とりあえず報告会

「くっ………!」
くしゃ、と手の中の地図を握り締めて、エリウスはぎりぎりと歯を鳴らした。
暗号を解くその瞬間までの冷静な面持ちはどこへやら。肩をいからせ、眉を吊り上げて、自らの師が消えた虚空を睨みつけている。
クルムがその様子を見て、焦ったように呟いた。
「いけない、怒りに我を忘れてる…!鎮めなきゃ…!」
「…クルムさんもそういうこと言うんですね」
「そのセリフがナウシカだとわかる時点でお前も相当だぞ」
妙に冷静につっこむミケと千秋。
「エリー!」
クルムはエリウスに駆け寄り、わざと強めに肩を引いてエリウスを引き寄せる。
「…っ、クルム……さん」
は、と我に返ったように、戸惑った表情を見せるエリウス。
「落ち着いて。気持ちはわかるけど…感情的になっても、あの人の思う壺だよ」
エリウスの瞳をまっすぐに見据え、真剣な様子で語りかけるクルム。
エリウスはしばらく放心したようにそれを見つめ…ややあって、ふっと表情を和らげた。
「……ありがとう、ございます。少し、落ち着きました」
ふう、と肩で息をついて。
冒険者達の方に向かい、申し訳なさそうに微笑みかける。
「こんなことになってしまいましたが…ひとまずは、皆さん、ありがとうございました」
「えっ?」
きょとんとするレティシアに、にこりと笑みを向けて。
「僕の依頼は、『先生を見つける手伝いをして欲しい』というものでした。
先生の魔力が関知された4箇所を同時に回る…僕の体はひとつしかありませんから、そのために皆さんをお雇したのです。これは、最初に言ったとおりですね。
このような結果に終わってしまいましたが…あとは、僕一人でどうとでもなりますので。これで、皆さんへの依頼は達成、ということになります。ありがとうございました」
丁寧に頭を下げて、もう一度冒険者たちに向き直る。
「図らずも、ここは僕が……僕たちが滞在している宿屋です。皆さんへの報酬は、すぐにお渡しできますので…」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ、エリー!」
慌ててクルムがエリウスの言葉を遮る。
「ここで報酬もらってさよならなんて…そんなことできるわけないだろ?」
「そうよ!ここで『依頼は終わったね、それじゃあお疲れ様でした~』って出来るほど私馬鹿じゃないもん!」
憤慨した様子で、レティシアもそれに続く。
「人質取ってるの見た時点で助けるのは当たり前って思ってるけどね。それも、さらわれたのはリーなのよ?大事な友達がさらわれたんだもん、エリウスが止めたってついてくからねっ!」
「そうだよそうだよ!リーちゃんはリィナの大切なお友達だもん!リィナは、リーちゃんを助けについて行きます!駄目だって言っても、ついてく!エリウス君の足にしがみついてでも、つーいーてーいーくー!」
「皆さん……」
戸惑ったようにその様子を見るエリウス。
「……というか……話が見えないんだが。なんだ、さっき浚われた少女はお前たちの知り合いなのか?」
千秋が憮然として言い、ミケがそちらに向かって頷いた。
「…ええ。あの人は、僕たちが以前受けた依頼の依頼人なんです。それからもたびたび、仲良くさせていただいています」
「そのリーちゃんを…どうして、エリウス君が知ってるの?」
やや詰問するような口調で、リィナはエリウスに言った。
エリウスは再び困ったように眉を寄せる。
リィナは続けた。
「しかも、『リー』って呼び捨てだったよね?
普通、こういう呼び方って、関係的に親密な時に使うよね?
…絶対、エリウス君はリィナ達に何か隠してるよね?」
「………」
エリウスは困った様子で視線を逸らす。
「リィナ、あの……」
「………っ!」
クルムが何か言おうとしたのを無視して、リィナはいきなりエリウスに詰め寄った。
「……っ?!」
驚いてあとずさるエリウスの髪の毛に手を伸ばし、もう片方の手を目元に伸ばす。
「な、何をするんです!」
エリウスは慌ててその手を振り解いた。
拒否されるとは思っていなかったのか、キツネにつままれたような顔をして、リィナは手を止める。
「…っ、ごめん…ちょっと、確かめたい事があって…」
しかし、すぐに気を取り直して、エリウスに厳しい表情を向けた。
「エリウス君、なんでリィナたちに正体を隠すの?エリウス君にはエリウス君の理由があるのは分かるんだけど…
…嘘とかさ、隠したい事ってのは、やっぱりあると思うんだ。全部が全部、正直に言っていいことはないと思うし…」
少し悔しそうに俯いて、それから再びエリウスの方に視線を向ける。
「けどやっぱりエリウス君は隠し過ぎかなぁ…ってリィナは思うんだ。
んー、なんて言うのかなぁ…もうちょっと、自分を出してもいいと思うんだよ」
「…………」
黙り込むエリウス。
見かねたように、クルムが間に入った。
「リィナ、その辺にしておいてやってくれないか」
「クルムくん?」
リィナは驚いたように彼に視線を向けた。
クルムはとがめるようなまなざしを、リィナに向けた。
「リィナだって、さっき言ってたじゃないか。誰にだって、言いたくないことや隠したいことはある。隠しておいたほうがいい事だってある。
エリーはそう判断したからこそ、俺たちに対して口を閉ざしたんだろ?
本人がそう判断してやったことを無理矢理暴くことが、本当にいいことだと思うのか?」
「っ………」
自然に『エリー』と愛称で呼ぶクルムに、少しショックを受けたように固まるリィナ。
リーのことを知られてしまったのだし、考えてみれば彼のことは見ていても彼の愛称まで知る者はクルムの他にはいないので、エリウス、と繕って呼ぶ必要もなくなったのだが。
「リィナさん」
ミケが困ったようにリィナを覗き込んだ。
「エリウスさんとリーさんは、お知り合いなのでしょう。
リーさんがどんな出自であるかを知っているなら…そのリーさんと親しい方がどんな事情を持っていらっしゃるか、察しがつきませんか?」
「えっ………」
きょとんとするリィナに、ミケはどう話していいかためらうように視線を泳がせた。
「あの暗号で…すぐに、リーさんを思い浮かべたということは、エリウスさんはリーさんの出自を知って、その上で行動を共にしているということです。
軽々しく口にしていいことではないと……想像はつきませんか?」
「リーちゃんの…出自?」
はんぶんてんしのおんなのこ。
その暗号の通り、その少女…リーは、母親が天使、父親が人間のハーフである。
当然、誰にでも話していいことではない。
だとすれば……。
「僕は、エリウスさんがどういう方で、リーさんとどういう関係なのか…聞きたい気持ちはありますが、なんとなくとても親しい方だというのは感じたので、特に詳しく聞かなくてもいいかな、と思っているんですよ。
リーさんは、僕にとっても大切な友人です。その友人がさらわれたのです、助けに行くのは当たり前です。それでいいじゃないですか」
「でも………」
「リィナ」
なおも反論しようとするリィナに、クルムが言葉をかける。
「リィナは、仲間なら全てを話すのが当たり前で、隠すのはいけないことだと思っているんだね。
そういう考え方もあるし、オレもそれを全部は否定しないよ。オレは、行動を共にするなら隠し事はしたくない。
でも、そういう考え方をしない人もいる。そして、そうしたくても出来ない事情を持っている人もいる。そういう人に自分の考えを押し付けるのは、いいことだとは思わない。ましてや、エリーは仲間というよりは…オレたちの依頼人だ。目的のために情報を隠すことだってあるだろうし、それは雇い主の正当な権利だと思うよ。
それに、エリーは感情論でむやみに隠したがっているわけじゃない。彼を信じてあげてくれないか」
「クルムくん……」
「エリーの中で、オレたちが…リィナが、何一つ隠さずに何もかもを分かち合える存在になったなら、何も言わなくても自然に話してくれるさ。
無理矢理聞いても…きっと、何もいいことはないよ、リィナ」
「いいのです、クルムさん」
リィナを諭すクルムを、エリウスが苦笑して止める。
「リィナさんの仰ることももっともです。依頼をしているにもかかわらず、僕は皆さんにあえて口にしていないことがあります。それを不審に思われるのは当然のことです。それは、申し訳ないことだと思っています」
リィナから千秋に視線を移し、千秋が憮然として腕を組む。
「ですが、それも事情あってのこと…できれば、皆様方には最後までお伝えせずに、そして皆様に愁いを持たせることもせずに、笑顔で依頼を終えたかった。しかし、彼女が…リーがさらわれ、そしてリーが依頼をした方々も偶然顔を合わせている以上、僕には話す義務があるのだと…思います」
複雑そうな表情で、エリウスは冒険者たちを見回した。
「ですから…このことは皆さん、どうか、口外をなさらぬよう、お願いいたします」
「エリー、無理に話さなくても」
「大丈夫ですよ、クルムさん」
心配そうに言い募るクルムに、にこりと微笑を返して。
再び冒険者たちを見渡し、ゆっくりと話し始める。
「まずは…お察しの通り、先ほどさらわれた彼女…ミカエリス・リーファ・トキスといいます。僕の連れです」
「なるほどー。でぇ、さっき言ってた、ミケたちの依頼人でもあって……んで、エリりんのダイジナヒトなんだね!」
元気にレナスが言い、レティシアがそれに同調した。
「そうそう!あそこまで取り乱すっていうことは…っていうか、その取り乱し方からいって…彼女?すっごく大切な人なんだなぁっていうのは、エリウスの態度からわかったかなぁって」
「ほら、さっき言ってた、エリりんとクルムの幻術世界に出てきた女の子って、その…ええっとなんだっけ、リー?なんでしょ?」
「はい、仰る通りです」
にこりとレナスに笑みを返して、エリウスは言葉を続けた。
「リーの依頼を受けた方はご存知なのですが……彼女は、母親が天使、父親が人間の…ハーフエンジェルなんです」
「て、天使?」
驚いて声を上げる千秋。
「なるほど………それで、『はんぶんてんしのおんなのこ』なのだな」
驚きつつも納得した表情のアルディア。
「はい。ですから、当然……僕も」
ふわり。
エリウスの言葉に続いて、音もなく彼の体が光に包まれる。
ふっと髪と服をなびかせて現れたのは、光り輝く1対の翼と、頭上に輝く天使の輪。
「う……わぁ……」
レナスが目を丸くして声を上げる。
ゆっくりと目を開けたエリウスは、それまでの彼とは違う、神々しいまでの雰囲気を身に纏っていて、見る者を圧倒した。
「……ご覧の通り、天界からやってきた、天使、です」
落ち着いた声音でそう言い置くと、ふっと目を閉じて、同時に翼と輪も姿を消す。
「本来、天使は現世界には降りてはならない存在であり、降りたとしても人間と深く関わることは禁じられています。パワーバランスが大きく崩れてしまうからです。ですから、僕も皆さんには正体を明かすつもりはありませんでした。この事が天界に知れ、下手をすれば…皆さんに強硬な手段を取らないとも限りませんから」
「強硬な…手段?」
ミケが首をひねると、エリウスはそちらに真剣な視線を向けた。
「皆さんの記憶を消したり…最悪は」
きゅ、と首元を絞めるゼスチャーをする。
ミケは驚いて眉を顰めた。
「天使って…そんなこともするんですか。僕、天使って優しい人たちばかりなんだと思っていました…リーさんや、ミシェルさんもそうでしたし」
「現世界の方々が持っているイメージは知っていますが…本来、天使は『世界を維持する』役割を担っている存在です。世界を安定して維持するために、必要でないものは排除することにためらいはありません」
「そう…なんですね」
神妙な顔つきのミケ。
「だから……リィナたちに内緒にしてたんだね…」
複雑な表情で、リィナ。エリウスはそちらに向かって苦笑した。
「はい。ですから、先ほども申し上げましたが…このことは決して口外なさらないようにお願いします」
「うん、わかったよ。ごめんね、エリウス君」
「と、いうことはだ」
千秋が言い、全員がそちらを向いた。
「あの、ペヨン・ジョン・ウィンソナーという…」
「すみませんフルネームで呼ばないでくださいますか」
「あ、うむ、すまん。ジョン・ウィンソナーという人物も…」
「はい。お察しの通り、天使です」
「なるほど、な………」
千秋は再び、憮然として腕を組んだ。
「あれほどの術を、しかも4つ同時に展開させる人間がいるものかと思っていたが…なるほど、天使だったとはな…しかし、それで納得だ」
「先生が、僕の先生だというのは本当のことです。しかし、どこの先生かというのが…正確には、天界を統率する天使たちを育成する、軍官学校の教授、です」
「スケールが大きくなってきたな……」
辟易したように、アルディア。
「じゃあ、ジョンさんが言っていた『調査員』って……」
レティシアが言い、そちらに向かって頷く。
「はい、天界が派遣する調査員のことです。僕としても、できるだけ大事にはしたくないのですが…先生があまりに暴れるようなら、それなりの手段を取る可能性もあります」
「で……その学校の教授が、何故現世界に…?そして、何故エリウスさんが、それを追っているんですか…?」
眉を顰めてミケが問うと、エリウスは沈痛な面持ちでため息をついた。
「あとは…皆さんにお話したそのままです。先生は…退屈されていたのでしょう。現世界に通じる門番の目を術で誤魔化し、降りてきたのです。この事が天界に知れて騒ぎになる前に、丁度現世界に来ていた僕に白羽の矢が立ったと。そういうわけです」
「た、退屈していたって……それだけの理由で、現世界に?」
あっけに取られるミケ。レティシアが首を傾げてそれに続く。
「でも、何でこんな大掛かりな事するわけ?わざわざ関係がないリーの事を攫ってまで、エリウスに構って欲しいのかな?何かもっと深い訳があるのかも…」
はぁ。
エリウスは心底疲れた表情でため息をついた。
「あの方のすることに、理由や目的を求めるのは…不毛です」
と、やおらミケがその肩に、ポン、と手を置く。
「エリウスさん………わかります」
「……ミケさん?」
「……悪戯好きだったりはた迷惑だったりする人に師事すると大変ですよねっ」
何故か涙なども流しつつ。
「そう言うときはやっぱり誰かに手伝ってもらった方が良いですよ!一人でやると、疲労が倍にも感じられますしね。手伝わせてください?」
「ミケさん…」
「…だな。なかなかふざけたユメを見せてくれたからな。
とりあえず一発頭でもひっぱたいてやらなければ気が済まん。俺も協力させてもらうぞ」
千秋が言い、アルディアも頷いた。
「そうだな、乗りかかった船だ。
…だが、それだけではなく………ちょっと、な」
「アルディアさん?」
首を傾げるエリウスに、アルディアは複雑な表情を向けた。
「…貴方の御師匠殿に少々言いたい事が有るのだ。
すまないが、もう暫く付き合わせてはくれないだろうか」
「だよねー!私もヨンさまに会いたいし!」
レナスが元気よくそれに続く。
「皆さん……」
エリウスは、少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
「よっし!そんじゃ、急いでそのジョンさんのところに行かないとね!早くリーちゃんを助け出さなくっちゃ!」
リィナが意気込んで言い、ミケがそれに向かって手を上げる。
「あ、それなんですけど」
「ミケちゃん?」
「あの、そんなに心配しなくても大丈夫じゃないかな、と思うんですが。……ええと、リーさんって、ほら、天使の血が入っていますし、魔法がかかりにくいっていうか、ああいう幻術系に強そうじゃないですか。むざむざ気絶させられて誘拐されたりしないですよ。あれも幻術かも知れないじゃないですか」
首をかしげながら言うミケ。
リィナとレティシアは顔を見合わせて、頷いた。
「……そう言われれば、確かに」
「さすがミケ。あっ、でも…リーは確かにハーフエンジェルだけど、ジョンさんは生粋の天使なんでしょ?じゃあやっぱり……」
「そうかもしれないですけど。そういう可能性もある、っていうことで。ちょっとした準備をしていくくらいの余裕は、あってもいいのかな、って」
「そうですね……」
エリウスが唸り、そしてため息をつく。
「先生は、僕をからかうためなら、彼女を本当に術にかけてさらうくらいのことは…しそうな気がします。彼女も、天使の血は半分しかないことを考えると、それに抗えるとは考えにくい」
その言葉に、ミケが眉を寄せて、低く問う。
「……ちゃんと、出向いたら。危害とか加えずに返してくれますかね?」
「それは…おそらくは。先生の目的は、彼女ではなく……僕をからかうこと、ですから」
はぁ。
同時にため息をつくエリウスとミケ。
「しかし…そうですね、今すぐ行っても、準備をしてから行っても、彼女の安否を左右することはないと思います。ここは落ち着いて、ことに臨みましょう。幻術は、かかる人間の心の安定に大きく左右されます」
エリウスは表情を引き締めて、冒険者たちに向き直った。
「では、半刻後に…もう一度、この宿の入り口に集合してください。それまで、皆さんは各自、準備をしていただければ、と」
冒険者たちは無言で、エリウスの言葉に頷いた。
「では……みなさん、よろしくお願いします」

