第4週・ルヒティンの刻

からん。

「ひっとっなっつの、あ~わい~、こいごっこっろぉ~♪」
「いよっ!ミニたん!さいこー!ひゅーひゅー!」

ドアを開けたらいきなり展開されていた寂しすぎるミニコンサートに、思わず絶句する暮葉。

「………」
「はれっ。ああ~あ~いらっしゃーい、えっと、暮葉ちゃんだっけ?」

その気配に気づいたマスターが、全く慌てた様子もなく暮葉に近づいてきて、暮葉は驚きの表情のままかしこまった。

「あ、あの、すみません。まだ開店時間ではありませんでしたか?」
「え?ううん、オープンの看板出てたよね?こんな早くにお客さん来ると思ってなくてさー、ミニたんとミニコンサートごっこやってたんだー、ミニたんなだけにミニコンサート、なんちて」
「あ、あの……」

理解を期待しないギャグに戸惑う暮葉。
そこに、弦楽器を担ぎ直したミニウムがとことことやってきた。

「おねーさん、いらっしゃいませ!」
「あ、はい、あの、お店の方…ですか?」
「今日いちにち、きゃくひきします!ミニウムだよ、よろしくね!」
「あ、はい、よ、よろしくお願いします…」
「じゃ、カーくん、ぼくおそとでおうた、うたってくるねー」
「うん、よろしくねー、ミニたん」

とことこ、からん。
ミニウムは上機嫌で外へ出て行った。
それを、まだ呆然とした様子で見送る暮葉。

「あの…あの方は…」
「ん?僕の友達。ここがあまりにも客来ないもんで、今日客引きを買って出てくれたんだ」
「そう…なんですか……はっ」

暮葉はようやくそこで我に返った様子で、申し訳なさそうにマスターに目線をやった。

「あの、先日は大変ご迷惑をおかけしました。わたしの行為のせいで客足が遠のく結果になってしまったのではないかと…」
「へ?いや別に、ここは元からこんな感じだけど」

へらっと笑うマスターに、暮葉はなおもすまなそうに、袖から包みを取り出した。

「お詫びにもなりませんが、是非これを受け取っていただけないでしょうか」
「ええっ?えっと、修理代はあのバンダナのお兄さんが払ってくれるって言ってたよ?」
「バンダナ…って、ファンさんですか?とんでもありません!」

マスターの言葉に、暮葉は驚いて言い募った。

「あの惨状はわたしが引き起こしたものなのですから、ファンさんにお支払いさせるわけには…ひょっとして、もう払ってしまわれたとか?」
「ううん、まだだけど……」
「では!ファンさんが払ってしまう前に、わたしに払わせてください!お願いします!」
「そ、そう…?」

暮葉の強い押しに、マスターは戸惑い気味に彼女の差し出した包みを開けた。
ちゃりちゃり。
中から3枚だけ金貨を取り出すと、残りの金貨を包みごと暮葉に返す。

「はい、じゃあ修理代はもらったからね」
「…え、そ、それだけでいいんですか?」
「うん、こんなもんだったよ。業務価格だしー」
「しかし…」
「まーまー、気にしないで。とにかく修理代はもらったから。あのバンダナのお兄さんにもそう伝えておくね」
「はい…よろしくお願いします」

暮葉はようやく安心したような表情になって、改めて深々と礼をした。

「じゃあまあ、座って座って?注文は何にするー?」
「あ…では、また緑茶をいただけますでしょうか?」
「グリーンティーね、かしこまりー」

マスターは明るく言ってカウンターの中に入り、暮葉はそのあとを追うようにしてカウンターの席に座った。
ほどなく、マスターが良い香りの漂うナノクニ茶を暮葉に運んでくる。
いつものように、暮葉の後ろから、腰をかがめて差し出すようにして。

「はい、グリーンティーね」
「ありがとうございます…」

自分のすぐ近くを掠めていくマスターの顔を、暮葉は上気したような表情でうっとりと眺めた。
出されたグリーンティーに口をつけることもせずに、何か熱に浮かされたようにぼんやりとマスターに語りかける。

「店長さんからは人間離れした、とても好みな良い香りがします」
「え?そうお?僕別に香水とかなにもつけてないけど…」

くんくん、と肩や腕の匂いを嗅いでみるマスター。
つい、と暮葉の笑みが深まった。

「いいえ、体の発する香りではなく……何と言ったらいいのでしょうか…血の発する香り、というのか…」
「血?!あれー暮葉ちゃん、なに、ひょっとしてヴァンパイア系とかそういうの?!」
「え、あの…そ、そうでは…ないのですが」

マスターの予想外の食いつきに少し戸惑う暮葉。

「上手く言えないのですが…この馥郁とした香気の正体はまさか、と思うのですが、わたしの気のせいでしょうか?」
「ふくいく……暮葉ちゃん難しい言葉使うねえ。いい匂い、するかなー?自分じゃ自分の匂いなんてわかんないもんねー」
「………」

へらへらとしていながら、暮葉の問いの核心には答えない。まあ、暮葉も問いの核心をはっきり言葉にしていないから当然なのだが。
しかし、暮葉にはそれももはやどうでもいいことのようだった。酒に酔ったようなとろりとした目つきで、マスターの喉元を凝視している。そのままふらふらと寄っていって噛み付きそうな雰囲気だ。

「暮葉ちゃーん?」
「……はっ!わ、わたしまた…いいかげんにしないと…!」

ぺしぺし。
また我に返った様子で、自らの両頬を軽く叩く暮葉。
マスターは不思議そうにそれを見やって、それからにこりと微笑んだ。

「暮葉ちゃんの中にも、可愛い子がいるよねー。でも、ちゃんと飼いならさなくちゃ、暮葉ちゃんがダメになっちゃうよー?」
「えっ……」

暮葉はぎょっとしてマスターを見た。

「マスター、それはどういう……」

と、腰を上げたちょうどその時。

からん。

ドアベルの音が新たな来客を告げ、マスターと暮葉はそちらを振り返った。

そして、暮葉と、新たな客の目が同様に丸くなる。

「ファンさん!」
「…っ、暮葉さ……!」

暮葉は浮かしかけた腰をそのままファンの方に向けた。
しかし、ファンはその表情を辛そうに引き歪ませ、くるりと踵を返す。

「……っ、すいません、失礼します!!」
「あっ、ファンさん!」

とどめようとする暮葉を振り返ることなく、ファンはもと来たドアへと足を進め……

どんっ。

「はわ!」

ファンの後に続いて入ってこようとしていたミニウムと盛大にぶつかってしまう。
小柄なミニウムは簡単に地面に転がってしまい、ファンは慌てて駆け寄った。

「も、申し訳ありません!大丈夫ですか!?お怪我はしていませんか!?」
「んうー、だいじょうぶぅー」

ファンに助け起こされて、足についた土を払いながら言うミニウム。
そんなことをしている間に、暮葉とマスターも入り口に駆け寄ってきた。

「お客さん、大丈夫?ミニたんも」
「ファンさん、大丈夫ですか?」
「す…すいません……大丈夫です…」

心配そうに覗き込んでくる暮葉から目を逸らすようにして、ファンは短く答えた。
マスターはその様子に、片眉を潜める。

「どうしたの、お客さん?暮葉ちゃんに会うなり逃げちゃうとか…ひょっとして、こないだ店出てからあれっきりなの?暮葉ちゃん追いかけていったじゃん?」
「あ…追いかけていきましたが、結局ファンさんには会えなかったのです…」

マスターの問いには、暮葉が残念そうに答えた。

「それで、また安息日にここに来れば、お会いできるかもと思って…マスターに弁償もしなければなりませんでしたし、それでここにお邪魔したのです」
「そうだったんだ。ねえお客さん、暮葉ちゃんは少なくとも、お客さんに話があるみたいだよ?」
「……ですが、私は……」

なおも暮葉からは目を逸らしたまま、煮え切らない様子のファン。
マスターは嘆息して、続けた。

「お客さんが話したくないほど暮葉ちゃんのこと嫌いだっていうなら、しょうがないけど」
「違います!」

ファンは鋭くマスターの言葉を否定した。

「私は、嫌ってなどは……むしろ、暮葉さんの方が……」
「でも、暮葉ちゃんはお客さんに話があるって言ってるんでしょ?」
「………」
「何か、誤解があるんじゃないの?ちゃんと話した方がいいよ?話してみたら、なーんだ、ってことだってあるしさ。
まー、無理にとは言わないけど」
「………」

