まずは自己紹介

「ね、この依頼書に書いてある、レスティック・エリウス・サラディって、君?」
名を呼ばれ、金髪の少年はそちらを振り向いた。
場所は、真昼の月亭。奥にしつらえられた、ちょっとした個室。冒険者が相談したりするのによく使われたりするらしい。
名を呼ばれた少年は、そちらに向かって愛想良く笑顔を返した。
「はい、そうですが…貴方は?」
「あ、ごめんねー。私はレナスウィンドっていうんだ。レナスでいいよ。よろしくね」
名を呼んだ方も、愛想良く、というよりは多分に能天気な笑顔を返す。
目の覚めるような緑色の髪をバンダナでくくり、大きな茶色の瞳を持った少年…のように見えるが、よく見れば少女にも見えなくもない、そんな中性的な外見をしている。髪と同じ緑色の装束に大きなエプロン。冒険者、というようには見えない。
「私もだけどさ、君も長ったらしい名前だよね!可愛くレース。手堅くエリー。万馬券でサーラ。どれで呼んでいい?」
いきなり言われたことが、自分の名前のことであると理解するのに数秒。彼はにこりと微笑み返すと、言った。
「呼び名はミドルネームですから、エリウスとお呼びいただければ結構ですよ、レナスさん」
「えー、長いよ。じゃあエリりんで」
「文字数は変わっていないように思いますが…」
「まーまー、そんなこと気にしない。あのさ、経験のある冒険者って書いてあったけど、あんま経験なくてもいいかなあ?」
レナスの問いに、エリウスはきょとんとして首をかしげた。
レナスは困ったように眉を寄せて、手に持っていた紙をひらひらと振って見せる。紙…といっても、書いてある内容はべったりと広がった黒い模様に邪魔されてまったく読めない。
「…あのね、真昼の月亭に食べに行ったら満席でさー、壁際に押し込まれたんだけど、目の前が依頼票の位置で。イザごはん!…って食べようとして、フォークを天高く上げたら勢い余って巻いてたイカスミ増量パスタをべっとりつけちゃったんだよね、この依頼の紙に」
はぁぁ、とため息をついて。
「…読めなくなっちゃってさー。責任取って受けさせられる事になったの。別にいいけどね、ヒマだったし」
「そう…なのですか…」
エリウスはどう反応していいかわからずに目を瞬かせている。
レナスは再びにぱっと笑うと、空いていた席に腰掛けた。
「ま、そういうわけだからよろしくねー。この人たちも、依頼受ける冒険者さんたちでしょ?みんな初めましてかなー?名前教えてよ!」
いつの間にか仕切られている。
というか、経験のない云々の返事はしていないように思うのだが。
冒険者たちは困ったようにレナスとエリウスの顔を交互に見た。
エリウスは困ったように苦笑して、手でそちらを示す。
「僕もまだ伺っていませんし、お聞かせ願えますか」
「じゃっ!リィナからいっきまーす!」
指し示されたおだんご頭の少女が、元気よく手を上げる。
黒髪を両脇できっちりとお団子にし、黄色いリボンをかけた元気そうな少女だ。紅い大きな瞳と、瞳と似た色のジャケット。手に嵌められたグローブは使い込まれていて、彼女の慣れた武器であることを思わせる。
「リィナ・ルーファです!ミケちゃんとレティシアちゃん、それからクルムくんと千秋さんとは何度か一緒に依頼こなしたことあるかな?よろしくね~!」
続いて、その隣に座っていた女性が会釈をする。
「…アルディア・ディストという」
20代後半ほどの地人の女性だ。地人特有の褐色の肌に、無造作に伸ばされた紺色の髪、表情のない緑の瞳。纏っている服装も落ち着いた色の地味なもので、彼女がそういったことにまったく興味を示していないことを思わせた。
「正直言って、経験という事を言われれば私もレナスの事は言えないのだが…人探し、という事なら、戦いの経験がそうなくとも力になれると思う。宜しく頼む」
アルディアに続いたのは、風変わりな東国風の装束を身に纏った男性。
「…一日千秋だ。千秋と呼んでくれ」
黒髪に黒い瞳。真面目な表情からは親しみやすい雰囲気は感じ取れないが、整った無駄のない造作はそれなりに手を入れれば光ることを思わせる。
「冒険者としての経験は、それなりにあるつもりだ。宜しく」
軽く会釈をして挨拶が終わったのを見計らい、隣にいた少女が笑顔を作る。
「レティシア・ルードよ。よろしくね」
長くつややかな金髪をポニーテールにして紅いリボンでまとめ、大きな愛らしい瞳が印象的な少女である。少し露出度の高い服装は目のやり場に困るが、当人はいたって気にしていないらしい。
「顔見知りも結構いて嬉しいわ。このメンバーなら、絶対依頼は成功すると思うから。よろしくね!」
エリウスに向かって、快活な笑みを投げる。
エリウスが有難うございます、と微笑み返すと、隣の人物がレティシアに続いた。
「ミーケン・デ=ピースといいます。ミケとお呼び下さい」
長い栗色の髪に、大きな青い瞳。愛らしい顔立ちからはおよそ男性的な雰囲気は感じられないが、声からすると男性なのだろう。真っ黒いローブに身を包み、どこから見ても立派な魔道士だった。
「経験ということからすると、僕も不安はあるんですが…」
「何言ってるの!ミケは十分経験あると思うわよ?」
レティシアがミケの言葉に驚いて言う。ミケは苦笑した。
「いえ、自分でもまだまだだと思いますし。荷が重いかもしれませんが、精一杯頑張ります。よろしくお願いしますね」
「こちらこそ」
エリウスが笑顔を返し、そして最後の人物に目をやる。
が、彼に視線を向けられても、その少年は放心したようにじっと彼を見ているだけだった。
短くそろえられた栗色の髪。大きな緑色の瞳はまだ幼さは残るものの、宿す表情はそれに見合わぬ大人びたもので。
エリウスは少し首をかしげ、彼に言った。
「……どうされましたか?僕の顔に、何かついていますか?」
「…あっ、ああ、ごめん。オレはクルム・ウィーグ。よろしくな」
クルムははっとして名乗り、それから苦笑した。
「会ったことのある人のような気が一瞬して、思い出そうとしてたんだ」
「あれ、クルムさんもですか」
ミケが言い、クルムがそちらを向く。
「ミケも?いや…でも、思い出せないな。ミケは?」
「僕もです。気のせいかなと思っていたんですが…」
「リィナも、そんな気がしてたんだー。気のせいだと思ってたけど…」
リィナも身を乗り出して同意する。
さすがに3人もの人物が同じ事を言い出すのは奇妙だ。
「初めまして…だよな?」
クルムが改めて問うと、エリウスはやわらかい笑顔を返した。
「ええ、そうですよ。よろしくお願いしますね」
年齢的には、エリウスとクルムはそう変わらない程度なのだろう。が、クルムと同様、エリウスも年齢には不釣合いな不思議な落ち着きを備えていた。柔らかい物腰に、隙のない敬語。肩まで伸ばした綺麗な金髪に、色合いのよく似た山吹色のローブ。冒険者のようには見えないが、もしそうだとするならば魔術を得手としているのだろう、と思わせる。
エリウスはぐるりと冒険者たちを見回すと、礼をした。
「改めてご挨拶させていただきますね。僕はレスティック・エリウス・サラディ。皆さんの依頼人…ということになりますね。若輩者ですが、よろしくお願いいたします」
そして、表情を引き締め、冒険者たちに向かって言う。
「さて…皆様にお願いしたいのは、依頼票に書きました通り…人を探す手伝いをして欲しい、ということなのです」
「そうそう、でもヒト探しなら自警団とか、組織の方が人手があるんじゃないかなー」
いきなり自分の依頼人と依頼を否定するレナス。
エリウスは穏やかな笑顔をそちらに向けた。
「組織は人員はありますが機動力がありません。行方不明です探してくださいと紙だけ出して後はその方たちが見つけ出してくれるのを待つだけでしょう?」
「あー、まぁそりゃそうかもねー」
「それに、僕の依頼は『探し出してくれ』ということではありません。依頼票にも書きましたが、『探す手伝いをして欲しい』のです。
皆さんに居場所を割り出して欲しいわけではありません」
「…どういうことだ?」
千秋が問い、エリウスはそちらに視線を向けた。
「その前に、皆さんにご協力いただいて探し出したい人物のことについて説明をしなければなりませんね」
「そうそう、どんな人なの?」
リィナが身を乗り出した。
「男の人か女の人か…年とか、特徴とか。顔とかに傷があるとか、衣装が印象に残るような感じとか、必ず身に付けてるものがあるとか、他にはその人がこういう場所を好んでるとか、行動に特徴があったら教えて欲しいな」
エリウスはそちらに向かって苦笑する。
「有難うございます、張り切っていただけて嬉しいです。が、先ほども申しました通り、僕は皆さんに『居場所を突き止めて欲しい』わけではないのです」
「居場所は…すでに判っている、ということですか?」
ミケが言い、そちらの方にも曖昧な表情を返す。
「…順を追って説明しますね。
皆さんに探し出していただきたいのは、僕の…幻術の先生、なのです」
「げん…じゅつ?」
レティシアが呟く。それに、レナスが続いた。
「げんじゅつ。爆発するのよね、確か。げんじゅつはバクハツだ!って、知り合いが言ってたような言わないような…」
沈黙。
「…レナスさん、オカモト・タローとお知り合いですか?」
「ジョーダンだよ、ジョーダン。げんじゅつを見ろ!げんじゅつは厳しいって、おっかないヒトが良く言ってたよ」
「それは現実です」
「だからジョーダンだってば。幻術幻術、…知ってるよー。…えーとね、確か…
相手の五感を撹乱操作して、その場に無いものを見せたり…感じさせたりする魔法系統だよ。自分をアリンコに変えて食い逃げに使ったり、ドラゴンの幻見せて敵を追い払ったり…
幻聴や腹話術もこの系統に入るっけ、確か?たまに手品のタネになってるみたいだよっ。…そうそう、ナノクニではさっ!メジャーらしくて、キツネとかもこれが得意でヒトが肥だめ風呂に楽しく入って泥饅頭を美味しく頂けるように出来る!…って聞いた!
相手に見破られない限り効果があるし、解除されないとずっとそのままだから…下手打つとスカるけど、上手くやれば攻撃呪文とかより、断然効果があるんだヨ。攻撃呪文一辺倒なヒトより、こういうのが達者なヒトが魔術師としてハイレベルかな。と言う認識」
再び沈黙。
レナスは半眼で冒険者たちに言った。
「あのね、一応魔法については勉強した事あるから。あんま『バカが異国語ペラペラだった時のよーな目』で見ないでね」
「れ、レナス、すっごーい!!」
レティシアが感心したように声を上げた。
「私も魔道の学校で少し習ったんだけど…攻撃系の魔法の方が理論を覚えやすくって、内容はほと
んど覚えてないのよねー。っていうか、幻術の理論が難しかったから覚えられなかったというのが正確なところなんだけど」
ばつが悪そうに苦笑して。
「あぁん、その幻術でミケをいっぱい出してもらえば、たとえ桃色片思いでも、幸せ一杯ミケだらけの萌えパラダイスの出来上がりってこと?!
習いたい…今からでも習いたいっ!」
いきなりエキサイトするレティシアに、周りの者たちがたじろぐ。
「あ……あの、幻術というのは術をかける相手に見せるもので、自分が見る物ではないと思うのですが…」
エリウスが言うと、レティシアははっとして、それからあからさまにしおれた。
「…そ、そう言われればそうよね。そうか…」
「そうですね…相手の神経に直接作用して、実際に感じたことでないことを感じたように錯覚させてしまう術…というのが正式な定義です。
ですから、腹話術は少し違いますね」
あはーそっかーと頭を掻くレナス。
「ふむ。俺も聞いたことがあるぞ。もっぱら、御伽噺の中で狐や狸が使っていた…先ほどレナスが言っていたようなことだ」
千秋も腕組みをしてそれに続く。
「もう少し現実的な話になると、精神鍛錬の休憩中での雑談で聞いたことがある。
大抵の幻術は、人間の知覚のうちひとつかふたつをごまかすのが精一杯らしい。
一番騙されやすいのが視覚、次が聴覚。味覚や嗅覚よりも、触覚の方が騙され難いと聞いたことがある」
「はい、その通りです。正確には、視覚・聴覚の神経が一番干渉しやすいのです」
エリウスが真面目な表情で頷く。
千秋は続けた。
「大抵の幻術は、かかった時はその場で走ったり何度も深呼吸をすると、疲労や呼吸の変化が通常の状態と違っていて、かかったことに気づきやすい、と教わった。
が…その、体の反応さえもごまかすような幻術の使い手には、出来れば出会いたくはないな。
騙されないでいる自信があまりないからな」
「幻術か…あれも幻術に入るのかな?」
クルムが興味深げに割って入る。
「ラヴィがリリィに夢を見せられていて、その中に入っていった…あの中の世界では、まるで本当にその世界に入って動いているみたいに、色も音もはっきりと感じられたよ」
「あれは…精神干渉術も入っていますから、厳密には幻術ではないのかもしれませんけれどね」
やや面白くなさそうに、ミケ。
クルムはそちらの方に、にこりと微笑みかけた。
「ミケは幻術を使うんだったな。前に幾度か、ミケのその幻術に助けてもらったことがあったね」
「そうなんですか?」
エリウスが興味深げに身を乗り出す。
ミケは苦笑した。
「僕は大したものは使えませんよ。精神面に影響するものというよりも見た目をごまかす程度にしか使えないものですので、詳しく知っている訳ではないですね」
「見た目を、ごまかす…ですか?」
「はい、こんな風に」
ミケは言って、テーブルの上に置かれた灰皿に手をかざした。
「…その身に、幻の衣を…ファントムイリュージョン」
呪文と共に、灰皿がぱっと黒い猫の置物に変わる。
「わぁ、すごい!なにやったの?!」
レナスが驚いて、その置物に触れようとするが…すか、と手は置物をすり抜けていってしまう。
「あれ。なんだこれ、変なの」
眉をしかめて自分の手を確認するレナス。ミケは苦笑した。
「このように。見た目はごまかせますが、精神に影響するというよりは…」
「そのものの周りに光の屈折角度を変化させるような空間を作り上げた、という状態でしょうか。興味深いですね」
興味津々の様子のエリウスが、ミケの言葉に続く。
「幻術…幻術か。…ああ、そう言えば、以前受けた依頼で不思議な体験をしたぞ」
ふと思い出したように、アルディアが言った。
「召喚術で異世界を此方のルールに縛り付けるという魔法の装置で、今自分が居る世界とは全く別の世界を体験した」
「ああ、アマンでの依頼のことだね」
アルディアの話に、クルムが反応して口を挟む。
「見せられた『世界』自体は別次元に実際ある場所で、そこに転送…ええと、逆召還?させられて、その世界での自分の『役』通りに振る舞えるよう、宝石魔術で精神干渉された…ってことらしい」
クルムの説明に、アルディアは頷いた。
「うむ。詳しいことまでは判らなかったが…あれも、考えてみれば幻を見せられていたという事になるのかも知れん」
「みんな結構いろいろ経験してるんだね…実際には見えたり・感じたりしないけど、かけてる人間には現実にあるように思わせる魔法、っていうくらいしか知らないなぁ、リィナは」
やや眉を寄せて、リィナ。
「たとえば、手から虫が湧いてるように見せるとか、亡霊みたいな幻覚を見せたり、実際には怪我してないけど怪我してるように痛みを感じさせたり、自分が炎の中で燃えてるように思わせたり、夢みたいな別の世界に居るようにみせることも可能なんでしょ?たしか…
リィナのイメージでは、魔眼とか邪眼とかって、目を見るとかかるようなイメージが強いんだけど…そう言うわけでもない?」
「そうですね、目を見ることでその人に干渉しやすいのは確かです。が、高位の術者はそのようなことをせずとも、離れている相手や、集団にさえ干渉することが可能です。それこそ、国ひとつに幻を見せることだって出来ますよ」
エリウスが真面目な表情で言うと、リィナは目を丸くした。
「そんなに?!そうなんだ……」
「しかし…エリウスの師匠、ということは、当然エリウスも幻術を使える、ということか?」
アルディアが訊き、エリウスは頷いた。
「はい。僕の専門も幻術です。他の魔道も多少は使えますが…。
ともかく、皆さんのおっしゃった通り、幻術というのは相手の神経に直接干渉し、実際にはない刺激を感じ取らせる術、ということです。たとえば、このように」
と、エリウスが言ったとたん。
何のアクションもなく、椅子に座っていた彼の姿が突然、消えた。
「ええっ?!」
驚いて立ち上がるレティシア。
「え、エリウスくん、どこにいっちゃったの?!」
リィナも同様に立ち上がる。
「これは……」
エリウスのすぐ側に座っていたクルムが、彼の座っていたところに手を伸ばす。
先ほどのミケの幻術と同様なら、そこにはエリウスがいるはずなのだから、何かにぶつかるはずだ。
しかし、手は何の手ごたえもなくそこをすり抜けた。
「どういう…ことだ?」
「お判りでしょうか?」
再びエリウスの声がして、元の場所にふっと彼が現れる。
「エリウスさん!今のは…」
ミケが驚いて言い、エリウスはにこりと微笑んだ。
「これが、幻術です。僕はずっとここに座って動いていません」
「でも、オレの手は確かに…」
「はい、クルムさんはこちらに手を伸ばしていらっしゃいましたね。その手は僕の身体に少し触れました」
「ええ?!」
驚くクルムに、笑顔のまま解説をするエリウス。
「人は自分の意思で身体を動かしますが、その身体が『動いた』という認識は、やはり目で見、音で感じ、触って確かめて初めて成るものです。その神経に直接干渉すれば、実際は動いていないのに身体を動かしたように感じさせることも、言葉を発していないのに喋ったと思わせることも、触れていないのに触れたと感じさせることも可能です。先ほどの場合はその逆で、クルムさんの手が僕に『触れた』という刺激だけを取り除いたのです」
「そう…なのか……理屈は理解できるけど、この身で体験してもまだ信じられないよ…これが、幻術か……」
呆然とクルムが言う。
エリウスは表情を引き締めると、冒険者たちに言った。
「これから僕が探そうとしている人物は、この何倍もの精密さと規模を持つ術を使いこなす方なんです」
その言葉と共に、冒険者たちの表情も、引き締まった。