「そういえばさ、アルディアさん」
散り散りに準備に向かった冒険者たちだったが、向かう方向が同じだったリィナとアルディアは連れ立って道を歩いていた。
道すがら、唐突に名を呼ばれてアルディアがそちらを向くと、リィナは言い難そうに眉を顰めて、抑えた声で言った。
「あの…幻術の世界にいた、学園長さん…えっと、バジルさん、だっけ?あれって…」
リィナの口から出た名に、アルディアの瞳が僅かに揺れる。
リィナはそれには気付かずに、続けた。
「…リィナの知り合いじゃないってことは…アルディアさんの知ってる人、なんだよね?
あの…どういう知り合い、なの?」
アルディアはいつもと変わらぬ無表情のまま、黙っている。
「いつも冷静なアルディアさんが、『許せん!貴様を殺して私も死ぬーーーーっっ!!』ってなっちゃって、リィナびっくりしちゃったよ。あの、何か悩みがあるなら、リィナに…」
「済まないが」
ぴしゃり、とリィナの言葉を遮るように、アルディアは口を挟んだ。
「私の知り合いにあんなロリコンは居ない」
「ええっ、で、でも、あんなに…」
「そう見えたか?何、私はああ云った変態が許せない性質でな。…と、私はこちらだ。また後でな、リィナ」
「あっ、アルディアさ……」
リィナが呼び止めるのを、半ば振り切るようにして。
アルディアは踵を返すと、路地の奥へと消えていった。
リィナはしばしそれを見送って…そして、俯く。
「…………」

(本人がそう判断してやったことを無理矢理暴くことが、本当にいいことだと思うのか?)
(なんとなくとても親しい方だというのは感じたので、特に詳しく聞かなくてもいいかな、と思っているんですよ)
(リィナが、何一つ隠さずに何もかもを分かち合える存在になったなら、何も言わなくても自然に話してくれるさ。無理矢理聞いても…きっと、何もいいことはないよ、リィナ)

先ほどの、クルムとミケの言葉が蘇る。
困ったようなエリウスの顔。表情を硬くしてはぐらかしたアルディア。
「言ってくれなきゃ…そんなのわかんないじゃん……」
リィナはきゅっと眉を寄せて、呟いた。
「でも…ミケちゃんもクルムくんも、言わなくてもわかったんだよね…エリウス君を傷つけないようにって、最初にそれを考えたんだね…」
触れられたくないことにずけずけと入り込み、教えてくれないと拗ねた自分の、何と矮小なことか。
はぁ、とリィナはため息をついた。
「……難しいなぁ……」

「クルムさんは行かないんですか?」
冒険者達が去ってしまった後も部屋に残っているクルムに、エリウスはにこりと微笑みかけた。
「え?ああ、オレは特に用意するものもないしね。落ち着いてみんなを待つことにするよ」
笑顔を返してそう言うクルムに、エリウスの表情が優しい微笑からふっと艶を帯びる。
「……さっきは、すまなかったな」
『エリウス』の仮面を取って『エリー』の言葉で話す彼に、クルムは苦笑を返す。
「いや、オレももう少し早くリィナを止めればよかったよ。ごめんな」
「あのお嬢さんは率直だな。単純、と言い換えてもいいが」
くっ、と喉の奥で笑って。
「…しかし、リーのことを知られることになってしまったのは俺の失策だった。あのお嬢さんに言われなくても、どっちみちリーの事が知られた時点で話すつもりではいたよ。
クルムたちがリーの依頼を受けていたことは知っていたんだからな。下手に隠して騒がれたりコソコソ調べられたりするより、正直に出て口止めをしたほうが上策だ」
「そうか…そうだね」
クルムが納得して頷くと、エリーははぁ、とため息をついて髪をかきあげた。
「暗号を解いて、師匠がリーにちょっかいをかけてると知って…正直、他のことは何も考えられなかった。俺とした事が、しくじったよ」
「そうかな?オレは、そう思うのは当然だと思うし…いいことだと思ってるよ」
「いいこと?」
片眉を顰めて聞き返すエリーに、クルムはにこりと微笑み返す。
「ああ。エリーが…その、仮面を思わず取り落としてしまったのは…1度目は、幻術世界の中で、リーが現れたとき。2度目は、師匠の手がリーに伸びているとわかった時。
…両方とも、リーに関わる時だったよね」
それまで完璧にかぶり続けていた仮面を、取り落としてしまったエリー。
それは、つまり。
「それだけエリーはリーのことを、大切に思っているんだね。
大切な人のことを想って取り乱してしまうのは、当然のことだし、悪いことじゃないと思うよ」
「っ………」
エリーは僅かに頬を染めて、憮然とした。
クルムはその様子に嬉しそうに微笑むと、つ、と視線を空に向けた。
「…もし、ジョン先生が本当にリーに術をかけてさらって…眠りにつかせてるとしたら」
クルムの話に、エリーの瞳に真剣さが戻る。
クルムは続けた。
「エリーの幻術の世界にリーが出てきたように、きっとリーの夢の中にも、エリーが出てきてると思うよ。幸せな夢を見てるって、そう思う」
「……どうだかな」
はぐらかすように言うエリー。
クルムは苦笑した。
「以前、少しだけ…リーからエリーのことを聞いたんだ」
「ほう?」
新年祭で偶然会って、言葉を交わした時のことは記憶に新しい。
エリーがそうであるように…いつも冷静で優しいリーが、心乱されるのは彼に関してだけだと、嬉しそうに頬を染めて語っていた。
傲慢で、二枚舌で、嘘つき。およそ愛しい恋人のことを語っているとは思えない彼女の言葉も、エリー本人を目の前にして、納得する。
彼が処世術と称して本音を人当たりのいい仮面で隠すことも、その意味も、彼の葛藤も、全てリーは理解して、その上で彼を愛しいと思っているのだろう。
(エリーは想いを言葉にすることを、ためらっているんだろうか?
長い間仮面を被り、言葉を操って、周囲の人と、そして自分を欺いてきたから素直な気持ちを言葉にすることを畏れているのかな。
一番大事な人…リーに向けるとなると、なおさら慎重になるのかもしれない)
彼女のことを思い返して、クルムはふとそんなことを思う。
「クルム?」
リーから聞いた、とだけ言い置いて黙り込んでしまったクルムに、エリウスが眉を顰めて促す。
と、クルムは彼に視線を戻して、言った。
「エリー、リーに対する素直な気持ちを、ちゃんと言葉にして、リーに伝えて」
「……っ」
唐突なクルムの言葉に、しかし何か図星を刺される事があったのか、言葉を詰まらせるエリー。
クルムは続けた。
「エリーの心からの呼びかけなら、幻影の世界で意思を封じられ心が閉じているリーにも、きっと届く。彼女を目覚めさせることが出来ると思うんだ。
師匠がリーに見せる『夢』に、エリーが負ける筈ないよ」
「……あ、ああ、そういうことか…」
突然の話の飛躍に戸惑っていたが、術をかけられたリーを目覚めさせるために、ということだと理解して、拍子抜けしたように表情を崩す。
クルムはふっと苦笑した。
「…いや、まだリーが眠らされてると限ったわけでもないんだけどな。なんとなく、そう思って」
「…だな。まだあれが師匠の幻術じゃないと決まったわけでもないし…」
むう、と難しい顔をして唸るエリー。
クルムは再びにこりと笑うと、エリーに言った。
「エリーが、ちゃんと言葉にしなくても、リーを本当に大切に思ってるってこと、多分リーは全て知ってて受け入れてると思うよ。でも、こういう事態だ。いつもは形にしない思いも、言葉にすればきっと、眠っている彼女の心にも届くと思う」
その言葉に、エリーは複雑そうな表情をクルムに向ける。
「……あんた……本当にリーから何を聞いたんだ……?」
「はは、それは内緒。オレじゃなくて、直接リーの口からエリーに伝えるべき言葉だと思うしね」
「ったく……」
エリーは再び憮然として、頭を掻いた。

さあ、ショータイムです

「このあたり…のはずなんですが……」
ジョン老人に与えられた地図を頼りに来た場所は、ヴィーダ郊外の森の入り口だった。
地図を片手に、眉を顰めて辺りをきょろきょろとうかがうエリウス。
あたりに人気はない。あっても困るのだが。これから幻術にかけられ、幻術にかかっていない人間が傍目から見たら奇妙この上ない行動を取るに違いないのだから。
「あ、これじゃないですか?エリウスさん」
ミケが足元に何かを見つけ、エリウスを呼んでそちらを指し示す。
見れば、矢印の形をした看板が、森の奥の方を指して刺さっていた。
「…新しいもののようですし、間違いないですね。どれどれ…」
エリウスは屈んで、看板の文字を読んだ。

『怖い物、出るよ?』

沈黙。
「………行きましょうか」
綺麗にスルーして、エリウスは矢印の指す方向へと冒険者たちを促す。
しばらく行くと、また同じような矢印看板が。

『本当に、怖いんだよ?』

なおも無視して進むと、また同じ(以下略)

『進むの?』

『怖いって、警告してますよ?』

『マジですって』

『マジマジ。ちょー怖いですよって』

『本当に行くんですか?』

『勇者ですね』

「いい加減にしてくれませんかね……」
さすがにげんなりして、エリウスが呟く。
「…あ、扉が見えてきたよ。あれじゃないのかな」
クルムが指差す方向には、そそり立つ岩壁に粗末な木の扉が。
それも、ひとつだけでなく、いくつも並んでいる。

『では、覚悟は決まった?』

並んだ扉の前には、そんな立て看板が。
エリウスは眉を顰めてそれを読み、気鬱そうに扉へと向き直った。
「この扉のどれかが…奥へと続くということなのですね」
「怖いものって、なんだろ?やっぱりリィナたちの心を読んで、怖いもの持ってくるのかなぁ」
やや眉を寄せて、リィナ。
「3…4…5…全部で6個だね!」
レナスが数え、アルディアが腕を組む。
「むぅ…どれにしたものか」
「とりあえず空けてみようよ。全部明けてみれば、どれかひとつは奥に通じてるだろうし」
クルムが言い、千秋が頷いた。
「…だな。空けるのを恐れていては始まらん」
そして、冒険者たちはその立て看板を通り抜け、扉へと近づいていく。
彼らからは死角になっている看板の裏には、殴り書きのような字でこう書かれていた。

『It‘s a show time!』

「じゃあ、この扉から行こうか」
クルムはおもむろに、一番右の扉のノブを回した。

がちゃ。

「うっ……!」
部屋の中には、一面に……顔のついた卵が敷き詰められ、一列ごとにくいちがうように体を揺らしながら、微妙に可愛らしい声で歌っていた。

♪♪タ~マゴ~ タ~マゴ~
  タ~ップ~リ~ タ~マゴ~
  タ~マゴ~ タマ~ゴ~タップリ
  タ~マゴ~ガ ヤ~ッテク~ル~
 
  タ~マゴ~ タ~マ

ばたん。
「……ここには何も無いようだよ」
速攻で扉を閉めて、何事もなかったかのように仲間に笑いかけるクルム。
「え?!なに、なになに今の?!」
レナスが興味津々で近づき、もう一度扉を開ける。
がちゃ。

♪♪タ~マゴ~ タ~マ

ばたん。
「いや、だから何も無いって」
「えー!何言ってんの超面白いじゃん!ていうかアレを全部オムレツにしたら…じゅる」
即座に遠い目になるレナス。
微妙に覗き見てしまったらしいポチが、卵の真似をしてゆらゆらと揺れている。
「……ここは何も無いようだし。そっちはどうかな?」
クルムが言い、レナスはしぶしぶ自分の前にある扉に向き直った。
「むー。怖いものー?私あんまりよく覚えてないんだよなー…」
言いつつも、開けるのが怖い様子でノブに手を伸ばしあぐねている。
「えーい、いちかばちか!やるしかないよね!」
レナスはぎゅっと目を閉じて、ドアのノブに手をかけた。

がちゃ。

「………う………っ!」
小さくうめくレナス。
「なになに?何があったの、レナス?」
レティシアが後ろから中を覗きこむ。
「な、なにこれ?」
驚いた様子に、仲間たちも次々と後ろに回って部屋の中を覗きこんだ。
「…うわぁ」
ミケがうんざりしたような声を上げる。
ドアの中には、見渡す限りずらりと並んだ机。その一つ一つの上に紙とペンが置いてある。
「またこんなところにいたのか、レナスウィンド!」
中から、教師だろうか、しかし微妙に神官服のようなデザインの服を纏った男性が、眉を吊り上げてやってくる。
「え?え?な、なに、なんなのさこれ?」
動揺するレナスの腕を、彼は険しい表情で掴んで引き寄せた。
「いつまでサボっている!ほら!早くここに座って、黙って答えを書くんだ!」
有無を言わさぬ口調でレナスを座らせ、ペンを持たせて紙に向かわせる。
「な、な、なんだこれ、よくわかんないけど、すっごくやな感じ!」
ペンを握って、白い紙に向かったまま、レナスは猛烈に眉を寄せた。
「つーか、なんで私こんなところに座って問題解いてんのさ!逃げる逃げる!ここから逃げるよ!!」
レナスは言うなり立ち上がり、閉じてしまったドアに向かう。
「あっこら待て、レナスウィンド!」
教師が怒声をあげてレナスのあとを追ってくる。レナスは全力で逃げ、ドアのノブに再び手をかけた。
「こんなところでやってられないよっ!三十六計逃げるにしか…」

がちゃ。

「……なあぁぁぁんでえぇぇぇ?!」
ドアを開けてもとの世界に戻ると思いきや。
先ほどと同じ光景がレナスの目の前に広がっている。
がし。
肩を捕まれて振り返ると、先ほどの教師が真後ろに立っている。
「諦めるんだな、レナスウィンド。お前にはここの他に行く場所などない」
「やだやだやだあぁぁぁっ!逃げてやる、絶対逃げてやるうぅぅぅぅっ!!」
レナスは大声で叫び、教師の手を振り解こうともがき始めた。

「………ス、レナス!しっかりして!」

はっ。
レティシアの声で、レナスは急に意識を引き戻された。
「あ、あれ、ここ……」
「ドアから出てきたと思ったら、急に逃げる逃げるって言って暴れだしたの。大丈夫、レナス?本当に怖いものが出てきたのね…」
心配そうにレナスの顔を覗き込むレティシア。
レナスはぶるぶると頭を振って、ため息をついた。
「ったぁ~……なんだか知らないけど、なんかすっごいヤだったよ!
本当にヒドいことはしないと信じてたのにぃっ!ヨンさまのいけずっ!」
「やはり、その人の記憶を読んで、怖いと思っているものが出てくるようですね……」
ミケが僅かに眉を寄せて、もう一度並んだドアに目をやる。
「ふむ、怖いと思っているものが出る扉か……そうだな」
と、千秋が自らの前にある扉に向かい、やおらぶつぶつと唱えだした。

「饅頭怖い饅頭怖い饅頭怖い饅頭怖い饅頭怖い
饅頭怖い饅頭怖い饅頭怖い饅頭怖い饅頭怖い
饅頭怖い饅頭怖い饅頭怖い饅頭怖い饅頭怖い
饅頭怖い饅頭怖い饅頭怖い饅頭怖い饅頭怖い」

「昔話?!」
「渋いですね…」
「そこまで唱えるとゲシュタルト崩壊起こしそうですよね」
口々につっこむ仲間をよそに、一心に「饅頭怖い」と唱えながら、ドアノブに手をかけた。