ファンは暮葉から目を逸らしたまま、しばし黙考した。

「ファンさん……」

心配そうな暮葉の声。
ファンは何かを堪えるようにじっと目を閉じると、諦めた様子で嘆息した。

「……わかりました……」

結局、ファンと暮葉はカウンターから一番離れたテーブル席に、向かい合って座ることになった。
マスターは暮葉に出していたグリーンティーをその席に移し、ファンの注文したダージリンと並べると、ごゆっくりとだけ言い残してカウンターに引っ込んでいった。
ミニウムは再び外に客引きに出かけたようである。マスターも空気を読んでいるのか、2人の方など興味もないといったそぶりで皿を磨いている。

重苦しい空気の中、暮葉がまず申し訳なさそうに頭を下げた。

「あの…先日は乱暴して怪我をさせてしまい、申し訳ございませんでした」
「ぇっ……」

ファンは意外なことのように眉を上げた。
なおも申し訳なさそうに視線を下げたまま、続ける暮葉。

「ファンさんを怒らせてしまって……わたし、嫌われてしまいましたよね…目も合わさずに去られてしまうくらいに…」
「ま、待ってください。先ほども言いましたが、私は嫌ってなどは…!」

俯き加減の暮葉に、弁解するようにファンは言い募った。

「あの時、私がおかしなことを口走ってしまったために、あなたを怒らせてしまったのでしょう?」
「えっ?わたしが、怒る?違います、あの時は……」
「しかし、まるで人が変わったような態度で私を誘惑し、突き飛ばして……あれは、拒絶の意を示されたのですよね?」
「ち、違うんです、その……」

暮葉は視線を泳がせて逡巡し、それから何かをごまかすように苦笑した。

「あの、男性に綺麗だなんて言われたことなかったものですから、なんと言うか、驚いてしまって」
「……驚い、た…?」
「はい。私って感情が昂ぶると羽目をはずして度がすぎた悪ふざけをしちゃうみたいなんです。ご迷惑おかけしました」

まるで他人事のような言葉。
ファンは納得するどころか、ますます眉を顰めた。

「悪ふざけ……度が過ぎたレベルには見えなかったのですが」
「……そ、そう…ですか?申し訳ありま…」
「謝罪が欲しいのではないのです」

暮葉の謝罪を遮って、ファンはさらに身を乗り出した。

「この様な事を言いたくないのですが……あの時はまるで、暮葉さんが暮葉さんでなくなってしまったような……」
「っ……」
「何か…あったのですか?…もちろん、話したくないのなら無理にとは言いませんが……」

ファンの問いに、暮葉は目を逸らしたまま黙考した。
俯いて視線を動かし、ちらりとマスターの方に目をやる。
マスターは先ほどと同じように、全く2人の話を聞いていない様子で鼻歌交じりに皿を磨いていて。

暮葉は、ふ、と肩の力を抜いた。

「ファンさんには幾度もご迷惑をお掛けしましたし……羽目をはずした、などと、あまりにも不誠意な言い訳ですよね。申し訳ありませんでした」
「暮葉さん…?」
「謝罪の意もこめて、白状します。ですが…どうかこのことは、ファンさんのお心の中だけにとどめておいて欲しいんです」
「……わかりました」

神妙な表情でそう言う暮葉に、ファンも表情を引き締める。
暮葉はもう一呼吸置くと、落ち着いた様子で語り始めた。

「私の中には…暮葉という自我とは別の、『紅葉』という名の魂が住んでいるんです」
「もみじ……」

暮葉の口から語られた異国の名前を、呟いて繰り返すファン。
暮葉は続けた。

「そいつがたまにおもしろ半分で暮葉と入れ替わり私になるんです。
多重人格と似たようなものなんですが、暮葉と紅葉の気分が高揚すると入れ替わりやすくなるようで、自分でもよくわからなくなってしまうんです」
「………!つまり、あの時はその紅葉さんが私をからかっていた……ということですか?」
「あの、えっと、平たく言えば……そういうことです」

驚いた様子のファンに、申し訳なさそうに肩を落とす暮葉。

「可愛い子を見つけると絡みたくなるんです……ごめんなさい」
「…………」

可愛い子発言が気になるところだが、ファン自身はそれどころではなかった様子で、ひたすら驚きに目を瞬かせている。

「……ファンさん?」
「…は、す、すみません。何でもないのです」
「すみません、いきなりこんな話…迷惑ですよね」
「いえ」

すまなそうな暮葉に、ファンはもう一度表情を引き締めた。

「あまり人に話したくないことだったのでしょうが、話して下さったのです。誠意として受け取り、私は何も気にしないことにします」
「ファンさん……」

安心したように表情を緩める暮葉に、ファンもつられるようにして表情を緩める。

「それに、私もなんとなく気持ちは分かりますから……」
「…えっ?」
「…いえ、こちらの話です。では……突き飛ばされたり誘惑されたのは私の誤解ということですね……」

ふ、と肩を落として落ち着いてから、しかしファンは再びそわそわと視線を泳がせた。

「そ、それでは、あの……」
「はい?」

ファンの様子にきょとんとする暮葉。

「あの……あの時、窓から飛び込んできた人。彼、コンドルさんですよね」
「ああ、はい。そういえば、シェ……コンドルと一緒に受けた依頼で、ファンさんと初めてお会いしたんですよね」
「ええ、はい、その節はどうも……あ、いえ、そんなことが言いたいのではなく…」

のほほんとした暮葉の様子に、一人落ち着きがなく視線を泳がせるファン。

「あ、あの、あの時……く、暮葉さんは、その、彼に、くっ、くちづけを……っ!」

そこまで言うのが精一杯という様子で顔を真っ赤にするファン。
暮葉はしばらくきょとんとして首をひねっていたが、ややあって思い当たった様子で、ああ、と声を上げた。

「ああ、コンドルの意識が戻らなかったから、治療を施していたんです」
「……ち、りょう……?」

今度はファンがきょとんとする番だった。

「はい。本来は、万物に流れる精気を五感で感知する術で…ええと、相手と感覚を繋げる、というんでしょうか。それを発展させて、相手が本来持っている力を飛躍的に高めたり、逆に機能させなくしたりすることが出来るんです。その力を回復力に繋げ、本人が持っている自己治癒力を高めることで、傷を癒す…という」
「はあ……」

言っていることはやたら小難しいが、要するに回復魔法である、ということらしい。
暮葉はさらに続けた。

「わたしは、一つの技能で出来ることを詰め込ん……もとい、まだ技術が未熟であるものですから、相手とより一体感を得ないと術を行使できないんです。目を見たり、相手に触れたり…唇は、手などで触れるよりも相手を感じ取りやすいものですから、つい使ってしまうんですよ。私が相手を体感できれば接触法は選ばないのですが、口付けのほうがより効果的なので…」
「……そう、なんですか…」
「ファンさんがお怪我をされた時も、あまり考えなしに唇で触れてしまって…今思えば、きちんとお断りするべきでしたよね」
「へっ」

急に自分に話が振られて、ファンは妙な声を上げた。

「あっ……あ、あの時の……あれは、そうですか、回復の術を…施して……はは、そ、そうですよね…」

暮葉にキスをされる(額にだが)という衝撃のあまり、自分が怪我をしていたということもそれによって怪我が治ったということもすっかり忘れてしまっていたが、あれは回復の施術のためだったと改めて認識し、ファンはほっとしたような、情けないような声で苦笑した。

が、しかし一瞬でその表情が強張る。

「しっ……し、しかしですね、その、こっ、コンドルさんには、あ、あああの、くっ……口に……!い、いえ、もちろん私が口を挟めるようなことではないのですが、そのっ、か、彼とは…どの……とても親しい間柄なのでしょうか……?」

自分は額だったのにコンドルには口にキスをしたことが気になるが、ダイレクトに口に出来ない悩めるファン16歳。
暮葉は再びきょとんと首を傾げてから、なんでもないことのように笑った。

「そうですね、家族とするのに遠慮はいらないですから」

再びかきん、と固まるファン。

「か、家族?」
「はい」
「コンドルさんがですか?」
「ええ」
「あの、失礼ですが……名前も…外見も、その、似ていらっしゃいませんよね?」
「あ、ええ。血が繋がっている訳ではないんです」

