作ってるってことか?!」
スレイも合わせて足を止める。
「表現の齟齬はあるかもしれないが、おおむねそういうことだ。
あの娘、あの小さな身体からは考えられぬほどの魔力を持ち合わせている」
「そ…そうなのか?」
「ああ。おそらく、あの娘の魔力に惹かれて、そのトリムというマジックアイテムもここにやってきたのだろう。
あの娘の魔力の波長を知っているのは、あの娘と面識がある者だけだ。あの天使たちは魔力を感じることが出来ても、それがあの娘のものだということまでには至らないのだろう」
「そうか……エリーが会ったテアは、オレの記憶の中のテアだから…」
クルムは少し考えて、そして表情を引き締めた。
「スレイ、テアの精神波を探れるのか?」
「今やっている。向かっているのもその方向だ、安心しろ」
「そうなのか…急ごう、スレイ。テアを助けなきゃ」
クルムは言って、急ぎ足で歩き出した。
スレイもそれに並んで歩きながら、クルムのほうを見下ろす。
「お前……さっきもそうだったが、あの娘のこととなると、顔色が変わるんだな」
「えっ」
きょとんとするクルム。
「あの娘、お前の何だ?」
いつかどこかで誰かにされた質問をされ、ややうろたえるクルム。
「な、何って……」
「…まあ、愚問だったかも知れぬがな」
に。
スレイの笑みが先ほどより少し意地悪げに見えたのは、おそらく気のせいではないはずだ。
クルムは頬が熱くなったのをごまかすように、足を速めた。

「ここは……」
ほどなくして、森のような場所に出た。
濃い緑に彩られた木々がうっそうと茂っている。
生命力の濃い森であるにもかかわらず、生き物の気配は感じられなかった。本物の森であったのなら、鳥や虫の声などがするはずだろうが。
「クルム」
スレイが鋭くクルムを呼び、そちらを向くと。
彼は厳しい表情でまっすぐ前を見ていた。
「……あそこだ。見ろ」
スレイに促されて、視線の先を見る。
すると。
「……テア!!」
うっそうと茂る木々の向こうに、確かにテアがいた。
何かに括り付けられたり、意識を失っているわけでもない。笑顔で、誰かと話をしているようで。
クルムは喜色に顔を染めると、早速駆け出した。
「テア!」
「あっ、おい」
スレイの止める声が、果たして聞こえたのかどうか。
クルムは邪魔な木々の間を潜り抜け、一目散にテアの元へと駆けて行った。
ひとつ、ふたつ。
大きな木々を避けて走りながら、ようやくテアの元へとたどり着く。
「テア!」
「クルム!どうしてここに?」
木々の間から現れたクルムに、テアは驚きの表情で立ち上がった。
「テアを、探しに、来たんだよ」
やや息を切らせて、そう伝えるクルム。
テアは苦笑して首をかしげた。
「ごめんなさい、私また迷っちゃって……ぜんぜん知らないところに出ちゃって途方にくれていたら、彼女と会って…話し相手になってくれていたの」
「彼女?」
そこで、クルムは初めて、テアの向かい側で彼女と談笑していた人物の方を振り向いた。
そして、驚きに目を見開く。