がちゃ。

どごっ。

突如鈍い音が響き、中に入ることも出来ずに千秋は昏倒した。
「おーっとこれは痛い!飛んできた饅頭が千秋選手にクリーンヒットです!」
どこから出したのか、実況席に拡声器で滑らかなアナウンスをするレナス。
「これは綺麗に決まりましたねー。どうですか、解説のレティシアさん」
同時にいつの間にか実況席に座らされていたレティシアが、もっともらしく頷く。
「鼻骨直撃ですからねー、鼻血が綺麗な孤を描いて着地しました。これは高得点が期待出来そうですね!」
「何の得点だっ!!」
鼻血ををぼたぼた垂らしながらがばっと起き上がる千秋。
「というか、なんなんだこれはっ!」
毒づいて、扉の奥を見れば。
「はっはっは。気に入ってもらえたかね、千秋君」
ぎく。
聞こえた声に、思わず千秋の身が竦む。
「そ、その、こえ、は………」
扉の奥から、ぬ、と姿を現したのは、身長2メートルはあろうかという……だが、確かに女性のようだった。
ナノクニ特有のデザインの装束だが、袖は千切られノースリーブのような格好になっている。開いている脇が、大柄ながらも見事なボディーラインを強調して目の毒だ。
そして何より、髪の隙間から覗く2本の角が目を引いた。
「ざ、柘榴ッ!? 何故お前がここにっ!?」
あからさまに狼狽する千秋。
「……あれは、お知り合いですか?っていうか、何ですか、あれ?」
千秋に回復魔法をかけながら、眉を顰めて、ミケ。
「わかった!昔、武者修行をしてた千秋さんが、三日三晩の激闘の末に倒した道場主の娘さんで、敵討ちにきたんだよ!」
「………むすめ…さん…?」
リィナが唐突に言い、ひかえめにミケがつっこんでみる。
千秋は沈痛な面持ちでため息をついた。
「あれは……俺の上司、だ」
「じょ、上司?」
驚いた表情で反復するミケ。
「ああ。今までに何度か話したことがあったと思うが、ナノクニの貴族……もとい、立国以前より地に蔓延り、初代ミカドに調伏されたという『鬼族』だ」
「このタイミングでその言葉が出てくると冗談にしか聞こえませんね…」
半眼でつっこみを入れてから、ミケはぽん、と千秋の肩に手を置いた。
「千秋さん…お互い苦労しますね…」
何故か親近感。
先ほどのエリーへの同情といい、どうやらミケも『とんでもない上司』に相当苦労をしているらしい。
千秋は狼狽した様子で、柘榴と読んだ上司を睨みつけた。
「くっ……何故奴がここに…!」
「しかしこの饅頭…本物なのか?」
その傍らで、アルディアが千秋に激突して地面に落ちた饅頭をつんつんとつついている。
「あ、ああ…饅頭は幻術……だろうが……しかし、これは痛い…」
「ははは、まだまだだね、千秋君。その饅頭をよく見てみたまえ」
「……は……?」
よく見れば、饅頭の皮が剥げ周りにぽろぽろとこぼれている。これは饅頭というよりは…
「…パイ、か?」
「なんだそりゃ?!」
アルディアが冷静に言い、全力でつっこむ千秋。
柘榴はふふん、と鼻を鳴らした。
「ヴィーダには、親しい相手にパイを贈るという習慣があるらしいね。君が饅頭をご所望だったから、饅頭に似せてパイを作ってみたよ。私の愛は受け取ってもらえたかな?」
「何故作ったパイを全力投球するんだ!!というか、リーヴェルの習慣は男性が女性に贈るものだろうが!」
「千秋君がいつまで経っても私にパイをくれる気配が無いから、自分で作ってみたのだよ」
「というか、何なんだこのパイは?!中に野球のボールが入ってるじゃないか!」
「ふふっ、それを食べたら消える魔球の完成だ。ほら、遠慮なく食べたまえ」
「食えるかー!!」
べし。
とりあえず手にとってみたパイもとい野球ボールを、全力で地面に叩きつける千秋。
「好き嫌いはよくないぞ、千秋」
傍らのアルディアが真面目な表情でたしなめる。
「せっかくのプレゼントではないか。手作りのパイだぞ、よかったな、千秋」
「いいわけあるかー!!」
「というか、駄目ではないか、千秋。リーヴェルの日に愛しい女性にパイを贈るのは男として最低限のマナーだぞ。来年はしっかりと手作りでな」
「ちょっと待て、なんだか方向がおかしくなってないか?!」
「何を言う。此の様にに手作りのパイを作って呉れる、素晴らしい女性ではないか。少し背が高くて角が生えている位の事、愛が在れば乗り越えられる」
「そもそも愛が無いっっ!!どこからそういう話が出てくるんだ?!」
「私を産んだ神と、この茶番を仕組んだ神からだろうか。げえむますたあ、とか云う」
「うっ……それは逆らえん……」
わけのわからない展開に千秋がひるんでいると、柘榴はははは、と笑ってこちらに歩いてきた。
「ところで千秋君。先ほども幻術を見たそうだが…どんな夢を見たのかな?
君の事だ。おおかたどこかにあの雛河の姫でも見たのではないかね?」
「う」
図星。
表情から千秋の返答を察した柘榴は、にやりと口の端を吊り上げた。
「くっくっくっ、鬼籍に入った昔の女をいつまでも引きずるのは君らしい。
確か、私と初めて出会ったころの君も彼女の面影を引きずっていなかったかね?
大事そうに懐に遺髪を抱えて……」
「今は持っていない。いつまでも昔の事を蒸し返すな」
きっ、と千秋が睨む様子も、反抗している猫のようで可愛い、といわんばかりに。
柘榴はくつくつと喉を鳴らす。
「ふふん、今でこそ遺髪は置いてきたようだが、振り切れないのは相変わらずのようじゃないか。
で? 幻術で見た彼女とはどんな会話をしたんだね?」
「大きなお世話だ」
「当ててみせようか。
私の知る一日千秋という男ならば、おそらく……ろくに会話もせず、自己満足と自分を笑いながら彼女を助けにいくんじゃないかな?
そして彼のことだ。目の前に現れた彼女が幻だということに、とっくのとうに気がついていて。
助け出したとき、ようやく『そこに生きている彼女』に出会えたというのに、そのチャンスを台無しにするような事を言ってしまったんだろうな。
大方、『会うのはこれで最後に』とか何とか、歯の浮くような台詞でも言ったのではないかね?」
「ぐ………」
さらに図星。
というか、冷静に考えてみればこの『柘榴』も、ジョン老人の作った幻なのだから、あの幻術の中での事を知っているのは至極当然の話なのだが。
柘榴は楽しそうに笑った。
「あー、嫌だねぇ、気障ったらしい。ぷ、くくっ。千秋君、ハードボイルドを気取るのは自由だが、君にはそんな台詞、似合わないと思うよ」
「やかましい!」
千秋が怒鳴り返し、柘榴は満足そうに破顔した。
「まあこの辺で勘弁しておいてあげようじゃないか。
今回の話は、まだ『私は』知らないからな。土産話を持って帰ってくるんだぞ」
ばちん、と形容するのがふさわしいウィンクをして。
「今年のロゼッタ・セレモニーは、それで許してやろう」
「うるさいとっとと帰れっ!!」
柘榴はもう一度、はっはっは、と楽しそうに笑うと、再び扉の向こうに消えていった。

ばたん。

「な………」
千秋はそれを見届けて、がっくりとうなだれた。
「………何だったんだ、一体…………」

怖いもの大会・つづき

「やー、何か相当怖いものが出てくるんだねぇ…ケーキこわーい、お洋服こわーいってのも通じないかー」
隣で脱力している千秋をよそに、眉を顰めて言うリィナ。
「巨大なケーキが降ってきて窒息しかねませんよね…」
エリウスが言い、うーんと唸る。
「ま、怖気づいててもしょうがないっしょ!じゃ、いっくよー!」
リィナは軽く言って目の前のドアのノブに手をかけた。

がちゃ。

「はぁ~い、リィナ」
「……っ」
リィナがドアの奥へ進もうとするより先に、中から現れた人物が彼女をドアの外へと押しやった。
二十歳そこそこといったところだろうか、長身の男性である。短くそろえられた黒髪に、切れ長の紅い瞳。鍛え上げられた体つきが解るぴったりとした、風変わりな衣装を身に纏っている。
「あれは……ショウさん?」
「ホントだ。リィナの…お兄さん、だっけ?」
口々に言うミケとレティシア。
そこにいたのは、紛れもなくリィナの兄、ショウ・ルーファであった。
「お兄ちゃん…の幻影だね」
「まぁ、タネがわかっちゃってるし、否定はしないよ」
真剣な表情でリィナが言い、ショウが軽い調子で笑みを浮かべる。
双方とも一歩も動かぬまま、微妙な緊張があたりに充満した。
「どいて…くれないよね」
「まぁ、そういう風に設定された世界だしね」
す。
どちらからともなく、2人は身構えた。
「んじゃ、お邪魔開始」
軽い口調と共に、ふ、とショウの体が消える。
「っ!あぅ…」
一瞬怯んだリィナの首を、背後に回ったショウががっちりと締め上げた。
「リィナさん!」
「リィナ!」
その様子に、仲間たちが慌てて身構える。
が。
「ちょっ……な、なにこれ?!」
リィナの元へ駆けつけようとしたとたん、ごん、と何かに行く手を阻まれる。
「か、壁?!」
「見えない壁…か……くそっ!」
千秋が毒づいて壁を叩く。
阻まれた壁の向こうでは、リィナの首を締め上げているショウがくすりと鼻を鳴らしていた。
「んー、幻影の偽者って言っても、俺は君の想っているお兄ちゃんだからね。
君の思い出の中で敵わぬ存在。それは君自身が良くわかってるはずだよね?」
「……っ……く……!」
リィナは苦しさと悔しさに顔をゆがめながら、それでもその事実を認めるしかなかった。
昔からショウには敵わなかった。修行でいくら手合せしても、いくら一緒にさまざまな冒険をしても、彼はリィナの遥か先の世界を歩いてきた。いくら追いつきたいと思っても、追いつけない存在。
昔、一緒に居た頃は追いかけていくだけで精一杯だった。
ぎり。
ショウの腕にさらに力がこもる。
「か……は……」
あまりの息苦しさに目がかすむ。これが幻術だとわかっていても、どうする事も出来ない。
「そう、君は彼が楽しみ終えるまで、眠っていればいいんじゃないかな?」
「あっ…あはぅ…」
そう、幻術だとわかっていても。むしろ、幻術だとするならばなおさら。
自らが敵わないと絶対的に認めてしまっている存在を相手に、勝てるはずがないのだ。
勝てないと、自分自身が思い込んでしまっているのだから。
実力差以前の問題だった。
リィナの中に、兄と戦って勝つ、という選択肢そのものがないのだ。
兄は自分に闘いを教えた絶対の存在であり、同時にかけがえのない愛しい存在。勝ちたいなどと、どうして思うものか。
(無理だよ…リィナ何も出来ないよ…もう…意識が…)
目の前が徐々に暗くなっていく。
まるで、リィナの心を埋め尽くす絶望のように。
「おにい………ちゃ……」

『リィナは、お兄ちゃんの背中を守れる女の子になりたいの!お兄ちゃんが、困ってる時に助けられる女の子に!だから、この世界で強くなる!』

不意に。
新年祭で兄に誓った、自らの言葉が胸に蘇った。
(そうだ……リィナ、お兄ちゃんに約束したんだ…!)
ショウの背中を守れる者になる、ショウが困った時に助けられる力を手に入れる、と。
だから、残った。今は一緒に居れなくとも、いつか永久に離れぬ時の為に。
だからこそ、こんな所で立ち止まってるわけにはいけないのだ。
(今……リーちゃんをリィナの力で助ける事が出来なくて…お兄ちゃんの背中を守れるようになんて、なれるはずがない…!)
「背中を守る為には…追いかけるだけじゃ…駄目だよね…」
夢見るように、リィナは呟いた。
「追いついて、一緒に歩けるぐらいにならなきゃ!」
リィナの目が見開かれる。
同時に、リィナは背後のショウの胴に力いっぱい肘を打ちつけた。
「……っ!」
よろめいて、腕の力を緩めるショウ。
その隙に体勢を立て直すと、リィナはショウに向き直り、びし、と指を突きつけた。
「キミは所詮、リィナの思い出の中のお兄ちゃん!過去は過去!過去と今は違うの!」
言うが早いか、ひゅっ、とショウの懐に飛び込む。
「はぁっ!」
右から繰り出されたリィナの蹴りを、ひらりとかわしてショウが下がる。
「まだまだっ!」
避けられた事すら計算に入っていた様子で、リィナは次々と、舞うように攻撃を繰り出していった。
「…っ、なかなか、やるね……!」
先ほどまでの余裕の表情が消え、次々と加速しながら繰り出されるリィナの攻撃を必死で受け止めるショウ。
「ふんっ、ホントのお兄ちゃんの強さは、こんなもんじゃ…ないんだからっ!」
がっ。
リィナの言葉と共に、リィナの拳がショウの顎を深々と捉えた。
「…………」
ぐにゃ。
ショウの顔が、不自然に歪む。
「ああっ………」
拍子抜けしたようなリィナの叫びをよそに、ショウの体はあっけなく、虚空に解けて消えた。
「なんか、あっさりしてるなぁ…さっきはあんなに苦戦したのに…
これって、リィナの心が弱かったからなのかな…?」
ポツリと呟くリィナ。
「リィナ!」
同時に、見えない壁から解放されたらしい仲間たちが、リィナの名前を呼ぶ。
「みんな!リィナ、やったよ!」
「リィナ!」
感極まって、仲間たちのほうへと駆け出すリィナ。
両手を広げ、仲間たちへと飛びつ

しぱーん!

「いったあぁぁぁい!」
レナスの持っていたハリセンが顔面にクリーンヒットし、リィナは叫び声をあげた。
「な、なにすんのレナスちゃん?!」
「なにすんの、じゃなあぁぁぁいっ!」
びし。
レナスは厳しい表情で、リィナに指を突きつけた。
「なあぁぁぁに、よくあるラノベみたいな展開にしちゃってるかなあ?!」
「ええっ?!」
「リィナ、ここをどこだと思ってんの?!ギャグシナリオだよ?!ぎゃ・ぐ・し・な・り・お!最初から最後までいっぺんもギャグのカケラも入れないとか、まさに神と書いてげーむますたーと読むヒトをも恐れぬ行為っっ!」
「えええええ?!」
「ちょっとは千秋を見習いなよ!」
「ちょっと待てそこで俺を引き合いに出すな」
「とにかぁぁくっ!」
べし。
「あいた!」
「空気読まないで投入されたこのシリアスな空気をぶち壊してみたんで、以後気をつけるように!」
「……はぁ~い……」
むぅ、とむくれるリィナ。
ふぅ、とアルディアが息をついた。
「さて…残る扉は後2つだが…どれ、私がひとつ開けてみよう」
言って、何のためらいもなく目の前の扉を開ける。

がちゃ。

「…何だ、何も出てこないな」
何かを期待したのか、僅かに眉を寄せて呟くアルディア。
「中は…部屋のようだ。行ってみよう」
「あ、ちょっと、アルディアさん!」
やはりためらいなく中へと入っていくアルディアを追って、冒険者たちも中へ入っていった。

「なんだ……ここは」
入った部屋は、8人入ると少し狭い感のある、木造の小屋のような造りだった。
粗末なテーブルと椅子。飾り気のない壁。およそ生活のにおいのしない、寂しい雰囲気の部屋。
「ねえ……ちょっと寒くない?」
薄着のレティシアが、自らの腕を摩りながら言った。
「そうですね……少し」
眉を寄せて言うエリウスの吐く息も白い。
窓から見える外の風景は、先ほどまでとはうって変わってどす暗く、吹雪ががたがたと窓を揺らしている。
「うわ、吹雪?!すごいなー、あっという間だー。さすがはヨンさまだねー」
感心したように窓の外の景色を眺めるレナス。
「でも……これが、怖いもの?なのかな…?」
リィナがそう言った時。

とん…とん。

不意に、彼らが入ってきたドアが鳴った。
びく、と身を震わせる冒険者たち。
「な…なに?誰か来たの……?」
おびえたような表情で、レティシア。
「…風の音じゃないのか?」
言いつつも、このうら寂しい、静かで重い空気に気おされた様子の千秋。
とん……とん……
なおも続く、戸を叩くような音。
まるで、本当に戸の向こうに誰かがいて、叩いているような錯覚に陥る。
「ね、ねえ……本当に風の音なの……?」
青ざめたレティシアが、ミケの袖をきゅっと掴む。
そういうミケも、青い顔をしていて。
「風の音……ですよ。そうに違いないというかそうであってください…」
「ね、開けてみようか」
リィナが指を一本立てた。
「開けてみて、風の音、あーよかった♪ってやればいいんだよ!」
「そのネタ、地域性がありそうですよ…」
「んじゃ、開けまー…」
「待て、リィナ!」
アルディアが鋭い声でリィナを止めた。
びく、と手を引っ込めるリィナ。
アルディアは厳しい表情で、ゆっくりとリィナに告げた。
「………開けない方が、良い」
「え………な、なんで?」
驚きと疑問が半々の表情で、リィナが問い返す。
ふぅ、と、アルディアは小さく息をついた。
言い辛そうにためらって、しばしの後、ゆっくりと口を開く。
「…此れと良く似た昔話を、聞いた事がある」
歯切れの悪い口調。
部屋の明かりが、少し暗くなったような気がした。
そして、何故かアルディアの顔の下から光があたり、不気味なシルエットを作り出す。
「……そう……その日も……こんな吹雪の夜だったそうだ………」
ごくり。
誰かがつばを飲む音が聞こえる。
「昔、1人の臆病な男が居た。
男はとても美しい姿をしていたが、家は貧しく、彼の父と母は病に伏せていた。
男は親に医者を呼んでやる事も出来ず、薬を買ってやる事も出来ず、
2人の看病をしながら、毎日を途方に暮れて過ごしていた」
淡々と。
感情を込めずに話すアルディアの口調が、余計に寒さを助長する。
「ある冬の事、金持ちの娘が父親と共に男の住む村にやって来た。
娘は男を見るなり、恋に落ちた。
娘の父親は其れを知ると、直ぐに娘との縁談を男に持ちかけ、
男は、此れで両親を医者に見せられると喜んで其れを受け入れた」
「い…いい話じゃないですか」
やや及び腰で、ミケ。
アルディアは首を振った。
「しかし、男には既に恋人がいた。
恋人が邪魔になった男は、其の女を亡き者にしようと考えたが、
臆病な其の男には女を殺す事は出来なかった。
惨く傷付ける事は出来たが、自らの手で殺すという行為までは出来なかった」
「さ……サイテー……」
やはりこちらも少し震えながら、眉を顰めて女の子らしい感想を述べるレティシア。
アルディアは淡々と続けた。
「男は、女を村の外へ呼び出した」
そして、自らの手で右目を隠すようにして。
「男は、女に自分の前をうろつかれては困ると思い、其の目を潰した」
「ひっ……」
ミケが小さく息を飲む。
アルディアはその手を、今度は耳に回した。
「男は、女に自分の事を人に聞かれては困ると思い、其の耳を削いだ」
「やだぁ……」
レティシアが痛ましそうにぎゅっと目をつぶる。
アルディアはその手を、最後に喉に持ってきた。
「男は、女に自分との関係を言い触らされては困ると思い、其の喉を潰した」
しん、と静まり返る部屋。
アルディアはゆっくりと目を閉じると、重々しく言った。
「見る事も、聞く事も、話す事も出来なくなった女は、
其の侭、男に森の中へ捨て置かれてしまった。
村に帰った男は何事も無かったかのように金持ちの娘と結婚し、両親と共に其の村を出て行った」
誰も口を挟むものはいない。
アルディアは淡々と続けた。
「其れからしばらく経った、吹雪く真夜中の事。
女は男に復讐をしようと、やっとの思いで村に帰って来たが、
見る事も、聞く事も、話す事も出来ない女には、男の居場所を知る事は出来なかった。
男が村を出て行った事を知らない女は、
仕方なく家々の戸を叩いて回り、男が出て来た所を殺そうと考えた。
しかし、女の戸を叩く音を気味悪がった村人達は、誰1人として戸を開けようとはしなかったそうだ」
「かわいそうな話だね……」
小さく声を漏らすリィナ。
アルディアは、す、と窓の外に目をやって、どこか夢を見ているような口調で、言った。
「そして其の女は、今も、吹雪の夜になると家々の戸を叩いて回っているらしい。
……だが、扉を開けたら最後、見る事も、聞く事も、話す事も出来ない其の女に、
憎い男と間違えられて首を絞められ殺されてしまうのだと」
そして、視線を仲間たちに戻して、ゆっくりと告げる。
「………だから、決して戸を開けてはならないのだ。
こういう吹雪の夜は、決して、な」
再び、小屋の中を沈黙が支配する。
誰もが息を殺して、アルディアの方を見ていた。
強い風にがたがたと揺れる窓。
そして相変わらず、とん……とん……と音のする戸。
その沈黙は果ての無いように思えた。
………と。