なおも落ち着いた様子で、にこりと笑う暮葉。

「私は幼いころ彼の生家で縁戚のように保育していただいたので、コンドルとは幼馴染というより大切な家族に近い印象なんです」
「そ、そうなんですか……」

ファンは気が抜けたように、表情を緩めた。

「なるほど……ご姉弟の様に育ったわけですね…」
「はい。出来の悪い弟みたいで…ふふ、本人にはこんなこと言えないですけどね」
「はは……」

張り詰めっぱなしだった空気が、ようやく和やかになる。
ファンは最初の悲壮な表情とは打って変わった穏やかな顔で、それでも再びぴしりと表情を引き締めた。

「……暮葉さん」
「はい?」
「では……私は、あなたの事を好きでいて良い、ということでしょうか?」
「……っ」

唐突な問いに、暮葉は言葉に詰まり…ややあって、頬を朱に染めて俯いた。

「ファンさんの熱いお気持ちはこの上なく嬉しいです」
「暮葉さん……」
「…ですが、私の中にはそれに応えられるほどの恋情があるのかわからないのです」
「…はい」

暮葉の正直な気持ちにも、まっすぐ目を逸らさずに答えるファン。
暮葉は少し目を伏せてから、その目をまっすぐに見返した。

「ですから、ちゃんと答えをだせるまで……友達として付き合っていただけませんか?」

お友達から始めましょう。
ある意味体のいい断り文句だが、ファンの表情は目に見えて和らいだ。

「はい、ではお友達で……!」
「すみません、お気持ちに答えることが出来なくて…」
「いえ、暮葉さんが謝ることではないですよ。むしろ正直に言ってくださったことにほっとしています」

ファンは嬉しそうに言って、再び暮葉をじっと見つめた。

「ですが、私はあなたが好きです。この気持ちは恐らくずっと変わりません。もしも、私の気持ちを考えてくださる時が来たら、その時は改めて…よろしくお願いします」
「はい……わかりました」

なおもまっすぐなファンの言葉に、暮葉は苦笑半分で微笑んだ。
ファンの方は自分の気持ちを伝えてスッキリしたのか、爽やかな表情をしているが…やはり、告白を断った手前、多少気まずい。

何か別の話題はないものか…暮葉は視線を泳がせて、そうしてふと思い出した。

「あ……そういえば…」
「はい?」

暮葉は改めてファンの方を向くと、話を切り出した。

「ファンさんのご両親はどんな方なのですか?今はどこにいらっしゃるのですか?」
「両親……ですか?」

急な無茶振りに少し戸惑いながら、答えるファン。

「……残念ながら、私は物心つく前に両親とは離れてしまったようで、ずっと一人でした。なので、両親のことは何も知らないのです……」
「そ…そうでしたか。無神経なことを聞いてしまいましたね…」
「いえ、お気になさらず。私自身も、あまり気にしてはいませんし」

言葉の通り、内容に反してファンの表情はあまり暗いものではなく。
暮葉は逡巡したが、やがて話の続きを口にした。

「実はですね…ファンさんの額に口付けした時…」
「はっ、はい……」

無意味に思い出したのか、少し頬を染めるファン。
暮葉は構わず続けた。

「ファンさんの血を、少し飲んでしまったんですよ」
「私の、血を……?」
「はい。それで…説明しにくいのですが、その時、ファンさんの両親の事が垣間見えたんです」
「両親のことが垣間見えた……?」
「それが、どうしても気になってしまって。突然こんなことを聞いてごめんなさい」
「暮葉さん…あなたは、一体…?」

先ほどの別人格の件といい、謎の多い少女だ。
しかし、暮葉はファンの問いには答えず、話を続けた。

「ファンさんの血筋は少し特別なので、過敏に反応しちゃったんです。差し出がましいかとは思いますが、お望みでしたら、お話しましょうか?」

問いには答えはもらえなかったが、暮葉の話には非常に興味がある。
ファンはさらに表情を引き締めた。

「………折角ですので知りたいです。何も知らなかった両親の事。些細なことでも良いので教えてください。お願いします」
「わかりました。まずは母方ですが……」

暮葉は言ってから、言葉を探すように視線を泳がせた。

「ええと…何と言うんでしょうか。神の力を感じ取り、その力を具現化したり言葉を伝えたりする…」
「巫女、でしょうか?」
「あっ、はい。そうですね、巫女のような役割を果たしていた方のようです。体が銀色に光る……ええ、月光人の種族の方だったようですね」
「…はい、それは…存じています」

母親の遺伝子を引き継ぐ特徴に心当たりがあったのか、神妙な顔で頷くファン。
暮葉は続けた。

「それで、父方なのですが…ちょっとびっくりしちゃうと思いますけど」
「…どうぞ」
「ナノクニのどこかの僻地で崇拝されていた、大神、のようなんです」
「……え?」

暮葉の口から出た突拍子もない言葉に、ファンは思わず呆気に取られた。

「大神……?つまり、神であったと?」
「あっ、ええと…わたし達が通常言っているような、ミドルヴァースのような神とは違うんですけど。
強い力を持った、例えば天使や魔族…あるいは、何かの拍子に強い力を持った存在が、文明の発達していない僻地で神のように崇められる、というのは、よくあることなんですよ。土着の神様、というんでしょうか。ナノクニは、特にそういう傾向が強い土地柄ですし」
「そう……なんですか」
「形は……そうですね、犬…いえ、むしろ狼に近い姿をしているようです。もしかしたら、強い力を持った獣人種族であるのかもしれないですね。月光人と子孫を残せるのですから…」
「…はい、それも…存じています」

再び何か心当たりがあるのか、神妙な表情で頷く。
それから、背負っていた重い何かを降ろしたような表情で、ふう、とため息をついた。

「……そう……だったのですか……ありがとうございます……」

虚空を見つめるファンを、心配そうに覗き込む暮葉。

「突然こんなことを言われても困るでしょうけど、何か悩み事があるのならご相談くださいね。
出来る限りのお力添えをさせていただきますので…」
「……はい。ありがとうございました」

口から形ばかりの礼を述べるも、その表情は明らかに上の空で。
そのまま思考に飲まれていくファンを、暮葉はなおも心配そうに見つめているのだった。

第4週・ミドルの刻

「こんにちは、マスター」

からん。

ドアベルを鳴らして入ってきたミケは、明るい声でそう言った。

「あ、いらっしゃーい」
「こないだはすみませんでした、マスター。変なことをお願いして」
「変なこと?」
「ほら、レティシアさんに手紙を…」
「ああ、別に変なことじゃないじゃん、やだなーお客さん」

ははっと軽い調子で笑うマスターに、ミケも楽しそうな笑みを返す。

「……で、手紙はやっぱり届かなかったんですかね?」

いきなり否定疑問文から入るミケ。そこは「届きましたかね」だろうが。
マスターはきょとんとした。

「へ、なんで?ちゃんと渡したよ?」
「ああ、そうなんですか、ちゃんとレティシアさんに渡っ……ええええええええええええ!?」
「はいー、ノリツッコミ入りましたー」
「のりつっこみいっちょー」

無意味に店内に声を響き渡らせるミケ、そしてそれに便乗するマスターとミニウム。
が、ミケはそれどころではない。

「え、あの、それで、来てくれる、って?」
「うん、大喜びだったよー?ランチタイムにって言ってたから、もう少しで来るんじゃないかな」
「……そ、そうですか……ははは、ちょっと、吃驚だなー……」
「…ていうか、もう来てるね」
「うえぇぇええっ?!」

ドアの外を指差したマスターに、再び驚くミケ。
見れば、いつの間にやってきたのだろう、レティシアがドアの外で頬に手を当てながらくねくねしている。

「ミケ~!!久しぶり~!!…うーん、これじゃ普通すぎるかなぁ…もうちょっと、こうオトナっぽく……ごめんなさい。待たせてしまったかしら?……ん~ えっと~会えない間、ずっとミケの事ばかり考えていたのよ?……って、それは挨拶の次の段階だし!
うーんどうしようどうしよう~!!」

