第1週・ルヒティンの刻

「ほんと~にゆめ~み~たい~♪ これが~め~たもるふぉ~ずぃ~♪」

きゅ、きゅ。
上機嫌で皿を磨く青年は、小さなこの喫茶店のマスターである。

年のころは二十台半ばほどだろうか。ディセス特有の褐色の肌に尖った耳を持つ、なかなかの美丈夫だ。無造作に伸ばしました、という風の黒髪はあまり飲食店にはそぐわないのではなかろうか。切れ長のオレンジ色の瞳は大きなレンズの眼鏡に遮られてどことなくのんびりした輝きを宿している。小洒落た内装にあつらえたような、黒いベストとギャルソンエプロン。髪はともかくとして、絵に描いたような「ウェイター」である。
口ずさんでいるのは、知る人ぞ知る異国のアイドルの持ち歌。音程は1オクターブ下だが、地味に上手い。

安息日、ルヒティンの刻。
開店したばかりのここ、喫茶「ハーフムーン」は、まだ訪れる人もなく、カウンターの中でマスターが一人上機嫌に歌いながら食器を磨いていた。
もっとも、人がいないのは何も開店したばかりだからではなさそうだが。
しかし当のマスターは客がいないことなど気にする風でもなく、本当に上機嫌に皿を拭いている。
「ハーフムーン」の静かな一日が、幕を開けようとし………

どたん!
がしゃ、どんがらがっしゃーん!

速攻で、派手な音にそれが遮られる。
マスターは手を止めて目を丸くすると、意外に冷静に皿を棚に戻してとてとてと奥のスタッフルームへ足を運んだ。

「なにー、だーれー?こんな朝っぱらからひとんちで大騒ぎしてるの」

はさ、と、店内とスタッフルームの間にかけられた謎のカーテン(ナノクニ製のノレンというものらしいが)を上げて、妙に間延びをした声で中に問いかける。
自分ひとりで経営している喫茶店の奥で派手な音がしたら、普通は強盗や泥棒を警戒するものだろうが。
およそ警戒とは無縁の表情と声で部屋を覗き込んだマスターが見たのは、幸運なことに強盗でも泥棒でもなかった。

「あいたたた……あれ……こ、ここは……?」

狭いスタッフルームの床には壊れた棚とそれに仕舞われていたビンが無残な姿になって散らばっており、ビンの中に保存していたコーヒー豆や茶葉がさらに様相を壊滅的なものにしている。

そして、その中央で、一人の少年がきょとんとした表情で座り込んでいた。

「な、何だ…?オレ確か、裏庭でテアと話していて…」

きょろきょろと辺りを見回しながら、つぶやく少年。
年のころは15歳か、それより若いくらいだろうか。栗色の髪を短く整え、緑色の瞳が少し見かけより大人びた光をたたえている。旅装束のような格好をしているが、剣以外大きな荷物もなさそうで。

マスターはノレンから顔を覗かせたまま、へらりと笑って見せた。

「あははー、ダメだよお客さん、ちゃんと入り口から入ってくれなくちゃ」
「え、お、お客さん?」

マスターの言葉に、少年はますますうろたえた様子だった。
あたりをもう一度見回してから、慌てて立ち上がり、ぺこりと礼をする。

「す、すみません!オ、オレ、クルム・ウィーグといいます」
「ありゃ、それはどうもどうも、ご丁寧に」

マスターはきょとんとした表情で、しかし礼儀正しい少年に合わせるように、きちんとスタッフルームに足を踏み入れて会釈した。

「あ、あの、急にお邪魔してすみません、でもオレ、状況がよくわかんなくて…あの、ここはいったい、どこですか…?」
「ここはねえ、喫茶店だよー。『ハーフムーン』っていうんだ」
「ハーフムーン…」
「んで、君がしりもちついてたのが、ウチの在庫棚」
「ええっ?!」

少年――クルムは驚いて床を見やった。
クルムがど真ん中でしりもちをついていたガラス瓶の残骸。その周りには確かに、挽く前のコーヒー豆や茶葉などが散らばっており、ブレンドされてなんともいえぬ香りを放っている。

「え、オレ、な、何でこんなところに…?!」
「さー。裏口から入ってきたんじゃなきゃ、瞬間移動でもしてきたのかなー?」

突如店の奥に現れた、どう考えても『不審者』に対して、まるで他人事のような言葉を投げかけるマスター。
クルムはまだ混乱した表情で、額を抑えた。

「瞬間移動……ええと、さっき確か、テアが……学校で習ってきた転移魔法の話を…してて」
「ふむふむー?」

順に出来事を思い出していくクルムの横で、適当に相槌を打ちながらガラス瓶の残骸を箒で掃いていくマスター。
クルムはそれを見て、慌ててマスターに駆け寄った。

「あ、あの!すいません、オレが片付けますから!」
「あはは、いいよいいよー。わざとやったんじゃないんでしょ?それより、何でこんなとこに瞬間移動してきちゃったのか、ちゃんと思い出しなよ?僕、片付けながら聞いてるからさ」
「でも……」
「いいからいいから。んで、君の知り合いが転移魔法の話をしてたんだ?」
「あ、はい……」

クルムは納得のいかない様子で、それでも再び記憶の糸を手繰り始めた。

彼が暮らしている下宿先で、同じく下宿しているテアという少女と話していた。
彼女が通っているフェアルーフ王立魔道士養成学校で、今日習ってきたという転移魔法の話を始めた。

『今日、学校で魔法の構成の授業を受けた時にね、故郷の賢者様が私にかけてくれた転移魔法の組み方が、少しわかった気がしたの』
『へえ、それで、その魔方陣を?』
『ええ、この感覚を忘れないうちにと思って。賢者様が書かれていた魔法陣を、思い出しながら書いてみたのよ』

彼女がこのヴィーダにやって来た時、彼女の故郷から転移の…要するに、瞬間移動の魔法をかけてもらってやってきた。彼女自身は移動魔法を会得していないが、習ってきた勢いで見よう見まねの魔法を試してみよう、ということなのだろう。
テアは書いた魔方陣を床に置くと、それに手をかざす。