「ハイ、お久シブりね、クルム」

木の幹に寄りかかったまま、笑顔でひらひらと手を振ったのは。
「……きゃ、キャット……?!」
新年祭だからだろうか、いつも着ている服とは違う、凝ったデザインのリュウアンドレスを着ていたが、そこにいたのは紛れもなく、チャカの4人の部下の一人、キャットだった。
「キャットが何でここに…」
不審という気持ちよりもむしろ純粋に驚いた表情で、クルムは呟いた。
テアはクルムとキャットを交互に見やって、首を傾げた。
「クルム?キャットを知っているの?」
「えっ…」
改めて問われ、きょとんとする。
「ま…まあ……知っていると言われれば、知っている……のかな」
今まで会う機会といえば敵として対峙する時ばかりだったが、キャット個人に恨みや因縁があったり、倒さねばならないという気持ちがあるかというと少し違う気がする。
かといって、知り合いというくくりで示されるのも少し微妙な感じだが。
キャットはくすくすと可笑しげに笑った。
「クルムにモ、何度か遊んデモらったこトガあるノよ。テア、クルムと知り合イダったのネ。世間って狭イワね」
「ええ、本当にそうね」
何だか和やかな雰囲気に拍子抜けするクルム。別にテアが囚われているというわけでも、キャットがテアに害を及ぼそうというわけでもないらしい。
ならば自分は何故こんなところに、というところにまで思いをめぐらせて、クルムはようやくここに入ることになったそもそものきっかけを思い出した。
「あっ……ミケが探しているヒントを持ってるのか」
「アら、ミケから聞いテキたのね」
クルムの言葉に、キャットはぴこっと耳を動かした。
「チャカ様かラ、街をウロウロすルヨうに言われて。ウロウロしテタら、何だか変な所に出ちャッて、ちょット途方にくレテたの。そシタらこのコがいテ、いろいろお話してタノよ」
「そ、そうか…このダンジョン自体は、ジョン先生のマジックアイテムの仕業だったんだっけ…」
ミケがチャカの部下を探しているという話から、このダンジョンはチャカの部下が作ったものではないかと思い、入っていったのだ。結局はダンジョンそのものにはまったく関係なかった訳だが、それはそれとしてキャットは個人的にダンジョンに迷い込んでいたらしい。
「ホントは師匠のとコロに行って遊んデモらいたかっタノに。とンダ災難だワ」
キャットはつまらなそうに膨れてみせた。どうやら本当にここに来たのは予定外だったらしい。
「師匠?」
クルムが問うと、キャットは珍しくにっこりと笑った。
「そウヨ。キャットの変形術の師匠なノ。チャカ様のお兄様なノヨ」
「へえ……」
キャットがチャカ以外に興味を示す相手がいるということにも、チャカの兄がキャットに変形術を教えたということにも、かなり意外な要素が満載の言葉だ。
「チャカの兄さんか…どういう人なんだろうな」
なんとなく口をついて出た言葉に、キャットがぴこっと耳を動かした。
「師匠に興味あルノ?」
「えっ、あ、いや、興味があるというほどじゃ」
「…あラ」
クルムに向かって首を突き出したキャットは、急にきょとんとした表情ですんすんと鼻を動かした。
「…?」
「クルム、師匠の匂いガスるわ」
「匂い?」
「師匠に会っタノ?」
「ええっ?!」
チャカの兄など知らないし、会ったこともない。クルムは驚いて声を上げた。
「いや、会ったことはないよ?」
「でモ、師匠の匂いガスるわ。知ラナい?こンナ人よ」
うに。
キャットが言うと同時に、彼女の輪郭がぐにゃりとゆがみ、あっという間にその姿が別のものに変わる。
「!………」
その様子に、言葉もなく驚くテア。
クルムは変形術のことは知っているし、スレイもクルムのそばでずっと彼に起こった事件を見てきたが、さすがにテアが目にするのは初めてだ。
やがて、二十代半ばごろの男性の姿になったキャットは、にこりと微笑んでみせた。
「こんな感じだよ。知らない?この人」
二十代半ばにしては、少し背が低い感じがする。チャカと同じ褐色肌に尖った耳、切れ長の鮮やかなオレンジ色の瞳を分厚いメガネで隠し、無造作に伸ばしたという感じの黒髪、紫色をベースにしたリュウアン風の服。表情も口調もずいぶん軽い感じがして、そこだけはチャカとずいぶん印象が違う。
だが。
「うーん…やっぱり判らないなあ」
眉を寄せて言ったクルムに、キャットはつまらなそうに口を尖らせた。
「そうお?んー、すれ違っただけなのかなあ…残念」
変形術の鮮やかさもさることながら、キャットは変身すると本来のたどたどしい喋りとは一変して完璧にその役になりきってしまう。ならば普段から普通に喋れば良いのにと思うが、そういうものでもないのだろうか。
キャットは肩を竦めると、またぐにゃりと輪郭を歪ませて、元の姿に戻った。
と。
「キャット…すごいわ!今の…魔法なの?」
テアが感心したようにキャットに話しかけると、キャットはにこりとテアに微笑んだ。
「そウヨ。今変身しタ姿の師匠に教えテモらっタノ」
「へえ…すごいのね……」
テアは感心しきりだ。
と。
「そウダわ」
キャットはふと思いついたように、クルムのほうを向いた。
「せっかクダから、こレデ勝負しマシょう」
「勝負?」
きょとんとするクルムに、眉を寄せて。
「…ミケのヒント、欲しクナいの?」
「あ…ああ、忘れるところだった」
あまりにも怒涛の展開で。
キャットはくすくす笑って、続けた。
「チョっとクルムに後ロを向いテモらって、そノ間にキャットがテアに変身すルワ。
どっチガ本物のテアかを当てらレタら、クルムの勝ち。ミケのヒントをあげルワよ」
「面白そうね。やってみたら?クルム」
テアが興味深そうに後ろから続ける。
勝負云々のことはよく判らないが、単純にキャットが自分そっくりに化けるということに興味があるのだろう。
剣を振るって戦う血なまぐさい姿をテアに見せるより、その方がいいかもしれない。クルムは頷いた。
「…わかった。それでいいんだな?」
「えエ、嘘はつカナいわ。チャカ様も、ヒントを渡しチャイけなイトいうこトジャないって仰っテタし」
「…そうなのか。じゃあ、後ろを向いてるから」
くるり。
クルムは言うと、後ろを向いて目を閉じた。
スレイはその傍らで、様子を見守っている。
待つことしばし。
「いいわよ、クルム」
テアの声がして、クルムは目を開けて振り向いた。
「………」
そこには、先ほどのキャットの言葉通り、2人のテアがクルムのほうを向いて立っていた。
テアもキャットの勝負に「協力」しているのだろう。純粋に、クルムが当てることができるのか興味があるといった様子で、黙って彼のことを見守っている。
2人のテアにそんな表情で見つめられ……
…しかし、クルムはすぐさま微笑んで、左側の少女に手を差し伸べた。