どうやら再会の挨拶のシミュレーションをしているらしい。
固まってしまったミケはさておいて、マスターはさっさとドアを開けて外に顔を出した。

「いらっしゃーい、レティシアちゃん」
「うえぇっ?!ま、マスター、こんにちは!」

いきなり妄想を中断されて驚くレティシア。

「ミケくん、もう来てるよ?」
「嘘ぉっ?!」

マスターの言葉にさらに驚いて、レティシアは慌てて店の中に入った。

「ミケっ?!」
「あ……あー、レティシアさん、お久しぶりです。は、早いですね」

自分の方が早く来ているくせに何を言っているのやら、何となくどぎまぎしているミケに、レティシアはすまなそうに駆け寄っていった。

「ご…ごめんねミケ。もしかして…すっごい待った?」
「いえ、さっき来たところです」

お約束のやり取りをしてから、2人はようやく窓際のテーブル席に座った。

「じゃあ、宜しければランチからご一緒しましょうか」
「あ、うん。そうね。お腹空いちゃった~。ココのランチ、この前食べたんだけど絶品よ」
「そうなんですか。そういえば、ランチを食べるのは初めてかもしれませんね」
「じゃあ、ミケも同じのでいい?」
「はい、お願いします」
「マスター、ランチ2つね」

レティシアがそう声をかけ、マスターは伝票を持ってテーブルにやってきた。

「あいー、ランチ2つね。ドリンクは?」
「そうね、今日はえっと~…アイスレモンティで」
「ミケくんは?」
「僕は……じゃあ、レティシアさんと同じもので」
「んふふ、かしこまりー。じゃあ、すぐ持ってくるからねー」

マスターは上機嫌でカウンターに引っ込んでいく。
レティシアは楽しそうにそれを見送って、それからぐるりと辺りを見渡した。

「…って、あれ?」

そして、店の奥で小さな椅子にちょこんと座っているミニウムに目を留め、声をかける。

「君、そんなところでどうしたの?何も食べないの?」

幼子のように見えるミニウムを変わった客だと思ったのか、そんな言葉をかけて。
ミニウムは慌てて首を振った。

「はわわ、ごめんなさ…!ぼくぼく、今日はカーくんのおてつだいで、このおみせのきゃくひきをしてるんだ、よー!」
「きゃ、客引き?」

思ってもみない言葉に眉を寄せるレティシア。
ミニウムは大仰に頭を縦に振った。

「そーでーす!ぼく、こう見えても、ぎんゆーしじん、なんだよ!」
「わぁ、吟遊詩人さんですか?色々な物語を知っているんでしょうね……」

その言葉には、ミケの方が嬉しそうに反応した。

「いつかサーガとか是非聞かせて欲しいです」
「いつかとかゆってないで、いまいま!リクエストにこたえちゃったりなんかしちゃったりするよ!
なにか、うたってほしーうたは、あるかな、かな?」
「え、り、リクエストですか?」

逆に訊かれて、あたふたするミケ。

「こ、ここでサーガというのも…空気読めてませんし。ああでも、僕あまり音楽に詳しくは……」
「あっ、じゃあ私、リクエストしていい?」

そこで、レティシアが指を一本立てた。

「『愛の挨拶』!あれ、好きなのよねぇ」
「愛の挨拶、ですか?」
「うん、聴けばきっとミケも知ってると思うわ。ね、お願い!」
「はーいー、かしこまりー♪」

マスターの真似をして、ミニウムは弦楽器を構えた。

ぽろん。ぽろりん。

繊細な音が小さな店内に響き渡る。

「あ~さのあいさつ お~は~よ~♪
ひ~るのあいさつ こんにちは~ぁ♪
よ~るのあいさつ こんばんは~
わかれ~は さよ~な~ら~♪」

ずる。
綺麗なメロディーに乗った歌詞の微妙さに、2人ががくんと肩を落とす。

「か、歌詞は別に要らないから…」
「そうぉ?つまんないぷー」
「え、えっと、歌詞はともかく、このメロディーは確かに知っています。愛の挨拶、っていうタイトルなんですね。勉強になりました」

とりあえずミニウムは歌うのを辞めて楽器を弾くだけにしたようだった。
繊細なメロディーが再び店内に響き渡り、それに乗るようにしてマスターがパスタを運んでくる。

「はーい、ランチ2つねー」
「ありがとうございます」
「相変わらず美味しそう。いただきまーす♪」

「は~、ごちそうさま~。今日のも美味しかったわ、マスター」
「そうおー?そんなこと言われると調子乗っちゃうなー。はい、レモンティー」
「いえ、本当に美味しいですよ。僕も料理はしますが、やはりプロは違いますね」
「んふふ、ありがとー。ゆっくりしてってね」

マスターはにこりと笑顔を作ると、二人の食べ終わった皿を回収してカウンター戻っていった。
出されたレモンティーを飲みながら、ふうと息をつく2人。

「…そういえば、レティシアさん、里帰りはどうだったんですか?」

ミケがそう口火を切って、レティシアの里帰りの話になった。

「ん?里帰り?今回はちょっと長めに時間取ったから、エール兄ちゃんは大喜びよ。『もうこのまま家に居なさい』とか言い出してね~」
「はは…お兄さんは相変わらずですね…」
「んもー、うるさいったら!でも、今回は…ルティア兄ちゃんが、ちょっと大きな発作起こしちゃってね、苦しそうだったから心配で…それで長く家にいたの」
「ああ…おかげんの悪いお兄さんがいらっしゃるのでしたね」

ミケの表情がかげる。
レティシアも心配そうな表情で、頷いた。

「うん…ずっと前からなんだけどね。寝たきりであまり外にも出られなくて…
でもね、私が外の事を色々話してあげるとね、すっごい楽しそうに聞いてくれるの」

そこで、少し無理に作ったような笑顔を見せて。

「だから私も、いっぱいお話したのよ。エール兄ちゃんに『ルティアが疲れちゃうだろ』って怒られるんだけどね。見てきた事、触れたもの全て話したいんだもん」

再びエリオットへの怒りを露にするレティシアに、くすくすとミケが笑う。

「わかりますよ。きっとルティアさんも、そんなレティシアさんの気持ちが嬉しかったと思います」
「そう?そう言ってくれると、ちょっと嬉しいな…
あ…そういえば、ミケもお兄さんいたよね?二人きょうだいなの?」

自分のことに話を向けられ、ミケはきょとんとした。

「ええと、僕は…上に兄が2人と、姉が1人いるんですよ」
「えっ、そんなにきょうだいいたんだ!」
「はい。クローネ兄上には会ったことがありますよね」
「うん!ミケに似て、すっごい美形のお兄さんよね!」
「ぼ、僕はあんなに綺麗じゃないですけど…」
「そんなことないよ!やっぱり血筋だな~って思ったわ~」

クローネのイケメンぶりを思い出したのか、ほわんと表情を緩ませるレティシア。
ミケは続けた。

「クローネ兄上は、2番目の兄なんです。クローネ兄上の上にもう一人と…後は姉が1人で、僕末っ子なんですよ」
「そうだったんだ。じゃあ、末っ子仲間ね」
「ふふ、そうですね」

レティシアの言葉に頬を緩めて、ミケは続けた。

「前にお話ししましたっけ?姉が僕を捜しているらしくて」
「んー、聞いたかな?お姉さんが、ミケを探してるの?」
「はい。……家出、してきましたから」
「あー……じゃあ、私にとってのエール兄ちゃんみたいな感じなんだ」
「ふふ、そういえばよく似ていますね」

再び微笑んでから、その表情が少し沈む。

「多分……凄く兄や姉には心配かけたんだと思うんですよ。そうでなくても、末っ子だから上が気にかけてくれてたから。可愛がってくれてたんだと、思います」

その表情は、そのことを嬉しく思っているようには思えなくて。
はっきりと口に出さないのが最後のプライドなのだろう。
そこまで言ってから、ミケは苦笑した。

「……あなたには、約束しているから。だから、兄でも姉でも。会ったら、逃げずに話してみますよ。僕を認めてくださいね、って」
「そうなんだ…うん、がんばって。
お姉さんも、きっとミケに会いたがってるわよ」
「…僕は、逆に会うのがすごく怖いです……」

気まずいとかそういう問題でなく、かなりリアルな恐怖の表情を浮かべるミケ。

「っていうか、私が会いたいなぁ」
「うえぇ?!」
「ミケにソックリなのかしら、お姉さん」
「あ、あの、姉は僕よりずっとお綺麗ですけど…会ってみたい、っていうのは……ちょっと、その、オススメできないかな……あの、レティシアさんって、面食いだったりします?」
「うーん、人間顔じゃないと思いつつも、かなりメンクイかもー」
「…………うう、どうしてもっていうなら紹介します、けど。凄く、綺麗な方、ですよ……はははは……はぁ……」