「……ふふ、どうだ、怖いだろう?」

にやり、と笑って、アルディアが言った。
きょとん、とした表情の仲間たち。
一拍置いて、部屋は急に賑やかになった。
「えええええ?!今の、アルディアさんの作り話なのー?!」
「こここここ怖がらせないでくださいよ、真剣に寒かったじゃないですか!」
「もー、アルディアったら!心臓に悪い話はよしてよね!」
口々に仲間が言い、アルディアはははは、と軽い笑い声を上げた。
「済まない、悪ふざけが過ぎたな。まあそう云う訳で、其のドアは開けない方が良い。絶対にな」
「……何故そこまで、あのドアを開けないことにこだわるのですか?」
エリウスが眉を寄せて問う。
アルディアは視線を逸らし、軽い口調で答えた。
「いや、なんとなく…な。嫌な予感がしたのだ。それだけだ」
「しかし……いつまでもこのままここでこうしているわけにも行きませんね」
「そうだな。ここが正解の扉じゃないなら、またさっきのところまで戻って最後のひとつのドアを開けないと」
クルムが同様に頷き、アルディアは渋い表情を作った。
「うむ……ああ、そうだ。こっちだ、裏口から出よう」
アルディアは一人部屋の奥へと足を進めると、入ってきたドアと反対側についていた裏口のような戸の前に立った。
「ああ、裏口があったんですね。じゃあこっちかもしれませんね」
ミケが頷いて、アルディアの後に続く。
それに促されるようにして、仲間たちもアルディアの後を追って裏口の前へと足を運んだ。
「では、行くぞ」

がちゃり。

びゅおおおおおおお!
「うきゃあっ!」
裏口の戸を開けたとたんに、すさまじい風と雪が部屋の中に吹き込んでくる。
「……っ……この戸を開ければ次の場面になると思っていたのだが……!」
片手で雪を防ぐようにして、アルディアが呟く。
「こ……これは、進むのは無理です!やはり、先ほどのドアから戻りましょう!」
同様にしてエリウスが叫ぶと、アルディアは一瞬逡巡して、それからきっ、と扉の外を睨みやった。
「いや……行くぞ!」
「え、えええぇ?!」
「アルディアさん、ちょっ……待ってえっ!」
言うなり外に足を踏み出したアルディアを、慌てて追う仲間たち。
吹雪で覆い隠された視界をものともせず、ざくざくと進んでいくアルディア。
「ね、ねー、アルディア、やっぱり戻りましょうよ?こんな吹雪の中進んでいくのは無理だって……っくしっ!」
情けない声で言って、くしゃみをするレティシア。
そちらに僅かに申し訳なさそうな視線を送るが、アルディアはそれを振り切るように前に向き直った。
「いや……この先にきっと、何かがあるに違いない。そんな予感がするのだ。済まないが、もう少し付き合って……」
「……あ、アルディアさん」
言葉の途中で名を呼ばれ、そちらを振り返る。
視線の先ではミケが、立ち止まって呆然と前方を指差していた。
「あ……あれ……」
指し示す先に、何かが見える。
相変わらず吹雪が視界を奪っているが、何かがゆっくりと、こちらに近づいてきているようだ。
びゅおおおお、と、あたりの空気を盛大に震わせている吹雪の音に混じって、ずる、ずる、と音が近づいてくる。
「………っ、まさか……」
やがて、その姿が冒険者たちにもはっきりと見て取れるほどに、それは距離を詰めた。
このくそ寒いのに、薄手の白いワンピース。
むき出しになった両手と両足は、無残に切り傷で覆われて。
長い長い髪をざんばらにして顔に垂らしているので表情は見て取れないが、僅かに覗く頬には、目の辺りからだらだらと血を流しているのが見える。
そして、真一文字に切り裂かれた喉からも同じく血が溢れ出て、白いワンピースを赤く染め上げていた。
「で………で………」
かなり古典的だが、ここはやはりこの名言しかなかろう。

「でたああぁぁぁぁぁ!!」

全員一様にそう叫ぶと、くるりと踵を返して全力で走り出す。
「…っく……!」
アルディアも悔しそうに息を吐くと、そのまま踵を返して走り出した。
が。
ざっざっざっざっざっざっざっざ!!
先ほどまでとは段違いの速さで、こちらに向かって疾走してくる貞子(仮名)。
「ぎゃああああ!!」
「ななな、なんであんなに足速いんですか?!」
「貞子と見せかけて実は100キロババアなのね?!そうなのね?!」
「あーもうなんでも良いから早く逃げろー!!」
顔から喉から血をだらだら流した不気味な女が後ろから全速力で追いかけてくる。
怖い。
これは怖い。
何かもう本能的な恐怖に駆られて、筋肉が引きちぎれるかと思うほどに全力で走る。
先ほど裏口を出てからそれほど経っていない気がするのに、走っても走っても小屋の影すら見えない。
と。
「おわっ!」
がっ。
突如、アルディアが足元の大きな石にけつまずき、降り積もる雪の上に派手に転がった。
「アルディア!」
「アルディアさん!」
驚いて仲間が立ち止まるが、駆け寄ろうとして足を止める。
ずざざざざざっ!
倒れこんだアルディアの上に、貞子(仮名)が滑り込んでのしかかったのだ。
貞子(仮名)はそのガリガリにやせこけた腕を、即座にアルディアの首に回した。
「……くっ……!」
あっという間に首を締め上げられるアルディア。
相手の体重自体はそれほど重くない。どうにか腰の道具袋から短剣を抜き放ち、渾身の力を込めて貞子(仮名)に刺す。
が。
「……っ……効かないのか……?!」
アルディアは吐き出すように言った。
ならば、と、同様に何かの瓶を取り出し、蓋を取って腕にぶちまける。
しゅうううう………
独特の音と、肉の解ける強烈なにおいがあたりに立ち込める。
「ていうか、あの体勢で酸をかけたらアルディアさんの体も溶けませんかね!」
「大丈夫なのよ!アルディアは毎日朝ごはんに納豆を食べてアルカリイオン水を飲んでるから体がアルカリ性になって酸を中和するんだわ!」
「この期に及んでパクですか!」
「オマージュと言って!」
大変危険なので良い子の皆さんは絶対に真似しないでくださいね。
それはまあ置いといて。
アルディアのかけた薬品で、貞子(仮名)の腕は無残に溶けていったが、痛覚がないのか貞子(仮名)の腕の力は一向に緩まらない。
「……くっ………い、息が……!」
アルディアは掠れた声で言って、そしてぎっと瞳に力を込めた。
「……っ、はぁっ!」
ごす。
渾身の力で貞子(仮名)の腹に足をめり込ませる。
その勢いで貞子(仮名)の手はようやくアルディアの首から離れ、吹っ飛ばされて雪原に倒れ伏した。
「走れ!!」
アルディアは急いで体勢を立て直すと、仲間に向かって叫んだ。
仲間も慌てて、踵を返して再び走り出す。
後方で、貞子(仮名)も起き上がってこちらへ走ってくる気配を感じた。
再び、全速力で追いかけっこを始める冒険者たち。
「ほほほほつかまえてごらんなさーい」
「レナスさんそういう捨て身のギャグは辞めてください!」
「あーっ!さ、さっきの小屋見えたよ!」
リィナが指差し、全員が全速力でそちらに向かって駆けていく。
「は、早く!早く、中に!」
だだだだだ。
ざっざっざっざっざ。
「お、追いつかれるううぅぅぅ!」
「あ、あと少しだ!」
だだだだだ!
ざっ!
だだっ。がちゃ、がちゃん、ばたん!
「はぁ、はぁ、はぁ……あ、あれ……」
間一髪、貞子(仮名)の手を振り切って小屋の中に入ると……そこは、もとのドアが6つある入り口だった。
「た……たすかった……」
はあぁぁぁぁぁ。
冒険者たちは、体中の全ての息を吐きつくすかと思うほどに、深い深いため息をついた。

怖いもの大会・ファイナル

「…さて…最後の1枚ですね」
一息ついたところで、残りの1枚のドアに向き直るミケ。
ごくり。
この扉を開けたら、奥に何が潜んでいるのか。
今までが今までなだけに、不安は大きい。
ましてや先ほどのアルディアのようなホラーモノが来てしまった日にはいったいどうしたらいいのか。
見た目に違わず怖いもの嫌いなミケ。
萌え。
「…迷っていても仕方がありませんね、行きましょう」
ミケは覚悟を決めて、ドアノブに手をかけた。

がちゃ。

扉を開けた先は、先ほどと同じように、部屋のようだった。
中にずらりと並んだ本棚。図書館…というならばもっと整然と本が並んでいるはずであろう、だがその本棚は、とりあえずあるだけの本を無造作につっこんで、入りきらなくなったものは本棚の上や机や椅子、果ては床の上に果てしなく積んである…雑然とした印象を受けた。
「こ、ここは……」
軽く青ざめるミケ。
見覚えのある部屋の風景に、なくてはならないものを探し、自然と視線が泳ぐ。
部屋の真ん中の机に向かい、何かを書いている娘。
金色のつややかな長い髪。そこから突き出す長い耳はエルフ特有の物。きりっとした理知的な表情を何より印象づける、深緑そのものの瞳。黒いローブから覗く手は白く小さく、儚さを備えたもの。恐らくローブの下も華奢で可憐なのであろうと容易に想像が付く。
開いたドアの方に不審そうに向けられたまなざしはどこまでも深く澄んでいて、エルフらしい、人間ではありえない美しさを強調させていた。

ばたん。

「こ、このドア、駄目です!絶対駄目!止めましょう」
青い顔をしたミケはそう言って、閉めた扉を塞ぐように背を預け、首を振る。
「え、え?ミケちゃん、どうしたの?」
不思議そうに首を傾げるリィナ。
と。
「ミケ」
優しい優しい、風が木の葉を揺らすような声音が、そう声をかけた。
「お茶。今すぐ」
「はい、ただいまっ!」
条件反射とでも言うように、即座に返事をして扉を開けるミケ。
再び開いたドアの向こうで、悠然と椅子に腰掛けたその女性は、満足そうににっこりと微笑んだ。
「今まで音信不通だなんて……どんな了見なの、馬鹿弟子がッ!お仕置きしてやるから、そこへ直れッ」
どげし。
「ぐはあっ!」
綺麗にハイヒールでのとび蹴りが決まり、ミケは孤を描いて地面に倒れ付した。

「はぁ………じゃあ、ミケちゃんに魔法を教えてくれたお師匠さん、ってやつなんだね」
お茶を入れながら、ミケは仲間たちに少女のことを語って聞かせた。
「はい。名前は、ミルフィール=ヴァストフォレスト。森にこもって一人で……その、魔道の研究をされていた方で、とある事がご縁で、僕に魔道を教えてくださったんです」
リィナは感心したように目を輝かせた。
「へええっ、ミケちゃんって本格的な先生に教わってたんだね~。
だって、エルフだよ?耳ツンツンだよ?やっぱ、エルフって言ったら耳ツンツンだよ!」
「意味がわかりません」
半眼でつっこむと、隣にいたアルディアが首を傾げる。
「しかし…如何かしたのか、震えてるぞ?」
ぎく。
ミケの体があからさまにこわばる。
リィナも不思議そうに首をかしげた。
「そうそう、なんでミケちゃんそんなにビクビクしてるのー?幻術とはいえ、先生なんだからそんなにビクビクしなくてもー」
「はは……は、はは、気のせいですよ」
言ってお茶セットを持つが、やはりお盆がカタカタ震えている。
アルディアは不思議そうに首をかしげた。
「そうなのか?まあ…ミケが言うのならそうなのだろうな」
「ねえ、ミケの先生ってどんな人なの?」
うきうきした様子でレティシアが聞けば、急にがちん、と人形のような動きになって。
「先生ハ美シク優シク賢イ女神ノヨウナ方デスヨ」
「なんでカタコト……」
「そう言うように躾けられているんだな……」
何か可哀想なものを見る目で呟く千秋。気持ちは大いにわかる。
「さあ先生、お茶が入りました」
「ご苦労様」
当のミルフィールは、先ほどの机で向かいに座ったレナスと楽しそうに歓談している。
「へー、じゃあトリカブトとか自家栽培してるんだねー」
「そうなのよ、ちょっと増えすぎて困っちゃって。まあ、売れば金になるからいいんだけど」
「じゃああのさ、最近のヒトの伐採や鉱石発掘やらで天然の森が荒らされてるけど、あれどー思う?」
「いきなり話題が飛んだわね…まあ、いいんじゃない?ヒトだってエルフだって、受け入れられないものを虐げ、強いものに媚びるのは大して変わらないわ。自分の身を滅ぼすまで、とことん好きにやれば良いんじゃないかしら」
どこか皮肉げな表情で。
ミケが用意したお茶を前に置くと、すました顔で一口。
「でねー、ミケは最近レティとラブラブなんだよ、こないだもねー」
「な、ななな何いきなり言ってるんですかレナスさんっ!」
「えー、だってラブラブ報告すればおししょーさんも喜ぶじゃん」
「いいいいいいいから黙っててくださいっ!」
ミケはレナスに言い置くと、ため息をついて仲間の分のお茶を振舞う。
「ふぅ……」
「ねえねえ、修行してた時のミケちゃんって、どんな感じだったんですか~?」
興味津々にミルフィールに聞くリィナ。
ミルフィールはにこりと笑った。
「よくがんばってたんじゃないかしら?なよなよで育ちのいいお坊ちゃんにしては」
「ミケは、どんな修行を?」
クルムが訊ね、ミルフィールはそちらにも笑みを向ける。
「それは、ミケに直接聞いたほうがいいんじゃないかしら」
「そうなんだ。どうだったの、ミケ?」
クルムに問われ、ミケは片眉を顰めて天井を見上げる。
「修行の思い出ですか……そうですねえ…」

「あなたは本で勉強した分、理論に偏りがちね。実践の方が大事よ」
と、簡単な火の攻撃魔法を教え、召還したゴブリンの前に放り出したこと。

やっと火の魔法がどうにかまともに使いこなせるようになった頃、どことも知れぬ森まで連れて行き、「自力で帰ってらっしゃいね。あ、水と簡単な冒険用具はあげるから、頑張れ☆」
と放り出し、一週間ほど強制的に冒険という名のサバイバルをさせられたこと。

やっと大小傷だらけで帰り着いた時、『治癒魔法』の組み立て方の本だけが置いてあったこと。

「頑張って防ぐ方法考えてね」と言われ、魔法の実験台にされたこと。
それで死にそうな怪我をしつつ、必要に駆られて回復魔法を会得したこと。

彼女の快適な生活のために料理を叩き込まれたこと。
「いい?もしもお金が無くなったらお弁当か何かを作って売ると良いわ。くっくっくっ、原価は安く、売価は高く。……儲かるのよ?」