「こっちが本物のテアだね」

まったく迷うことなく。
すい、と手を差し出して、柔らかく微笑みかける。
手を差し出されたテアは、驚きに目を丸くして、その手を取った。
「すごいわ…クルム。どうして判ったの?私も、まるで鏡を見てるみたいだと思ったのに」
「どうして……といわれると困るな」
クルムは苦笑した。
「でも、テアを見間違えはしないよ。どんな姿をしていても」
かなり告白スレスレのセリフに、もう一人のテアがくすくすと肩を揺らす。
「まさかこんなにあっさり負けるとは思わなかったわ」
うに、と輪郭が曲がって、元のキャットの姿に戻って。
「……まア、キャットもチャカ様を見間違えたリハしなイト思うけドネ?」
言って、意味ありげな微笑を浮かべる。
その言葉の意味するところが少し伝わったのか、やや頬を染めるクルムと、その隣できょとんとするテア。
キャットはにこりと笑って、ポケットから何かを出した。
「じゃア、約束のヒントよ」
「これは……」
キャットに手渡されたのは、可愛らしい黒猫のブローチだった。
「……これが?」
「えエ。チャカ様に、ヒントだッテ言わレテ渡されタノ。キャットも意味は知らなイワ」
「そうか……わかった、ありがとう」
クルムは頷いて、ブローチをポケットにしまった。
「さア、こレデ役目も果たしたし、さッサとチャカ様のとコロに…行きたイトころだケド」
キャットはうーんと伸びをした後、困ったように眉を寄せた。
「こコ、どウヤったら出られルノかしラ?」
「あっ……そ、そうだった」
やはりいろいろありすぎてすっかり意識の外に置かれていたことをようやく思い返し、クルムはテアに言った。
「このダンジョンは、マジックアイテムが作り出したものなんだよ。オレは、それを止めに来たんだ」
「マジックアイテム?」
テアは不思議そうに首をかしげた。
「ああ。でも、アイテムって言っても、意思を持って動いてるらしいんだ。
額に大きなルビーのついた、白い猫なんだけど……テア、見かけなかったか?」
「白い猫?」
テアの目が見開かれる。
「知ってるの?」
「ええと……この子、のこと?」
言って、テアは自分の服の襟をぐいと引っ張って、中を覗き込んだ。
ひょこ。
テアの服の中から、白い猫が顔を出す。
「ああっ!」
青い目をした愛らしい子猫。しかし、額の赤いルビーが明らかに普通の生き物でないことを主張していた。
テアは猫を抱き上げると、指先で喉を撫でた。
「ここに迷い込んだ時に拾ったの。おとなしくていい子だったんだけど…この子、マジックアイテム、なの?」
「ああ、どうやらそうらしいんだ。そして、この奇妙な空間を作り出した張本人なんだよ」
テアの魔力を糧にして、という部分はとりあえず省略して伝える。
「まあ……」
キャットの時から、テアには驚きの連続だ。
「これを止めれば、このダンジョンは消える。テアやキャットのほかにも、ここに迷い込んだ人がいるんだ。止めさせてくれないか?」
服の中に入れて可愛がっていた様子のテアに、少し申し訳なさそうに申し出るクルム。
テアは苦笑した。
「そういうことなら、仕方がないわね。お願い」
「…ありがとう」
クルムは微笑んで、テアが差し出したトリムの額のルビーに触れた。