力無く笑うミケに、不思議そうに首を傾げつつも、レティシアは優しく笑って言葉をかけた。

「お姉さんなんだもん、きっと会えば懐かしくて大好きだって思うわよ。エール兄ちゃんもうるさいし帰ってこいって言われるの嫌だけど、久しぶりに会えばやっぱり懐かしいし、好きだなって思うもの」
「はは……いえ、根底ではそうなんでしょうけどね……」

ミケはそれ以上は言及せず、すまなそうに苦笑した。

「……ありがとう、ございます。なんか最近、慰めて貰ってばっかりです。気合い入れなきゃ」
「ううん、私だってミケにいっぱい元気もらってるもの。気落ちしちゃう時は、お互い様。ね?」
「……はい。僕なんかでレティシアさんのお力になれるなら」
「もう、『僕なんか』なんて言っちゃダメよ!ミケにはミケの良い所があるんだよ?」
「はは、僕の良いところって何でしょう、無鉄砲さとかですかね…」
「な、何でそんなに自虐的になるかなぁ……」

いつになく気弱なミケに眉を寄せるレティシア。
ミケの自虐スイッチは兄弟の話を振るから入るのだが、レティシアにそんなことを知る由も無く。
仕方ない、というように嘆息して、レティシアは言った。

「ミケはすごく優しくて、仲間のことをとっても考えてくれる暖かい人だと思う。頭も良くて、私には考えもつかないようなことたくさん言ってくれるし…顔は可愛いし」

あわわ、と本音をごまかすようにして、レティシアは力説した。

「とにかく!みんな、ミケのそんなところが好きなんだからね?」

そこで、一呼吸置いて。
少し頬を染めて、震える声で付け足してみる。

「……私も、ミケのそんなところが、すきだよ?」

沈黙が走る。

おおっ、とこっそり耳ダンボになるマスターとミニウム。

が。
ミケは申し訳なさそうに苦笑した。

「すみません、ありがとうございます、レティシアさん。もっと頑張りますね」

まさかのスルー。
これ以上ないくらいの空振りっぷりに、思わず絶句するレティシア。
さすがのマスターも、生暖かい視線を送っている。
ミニウムに至っては思わず音を外し、微妙な不協和音を響かせていた。

レティシアはこのあまりにも鈍すぎる想い人に苦笑しつつも。

(…で、でも、こんなに天然ってことは、彼女とか特別な人はいない~って考えていいのかなぁ?)

そんな思いに至って、ソワソワと視線を動かしてしまう。

(聞きたいけど…聞けない~!!ん~どうしよう…)

落ち着きなく視線を動かし、手元をもじもじさせるレティシア。
ミケはきょとんとして、彼女に声をかけた。

「…レティシアさん?どうしたんですか?」
「……ぅえっ?」

急な振りに、レティシアは思わず頓狂な声を上げ。

「え、えっとさ、ミケってやっぱり…リリィみたいなおしとやか~な女の子が好き…なのよ…ね?」

つい、直球で口に出してしまった。

(い、言っちゃったーーー!!しかも直球でーーーーー!!!)

ぐわ、と顔を真っ赤にするレティシア。
しかし、一方のミケはというと、これ以上寄らないよというくらい盛大に眉を寄せていた。

「……え、どうしてそこでリリィさん?あれは、世の中的におしとやかなタイプに分類されるんですか?」

苦虫を100匹くらい噛み潰したような顔で、心底嫌そうに、至極尤もなことを言うミケ。
が、レティシアはまだ直球を投げた混乱から立ち直れずに、あわあわと言葉を続けた。

「あ、ええと、ミケが前に、そんなこと言ってたような気がしてね?あの、だから、ミケとリリィを見ると、私はあんな風になれないな~ってちょっと、自信がなくなるって言うか……」
「あれがおしとやかかどうかという点に関しては、百歩譲ってそういう見方もあると思いますけど…そもそも何故僕らを見て自信がなくなるんでしょう……?」

苦虫顔のまま、首をひねるミケ。
レティシアの熱い乙女心は、やはり彼には通じていないようで。

しかし、通じていないなりに、ミケは言葉を続けた。

「まぁ、前に聞かれたときには、そう答えたんですけど……。最近、一個だけ分かったことがあって」
「……?」

レティシアが視線を向けると、ミケは苦笑した。

「あのね。……僕、普通に友人だったり仕事の仲間だったりすると、そのままの関係としてしか見ないらしくて。
魔法の研究とか考え事とかしていると、凄く視野が狭くて。悪い癖、ですね。
だから……多分、僕を引っ張って外に連れ出しちゃえるような、バイタリティのある人じゃないと、駄目なのかなぁって、思うんですよ」
「そ……そう、なの?」

きょとんとするレティシア。
自分にバイタリティがあるとは露ほども思っていないが、『おしとやかな人』という枠が取っ払われた喜びは大きい。
しばらく言葉も出ずに喜びをかみ締めていると、ミケは再び苦笑した。

「もうちょっと、しっかりしないと、駄目ですね」
「だから!!駄目とかそんなことないよ!!ミケは!!そのままがイイんだから!!」

隠しきれない喜色満面で、ぶんぶんと頭と手を振るレティシア。
それを見て、ミケは何故か嬉しそうに微笑んだ。

「……?なぁに、ミケ?」
「え、ああ……」

いかにも幸せそうな、ゆるい笑顔で。

「レティシアさん、可愛いなぁって思って」

ぐわ。
ずる。
びよん。

順に、レティシアの顔にまた血液が集中した音、マスターの皿磨き布が盛大にずれた音、ミニウムの『愛の挨拶』がまた調子はずれになった音。

「なっ……ぇ……そっ……かっ、かかか……」

脳の血液が全て顔面に集中したかのように、全く言葉にならない声を漏らしてから。

がたん。

「ミケのバカーーーー!!!!」

だっ。
レティシアはやっとそれだけ叫ぶと、ダッシュで店の外へ駆けていった。

「えっ、あれっ、レティシアさん?!」

驚いて腰を浮かせるミケ。
しかし、レティシアはものすごい速さで店を出てしまっていて。

ミケは行き場のない手を下ろして、眉を寄せてマスターを振り返った。

「……マスター、僕は今、何かまずいことをしましたでしょうか……?」

マスターとミニウムは、何とも言えない半笑いを返すだけだったという。

第4週・レプスの刻

「え、え~と……こ、こんにちはー…」

ちり。
控えめに開いたドアに、ドアベルも控えめに鳴る。

「いらっしゃーい。どうぞー、好きなところに座って?」

いつものように対応するマスターに、その少年はおずおずとドアから中に入ってきた。
エメラルドグリーンの長い髪を束ねた、10歳そこそこの少年である。マスターはそれを見て、きょとんとした。

「あれ、お客さん、こないだ窓ぶち破って入ってきた子?」
「あ、は、はい……その、えっと、この前は色々と壊してしまってごめんなさい……」

少年はそう言われ、申し訳なさそうに頭を下げる。
と、その後ろから、シェリーと呼ばれた彼よりもう少し年かさの少年が入ってきた。
短く揃えられたグリーンの髪。先週、シェリーと一緒に入ってきた…確か、名をレオンといった。

「こらシェリー、入り口で立ち止まるな、入れないじゃないか」
「あ、ご、ごめんね、レオンくん……」
「まったく…ちゃんと謝ったのか?」

レオンは偉そうにそう言うと、マスターの方を向いた。

「先日は、色々迷惑をかけてしまって、すまなかった。弁償をしたいのだが…幾ら払えばいい?」

およそ謝っているようには見えない尊大な態度に、はらはらするコンドル。
が、マスターはにこりと笑って答えた。

「そうだねー、窓ガラス代だけ頂いてもいいかな?金貨一枚で」
「……それだけでいいのか?」
「うん、お客さんたちが壊したのは窓だけだからね」
「……そうか。では」

ちゃり。
財布から金貨を一枚出して、マスターに渡すレオン。
マスターは笑顔のまま、手の平を握り締めてさし上げた。

「はーい、確かに。もうあんな乱暴なことしちゃだめだよ?」
「は、はい……す、すみませんでした……」
「すまない、自重する」
「じゃあじゃあ、まあ座ってよ」

マスターが明るい表情で勧めるので、2人は顔を見合わせてからカウンター席に並んで座った。
と、そこに、とことことミニウムがやってくる。

「カーくん、ぼく、おそとでおうたうたってるね」
「んー、ありがとミニたん、お願いねー」

とことこ。
飄々とした様子でドアに向かうミニウムを、あわあわと声もかけられずに見送るコンドル。
そこに、マスターが改めて声をかけた。

「今日は何にするー?」
「ふむ、紅茶をダージリンで頼む」
「え、え~と…ボ、ボクはミルクティーをお願いします。あ、お、お茶葉はアッサムでお願いします」
「ダージリンとアッサムね。ミルクティーはロイヤルにするー?」
「あ、い、いえ、あの、ミルクをつけてください…」
「はいはい、かしこまりー。ちょっと待っててね」