「名前はジョン・ウィンソナー。男性で、年齢は…僕も詳しくは聞いたことがないのですが、70歳は超えているかなりのご老体です。
幻術を使う者の中では高名な学校で教授職についており、僕も先生に師事しています。
この先生が…困ったことに、お年の割にとてもお元気で、少々悪戯好きなところのある方なんです」
「悪戯好き…?」
レティシアが問うと、エリウスは眉を寄せて頷いた。
「はい……同じ学校の若い女性の先生に成りすまして男子生徒を誘惑したり、校長室に馬車が突っ込んだ幻影を校長に見せたりと……」
「そ、それはちょっとシャレにならない悪戯ね…」
「はい。先生の実力が実力なだけに、学校側としてもこの性格には手を焼いているんですが…
その先生が、講義などを放り出して学校を抜け出し、ヴィーダに遊びに来ているらしいのです。
別件でヴィーダに来ていた僕が、先生を探し出すことになったのですが……先生が、ヴィーダで何か重大な事件を起こす前に、学校に連れて帰りたいのです」
「経緯は分かった。しかし、居場所はもう分かっている、というのは…?」
千秋が言うと、エリウスは頷いた。
「はい。先生を探し出すに当たって、人探しをするときに、魔道の心得のある者ならば必ずまずすることがあります」
「魔力探知…ですか」
ミケが言い、そちらに向かって頷く。
「はい。人が使う魔力にはその人を特定できるほどの細かいパターンが存在します。それを探知することで、ある程度の居場所を絞ることが出来るのです」
「で、その魔力探知をしてみて…見つからなかった、っていうこと?」
リィナが言うと、エリウスはそちらに渋い表情を向けた。
「その逆です」
「逆?」
「先生の魔力の波動が、同時に4箇所から感じられたんです」
「よ、4箇所?!」
驚いて声を上げるリィナ。
「…どういう事だ?其れは、良く在る事なのか?」
アルディアが問い、エリウスはまた眉を寄せた。
「…不可能ではありません。自分の魔力の波動を何かに込めて残しておけば、同様の効果は得られます。おそらくは、何か魔道の仕掛けを残しているのではないかと…」
「…成る程。相当に悪戯好きの御仁の様だな」
「はい。
僕一人で一気に4箇所を回ることは出来ません。
かといって、1箇所ずつ回っていたのでは、先生に逃げられてしまうでしょう。
ですから、僕の他に、4箇所同時にその場所を回っていただける人手が必要なのです」
「なるほどー。それで、自警団とかじゃなくて冒険者が必要だったんだねー」
レナスが納得して頷く。
「はい。皆さんには、そこに行って頂いて、何があるのかを見てきていただきたいのです。
もし先生がいれば、僕が探している、早く戻るようにと説得をして、連れてきていただきたいです」
「なるほどね…それで、探す手伝いをして、っていうことか…」
レティシアが難しい顔をして唸り、リィナも同様の表情で続いた。
「でも、その先生…さっきエリウスくんがやった術よりもっとすごい術が使えるんでしょ?リィナたちで見つけられるのかな…見つけられたとしても、リィナたちに捕まえられるかな?
もし帰るの嫌だとかってごねだしたら、実力行使もあり?」
物騒なことを言い出すリィナに、エリウスは苦笑した。
「そうですね…あまり考えにくい事態だとは思いますが…もしそうできる隙があるとしたら、お願いしたいかもしれません。
しかし…無理はなさらないで下さいね。先ほども申し上げました通り、先生は相当な幻術の使い手です。神経に直接刺激を送りますから、殴られていないのに殴ったのと同じ刺激を与えることも出来ます」
「で、でも…本当に殴られてるわけじゃないんだから、死んだりは…しないでしょ?」
「理屈ではそうですが…しかし、痛みの刺激が過ぎればショック死することもありえますから…」
エリウスの言葉に絶句するリィナ。
千秋が眉を潜めた。
「しかし、そんな人物を相手に俺たちがどうにかできるのか?捕まえてみて別人でした、ということになるとかなり骨が折れそうだが、確実に見分ける方法はあるのか?」
「ありません」
きっぱりと言い切られ、返す言葉を失う千秋。
エリウスは真面目な表情で、しかしゆっくりと首を振った。
「しかし、見分ける必要そのものがないと思われます。あるいは、皆さんに先生を連れてきて頂く必要も、ないかもしれません。リィナさんのおっしゃるような事態にはならない、と」
「…なぜですか?」
ミケの問いに、そちらの方を向く。
「考えてみてください。先生が、何故このようなことをするのか…帰りたくなくて、姿を隠したくないのなら、自分の魔力の気配を消せばいい…ただそれだけのことではありませんか?」
「そうだねえ。わざわざ4つも何かを残すなんて、なんかありますーって言ってるようなもんだよ」
レナスが頷いた。
「では、ジョンさんは一体何を…」
真面目な表情で言うミケに、エリウスは眉を寄せてため息をついた。
「………何のつもりかはわかりませんが、何かとてつもないことを考えていらっしゃる気がしますよ…
もちろん、本人は悪戯のつもりで」
「そ、そうかぁ……でも、さっき聞いた感じだと、そんな人の『悪戯』って、シャレにならないレベルっぽいわよねぇ…」
眉を寄せて、レティシア。
「そうですね、命に関わったり、大怪我をするような類のものではないと思いますが……間違いなく、どっと疲れると思います…」
妙に感慨を込めて言って、再びため息をつくエリウス。
「一般の方を巻き込もうものなら、大騒ぎになりかねません…
ですから、経験のある冒険者の方々を雇わせていただいたのです」
そして、また表情を引き締め、冒険者たちを見渡す。
「…ということですので、先程も申しましたとおり、『出来れば連れて帰ってきていただきたい』ですが、必須事項ではないです。皆さんの身の安全を第一に考えてください。
皆さんにはひとまず、『問題の地点に何があったのか』を報告していただきたいのです」
「それだけで…いいの?」
リィナが言い、エリウスはそちらに向かって頷いた。
「はい。行った先で先生が見つかり、それで説得に応じて戻って頂ければ良し、でなければその時に何か対策を考えようと思います。後手に回ってしまいますが…それだけの相手だということで、ご了解頂けますでしょうか」
「…そうだな。依頼主がそう言うならそれに従うのが道理だし、話を聞く限りでもそうしたほうが良さそうだ」
千秋が重く頷く。他の者達も同様に思っているようだった。
「では…こちらをご覧下さい」
エリウスが言い、テーブルに手のひらをかざすと、音もなくテーブルに大きな地図が広がる。
「わ」
「び、びっくりした…これも幻術?」
驚いて言う冒険者に、エリウスは笑顔を返した。
「はい。地図をご用意するより経済的でしょう?」
「便利なものなのねぇ…」
ひたすら感心して、レティシア。
エリウスは地図に向き直った。
「ヴィーダ市街の地図です。
先生の魔力は、この4箇所から感じられました」
エリウスの言葉と共に、地図の中の特定の場所に赤い光が灯る。
「NS通り一番街、ベーハム・ベーカリーの裏手に位置する、古びた教会。
大通り二番街、中央公園裏の墓地のすぐ側にある、喫茶『厚化粧』跡。
サザミ・ストリート三番街、ゼラン魔道塾隣の空き家。
中央フィッシュ通り四番街、本屋『ドア・ライスフィールド』正面の、持ち主不明の廃屋。
以上が、先生の魔力が感じられた地点です」
「ふむ…どれも、あまり人が近づかない、今は使われていない建物のようですね」
ミケが言い、エリウスは頷いた。
「そのようです。ですから、調査のために建物に入るのも、そう難しくないと思われます。
僕たちがちょうど8人いますから、2人ずつでペアを組んで4手に分かれましょう。
そうですね…」
冒険者たちの方を向いて、首を傾げる。
「特に能力がどう、というお仕事ではありませんから、端から順番に組んでいきましょう。
アルディアさんとリィナさんは、一番街に。
千秋さんとレナスさんは、二番街に。
ミケさんとレティシアさんは、三番街に。
僕とクルムさんで、四番街に。
それでよろしいでしょうか?」
冒険者たちは真面目な表情で頷いた。
「了解した」
「よろしくね、アルディアさん!」
「よろしく頼む」
「こっちこそ!よろしくねー、チャッキー!」
「ミケと組めるのね…っ!よろしくね!」
「こちらこそ。よろしくお願いしますね」
「精一杯頑張るよ。よろしくな、エリウス」
やる気を見せる冒険者たちに、エリウスはにこりと微笑んだ。
「では皆さん、よろしくお願いいたします」

ときめきめけめけメモリアル ~伝説の樹の下で~

「やだっ!遅刻しちゃう!何で目覚まし止まってるの?!」
明らかに人の手で止められた形跡のある目覚まし時計を持って、リビングに飛び込んでくるレティシア。
リビングでコーヒーを飲んでいたエリオットが、呆れの視線を彼女に向ける。
「ようやくお目覚めかい、レティ。あれだけ目覚ましが鳴ってるのに、いつ起きるのかと思ったよ」
「エール兄ちゃんっ!起こしてくれればよかったじゃないのよー!!」
「何度も起こしに行ったよ。でも、『わかった~、起きる~』って言うから…」
「ああもうっ!議論してる暇はないのよ!パンちょうだいパン!」
「…食べながら行く気か?」
「当然じゃない!遅刻しちゃうものっ!…って、その前に新聞の占いコーナー見てかなくちゃっ!」
レティシアはパンの手前にある新聞を広げると、いつも見ている占いコーナーに目を通した。
「ムーンリリィの今日の占い…よしっ!運勢最高、ラブ運絶好調!
それじゃ、行ってきまーす!」
言うが早いか、レティシアはそばのパンをひったくって咥え、慌しくリビングをあとにする。
「……遅刻って…今日はずいぶん早いんだな、あいつの学校…」
残されたエリオットが、コーヒーをすすってひとりごちた。

「ああんっ、急がないと間に合わない~!」
パンを咥えながら、ばたばたと路地を走っていくレティシア。
「こんな切羽詰った状態で一日がスタートして、これで運勢最高なわけ?!こんなんで出会いなんてあるの?!」
新聞の占いコーナーに悪態をつきながら。
「ああ…ステキな王子様が現れないかなぁ。今よ、今こそチャンスなのよ!パンを咥えて女の子が走ってるのよ、ここでぶつからなきゃどこで出会いがあるっていうのよ!」
もうわけがわからない。
が、運命の出会いというものは、いつも唐突に訪れるのだった。

どんっ。

「きゃっ!」
曲がり角を曲がったところで、何かにぶつかった。
咥えていたパンが飛び、視界がローリングする。
(転ぶ…!)
レティシアはとっさに目をつぶって、次に来る衝撃を覚悟した。
が。
(あ…あれ?いた……くない…?)
「いたたた……大丈夫ですか?」
優しい声が聞こえて、恐る恐る目を開ける。
至近距離に現れる端正な顔立ち。
一瞬後に、転んだ自分が彼を下敷きにしてしまったのだということを理解する。
「え、きゃあああっ、ごめんなさいっ!」
慌てて飛びのくレティシア。
下敷きにしてしまった人物は、ふっと微笑むと立ち上がって彼女に手を差し出した。
「大丈夫ですか?すみません、前方不注意で」
長い栗色の髪。
蒼く深く、まっすぐな瞳をメガネの奥に隠して。
かっちりとした男物のスーツに身を包んでいるのだから、男性なのだろう。女性とも見まごうほどの綺麗な顔立ちをしているけれど。
レティシアの瞳に、ハートマークが映る(イメージ映像でお送りしております)。
ピンクの霧がかかり、彼の周りの空気がきらきらと光を放って。
天使が舞い降りて『おめでとう』『良かったね』と囁きかける。
人、それをラブラブフィルターと呼ぶ。
「…あの、大丈夫ですか?」
飛びのいて座り込んだまま自分を凝視して動かない彼女を、心配そうに覗き込む彼。
レティシアははっと我に返ると、慌てて彼の手を取って立ち上がった。
「あ、ご、ごめんなさい、あの、下敷きに」
「いえ、あなたに怪我がなくてよかったです」
彼は優しく微笑んでそう言った。
ほうっと見惚れそうになったところで、ようやく完全に我に返る。
「ああっ!あ、あのっ、今何分ですか?!」
「え、ええと、40分ですが…」
腕時計を見ながら彼が答える。
レティシアは真っ青になった。
「きゃああああぁっ!間に合わないっっ!さよなら運命、また来て奇跡!ごめんなさい~~っっ!!」
またわけのわからないことを言って、レティシアは一目散に学校へと駆けていった。
一人、曲がり角に取り残された男性が、ぽつりと呟く。
「ええと…あれって、実習先の高校の制服でしたよね……まだ一時間前だっていうのに、熱心ですね…」

「……パクるけど……パターンだわ……一時間前にセットしてたなんて……あんなに急いだ私の努力っていったい……」
登校してみれば、誰もいない教室の時計は1時間前を指していて。
机の上で突っ伏しているレティシアに、登校してきた友達が声をかける。
「あれー、レティシア今日早いじゃない、どうしたの?遅刻常習犯がー」
「ふふ…ふふふふ…ちょっとね……」
「それより、知ってた?今日から教育実習の先生が来るんだって!ちょっと楽しみじゃない?」
「えー、どうせならカッコイイ人がいいなぁ」
不満げに、レティシア。
そうよ、それこそ、さっきの人みたいな……
(くううっっ!1時間前だってわかってたら、あそこで住所氏名年齢職業、携帯番号とメールアドレス、スリーサイズと視力と足のサイズまで聞き出したのにいぃぃぃっ!!)
返す返すも、先ほどの男性のことが惜しくて仕方がない。
そんなことを言っている間に、チャイムが鳴った。ホームルームの時間である。
「おらー、席つけよー」
担任が前の入り口からクラスに入り、教卓の前に立つ。
ばたばたと席に着く生徒たち。
「きりーつ。れーい」
委員長が言い、全員が礼をして、クラスが静寂に包まれた。
「あー。知ってる者もいるかと思うが、今日から1週間、教育実習の先生が来ることになった。
このクラスにも一人来るので、失礼の無いようにな。
じゃあ、デ=ピース先生。どうぞ」
担任がドアの外に声をかけ、廊下に待機していたらしい実習生が教室の中に入ってくる。
「………!………」
その瞬間、レティシアの緑の瞳が大きく見開かれた。
「今日から1週間、皆さんと一緒に勉強させていただくことになりました、ミーケン・デ=ピースといいます。長いので、気軽にミケと呼んで下さいね。
よろしくお願いします」
穏やかな声で、流れるようにそう言って礼をする。
その間も、レティシアの目は彼に釘付けだった。
(さ……さ、さっきの人おおぉぉぉぉっ?!)
どうにか心の中だけにしまっておけた絶叫。
そう。今日からやってくる教育実習生とは、曲がり角でぶつかったあの男性だったのだ。
そこ、ご都合主義言わない。
もはや太古の昔から変わることなく受け継がれた黄金律と言えよう。
(これは…これはやっぱり運命なんだわっ!愛の女神リーヴェルが私に微笑んでるのよっ!
ムーンリリィの占いは今日も絶好調ねっ!)
さっき文句言ってたくせに。
(ミケ…ミケ先生…ミケ先生っ!よーし、ここはいっちょ、デキるところ見せて、ミケ先生と仲良くなっちゃうぞーっ!!)
心の中で絶叫して、ガッツポーズを取るレティシア。
が。
「あー。デ=ピース先生の担当は、俺と同じ数学だ。これから1週間、数学の授業は俺の代わりにデ=ピース先生が見ることになる。みんな、気を抜かないようにな」
「す」
レティシアの瞳が、再び見開かれる。
(数学うぅぅぅぅぅっ?!)