「ほほほほ、女は信じると怖い目に遭っちゃうわよー☆」
という彼女の教えを身を以て体験して、修行してきた。
ミケが未だに女性に……問答無用で押しの強い女性(具体的に名前は挙げないが)に対して拒否反応があるのは、ひとえに彼女の教えという名のトラウマがあるからだろう。

「ねぇ、ミケ。知ってる?」
「……先生がそんな風に言うときは、大概嘘です」
「あんたも、そろそろ騙されなくなってきたわね……つまんない。あ、そろそろ旅に出ても良いんじゃないかしら?うんうん、後は自分で経験を積むと良いわ!」
「…………玩具にならなくなって、飽きたんですか、あなたは」
げすっ。
「自分より強い者には媚びておけと、あんなに教えてやったのに……。あんたはいつも一言多いわねぇ」
「いたたたっ、ちょ、ヒールで蹴るのは痛いですって!」
「それでも意見が言いたいのなら、死ぬ覚悟で言えって、言ったでしょう?学習しないわね!」
げしげしげしっ。
「はい、分かりました、分かってます、先生、ごめんなさいっ」
「そーゆーわけで、いってらっしゃいな」
「はい……」
「何よ?…まあいいわ、はいこれ」
「……っ、これ、サバイ……冒険をしたときの…」
「それあげるから。しっかりがんばってらっしゃいな」
「………はい!ありがとうございました、先生っ!」

次々と…走馬灯のように脳裏に浮かぶ思い出に、自分の命はあと僅かなのかなぁ、あははは、とトリップしてみるミケ。
「み、ミケ?!大丈夫か?」
慌ててクルムが揺り起こすと、ミケは覚醒した様子で頭を振った。
「あ、はい……大丈夫、のようです………ええと、修行の思い出でしたね」
言ってから、げっそりとした表情で視線を逸らし、ぽつりと呟く。
「……もう一回修行しろと言われたら、僕は魔導師になることを諦める……」
「どんだけー?!」
驚くクルムに、ミケは苦笑した。
「いえ……多分、先生なりに…そう、先生なりに…面倒を見てくれて、結構面倒見はいいほうで。無理難題を吹っかけるけど、最後までちゃんと見ててくれてたことは知ってます。絶対服従を体に教え込まれたのもそうなんですけど…でも、先生になら、きちんと従えると。尊敬すべき人だと思っています」
「ミケさん…」
エリウスが微妙な表情でミケを見る。
「ここで体に教え込まれたのあたりにつっこんじゃいけないかしら…」
「やめといたほうがいいんじゃない?」
こそこそ囁きあうレティシアとレナス。
はぁ、とミケがため息をついた。
「ここのところ、音信普通で。時々思い出したりはするんですけど、手紙とか、なかなか書けなくて。最近は出してません。生活だけで忙しいっていうのもあるんですけど……
半ば押しかけ弟子みたいな形で、無理矢理弟子入りして、教えてもらって…さすがに音信不通は不味いかなーと思うんですが…なかなか、きっかけがなくて。そんな僕の気持ちが、幻術になって出てきちゃったのかもしれませんね」
「そっかー…今いるこのお師匠さんは、幻術だけど…これが終わったら、本物のお師匠さんに手紙書いてみるといいんじゃない?」
リィナが言い、そちらに向かって笑顔で頷く。
「そう……ですね。ですがまあ、まずは。この幻術の先生を、どうにかしなくちゃいけません」
もう一度、はぁ、と深いため息をつくと、立ち上がって。
「ははは……覚悟を決めて、怒られてきます……。だ、大丈夫、お仕置きって言ってたし……肋骨何本かと腕か足1本くらいで、勘弁してもらえると思うんです……。殺すっていわれたら、多分本当に殺されると思いますけども」
覚悟を決めた表情で、ミケはミルフィールの元に歩み寄った。
「あの、っ、先生?す、すみませんでした。お叱りは受けますからっ!」
その様子に、にこりと天使のような微笑を浮かべるミルフィール。
ぶおっ。
無言で、彼女の手の平の上に炎が巻き起こる。
素人目で見ても、強力な炎の魔法とわかる…大きくはないが、膨大な魔力の込められた炎。
「覚悟は、良いわね?」
微笑を浮かべたまま問うミルフィールに、ミケはぎゅっと目を閉じた。
「……はい、やっちゃってください」
(急いでますんで、とか言ったら殺されるかなー…)
その言葉は胸にしまったまま。
ミケは体をすくませて、自分の身を炎が包み込むのを待った。
が。

てち。

「………っ……え……?」
額に僅かに走った痛みに、思わず片目を開ける。
自分の額に向かって伸ばされた指。どうやら額を軽く指で弾いたようだった。
ミルフィールは軽く鼻を鳴らして、それから小さな背を向けて椅子に座りなおした。
「いい加減、手紙くらい書きなさいよ?きっかけがないとか、何もできるようになってないとか、うじうじするんじゃないわ!」
「………はい」
ミケは苦笑と嬉しさが入り混じった複雑な表情で、それでも素直に頷いた。
仲間の表情も和らぐ。
少し涙ぐんでいるレティシア。
ハリセンを構えるレナス。
「じゃあね、ミケ。がんばりなさい」
「はい。先生も……お元気で」
ミケがそう言い終えると……すぅ、とミルフィールの…そして小屋の景色が薄くなっていく。
あっという間に、あたりの景色はどこかの洞窟の中のようになっていた。
「……どうやら、この扉が正解だったようだな」
「案外簡単に抜けられたねー!よかったよかった、ね、ミケちゃん!」
リィナが能天気にミケの肩をぽんと叩く。
と。
がくっ。
「きゃあっ!み、ミケ?!」
急にくずおれて腰を抜かしたミケに、慌ててレティシアが駆け寄る。
ミケは呆然とした表情で、呟いた。
「……い、今頃になって震えが……。まずい、本当にまずいですよね……!今回の依頼料で買えるだけいい酒なり薬なり……アルディアさん!薬草ください、珍しいの!毒でも何でも良いです、一番希少価値のあるの売ってください!先生に贈ります!絶対、本物だとあんなに優しくない!こまめに手紙だそう……!」
「あ、ああ…構わないが…」
面食らった様子で、アルディア。

なんにしろ、冒険者たちは『怖いものドア』をくぐりぬけ、さらに先へと進むことになったのだった。

銀色のコルダ~あの人に子守唄を~

「やだっ!遅刻しちゃう!何で目覚まし止まってるの?!」
明らかに人の手で止められた形跡のある目覚まし時計を持って、リビングに飛び込んでくるレティシア。
リビングでコーヒーを飲んでいたエリオットが、呆れの視線を彼女に向ける。
「ようやくお目覚めかい、レティ。あれだけ目覚ましが鳴ってるのに、いつ起きるのかと思ったよ」
「エール兄ちゃんっ!起こしてくれればよかったじゃないのよー!!」
「何度も起こしに行ったよ。でも、『わかった~、起きる~』って言うから…」
「ああもうっ!議論してる暇はないのよ!パンちょうだいパン!」
「…食べながら行く気か?」
「当然じゃない!遅刻しちゃうものっ!…って、その前に新聞の占いコーナー見てかなくちゃっ!」
レティシアはパンの手前にある新聞を広げると、いつも見ている占いコーナーに目を通した。
「ムーンリリィの今日の占い…よしっ!運勢最高、ラブ運絶好調!
それじゃ、行ってきまーす!」
言うが早いか、レティシアはそばのパンをひったくって咥え、慌しくリビングをあとにする。
「……遅刻って…今日はずいぶん早いんだな、あいつの学校…」
残されたエリオットが、コーヒーをすすってひとりごちた。

「ああんっ、急がないと間に合わない~!」
パンを咥えながら、ばたばたと路地を走っていくレティシア。
「こんな切羽詰った状態で一日がスタートして、これで運勢最高なわけ?!こんなんで出会いなんてあるの?!」
新聞の占いコーナーに悪態をつきながら。
「ああ…ステキな王子様が現れないかなぁ。今よ、今こそチャンスなのよ!パンを咥えて女の子が走ってるのよ、ここでぶつからなきゃどこで出会いがあるっていうのよ!」
もうわけがわからない。

が、そうそう何度も美味しい事があろうはずもなかった。

「ふ……ふふふふ…世の中そう上手くはいかないってことね。
パンを咥えたまま出会い頭でぶつかって素敵な出会い☆とか、そんなものは夢物語だわ…ふっ、し、知ってたけどねっ」
「……おーい………」
「だいたい、パン咥えて遅刻チコクぅ☆とか、どこの王道少女マンガよ…もう古いって」
「…おーい!」
「かといって、いきなりホンコンマフィアに連れ去られるとかヴィジュアル系ロックバンドに拉致監禁されるとか、そういうのもねぇ…」
「ちょっと!わざとやってるでしょ!」
「うわあっ!」
突如目の前に現れた物体に、レティシアは驚いて声を上げた。
「な、なに?!なんなのあなた?!え?は?っていうか、ちっさっ!」
「ちっさい言うな」
目の前のそれ…手の平二つ分ほどの大きさの、小さい人間…に、きらきらと輝く羽根のついた生き物は、憮然として腕組みをした。
褐色肌にオレンジ色の瞳、前髪が赤いメッシュになっている白茶けた金髪を後ろでひとつにくくり、ひらひらとしたファンタジックな衣装に身を包んで…そして、レティシアの目の前でふわふわと浮いている。
「よ……妖精……なの…?」
呆然とレティシアが言うと、妖精はにっこりと微笑んだ。
「やっぱレティシアちゃんにはボクが見えるんだね~。初めまして。ボクはロッテ。この学院を守護する音楽の妖精だよ!」
「ねえ、この羽本物?」
「いたいいたいいたい!なにすんのさもー!ちゅーか、妖精だよ?!いきなし目の前に現れたらもっとリアクション取るとかそーゆーのがあるじゃんかさ!」
「あ、ああ…えっと…すごーい、ほんもののようせいだー」
「………ま、まあいいよ。でぇ、ボクの姿が見えるってことは、キミにはコンクールの出場資格があるってコトさ!」
「…コンクール?」
眉を顰めて首を傾げるレティシア。
ロッテは嬉しそうに続けた。
「んで、キミの楽器は何?ピアノ?ヴァイオリン?」
「ちょ、ちょっと待ってよ?え、何の話なの?ピアノもバイオリンも、生まれてこの方一度も触ったことなんかないわ?」
「えー?ってことはキミ、音楽の経験ないの?」
「当たり前よ!私普通科だもの、音楽なんて学校の授業でやる程度よ?」
「えー…そんじゃあなんでボクが見えるのかなぁ……」
ロッテは難しい顔をして考え込んでしまった。そして、やおらポン、と手を打つ。
「そっか!やったことないけど、キミには光り輝く音楽の素質があるってコトだね!
んじゃ、これをあげる!」
言うが早いか、ロッテは持っていたステッキを振り回し、銀色の光があたりに降りそそぐ。
その光が収束し、ひとつの楽器の姿をとった。
「これは……ヴァイオリン?」
その楽器を手にとって、呆然と呟くレティシアに、ロッテは笑顔で頷いた。
「そ!このヴァイオリンで、キミはコンクールに参加するんだよ!」
「こ、コンクール?!って、あの、音楽科のエリートが集まって開催される、この学校一の音楽家を競うコンクール?!」
「ちょっと説明くさいけど、そーそー。もう他の参加者も決まってて、あとはキミが…」
「む、無理よ、無理無理無理!私、今初めてヴァイオリンに触ったのよ?持ち方だって知らないのよ?!コンクールになんか、出られるわけないじゃない!」
「だーいじょーぶ!」
首が千切れんばかりにぶんぶんと振るレティシアに、ロッテはウィンクを返した。
「そのヴァイオリンは、魔法のヴァイオリン。弾いたコトないヒトでも、簡単に綺麗な音が出せちゃうんだよ。そのヴァイオリンで、コンクールに参加しなよ。ね!」
「そ、そうなの?ホントに?うーん………じゃあ、やってみよう…かなぁ……」
「よーしハイ決定~!ホンモノのシーンがどんなだったか忘れたけど、これでボクの出番終わりだよね!」
「ほ、本物もう一回やれば…?」
「ダメだよーそんなことしたらこのリアクション上がらなくなっちゃうじゃん」
「しっ!そんなこと言ったらどれだけ押せ押せでやってるのかばれちゃうじゃない!」
「2はとりあえず全員のエンディング見たんだけどねぇ~」
「さらにそういうこと言わないっっ!PLに殺されるわよ?!」
「きゃははは!死ぬのボクじゃないもん!」

などとロッテとレティシアが漫才を繰り広げているのを、垣根の向こうで見守る面々がいた。
「おい……何なんだ一体、これは」
レティシアと似たようなデザインのこげ茶の制服を身に纏った、千秋。
「レティのもうそ……幻術世界再来、ってとこじゃない?学校がどーたらとか言ってたし」
レティシアとは異なる白い制服(何故か男性用)を身につけ、トランペットを持っているレナス。
「じゃあ、リィナたちもその学校のメンバーになっちゃったってこと?」
レナスと同じ白い制服(女性用)を身につけ、クラリネットを持っているリィナ。
「そうみたいだね。でも……レティシアはやっぱり、すっかりここの住人みたいだ」
リィナと似たデザインの制服を着ているクルム。大きなチェロを背負っている。
「前回の幻術同様……元の世界での記憶を失い、この世界の記憶を持っている、ということだな」
なにやら白衣を着ているアルディア。
「この世界は……どうやら、普通の過程とは別に、音楽家を養成する専門のコースがある学校のようですね」
クルムと同じ白い制服を着て、ヴァイオリンを持っているエリウスがそれに続く。
「そしてレティシアさんは音楽のコースではなく、普通の過程で通う学生で、音楽の経験など一度もない素人である…しかし、妖精に魔法のヴァイオリンを与えられ、コンクールに参加することになってしまった……と」
「なるほどねー。じゃあ、そのコンクールでレティシアちゃんが優勝とかしないと、先には進めないってコトかな?」
リィナが言うと、エリウスは真面目な表情で頷いた。
「ええ。リィナさんやレナスさんに記憶があるのは、これがレティシアさんのために用意された世界であるから、ということなのでしょう」
額に手をやって、何かを思い出すようにして言葉を続ける。
「僕達も……その、コンクールの参加者であるようです。つまりは、レティシアさんと競う立場の存在だと」
「そうなのか……でも、競う立場でも、仲良くなることは出来るよな」
クルムが柔らかく微笑む。
「レティシアがこの困難を乗り越えられるように、オレも応援してあげたい」
「何だか知らんが、ややこしいことになりそうだな…」
ため息をつく千秋。と、その隣でレナスがきょろきょろと辺りを見回した。
「…あれ?そういえば一人足りなくない?」
「……其の様だな。私たちとは別枠、ということか…?」
アルディアも同様にきょろきょろと辺りを見回す。
「あー……まあ、レティシアちゃんの世界だからねぇ……」
リィナが言い、皆一様に納得した様子で校舎の方を見た。

「さーて、と♪やるからにはがんばって練習するぞ~♪」
なんだかんだ言って上機嫌のレティシア。
「どこで練習しようかなぁ~っと。……あれ?」
ふと足を止め、正門前の妖精像のほうに目をやる。
「なんだろ、あの人だかり……何か食べ物でも配ってるのかな…?」
レティシアは言って、妖精像の前に出来ている人だかりの方へと足を進める。
「わぁ、女の子ばっかだ…やきいもとかたい焼きとかかな?私も買おっと♪すいません、ちょっと通して…」
言って、人だかりに割って入ろうとすると、中の一人が激昂した様子で彼女を突き飛ばした。
「ちょっと、何すんのよ!ミケ様に近づかないで!」
「きゃあっ!」
ざっ。
あっという間に地面に転がるレティシア。
「どうしたんですか?」
と、人だかりの中心から落ち着いた声が響く。
「誰かの悲鳴が聞こえましたが……」
声と共に、人だかりを分けて誰かがレティシアの元に歩いてくる。
「あいたたた………」
「大丈夫ですか?」
上からかけられた声にそちらを向く。
レティシアの緑の瞳が、大きく見開かれた。
身につけている白い制服からして、音楽科の生徒なのだろう。長いブラウンの髪。優しげな青い瞳。少女のように整ったその容貌。
(う………ううううう運命の出会いキターーーー!!)
レティシアは心の中で絶叫した。
彼はにこりと微笑むと、レティシアに手を差し出した。
「気をつけてくださいね。女の子が、怪我でもしたら大変ですから」
「あ………ありがとう……」
呆然とその手をとって立ち上がるレティシア。
と、彼はレティシアの持っていたヴァイオリンケースに目を止めた。
「ヴァイオリンケース……普通科の制服なのに……
もしかして、あなたが普通科からコンクールに参加するという……?」
「あっ、は、はい、普通科2年のレティシア・ルードです!よろしく!」
レティシアがぺこりとお辞儀をすると、彼はふわりと微笑んだ。
「そうですか。僕は音楽科3年のミーケン・デ=ピース。フルートを専攻しています。ミケと呼んで下さいね」
「ミケ……先輩……」
うっとりと名を呼ぶレティシア。
「バイオリンを弾く指を…痛めてしまってはいませんか…?」
ミケは心配そうに、繋いだままのレティシアの手を労わるようにして撫でた。
と。
「て……ててててててて手をおぉぉぉっ?!
ああん、私、もうダメ~」
ふらり。
「れ、レティシアさん?!」
いきなり卒倒するレティシアを、ミケは慌てて抱きとめた。