マスターは手早く伝票にメモをし、カウンターに引っ込むと鮮やかな手際で2人の茶を入れた。

「はい、どうぞー」
「む、すまない」
「あ、ありがとうございます……」

いつものようにホール側まで回って後ろから差し出して。
2人は出された茶に口をつけて人心地ついた。

「それにしても、こないだはいきなり窓から飛び込んできたのー?」
「あ、え、えと……」

いきなり直球で尋ねるマスターに、慌てるコンドル。

「そっちの、小さなお客さんが…えっと……んー、ごめん、2人ともちっちゃいから、名前教えてもらっていいかな?」
「あ、そ、そうですよね…え、えーと、ボクはシェリク=ムー・ウェルロッドっていいます。えっと、コンドルって呼んで下さい」
「コンドル?」

きょとんとするマスター。

「どの名前をどう略したらコンドルになるの?あざな?」
「あ、え、えと…」

今まで誰もつっこまなかったことを直球でつっこまれて、コンドルは慌てた。

「えと……ボク、この名前って好きじゃなかったんです」
「ん、なんで?可愛い名前じゃん?」
「か、可愛いのが、ちょ、ちょっと……」

コンドルは精一杯眉を寄せて、不快の表情を作った。

「ホ、ホントに小さい時から皆に、シェリー、シェリーって言われてて。ボ、ボクが、女の子みたいだから、って。
イ、イヤだったんです。女の子みたいっていうその理由も、シェリーっていう女の子のような呼ばれ方も。この名前も嫌いで……だ、だから、違う名前をって」
「まー、シェリーって言われると女の子みたいだよねえ。しかもちっちゃくなる薬とか作ってそうだよね」
「…え、えと…?」
「んー、こっちの話。で、何でそれで、コンドルなの?」
「えと…こ、この名前は、ですね」

そこに至って、ようやくコンドルは少し嬉しそうに表情を緩めた。

「む、昔読んだ物語の主人公が鳥の名前を使ってて……その主人公が優れた魔法使いだったというのもあって、そ、それをちょっと真似してみたんです」
「なるほどねぇ、憧れの人と同じ名前にしたかったんだね」
「そ、そう…なりますね。か、架空の人、ですけど……」
「うんうん、わかるよー。言霊って、僕、あると思うんだ。きっとコンドルくんも、その主人公の魔法使いさんみたいになれると思うよ」
「そ、そうでしょうか……」

コンドルは嬉しそうに笑った。

「えーと……だ、大体そんな感じなので、コンドルって呼んでください」
「はいはい、りょうかーい」

と、そこでレオンが不機嫌そうにコンドルに声をかける。

「……オレや暮葉とかも言ってるが、イヤなのか?」
「…ううん、レオンくんたちはいいよ。特別だもん。それにそう呼んでくれる人もいなくなっちゃうから」

コンドルは少し考えて、レオンに言った。
レオンはそうか、とだけ短く言って、またマスターに視線を向ける。

「オレはレオン。レオン=ライト・シルウィリィだ。よろしく頼む」
「レオンくんとコンドルくんだね。りょーかい。なに、2人は友達なの?」
「ん、ああ……一応、従兄弟なんだ。まぁでも、家族っていうよりは友人って感じなのかもな」
「従兄弟。へー、なるほどねぇ。言われてみると、ちょっとだけ似てるよね」
「冗談でも辞めてくれ、こんなのと似てるとか」

憮然とするレオン、ひどいや…と目で訴えるコンドル。

「で、話を元に戻そうか。何でコンドルくんは、窓からダイブなんていう荒業をこなすことになっちゃったの?」

マスターが話を戻したところで、レオンが決まり悪そうに視線を逸らした。

「あー、ちょっとじじいに使いを頼まれてな。ちょうどその行き先がヴィーダだったんだが…」
「お祖父さんのお使い?ヴィーダにお使いってことは、ヴィーダに住んでるわけじゃないんだね。どこから来たの?」
「ココから北に向かった所の……そうだな、カーフを少し越えた辺りの山ん中にな、ニナイって小さい村があってな。そこから来たんだ」
「へー、あの辺ちっちゃい村いっぱいあるみたいだよね」

もっともらしく頷くマスター。

「で、お使いって、何を頼まれたの?」
「そうだな…確か魔法の研究や練習なんかで使う羊皮紙や魔法薬なんかの消耗品類の買い物だったかな」
「めっちゃ他人事だね」

少し半笑いのマスターに、レオンは憮然とした。

「その使いの帰りにな、コイツと会ってな。話をしてたんだが、そこで少し…喧嘩しちまってな」
「あれれ、何でまたケンカなんてしたの?」

驚き半分、咎め半分のマスターに、眉を寄せて視線をコンドルに向けるレオン。

「ああ、コイツ今、軽く家出みたいな状況でな。じじい達からも言われてる事だが、いい加減帰ってこいって話だったんだ」
「あれれ。コンドルくん、そんなちっちゃい……まあ、別にちっちゃくないのか…まあいいけど、家出なんかしちゃってるの?」
「うぅぅ……」

コンドルは少し涙目で、しかし何も言えずにいる。
2人ともちっちゃくない発言は華麗にスルーだが、そこは気にしない。
レオンは続けた。

「そう、そういう話だったんだが……オレもコイツも譲らなくて……それで、ちょっと手が出て、その、魔法を撃っちまってな」
「えっ、じゃあなに、コンドルくん、魔法で吹っ飛ばされて窓破ってきたの?!」

マスターは大仰に驚いた。

「ケンカの最中に魔法が出るとか……レオンくんは普段から魔法使ってる人?」
「ああ……まだ修行中なんだが、一応オレも魔道士でな。けっこう使ってるかな」
「でも、ダメだよ~、住宅街で攻撃魔法なんか使っちゃ。君たちは平気な威力でも、建物や周りの人に被害が出るんだよ?大きい力を持つ人は、それ以上の自制心がないといけないんだからね?」
「う……それは……反省している」

再びばつが悪そうに視線を逸らすレオン。
マスターはそれはさておいて、うんうんと頷いた。

「そっかー、コンドルくん家出中なんだねえ。レオンくんの家族も、コンドルくんが心配だよねぇ」
「だろう?もっと言ってやってくれ」
「で、でも、ぼ、ぼ、ボクには、や、やりたいことが……」

コンドルは涙目のまま、精一杯の反論をしてみる。
レオンは嘆息した。

「この調子なんだ。気がちっちゃい癖に妙に頑固でな…」
「まーまー、オトコが一度決めたことは貫き通したいっていう立派な心がけじゃーん?」
「それは分からないでもないが……」

納得行かない様子のレオンに、マスターはにこりと笑ってコンドルのほうを向いた。

「まあそうだねえ、心配してる人の気持ちも考えられるのが立派な男だとは、僕も思うかな」
「……っ」

マスターの言葉に、コンドルははじかれたように口をつぐんで、それから俯いた。

「立派、か……」

レオンがどこか遠い目で呟いた言葉が、静かな店内に響き渡る。
コンドルはそれからずっと俯いたまま、出された紅茶が冷えていくのを見続けていた。

第4週・ストゥルーの刻

からん。

「こんばんは…」

日が沈んでしばらくして、控えめにドアベルの音が鳴り、マスターとミニウムはそちらを振り返った。

「まだ、やってるかな?」

顔を覗かせたのは、昼間現れなかった、クルム。
マスターは驚いた様子で、カウンターの中から出てそちらに駆け寄った。

「あれー、クルムくん。昼間来なかったから、もう来ないのかと思ってたよー。
まだやってるよー、入って入って!」
「ありがとう」

クルムは安心したように笑って、後ろを振り返った。

「テア、やってるって。ちょっと休憩していこう」

行ってから、ドアを開けて手で押さえ、後ろの人物に道を譲る。
入ってきたのは、クルムより少し年上くらいに見える、可愛らしい少女だった。

「ここがハーフムーン?素敵なお店見つけたわね」

肩までの琥珀色の髪に、優しげな青い瞳。やわらかい色のカジュアルな服に身を包み、大きな鞄を持っている。
マスターは入ってきた少女に少し目を見張って、それから微笑んだ。