次の日。
「やっぱりよ……そうなると思ってたのよ……」
手の中にある「30点」と書かれた小テストにつっぷして、レティシアは唸った。
「どだい私に数学なんて無理なのよ…数学の教科書は何書いてあるかさっぱりわかんないし…ていうか数字見ると眠くなるし!」
力いっぱい力説してみるものの、そんなことで30点がどうにかなるわけでもなく。
テストを返した時の、ミケの心配そうな表情が胸に刺さる。
『そんなに気を落とさないで下さいね、ルードさん』
「ミケ先生はああ言ってくれたけど、これは屈辱よ!恥ずかしすぎて顔向けできないわっっ!!」
ぐっ、と答案を握り締めて、決意を表情に表すレティシア。
「3日後にもう一度小テスト…その時に、汚名返上しなくちゃ…!
頑張るわよ~!!」
気合を入れて、教科書を開く。
「……あぁ、めまいが……」
先が思いやられる。

さらに次の日。
「や……やっぱりダメだわ…教科書開いただけで拒絶反応が…」
昼休み、自習をすることにしたレティシアだったが、やはり耐えられず教科書の上に突っ伏してしまう。
「はっ。そうだわ」
がば、と顔を上げて。
「先生に教えてもらえば良いじゃない!私あったまいー!」
早速立ち上がり、ミケのいる職員室へ。
がら。
「ミケ先生っ!」
ちょうど昼食を食べ終わったところらしいミケが、彼女を認めて微笑む。
「ルードさん。どうしたんですか?」
「あのっ、数学がまったくわからないんです…教えてもらえません?」
上目遣いでおねがい。
ミケはあっさりと微笑んだ。
「いいですよ。どこですか?」
「えっとね……」
ミケに駆け寄って、ぱらぱらと教科書をめくるレティシア。
が。
「デ=ピース先生、ちょっと」
「あっ、はい」
担任に声をかけられ、ミケがそちらを振り向いた。
申し訳なさそうに、レティシアに向かって手を合わせて。
「すみません、ルードさん。またの機会にしてもらえますか?」
「えぇ…っ、いえ、あの、はいっ!お忙しいところすみませんでした…」
不満を口にしかけて、慌てて頭を下げるレティシア。
ミケは申し訳なさそうに、担任に連れられて職員室を後にした。
「はぁ……ううんっ、こんなことで負けないわっ!」
レティシアは再びガッツポーズをする。
恋する乙女は不死身だ。

翌日。
何故かいきなり体育祭である。そこあまり気にしない。
抜群のスタイルを魅惑の体育着とブルマに包み、レティシアは燃えていた。
「今日は思い切り頑張って、ミケ先生にいいところ見せるぞー!」
数学はもはや諦めた模様。
腕をぶんぶん振り回し、大張り切りで臨んだ徒競走。
が。
「きゃっ!」
ゴール直前で、派手に躓いて転んでしまう。
「ルードさん!」
「ルード!」
慌てて駆け寄ってくるミケと担任教師。
「大丈夫か、ルード!保健室に…」
「きしゃああぁぁぁっ!!」
駆け寄って起こそうとする担任を威嚇し、レティシアは後ろのミケに向かって手を伸ばした。
「足が痛くて歩けなーい!ミケ先生っ、保健室まで運んで~?」
ミケは一瞬硬直し、担任とレティシアの顔を交互に見てから、恐る恐るその手を取った。
「あ、は、はい、大丈夫ですか?ルードさん」
激しく大丈夫そうなのだが。
ミケはレティシアに肩を貸すと、彼女を支えながら保健室に向かった。

「元気なのは良いですけど…気をつけてくださいね?この間といい、転んでばっかりなんですから。傷が残っちゃったらどうするんですか?」
ミケはてきぱきと手際よく、レティシアの膝を消毒し、ガーゼとテープで止めていく。教育実習生らしく、お小言なども言いながら。
「…ルードさん?聞いてるんですか?」
聞いてない。
(あぁぁ…ミケ先生が私の膝に触れてる…っっ!!っていうかいっそのこと太ももまで撫でてくれたって良いのに~!保健室ってベッドもあるんだし、治療と称してあんなことやそんなことや…やーん!私ったら何て大胆なのー!!)
「えへ…えへへ…」
もはや完全にどこかに行ってしまっている表情で妄想に浸るレティシア。
「ルードさん?ルードさーんっ、終わりましたよー?」
ミケが呼びかけても、この後しばらく彼女の意識は戻ってこなかった…。

またまた翌日。ミケが来てから5日目のことである。
ホームルームで、またしても机に突っ伏すレティシアの姿があった。
「これは悪夢よ……何かの陰謀よ……」
手には、今日の数学の授業で行われた小テストの答案用紙。
「あれだけ勉強したのに……20点って何?!昨日転んで脳みそ落とした?!数式忘れた?!」
だばだばと涙を流して水たまりを作りながら絶叫するレティシア。
何事もなかったかのようにさわやかに答案を返したミケの表情が胸にさらに突き刺さる。
「終わった……終わったわ…私のことは生ける屍と呼んでちょうだい…はは…はははは…」
ホームルームが終わったのも気付かず、一人机で水溜りを作り続けるレティシアに、さすがにミケが心配そうに近寄っていった。
「あの…ルードさん?そんなに気を落とさないで下さい…」
自分の指導が行き届かなかったというのもあるのだろう。心配そうに覗き込んで、ミケは言った。
「…っ、そうだ、ルードさん、明日放課後は空いてますか?」
「へっ…?」
ミケの言葉に、レティシアは顔を上げた。
「あの、こないだ、教えてあげられなかったじゃないですか。
明日は職員会議で、放課後の実習生の指導もないんです。ですから、ルードさんがよろしければ、少し数学、教えますよ。数学は難しそうに見えますが、公式に当てはめるだけで大体は解けるんです!
一緒に頑張りましょう、ね?」
「明日……放課後……?」
呆然とその言葉を繰り返して、レティシアはがばっと起き上がった。
「もっ、もちろん!私、私頑張るわっ、ミケ先生っ!」
「それじゃあ、明日の放課後に」
ミケはにこりと微笑んで、その場を後にした。

「ミケ先生が…ミケ先生が…『放課後、2人っきりで、お勉強しましょう?僕が…手ほどきしてあげますから…』って言ったーーーー!!!」
言ってません。
「ふ、ふふふふ、ふっふふっふふふ2人っきりっ!それは、それはもしかして、邪魔者は誰もいないってことよね?!夕暮れの教室に2人っきり!!」
レティシアの暴走は止まらない。
「『ほら…ここ。間違ってますよ…』
『え……どこ、が…?』
『ここ、です…』
って伸ばした指が私の頬に触れて…そして2人は見詰め合って…あぁ~ん!これ以上は言えないっ!言ったら大変っ!!
これはもう、明日は勝負下着ねっっ!」
何故。
天高く舞い上がって戻ってこないレティシアをよそに、その日は静かに暮れていくのだった。

翌日。数えて6日目。
「ふんふ~んふふ~ん♪今日はミケ先生と勉強会っ♪」
天高く舞い上がりかねないテンションで、レティシアはうきうきと制服を着た。
「朝からシャワーも浴びたしっ♪ちょっと香水もつけちゃったしっ♪もちろん勝負下着だしっ!!」
びし、びし、びしっ、とチェックを入れるように指差して、満足げに微笑む。
「よっし!準・備・万・端っ!!」
ポン!と叩いたところで、頭の中に自分の声がこだました。
以下、イメージ映像でお伝えします。

天使レティシア『ダメよレティ、今日はミケ先生と勉強会なんでしょ?真剣に勉強に取り組まなきゃダメ!
悪魔レティシア『いいじゃないの、せっかくミケ先生と2人きりなのよ?誘惑しなきゃソンってもんよ!
天レティ『何のための勉強会なのよ?時間を割いて付き合ってくれるミケ先生に申し訳ないとか思わないの?』
悪レティ『私のために時間を作ってくれてるのよ?私だけのためにっ!!しかも2人っきりっ!!その貴重な時間に誘惑しなくてどーすんの?ミケ先生が好きって気持ちは、同じなはずよね?』
天レティ『うくっ…。そ、それを言われるとっ……』

あっさり負けた天使レティシア。
「じゃ、今日はいつもより勝負モード、っていうことでぇ…」
レティシアは制服のネクタイを外し、ボタンを二番目まで外す。
「………えーい、思い切ってこうだ!」
さらにもうひとつ。
谷間っつーかそれ、ブラまで見えてんじゃね?
「さらにスカートも、こうだー!」
スカートのベルトを折って、裾をあげる。動いたらそれ見えますよばっちり。
「大丈夫っ!勝負下着なんだからっ!」
いやあの、そういう問題……いえもう、なんでもいいです。
「ミケ先生となら裸で授業したってOKなのに~♪っていうか、それじゃ保健体育の授業になっちゃうじゃないの~!!っていうか、本当に保健体育の授業を手取り足取り実施してくれて構わないわ~!やーん、始まる前からドキドキするー!!」
乙女の妄想はとどまることを知らない。

もちろん、そんなことをやっていて遅刻したのは言うまでもない。

さて、時間は高速に過ぎて、放課後。
向かい合って額を突き合わせながら、数学の教科書とにらめっこする2人。
レティシアは上目遣いで、猫なで声を出した。
「ねーせんせー、じゃあ、ここはどの公式を当てはめたらいいの~?」
再び、イメージ映像でお送りします。

悪レティ『今よっ!そこで屈んで胸の谷間を強調するのよっ!』
天レティ『真面目な質問してる時にすることがそれっ?!』
悪レティ『アピールポイントじゃないの。とりあえず、足も組んでおきなさいっ!』
天レティ『それじゃあただのAVじゃないのよー!見えちゃう見えちゃう、ブラもパンツもどっちも見えちゃう~!!』
悪レティ『見せちゃえ見せちゃえ、見せて誘惑するんだ~!っていうか、ミケ先生になら脱いだってOKなのに~!』

と、いう内部葛藤が行われている正面でも。

悪ミケ『ほら、手のひとつも握っちゃいなさいよ。彼女好意的じゃないですか。可愛いし、一緒にいてドキドキしませんか?ほらー、ブラウスの第3ボタンまで外してるし、目のやり場に困るんでしょ?
「そんなに胸元を出して、イケナイ子ですね……教室でそんな格好していたら、他の男子生徒にどんな風に見られていることか。もう少し、慎みなさい?それとも、僕なら安心だと思っていますか?」とか耳元に囁いておけば、少しは警戒して、意識してくれるかもしれないでしょう?永遠に安全パイは、いーやーでーすー!!』
天ミケ『何を言っているのですか!一週間とはいえ、初の教え子、初めての生徒ですよ!数学がわからなくて困って、教えを請いに来ている生徒に。自分を信じて疑わない生徒に!教師としてあるまじき振る舞いをしてどうするんです!数学の楽しさを広めたいと教師になったんでしょ!胸元は正直に「校則ではネクタイ着用ですよ?駄目ですよ?」と優しく注意するのが年長者で先を生きるものとしての義務です!ほらっ、それでも大人なんですか!』
ポチ『にゃー』
ミケ『?!』
ポチ『にゃー』
ミケ『何であなたまで出てくるんです!』
ポチ『にゃー(出番ください)』
ミケ『あーもうわけがわかりません!皆さん落ち着いて!ビークワイエット!ビークワでお願いします!ここは天使の意見を聞いて、彼女を尊重です!っていうか、それしかないでしょ?!悪魔は僕のキャラじゃないんですーーーーっ!っていうかキャラとしてはへたれで安全パイでいいんですーーーーっ!』

はた。
ふと我に返って目が合って。
「…はは。あはははは」
「あははは、はぁ…」
微妙な笑い声が教室にこだまする。
「…あ、えっと、公式、でしたね。この場合は…ほら、この項の係数が奇数になっていますから、この右の公式を当てはめるんです」
「えっ…こっちの、右の?」
「ええはい、右側の公式です」
真面目に参考書を指差しながら言うミケに、レティシアもつられて真面目な表情で覗き込む。
「あっ……そうか。じゃあ、こうして……こう?」
「そうそう!そうです。じゃあ、こっちの式は…?」
「えっと……この公式で…こう?」
「そうです、やればできるじゃないですか!」
いつしか天使と悪魔の囁きも聞こえなくなり、数学の授業に熱中する2人。
やがて、レティシアが最後の問題を解き終える。
「エックス…イコール、5プラスマイナス2ルート6…っと…どう?!」
「はい、正解です」
自信に満ちた瞳で顔を上げるレティシアに、ミケは立ち上がって彼女の隣に行き、優しく微笑んで頭を撫でた。
「ほら、やればできるでしょう?よく頑張りましたね」
「きゃーっ!ありがとう、ミケ先生!!」
感極まってミケに抱きつくレティシア。下心と言うよりは、苦手だった数学を自分の力で解くことが出来た喜びのほうが強い様子で。
ミケは一瞬どぎまぎしながらも、喜ぶレティシアを素直に微笑ましく見つめていた。

翌日。数えて7日目、ミケの教育実習が終わる日。
「やった……とうとう…やったわ……!!」
返ってきたテストの答案を握り締め、レティシアは今度は喜びの涙をほろほろと流した。
80点。
満点ではないが、今までの平均点の倍は軽く越している。
小テストとは言え、自分の中では快挙どころか、奇跡に近い数字だ。
自分の席から見やれば、ミケはまだ笑顔で他の生徒に小テストを返している。
(そう……か……ミケ先生…今日でいなくなっちゃうんだ……)
ふっと。思い出して、レティシアの眉が寄った。
(…言っても…いいかな…?私の、気持ち……頑張ったご褒美に…
ミケ先生、いなくなっちゃうんだもん…今言わなきゃ、絶対後悔する……!)
ぎゅ、とテストを握り締めた手に力がこもる。
乙女の瞳は、決意に燃えていた。

「…あ、れ……」
報告書の提出も終え、担当の教師への挨拶も終え。
下駄箱を開けたミケは、中に見慣れぬものが入っているのを見て、首を傾げた。
「……手紙……?」
かさ。
可愛らしいピンクの封筒に、ハートのシール。
ミケは首をかしげたまま、その手紙を開いた。

『ミケ先生
ミケ先生、勉強見てくれてありがとう。成績上がってほっとしたよ。
ところでね、ミケ先生にどうしても伝えたいことがあるの。
学校の裏の、伝説の樹の下で待ってます。
レティシア』

「……ルードさん…?」
ミケは文面を読んで呟くと、急いで靴を履いて外へと駆けていった。

「ルードさん!」
その学校の裏手に、小高い丘があり。
その丘にぽつんと立つ大きな樹が、生徒たちの間で『伝説の樹』と呼ばれているのは、聞いて知っていた。
だから、手紙に書いてあった場所がどこなのかもすぐに判った。
予想通り、大きな樹の下に、見慣れた金のポニーテール。
ミケは手を振って、彼女に呼びかけた。
「ミケ先生!」
彼女は嬉しそうに顔をほころばせて、ミケが駆け寄ってくるのを待つ。
はぁ、はぁ…ミケは呼吸を整えると、彼女に微笑みかけた。
「お待たせしちゃってすみません、ルードさん」
「ミケ先生……」
レティシアは少し寂しそうな顔をして、それから苦笑した。
「もう、先生は実習終わったんだから、ルードさん、何て他人行儀に呼ばないで?レティ、って呼んでくれたら嬉しいな」
「え」
ミケはきょとんとして、それから頬を赤らめた。
「え、えっと……レティ……シア、さん」
ぎくしゃくと、愛称を呼びきれずに戸惑うミケ。
レティシアは苦笑した。
「うーん、まあいいや。あのね、ミケ先生」
レティシアは一瞬ためらうように視線を逸らし、しかし再びミケの方を見た。
「あのね……あの、私、あの……ミケ先生の、こと、が」
「ねえ、レティシアさん」
が、レティシアがその言葉を言う前に、ミケがしみじみと切り出す。
出鼻をくじかれてレティシアが言葉を飲み込むと、ミケは優しく微笑んだ。
「僕、本当は少し……数学教師向いていないんじゃないかって、思ってたんですよ」
「え……?」
きょとんとしてレティシアが声を上げると、ミケは苦笑した。
「おかしいですよね。数学が好きで教師を目指したはずなのに、もっと別の職業が向いてるんじゃないか、とか。でも……」
そして、再び穏やかな微笑をレティシアに向ける。
「……でも、レティシアさんが頑張ってるのを見て、なんだか……やっていけそうな気がします。
ありがとうございました」
「先生……そんな、私の方だって」
思いがけない告白に、レティシアの目尻に涙がにじむ。
ミケは微笑んで、それから困ったように視線を逸らした。
「……それで、ええと、ですね。
レティシアさんさえ、良ければ……その、もう少し、色んな話をしたりしたいなって」
「……え?」
「あ、数学だけなら、まだ先生じゃないですけれど、教えられますから。
そうじゃなくて、えっと、そういうの以外でも、もっと話をしたいって、そう思ったんです。
それで、ですね。
………僕と……」
「………僕と……?」
ごくり、とレティシアの喉が鳴る。
ミケは真剣なまなざしを、レティシアに向けた。
「……僕と、その……交」

ふっ。

「……………」
「……………」
しばし、見詰め合う2人。
しかし、そこは伝説の樹の下ではなく。
ミケはスーツ姿ではなく、いつもの魔道士のローブで。
レティシアもブレザーでなく、可愛らしくもセクシーな短衣を身に纏っていて。
2人の頭に、唐突に記憶が蘇る。
ここはヴィーダ。サザミ・ストリート三番街。冒険者で魔術師の、ミケとレティシア。
見詰め合ったまま硬直していた2人は、そして唐突に、現在の状況を理解した。
「「んなーーーーーーっ!?」」
静かな空き家に、2人のわけのわからない悲鳴が響く。
「うーわーーーー!ご、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
「ご、ごめんなさいはいいから!ミケ!い、今、今何て言おうとしたの?!ねえ?!」
「す、すすすす、すみませんっ!ごめんなさいごめんなさいっ!」
真っ赤な顔で詰め寄るレティシアに、やはり真っ赤な顔でひたすら謝るミケ。
もう何がなにやら、2人にもよくわかっていないようで。

ひらり。

ドタバタと大騒ぎをする2人の頭上から、一枚の紙が降ってくる。
「……っれ……?」
「これ……?」
冷水を浴びせられたように静かになった2人。ミケがその紙を空中で手に取り、書かれていた文面に目を通した。

孤高の石塔 いと高し
真理と戦う 賢人の
飼いならしたる 孔雀の尾

「………なに………これ………?」

H.U.N.A.~その愛と奇跡~

無限に広がる広大な宇宙――
人はその大いなる可能性に新たな一歩を踏み出し、そして瞬く間に我が物としていった。
母星を遠く離れ、彼方の地で新たな繁栄を築く者。
はたまた、一生のうちただの一度も大地を踏みしめることなく、宇宙空間に築かれた要塞都市で終える者。
ある者は成功し、またある者は人知れず宇宙の塵と消えていく。
成功した者同士が、互いを疎み、戦い、勝者が繁栄を築く。
宇宙は人類に多大な可能性と進化を示したようでいて――実のところ、人のすることというのは大して進化はしていないのかもしれない。

「これが……私の乗る船、なのですね」
目の前に大きく聳え立つ鉄の塊に、彼女は緊張と不安を隠せぬ様子だった。
決して派手ではないが、品の良さを感じさせる服を身に纏った少女。穏やかな瞳にはどこか神秘的な光が湛えられていて、見かけの年齢よりもずっと大人びて見える。
彼女の側に付き添っていた壮年の男性が、安心させるように微笑みかけた。
「はい。近くで見るととても大きいでしょう。この船たちに、我らが雛河財閥は支えられているのですよ」
「はい……改めて、感じさせられます」
真剣な表情で呟く彼女。
名は、雛河月姫。
帝国随一の規模を誇る雛河財閥の令嬢であり、次期総裁候補として大事に育てられている。
今日は、月姫が初めて実戦的な商業経験に触れるために商船に乗る日だった。
「整備は順調です。そうお待たせせずに出航できますよ。さあ、中に入ってお待ち下さい」
「はい。ありがとうございます」
月姫は従者に微笑みかけると、すぐ側の転送装置で商船の中へと入っていった。