「あ……あれ……ここは……」
目を覚ますと、最初に白い天井が見えた。
「保健室ですよ、レティシアさん」
横から優しい声がして、そちらを見る。
側の椅子に座っていたのは、先ほどのミケという先輩だった。
「あなたが急に倒れてしまったので、ここまで運んだのですよ。
しばらく安静にしていれば大丈夫だそうです。保健の先生は用事があるとかで、僕が代わりに付き添っていたんですよ」
「あ……ありがとう、ごめんなさい…」
申し訳なさそうに眉を寄せるレティシアに、無言で笑みを返すミケ。
「その…ヴァイオリン。まだ新しいようですが…最近始められたんですか?
コンクールに出場できるほどの腕の持ち主であれば、最初から音楽家に入学されれば…」
「あー、うん、最近っていうか…今朝急に?」
「……今朝?」
眉を寄せるミケ。
「うん、なんか、ロッテっていう音楽の妖精が急に現れて、私には音楽の素質がある、弾いた事がない人でもすらすらと弾けるようになる魔法のヴァイオリンをあげるから、コンクールに出ろって言うの。
気が進まなかったんだけど、試しに弾いてみたら本当に綺麗な音が出るじゃない?だから、がんばってみようかなって……」
「へぇ………魔法のヴァイオリン、ねぇ……」
ざわ。
あたりの温度が急に下がったような悪寒を覚えて、レティシアはミケの方を見た。
すると、ミケの微笑みが…先ほどの優しい、慈愛に満ちたものではなく……どこまでも冷たい、悪魔のような微笑みに変貌している。
「気に入らない、ですね」
「…ミケ…先輩……?」
そのあまりの変貌振りに少したじろいだ様子で、レティシアが小さく名を呼ぶ。
ミケは面倒そうに髪をかきあげると、冷たい声音で告げた。
「僕たち音楽科は、小さな頃から音楽の勉強を積み重ねてきたんですよ。それこそ、あなたのような能天気な一般人が外を無邪気に遊びまわっている時間をレッスンにあて、遊ぶことも許されずに……そうして、僕たちはこの音を手に入れてきたんです」
視線を鋭いものにして。
「それを、魔法のヴァイオリンですって……?そんな、一朝一夕で手に入れた音でコンクールに出場しても、恥をかくだけですよ」
「……ミケ、せんぱ……」
おびえるレティシアの言葉を遮って、ミケは、つ、とレティシアのあごに手をやった。
「……っ……」
「レティシアさん……いや、ルード」
冷たく、名前を呼び捨てて。
「……あなた、辞退なさい。このコンクールを」
「……え……?」
「あなたのような方に出られては、迷惑です。他の参加者の足も引っ張るでしょう。
なにより、この僕と比べられて…恥をかくのは、あなたですよ?」
「っ………」
返答に詰まるレティシア。
ミケはふっ、と微笑みを深くした。
「…忠告は、しましたから。アルディア先生に、コンクールを辞退するように言いなさい。いいですね?」
レティシアの沈黙をを肯定と取ったのか。
ミケは立ち上がると、元の優しい微笑みを浮かべた。
「それじゃあ、僕は行きますね。あとは、一人で帰れますよね?レティシアさん」
いってから、思い出したようにもう一度微笑む。
「…言っておきますが、学内でも信頼の高いこの僕がこんな性格だなどと…言いふらしてもあなたが嘘つき扱いされるだけですからね?」
言い置いて、踵を返して。
「では、御機嫌よう」
保健室を去っていくミケの背中を、レティシアはいつまでも見つめていた。

そして、保健室の窓の外で、デバガメる面々が。
「……ミケって、ああいうキャラだったか……?」
「何気に似合ってるよね」
「でも、レティシア…ミケがあんなになっちゃったら、きっとミケのこと……」
「うむ、そうだな……あそこまで裏表の激しい性格ではな……」
うーん、と唸る面々。
と。

「……はぁ~~ん、ミケ先輩素敵いぃぃ~」

「え、そうくるの?!」
「どんだけー?!」
窓の外で、レティシアの反応にツッコみまくる一同。
レティシアは頭をぶんぶん振りながら、続けた。
「表では人当たりの良い優等生…でもあんなにダークな一面もあるなんて…!
し・か・もっ!そのダークな一面は、私だけに見せる特別な顔……ああんっ!私このまま死んでもいいっ!!」
保健室で一人叫びまくるレティシアを、呆然とした表情で見守る。
「……そう……なんだ……」
「はー、恋するオトメってすごいねぇ~」
「……私には理解不能の様だ……」
次々に言う一同の言葉はもちろん聞こえず、レティシアはガッツポーズを決めた。
「よーし!やる気出てきたー、頑張るよー!!
辞退だなんて、とんでもないっ!コンクールに出られなくなったら、ミケ先輩との接点もなくなっちゃうしっ!
放課後の練習室で、2人だけのレッスン……ふと止まる音……見つめあう2人……
そして二人は恋に落ちるのよー!!」
レティシアの勝利宣言が、保健室にこだまする。
その窓の外では、仲間たちが一様に、疲れたようなため息をつくのだった。

そして、レティシアの宣言どおり。
彼女は毎日練習に精を出し、魔法のヴァイオリンのおかげもあろうが、ぐんぐんと良い音を出すようになっていった。
もちろん、同様にクルムや千秋たちもそれぞれの楽器の練習に精を出し(千秋の楽器はピアノだった)、互いにコンクールで演奏する曲目を仕上げていく。
その中で、レティシアと顔を合わせ、話したり一緒に練習をしたりという機会もあった。
だがしかし、レティシアの目標はあくまでミケ一人のようだった。放課後になればあちこち走り回ってミケを探し、演奏を聞かせたり合奏をしたりして徐々に仲良くなっていった。
もっとも、ミケの態度は相変わらずの…レティシアにだけ露悪的な面を見せるという二面性を持ったままだったが。
そして、その日も。
レティシアはミケを探して走り回り、校舎の屋上へとたどり着いた。
「あれー、ここにもいないかぁ……うーん、どこにいるんだろう……」
「どなたか、お探しですか?」
と、不意に後ろから声をかけられて、レティシアはびくりとして振り返った。
そこにいたのは、まさに探し人。
彼はにこりと笑った。
「…と言っても、ここには僕一人しかいませんけど」
そして、いつもの…あの悪魔のような微笑みを浮かべる。
「何をしているんです。こっちへいらっしゃい?…レティシア」
「れ」
いきなり呼ばれた名前に、真っ赤になって硬直するレティシア。
(い、今までみんなの前では『レティシアさん』で二人っきりの時は『ルード』だったのにー!!)
突然の呼び捨てに固まるレティシアに、ミケは露悪的に微笑んだ。
「…ご不満ですか?」
ミケがそう問うた瞬間。
レティシアの頭の上に、謎の文が二列、現れた。

『それで!』
『レティの方がいいなぁ』

どうやら選択肢のようである。
レティシアは迷わず、下の選択肢に飛びついた。
「レティの方がいいなぁ~」
言うと、ミケは笑みを深くして、レティシアに歩み寄ってきた。
「へぇ、ご不満なんだ………いい度胸ですね」
「うっ」
威圧感のある声音に、レティシアのみが思わず竦む。
と、ミケはレティシアのすぐ側で足を止め、耳元で囁いた。
「覚悟は出来てるんでしょうね?……僕の可愛いレティ」
なにやらパワーアップしている。
レティシアの顔が絵の具をぶちまけたように真っ赤になった。
「か……かかかかかかか覚悟っっ!!覚悟って!!覚悟って!!!
わかったわ!私、ミケのためなら……脱ぐわ!」
がば。
いきなりジャケットを脱ぎ始めるレティシアに、ミケはくすくすと笑いかけた。
「何をしているんですか、はしたないですね。そうではありませんよ」
「えー、なんだぁ……」
不満げに上着を着なおすレティシア。
ミケはふっと表情を引き締めると、言った。
「レティ。あなた…コンクールで演奏する曲は決まっていますか?」
「へっ?あ、ああ……ええと、『ラ・カンパネッラ』か『夢のあとに』か……」
「レティ」
レティシアが迷っている様子を見せると、それをさえぎるようにミケが名前を呼んだ。
「あなたは本当に腕を上げてきましたね…その魔法のヴァイオリンのおかげでね。
他のコンクール参加者とも友情を育み、外で練習するあなたの音を聞いて学内での評価も高い。
生意気なことにね」
ミケは屋上から校庭を見下ろして、歌うように言った。
「…けれど。魔法のヴァイオリンなどというまがい物で、僕らの血のにじむような努力のあっさり上を行かれては、僕らとしては立つ瀬がないわけですよ。
…あなたに、思い知らせてあげなくてはいけませんね。
あなたと僕と、どちらが上であるのか」
ごくり。
レティシアは真剣な表情で、ミケの話を聞いている。
「………『子守唄』」
「えっ」
「僕の好きな、『子守唄』を、あなたもコンクールで演奏なさい。僕も同じ曲を演奏します。
同じ曲であれば……どちらが上か、嫌が応にも差は出るでしょう」
「同じ曲……で……」
呆然と呟くレティシアに、ミケはくっと喉を鳴らした。
「どうしました。怖気づきましたか」
ミケの言葉に、きっ、と視線を鋭くするレティシア。
「いいわ、受けて立つわ!!
恋する乙女は後ろを見ないものなのよっ!!
頑張って練習するから、見ててねミケ先輩っ!!」
ミケはにこりと笑った。
「いいでしょう。楽しみにしていますよ、レティ」

そして、コンクール当日。
あれから猛練習を積んで、どうにかよどみなく曲を弾けるようになったレティシアだったが、さすがに大舞台を前にして緊張を隠せないようだった。
「う…ドキドキしてきたぁ…。
ミケと同じ曲で対決、なんて張り切ってたけど…、本当に私大丈夫なのかなぁ…」
「大丈夫か、レティシア」
後ろから声をかけたクルムに、笑顔を返す。
「あっ、うん。大丈夫よ、ありがとう。少し緊張してるだけ」
「こんな大舞台では緊張もするだろう。だが、もう少し肩の力を抜け」
同様に、千秋も声をかけてくる。
「そうだよレティ!音楽は楽しくやらなくちゃねー!」
「そうよね、レナス先輩!私、がんばるわ!」
「レティシア先輩の演奏、上手く行くといいね!」
「うん、ありがとう、リィナ」
次々に仲間たちの激励を受け、レティシアの肩の力も徐々に抜けてきた。
と。
がちゃ。
突然控え室のドアを開け、アルディアが血相を変えた無表情で中へ入ってくる。
「レティシア、大変だ。兄君が……ルティアが倒れた」
「ええっ?!ルティア兄ちゃんが?!」
驚いて立ち上がるレティシア。
アルディアは真剣な表情で、レティシアに告げた。
「ああ……突然倒れて病院に運ばれたそうだ。昏睡状態が続いていて……いつ、どうなるのかもわからない状況らしい」
「そ…そんな…ウソでしょ…?
朝は笑顔で見送ってくれたのよ?
『頑張って、レティのしたいことをしておいで。精一杯頑張ってくるんだよ』って言ってくれたのに!!!」
青ざめた表情で、その場にくずおれるレティシア。
頬からは、大粒の涙が零れ落ちる。
仲間が心配そうに彼女に駆け寄る。
「大丈夫か?レティシア……コンクールも大事だけど、お兄さんの元に行ってあげた方がいいよ」
「そうだよ、レティシア先輩!お兄ちゃんのところ、行ってあげて!」
仲間の言葉に、迷ったように視線を泳がせるレティシア。
その視線が、ミケのところでふと止まった。
「ミケ先輩……」
ミケは真剣な表情で…しかし、ゆっくりと頷いた。
「……その通りです、レティシアさん。今は、お兄さんのところに行っておあげなさい」
「ルティア兄ちゃん………」
レティシアは、なおもぽろぽろと涙を流しながら、俯いた。

レティシアの兄・ルティアは、もともと体の強いほうではなかった。
病弱な分、元気なレティシアに、自分の希望を託していたようだった。いつも見守ってくれ、レティシアを励まし、勇気付けてくれた。
「好きなことを、思いっきりしておいで。」と優しく見送ってくれた穏やかな瞳。
自分が出来ないことを、レティシアが伸び伸びと楽しんでいる姿を見て、自分のことのように喜んでくれた優しい笑顔。

(ここでコンクールをやめて兄ちゃんの元へ行ったら…兄ちゃんは喜んでくれるの…?)

レティシアの瞳に、光が戻る。
く、と顔を上げ、涙を拭くと、レティシアはきっぱりと言った。
「……いい…。戻らない。
私…このままセレクションに出るわ」
「レティ?!」
「レティシア?!」
驚く仲間たちのほうに、真剣な瞳を向ける。
「ルティア兄ちゃんは、いつだって私のする事を応援してくれてた。
私がすることを、自分のことのように喜んでくれた。
だから、今私が戻っても、きっとルティア兄ちゃんは喜ばない」
そしてそのまま、立ち上がってバイオリンを手に取った。
「そう…だから私は戻らないわ。このまま…出ます!!」

レティシアは、万感の思いを込めてヴァイオリンを弾いた。
奇しくも、ルティアが幼い頃に歌ってくれた旋律。
兄に守られているかのような気持ちで、自然と涙が零れ…。
涙に滲む視線の先にミケを見つけ、小さく頷いて演奏を続ける…。
まるでルティアに、ミケに見守られているかのような、そんな思いは
優しさに満ち溢れた音となって溢れ出てくる…。

気付いた時には、割れんばかりの拍手の渦の中に、レティシアはいた。
彼女の思いを込めた演奏を聞いた聴衆の中にも、涙ぐんでいる者がいる。
自分の中の迷いを払拭し……今、レティシアは一歩、成長したのだった。

「ありがとう……ルティア兄ちゃん……ミケ先輩……みんな…本当にありがとう……!」

ふっ。

「あ、れ………」
唐突に戻った景色に、レティシアは涙を流したままきょとんとした。
「やれやれ……やっと終わったか」
肩を竦めてため息をつく千秋。
「よかったよ、レティシア。お疲れ様」
先ほどの制服もチェロも消え…元の冒険者姿のクルムが微笑む。
「えっ……え、ここ……あれっ?」
きょろきょろと辺りを見回すレティシア。
「レティの幻術の中みたいだったよ。やー、楽しかった!」
スカッとした様子でレナスが言い、レティシアはようやく事態を飲み込んだ。
「なーんだ、幻術だったのかぁ……うん、でも、良い夢見た感じ!」
最後の涙をぬぐって、レティシアは元気にそう言った。
「さーて、んじゃ奥に行きますか!…って、あれ、ミケは……?」
「あそこだ」
アルディアの指差す先を見ると。

壁際でうずくまって、自分の吐いたとんでもないセリフの数々に苦悩するミケがそこにいた……。

Again -Returns-

いつの間にか、辺りには雪の降る静かな町並みの景色が広がっていた。
「しかし…相変わらず見事なものだな……」
先ほどからのドアも、部屋も、吹雪も、学校も、そしてこの雪景色も、全てがジョン老人の作り上げた幻術なのだということが、未だに信じられない。
それほどに、町並みの石畳の感触も、吹いては通り過ぎていく冷たい風も、舞い降りては肌に触れて淡く溶けていく雪も、恐ろしいほどリアルに感じられた。
「今度は…一体何なんでしょうか……」
少しの不安に駆られながら、エリウスが歩いていくと…やがて、町並みの奥に小さな家を見つけた。
扉の前に立つエリウスとクルム。
「ここ…に、入れってこと、かな……?」
「さあ……」
入るのをためらっている2人と、その後ろの仲間たちのさらに後ろから……小さな足音が近づいてくる。
「おかえりなさい、エリー、クルム」
かけられた涼やかな声に、全員が驚いて振り返った。
そこにいたのは。
「……っ、リー……?!」
思わず名前を呼ぶエリウス。
年のころはエリウスと同じくらい、真っ白な肌にサラサラと流れる銀髪、優しい光を宿した大きな紫水晶の瞳。
紛れもなく、先ほどさらわれた…ミカエリス・リーファ・トキスであった。
しかし、目の前の彼女はそんなことなど微塵も見せていない。野菜の詰まった紙袋を抱え、いかにも買い物帰り、といった風情で。
おそらくはこれも……ジョン老人の作り出した幻なのだろう。
リーはにこりと笑うと、仲間たちのほうに目をやった。
「その方達は?」
「……っ、その……」
「あ、ああ、昔の仲間だよ。偶然旅の途中の彼らに再会してね」
言いよどむエリウスの代わりに、クルムが答える。
「懐かしくて話をしていたら、また雪が降り出して…彼らはまだ宿を決めていないというし、幸い家は広いしね。招待したんだ」
「あら、そうだったの。じゃあ…夕飯の材料、これで足りるかしら?テア」
リーは少し眉を寄せて、自分のさらに後ろにいた少女に声をかける。
リーに隠れるようにして立っていたその少女は、少し体をずらすとリーの横に並んだ。
「少し買い置きがあるし、何とかなると思います」
肩までの琥珀の髪に、優しげな深い青色の瞳。テアと呼ばれたその少女は、そう言って微笑んでから、冒険者たちに向き直った。
「クルムのお友達ですね。はじめまして、ようこそおいでくださいました。
私はシスティア・フォルナートといいます。今夜はどうぞゆっくりなさってください」
「あたしは…リーファ・トキス。リーでいいわ。外は寒かったでしょう。すぐに食事の用意をするから、入ってくつろいでね」
花がほころぶように笑った2人の少女に、冒険者たちは、はぁ、と曖昧な返事を返した。