『ええとね、呪文は確か…』

興味深げにその魔方陣を覗き込むクルム。
テアはそのまま、目を閉じて呪文を唱え始めた。

『…疾使(ときつかい)トゥランの羽、大空をめぐり行きて、彼を運びたまえ
 アール フェル ターム、
 イウヌ マルトゥ、
 フェル エルクレント』
『………ぇ……っ?!』

魔方陣から生まれ出たまぶしい光が、クルムの全身を包み込み。

次の瞬間には、目の前の景色は「ハーフムーン」のスタッフルームになっていて。
驚きと妙な体勢の着地のせいで、側にあった棚ごと派手に転倒してしまうことになったのだった。

「……と、いうわけなんです……」

途中から記憶が鮮明になってきて、説明しながらマスターの掃除を手伝っていたクルムだったが、片付けも終え、経緯の説明も終えた時点で、しゅんと肩を落としてそう締めくくった。

「なるほどねー、試しに瞬間移動の魔法使ってみたら、成功しちゃったんだ。
あはは、すごいねー、その女のコ」

マスターはあっけらかんとした様子で、がちゃがちゃとガラスの残骸を袋に入れている。
クルムは申し訳なさそうに、もう一度頭を下げた。

「本当にすみませんでした。大切な商品をこんなにしてしまって…」
「ん、いいよ別に。これ、そんなに注文の入るモノじゃないしさ。
結構特殊な薬草とか使ってる茶葉だから、クセがあってマニアくらいしか飲まないんだよねー」
「え、それって、希少品ってことじゃないですか。高価なものですよね、すみません。
品名と量を教えてください、こちらで揃えますから」
「え、えええー?いいよー、事故なんだし。あんま気にしないで?」
「そういうわけには行かないですよ、弁償させてください」
「んー、でもなぁ…あ、そだ!」

困ったような顔をしていたマスターだったが、不意に何かを思いついたらしく、ぴっと人差し指を立てた。

「じゃあさ、誰か、お友達をこの店に連れてきてよ!」
「お友達……?」

きょとんとするクルムに、マスターはにこりと微笑んでノレンを上げた。
スタッフルームから、あまり広くはない店内が見渡せる。一人も客のいない、店内。

「ここさー、立地条件が悪いのかもしんないけど、いまいちお客さんが少なくてねー。
ま、シュミでやってるようなもんだし、あまり派手に儲からなくてもいいんだけど、やっぱり喫茶店やってるからにはお客さんが来ないと寂しいじゃん?
だから、君のお友達を誰か、この店に連れてきて。それでチャラってことにしようよ、ね」
「それは良いですけど……」
「じゃあじゃあ、もう君はお客さんね。さささ、座って座って♪」
「え、え……あ、はい…」

マスターに手を引かれ、何がなにやらわからぬうちにカウンター席に座らされるクルム。
マスターはカウンターの中に戻ると、にこりとクルムに微笑みかけた。

「それじゃ、お客さん、ご注文は?」
「注文…あ、えっと。じゃあ、ホットココアで」
「はーい、かしこまりー」

マスターはニコニコと微笑みながら、手際よくホットココアを入れていく。
コポコポという音と共に、ココアとミルクのいい香りが店内に漂っていった。

「はい、ホットココアおまたせー♪」
「あ、ありがとうございます」

こと、と置かれたカップを取り、静かにすするクルム。
ややあって、その表情に驚きと喜びが広がっていく。

「…美味しい。すごく美味しいです」
「そぉ?嬉しいなー、良かった」

素直な賛辞に、こちらも嬉しそうに相貌を崩すマスター。
すっかり動揺から立ち直った様子のクルムは、改めて申し訳なさそうに言った。

「さっきの、壊した棚の事ですけど…」
「ああ、だから気にしないでよー。棚もすぐ直すし、商品もまた注文すればいいからさ」
「いえ、やっぱりそういうわけにはいきません。駄目にしてしまった商品は、買い直して持って来ますのでメモをさせてください」
「んー、でも、結構珍しい種類だから、置いてないと思うよ?」
「大丈夫です。オレの下宿してる家は、問屋街で薬草の卸しをしている店で、紅茶やコーヒー豆も扱ってるんですよ。大抵のものはあると思いますから…」
「あっ、そうなんだ?それじゃ、お願いしちゃおっかなー」

マスターは軽い調子で言うと、手元のメモにサラサラとなにやら書き始めた。
おそらくは茶葉とコーヒーの種類なのだろう、いくつか箇条書きにしてから、ピッ、とそのメモ用紙を切って、クルムに渡す。

「はい、これ。卸の人なら見てもらえればわかると思うから」
「はい、わかりました」
「それと、クルムくん、だっけ?」
「はい、なんですか?」

唐突に名前を呼ばれて顔を上げたクルムに、マスターが苦笑する。

「そんな堅苦しい言葉じゃなくていいよー?僕みたいにフランクで」
「え、いや、ご迷惑をかけてしまったんですし…」
「それはもう気にしないでいいってば。弁償してくれるんでしょ?それでチャラ!ね。
もうクルムくんは僕のお店のお客さんなんだから、そんなに畏まらないでさ」
「あ……はい」
「だから、畏まらないで、ね?」
「……うん、わかったよ」

クルムも苦笑を返し、言葉を普段通りのものに変える。
マスターはようやく納得のいった様子で微笑んだ。

「うん、やっぱり若い子は変に畏まらない方がいいよ!」
「そ、そう…かな?」
「うん、クルムくんはその方が自然だし。人間、自然なのが一番だよね!」
「はは、そうだな。…ええと、マスターは何ていう名前なの?」

名前を問われ、マスターは笑顔でパタパタと手を振った。

「僕のことは、マスターでいいよー」
「え、でも…」
「いやいや。喫茶店のマスターって、『マスター』って呼ばれるものでしょ。それがお約束じゃん?」
「そ、そうなのかな……」
「そうそう。だから、僕のことはマスターって呼んでね!」
「わ、わかったよ、ええっと…マスター。
じゃあ、商品が揃ったら、またここに届けにくるよ。えっと、ここは……ヴィーダのどこになるのかな?」
「ええとねえ、サザミ・ストリートの三番街だよ」
「へえ、サザミ・ストリートなのか……」