「おらっ!ちっとそこで反省してろ!
まったく、何度も何度も懲りないヤツだ…いいか、お前は一生ここから逃げることなんざできねえんだよ!わかったか!」
がしゃん!
派手な音を立てて牢の扉が閉められ、がち、と鍵がかけられる。
「へんだ、大きなお世話だっつーの!私は絶対諦めないんだからねー!」
べーっ、と、もう相手もいないのに舌を出す少年…いや少女…?
名をレナスと言う。
幼い頃からこの船で育ち、奴隷のように働かされていた。物心もつき、分別のつく年頃になって、ようやく自分のいるこの船が、帝国でも悪名高い職業海賊船であることを理解した。
「ったーく、ちょっとつまみ食いしたくらいでビンタだし、朝から晩まで便所掃除やらされるし、上下カンケイは厳しいし、やってらんないっつの!」
職業海賊の是非はともかく…というより、レナスはそれこそ奴隷のように働かされていたので、上で何をやっているのかまるで知らないし、海賊行為の片棒を担がされたこともない。
ただ、疲れて帰ってきた海賊たちに当たられ、彼らの宴会の後片付けをし、汚い便所を掃除し、毎日彼らの残飯ばかりを食べさせられ、少し歯向かえば容赦ない制裁が待っているこの状況が、ただただ耐え難い苦痛であった。
だから、レナスは何度も何度も、機会を見てここを逃げ出そうとし、そのたびに捕まって牢に入れられていた。これで数えること99回目。
「あーあ、どうにかして逃げられないもんかなぁ……」
レナスは牢の粗末なベッドに大の字になって、ため息と共に呟いた。

「もうすぐ惑星ゼゾですよ。お疲れ様です、お嬢様」
従者に言われ、月姫はにこりと微笑み返した。
「はい。ここまで何事もなく、安心しています」
商船のメインコントロールルームには、たくさんのクルーが複雑な機材と向き合い、船の運航を順調に進めている。
メインスクリーンに映し出される惑星ゼゾは、主星から3万光年という辺境にある。まだ開発も進んでおらず、だからこそ物資の輸送は命綱とも言える場所だった。
「私、ゼゾに行くのは初めてです……緑色で、綺麗な星…」
「本当はこのような辺境にお嬢様をお連れするのは忍びないのですが…これも総裁の、お嬢様により良い後継者になっていただきたいというお気持ちなのでしょう」
「はい、判っております」
心配そうな従者に、月姫は優しく微笑む。
「この航行を成功させて、お父様を安心させてあげたい…私、がんばりますね」
「お嬢様……」
従者は目頭を熱くした。
と、その時。
ビーッ。ビーッ。ビーッ。ビーッ。
メインコントロールルームの照明が突如赤く変わり、けたたましい警告音が鳴りひびく。
「…?!……これは……!」
「何だ!何が起こったのだ!!ナビゲーター、状況を報告せよ!」
従者の声に応え、ナビゲーターの戸惑ったような声がメインコントロールルームにこだまする。
「後方2キロメートル地点に、未登録大型船の反応をキャッチ!い……いつの間に?!
……!後方だけではありません!2時……10時の方向………え、ええっ?!この船の周囲一帯を、完全に包囲されています!な、何でこんなことが…?!」
「な、何だと?!」
ナビゲーターの言葉に驚く従者の声。
そして、その声と共に。
ずしん。
「きゃあああぁぁっ!!」
雛河財閥の商船が、大きな衝撃に見舞われた。

「おらっ、一緒に入ってろ!」
「きゃっ……」
レナスの牢の扉が開いたかと思うと、いつもの男が新たな人間を牢に入れた。
レナスは驚いて身を起こす。
「あんな商船にこんな上玉が乗ってるなんてな。ゼゾの開発で一儲けした富豪にでも売ってやりゃ、たんまり金出すだろ。へっへっへ、それまでここで大人しくしてるんだな!」
男は下卑た笑みを浮かべてそれだけ言うと、再びがしゃんと扉を閉めた。
「うう……」
男に突き飛ばされ牢に倒れこんだ少女…月姫は、小さく呻いて身を起こした。
慌てて駆け寄るレナス。
「大丈夫っ?」
「あ……ありがとう、ございます…大丈夫、です…」
月姫はレナスに向かって弱々しく微笑みかける。
レナスは目を丸くして感心した。
「…ふぇー!オンナノコだ!初めて見た!」
この海賊船には男ばかりだったらしい。というか、レナス自身も少女であるのだが。
「あなた…は……あなたも、私と同じように捕まったの…?」
月姫が言うと、レナスは不思議そうに自分の服を見た。
「え?あ、いや、一応あいつらと同じ服着てない?」
「あ…そ、そう言われれば……」
驚いて目を丸くする月姫。レナスはぷっと吹き出した。
「おっかしいの。私はレナス。よろしくネッ!」
「雛河月姫と言います」
「月姫……ヒメちゃんか。可愛いね!」
「あの、レナスさんは、どういう……?」
「へ?あぁ、こう見えても、私も女らしいよ?ずーっとこの船で育ったからあんまりよくわかんないけど」
「そう……なのですか?」
「そうなのよー!私もさ、もともと船が襲われたらしくて、生き残ってもこうしてこき使われてるって訳よ」
「まぁ…それでは、私と一緒なのですね……」
「ヒメちゃんもなの?!そうなんだー。ねえ、私生まれて一度もここから出たことないんだよね。外のお話、いろいろ聞かせてよ!」
「えっ?え、ええ……」
戸惑う月姫をよそに、レナスの質問攻撃が始まった。

「ええい、増援はまだなのか?!雛河財閥の令嬢が襲われたのだぞ?!一大事ではないか!」
「そ、それが…通信機器を始め、転移装置もろもろの外部通信手段の電波を、完全にあいつらに掌握されている状態で…!手持ちの軍船で接近しても、予想外の戦力に攻撃をすることさえままならず…」
「…くっ……!制空権は完全に掌握されたか……!」
惑星ゼゾに最も近い帝国の中継基地は、まさに蜂の巣をつついたような騒ぎであった。
名だたる雛河財閥の船が襲われ、その総裁の令嬢が行方不明とあっては、帝国の威信にも関わる。
しかし、海賊たちの戦力を前に、中継基地に常駐している軍隊だけでは手も足も出なかった。
「…このまま、増援を待つしかないのか……!」
司令官が苦い表情で爪を噛んでいた、その時。
「手こずっているようだね」
野太い、だが確かに女性の声がして、彼は振り返った。
「あなたは……柘榴議員!」
見上げるように大きい、だが確かに体つきは女性である彼女の名を、司令官はやや恐怖の色の混じった表情で呼んだ。
柘榴と呼ばれたその女性は、にたり、と形容するのが一番しっくり来る微笑を浮かべると、ゆっくりと司令官に向かって歩いていく。
「手を…貸して欲しいかい?」
「な…何か、策があるのですか?」
聞きたいような聞きたくないような、微妙な面持ち。
というか、この人と関わりたいような関わりたくないような、関わりたくないような。むしろ、関わりたくない。
柘榴はまたにたりと笑った。
「ラッキーだね。ちょうど別件で、私の手持ちの兵器をここに持ってきていたところなのだよ」
「へ、兵器…?」
鸚鵡返しする司令官。
柘榴は勿体をつけて頷いて、それからばっ、と手を上げた。
「見るがいい!」
彼女のすぐ後ろの床がぱかりと開き、ドライアイスの煙と共に何かが床下からももももも、とせり上がってくる。ここつっこまない。
一見して、白い棺おけのような大きな箱状のものである。真ん中の亀裂から観音開きにぱかりと蓋が開き、そこからももうもうとドライアイスの煙がこぼれ出る。
「我がパマグラナート研究所の総力を上げて開発した高密度ナノマシンアンドロイド…High-density United Nanomachine Android、略してH.U.N.A.だ!」

「待て」

大仰に箱の中の物質の名前を叫ぶ柘榴の後ろで、ぬ、と現れ出た人影が冷静につっこんだ。
「…おや千秋君。何かご不満でも?」
千秋、と呼ばれたアンドロイドは、半眼で柘榴を睨み上げる。
「……何なんだ、ここは。お前はどうしてここに…ナノクニにいるんじゃなかったのか?」
「ナノクニ?なんだねそれは」
きょとんとしている柘榴。
千秋は片眉を顰めて…辺りを見回す。
銀色に輝く、無機質な廊下。窓の外に広がる星空。見たこともない風景。
そして、状況を理解して呟いた。
「…そう……か。これが、幻術……か……なるほど…よく出来ている物だ」
苦々しい表情で。
柘榴はそれにも構わず、司令官に向かってとうとうと説明を開始した。
「我々の技術の結晶であるこのナノマシンHUNAは、結合力を弱めることで密度を薄めて気体のような状態になったり、損傷しても周囲の物質を取り込んで再構築することが出来る、AI搭載の最新兵器なのだよ」
(なるほど…では元と同じように、霧散の術を使ったり傷をすばやく治癒できたりはするのだな)
言葉には出さずに確認する千秋。
(えーあいと言うのは………人工、知能…?なんだこれは)
自分の知識には無いはずの言葉が、頭の中に浮かんでくるのに眉を顰める。
まるで、夢の中で、現実ではありえないことが当然になっている、無いはずの知識を知っている…そんな状態のようで。
確かに意識している「自分自身」の記憶と、幻想の世界に「植えつけられた」記憶。どちらがどちらなのか、意識して気を強く持っていないと、すぐにわからなくなってしまいそうで。
額を押さえている千秋の横で、戸惑う司令官にさらに説明を続ける柘榴。
「……と、このような性能を備えているのだよ。あ、ちなみに、減価償却が終了すると人権が発生する。気をつけてくれたまえ」
「……はぁ……」
判ったような判らないような、むしろ判りたくないような表情で、曖昧な返事をする司令官。
柘榴は、ふっ、と格好をつけて笑うと、自信満々に言い放った。
「この鮒さえあれば、宇宙海賊など片手で一ひねりだよ!」
「鮒言うな」

「はぁ……そっかー、ヒメちゃんはお金持ちのお嬢様、なんだねぇ。それがこんなやつらにつかまっちゃって、これから辺境の開発で一儲けした大富豪のヒヒジジイに売られてあーんなことやこーんなことをされちゃうんだー…」
「そ、そこまでは言っていないんですけど……あの、きっとそんなことに…」
大仰なレナスの言葉に、ますます落ち込む月姫。
レナスは眉を寄せた。
「はぁ…そーだねぇ、私はともかく、ヒメちゃんは逃がしてあげたいよねぇ…でも、私一人の力じゃどうにもならないなぁ……」
などと、ぼやいていると。
…どーん……
遠くの方で、なにやら音がする。
「……?なんだろ?」
レナスは起き上がり、牢の隙間から外の様子を見やった。
「んー、よく見えないな……」
「何が起こっているんでしょう…」
レナスの後ろから同様に覗き込む月姫。
「さー……こんな騒ぎ、よくあることだしねぇ…」
と、のんきなコメントをしていると。
ずどーん!
すぐ近くで爆音がして、2人は思わずびくりと身体をすくませる。
「……いやー、ちょっと火薬の量が多かったでしょうか?」
もうもうと立ち込める煙の中から、ぬっと人影が現れた。
それを見て、目を丸くするレナス。
「レトっち!!」
長い黒髪を後ろでまとめ、緑の瞳にメガネをかけた、白衣姿の男性。
彼はレナスを見とめると、へらりと笑って言った。
「やー、レナス。助けに来てさしあげましたよ。待っていてください、今お開けします」
そして、懐から出した得体の知れない機械を牢の鍵の部分に当てる。
ぐぢゅ……
何とも言えない音を立てて、牢の鍵はどろどろに溶け落ちた。
「レトっちー!助けに来てくれたんだね!」
「まぁ、ヒマでしたしね。夕食のおかずが私の嫌いなひじきの煮物でしたし」
意味がわからない。
先程の爆発と謎の機械と合わせ技ですっかり引いている月姫が、恐る恐るレナスに問うた。
「あ、あの、レナスさん……その方は?」
レナスはパッと笑顔になると、月姫に彼を紹介した。
「あ、えーとね。レトっち。この海賊のブレインなんだよー」
「ははは、まあブレインとは名ばかりの、監視つきの厄介者なんですけれどもね」
あっけらかんと言って笑うレト。
レナスは気合を入れるように手の平にこぶしを打ちつけた。
「んむ!これは脱出するしかないね!ちょうど、レトっちが鍵開けてくれたし!99回目!」
「れ、レナスさん…大丈夫、なんですか…?」
心配そうに覗き込む月姫に、レナスは笑顔を返した。
「大丈夫だよー!私だって早くこんなところ出て行きたいしね!
大丈夫!ヒメは私が守ってあげるね!」
戸惑う月姫。やる気満々のレナス。
「んじゃ、いっちょ行きますか!行くよレトっち!」
「はいはい、それでは行きましょうか」
また懐から謎の機械を出して、レトは月姫の手を引くレナスのあとに続いた。

「それで、一体何がどうなっているんだ」
悠然と作戦司令室に陣取った柘榴に、千秋が面倒げに訊ねる。
柘榴は心外、といったように眉を上げた。
「聞いていなかったのかい?帝国有数の財閥の商船が、宇宙海賊に襲われた。間の悪いことに、その商船には現場修行と称して、財閥の時期後継を担う令嬢が乗っていた。当然令嬢は海賊たちにさらわれた。助けに行こうにも、ここいら一帯の制空権をすべて海賊どもに握られ、手も足も出ないというところさ」
「ふむ」
「そこで、君にそのご令嬢を救出しつつ、敵艦隊を殲滅してもらいたい」
「軽く言うな!大事じゃないか…」
柘榴の言ったことは千秋は始めて耳にすることばかりであったが、先ほどと同様にそれを理解するだけの知識が勝手に頭の中に浮かんでくる。ゆえに、柘榴の言っていることが途方もないのだということも理解できた。
…もっとも、彼女は現実の世界でもいつも途方もないことばかりを言うのだが。
「主星からの増援を待ったほうがいいんじゃないのか?」
一応言ってみるが、柘榴は肩を竦めた。
「残念だが、通信機器その他の回線も全てジャックされていてね。こちらからの外部への通信がほぼ出来ない状態なんだ。向こうがこちらの異変に気づいて状況を調査して艦隊を差し向けて…そんなことをしている間に、ご令嬢は殺されるか売り飛ばされるか…どちらにせよ、あまり面白くない事態になるだろう」
「しかし……」
「今ご令嬢に何かあっては、帝国は非常に面白くない事態になるのだよ。
これだけ力をつけている雛河財閥を、今敵に回すのは得策ではない」
「……っ、待て……!」
千秋の表情が変わった。
「雛河…財閥……だと?」
しかし、千秋の様子には構わずに、柘榴は解説を続けた。
「そうだ。帝国位置の財力を誇り、流通・金融はもちろんのこと、政財界にもその人脈は隅々まで行き届いている。下手をしたら乗っ取られかねない勢いだよ。だからこそ、雛河財閥とはうまく均衡を保ってやっていく必要がある。ここで令嬢に何かあれば、彼女を溺愛している総帥は何をしでかすかわかったものではない」
が、柘榴の説明の半分も、千秋の頭には入ってこなかった。
呆然と、呟くように、柘榴に問う。
「……財閥の……令嬢の、名は……?」
柘榴はその問いに、あっさりと答えた。
「雛河月姫。映像資料もあるよ」
言って、手元の機器のスイッチを押す。
すると、千秋の目の前に、月姫の姿がホログラフィーで映し出された。
「……!……月……姫…」
千秋は目を丸くして、その映像に見入る。
かつて、数奇な運命に巻き込まれ、その命を落とした……愛しい、恋人。
当時よりだいぶ大人びた印象があるが…それでも、忘れもしない、大切な少女の姿だった。
千秋は、ぐっ、と拳を握った。
「………わかった。具体的にどうすればいい?」