「……では、これはエリウスとクルムが見た幻術の続き、というわけなのだな?」
リビングに通され、料理をするためにリーとテアはキッチンに引っ込んでしまい…エリウスとクルムは仲間たちに簡単に事情を説明した。
「どうやら…そのようです。リーを助け出して逃げた僕たちは、クルムさんとテアさんと手を取り合い、遠くに逃げて新しい生活を始めた…そういう設定なのでしょう」
「というと、此処でも何か、解決せねばならない事件が起こると…」
言ったアルディアに、重々しく頷くエリウス。
「……おそらくは」
「あのリーちゃんは、本物のリーちゃんなのかなあ?テアちゃんっていうのは、クルムくんの知り合いなんだよね?」
リィナの問いに、クルムがそちらを向いて頷く。
「ああ、そうだ。テアは巻き込まれてないと思うから、幻術なんだと思うんだけど…でも、わからないな」
「リーは意思が強いですから、容易に術にはかからないと思いますが…先生の力を持ってすればたやすいでしょう。ですが、あのリーが本物の彼女かと問われると……」
「本物かどうかを見分けることは……」
問うクルムに、エリウスは無言で首を振った。
「そうか……」
そんなことを言っていると、キッチンからリーとテアが料理を運んできた。
「お待たせしました。粗末なものですが、どうぞお召し上がり下さい」

つつがなく食事も終わり、食後のデザートが運ばれてくる。
程よい厚さに切られた、パウンド型のチョコレートケーキだ。
「おや…此のケーキ、何処かで食べた気がするが…」
食べながら、ふとアルディアが言う。
それには、ミケが微笑んで答えた。
「新年祭の時に、クルムさんが差し入れてくださったケーキですね」
「おお、其れだ。そうか、あのケーキはテアが作ったのだな」
「下宿先の奥さんが持たせてくれたものだったけど……そ、そういえばテアも手伝ってたかもしれないな…」
少し慌てた様子で、クルム。
なんとなく、以前の幻術世界の中でのエリーの言葉が脳裏に浮かぶ。
『あんたの知り合いとして、わざわざ彼女が登場した、と言うことは……』
「はれ?クルムくん、なんで赤くなってんの?」
「な、なんでもないよ」
リィナに言われ、ますます顔を赤くするクルム。
リーはそれを見て、くすっと笑った。
「テアは本当に料理が上手ね。さっき、あたしもキッチンにいたけど…料理を作ったのはほとんどテアだったのよ。早く、あたしもテアみたいに上手に料理が作れるようになりたいわ」
「そんな、お嬢様ならすぐに…」
「テア。お嬢様はやめて、って言ったでしょう?もうあたしは、あの家の人間じゃないんだから」
「…ごめんなさい、リー」
ふふ、と微笑み合うテアとリー。仲の良い姉妹のようだ。
と、不意にテアの表情が曇った。
「…どうしたの、テア」
クルムに促され、テアは一瞬ためらって視線を逸らすが…やがて、意を決して話し出した。
「楽しい席で、こんなこと言うべきじゃないと思うんだけど…
もしかしたら、アルフォンス公爵がリーを追って、この国に来ているのかもしれないの」
「ええっ?」
驚きの声を上げるクルム。
「アルフォンス公爵って……リーちゃんを無理矢理お嫁さんにしようとしたヤツだね!」
リィナが言い、テアが頷く。
「今日買い物に行った時、これが空から降ってきて…」
ひらり。
テアは、懐から一枚の紙を出してテーブルに広げ、そして愁い顔でその名を告げた。
「………ぺヨン・ジョン・ド・アルフォンス公よ」

ぶう。

思わず飲んでいた紅茶を吹きだす冒険者たち。
慌ててその紙に目をやると、白いマントにシルクハット、赤い薔薇を咥えた元気な老人がウインクをしている肖像画が描かれている。
その下には、えらく達筆な文字でこう書かれていた。

『遠方よりこの国に来たる4名の少年少女、金、栗色、琥珀の髪
そして銀の髪、紫の瞳をした我の婚約者の情報を求む』

「こ……こんな……」
手配書をギリギリと握り締めて、エリーが絞り出すように呟く。
「…つーか、なんで手配書にリーちゃんの人相書きじゃなくて自分の絵を描くんだろ」
「ナルシストなのだろう」
的確なツッコミを入れるリィナと千秋の横で、テアは愁い顔のまま手を組んで目を閉じる。
「彼にリーが見つかって、捕まってしまったら、どんな恐ろしいめにあうか」
「アルフォンス公爵というのは…其の様に非道な方なのか?」
身を乗り出してアルディアが問うと、テアは視線を逸らして口ごもった。
「詳しくは私にもわからないの。なんでも公爵は、口では言い尽くせないほどの非道の数々を過去に引き起こしたそうよ。
彼の舘に勤めていた何人ものメイドが、彼から受けた仕打ちにショックのあまり別人のようになってしまったそうで、彼女たちを奉公に出した両親は深く嘆き悲しんだと聞いたわ」
テアの発した言葉に、冒険者たちは顔を見合わせた。
「口では言い尽くせないほどの……」
「奉公に行った娘に、非道………」
しばしの沈黙。
やがて、一同口をそろえて言った。

「へ、変態!!」

「な、何てヤツなのかしら!女の子にそんなことするなんて、サイテー!」
「もしリーちゃんがそんなヤツにさらわれたら、あんなことやこんなことや…あーっ、もう想像するだけで頭がフットーしそうだよーっ!!」
「公爵の地位を利用していたいけな婦女子を毒牙にかけるとは…男の風上にも置けん奴だ!」
突如激昂して口々に叫びだす仲間たちを、目を丸くして見るクルム。
「え、え、な、みんな、どうしたんだ?」
と、言った瞬間。
クルムの脳裏に、さぁっと映像が流れこんできた。

豪華な室内。
切れてしまったランプの油を足そうとする、メイド姿のテア。
そこに、白スーツ姿のアルフォンス公爵が現れる。
「なに、油を足すのに梯子が欲しい?あいにくこの館には梯子はないのだ。
では私が梯子のかわりに肩車をしよう。そうすればランプに手がとどくだろう?
遠慮はいらないよ、さあ…」
公爵は手をわきわきさせながら、テアににじり寄ってくる。

「う、わぁっ」
クルムは小さく声を上げて、頭を振った。
「な、なんだこれ?!何考えてるんだ?オレ」
「……師匠の幻術だろ」
正面で騒いでいる面々には聞こえないように、隣にいたエリウスが小さく囁く。
「あんた、そういうの考えなさそうだしな……だから、無理矢理見せたんだ」
「えっ…じゃ、じゃあみんなも術で、妄想を見せられているのかな…」
「いや、あいつらは素だろ」
そっけなく言うエリウス。
正面では、まだ仲間たちが非道な公爵に怒りを燃やしている。
「うぅわぁあ!なんてヘンタイなんだーーーーー!?」
「ゆゆゆ許せん!か弱い乙女にそのようなこと!」
「………皆さん…何を想像したんですか……?」
エリウスは半眼で、ぼそりと言った。

結局、そんな非道公爵の横暴を許してはならないということで話がまとまり、リーを変態の魔の手から死守するぞ!と、冒険者たちは大いに盛り上がった。
「さあ、じゃあ…夜も遅いですし。寝床の用意をしますので、皆さん少しお待ちくださいね」
言ってテアが立ち上がると、クルムも続いて立ち上がる。
「ああ、オレも手伝うよ、テア」
「世話になるのに手伝わんのはいかんな。俺も行こう」
「リィナもリィナも~」
それにぞろぞろと仲間たちも続き、次々と部屋を後にする。
後には、エリウスとリーだけが残った。
かちゃかちゃと食器を片付けながら、リーはエリウスに…エリーに微笑みかける。
「みんな、良い方たちね」
「あ…ああ、そうだな」
複雑な表情で返事を返すエリー。
「あれだけの人数でぎゅうぎゅうになって寝たら、ちょっと窮屈だろうけど…でも、楽しそうね」
ふふ、と楽しそうにリーは笑った。
「家にいたころは、誰かと一緒の部屋で過ごすとか、友達と一緒に寝るとか…そういうこと自体なかったから。大きな部屋で、一人ぼっちで…」
少し俯いて、思い出を語るリー。
それから、にこりと笑顔をエリーに向ける。
「…だから、今の生活が本当に楽しいの。
あなたはいつも側にいてくれるし…あなたから、色んな言葉を聞けるから」
少し照れたようにはにかんで、エリーの手を取って。
「本当に幸せなの…本当に」
大切そうに自分の胸に引き寄せて、そう言った。
「……っ…」
エリーは苦しげな表情で…それでもリーの肩に手を伸ばし、引き寄せ…

「はっはっはっはっは!やっと見つけたぞ、マイ・スウィート・ハート!」

突如窓の外から聞こえた高笑いに、ぎょっとして体を竦ませる2人。
ばたーん!
派手な音を立てて窓が開き、その向こうにある隣家の屋根の上で、何故かスポットライトを浴びつつ高笑いをしている老人が見える。
白いスーツ、白いマント、白いシルクハットにキザな仮面。
ビラにあった肖像画と寸分違わぬハッスル老人がそこにいた。
「……っ、先生!いい加減にしてください!」
思わず声を荒げるエリー。
老人はんべっ、と舌を出した。
「先生?だ~れのことかのぉ?ワシゃそこの嬢ちゃんの婚約者、ペヨン・ジョン・ド・アルフォンス公じゃよ!お前さんがかっさらった可愛い可愛い婚約者を、返してもらいに来たんじゃ!」
「くっ……!」
ぎり、と歯噛みするエリー。
「どうした、なにがあった?!」
騒ぎを聞きつけ、他の仲間たちもバタバタと部屋に入ってくる。
「ああっ、変態!」
「変態言うな!」
レナスの叫びに一応つっこんでから、ジョン老人はふふんと鼻を鳴らした。
「では、ワシの花嫁を返してもらうぞ」
「……っ、そんなこと、させは…」
ふわ。
ジョン老人の左手が光ったかと思うと、エリーの傍らにいたリーの体が同様に光り始める。
「っ、リー!」
「え、エリーっ!」
リーの手を引き寄せようと手を伸ばしたその瞬間、リーの体はふっとそこから掻き消えた。
同時に、ジョン老人の腕の中に現れるリー。
「ああっ!」
冒険者たちは、慌てて窓から屋根に躍り出た。
「このぉっ、リーちゃんを返せ、変態!」
「そうだ、変態!」
「変態変態、うるさいわい!」
ジョン老人が高々と手を上げると、どこからか雪玉が冒険者たちに向かって放たれる。
べし。べしべしべし。
「うわぁっ!」
「ふはははは!どうじゃ、ワシには近づけまい!
仕上げは……これじゃ!」
す、と差し出した左手の上には、小さな雪だるま。
「はあっ!」
ジョン老人はそれを手刀でかち割ると、中から銀色のペンダントのようなものをひっぱり出した。
「何その意味不明な演出!!」
「冬ソナ見てる人しかわからないじゃない!」
「これ書いてる人も見てませんしね!」
「そもそも、そのエピソード色々違うぞ?!」
「ええい、うるさいぞ外野!」
ジョン老人は一喝して、それからゆっくりとそのペンダントをリーの首にかけた。
「な、何…?やめ………っ……」
その瞬間。
リーの瞳の色が、どんよりとにごった。
そして、かくん、と人形のように頭を垂らす。
「なっ……」
くっくっく、とジョン老人は喉を鳴らした。
「これはかけた相手の意思を奪い、なんでも命令を聞くようにするペンダントじゃ。
この嬢ちゃんは意思が強いでの、お前さんからさらったとしてもワシに反抗してまた出て行ってしまうかもしれん。これでこの嬢ちゃんはワシの思いのまま、というわけじゃ!」
「や、やっぱり変態だ!」
「うるさいわい!」
とりあえず一喝しておいてから、ジョン老人は再びエリーに向かって笑みを投げた。
「ふふん、お前さんにこの嬢ちゃんを取り返すことができるかの?」
エリーは苦い表情でジョン老人を睨みやり…
…そして、やおら袖に手を入れて自分のしていた手袋を抜き去ると、思い切りジョン老人に叩きつけた。

「わかりました………決闘です!アルフォンス公!」

「え、エリー?!」
驚いて彼を見るクルム。
エリーはきっ、とジョン老人を睨みやった。
「僕が勝ったら、そのペンダントを外し、彼女を返してください。いいですね?」
「ほう……面白い。お前さんがどこまでやるか、見せてもらうとしよう!」
ジョン老人は楽しそうに言って、ばっ、とマントを翻した。
「場所は、この先の教会じゃ!一足先に行って待っているぞ!ふはははははは!」
そして、高笑いと共に、ジョン老人の姿は雪景色の向こうへと消えていった……

急いで支度を纏め、外に出て行くエリウスに続いて仲間たちもわらわらと外に出て行く。
「クルム」
その一番最後に続こうとしたクルムを、テアが呼び止めた。
仲間たちは先に出て行ってしまった。パタンと閉じたドアの前に残されたクルムに、歩み寄るテア。
「アルフォンス公は一体何を言っていたの?
…公爵があんな恐ろしい力を持っていただなんて。ああ、リー…」
「公爵は高位の術を使うみたいだ。でも、エリーがリーを取り返すために決闘を申し込んだ。
…大丈夫、必ずエリーと一緒に、リーを取り戻してくるよ」
「クルム……」
テアはうっすらと涙を浮かべながら、それでもクルムに向かって微笑んだ。
「ありがとう……あなたの言葉なら、私、信じられる」
あの時と同じように、クルムの手を取って。
「私………あなたの事が………」
あの時と同じ、何かを訴えかけるような潤んだ瞳で、そう言いかけたとき。

クルムは、唐突に理解した。

優しく彼女の口元に手の平を向けると、微笑む。
「君は、オレの心の中のテアだ」
「え…?」
何を言っているのかわからないといった様子で、目を見開くテア。
そう、理解してしまった。
何故、幻術の世界に彼女が現れたのか。
彼女の一挙手一投足に動揺し、平静でいられなくなってしまうのか。
なぜ……彼女がクルムに、こんなことを言おうとするのか。
(彼女に……こんなことを言って欲しいって、オレが、思ってるから……なんだな)
彼女のことを、とても愛しいと…そう思っているから。
だから、ジョン老人はクルムの心からあえて「彼女」を具現した。
形をとらなかった曖昧な心が、一瞬にして形を取る。
(オレは……テアのことが……)
そう、理解してしまえば。
これが、幻術の彼女だとわかっていれば。
彼の心を乱すものは、もう何もなかった。
彼女は『自分自身』なのだ。
自分が相手ならば、もう動揺はしない。
にこりと彼女に笑いかけ、安心させるように言葉をかける。
「大丈夫だ。エリーと一緒に、公爵の元から必ずリーを助け出すよ」
自分に言い聞かせるようにそう言って、クルムは外へ向かう扉を開けた。