自分の下宿からそんなところまで飛ばされてしまったのか、と改めて驚くクルム。
見よう見まねで転移魔法を行使してしまったテアの魔道センスには驚かされる。とはいえ、転移先でこんなことになってしまったことは、彼女のために言わないで置いた方がいいだろう、と思った。
そんな内心とは関係なく、クルムは質問を続ける。

「サザミ・ストリートのどのあたり?よく通る道じゃないけど、もしかしたら知ってる場所かもしれない」
「ええとねえ、大きな黒猫の看板がある雑貨屋から、西に、ええと…1、2、3件隣りだよ」
「へえ、あの雑貨屋から………」

マスターの説明で頭の中に景色をイメージし…その途中で、クルムの動きが止まった。

「ん?どーしたの?」
「マスター、ここって……昔、薬屋だった?」

その場所には、覚えがあった。
以前関わった事件で訪れた、「アサシンギルド」という物騒な名前の薬屋。
チャカという名の……魔族が、人間として身を隠すために使っていた場所だったのだ。
しかし、その事件の後、彼女が姿を消したこともわかっている。
その跡地が、このような喫茶店になっていたとは……

「え、そうなの?実は僕も良く知らないんだよねー」

しかし、マスターの返事は、核心に至るものではなかった。
苦笑しながら肩をすくめて。

「親戚がね、土地が空いたから使わないかって声をかけてくれてさ。
せっかくだから、ずっとやりたかった喫茶店を開くことにしたんだけど。
僕が来る前にどんなお店だったのかは、実はよく知らないんだよ。僕、ここに来る前はヴィーダじゃない場所に住んでたからさ」
「そうなのか…」
「でも、クルムくんがそう言うなら、ここは昔薬屋さんだったんだね。
どんな薬を売ってたんだろうねー」
「あ、いや……」

興味津々のマスターに、かえって申し訳ないような気持ちになるクルム。
名前からしてまともではなかったし、チャカ自身も薬屋というもの自体にこだわっている様子はなかった。それを伝えてがっかりさせるのも気の毒だ。
クルムは微妙に話題をそらすことにした。

「でも、薬屋さんから喫茶店になるなんて思わなかったな。広くないけど、お洒落な感じで。
ココアも美味しいし、この器や内装のセンスも……」

きょろり、と店内を見渡して。
洒落た店内の中にぽつんと落ちた違和感に、視線を止める。

「…ん?あの出窓にあるのって……」

入り口すぐの出窓に、何かそこだけ別世界のように、高さ20センチほどの小さな人形が置かれている。
人形というよりは、色つきの小さな像と言った方が近いかもしれない。ピンク色の髪をしたマーメイドの可愛らしい少女が、フリフリの服を着てマイクを持っている。
そして、クルムはその少女にも見覚えがあった。

「……あれっ、あれってミューの…フィギュア?前のコンサートの時に着ていた衣装だ…」

『フィギュア』という単語がさらりと出てくるあたり、洗脳度が高いクルム。
マスターはその言葉に、ぱあっと表情を明るくした。

「わあっ、クルムくん、ミューたんのこと知ってるの?!」
「えっ、え、うん、コンサートには行ったけど……」
「コンサートって、こないだのヴィーダ遠征の?!わー、クルムくんもいたんだねえ!ね、ね、ミューたん可愛かったよね?!クルムくんはどのあたりの席にいたの?!」
「え、あ、オレは、その……」

クルムはミューのコンサートには観客でなく警備としていたため、どこの席にいたかと言われても困ってしまう。
が、マスターは問いかけておいてその答えには興味がないのか、クルムの答えを待たずにどんどん話の続きを始めてしまった。

「あれねえ、ヴィーダ遠征限定の衣装なんだぁ、超可愛かったよねー!ミューたんは僕たちのために色んな衣装着てくれるし、いろんなことしてくれるけど、やっぱり僕は素のミューたんが一番可愛いと思うんだよねー。クイーンローザ先生もカッコイイけど、やっぱりミューたんはミューたんらしいのが一番だよねー」
「…………」

こういう語りを始めてしまった人種を止めることができないことは、経験上よくわかっている。
クルムはどこか遠い目で、語り続けるマスターをしげしげと見やった。

(…なんだろうこのデジャブ感…はは、ミューのファンってみんなこんな感じなのかな……)

苦笑しながら、マスターの話を右から左へ流し聞いていく。

(それに初めて会ったのに、なんだか良く知ってる人みたいだ…
ディセスの知り合いに似た人がいたかな…?
フィズ?いや、全然違う。うーん?)

元気に語るマスターをしげしげと眺めながら、知り合いの顔を思い出していく。
マヒンダからやってきたあの青年は、ディセスではあったけれど髪の色が違うし、もっと穏やかな印象だった。

(褐色の肌に、長い黒髪、濃いオレンジの瞳…)

そこまで考えて、目を丸くする。
その特徴は、まさしく……ここに以前居を構えていた魔族、チャカを始めとするエスタルティ一族のものではないか。

(い、いや、まさか。
オーラとか雰囲気とか、彼らとは全然違うし……)

心の中で否定してから、いやしかし、と思い直す。

(『ムーンシャイン』と名乗ってた、チャカの元アジトに『ハーフムーン』って…?
いや、でも、ぐ、偶然…なのか…?)