「……ミルト」

その言葉を唱えた瞬間。
立ち込めていた霧が霧散するように、ぱあっと辺りの景色が溶けて消えてしまう。
「わぁ……」
その不思議な光景に、トリムを抱いたまま呆然と声をあげるテア。
今まで辺りを取り囲んでいた緑の森はすっかり姿を消し、そこは見慣れた中央公園近くの街道が広がっていた。
「ふぅ、やット出られたわ!じゃ、キャットは行クカら」
ダンジョンが消えたことに少し嬉しそうなキャット。
テアはそちらに向かって微笑みかけた。
「行ってしまうの?お話し相手になってくれてありがとう、キャット。またね」
「ふフ、じゃアネ、テア」
テアに笑みを返して、くるりと踵を返すキャット。
眠るように動かなくなったトリムを抱いてそれを見送るテアを、クルムは複雑な表情で見つめた。
キャットとテアは、思いのほか気が合ったらしい。チャカにしか興味のないキャットが、テアと楽しく話していたのも、あんなふうに笑顔で挨拶をして去っていくことも少し意外だった。現に、自分には何も言わず去ったのだから。
けれど、キャットがチャカの――魔族の部下であることは確かで。
トリムが糧として選ぶほどの魔力を持ったテアに、それがどのように影響するのか…それが心配だった。
(……いや、今は…テアが助かったことに感謝しよう)
クルムはそう思いなおし、微笑した。
いつの間にか、スレイの姿も消えている。もしかしたら、テアのところにたどり着いた時点で剣の姿に戻っていたのかもしれない。
(…ありがとな、スレイ)
礼を言いそびれたと思い、腰の剣に向かってそっと心の声で呟くと、暖かな微笑の気配が返ってきたような、そんな気がした。

→レプスの刻・喫茶マトリカリアへ

謎のダンジョン -マティーノの刻-

「…本当に、すっかり跡形もなく消えてしまったんですねー……」
今朝、最初に訪れた地…クルムの話によれば、ジョン師のマジックアイテムが作ったという謎のダンジョンがあった場所に、ミケは再び訪れていた。
クルムの下宿先で催されたパーティーに少しだけ参加させてもらい、食事をご馳走になり…クルムの想い人であるテアを紹介してもらい、クルムの下宿先の家族を紹介され…久しぶりに、家族の暖かさに触れた気がした。
そして、新年の鐘が鳴る前に…と、適当なところで辞させてもらって…ここに来たのである。
「あんな空間があったなんて、嘘みたいですよね…やっぱりすごいんだなあ、ジョン先生は…」
辺りを見回しながら、そんなことを呟くミケ。
中央公園の喧騒が、遠く聞こえる。
しかし、この辺りは静かなもので。
ミケは一通り、珍しそうに辺りを見回して……それから、そのままの姿勢で、言った。