かつん。かつん。
静かで厳かな教会に、エリウスの足音が響く。
仲間たちは入り口で足を止め、静かにそれを見守った。
かつ。
居並ぶ席の中心に来ると、エリウスは辺りを見回しながら、叫ぶ。
「……アルフォンス公!どこです!」
エリウスの良く通る声が、教会の壁に反響して響き渡る。
「約束通り、決闘をするのでしょう?!それとも、怖くなりましたか!」
その言葉の反響が聞こえなくなったころ。
「ふん、お前さんも言うようになったの!」
老人とは思えない清涼の声が響き渡り、エリウスの目の前にジョン老人が現れる。
エリウスは厳しい視線をジョン老人に向けた。
「……勝てば、彼女を返して下さるんですね」
「…勝てれば、な」
にやり、と唇を歪めるジョン老人。
エリウスは、すぅ、と息を吸うと…手の平を前に向け、一気に術を解き放った。
「ウィンドブレード!」
たちまちあたりにかまいたちが巻き起こり、ジョン老人に向かって襲い掛かる。
が、彼はふわりと浮いてそれをこともなげにかわすと、左腕を大きくなぎ払うように振りかざした。
「ウィンドアクス!」
ぶおん!
唸りを上げて、風の刃がエリウスに向かって走る。
エリウスはそれに向かって手の平を向けると、叫んだ。
「スパーク!」
ばちん!
電気のような光があたりを照らし、風の刃は一瞬にして散らされる。
「ふふん、やるのう!だがワシも、まだまだ若いもんには負けんわい!」
「ご自分で年寄りと認めていらっしゃるようですね!」
「やかましいわ!シルブズ・ランサー!」
「無駄です!ウィンドシールド!」
ぶんっ!ばちばち、ぱーん!
天使2人の術による攻防戦が繰り広げられるのを、冒険者たちはただ呆然として見守った。
「これは……俺たちの手助けは要らないというのは、当然だな」
憮然として千秋が言い、リィナも悔しげに拳を握る。
「うーっ、リィナも戦いたいよぉ」
そんな冒険者たちをよそに、二人の戦いはどんどんヒートアップしていった。
エリーの放つ竜巻を相殺して無効化したジョン老人が、空中で体勢を立て直して楽しそうに笑う。
「ほほっ、お前さんも成長したのう、エリウス!
ワシにこんなに遠慮なく術をぶつけてくるとは……そんなに、あの嬢ちゃんが大事か?!」
「…っ、先生こそ……僕一人を相手にすればいいのに、わざわざこんな手の込んだことをしたり、リーを浚っていったり…ずいぶんとなりふり構わなくなりましたね?!」
「ほっほ!人生はエンターテイメントじゃ!楽しいことをしないで生きてる価値などないわい!」
「からかうなら、僕一人で十分でしょう!僕はこうしてここに来ました、いい加減に彼女を放してください!」
「やーだね。ワシ、あの嬢ちゃんを気に入ったんだもーん」
「なっ……」
ジョン老人の放った言葉に、思わず攻撃の手を止めるエリウス。
ジョン老人はふふん、と鼻を鳴らした。
「最初はお前さんをおびき寄せる餌だけのつもりだったがの。
なかなかどうして、あの嬢ちゃんは面白いではないか。何といっても天使と人間のハーフじゃ、これからもこの嬢ちゃんを使ってとことん遊んでやらんとな♪」
ぎり、と歯噛みするエリウス。
ジョン老人はふわりと地面に降り立つと、嘲笑するように肩を竦めてエリーを見た。
「それとも、何か?
ワシを……お前さんに術をいろはから教え込んだこのワシを倒してでも守りたいと思うほど、あの嬢ちゃんはお前さんにとって大切だと……そう言うのか?」
「…っ」
エリウスは一瞬くっと喉を詰まらせたが、すぐに右手を振り払うように動かした。
「…その通りです!」
鋭い瞳でジョン老人を見やり、教会中に響く声で叫ぶ。
「僕が生まれて初めて…何と変えても守り抜きたいと思った女性です!
たとえ先生が相手だとしても、僕は彼女を譲る気はありません!」
その時だった。

がちゃ。

ひどく唐突に、そしてひどく軽く、ドアが開く音がした。
「………あれっ?何してるの、エリー」
教会の一区画に、不自然に開いたドアの向こうから姿を現したのは……きょとんとした表情の、リー。
エリウスと、それから冒険者たちが、呆然とそちらを向いたまま硬直する。
「……ち、タイミングを間違えたかの……」
ジョン老人の舌打ちが聞こえる。
それから、彼女は今気付いたというように、驚いて辺りを見回した。
「え、ええっ?!っていうか、何ここ?!宿に取った部屋がどこに繋がっちゃったの?!」
きょろきょろと辺りをうかがうリーを見やって………

エリウスは、全身の力が抜けるのを感じた。

床にへたり込んで、深く深くため息をつくと……小さな声で、毒づく。

「………んなことだろうと思ったんだ……このくそジジイ……絶対ぶっとばす……!」

最後は仲直りパーティーでね

「そう、じゃあ探していたお師匠様は見つかったのね、よかったじゃない」
リーたちのとった宿の1階にある酒場で。
軽く状況説明を受けたリーは、笑顔でそう言った。
「かっかっか!お前さんたちにも迷惑かけたようで、すまんかったのう!」
誕生日席で、からからと笑うジョン老人。その傍らで、深くため息をつくエリウス。
リーはジョン老人に向かうと、少し眉を寄せた。
「でも……あまり、他の人を困らせるようなことをしないでくださいね」
「わかったわかった、よーく肝に銘じておくでの」
「…本当にわかったのか?」
千秋が半眼で、ジョン老人に言う。
「お前の素性は棚上げしておくとして…とりあえず、とりあえず俺の過去はお前を楽しませるためにあるわけじゃない。
あんな夢を見せられて、一発殴らせないと俺の気が済まないぞ?」
「うおぅん、何をするんじゃー。か弱い年寄りを苛める気か?」
急にしおらしく肩を竦めて見せるジョン老人。
「どこがか弱い年寄りだ!まったく……」
「まあまあ、そう怒りなさんな。ああして幻術として具現できたということは、お前さんの心のどこかで望んでいることだということじゃぞ?」
「やめてくれ、気色悪い」
千秋は憮然として顔を背けた。
「ま、ま、ま。迷惑をかけた詫びじゃ、ここはワシのおごりじゃて、ぱーっとやっとくれ、ぱーっと!」
「わーっははーい、いっただっきまーす!」
テーブルの上に並んだご馳走に、上機嫌で飛びつくレナス。
「いや、でも、楽しかったですよ、実際」
ミケの表情は千秋とは対照的だ。
「イタズラはイタズラなんでしょうけど、なんていうか…あー、やられちゃったよ、みたいな。後で笑い飛ばせるようなものでしたし。
本の中に入り込んで自分が登場人物になってるみたいで、楽しかったです、僕は」
「そーそー!リィナもね、すっごく楽しかったよ!リーちゃんをさらっちゃうのはやりすぎーって思ったけど、ま、実際あれも幻術だったんでしょ?」
リィナが言うと、リーがくすりと笑った。
「そうね、あたしは連れ去られてなんかいないわよ」
「んじゃー、エリウスくんの心臓にちょぴっと悪かったくらいで、実害ないよね!」
「僕にとっては実害だらけですよ……」
はぁ、とため息をつくエリウス。
「ねえねえ、ジョン先生っ!」
ジョン老人の背後から回りこんだレティシアがうきうきとして言う。
「もう一度、ミケとラブラブ空間な幻術見せて~!!現実で叶わないなら、せめて夢の中だけでも幸せでいたいの~」
「れ、レティシアさん?!」
「ほっほっほ、ま、そのうち縁があったらの」
「じゃあっ、私に幻術教えてっ!自分にかけて、自分でラブラブ空間作り出すからー!」
「レティシアさん、だからもう、からかわないでくださいって!」
「ほっほ、若いのはええのう。だが嬢ちゃん、自分で自分に幻術をかけることは出来んぞ」
「えー」
「改めて言うが、幻術はエンターテイメントじゃ。いかに相手に受け入れられる世界をつくるかが勝負。誰かに楽しんでもらってナンボの世界じゃからのう」
「自分にかける事は……出来ないのか?本当に?」
と、横からアルディアが口を挟む。
ジョン老人はそちらを向いた。
「なんじゃ、お前さん幻術に興味があるのか?」
「あ、ああ…その様な物だ。
その…ああいった幻術は、修行さえすれば誰にでも使えるものなのだろうか?使用したのは純粋に魔力だけなのか?幻覚剤などは一切使用してないのか?」
「ふむ」
アルディアの質問に、ジョン老人は真面目な表情で唸った。
「ワシと…エリウスは、幻術を使うのに薬は使用してはおらん。ワシが教える者達にも薬などは使わないよう教えてある。薬はクセになるからの……っと、薬師さんの前で禁句じゃったかな?はは、まぁその辺は綺麗に忘れてくれ」
「その……私は魔道に疎くて、よくは分からないのだが…。
出来れば、簡単に仕組みなどというものを教えて貰いたい」
「仕組みを覚えて、どうする?お前さんが幻術を使う気か?さっきも言ったが、自分に幻術を使うことは出来んのじゃぞ?」
「本当に出来ないのか?仕組みを理解し、其の様に組み直せば、自分にかけることも…」
「アルディアさん、と言ったな」
必死な様子で言い募るアルディアに、ジョン老人は静かに声をかけた。
年季の入った皺を、優しく歪めて……諭すように、アルディアに言う。
「さっきも言ったが、幻術はエンターテイメントじゃ。
決して現実には存在しない幻だからこそ…強い力で人を魅了する。
じゃが、それはな。人を楽しませ…明日を生きるための活力としてもらうためのものじゃよ」
そこで、少しだけ声のトーンを落として。僅かに悲しそうに、続ける。
「明日を生きることからの逃げ場になってしまったら……それは、もうエンターテイメントではない」
「……っ……」
アルディアは言葉を詰まらせた。
「……っ、そうか……手間を、かけたな」
「ほっほ。説教くさくなってしまったの。ま、がんばりなされ。生きていれば、必ずいいこともあるだろうて」
「………」
アルディアは黙ったまま、料理を口の中に放り込んだ。
「そうだ、聞いていいですか」
と、向かいに座っていたクルムが言い、ジョン老人はそちらを向いた。
「なんじゃ、少年」
「ジョンさんの元で幻術の修行をしていた時のエリーはきっと勉強熱心で、良い生徒だったんだろうな。先生から見て、エリーはどんな生徒でしたか」
「あ、それあたしも聞きたいわ」
クルムの言葉に、リーも同調する。
憮然とするエリウスをよそに、ジョン老人は嬉しそうに笑った。
「そうじゃのぉー!うん、品行方正成績優秀、絵に描いたような模範生じゃった。後輩の面倒もよく見、周りの生徒達、特に上級生のお姉さま方の信頼が厚くてのぉ!」
「…へぇ……」
「何ですか?」
半眼になるリーに、笑顔を返すエリウス。
「術の腕も、ワシの研究室の中じゃピカ一じゃった。こいつの父君はそりゃあ位の高い武官での。その父君の剣の腕を受け継がなかった分、術の才能はすさまじかった。未だにエリウスを越える生徒はワシの弟子にはおらん。じゃから、一番弟子、などと他の者達には呼ばれているようじゃったな」
懐かしそうにうんうんと頷きながら、ジョン老人は言葉を続ける。
「事情で学校を休むことになって心配しておったんじゃが……こっちに来ていると知っての。久しぶりにひとつ稽古をつけてやろうと思って、ワシもこっちに来たんじゃよ」
「稽古をつけに来るなら、もっと穏便に来て下さいよ……」
「まーまー!こんな師匠を持ってしまった不運を呪って、諦めるんじゃな!」
かっかっか、と笑うジョン老人に、再び深いため息をつくエリウス。

そんな話に花を咲かせながら、憩いのひとときが過ぎていった。

「かー、さすがにこたえたわい。若いモンの勢いには圧倒されるのぉ!すまんな、少年」
「いえ。オレももうそろそろ寝ようと思ってたところですから」
まだ酒場で盛り上がる一同からそっと辞し、2階の客室にやってきたクルムとジョン老人。
クルムはジョン老人のベッドを整えると、どうぞ、と指し示した。
かたじけないのう、とベッドに腰掛けたジョン老人に、そっと訊ねる。
「…ジョンさんはエリーのこと、いつから気付いていたんですか」
ジョン老人はきょとんと彼の方を見…それから、にこりと微笑んだ。
「エリウスはお前さんには本性を明かしておったようじゃな。
言っておくが、ワシの前ではあやつは優等生の仮面を脱いだことはなかったぞ?」
「えっ……じゃあ」
「ま、年の功というやつじゃの?いつから、と問われれば、最初から、じゃろか」
「最初から?」
ジョン老人は楽しそうにくつくつと笑った。
「おお。あやつが新入生としてワシの前に現れた、その時からじゃ。
いくら天使とはいえ、年齢につりあわぬ形式ばった抜け目のない挨拶をしよった時から、こいつは曲者じゃと思っておったわい」
「ああ…目に浮かぶな」
クルムは言ってくすっと笑う。
ジョン老人はにこりと笑って、それからつ、と視線を上げた。
「幻術なんぞというものを学ぼうとする奴じゃ…多かれ少なかれ、人を騙し、人を欺くことをして生きておる奴らばっかりじゃよ。じゃが、あやつが人を欺くのは……人と真摯に向き会ってるからこそ、なのじゃろうな。まっすぐに見ているからこそ、許せぬ、認められぬという気持ちが現れるのじゃろう。
あやつにこのようなことを言えば反発するじゃろうが……不器用な奴じゃよ、本当に」
「ジョンさん……」
ジョン老人は、再びクルムににこりと微笑みかけた。
「こっちに来て、あやつがどんな生活を送っておるのかと心配じゃったが……ひとまずは、安心じゃの。
あの嬢ちゃんと……それに、少年のように、あやつを理解してやれる人間がおるのじゃからな」
そう言い置くと、どれ、年寄りは早く寝るとするかの、と、ジョン老人はベッドにもぐりこんだ。
クルムはそれを笑顔で見守り、おやすみなさい、と礼をして、その部屋を後にした。

いいから帰ってください

「そんじゃあまあ、色々と世話になったの!」
セント・スター島。
現世界と天界の玄関口であるこの島に、ジョン老人を見送るためにやってきたエリー。
最初に彼に話を持ってきた後輩が、心配そうにジョン老人の後ろから視線を送っている。
エリウスははあ、とため息をついた。
「…まったくですよ。こんなことは、これきりにしてくださいね」
「ほっほ!わからんがの!」
嬉しそうに笑うジョン老人に複雑そうな視線を投げ…そして、苦笑する。
「……まあ、楽しかった、ですよ」
と、ジョン老人はにこりと優しい笑みを浮かべた。
「…エリウス」
突然声音を変え、優しい声で彼に語りかける。
「お前さんは本当によく出来た生徒じゃ。ワシにも、両親にも、学校の他の生徒にも、完璧な優等生を演じ、彼らにお前という幻術を見せ続けてきた。
彼らを楽しませ、幸せな気分にさせる……お前さんの幻術は完璧じゃったよ。
じゃがな、ワシはずっと心配だったんじゃ」
ジョン老人の言葉に、僅かに眉を寄せるエリー。
「お前さんは確かに、周りの人間を楽しませている。
では、誰がお前さんを楽しませるのじゃ?
エンターテナーは常に孤独なものじゃ。相手に入り込みすぎては、技に乱れが生じる。
お前さんの完璧さが、ワシには逆に哀れだったんじゃよ」
「先生……」
ポツリと漏らすエリー。
ジョン老人はほっほ、と笑った。
「じゃが…こちらに来てお前さんを見て、安心した。
お前さんを楽しませてやれる存在がいるようでな」
ウィンクするジョン老人に、苦笑するエリー。
「あの嬢ちゃんを大事にしてやれよ。変な意地なぞはらんでの」
「……努力します」
「結構!」
ジョン老人は、言ってくるりと踵を返した。
「では、ミカエリスに怒られて来るわい。それじゃあの、エリウス。元気でな」
「はい……先生も、お元気で」
エリーの言った言葉を聞き届けてから。
ジョン老人は迎えの生徒と共に、すぅ、と姿を消した。
エリーはその後も、じっとそこを見つめていた。

「行っちゃった?」
後ろから声がして、振り向く。
薄く微笑むリーの姿に、彼も僅かに微笑み返して。
「楽しいおじいさまだったわね」
「楽しいの一言で片付けるのは、本当にどうかと思うんだがな…」
げっそりと呟くエリーに、くすっと鼻を鳴らすリー。
エリーは彼女を見やって…その華奢な肩を引き寄せた。
「…エリー?」
きょとんとして彼を見上げるリー。
……本物の、彼女。

「では、誰がお前さんを楽しませるのじゃ?」
「あの嬢ちゃんを大事にしてやれよ。変な意地なぞはらんでの」

ジョン老人の言葉が蘇る。
エリーは一瞬ためらうように言葉を詰まらせ……しかし、彼女の耳元で、小さく囁いた。

「…………好きだよ」

ゆっくりと顔を離して彼女に目をやれば、大きな紫水晶をこぼれんばかりに見開いて彼を見ていて。
「なっ………なに、いきな、り」
ぐわ。
あっという間にリーの頬が染まる。
つられて彼の顔も熱くなる。
だが、不思議と不快感ではなかった。
彼女の反応があまりにも可愛らしくて。
胸の内に、じわりと何か暖かいものが広がっていく気がする。
「……ぷっ……くくっ」
その何もかもが、なんだか唐突に可笑しくなって……エリーは、肩を揺らして笑いだした。
「っ、もう……!何なの、一体……!」
それを見て、顔を赤くしたまま眉を吊り上げるリー。
「…っはは、いや、何でもない…」
ようやく笑いをおさめると、肩に回していた手を彼女の頭に回し、優しく撫でる。
リーは怒りの表情を苦笑に変えた。
「初めてね…あなたから、そんなこと言われたの」
「そうだったか?」
「とぼけちゃって。……でも、嬉しかった」
にこ。
彼女の顔がほころぶ。

彼の何より愛しい……何より守りたい、笑顔。
幻でない、確かにここに存在する。
「リー…」
少しの距離がもどかしいとでも言うように彼が屈むと、それに呼応するように彼女のかかとが上がる。

さわ。
どこからかそよいできた風が、優しく木々を揺らして。
思いの通じ合う恋人達を、ささやかに祝福していた…。

“Hide and Seek” 2007.4.1.Nagi Kirikawa