偶然ですけど。

自らの思いつきを口に出そうか出すまいか迷っていたクルムに、マスターがずいと身を乗り出した。

「で、で、どうかな?あのフィギュア!クルムくんから見て!」
「え、ええっ?フィギュア?」

唐突に話を振られ、クルムはどきりとしてマスターとフィギュアとを見比べた。

「え、ええと…か、髪のなびいている所とか、ふわっとした衣装の感じとか、細かい所まで再現されているし、表情やポーズも、ミューの特徴を良く捉えてると……思う…」
「そおぉぉぉ?!やっぱそうだよねー!うんうん、伝えておくねー!
あの服の他にねえ、ヴィーダの遠征ではもう2種類……」

クルムの言葉に嬉しそうに頷いてから、マスターは再び語りを再開させる。
その様子に、クルムは苦笑した。

(は…はは、彼らと関係なんて…無いか)

チャカやキルとこのマスターでは、髪や瞳の色は同じでも雰囲気が違いすぎる。ミューを熱く語るあの二人など、想像するだけで殺されそうだ。
クルムは軽く笑って、その考えを振り払った。

(でも、彼のこの、好きなものの事を語ってる時の…この目の輝き。
凄く知ってる…誰…だったかな…)

再び、知っているディセスに考えをめぐらせる。
今度は、思い当たるのにそう時間はかからなかった。

(…ああ!そうだ、かるろに似てるんだ)

むしろ、ミューを語るというのになぜこちらが先に浮かばなかったかと不思議なくらい、マスターの雰囲気は、まさしくミューのコンサートで出会ったかるろという名の少年に似通っていた。

(ミューにフィギュア、黒髪にオレンジの瞳。そうか、居たな、かるろだ。
なんだろう、こんなに似てるなんて、もしかして…親戚か何かなのかな?)

そう思い、聞いてみようと口を開く。

「あの、マスター、もしかして かるろ っていう…」
「それでね、去年のツアーはマヒンダまで行って、全7箇所を完全制覇してきたんだよー!去年の限定衣装はね、黄色に水色をあしらった可愛いチョウチョみたいな……」
「………」

ノンストップ語り中のマスターには、クルムの声は届かないようで。
クルムは苦笑して、マスターの話が終わるまでそれに付き合うのだった。

結局かるろ少年のことを聞けなかったな、と思い至ったのは、クルムが代金を払い終えて外に出、メモを確認しながら家路につく途中のことだったという。

第1週・ミドルの刻

時刻が昼に差し掛かっても、「ハーフムーン」の店内は相変わらず閑散としたものだ。
立地が悪いのか、中の狭さが悪いのか。店だと思われていないのかもしれない。確かに、看板は少しお洒落すぎて帰って入る気をなくさせるような気もしないでもないが…

「まって~、ま~って♪ つたえ~たいのこ~の~きもち~♪」

また例のアイドルの歌を口ずさみながら、客の無さなどどこ吹く風といった様子で相変わらず皿を磨いているマスター。
すると。

からん。

唐突に店のドアが開き、マスターは明るい声をそちらにかけた。

「いらっしゃい!」
「あっ、やってますか!よかったー」

安息日であるにもかかわらずあまりに客がいないので、営業していないかと思ったのだろう。
入ってきた少年は、安心した様子で微笑んで、きょろきょろと辺りを見回した。

「えーっと、席は…お日様のあたる窓側!」

ひょっとしたらエレメンタリーではないのかと疑うほどの発言も、この見るからに優しげで穏やかそうな少年には驚くほどマッチしていた。上機嫌で窓際の席に座ると、気持ちよさそうに窓から差し込む日差しを受ける。

年のころは15、6歳ほどだろうか。肩にかかるほどの黒髪は無造作に伸ばしましたという風で、ぴょんぴょんと外側に跳ねている。動きやすそうな服装に大きなリュックは、彼が若いながらも旅人であることを思わせた。
興味津々で店内を見回すその様子は、天真爛漫としていて可愛らしさと少しの幼さを印象付ける。
彼は、名をファリナといった。

「はーい、いらっしゃいませー」

マスターが水とおしぼりを持ってくると、ファリナは慌ててそちらに向き直る。

「あっ、ありがとうございます!」
「ご注文は決まったかなー?」
「注文ですか?えっと、その前に、店長さんにいくつか質問よろしいでしょうか?!」

いきなり懐からメモを取り出すファリナに、マスターは伝票を持ったままきょとんとした。

「えっ、質問?いいけどー……あはは、店長さんってなんかこそばいなー、僕のことはマスターって呼んでね♪」
「あっ、は、はい、では、マスターさん!」

ファリナは言い直して一呼吸置くと、メモを握り締めたまま続けた。

「実は1週間後に、知り合いの女性にヴィーダ案内を頼まれまして。そこでこのお店はどうかなと思って来てみたのですよ」
「わ、デートの下見なんだぁ♪ウチの店を選んでくれて光栄だなぁ」
「デート?!ち、違いますよ!ただの観光ですって!」

嬉しそうにへらっと笑うマスターに、慌てて首をぶんぶん振るファリナ。

「またまたー。女の子にヴィーダ案内してあげるんでしょ?デートじゃん、それ。
いいなー、若いっていいよねー。僕も応援するよ、がんばってね♪」
「ち、違いますってば……ええと、と、ともかく質問しますよ!」

さらにいじろうとするマスターに、無理矢理話題を元に戻すファリナ。
改めてペンを握ると、マスターに視線を向ける。

「あの、マスターさんのお勧めメニューを伺ってもよろしいですか?」
「え、僕のお勧めメニュー?えー難しいなあ。
そういうのって、僕の好みより、その彼女の好みを優先させた方がいいんじゃないの?」
「か、か、彼女じゃありませんてば!」
「あははは、まーた照れちゃってー♪
でもそーじゃない?その女の子の好みがわかんないと、なんともお勧めしようがないよー」
「そ、そうでしょうか…?」

難しい表情で考え込むファリナ。

「うーん、ボクもおねーさんの好みはわからないのです。あまり自分のことを話してくれないのですよ。それでも困ることはないのですけど…って今困っちゃいましたね」

自分でつっこんで、苦笑する。
マスターはもう一度へらっと笑うと、言った。

「そうだなー、女の子ならパスタとかいいんじゃないかな。
日替わりもあるけど、僕のオススメはキノコ盛りだくさんのソイソースパスタ。あっさりしてて美味しいよ♪」
「…ふむ、キノコ盛りだくさんのソイソースパスタですね、キノコは大丈夫だと思うから…おねーさんも満足するかな」