「……チャカさん、楽しかったですか?」

再び、静寂。
傍から見れば、ミケが訳の判らぬ事を言ったように見えたかもしれない。
しかし、彼は確信の表情で、くるりと後ろを向いた。
「ずっと…僕の後ろを、ついてきていたんでしょう?
出てきて下さい。もう、わかっていますから」
よく通る声で、そう言って。
かさ。
ややあって、近くの茂みが動いた。

「………お疲れ様。アナタの、勝ち、ね」

嫣然と微笑んで現れたのは紛れもなく、ミケが今日1日その行方を捜していた、チャカ本人。
やはりいつもの服ではなく、大きくスリットの入った丈の長いリュウアンドレスを着ている。リリィの言うとおり、今日は全員で新年祭仕様なのだろう。
ミケはふっと微笑んで、言った。
「『空に浮かぶ月のように』…メイさんのヒントですね。これは、月がずっとついてきているように見える…という意味です。
『前だけを見ている者には見つからぬ場所にある』…セレさんのヒントです。前にないということは、後ろにあるということ。
そして、リリィさんは最初に僕の真後ろに現れました。もう答えを教えたというのは、そういうことです。僕の真後ろにいる…それが、答えです。
最後に、キャットさんが持っていた、黒猫のブローチ。この黒猫は……僕自身のこと、ですね?
あなたは、今日ずっと……僕の後ろにいたんです。僕の後ろを、ずっとついてきていた」
「ご名答」
ぱちぱちぱち。
チャカは楽しそうに言って、手を叩いた。
「完璧な推理ね。アタシの負けよ。
でも…ひとつ訊いていいかしら?」
「何ですか?」
チャカは少し間を置くと…にぃ、と笑みを浮かべた。
「どうして……こんなことを?」
問われたミケは一瞬きょとんとして……それから、うーんと考えた。
「……まぁ、ムーンシャインのときの仕返しー、とか最近ちょっと気が晴れなかったからー、とかなんか色々考えてはみたんですけれど」
そこまで言って、苦笑する。
「多分、これが一番の理由だと思うんです。……『あなたと遊ぶの、楽しそうだったから』」
「あら」
チャカはミケの言葉に、笑みを深くした。
「あなたが、いつか言った言葉でしたね。
その時は、何を言っているのかと思いましたが…今は、そういうこともあるものだと思いますよ」
「そう」
くすくす。
楽しそうに笑うチャカに、ミケも楽しそうに喉を鳴らす。
「なんだか、いくつかあなたの舞台に付き合った訳ですし、たまには僕に付き合ってくれないかなと思って」
「いいんじゃない?面白いことは大好きよ。
でも……」
チャカはやはり少し間を置いて、首をかしげた。
「それだけじゃないでしょう?こんなことをした理由は」
「やっぱり、お見通しですか」
ミケは苦笑して、空を見上げた。
星の浮かぶ、真っ黒い夜空。
「ちょっと、色々悩んでて。結論も出なくて、どうしたら良いかわからなくて。
そんな時に、あなたを見かけて。最初は、自棄っぱちな気持ちだったんだと思います。
勝っても負けても…あなたの機嫌を損ねて死ぬようなことがあったとしても。
一度、やってみたかった……人生上、2度と無くて良い悪ふざけを、ね。
悩んでいたことからの逃げだと言われれば、まあその通りかもしれないんですけど」
自嘲気味に笑って。
それから、チャカに向き直る。
「でも……僕は、今日一日、楽しかったですよ。ありがとうございました。
それで、あなたも楽しかったなら幸いだなと、思ってます」
「ええ、楽しかったわ。とても……ね」
に。
いつもの妖しげな笑み。
それが、人にとって良いことばかりをもたらすものでないことは判っているけれど。
今は、それが素直に綺麗だと思えた。