「…で、どうやって逃げるわけ?こないだレトっちに言われたとおりダストシュートに飛び込んだら風呂に出ちゃってまいったよー!」
「少しだけ計算が狂いましたね。よくあることです」
レナスの苦情をあっさりとかわし、レトは先導して倉庫に続くドアを開けた。
しゅんっ。
軽い音を立てて開いたドアの先には、節操なく物が押し込められた印象のある広いスペースが広がっていた。
「あっ……!あれは……私たちの船!」
月姫が、その中央にでんと鎮座する大きな商船を指差す。
それは、まさしく月姫の乗っていた商船であった。
「襲ったときに体当たりして壊したのでここに押し込められていたんでしょうけど、私が直して差し上げましたよ。これを使って脱出いたしましょう」
言いながら、早速商船のドアを開くレト。
「…あ、あの…そんなところにドアはなかったと思うんですが……」
恐る恐る言う月姫に、笑顔を返して。
「不便でしたので、少々改造させていただきました。性能に問題はないはずですよ」
「…は、はぁ……」
一抹の不安を胸に、月姫もレナスに連れられて搭乗する。
成る程レトの言うとおり、あれだけの衝撃を受けたにもかかわらず商船は異常なく動いていた。時々目にする監視カメラや自動照準装置が気になるが、気にしないことにしてメインコントロールルームに向かう。
「さーて、出航ですよ」
レトは軽く言って、軽やかにコントロールパネルの上に指を滑らせた。
メインスクリーンが起動し、あちこちにランプが点灯する。
「うわー、すごいやレトっち!」
レナスの歓声を背に、レトの瞳に少し危なげな光が灯る。
「行きますよ………ゲットレディ・ゴー!」
レトが手元のレバーを思い切り前に倒すと。
ごがーん!
「んのわあぁぁぁっ?!」
「きゃああっ!」
商船は、いきなり全速力で前進した。
もちろん、正面の壁も何も大破。宇宙空間に出たはいいものの、バックスクリーンを見れば元いた海賊船の旗艦が大混乱に陥っているのは一目瞭然だった。
ほどなく、旗艦から一斉に攻撃が始まる。
「おや、気付かれてしまいましたね」
落ち着いた様子で、レト。
「そりゃそーだ、あはははは!どーすんのレトっち、すっごい的になってるヨ!」
「大丈夫です。こんなこともあろうかと、対銃器バリアを搭載しておきました」
目をらんらんと輝かせて、レトはせわしなく指を動かす。
商船の周りで、攻撃がはじかれて起こったらしい爆発が巻き起こっていく。
「すごいやレトっち!よーし、絶対ヒメを守っちゃうよー!!レトっち、波動砲!」
「了解です…ふっふっふ、私の実力を見せて差し上げましょう…!」
レトがパネルを操作し、商船の上から、うーん、がこん、と大きな砲台が現れる。
「………あぁ……」
自分が乗っていた商船が見る影もなく改造され、微妙に落胆のため息を漏らす月姫。
「波動砲、発射!」
ビイイィィィィィム!
…とかなんかそんなような音を立てて、商船からまばゆい光が旗艦に向かって放たれる。
微妙に照準がずれ、波動砲は旗艦の端の方を掠めるに留まった。それでも、スクリーンでもはっきりと見えるほどに爆発が起こっている。
「やったぁ!さっすがレトっち!」
が。
今度は旗艦の上部から、巨大な砲台がゆっくりと姿を現した。
「……あれは……?」
訊くのがなんとなく恐ろしかったが、月姫がゆっくりと問う。
「うーん」
レトは腕組みをして唸った。
「主砲ですねえ。いやはや、キレやすい世代は困ったものです」
そらキレるだろ。
うーん、という音が聞こえるわけではないが、ゆっくりと砲身をこちらに向ける主砲。
「どーすんのレトっち!もう一回波動砲は?!」
「エネルギーの充填にあと30分かかります」
「遅ッッ!!」
「レナスさん、主砲以外にもまだ攻撃が!」
「へっ?!バリアはどうしたの?」
「エネルギー切れのようですね。右舷大破です」
「冷静に言わないでよーっ!お、おもかじいっぱーいっ!右!右に逃げるよーっっ!!」
「きゃあぁぁぁっ!」
レナスと月姫の悲鳴が、メインコントロールルームにこだました。

「要するに、だ」
「うむ」
「制空権を取られて宇宙に船を出せないなら、船を出さなきゃいいじゃない」
「なんだそのできそこないのマリーアントワネットは。いいからミッションの詳細を説明しろ」
「まったく、千秋君には情緒というものがないね」
肩を竦めて頭を振りながら、柘榴は嘆いた。
「つまり、だ」
「うむ」
「まあ、船でなければ宇宙に突っ込むことも出来るんじゃないか、ということだね」
「何だと?」
ぱちん。
千秋が言及するより早く、柘榴が指を鳴らす。
同時に、ごごごごご、と、すぐ側にあったプールが割れ、その下から何やら巨大な装置が姿を現した。
「…意地でもつっこんでやるもんかと思っていたが…何でこんなところにプールがあるんだ?」
「趣味だよ」
短く言い切って、柘榴はばっと手を上げた。
「これこそが!我がパマグラナート研究所が総力を挙げて開発した、最新型運搬装置!
その名も、マスドライバー!!」
「鮒の次は鱒か!」
千秋が全力でつっこむが、まるで聞いていない様子で続ける柘榴。
「電磁加速を利用して、高速かつ迅速に貨物を輸送する最新鋭の機器だ!」
「もう少し判り易く説明してくれ」
「すごくすごい大砲」
「……判り易いな……」
「まあ、加速が凄すぎて地球では生物の輸送には向かないわけだけど」
「そんなものに俺を乗せるのか!」
「重力が弱い星などでは主流になるらしいよ」
「そんな聖○伝説のような星はいやだ…」
「さあ、早速ミッション開始だ。この小型艇に乗り込みたまえ」
「ダンボールじゃないか!」
「最新鋭の小型艇だよ?生身のまま打ち出さないだけでも有難いと思いたまえよ」
「やっぱり打ち出すのか!」
「さあ、早く乗りたまえ、ほらほら」
「幻術にまで出てきて俺を苛めるなーーーっっ!!」

上司に恵まれなかったら。
はい、ス○ッフサービスです。

ずどーん。
主砲がその砲身に光をたたえ、今にも打ちださんとしたその時。
突如、あらぬ方向から何か箱包みのようなものが主砲に激突した。
「な、なにあれ?何かすごい宅急便が激突したよ?」
程なく、爆発・炎上する主砲。
「あ、主砲壊れた。ラッキー♪」
ぱちんと指を鳴らすレナス。
「今のうちにとっとと逃げちゃお!ほら、あっち超混乱してるみたいだし!」
「了解。もう少し居ても面白くなりそうですけれど、命あっての物種ですね」
レナスの言葉に、再びパネルに指を伸ばすレト。
が。
「待って下さい!」
今までに無く強い口調で、月姫がそれを止めた。
「ヒメ?」
きょとんとするレナス。
「あれは……」
月姫は呆然とメインスクリーンを見詰め、それからパネルを操作してスクリーンの映像を拡大した。
主砲近くで、迎撃ロボットと戦っている千秋の姿が映し出される。
「あー、人間なんだね。ムボーだなぁ、生身で主砲につっこんで爆発させちゃうなんてさー」
「その言葉に何の疑問も持たない君をある意味尊敬しますよ」
レナスとレトがのんきなコメントを交わす横で。
月姫は、ふるふると震える手を口に当てた。
「………千秋……?!」
その言葉に、驚いて月姫のほうを見るレナス。
「え?ヒメ、あのヒト知り合いなの?」
「え……そ、そんなはずは……でも…似てる……」
まだスクリーンに釘付けになったまま、呆然と呟いて。
それから、ふっと表情に力を戻すと、レナスの方を向いた。
「レナスさん、レトさん、申し訳ありません、戻っていただけませんか?
千秋を……助けたいんです!」
レナスは力強く頷いた。
「うん、判ったヨ!レトっち、全速反転!エントロピービーム発射!」
「了解しました」
レトが嬉々として再びパネルに指を滑らせる。
レナスは絶好調で、メインスクリーンにびしっと指を突きつけた。
「突っ込んでったムボーなヒトを援護するよ!!ヒメの大事なヒトだもんね!!」

千秋の侵入と、商船からの遠慮のない攻撃によって、旗艦は甚大な被害と共に大混乱の様相を呈していた。
多少の傷は負ったものの、高性能なナノマシンの力によってすぐに修復され、傷一つ無い姿で千秋はあちこちから煙の上がっている旗艦の内部を歩いている。
(これも…先程の攻撃の痛みも…全て、幻術だと言うのか……ジョンとか言う爺さんは…本当に人間なのか…?)
眉を寄せて、言葉には出さずに呟いて。
そして、その耳に…確かに、その声は届いた。
「……千秋!」
千秋の身体が、びくりと震える。
…おそらく、もう二度と聞くことはないと思っていた声。
ゆっくりと振り返れば、立体映像で見た通りの…少し成長した月姫が、そこに居て。
彼女はうっすらと涙を浮かべて、彼に駆け寄ってきた。
「……千秋……!」
その後ろから、レナスとレトもついてくる。
「なになに、これがヒメの大事なヒト?」
「れ、レナス?」
驚いて名を呼ぶ千秋。が、レナスはきょとんとして首を傾げる。
「…れ?ヒメの知り合いなのに、何で私の名前知ってるの?どこかで会ったっけ?いやー、ごめんね、忘れっぽくてさ」
(記憶が……ない、のか?)
驚愕の表情で、千秋は言葉を詰まらせた。
自分はあの妙な精神干渉のようなものにも気を保っていられたが、そうでない者もいるようだ。千秋は苦い顔でそれ以上の言葉を飲み込んだ。
レナスはパッと微笑むと、レトの袖を掴んで踵を返す。
「んじゃっ!邪魔者は消えるから!2人ともお幸せにっ!」
たたたたっ、と、レナスはレトを連れてその場を去った。

…と思いきや。
「邪魔者は消えるのではないのですか?」
「やー、だって興味あるじゃん♪デバガメ、デバガメ♪」
2人から死角の位置にある壁の後ろで、聞き耳を立てるレナスとレトの姿があった…。

「千秋……」
月姫は潤んだ瞳で、しかし懐かしく愛しいものを見るように微笑んだ。
その笑顔をまっすぐに見つめて……千秋は、自嘲するように顔を歪める。
「……死んでから会うのは、あの時の一回だけと決めたはずなんだがな」
「……?」
首を傾げる月姫。
過去を見る彼の力と、未来を見る彼女の力が偶然引き合わせ…ただの一度だけ、彼女に出会えたことがあった。
目の前に居る彼女は、あの彼女ではない。幻術の力が作り出した、かりそめの…しかし、哀しいくらいにリアルな、幻の姿にすぎない。
千秋は目を閉じて、首を振った。
「…昔は護ってやれなかった。こんなところでそれを叶えるのは自己満足に過ぎんが……ま、やらない方が不快だしな」
目の前の彼女『雛河月姫』は、この世界ではどんな設定なのだろうか。
自分とどんな関係で、どうして自分にこんな暖かいまなざしを向けるのだろうか。
頭の隅に少しだけ引っかかったが、しかしもうそれも、どうでもいいことだった。
千秋は手を伸ばし、月姫の頬に触れた。
「…ああ、少し大きくなったお前は魅力的だと思ったよ。
………だけど、会うのはこれが最後にしておこう」
寂しそうに微笑んで。

「じゃあ、な」

ふっ。

「………はれ?」
がらんとして埃臭い、元喫茶店の中で…意識を取り戻したレナスは、間抜けな声を上げた。
「お目覚めか。まったく、趣味の悪い夢だな」
レナスのすぐ側で、千秋が憮然として声をかける。
「へ?へ?な、なんだったの今の?」
状況がよくわからない様子で、きょろきょろとするレナス。
千秋は嘆息した。
「要するに今のが、幻術、ということなのだろう。記憶や知識のことといい、あの感覚といい…どうやら、ジョン・ウィンソナーというのは相当の術者のようだな」
「ほへー、今のが幻術なの?!すっごいなぁ……」
ひたすら感心するレナス。

ひらり。

2人の頭上から、一枚の紙が落ちてくる。
「…なんだ、これは」
千秋は手を伸ばしてそれを捕まえた。
「なになにー」
レナスも、背伸びをしてそれを覗き込む。

夢見る乙女のときめきガーデン
お花畑でつかまえて
あなたと2人のときめきガーデン

「………何なんだ、これは」

シスター・コップ ~魅惑の潜入捜査官~

「………っ?」
突然襲ってきた眩暈に、アルディアは額を押さえた。
脳天まで響く頭痛に、目の前が真っ暗になる。
「……なんだ…これは」
が、その眩暈も頭痛も、長くは続かなかった。
急速に、視界がクリアになっていく。
…しかし。
「どうしたんですか?先輩」
目の前にいたのは、先ほどまで行動を共にしていた、リィナ。
調査のために教会に足を踏み入れたところで、眩暈と頭痛が襲って…
そして、その一瞬後には、まったく違う景色が広がっていた。
暖色系の可愛らしい壁紙が目を引く、暖かく綺麗に整えられた部屋。
目の前のリィナの格好に至っては、なんと修道服で。
教会に来たのだからシスターの格好をしているのか?と考えてみても、一瞬で姿が変わったことや、この部屋のことまでは説明がつかない。
リィナは心配そうに首をかしげた。
「アルディア先輩、大丈夫ですか?」
「せ、先輩……?」
リィナの言葉に眉を潜めるアルディア。
「……いや、それより…何だ、其の格好は……其れに、此処は一体何処なんだ…?」
アルディアの言葉に、リィナもきょとんとする。
「へ?やだなぁ、アルディア先輩。この学校の教員服じゃないですかぁ」
「教員服…?此れがか…?」
よく見れば、いつの間にか自分も同じ服を纏っていて。
リィナは、何をおかしなことを、という表情で続けた。
「アルディア先輩が、潜入するのにこの衣装がいいって……いやそうじゃなくて、潜入するのに教員として入り込むのがいいんだって、署長に言ったんじゃないですか。
このリリエンベルグ学園はミッション系で、教員は全員シスターっていうことになってて…だから、リィナたちもシスターの格好に…でもこれ、結構かわいいですよねっ」
リィナは立ち上がって、くるりと回って見せた。
リリエンベルグ学園…シスター…署長、潜入捜査。
言葉自体の意味はわかるものの、アルディアにはまったく状況が理解できなかった。
「済まないが…最初から話しては貰えないだろうか……?」
アルディアの言葉に、リィナは心配そうに眉を潜めた。
「先輩…本当に大丈夫ですか?」
そして、リィナはアルディアに確認するように、状況を話し始めた。

まず、2人はこのあたり一体を所轄とする警察署の刑事である…のだそうだ。
ここは、私立ミッション系のリリエンベルグ学園。神の御名の下に、良き妻・良き母を育む、文句無しのお嬢様学校として近隣でも有名な学校だ。
そのリリエンベルグ学園で、一人の生徒が死んだ。
屋上から飛び降りての自殺、ということで、公的には片がついたのだが…死体の状況や生徒の性格などからこの死に疑問を持ったのが…所轄署の署長である、ショウ・ルーファ。
公的に捜査のメスを入れるわけにも行かず、リィナとアルディアに潜入捜査の命が下った、というわけである。
学校側は、当初捜査に対して難色を示していた。が、署長の「何も疚しいところがないのなら、調べられて不都合なことはないはずですよね?」という半ば脅迫のようなごり押しにより、2人が教員と身分を偽って、校内を捜査できるようになったのである。
初日の捜査では、5ヶ月前から、月に1人という異様なペースで長期の欠席者が出ていることがわかった。長期欠席となっている生徒は、4名。学年もクラスも、部活もバラバラで、共通点はない。
いずれも急な病気や家の都合、という名目で長期欠席扱いになっている。

「…なんですけど、署長が裏を調べた結果、その子達は実家には帰ってないんです」
リィナは険しい表情で、指を一本立てた。
「なーんか、この学園って怪しいですよね。新設校だからって、設備がすごい手が込んでるんですよ!プールだって、こーーーーーーんなに大きくて、ホテルみたいな設備なんですもん!相当な資金が必要だと思いますよ!」
オーバーアクションでプールの大きさを表現して。それから、自分でも子供っぽいことをしたと思ったのか、恥ずかしそうに姿勢を正す。
「…っていうわけで、明日からはその、行方不明の4人の事を聞きだそうかな…と。こんなところですかね」
「……うむ…そうだったな。ぼうっとしていて、済まない」
アルディアは神妙な面持ちで頷いた。
説明されている間に、理解する。これが、くだんの幻術なのであろう、と。
この景色も、服の感触も、聞こえてくる音も、何もかもが神経に直接送られてくる偽りの刺激。アルディアが元いた世界とはまったく異なる『世界』を丸ごと作り出しているのだ。
リィナの様子から察するに、彼女には元の世界の記憶がないのだろう。
自分に何故それがあるのかは判らないが…千秋の話によれば、気を強く持つことが幻術を破るきっかけになるという。となれば、意志の強い者には完全に術はかからないのかもしれない。
(……下手に騒ぎ立てるより…此の侭様子を見るか…)
アルディアは声には出さずに呟いて、リィナの方を見た。
リィナはアルディアの様子を心配げに見守っている。
「んー、先輩…さっきも眩暈がしてたとか言ってましたよね。今日の報告はこれぐらいなので、もう休んだ方がいいと思いますよ?」
「そうだな…そうするとしよう。手間をかけたな、今日はもう休もう」
「その方がいいですよ…大丈夫ですか?リィナがついてましょうか?」
「いや…其れには及ばない。大丈夫だ、有難う」
リィナはまだ心配そうだったが、立ち上がるとぺこりとお辞儀をした。
「では、先輩、おやすみなさい…」
「あぁ、お休み」
ぱたん。
ドアが閉まる。
アルディアは真剣な表情で、これから何が起こるのかに思いを馳せた。

「アルディアせんぱーい」
翌日、夕方。
渡り廊下の向こうから、リィナがこちらに気づいて手を振る。
立ち止まって、駆け寄ってくるリィナを待つと、彼女は辺りに誰もいないことを確認して話し始めた。
「収穫はありましたか?」
「まずまずだ。
行方不明になっているセシルとプリセラの2人ともが、実家へ帰省する前日にプールに呼び出されているらしい」
「ええっ、そっちもですか?」
驚いて、リィナ。
「実は、リタさんとソヨンさんも…同じように、失踪する前日にプールの方に呼び出されていたみたいなんですよ」
「何、其方も同じだったか……成る程、益々怪しいな」
「プール、ですもんね……確かにあのあたり、人は来ないみたいですけど…」
呼び出す場所としては、プールというのはあまり適切とはいえない。だがしかし、聞き込みをした生徒は確かに、プールに呼び出されたと言っていた。
「そうだ…呼び出した人物についてはどうだった?」
「えっと…ソヨンさんの方が、2年学年主任のグレッグ神父。リタさんは、3年学年主任のシスター・マリエルです」
「……そうか……こちらは、クレメンテ神父とシスター・エレノアだ。
呼び出した人物は4人とも見事にバラバラ、だったか……此処で一人に絞れたら簡単で良かったのだが…そうも行かないか」
苦笑するアルディアに、リィナがうーんと唸る。
「そうですね。だとしたら、その1人に事情を聞き出せばよかったんですが…うーん、これは大人数での犯行の可能性もありますね」
2人は唸って考え込んだ。
が、アルディアがすぐに顔を上げる。
「取り合えず、目ぼしい情報は其れ位だ。そろそろ行くぞ、このように2人一緒に居る所を見られると何かと不都合だ」
「そうですね…どこを見られてるかわかんないですし…」
もう一度、辺りを見回すリィナ。幸いにも人影らしきものは見当たらない。
「とりあえず、呼び出されたプールは怪しいですよね。今夜調べてみましょうよ」
「うむ、そうだな、私もそう思う。一度、あの辺りを調べておいた方が良い」
「一緒に行くとマズいかもしれませんから…更衣室前に集合、でいいですか?」
「判った、更衣室前に集合だな。了解」
声を抑えて確認しあって、頷く2人。
「んじゃ、また夜に……」
「では」
二人は小さく頷き合うと、すれ違ってその場を離れた。