真面目にメモを取りながらぶつぶつと独り言を言うファリナ。
マスターの言ったことをメモに取り終えると、こつん、とペンの先をメモ用紙にぶつけて、終了する。

「ありがとうございます!あ、そういえば注文がまだでしたね、えっと、じゃあ日替わりを」
「日替わりって、さっきの日替わりパスタ?」
「あっ、すみません、そうです。今日は何ですか?」
「今日はナスのミートソースだよ」
「わ、美味しそうですね。じゃあ、それを」
「日替わりパスタね、かしこまりー♪」

マスターもさらさらと伝票にメモをすると、上機嫌でカウンターに引っ込んでいく。
カウンター内にしつらえられた簡素なキッチンで、手際よく材料を刻んで、フライパンで炒めていく。
茹で上がったパスタに、フライパンで炒めたナスとそれに絡めたミートソースをとろりとかけ、パセリのみじん切りを散らして。驚くほど鮮やかな手際に、思わずファリナは見入ってしまった。

「はーい、おまたせー。ナスのミートソースと、付け合せのサラダね」
「わぁ、早いですね!いただきます!」

マスターが持ってきたパスタの皿を、笑顔で迎えるファリナ。
漂ってくるミートソースのいい香りを堪能してから、ファリナはもう一度マスターに視線を向けた。

「あの、マスターさん、お店の混み合い具合はいつもこのような感じなのでしょうか?」
「おっ、直球だねぇ」

マスターはファリナの不躾な質問にも笑って答えた。

「通りには面してるけど、なんでかなー、ちっちゃいから目立たないのかもしんないね。
まあ、僕も道楽でやってるようなものだから、別に構わないけどさ」
「あはは、すいません気まずい事を聞いてしまって…。では、時間帯もこのくらいでっと」

さらにメモするファリナ。
マスターは不思議そうにそれを覗き込んだ。

「さっきから何メモしてるの?そんなに重要な情報かな、今の」
「あはは、こうしないと次にどうすればいいのか分からなくなりそうなので」
「ああ、そっかー、デートプランは綿密に立てなきゃだもんね!がんばってね!」
「だ、だ、だからデートじゃないと……もう…」

ファリナは少し頬を染めながら、ようやくパスタに手をつけた。

「では、改めまして…いただきまーす!」
「はーい、ごゆっくりねー♪」

ファリナが食べ始めたのを見て、笑顔で会釈してから、カウンターに戻っていくマスター。
ファリナはするすると器用にパスタを巻き、ぱくりと食いついた。そのあたりのしぐさにも幼さが見え隠れして可愛らしい。

「うん、美味しい!美味しいですよ、マスター!」
「あはは、そうー?嬉しいな、ありがとー」
「これならおねーさんを連れてきても満足してもらえそうですね…」

ファリナは嬉しそうな顔で、つるつるとパスタを平らげていく。
あっという間に、パスタもサラダも胃袋の中に納まってしまった。

「ふぅ…ごちそうさまでした。美味しかったです!」
「はーい、おそまつさまでした。これ、食後のコーヒーね。あ、紅茶の方がよかった?」
「あっ、いえいえ、コーヒーで大丈夫ですよ。ありがとうございます」

運んできたコーヒーと交代でパスタの皿を下げるマスター。
ファリナはコーヒーを口に運びながら、改めて店内の様子をぐるりと見渡した。

「…店内の雰囲気もいい感じだなぁ…っと、あれ、これは何だろう?」

そして、出窓に飾ってあったフィギュアに目を留める。

「これって確か……ええと、フィギュア?マスターさん、これはいった………うわあっ」
「そのフィギュアに興味があるの?!」

光の速さで戻ってきたマスターに仰天するファリナ。
とはいえ、フィギュアという単語がするりと出てくるあたりで、彼もなかなかのものだろうが。
くどいようだが、一般人は「フィギュア」という単語にさえ馴染みがないものだ。

「これねえ、マヒンダで今チョー人気のアイドル、ミューたんのフィギュアなんだよー」
「み、ミュー……たん?」
「そうそうそう!かっわいいでしょー?ねっほら見て見て?このふわっふわの髪の毛!フィギュアだとどうしても硬さが出ちゃうけど、本物はすごくふわふわでねー、可愛いピンク色なんだよー」
「はっ……はあ……」

完全に気圧された様子でマスターの話に相槌を打つファリナ。
それにはまったく構う様子もなく、語り続けるマスター。

「ミューたんはねー、そこらの可愛いだけのアイドルと違って、歌もチョー上手いんだー。マヒンダと違ってフェアルーフだと記録盤を買うのにもちょっとお値段が張るけど、お金出しただけのことはあるよマジで!」
「あの……」
「僕のお勧めはね、『あなたに首ったけ』!ベッタベタな曲なんだけどさあ、これがまたいいんだよねー!あ、『恋はメタモル☆マジック』もいいよー、作詞はなんとミューたん本人がやってるんだあ!可愛いだけじゃない、女の子の強さみたいなのが歌詞からにじみ出てて、ミューたんってこういう一面もあるんだなあってファンとしては嬉しくなっちゃうんだよねー」
「マス……」
「この衣装はねえ、今年ついに!実現したヴィーダ遠征限定の衣装なんだ!もーフリフリで可愛いでしょ!ミューたんのコンサートはねえ、やっぱり音楽盤で聴くのとは違った魅力があるよ!何ていうのかな、夢の国!って感じ!エンターティナーなんだなぁって感心しちゃうんだよー、ミューたん本人もそうだけど、あれはホント、プロデューサーの手腕があるんだろうねえ」
「…………」

まったくファリナに口を挟む隙を与えないマシンガントークに、口を閉ざさざるをえない。

(か、語り終わるまで待つか……)