「…それで?」
「は?」
チャカから促された事がなんなのかわからず、問い返すと。
「…アナタの勝ち、よ?
アナタは、アタシに何を望むの?」
「……ああ」
今、初めて言われたように、ミケは頷いた。
しかし、そもそも別に何かをしてもらいたくて勝負を持ちかけたわけではない。
軽く食事でも奢ってもらおうか、という考えも、一瞬頭を掠めたが。
「そうですね……じゃあ」
ミケはうんと頷くと、チャカに向かって微笑みかけた。
「教えて、くれませんか」
「うん?」
笑みのまま首を傾げるチャカ。
その瞳を、まっすぐに見つめ返して。

「教えて下さい――あなたの考えを。
愛って…どんな気持ちですか?」

自分を、さんざん悩ませていたこと。
今日1日、いろんな人に聞いて回って。
そして、その最後が彼女ならば、それも申し分ないのかもしれない。
ミケは、そう思った。
「愛……ね。難しいことを訊くのね」
チャカは、すい、と目を細くして。
「まあいいわ…アタシの愛、か。そうね……」
それから、その視線を遠くに動かした。
何かを思い出すような表情で。
「アタシがこの世でたった一人、『愛してる』と言ってもいい人がいるわ。
アタシのにいさま。
…ティーヴェルダハト・ディ・エスタルティ」
「…それって…」
ミケが言うと、チャカはそちらを向いてにこりと微笑んだ。
「…そう。キルくんの父親じゃなくて、ロッテの父親の方よ」
「………」
初めて聞かされた事実に、呆然とするミケ。
チャカはくすくすと鼻を鳴らした。
「兄弟で、って思う?アタシの一族では割とよくあることよ。
もちろん、にいさまの方はアタシと同じ気持ちじゃなかったけどね。
だからロッテがいるんだし?」
「………」
つまりは、彼女の想いは叶わなかった、ということだ。
複雑な表情をするミケ。
チャカはゆっくりと歩きながら、続けた。
「でも、そんなのは関係なかったわね。
にいさまは確かに異端だった。でもアタシはにいさまを愛していたわ。
にいさまの全てが欲しかった。
にいさまのカラダもココロも、にいさまの吐息も、紡ぎ出す言葉もすべて。
にいさまの初めても、にいさまの最期もぜんぶ欲しかったわ。
そりゃあもう、全部欲しすぎてどれからにしようか迷うくらいにね。
まあ、迷ってるうちに、にいさまの最期はちいにいさまに取られちゃったんだけど。
あれは、ホントに惜しいことをしたわ。
にいさまはアタシの手で殺してあげたかったのに」
「………」
ミケは何ともいえない表情で、チャカの言葉を聞いていた。
その顔を見て、またくすくすと笑うチャカ。
「なあにその顔?聞きたいって言ったのはアナタよ、ミケ。
ふふ、自分でもおかしいことを言ってる自覚はあるわ?
だって、カラダもココロも欲しいって言ってるその口で、
殺したいって言ってるんだものね?」
とす、と足を止めて。
大きな瞳で、まっすぐにミケを見つめ返す。
「でもね、どっちも本当なのよ?
綺麗なところも汚いところも、全部が欲しいの。
何故って訊かれてもそんなの判らないわ。
ただ欲しいっていう気持ちが次から次へと溢れてくるだけ。
にいさまが美しいからでも、強いからでも、異端だからでもない。
にいさまがにいさまだから、アタシはにいさまが欲しかったの」
すい。
大きな瞳が、妖しく細められる。
「しいて言うなら、その『欲しい』っていう気持ちが、愛なのかもしれないわね?」
「……」
ミケは黙って、チャカの言葉を聞いていた。
さすがにと言おうか、リリィの言っていたこととよく似ている。
チャカはくすりと鼻を鳴らすと、ミケに歩み寄り、下から覗き込むようにして見上げた。
「でも、そんなことを訊いてどうしようっていうの?
今日一日アナタを見てたけど、いろんな人に同じ事を訊いて回っていたわね?
それで、答えは見つかった?」
「……それは……」
「いいえ」
口ごもるミケを、むしろ遮るようにして、続ける。
「アナタの質問に対する答は、ひとつだったの?」
「……っ」
ミケの瞳が大きく見開かれる。
チャカの瞳が、満足げに細められた。
「違うでしょう?
何を愛と思うかは人それぞれ。
どんな風に愛を表現するのかもね」
す、と身体を起こして。
「それで、いいんじゃないかしら?
愛がどんなものかなんて、愛をどんな風に表すかなんて、決めなくちゃいけないものなの?」
「…………」
呆然と。
ミケはただ、チャカを見返した。
「アナタが判らないと言うのなら、それでいいんじゃないかしら?
迷っていても、理解できなくても……」
チャカは、す、と腕を上げて…その指先で、ミケの鼻をちょんとついた。