「いらっしゃい。クルムくんのお友達?」
「あ、はい。システィア・フォルナートといいます。良ければ、テアって呼んで下さい」

テアと名乗ったその少女は、言って丁寧にお辞儀をした。
慌ててかしこまってしまうマスター。

「わわわ、お客さんにそんな丁寧にされちゃうと困っちゃうなー。じゃあ、テアちゃん?どこでも好きな席に座って?」
「あ、はい。クルム、どうする?」
「カウンターでいいんじゃないかな。行こう」
「ええ」

クルムの言葉に頷くと、テアはカウンターに向かって歩き出した。
それに続いて歩き出そうとするクルムに、マスターが意味ありげな笑みを向ける。

「なかなか、かわいーコじゃーん?」
「えっ、な、何を……」

あからさまに頬を染めるクルム。
マスターは満足げに笑うと、自分もカウンターの中へと戻っていった。
何か肩透かしを食らったような気持ちで、クルムは後を追ってテアの隣に座る。

「それにしても、ずいぶん遅かったねー?てっきり、ミケくんたちと一緒に来るんだと思ってたよ」

言いながら水を出すマスターに、クルムは苦笑した。

「昼間は、都合がつかなくてね。でもせっかくだから、寄らせてもらったんだよ」
「ミケさん?彼とここで会う約束だったの?」

驚いたような表情で、テア。
クルムは慌てて否定した。

「約束、って言うほどでもなかったんだ。都合が合えば、会えたらいいね、っていうくらいで」
「そう……私の補講が入っていなければご一緒できたのにね、残念だわ」

残念そうな顔をするテア。
クルムはそういえば、と、気になっていたことを訊いた。

「ミケ…レティシアと、ちゃんと会えたのかな、マスター」
「あ、うんうん、ちゃんとお手紙もレティシアちゃんに届けたし、今日は楽しそうに2人でデートしてたよー」
「そうか、それならよかった」

クルムは嬉しそうに微笑んで、胸を撫で下ろす。
マスターはテアの方をむいて、首をかしげた。

「テアちゃんも、ミケくんと知り合いなの?」
「ええ、知り合いというほどたくさん会ったわけでもないけど、以前、新年祭のパーティーでご一緒したことがあるんです」
「へええ」

テアはにこりと笑って、ミケの印象を語った。

「礼儀正しくて、優しくて、それにとても綺麗な人だったわ。穏やかな声と、笑顔が素敵で。
いろいろな事に詳しくて、お話しして楽しかったの。
頭が良くて、いざという時に行動力もあって、凄く頼りになる人だって、いつもクルムが言っているわ。クルムの自慢のお友達ね」
「へぇぇ、ミケくんモッテモテだねぇ」

マスターも嬉しそうに笑う。

「昼間は都合がつかなくて残念だったね。補講、って言ってたね?」
「ええ、本当は昼間に来ようと思ってたんだけど、昨日になって急に、今日1日で補講だから全員出席、って言われてしまって」
「テアちゃんは、学生さんなんだ?」
「あっ、ええ。ここを少し行ったところにある、魔道学校に通っているんです」
「へえっ、そうなんだ。じゃあ、魔道士のタマゴちゃんなんだね」
「あ…魔道士と言っても、専攻は魔道薬学なんですけど」
「そうなの?そっかー、でもテアちゃんならきっと、すっごい魔道士になるよ!」
「そう…ですか?」
「そうそ。ねー、ミニたん」
「うんうん、すっごーいまほーつかいになるよー!」

マスターに促され、ミニウムもこくこくと頷く。
クルムはきょとんとしてそちらを見た。

「あれ……えっと、お客さんじゃないんだ?」
「はいはーい!今日はー、いちにちここできゃくひきしてます!ミニウム、ってゆーんだよ。よろしくおねがいしま……!」

元気に言うミニウムに、クルムもテアも微笑みかける。

「そうなんだ。オレはクルム。よろしくな」
「楽器を持っているけれど、歌い手さんなの?」
「はわわ、いちおー、ぎんゆーしじん、やってるんだよ、よー…」

わたわたと意味もなく手を振って、ミニウムは楽器を構えた。

「おきゃくさんもー、いっきょくどうかな、かな?」
「えっ……えっと、それじゃあ、明るい曲を」

反射的に答えるクルムに、ミニウムは右手を上げて答えた。

「かしこまりー。んじゃ、いま、ヴィーダでだいりゅーこーのきょく、いっきまーす!」

ぽろりん。ぽろ、り、ら、じゃん、じゃかじゃか。

ソフトな出だしから軽快な伴奏に乗せて、ミニウムの歌声が響く。

「つ、た、え、たーぃんだっ♪
 やっと つったえるーんだ♪
 きっみにぼっくーのすべて、 フゥッフ☆

 は、やくいわーなきゃ♪
 あ、ふれだしそーだ♪
 せかーいで きみーしか、いない

 そっおー、いつだーって
 き、み、はー 
 ぼ、く、のー 
 てーんしなんだ★☆★」

声は先ほどのままだが、音程はしっかりしていて普通に上手い。
歌詞の内容は、抑えきれない気持ちを今まさに告白する少年のもので。

(こ、これって……)

クルムは顔を真っ赤にして、慌ててミニウムを止めた。

「ご、ごめん!他の曲にしてもらえるかな」
「んうー?じゃあ、こっち?」

ぼろろん……

奏でられたメロディーは、先ほどと打って変わって切なく、激しさをこめた…ナノクニのエンカのようなものだった。
まさにナノクニのエンカよろしく、前口上が始まる。
先ほどまでのたどたどしい喋り口はどこに行ったのか、流麗な口調でつらつらと語っていくミニウム。

「乙女の秘めたる想いを、ついに知ることとなった美麗魔道士
 待ちわびて恋焦がれた彼女へと贈る、ラヴ・レター…!
 さあ、歌っていただきましょう、『乙女街道・恋の…」
「そそそそ、それも遠慮するよ!」

いかにもな曲が始まってしまう前に、クルムは慌てて止めた。
曲の内容がアレでソレなのはGMの感知するところではございませんので念のため。
つうか歌うのは本人ちゃうんか。とか諸々のツッコミは、テンパったクルムには無理かろう話で。

「う、歌はいいからさ。ええと、何か明るめの、曲を、お願いするよ」
「むー、またうたはいいってゆわれたー。ぼく、ぎんゆーしじんなのにぃ」

ミニウムはぶんむくれながらも、弦楽器を奏で始める。
明るく穏やかな曲が響き渡る店内で、クルムはやっとマスターに向き直った。

「で、ご注文はどうする?」
「あっ、ええ、っと。何に、する?テアは」

まだ少し動揺が残るクルム。
テアは少し考えて、マスターの方を向いた。

「マイトとアリシアが、マスターのこと絶賛していたわ。このお店は何を頼んでもきっと美味しいよ、って」
「えー、ホントぉ?何か照れちゃうなぁ」
「うーん、何にしようかしら…」
「んじゃ、僕のオススメでも入れようか?」
「…そうね、そうして頂こうかな」

テアがにこりと笑うと、マスターも笑顔でそれに応えた。

「クルムくんも、それでいい?」
「あ、うん。お願いするよ」
「はいはーい、ちょっと待っててねー」

マスターはそう言うと、ノレンをくぐって奥の部屋に引っ込んだ。
と、テアがクルムのほうを向いて、申し訳なさそうに切り出す。

「それにしても、わざわざ迎えに来てもらって、悪かったわね、クルム」
「え、いいよそんな。オレも何も用事なかったし、アリシアが迎えに行くついでにハーフムーンにでも寄ってきたら、って言ってくれてさ」
「そうだったの。確かに、いいお店だわ」