内心でそう思いつつ、ファリナは弱々しい愛想笑いを浮かべながら、マスターの話に相槌を打った。

が。
彼は自らの認識が甘かったことを、すぐに後悔することになる。

マスターの語りは、半刻経っても一向に止まる気配がなかったのだ。

「でねー、こないだ出たトレカなんてさー」
「は、はは、そうですか……」

半刻我慢するほうもどうかと思うが、それ以上に半刻語り続けるマスターはなんだか異次元の人間のようだった。

(こ、この店に客が来ない理由が…わかった気がします……)

ファリナは絶望的な気持ちでそう思いながら、しかしこのままではいつまで経ってもこの店を出られないと思い立ち、半ば無理矢理に話に割って入ることにした。

「あ、あ、あのですね!マスターさん!」
「ん?あ、ごめんねー僕ばっかり喋っちゃって。なーに?」

意外にもあっさりとファリナにバトンタッチするマスター。
こんなことならもっと早く無理矢理割ってはいればよかったと思いつつ、ファリナは用意していた質問を再びマスターに向けた。

「え、ええとですね。もうひとつ聞きたいことがあるのですが…」
「うんうん、何でも聞いてー♪ミューたんのスリーサイズはねえ、上から……」
「い、いえいえいえいえそうではなくて!」

また語りが始まりそうな予感に慌ててそれを遮りながら、ファリナは続けた。

「ヴィーダのお勧め観光スポット・隠れた名所などをご存じないでしょうか?案内するにしても、ヴィーダに関してはそんなに詳しくはないのですよ~」

ようやく自分の訊きたいことを訊けた、という安堵感でほっと息を吐くファリナ。
マスターはミュー語りが中断された怒りはさしてないのか、相変わらずののんびりとした口調で答えていく。

「お勧めスポット?んーそうだねえ、ラージサイ………」
「……ラージサイ?」
「あっううんなんでもなーい。えっとねー、そうだなー、観光っていうなら中央公園とか、あとは王宮とかかなー。
隠れた名所って言われるとー……んっとね、この通りずっと行ったところに、学校が密集してるところがあるんだよ。そこにちょっとしたレンガ造りの通りがあってね、あそこなら景観もいいし、休日は人通りもそこそこ少なくてゆっくり過ごすにはいいんじゃないかな」
「なるほど……」

マスターの言ったことをメモしていくファリナ。

「まぁここはやはり中央公園や王宮が妥当でしょうか。レンガ造りの通りは良さそうですね!よし、ありがとうございます!」
「んふふ、どーいたしまして♪」
「ああ、すいません時間を取ってしまって。どうぞ仕事に戻ってくださいな」
「仕事っても、君以外にお客さんいないしー…」
「あ、あの、えっと、そうだ、今のお話を参考にちょっとプランを練ろうと思いますので…」

また語りを始められてはかなわない、と、どうにかマスターを遠ざけようとするファリナ。

「あ、そっかそうだよねー。バッチリなデートプラン、がんばって立ててね!」
「いや、だからデートじゃ……もういいです…」

上機嫌でカウンターに戻っていくマスターをしょんぼりと見送ってから、ファリナはすっかり冷めてしまったコーヒーをすすりつつ、メモを見直した。

(………あんなに語られるとは思っていなかった……こ、これは窓側席はダメですね。出来るだけ窓から遠いテーブル席にしましょう…)

メモの「喫茶ハーフムーン」の場所に、『窓側には座るな危険!フィギュアには触れない!!』と書き記し、二重丸までつけて。
それから、そのメモの情報を元に、なにやらブツブツとつぶやきながらデートプラン(本人否定)を練っていった。

「待ち合わせを、中央公園に、して…」
「ここに寄った後は、王宮で…」
「ラージサイ……大きいサイ?」

なかなか天然ボケが伺えるコメントなども交えつつ、さらさらとメモに書き加えていく。
やがてプランの組み立てが終わったようで、うんと嬉しそうにひとつ頷くと、コーヒーの残りを飲み干した。

「ごちそうさまです!あの、お会計お願いします」
「あ、はいはーい」

マスターはいそいそとカウンターから出ると、立ち上がったファリナの元へ駆け寄った。

「えーっと、日替わりで…銅貨8枚ね」
「えっ、サラダとドリンクつきでですか?安くないですか?」
「んー?いつもこんなもんだよ」
「お値段的にも良好ですね……はい、じゃあ銀貨1枚で」
「はーい、それじゃあ銅貨2枚のお返しね」

ちゃらちゃら。
マスターから釣りを受け取って、ファリナはもう一度嬉しそうにマスターに笑顔を向けた。

「マスターさん、いろいろと教えてもらってありがとうございました。
それでは1週間後また来ますので、よろしくお願いしますね!」
「はーい、お待ちしてるよー♪デートがんばってね!」
「だから、デートじゃないって……」

最後まで不満そうにつぶやきながら、ファリナ少年はハーフムーンを後にするのだった。

第1週・レプスの刻

からんころん。

再び「ハーフムーン」のドアが開いたのは、ファリナが去ってから四半刻ほど後のことだった。

「いらっしゃーい。お好きな席へどうぞー」

マスターの愛想の良い掛け声に出迎えられて入ってきたのは、年の頃17・8才ほどの少女だった。
長い金髪をポニーテールにし、くるくると動く愛らしい瞳は緑色。少し露出度は高いが、可愛らしいデザインの服を身に纏っている。
名前を、レティシアといった。

レティシアはきょろきょろと店内を見渡すと、先ほどファリナが座ったのと同じ危険ポジションの席に座る。
タイミングを合わせるようにして、マスターが水とおしぼりを持ってきた。

「はいどーぞ♪」
「ありがとう」

にこりと笑って受け取るレティシア。

「今、ずっとウィンドーショッピングしてきたんだけど、随分オシャレなお店が出来たんだな~と思って、フラリと立ち寄っちゃったの」
「わ、嬉しいな~。ゆっくりしてってね。ご注文は決まった?」
「あ、えっと…そうね、シフォンケーキと紅茶もらえるかな?」
「シフォンケーキと紅茶ね、銘柄の指定はある?」
「え、指定していいの?…そうだなぁ…アールグレイで」
「シフォンケーキとアールグレイね、かしこまりー」

マスターはさらさらと伝票に記入すると、カウンターの中へと引っ込んでいった。
改めて、店内を見回すレティシア。

(内装も調度品もお店の雰囲気に合わせてあって、イイ感じね。
それに…マスターがイイ男だから、絵になるし~)

ほわん、と笑顔になってから、慌てて首を振る。

(って、ダメよレティ!私にはミケっていう大事な人がいるんだから!!)