「……それが、アナタの『愛』なんでしょう?」

「………」
は。
ミケは、知らずに止めていた息を、短く吐き出した。
「…は……はは」
勢いで、笑ったような声を出す。
「そう……か。そう…ですね。判らない…判らなかった、んです。ずっと」
くしゃ、と髪をかきあげて。
「クルムさんとテアさんのような…アスさんや、エリウスさん…あんな風に、誰かを素直に恋い慕い、相手のことを慈しむ…そんな恋愛が、素直に羨ましいと思ったし…恋愛というのは、そういうものだと…そういう風にあるべきものなんだと、思っていました」
「……」
チャカは黙って聞いている。
「ただ…キルさんとロッテさんのような感情もあるのだと、思いました。
あなたや、リリィさんのように…ただ『欲しい』と。何もかもを奪いたくなる執着も。
目を逸らしたいけれど…確実に、僕の中にあるんです。そういう…感情も」
ミケはうつろな目で、自分の手のひらを見た。
「理性は…理想を願います。相手を慈しみ、大事にしたい…恋愛とはそうあるべきなんだと。
だけど…多分。僕は、感情の奥底で願うんでしょう。
自分のことだけ見て欲しいと。相手のことしか見えなくなるように、自分だけを見て欲しいのだと。全部全部自分のものにして、離したくないと……」
ぐ、とその手のひらを握り締めて。
「多分、僕は……嫉妬、妬み、そういうものから離れることはできない。
でも、理性はそれを否定するから…綺麗でまっすぐな、理想の恋愛を求めるから。
美しいものしかないような理想と、醜く束縛するであろう感情と。それが一致しないから、自分の中で答えが見つからなかったんだと…思います。
これが正しいのか…それすら、今の僕にはわからないけど……」
そうして、ようやく顔を上げて、チャカを見た。
「愛の形は一つじゃない。……そうですね。それなら、少しは希望がもてるかな」
ゆらゆらと言って、苦笑して。
今のような中途半端な状態ではなく…いつか、本当に恋をする事が出来たなら。
今日話したたくさんの人たちのように…そして、今目の前にいる彼女のように。自分の愛を誇るように語れるようになるのだろうか。
「とても、知りたかったんです。誰かを愛するってどういう気持ちなのか。
今は、……あんまり良い答えが出なかったけれど……いつか、誰に対しても言えるような覚悟と答えがもてたらいいなと思います」
「……そう」
チャカは短く言って、薄く微笑んだ。
それに、すっきりした表情で満面の笑みを返すミケ。
「…………ありがとうございました」

かーん……かーん……

「あら……新しい年になったみたいね」
「本当ですね。……あ…」
ちら、ちら。
鐘に合わせるように、空から粉雪が舞い落ちる。
「ふふ、ホワイトニューイヤー、っていうところかしら」
「そうですね……」
「新年一発目に口をきいたのがアタシでゴメンなさいね?」
「あっ……あー……そうですねえ、あなたと今年1年ずっと一緒にいるのは、出来れば勘弁して欲しいかもしれません……」
くすくす。
そんな軽口を叩きあいながら。

今年最後の盛大な鬼ごっこは、その幕を閉じたのだった。

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