学園の敷地の最奥、用がなければ決して行かない場所に、その多目的プールはあった。
水の循環システムを使った、24時間稼動している温水プールなのだが、実質上水泳部しか使わない上、おりしも季節は秋。さらに生徒も教員も皆寮にいる時間帯なので、煌々と明りがついているにもかかわらず人気はまったくない。
なるほど、人目につかずに話をするにはうってつけの場所だろう。うってつけの場所である。誰がなんと言おうとうってつけの場所なのだ。ここつっこまない。
アルディアはそのプールの更衣室の前で、リィナを待っていた。
「アルディア先輩、お待たせしました~」
何やら大荷物を持って登場したリィナ。
アルディアは眉を顰めた。
「…?何だ、その大荷物は」
「え?プールでしょ?水着ですよ。署長からもらった『潜入捜査セット』の中にいろいろ入ってましたよ~。あの人ってホント、こういうの好きですよね~」
言いながらもまんざらでもなさそうなリィナ。
「……水着?何故そんな……」
眉をさらに寄せるアルディアに、リィナはきょとんとした表情を向けた。
「え、プールといえば水着でしょ?シスター服のままプールに入れるわけないじゃないですか~」
「…待て。プールの中を捜査するのか?プールの周りの怪しいものを調べるのではなく?」
「へっ?プールの捜査なんだから、プールの中を調べるんじゃないんですか?」
沈黙。
この場合、どちらかというとアルディアの方が正しいと思うのだが。
リィナはきょとんとして首をかしげ、それからにこりと微笑んだ。
「大丈夫ですよ、ちゃーんと先輩のも選んであげますから!」
問題はそこにはない。
「いや、そうではなくてな……」
「…まっ、まさか!スタイルのこと気にしてるとか?!先輩ったら、心配性だなぁ…そんなに素敵なのに」
いや、だから問題はそこにはないというに。
困惑しているアルディアを、このこの~と肘でつつくリィナ。
「………あのな、リィナ……一応仕事中なのだが……はぁ、まぁ、良いか」
何か大きなものを少しずつ諦めていく気持ちで、アルディアはうなだれた。
「そうですよ♪時間もったいないです。いきましょー」
リィナはうきうきした様子で、アルディアの後ろに回って背中を押した。

「わぁ…アルディア先輩、素敵ですぅ…いいなぁ…」
景気よく脱いだアルディアを、うっとりと眺めるリィナ。シナリオでも節操なしの第一歩を踏み出している。
アルディアは嘆息すると、リィナに手を差し出した。
「時間が惜しい。早く水着を貸してくれ」
「あっ、はーい。んーと…こういうのがいいかなぁ…」
荷物の中をごそごそとあさりながら、あれこれと悩んでいる様子のリィナ。
というか、署長はそんなにたくさん水着を持たせたということだろうか。変態度+1。
「何でも良い…早くしてくれ」
「えっ?そうですか……んじゃ、これかな?」
リィナは黒い水着を選び出すと、アルディアに差し出した。
嘆息して、手早くその水着を身につけるアルディア。リィナは満足げに頷いた。
「うん、いいと思いますよー、先輩。せっかくだから、髪もアップにしてまとめてみましょうよ♪」
「……捜査に髪形は関係無いだろう…邪魔になる訳でも無いのだし」
「まあまあ、いいじゃないですか♪」
リィナはもはや捜査のことなど完全に頭に無い様子で、上機嫌でアルディアの髪に櫛を入れ始めた。
「えへへ、かんせーい♪」
褐色肌に黒のホルターネック。髪がアップにされたことで大胆に背中を出す格好になる。
「ふう……全く、面倒なことだ」
アルディアは嘆息して、リィナが着替えるのを待った。
「リィナも着替えました~♪」
ピンクと白のボーダーの三角ビキニは、紐で止めるタイプのもの。髪をまとめているリボンも、ピンクと白にチェンジ。もはや捜査のその字もない。
「えへへ、これでバッチリですね!」
何がバッチリなのかよくわからない。楽しそうにはしゃぐリィナに、アルディアはもう一度嘆息した。
「では、捜査に行くぞ」
「あーっ、待ってくださいよ~」
さっさと更衣室を後にするアルディアを、リィナが慌てて追った。

内部の設備は、こちらもありあまる金を存分にかけたことがありありと判る造りになっていた。
競泳用の25mプールに50mプール。大きな飛び込み台のあるプールに、大きな観客席。校舎に面していない方向は総ガラス張りになっていて、裏手の森とそのうえの綺麗な星空がよく見えた。
「少々時期外れだな」
アルディアが言うと、リィナが頷いた。
「そうですね…あっ、でもプールの水は温水みたいですよ。あったかーい」
プールの端に足をつけて、ぱしゃりと水を飛ばす。
「では、調査を開始するとしよう」
アルディアは言うが早いか、プールに飛び込んだ。フォームがいいのか、さほど音も波も立てず水面に吸い込まれていく。
プールの中を調べて何があるのか、と思いつつ、排水溝の事故も多いようだし、一応調べて異常があったら学校側にもそれとなく報告するか…と、至極真面目なことを考えながら。
一方、リィナの方は、というと。
「んー……何も無いなぁ……」
プールサイドをぐるりと回り、客席、監視員席の下を回っていくが、怪しいところは見当たらない。
飛び込み台のほうを見回るも、やはり何もない。
「…飛び込み台かぁ……」
リィナは呟いて、やおら高い飛び込み台に登り始めた。
「うーん、いい眺め」
結構な高さがあるものの、全く物怖じしないリィナ。楽しそうに微笑むと、何のためらいも無く飛び込んだ。
ざぶん、と景気のいい音がする。
「っぷはー、たのしーい!」
慣れないシスターの生活ですっかり疲れていたのだろう。リィナはもはや捜査のことなどすっかり忘れてはしゃいでいた。
「先輩もどうですかー!」
競泳用のプールの調査を終え、上がってきたアルディアに手を振る。
アルディアは少し眉を寄せて、嘆息した。
「リィナ……遊びでは無いのだぞ。真面目にやらないか」
「うーん、別に血痕とか変な傷とかないですもん。多分、プールでの殺人とかじゃないですよー」
「殺人の痕跡を探していたのか…?」
「あれ、そうじゃなかったでしたっけ」
「行方不明事件の捜査をするのに、殺人の痕跡を探してどうするんだ…」
「えっ?…あ、そ、そういえばそうだっけ…」
「リィナ…お前、うう脳だろう」
「てへ、バレました?」
「…いいから、仕事をしなさい。目的を忘れては駄目だぞ」
「むーん」
口を尖らせるリィナを背に、アルディアはさっさと踵を返して、飛び込み用のプールの周辺を調べ始める。
リィナは不満げな表情で、仕事をするアルディアを見ていたが…不意に、不自然なほどにはしゃぎ始めた。
「ほらっ、アルディアせんぱーい!一緒に遊びましょうよー!」
ぱしゃぱしゃとアルディアに水をかけてみる。
アルディアは仕方ないというように苦笑して、それでもそれを手でさえぎった。
「後で、な。調査を終えてからだ」
「えー」
リィナはまた口を尖らせて…それから、おもむろにプールサイドに上がると、調べているアルディアの後ろから抱きついた。
シナリオで節操なし第2歩目。
「ねーえ、せんぱーい。一緒に遊びましょうよー」
「ほらリィナ、あまり困らせるんじゃない。後で遊んでやるからな」
アルディアは子供をあやすようにぽんぽんと頭を撫でると、真面目な調子で調査を続ける。
「んもぉ…先輩真面目なんだから…しょーがない、リィナも真面目にやるかぁ……」
と、リィナが姿勢を正しかけた、その時。

「あーっ、もう、駄目だよ!それじゃあ!」
突然響いた男の声に、二人は驚いて振り返った。
「し、ショウ署長?!」
リィナが彼の名前を呼ぶ。
そこにいたのは、トランクスにパーカーを羽織り、カメラを下げた警察署長・ショウその人だった。
「な、何しに来たんですか!」
潜入捜査を命じたはずの署長が潜入先に現れたのだ。リィナは面食らった顔でショウに詰め寄った。
ショウは胸元のカメラを手にとって、爽やかに微笑んだ。
「それはだな!署員に人気のあるリィナとアルディアの写真集を作るために盗み撮…違う!二人の仕事振りを視察にさ!」
「今はっきり盗み撮りって言いましたよね……」
「まったく、何をしているのやら…」
冷めた目で見つめるリィナとアルディア。
変態度+2。
ショウは慌てて首を振った。
「なんだその目はー!違う、断じて違うぞっ!」
真剣な顔つきで、びし、と指を突きつける。
「そんなことより、アルディア!リィナ!なんだ、その元気の無さは!こうさ…もっとはじけようよ!」
「へ?」
唖然とする2人。
「もっと、2人ではしゃいだりした健康的なショットや、セクシーな絵が撮りたいんだよ!」
「やっぱり写真集作るんじゃないですか!」
速攻で突っ込むリィナ。
アルディアは呆れたように嘆息した。
「署長…調査の方はどうするのです?」
「調査?報告は受けてるよ。だいぶ進んでるじゃない。だが!今はどうでもいい!こんなラッキーなツーショットはなかなかない!」
もはや隠す気さえないらしい。
さすがはうう脳兄妹である。
「というわけで、署長命令!二人とも、協力しなさい」
最後は権力に訴えた。
「しかし、調査を……」
「調査はあとでもいいから!ほらほら、2人とも笑顔、笑顔!」
アルディアの言葉をあっさり跳ね除けて、カメラを構えるショウ。
アルディアは諦めたようにため息をついた。

「まずは、リィナのショット!」
「は、はいっ!」
ショウの妙な迫力に押されてか、言われたとおりにポーズを撮るリィナ。
少女誌のモデルのようなポーズから、プールサイドでビーチボールに抱きついているポーズ、プールではしゃぐ自然体のショット。上から上目遣いの表情を撮ってみたり、やりたい放題だ。
「リィナは可愛く!キュートさが大事だよー!」
「こ、こうかなっ?」
なんだかんだ言いつつノリノリのリィナ。
ショウは一通り撮り終えて満足したらしく、汗をぬぐって笑顔で言った。
「よーし、リィナ、お疲れ~!」
「ありがとうございましたー!」
礼を言ってどうする。
「よし、じゃあ次はアルディア!」
「えっ……私も、ですか……」
眉を寄せるアルディアに、またもびしっと指を突きつけるショウ。
「署長命令だ!やってくれるね!」
「はあ…」
あからさまに乗り気でないアルディア。
しかし、仕事だと思ったのだろう。ショウの言われるままに、ポーズを付けていく。
「そう!そんな感じで…もう少し胸を寄せて!いいねえ!」
変態度+3。
アルディアは呆れ顔で、先程のリィナより少し色気のあるポーズを言われるままに取る。
「いいよ~そのクールな感じ!もっとセクシーに!
そのポーズのまま!こっち見て!いやそっちじゃない、右、右だよ!…そうそう!」
テンションが上がっていくショウ。それと反比例に冷たくなっていくアルディアの視線。
そして、また一通り撮り終えて満足したショウは、汗をぬぐって笑顔を向けた。
「よーし、アルディアもOKかな」
アルディアはふぅ、と息をついて立ち上がった。
「では、調査に……」
「よっしゃ、今度は2ショットだ!」
「えええええ!」
さすがに、まだ撮るのー?!と言わんばかりの表情の二人。
しかし、テンションの上がったショウは誰にも止められなかった。
「まずは、プールの中で2人ではしゃいで!…そう、リィナがビーチボール持って!いいねぇ…それじゃあ、今度はプールサイドで2人寝そべってみようか!」
さすがに、リィナの表情もテンションが下がってきている。アルディアに至っては氷点下だ。
それからも続けて、2人でポーズを取っているところや、2人顔を近づけているところ、プールにボートを浮かべて2人で乗っているところ(もちろんボートはショウが用意した)などなど…ありとあらゆる角度から撮りまくった。
変態度+4。
「いいねぇ…セクシー&キュートのツーショット!」
ショウはノリノリだ。
「さて、だいぶ撮ったなぁ…次行こうか」
「えええ、まだ撮るんですかー」
今度はあからさまに不満顔のリィナ。
ショウは力強く頷いた。
「いやいや、これからが本番だよ。いよいよ今回の目玉だからねー。
ってことで、俺の個人コレクション用に、水着をぬ…」
どごっ。
ショウの言葉は最後まで続かなかった。
リィナの振り下ろした100tハンマーが、見事に脳天に命中していて。
「っっぜっっっっっったいにお断りしますっ!!」
絶叫するリィナ。
ショウは何とか体勢を立て直すと、舌打ちをした。
「……ちっ、無理か…」
変態度MAX。
リィナは笑顔で、もう一つハンマーを構えた。
「もう一発行きますか?」
「はははは、帰ります。がんばってねー♪」
引き際も鮮やかに、ショウはどこへともなく姿を消していった。
「んまったく…!何しに来たんだか…!」
変態度をアピールに来たんじゃないでしょうか。
「はぁーあ、何だか疲れちゃったぁ。先輩、ちょっと休みましょう」
「うむ…そうだな」
さすがにげっそりとした表情で、リィナに続いてプールサイドに上がるアルディア。
「…やっぱり、何にも手がかり無かったですね…」
「……そうだな………っ?!」
ばっ。
いつの間に後ろに来ていたのだろう。
突如、2人は後ろから羽交い締めにされ、布を口に押し当てられた。
「んぐーっ?!んんーっ、んーっ!……」
驚いて暴れるリィナだったが、口に当てられた布に何かがしみこんでいたらしい。あっさりと意識を失い、その場に崩れ落ちる。
「んーっ!んんっ、んーっ!ぷぁっ!」
アルディアは力の限り抵抗し、何とか腕を振り切ってリィナに駆け寄った。
「リィナ!大丈夫か、リィナ!」
リィナを揺り動かしつつも、強烈な倦怠感が体を襲っているのを感じる。睡眠薬だろうか。
「薬を嗅がなかったのか…?!」
驚いてかけられる声。視界すらかすむ中、アルディアは声の主を睨みつけた。
「……私に……薬は、効かない……っ!」
アルディアは薬師なのだから、もともと薬には耐性がある。もっとも、これは彼女の扱う薬とは違うタイプの薬のようで、今にも気を失いかねないほどに睡魔が襲ってきているのだが…
相手の、舌打ちが聞こえたような気がした。
「ちっ……なら、これで眠れ!」
その言葉と共に。
ばちん、という音と、すさまじい衝撃が彼女の身体を貫いた。
そして今度こそ、彼女の意識は暗転した。

「………ん……」
少し顔をしかめて、アルディアは目を覚ました。
薄暗い部屋。打ちっぱなしのコンクリートの壁が見える。見覚えはない。
「……く…」
ちゃり。
動こうとして、自分の手足が鎖で拘束されているのに気付く。
隣にはリィナが、同じように手足を拘束されて眠っている。
アルディアは身体をゆすってリィナに呼びかけた。
「リィナ…リィナ、起きろ」
「ん……」
リィナも眠りは浅かったらしく、呼びかけに答えて目を覚ます。
「ここ……は……」
「判らない……どうやら、眠らされて連れてこられたようだな」
「…わっ?!な、なにこの鎖!」
「脱出して連絡を取りたいところだが……そうも行かないようだ…」
苦々しげに、アルディア。
と、その時。
きぃ。
硬い音がして、部屋に光が差し込む。
「…おや」
誰かが入ってきたようだったが、逆光でよく見えない。男の声。
妙に懐かしく響く…声。
「どうやら、2人ともお目覚めのようだね…」
部屋の明かりが灯され、照らし出された男の姿に……アルディアは目を見開いた。
短く整えられた茶色の髪。茶色の瞳。鍛え上げられた身体。
忘れもしない。忘れられるはずがない。
それは、5年前に死に別れたはずの、夫の姿だった。
あまりのことに声も出ず、ぱくぱくと口を開くアルディア。
「あ……」
『あなた』と呼びかけようとしたが、それをリィナの声が遮った。
「バジル理事長?!」
「え……は?り、理事、長……?」
再び唖然とするアルディア。
「初日の捜査で会ったじゃないですか!この学園の理事長ですよ!まさか…理事長自らが犯罪に加担していたなんて…!」
信じられない、という様子で、リィナ。
バジルは…バジルの姿をしたもの、は、ふっ、と格好をつけて笑った。
「せっかく自殺の証拠をでっち上げたのだから、それを信じてとっとと諦めて帰ればよかったものを…でしゃばるからこういうことになる」
「やっぱり…あれは自殺なんかじゃなかったんだね!どういうことなの!」
リィナとバジルのやり取りを聞きながら、アルディアは徐々に状況を理解し、落ち着きを取り戻した。
つまり、この幻術の世界での夫…バジルの役目は、この学園の理事長であり、悪の親玉であると…そういうことなのだろう。
そんなアルディアをよそに、バジルは悪役の笑みを浮かべながら続けた。
「この学園そのものが、上質な少女たちを集め、そして売りさばくために造ったものだ…ということだ。少女たちを集め、教育を施しながら…商品になりそうな少女を選別する。そして、プールに呼び出して拉致し、売りさばいていたんだよ。ここは商品を引き渡す前に一時保管しておく部屋だ」
「じゃあ……じゃあ、行方不明の4人は……」
リィナが言うと、バジルはふっと鼻で笑った。
「当然。すでに売り渡した後だ」
「っ……!じゃあ、じゃああの自殺した子は…!」
「一度捕まえてここに閉じ込めたのだが、逃げられてしまってね。屋上に追い詰めたら、自分から飛び降りてしまったんだよ。残念だ、いい商品だったのに…先方に断りを入れるのが大変だったよ」
「……っ、サイテー…!」
吐き捨てるように毒づくリィナ。
そのやり取りを、アルディアはどこか冷めた表情で見守っていた。
(非合理的だな。…口調も微妙に違う)
魔術のことはよくわからないが、おそらくアルディアの記憶を読み取って構成しているのだろう。しかし、あのお人よしにバカがつくような夫が悪役であるという設定だからか、ディテールは甘い。
だが、姿や声は本当によく似ている。言動を除けば、もう会うことの出来ない夫に再開できた感動というものも、無くはない。幻術とはすごいものなのだな、と、アルディアは素直に感心していた。
が。
誰にも限界というものはある。
「っていうか…何で呼び出すのがプールなの?昼間から思ってたんだけど」
リィナが言うと、バジルは再びふっと笑った。
「決まっているじゃないか、私の趣味だ」
バジルの発言に、固まるアルディア。
「…………は?」
思わず、間の抜けた声で問い返す。
バジルは続けた。
「水着は男の浪漫だ。それも、変に流行に乗った健康的なものではなく、昔ながらの、野暮ったいながらも若い肉体の魅力を充分に生かせるスクール水着が良い。そして、そんなうら若い乙女の肩や太股辺りから滴る水が、さらに色気をかもし出して……」
「………」
ぴき。
アルディアの額に浮き出る血管。
幻術だと。
幻術だといくら言い聞かせても、恍惚とした笑みと共にスクール水着の魅力を語る夫に、アルディアの堪忍袋の緒がみちみちと音を立てる。
「たまに勘違いしているやつもいるが、スク水の魅力を最大限に引き出してくれるのは、豊満な胸とくびれた細い腰を持つ女ではない…断じてない!
スク水が似合うのは、ぺたんこな発展途上の胸と、凹凸の少ない全体的にすらりとした身体を持つ、可愛らしい幼女だ!」
「………………」
さらに幼女萌え。
決定打にもほどがある。
「しかし、私の好みを常に買い手側に押し付けるわけにもいかなくてね…とりあえず今は、客のニーズに合わせて攫う少女を選んでいる…」
「………………だ、ま……れ……」
アルディアは怒りに身体を震わせながら、低く言った。
しかし、バジルは気付かずに演説を続ける。
「…まぁ、そういうわけで、これ以上貴方がたに嗅ぎまわられるのはさすがにやりにくいのでね。
申し訳ないが、行方不明になってもらわねばならない…だが。
君達の勇敢さに敬意を表して……今回は特別に、この私が存分に可愛がってやろう……」
じり、と二人に近づくバジル。
アルディアは俯いたまま、肩をふるふると震わせている。
バジルは少し視線を逸らして、ぽつりと付け足した。
「…本当は年増に興味はないのだが……」
ぶち。
限界に来ていたアルディアの堪忍袋の尾が、見事に切れた。