ひとしきりぐりぐりと身悶えてから、改めて店内の内装を見渡し…そして、先ほどのファリナのように出窓のフィギュアに目を留める。

(……お店の雰囲気オシャレなのに、何で…ミューのフィギュアが飾ってあるんだろう)

レティシアの場合、以前受けた依頼の中でミュー本人やそれにまつわる「おおきなおともだち」と関わる機会があったので、クルム同様フィギュアという単語がつるりと出てきてもさほど不思議はない。

(このフィギュア自体は可愛いと思うけど…店の雰囲気を考えると明らかに浮いてると思うんだけど…。マスター、ミューのファンなのかなぁ?)

そんなようなことを考えていると、マスターが注文の品を運んできた。

「はーい、シフォンケーキとアールグレイ、おまちどうさまー」
「あ、ありがとう。わあ、美味しそう~」

いい香りのするケーキと紅茶に嬉しそうに微笑んでから、レティシアは軽い調子でマスターに訊ねた。

「ねえマスター、ミューのフィギュアがあるけど、ファンなの?」

それが、地獄の門を開ける鍵だとも知らずに。

マスターはぱあっと顔を輝かせると、レティシアに詰め寄った。

「えっ、お客さん、ミューたんのこと知ってるの?!」
「えっ……え、ええ、以前、仕事でちょっと……」
「えーっ、お仕事でミューたんと会ったの?!いいないいなー、どんなお仕事なの?!」
「え、えっと…それは……」
「あそっかー、お仕事だもん、守秘義務とかあるよね。ゴメンゴメン、いやーファンとしては少しでもミューたんの近くにいきたいと思う気持ちがあるわけじゃん。ねえねえ、ミューたんとお喋りしたりしたの?!」
「え、あ、それは…うん。少しくらいなら…」
「うわーいいなーいいなー!!ねえねえ、どんな感じだったの?!」
「ええと……」
「あーちょっと待って!!」
「え?」
「素のミューたんを知ってしまったら、もう今までのファンではいられなくなっちゃうかも……いやいやでもでも!やっぱりミューたんの全てを知りたい気も……んー、ミューたんの見せてくれる夢だから綺麗に見えるかもだし…いやいや!やっぱりそれくらいで幻滅するようなハンパなファン魂でいるわけじゃないからうんうん!」
「…あのー……」

かなり気圧されるレティシアをよそに、マスターの語りは四半刻ほど続くのだった。

「ミューかぁ…そういえば、あの事件以来会ってないけど元気かな~」

ようやくマスターが離れてくれたあとで、レティシアはすっかり冷めてしまった紅茶を飲みながら、再びフィギュアの方に目をやった。…もちろん、マスターに聞こえないように声を落としながら。

「きっと、ベータはまたモッサリしちゃってるんだろうな…ふふ。
いいなぁ、あの二人はしっかりと絆で結ばれていたもんね~」

幸せそうな表情で、今はここにはいない2人を思い浮かべて。

「私も…いつかミケと…」

ほわわわ、とピンク色の何かが出てきそうな、陶酔した表情でつぶやく。
それから、はた、と何かに気づいた様子で、続けた。

「そういえば、私あの時ミケとの別れ際にホッペにチューとかしちゃったのよね……
勢いとはいえ、私ったらなんて事をしちゃったのかしら
次に顔合わせづらいじゃないの~~!!」

みるみるうちに顔を真っ赤にして、頬を両手で押さえる。なかなか激しい百面相だ。
かと思えば、急にしゅんとした表情で肩を落として。

「それに…もしかしたら、もうリリィとくっついちゃってて魔族の村とかで暮らしちゃってるかもしれないじゃない……」

魔族の村ってなんだ。
そんなツッコミがどこからか聞こえてきそうだが、本人は気にする風もなく、独り言は続く。

「ううん、リリィじゃなかったとしたって、ミケほどのイイ男、ほっとかれるわけがないのよ。誰かがいつも狙ってるのよ!!」

拳を握り締めて、険しい表情で言って。
それからまた、しゅんと肩を落とす。

「…やっぱり…離れちゃわない方が良かった…のかなぁ…」

はあ。
視線はミューのフィギュアを通り過ぎ、窓の外を眺めながら小さくため息が漏れる。

と。

「……あ、そうだ!」

レティシアはまたパッと表情を輝かせると、持っていた手荷物の中をごそごそとあさり始めた。

「せっかくレターセット買ったんだし、ミケにお手紙書いちゃおうっと♪
それで、彼女が出来たかどうかをさりげなく調べちゃえばいいのよ。私ったら、ミケの事となると冴えてるぅ~♪」

ホクホク顔でレターセットを取り出し、テーブルの上に広げる。
と、そこにポットを持ったマスターが再びやってきた。

「お紅茶のおかわりはー……っと。あれ?どうしたの、手紙でも書くの?」

テーブルに広げられたレターセットを見て、目を丸くするマスター。
レティシアは笑顔で頷いた。

「うん、しばらく会ってないから…元気でいるかな~って思って」
「おっ、ひょっとして、ラブレターだったりするのかなぁ?」
「えええええええええええええええええええっ?!」

ニヤリと意地悪げに微笑むマスターに、たちまち顔を真っ赤にするレティシア。
あからさまに挙動不審な様子で手をパタパタと動かす。

「えっと、あのね、ラブレターっていうか、ただの近況報告っていうか、好きな人に出すのは変わりないんだけど!!」
「なーんだ、やっぱりラブレターなんじゃん♪そんな照れなくてもー」
「えぇ?!いや、ちが、そんな、ラブレターってほど艶っぽいものじゃなくてね!
あくまでも近況を知りたいっていうね、その程度のものなのよ」
「なるほどなるほど、近況を聞きつつ、今彼女がいるかどうかをさりげなく調べちゃうわけね?」
「え、ええええ?!ま、マスター、何でそれを?!」
「全部口に出して言ってたよ」
「ええええええ?!」