楽しそうに店内を眺めるテア、その様子を満足げに見やるクルム。
もちろんアリシアの発言には何らかの思惑があってのことだが、特にそれは気に留めていないようで。

と。

「あーっととと、クルムくーん、ごめーん、ちょっと来てー」

奥の部屋から声がして、クルムは驚いて腰を上げた。

「何だろう。ごめんテア、ちょっと行ってくる」
「ええ。手が必要だったら私も呼んでね?」
「ありがとう」

クルムは短く言って、早速ノレンをくぐって奥の部屋へ。
奥の部屋ではマスターが、細かく泡立てたミルクの入ったピッチャーを繊細に動かしながら、困った顔をしていた。

「ちょ、さっき収納庫で袋蹴倒しちゃってさ、直したいんだけど時間かかりそうなんだ」
「そうなんだ。じゃあオレが…」
「あー、クルムくんはこっちこっち」

マスターは奥の収納庫に行こうとするクルムを止めて、カップの乗ったトレーを差し出した。

「これ、冷めちゃうと美味しくないし、模様も崩れちゃうから、僕の代わりに持ってってくれるかな?
あ、こっちクルムくんのね」
「うん……って」

差し出されたトレーに乗っていたのは、ミルクの泡の上に大きなハート型のラテアートが施されたカップだった。
ちなみに、隣にも同様にラテがあるが、こちらにはそれを逆さにしたようなスペードの模様が描かれている。こちらがクルムの分、という意味だろう。

「ま、マスター、これって……」
「んじゃ、よろしくねー♪」

マスターは満面の笑みでそう言うと、さっさと収納庫に入っていった。
クルムは困った顔をしてラテを見下ろしたが、模様が崩れる前にというマスターの言葉を思い出してそろりと持ち運び始める。

表面に大きなハートマークのあしらわれた綺麗なカップに、治まりかけていた動悸がまた復活してきた。
そのつもりなど全然なかったのに、まるで告白せよと迫られているような気分になる。

さっとノレンをくぐり、ぎこちない足取りでテアの元まで辿り着くと、テアは顔を上げてクルムのほうを見た。

「マスター、何だったの?」
「あ、うん、ちょっと手が離せなくなったから、運んでくれって」
「そう、何もなくてよかったわ」
「はは…」

クルムはぎこちなく笑って、トレーの上のカップを手に取った。
一呼吸置いて、それを手に取り、テアの前へと出す。

「は、はい……どうぞ」
「ありがとう」

テアの声も、まるでどこか遠くから響いているような気がする。
カップを見下ろしたテアの表情が動くのが、やけにゆっくりして見えた。

「クルム、これって…」
「あ」

心拍数が上がりすぎて上手く声の出ないクルムをよそに、テアはカップに顔を近づけて香りを楽しんだ。

「ホットココアね。マスター、クルムの好きなメニュー覚えてくれているのね」
「え?あ、ああ…」

再び肩透かしを食らったような顔で気の抜けた声を出すと、クルムは苦笑した。
彼が意識するほど、彼女はこのラテアートに意味を見出してはいない様子で。
単純に、女の子にはハート、男の子にはスペードを描いたのだと思ったのだろう。

クルムは自分の席にもココアを置くと、トレイをカウンターの上に置いて、改めて席に着いた。

「一番好きな飲み物はホットココアだって、前にクルム言ってたわね」
「うん、アリシアの煎れてくれるお茶も好きだけどね、ココアは一番好きというか、大事な飲み物で、お守りというか」
「お守り?」

意外な言葉に、テアはきょとんとして問い返した。

「うん、育て親のイストーク様がホットココアがお好きでね。
オレにもよくココアをいれてくださった。
ココアを飲んでその香りを嗅ぐと、その頃の事を鮮明に思い出すんだ」
「へぇ…香りって、記憶と深く結びついてるって何かで読んだ事があるわ。
私もお店を手伝っている時、ハーブの香りでふっと故郷の家を思い出したりするもの」
「そうなんだ」

クルムは笑顔でそう返してから、ココアを一口含み、懐かしそうに目を閉じた。

「イストーク様の、穏やかで良く通る声、暖炉にちらちらと揺れるオレンジの炎の色。
ココアを飲んでその光景を思い出すと、心が落ち着いて力がわいてくるんだ」

落ち着いた声音でそう言って、改めてテアの方を見る。

「だから普段飲む以外にも、心を落ち着かせたい時に飲んだり……真昼の月亭に仕事を探しに行く時は、依頼票をチェックする前に、意識してアカネに頼んだりする。
『依頼をちゃんとこなせますように』って、ちょっと儀式みたいにね」
「だから『お守り』なのね」

テアも納得した様子で微笑み返して。
すっかり緊張も解けた様子で、お互いの故郷のことなどを語り合う2人。

それを、ノレンの隙間からそっと覗くマスターがいたのだった。

「マスター、美味しいココアをありがとう」
「いえいえ、お店に来てくれてありがとうねー」

もう店じまいをするのだろうか、会計を終えた2人を、マスターとミニウムは外まで見送りに出た。
笑顔で礼を言うテアに、マスターも上機嫌で笑顔を返す。

「また来てくれると嬉しいな。見ての通り、お客さん全然いなくてさー」
「ええ、是非。友達にも紹介しておくわ。
私たちも、是非また来ましょうね、クルム」
「えっ……」

テアの何気ない発言に、ドキッとして言葉を無くすクルム。
テア自身には特にそれ以上の意味はなかったのだろう、再びマスターに向き直って。

「ココアもとても美味しかったし……それに、何故かしら、こんなこと言って変に思われるかもしれないけど…マスターって、なんだか初めて会った気がしないんです」
「えっ……テアも?」

今度は驚いてテアに問うクルム。
マスターに初めて会った時に、どこかで会ったような気がしていたことを思い出して。

「んふふ、やだなぁテアちゃん、こんな年かさのおじさん逆ナンすると後で怖いかもよ~?」
「ぎゃ、逆ナンだなんて……もしかしたら、似た人をどこかで見ただけかもしれないし…」

意地の悪い笑みを浮かべながらのマスターの言葉に、慌てるテア。
クルムはその様子をじっと見て…

…不意に、思い出した。

『でモ、師匠の匂いガスるわ。知ラナい?こンナ人よ』

「!………」

新年祭。
テアと迷い込んだ謎のダンジョンで遭遇した、キャットが。
自らの師匠に変身して見せた……その、男性。

チャカの兄、だと言っていた。

思い当たったことのあまりの大きさに、言葉も出ずに目を丸くしているクルム。
と、マスターがクルムのほうを見た。

にこり。

いつもの、あの人懐こい笑顔。
魔族だと言われても、とても信じられないような。
もちろん、天使だ魔族だというカテゴライズに意味がないことなど、彼はとうに承知していたのだが。

「さ、2人とももう遅いから、早くお帰り。アリシアちゃん、ご飯作って待ってるよ?」
「そうね。行きましょうか、クルム」
「あ、う、うん……」

歩き出すテアに、クルムは少し逡巡して、それでも後を追って歩き出した。

と。

「クルムくん」

マスターの横を通り過ぎる時に、マスターが小声でクルムに呼びかけた。
顔を上げて彼を見ると、彼はにこにこと先ほどの人懐こい笑顔を浮かべていて。

す、と腰をかがめて、クルムの耳元に口を寄せると。

「うちの妹のこと、よろしくね」

再び目を丸くして、マスターを見上げるクルム。
マスターはやはりニコニコと、人懐こい……それでいて、何を考えているか分からない笑顔でクルムを見ていて。

「マスター、今の……」
「クルム、どうしたの?」

追いついてこないクルムに、テアの声がかかる。
クルムはもどかしそうに、テアとマスターを交互に見た。

「早く行ってあげなよ、クルムくん」

先ほどの言葉などまるで口に出してもいないような態度で、マスター。
クルムはしばし、じっとその顔を見て。

「また、来るよ。マスター」

短く言い置いて、急いでテアの後を追っていった。

「うん、待ってるねぇ~」

ひらひらと手を振りながら、遠くなっていく2人の姿を見送るマスター。

「カーくん」

とことこ、と、その傍にミニウムが歩いてくる。

「いいの?あんなことゆっちゃって」
「そうだねぇ、出来れば面倒な事態は御免被りたいんだけどさ」

マスターは視線を外さぬまま、頭の後ろで手を組んだ。

「やっぱり、僕も…腐っても、エスタルティなんだよねぇ」

どこか他人事のように、のんびりとした口調で。

「それ以上に、さ。面白いことが……大好き、なんだよ」

サザミ・ストリート。
大きな通りではないけれど、下町情緒あふれる暖かい町。

その一角に、小さな喫茶店がある。

そこのマスターは、人懐こくて、明るくて、サービス精神旺盛で。
けれどどこか、謎めいて、妖しい魅力をたたえていて。


あなたも、一度訪れてみてはいかがですか。


喫茶『ハーフムーン』に。

“Welcome to CAFE -Halfmoon-” 2009.09.29.Nagi Kirikawa