パァン!

甲高い金属音が、部屋中にこだまする。続いて、がしゃ、がしゃがしゃ、と細かい金属が床に散らばって。
「あ……アルディア、せん…ぱい……?」
リィナが呆然と、アルディアの名前を呼ぶ。
今の音が…アルディアが、自分を拘束していた鎖を力ずくで引きちぎった音だと理解して。
アルディアはリィナには構わずに、ゆらり、と立ち上がった。
そのまま、ゆっくりとバジルに近づこうとして…同様に、足も鎖で拘束されていたことに気付く。
アルディアは冷たい目でそれを見下ろして……
「……ふんっ!」
ぶち。
あっという間に、足の鎖も同様に引きちぎられる。
ついでにリィナの鎖も破壊し、アルディアは再びゆらりとバジルの方に向き直った。
「…ひ、ひぃ……」
腰を抜かし、恐怖に顔を引きつらせるバジル。
「よくもふざけた真似を………幻術とはいえ、許せん!貴様を殺して私も死ぬーーーーっっ!!」
アルディアは彼に馬乗りになると、その首をギリギリと絞め始めた。
「ろ、ロープロープ!」
「あ、アルディア先輩、ダメですー!」
バジルの胸倉を掴んでがくがくと振り回すアルディアを、必死になって止めに入るリィナ。
「止めるな、リィナ!私は、私はーっっ!!」
「アルディア先輩、落ち着いてくださいーっ!」

ふっ。

ドタバタが最高潮に達したところで、不意にあたりの景色が変わった。
アルディアの下敷きになっていたはずのバジルもいない。アルディアの胴にリィナがしがみついているだけだ。
幻術の効き目が、切れたのだ。
「あ……あれ……ここは……」
しかし、アルディアはそれに気付いていないようだった。
「逃げるなーっ!何処へ行った?!何処へ逃げても同じだ!見つけ出し次第、殺す!」
元の寂れた教会に戻ったことさえ気づいているのかいないのか、アルディアはそう喚き散らしながら勢いよく辺りを歩き回る。
「あ、アルディアさん?!え?!お、落ち着いてー!」
再び、アルディアの胴にしがみついてそれを止めるリィナ。
そこに。

ひらり。

一枚の紙が、二人の頭上から落ちてきた。
「はれ。紙…?」
リィナはきょとんとして、床に落ちたその紙を拾う。
アルディアも我に返ったらしく、呆然とその様子を見守った。
「なになに…………」

わたしのだいすきなたべものは
さむいふゆでも あつあつおでん
だいこん たまご ちくわにこんぶ

「……なにこれ」

Again ~君の笑顔が見たいから~

「……っ、あれ……ここは……」
不意に襲った眩暈から回復し…クルムは、辺りをきょろきょろと見回した。
見覚えの無い室内。狭いアパートのような…だが、どこか見覚えのあるつくりをしている。
「……クルムさんの部屋、のようですね」
隣にいたエリウスが、頭を押さえて言った。
「…っ、エリウス、その格好は…!」
先ほどと全く違う、質素な服に身を包んでいるエリウス。髪の毛も、後ろでひとつにまとめていて。
エリウスは苦笑した。
「クルムさんも、同じ格好をしていますよ」
「えっ?……あ、ほ、本当だ」
驚いて自分の姿を見下ろすと…やはり、自分も同じような格好をしている。
「これが…幻術、なのか?」
「…はい。頭の中に…無いはずの情報が紛れ込んでいませんか。僕とクルムさんは、同郷の親友で…この街に来て、同じ職場で働いている…貧しくも慎ましく、お互いの家を行き来するほどの友である…と」
「そういえば……」
自分の心を探ってみれば…言葉としての情報ではなく、確かに『そう感じられる』。夢の中で、夢の中の世界が当たり前だと感じているように…だが、現実の自分の記憶も確かにある。不思議な感覚。
「おそらくは…僕達の精神に干渉して、記憶を読み取って構築しているところもあるのだと思いますが…」
「…そういえば、ヴィーダのオレの部屋と似ているような気がする…へぇ…すごいんだな…」
感心するクルム。
エリウスはわずかに眉を寄せたまま、黙り込んだ。
と。
がちゃ。
ふいに部屋のドアが開いた。
「クルム!よかった、ここにいたのね」
「………テア?!」
クルムは驚いて、入ってきた彼女の名を呼んだ。
肩口で整えられた琥珀色の髪。不思議な輝きを宿す、深い藍色の瞳。
いつもの服ではなく、メイドの服を着てはいたが…確かにそれは、クルムの下宿先で共に暮らしている少女、システィア・フォルナートだった。
テアは急いで部屋に駆け込んでくると、慌てた様子で言った。
「クルム、今は時間が無いの。エリウスがあなたのところにいるって聞いて…ああ、エリウス!」
テアはエリウスの姿に気づくと、そちらに駆け寄った。
「お嬢様が、お嬢様が大変なの」
縋りつくように訴える。エリウスは少し眉を寄せて、しかし落ち着いた様子でテアの肩に手を置いた。
「…落ち着いてください。お嬢様がどうしたのです?」
「旦那様が、急にお嬢様の結婚話を進められて…お相手は20以上も年の離れた、あまりいいお噂を聞かないアルフォンス公爵よ。以前からお話があって、お嬢様はずっと断り続けていたのだけど、旦那様が強行されたの。このままでは数日のうちに、お嬢様は意に沿わない結婚をさせられてしまうわ」
辛そうに俯いて、それからまた顔を上げる。
「…お嬢様は、エリウスのことがお好きなのに」
エリウスの瞳が、わずかに見開かれる。
クルムは状況がよく分かっていない様子で、テアとエリウスを交互に見た。
「旦那様は、お嬢様が何を言ってもお聞きくださらないの。そればかりか、お嬢様をお部屋に閉じ込めてしまわれたわ。
それからお嬢様はずっと泣いていらっしゃるの…泣いて、エリウスの名前を呼んで…お可哀想なお嬢様…」
まるで自分のことのように、悲しい表情を作るテア。
彼らが言葉を発せずにいると、テアはポケットに手を入れて何かを出した。
「私、見ていられなくって、お屋敷から抜け出してきたの。これ…使用人通用門のスペアキー」
取り出した銀色の鍵を、エリウスの手のひらに落とし、その手ごと包み込むように握り締める。
「エリウス、お願い。これでお屋敷に入って、お嬢様に会いに来て。
どうか、お嬢様を救ってさしあげて」
切実な瞳を、黙って見つめ返すエリウス。
テアは続けた。
「お嬢様のお部屋の前には、旦那様が見張りをつけたの。お嬢様が逃げ出さないようにって…いくら血の繋がらない娘だからって、ひどい…
だから、使用人の部屋から外壁へ出て、ベランダからお嬢様の部屋に入って」
「………わかりました」
エリウスは浅く頷いた。テアは少しだけ安心したように微笑むと、手を放して後ろに下がる。
「じゃあ、私もう行かなくちゃ。そんなに長く抜け出していられないの。
エリウス、お願いね。きっとよ」
それだけ言い残し、テアは部屋を後にした。

「…エリウス……テアと知り合いなのか?」
まだ呆然とした表情で、クルム。エリウスは苦笑した。
「まさか。テアさん、と仰るのですね。あの方は」
「えっ……でも、テアもエリウスも、お互いが知っているようなことを…それに、お嬢様って……」
「クルムさん、落ち着いてください。ここは、先生が作った幻術の世界です」
「……あ、そうか……」
エリウスに言われ、クルムは先ほど言われたことを思い出す。
「オレの記憶を読み取って、この世界の登場人物としてテアを出した、っていうことなんだな」
クルムはようやっと飲み込んだ様子で、大きく息をついた。
「でも……声も姿も、喋り方もそっくりだ…すごい人なんだな、エリウスの師匠って」
「おそらくは……この世界で僕達が、師匠に与えられた『役割』をこなさないことには、この術を解いてはもらえない仕組みになっているのでしょう」
少し苦い顔で、エリウス。
「じゃあ、他のみんなのところも…?」
「おそらくは。反応を感じた4つのところには、いずれもこのような魔術の仕掛けを、先生が残されたのだと思います。それを察知して、僕が探しに来ることまで計算の上で」
「はぁ………すごいんだな」
「これほどに強い干渉となると、僕やクルムさんのように、よほど強く気を保っていられる方でない限りは、もとの世界の記憶もすっかり忘れて、その世界の中に入り込んでしまうのだと思います。まるで夢を見させられているように」
「でも、こんなにはっきりと見えて、聞こえて、感じられるなんて…エリウスがきちんと言ってくれなければ、ここが幻術の世界であるということさえ忘れてしまいそうだよ」
「……そうですね」
エリウスは苦笑した。
「…ともかく…ひとまずは、先ほどのテアさんの仰ったとおり、その『お嬢様』とやらを助け出す必要がありそうです。僕はどうやら、その『お嬢様』が密かに逢瀬を重ね、恋焦がれている少年、という設定のようですから…」
「そうか。じゃあ、早速行こう!そのお屋敷に」
真剣な表情でクルムが言い、エリウスもそれに頷き返した。

夜。
2人はテアに渡された鍵を使い、屋敷の通用門から敷地に入った。
言われたとおり、使用人の部屋から外壁へ出る。
「どっちだったっけ……左?右?」
「…右です。建物の構造を見た限りでは…」
「右だな。よし、行こう」
クルムは頷いて、外壁を右へと伝っていった。ほどなく、くだんのベランダに到着する。
窓の鍵はかかっていなかった。
「…テアが開けてくれたのかな」
「…そのようですね。行きましょう」
そっと、音を立てないようにして窓を開けるエリウス。
窓から吹き込んだ風が、部屋の中にあるレースのカーテンを優しく揺らす。
その向こうで、一人、豪奢なベッドに身体を伏せている少女がいた。
あれが『お嬢様』に違いない。
「…………」
そっと足を踏み入れると、その気配に気づいたのか、少女が顔を上げた。
「誰?」
その顔に、クルムとエリウスの目が見開かれる。
流れる銀の髪、大きな薄紫の瞳。年は2人と同じほどの、あどけなさの中に不思議な落ち着きをたたえた表情。

「「………リー?!」」

二人の声がハモる。
「えっ」
「……っ」
クルムが驚いてエリウスの方を見、エリウスがそれに気づいて、しまった、という表情になる。
そこにいたのは、かつてクルムに親友の護衛を依頼した少女。天使と人間のハーフである、ミカエリス・リーファ・トキスだった。
しかし、何故彼女のことをエリウスが知っているのだろう。
が、クルムがそうエリウスに問いただすより早く、リーがこちらへ駆け寄ってきた。
「……エリー…!!」
感極まってそう叫んで、エリウスの胸に飛び込むリー。
エリウスは呆然とした表情で、彼女を見下ろした。
「来てくれるって…信じてた……!あたし……あたし、もう…!」
薄紫の瞳にいっぱい涙をためて、リーはエリウスに訴える。
「あなた以外の人と結ばれるなんて、考えられない……けど、お父様が…!このままじゃ、あたし…!」
興奮して、徐々に声が高くなっていくリー。
クルムは慌てて、彼女に囁きかける。
(リー、ダメだ!そんなに大きな声を出したら、見張りが…)
「お嬢様?!お嬢様、いかがなさいましたか?!」
ドンドン、とドアを叩く音が響く。リーはびくりと身を震わせてそちらを向いた。
バタン!
ほどなく、ドアが派手な音を立てて開き、黒服の男達が部屋になだれ込む。
彼らは目ざとく二人を見つけると、険しい顔をして指を突きつけた。
「何者だ、お前達?!お嬢様に何をする?!」
「まずい、エリウス。ここはひとまず逃げよう……」
クルムは慌ててエリウスのほうを向き…その様子に眉を顰める。
「……エリウス?」
俯いて肩を震わせているエリウス。
不審に思って顔を覗き込めば。
「………っ」
小刻みに肩を振るわせたエリウスの顔は、あの穏やかな表情とは打って変わった、怒りに満ちたもので。
「………っあ…んの……ジジイ……!」
かすかに。聞こえるか聞こえないかの声で、エリウスは毒づいた。
クルムは困惑の表情で、エリウスと、リーと、そして黒服の男達を交互に見やり…
「とにかく、逃げよう!」
半ば無理矢理エリウスの腕を取ると、その腕を引いてベランダから外へと飛び降りた。

はあ、はあ、はあ。
息を切らせて、2人はアパートのドアにもたれかかった。
追手は何とか撒いてきた。このアパートの場所までは知られていないはずだ。
ひとまずは、安心……といったところだが。
「エリウス……」
まだ苦い表情のエリウスに、クルムは複雑な表情を向けた。
『エリー!』
あの時、リーは確かにエリウスの事をそう呼んだ。
その名前には……聞き覚えがある。
『その相手っていうのは…エリー?』
『傲慢で自信家で…二枚舌で、嘘つきで。大事なことは何一つ言わないのに…それでも、想うのは止められない。
あたしがドキドキするのも嬉しくなるのも、一言で一喜一憂するのも、苛々するのも泣きたくなるのも…彼に対してだけ。それ以外に、考えられないわ』
新年祭。
偶然会ったリーが、エリーという恋人のことを、そう語っていた。
訊いてもいいものなのか。しかし、ここまで来て訊かないのも変だろう。
「エリウスが……エリー、なのか?」
おそるおそるといった様子で、クルムはエリウスに訊ねる。
エリウスは横目でそれを見やり……そして、諦めたように嘆息した。
「……覚えているよ。クルム・ウィーグ。リーの雇った冒険者だろ」
その口調も、纏っている雰囲気も。
先ほどまでの優しげな、穏やかで丁寧な彼とは、あまりにもかけ離れていて。
クルムは驚くと同時に……彼に見覚えがあった理由を、ようやっと理解した。
『……雇われ人の教育がなってないんじゃないのか、リー』
リーに雇われ、彼女の親友の護衛として旅立つ直前。
突然現れた、金髪の少年。
ふてぶてしい態度でそう言った彼は、まさしく今のエリウスと同じ『彼』だった。
エリウス……エリーは嘆息して、部屋の中へと歩いていきながら言った。
「改めて自己紹介でもしようか?俺の名は、レスティック・エリウス・サラディ」
それについて部屋の中に入るクルムを振り返って、肩を竦める。
「…お察しの通り。天界から来た、天使だ」
(……天使……)
リーの親友は、『エリー』を称して『性悪天使』と言っていた。
ということは、正真正銘、目の前の彼は、リーと同じ…天使、なのだろう。それも、生粋の。
「…こんなことになるから、あまりあの爺さんには関わりあいになりたくなかったんだがな」
エリーは嘆息して言って、側にあった椅子に腰掛けた。
「じゃあ……ジョン・ウィンソナーさんっていうのも…」
「ああ、天使だ。納得行ったろ、これだけの術の使い手なんだ」
「確かに…」
いくら幻術になじみがないとは言え、これだけの術を、人間が使えるとは到底考えられない。
エリーが正体を現したことで、急にいろいろなものがパズルのピースのようにかちりとはまった。
エリーは再び嘆息して、クルムから視線を逸らした。
「……失敗したな。あんたの知り合いがここに出てきた時点で、こうなる可能性を考えるべきだった。…いくら師匠といえども、俺の頭の中までは覗けないと、油断したのが仇になったな。
突然現れたリーに、不覚にも動揺しちまった。あんたたちには、この顔は見せるつもりはなかったのに」
「エリウス……」
「…エリーでいい。この顔と…リーのことが知られたのなら、特に隠す理由も無いしな」
「……なんで」
「当然だろう?天使だなんてのは、あまりおおっぴらに触れ回っていいことじゃない。腐っても天使だ、それくらいの弁えはあるさ。あんたも内緒にしておいてくれないか。出来れば他の連中にも知られたくない…凄腕の幻術の師匠、とだけで済ませられれば、それが一番いいからな」
「そうじゃなくて」
エリーの言葉をさえぎって、クルムは言った。
「『エリウス』と『エリー』と……どうして、二つの顔を使い分けるんだ?
今の顔が……エリーの本当の顔なんだろう?」
表情をなくして黙り込むエリー。
長い沈黙のあとに、エリーは複雑な表情で笑った。
嘲笑するような…それでいて、どこか自嘲を含んだ、笑み。
「……そのほうが、楽だからさ」
「…楽だから?」
「ああ。ああやって、穏やかで人当たりがよく、思慮深くつつましい仮面をつけてやれば、他人に信用されやすいからな。処世術だよ」
「処世術……」
呟いたクルムも、複雑な表情をする。
処世術と称して本当の自分を仮面の下に押し込め、彼はどんな気持ちで人々に接しているのだろう。それは想像するしかないが、思いを馳せてみれば切なさしか湧きあがってこない。
……だが。
「…でも、リーは特別なんだな」
「……なに?」
クルムの言葉に、エリーは片眉を顰めた。
「リーには、その顔で接してるんだろ?リーがそう思ってるように、エリーもリーのことを特別に思ってるんだな、と思って」
「な、にを……」
「だって」
クルムは嬉しそうに微笑んだ。
「この幻術は、オレ達の心を読み取って、それを元に世界を構築してるんだろ?
だったら、リーがエリーの恋人として登場したっていうことは、エリーの中でリーが一番大事な部分を占めているっていうことかな、と思って」
「………っ」
エリーは返す言葉を失った。
頬がかすかに赤い。何かをごまかすように顔を背けて、小さく舌打ちをする。
彼の口から、明確な言葉はないものの…その渋面が彼の心を如実に表していて。
クルムは、そのことを素直に嬉しいと思った。リーの…大切な友人のまっすぐな思いは、確かに叶っているのだと。
「…っ。そんなことより。さっきも言ったが、このことは……」
「判ってるよ。他のみんなには言わない。安心してくれていいよ」
なおもにこにこと嬉しそうに、クルム。
エリーは釈然としない顔で黙り込んだ。
と。
こんこん。
ノックの音がして、返事も待たずにドアが開く。
「エリウス、クルム!」
慌しい様子で飛び込んできたのは、テア。
彼女は足を止めて息を整えながら、言った。
「ごめんなさい、私の、せいで…」
「テア?」
クルムが心配げにテアに歩み寄る。
テアは悲しげな表情で、エリーとクルムを交互に見た。
「あなた達が危ない思いをして、お嬢様を助けに来てくれたのに…見張りの目が厳しくて、私、エリウスが来ることを事前にお嬢様にお伝えすることが出来なかったの。
だから、エリウスを見て、お嬢様は驚かれて…」
リーの気が高ぶって、結果見張りが飛び込んでくる事態になったことを、テアは自分の責任だと思っているらしい。
しゅん、とうなだれて、続ける。
「旦那様は、今度はお嬢様のお部屋だけじゃなく、お屋敷の扉という扉、窓という窓全てに見張りをお付けになったの。一体…どうしたらいいの…?」
辛そうにぎゅっと拳を握り締めるテアの肩に、クルムがいたわるように手を置く。
「テアが通用門の鍵を持ち出したことは、気付かれてない?」
クルムの問いに、テアはこくりと頷いた。
「良かった」
ほっとして微笑むクルム。
「救出に失敗したのはテアのせいじゃないよ。あの時、ちょっとハプニングがあって…オレ達、上手く対処が出来なくて、リーを連れ出せなかったんだ」
ハプニング、という言葉に、僅かに複雑そうな顔をするエリー。
「警戒が厳しくなってしまった今では、屋敷に忍び込んでリーを連れ出すのは無理だろう。
こうなったら…」
クルムは言いかけて、エリーの方を向いた。
「結婚式の当日、リーを浚って逃げよう」
「は?」
思わず眉を顰めるエリー。
クルムは真面目な表情で続けた。
「一度きりのチャンスだ。慎重に策を練ろう。
テア、結婚式はどこでやるの?」
「街の、中央教会よ」
「そうか……教会なら、出席者に混じって式場に簡単に入れるかもしれない。
テア、結婚式当日の式場の様子と、式次第を調べてきてもらえないか」
「わかったわ、任せて」
同じく真剣な表情で頷くテア。
クルムは少し視線をずらして、考え込んだ。
「…リーの見張りが少なくなる可能性があるのは……花嫁衣裳の着付けの時、かな」
「そう…ね。そのあたりも、今度はしっかり調べて…お嬢様にもお伝えするわ」
「テア」
クルムはテアの瞳に視線を戻した。
「あの屋敷で、リーはひとりぼっちだ。
テアの笑顔は、人を癒すことが出来る。だからリーに微笑んであげて。式の当日まで、彼女を慰めて、元気付けて。それが出来るのはテアだけだよ。
大丈夫だ。今度はきっと上手く行く」
「クルム…」
テアは嬉しそうに、クルムの手を取った。
「……ありがとう」
そして、その手を握ったまま、エリーの方を向く。
「エリウス、私達は、あなたとお嬢様の味方よ」
突然自分に矛先が向き、きょとんとして言葉を詰まらせるエリー。
テアはそのまま、もう一度クルムのほうを向いた。
「ね、クルム。エリウスとお嬢様の幸せのために、私達、頑張りましょう!」
「テア……そうだね。頑張ろう」
クルムが微笑み返して、テアもうれしそうに破顔する。
「じゃあ、私もう戻らなきゃ……例のこと、調べてまた来るわね。おやすみなさい」
テアはそういって二人に礼をすると、足早に部屋をあとにした。
ぱたん。ぱたぱたぱた……
テアの足音が遠ざかり、エリーが嘆息して肩を落とす。
「…あんた、大張り切りだな。判ってるんだろ?これは爺さんが捏造した幻の世界だってこと」
「いや、わかってるよ?でも…やるからには頑張らなきゃ、と思って。
役割を演じさせられてるけど、別に無理に作らなくちゃいけないような役でもないし、リーもテアも知り合いだし…普通に思ったように行動すればいいのかな、って」
「ふぅん………」
エリーはクルムをじっと見て。
そして、不意に言った。
「……で、あの女は、あんたの何?」
「……っえ?!な、何って……」
たちまち赤くなるクルム。
エリーはにやりと笑った。
「…なるほどね。
この幻術は、俺達の心を読み取って、それを元に世界を構築している。
あんたの知り合いとして、わざわざ彼女が登場した、と言うことは……」
その先は言わず、エリーは先程のクルムのような満面の笑みを浮かべて、クルムの肩をぽんと叩く。
クルムは顔を真っ赤にしたまま、エリーから目を逸らした。

「旦那様、大変です!」
ばたん、と大きな音を立ててドアが開き、執事が血相を変えて部屋に飛び込んでくる。
「何事だ、騒々しい。今日は大事な日だぞ、何を騒いでいる」
控えの間にいたその男…ヴェーザー男爵は、眉を顰めて言った。
執事は泡を食った様子で、主人に報告をする。
「お嬢様……リーファお嬢様が、不審な男に浚われました……!」
「な、なんだと?!」
血相を変えて立ち上がるヴェーザー。
「え、ええい、あいつらは何をしているんだ?!
探せ!まだこの敷地からは出ていないはずだ、何としてでも探し出せ!」
「はっっ、ははははいぃ!」
執事が慌てて廊下の向こうへと戻っていく。
「くっ……!」
ヴェーザーは苦々しげに、そばにあった机に拳を叩きつけた。
「まだ私に逆らうか……愚かな真似を!」

「いたぞ!」
「こっちだ!」
黒服の男たちが、目立つウェディングドレスを追ってあちらこちらから現れる。
式場を出、森に入る一歩手前で、八方を黒服に囲まれ、立ち止まるウェディングドレス。
「もう逃げられんぞ」
ヴェーザーが黒服の男たちの後ろからずいと前へ出る。
ウェディングドレスの少女を庇うようにしてその前へ立ちはだかったのは…クルム。
「…聞いたよ。リーは、あなたの実の娘じゃないんだってね」
クルムの言葉に、ヴェーザーの表情がぴくりと引きつる。
クルムは続けた。
「リーはあなたの愛した人の娘だろう。
愛した人が亡くなったとたん、リーに政略結婚させるなんて。
彼女を何のためらいもなく道具のように扱うだなんて…どうしてそんな酷いことが出来るんだ」
淡々と。だが相手を諭すように、強い口調で言うクルム。
ヴェーザーは鼻で笑った。
「卑しい賊めが何を言う。親の私が娘をどう扱おうが、お前の知ったことではない」
「リーを娘として愛してはいないのか?」
「娘?ハッ……あいつを奪った男の子供など、私の娘であるものか!」
激昂して、ヴェーザーは言った。
「年を取るたびに、リーはあの男に似ていく……私の忘れたい過去を…あの男を嫌でも思い出させる!
疎ましいと思いこそすれ、娘として愛するなど出来るものか」
クルムは言葉を飲み込んで、ヴェーザーを睨みつけた。
ヴェーザーはふ、と嘲笑った。
「しかし、先日の社交パーティーでアルフォンス公がリーの美貌に目を留め、自分の妻にしたいと言ってきた。
アルフォンスは気味の悪い男だがな、あんなのでも小国の君主だ。
公爵と縁組をし、わがヴェーザー家の社交界での地位を不動のものにするのだ!」
「……そんなことのために…リーを利用するなんて…!」
吐き捨てるようにクルムが言うが、ヴェーザーは鼻で笑ってずいと歩み出た。
「ふん、なんとでも言え!」
ウェディングドレスの少女の腕を掴み、引き寄せる。
「さぁ来いリー!今までの恩を忘れたのか。アルフォンス公が式場でお待ちだぞ!」
ぐい、と引き寄せられた少女のベールがふわりと舞い、その下の顔が露になる。
が。
「…っ!……お前は……!」
現れた顔は、リーのものではなかった。
「……お嬢様はここにはおりません、旦那様」
テアは厳しい視線でヴェーザーを睨み上げ、きっぱりとそう言った。
「お、お前は…リー付きの使用人…?!」
驚きにテアの手を離したヴェーザーからテアを庇うようにクルムが間に入り、同じように厳しい視線を向ける。
「リーは彼女を心から愛する人と、もうあなたの手の届かないところにいる」
「くっ……おのれ、謀ったな!」
ヴェーザーはぎり、と奥歯を噛むと、踵を返して男たちに命令した。
「お前たち、何をしている!リーを探し出せ!」

「……今頃は大騒ぎだろうな、教会は」
「そうね。さすがにここまで来れば大丈夫かしら」
国境を越えたところにある湖のほとりで、リーとエリーは懐かしそうにもと来た道の方を見やった。
「エリー…本当にありがとう。すごく嬉しかった」
リーはエリーを見上げて、眩しそうに微笑む。
エリーはそんなリーを見下ろして、複雑な表情を作った。
目の前の少女は、確かに自分の一番大切な少女で。
風に吹かれサラサラとなびく綺麗な銀髪も、大きな紫水晶の瞳も、華奢な体つきも、高く澄んだ声も、彼の記憶にあるそれと寸分の狂いもない。
だが。
だがこれは、師匠が作り出した幻の彼女なのだ。
最初に助けに入った時に、涙を浮かべて自分の胸に飛び込んできた彼女に一瞬本気でぐらりときたりもしたが、これは幻術なのだ。本物ではない。メイド・イン・じじいなのだ。
嫌でも複雑にならざるをえない。
というか、本当にそろそろ終わってくれないだろうか。
彼女はこうして助け出したのだし、物語としてはハッピーエンドだろうに。
自分を見上げてくるリーに本気になることも出来ず、かといって無視するにはあまりにも彼女は『よく出来すぎて』いて。
言葉をかけることも出来ない。
が。

ばさ。

不意に彼の頭上から、何かが落ちてきた。
「っ、何だこれは……本?」
手に取れば、表紙には「Again ~君の笑顔が見たいから~」と書いてある。
エリーはその本をぱらぱらとめくり……
「…………はぶっ」
そのまま本につっぷした。
本の内容は……要するに、台本。

『エリー…本当にありがとう。すごく嬉しかった』
『いや…礼を言われることはないさ。俺も…お前が俺以外の誰かのものになるなんて、耐えられなかったからな』
『エリー……(潤んだ瞳でエリーを見上げる)』
『リー……(頬に手をかけ、肩を引き寄せる)』
『……エリー…好きよ。もう離さないで……(目を閉じる)』
『リー……愛してる………(キス)』
~Fin~

「……こっ……こ、これをやれと言うのか……あの爺さんは……!」
台本を破れんばかりに握り締めて、エリーは搾り出すように言った。
「……エリー?」
すぐ側で、リーが不思議そうに彼を見上げる。
エリーは色々な感情が混じった表情で彼女を見下ろし………たっぷりの間のあとに、台本をべしゃ、と地面に叩きつけた。
「……っ……いや……っ、礼を…言われることはないさ。俺も……お前がっ、俺以外の誰かのものになるなんて、耐えられなかっ……た、からな……」
どうやら諦めたらしいが、端々に葛藤が見て取れる。
リーはそんな齟齬などまるで気にしない様子で、嬉しそうに瞳を細めた。
「エリー……」
潤んだ瞳に、幻術と判っていてもぐらりと来る。
エリーは、リーの肩を引き寄せ、もう片方の手をその頬に添えた。
「リー……っ」
リーは彼の胴に手を回すと、控えめに自分の方に引き寄せた。
「……エリー…好きよ。もう離さないで……」
言って、彼を見上げ、目を閉じる。
「リー………っ」
エリーはそこまで言って、喉を詰まらせた。
どうしても、そこから先が言えない。
二枚舌で不遜な彼が……現実の彼女にさえ、言ったことのない、言葉。
それでも。
言わなければ、この世界からは出られない。
エリーは覚悟を決めて、口を開いた。

「………っ、あ……いし……」

見晴らしのいい丘の上に、クルムとテアは立っていた。
教会はリーを探して駆け回る黒服の男たちと、花嫁に挙式当日に逃げられた公爵側の暴動が入り乱れ、もはや収拾がつかない様子だった。
その隙に、2人は無事に抜け出してきたのである。
「エリウスとお嬢様はご無事かしら」
「エリーのことだからきっと大丈夫だよ」
穏やかな笑顔のクルムとテア。
丘から街を見下ろすと、家々の屋根が陽光を受け輝いている。
空はどこまでも澄みきっていて、街を囲む丘陵地の牧場では羊がのんびりと草を食み、遥か遠くには雪を頂いた高山が見える。
作られた世界、見せられている世界。
けれど、こんなにも美しい。
「クルム」
自分の名を呼ぶ声にクルムが振り向くと、テアは思ったよりも近くに立っていた。
少しでも動けば、簡単に触れてしまいそうなほどに。
どきん。
身を竦ませるクルムに、テアは無邪気な笑みを向ける。
「ありがとう。くじけそうになった私を励ましてくれて。
お嬢様とエリウスを助けてくれて」
「て……テア…」
どきん。どきん。
そんなことなんでもないよ、と、言葉に出したいのだが、上手く口が回らない。
テアは笑顔のまま、続けた。
「これまでだって、いつもいつも私を助けてくれて…本当にありがとう」
そこで、不意に笑みを消し、真剣なまなざしをクルムに向ける。
「……クルム……」
棒立ちになったまま動かない、クルムの手を取って。
「………私………」
かすかに潤んだ彼女の瞳が、これまでとは違う何かを訴えているようで。
クルムは金縛りにあったように、体が動かなくなるのを感じていた。
(なんだ……オレ、どうしちゃったんだ……)
どきん。どきん。どきん。
自分の鼓動ばかりが耳に響く。
このまま、頭が破裂してしまいそうなほどに。
(これは…これは、エリーの師匠の幻術が作り出したテアなのに…!)

「クルム………!」

ふっ。

「………」
「………」
唐突に。
クルムとエリーは、お互いが向かい合っていることを理解した。
場所は、元の四番街の廃屋。今にもあちこちが崩れ落ちそうな建物の中で、少年二人が熱い瞳で見詰め合っている。

「「……んぅわあぁぁぁっ?!」」

2人はおよそキャラではない叫び声を上げて、慌ててその場を飛びのいた。
「っえ、エリー?!」
「く、クルム……も、戻ったのか…?」
辺りをきょろきょろと見回して、幻術世界から脱したことを理解して。
その途端、エリーの顔が再び怒りに満ちる。
「……っあの、くそジジイ……見つけたら絶対シメる……!」
「え、エリー…」
その様子にたじろぎながらも、自らも顔を真っ赤にしたまま『無理もない』と思うクルム。
と。

ひらり。

2人の頭上から、紙が一枚落ちてきた。
「ん……なんだ、これ」
クルムがきょとんとして、空中でその紙を掴み取る。
「……何だ?見せてくれ…」
エリーも横から、その紙を覗き見た。

ゆためのたなかをたおたもいだたしてたごたらん
たたどちたらをたたむけたたばいいたたのたかな
たゆたかいでたたおちゃためたなじたいさんたの
げたんじゅたたつたにきたみはたもうとたたりこ

「………だから……なんなんだ、あの爺さんは……!」
エリーは再び搾り出すように言って、紙をぐしゃりと握り締めた。

もういいかい。
もういいよ。

さて、ジョン爺さんは一体どこに隠れているのかな?

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