先ほどの長い独り言は、全部心の中で言っていたつもりだったらしい。赤くなったり青くなったり忙しいレティシアに、マスターはにこりと微笑みかけた。

「ふふ、お客さん可愛いねー。そんな可愛いお客さんに愛されちゃってるのは、どんな人なのかなー?」
「え、ええっとね……」

想い人のことに触れられて、レティシアはわずかに頬を染めた。

「すっごく優しい人。優しいけれど、芯は鋼のように強い…物静かに見えるけれど、実は情熱的な人…情熱的ってのは違うかなぁ。
でも、ハートはすごく熱い人よ」

くす、と笑って、紅茶を一口。

「すっごくカッコイイの。カッコイイっていうか、美人系?
私ね~、一目惚れだったの。会った瞬間、好きになっちゃったんだ~。
マスターも、そーいうのってない?運命の恋…みたいな」
「え、僕?」

マスターは自分に矛先が向かって、意外そうに目を丸くした。

「僕は~…そうだなー、ミューたんとは運命の出会いだって気がするけど、そういうんじゃないんでしょ?」
「あはは、まあ、そうねー…マスターにはいないの?恋人…とか、好きな人とか」
「んー、三次元は今んとこおなかいっぱいかなー」
「……え?」
「いやいやあはは、僕はまだミューたんがくれる夢の世界より好きって思える人に出会ってないだけかもしれないねー」
「そ、そう……なの?」

レティシアが不思議そうにしていると。

からんからん。

「あ、いらっしゃい!」

再びドアが開き、訪れた客にマスターが軽快な声をかける。

「どうぞ、好きな席にかけてねー」
「あ、はい、では……」

入ってきたのは、レティシアより少し年下ほどの少年だった。淡いブルーの瞳は形自体は少し鋭いが、全体的な表情はいたって穏やか。頭には黒基調の複雑な模様が入ったバンダナをしており、それに隠れて髪の毛は見えない。フォーマルより少しだけラフ寄りな服に身を包んでいて、見掛けの年齢より少し大人びて見える。
名を、ファンといった。

レティシアはファンが入ってきたことでマスターが離れたため、そのまま想い人への手紙をしたためることにしたようだった。改めてテーブルに向き直ると、ペンを取ってさっそくカリカリと書き始める。

ファンは一通り店内を見渡すと、カウンター席の一番奥に腰掛けた。
タイミングを計ったように、マスターが水とおしぼりを出す。

「いらっしゃーい、はいどうぞー」
「あ、ありがとうございます」
「ご注文は決まってるかな?」
「そうですね……」

ファンは目の前にある簡易メニューに目をやって、しばし考えた。

「…とりあえず紅茶と、少し遅いのですが軽く昼食を頂きたいので、サンドウィッチを頂きましょう」
「紅茶と、サンドイッチねー。紅茶の銘柄は、何か指定あるー?」
「え、銘柄…ですか。では、ダージリンで」
「砂糖とミルクはー?」
「あ、無しで構いません」
「はーい、ダージリンとサンドイッチね、かしこまりー」

マスターはさらさらと伝票にメモをすると、再びカウンターへと引っ込んだ。
サラサラと茶葉をポットに入れて湯を注ぎ、カバーをかぶせている間に手際よくサンドイッチを作っていく。
ファンはその様子をじっと眺めたり、店内の様子を見渡したりしていた。

窓際の席で一心不乱に手紙を書いているレティシアに少し目を留めるが、ブツブツ呟きながら夢中で何か書いている様子に少し気圧されるようにしてすぐに視線をマスターに戻す。顔見知りでもないし、声をかけるのも不調法というものだろう。

そんなことを考えているうちに、思ったより早く、マスターが完成した料理を持ってやってきた。

「はーい、おまちどうさま。ダージリンとサンドイッチね」
「あ、はい。ありがとうございます」

ファンは軽く礼をしてから、紅茶を一口すすり、それからサンドイッチに手をつける。
厚切りのハムと、自家製マヨネーズが絡められた卵のサンドイッチは見た目以上に美味しく、ファンは少し驚いた。

「美味しいです、このサンドイッチ」
「あ、そおー?嬉しいなー」

素直に喜びを表情に表すマスターに、ファンは少し戸惑ったように訊いた。

「あの…他に店員の方はいらっしゃらないのですか?」
「え?うん、そう、僕一人で回してるよー」
「え、お一人でやっていらっしゃるのですか?」
「うん、そうー。狭い店だし、僕一人で回せるしねー」
「そうなのですか…まだ歳もお若いようですが一人でお店を切り盛りしているとは……すごいですね、見習いたい物です」
「あはは、お客さんみたいな若い人にお若いって言われるのもなんか変な感じー。別に大したことないよー、見ての通りお客さんもそんなにいないし」
「そ、そうですか…いえ、まだ新しいお店のようですし、これからですよ」
「そうだねー、よかったらお客さんも、お友達連れてきてね♪」
「ええ、紅茶もサンドイッチも美味しいですし、機会があったら誘ってみようと思います」
「ふふ、よろしくぅ♪」

明るく気さくなマスターに微笑みかけてから、ファンはふともう一度、レティシアがすごい形相で手紙を書いている窓際の席を見やった。
といっても、注目したのはレティシアでなく、その向こうにある出窓。

「あの……しかし、あの窓際にある可愛らしい女性の模型は……もしかしてアレが『ふぃぎゅあ』というもの…なのでしょうか?」
「おっ。お客さん、よく知ってるねー」

一般人のフィギュアに対する認識はこんなもんである。
マスターは嬉しそうに微笑み、しかしそれ以上語るようなことはしない。
ファンは不思議そうな表情でフィギュアを見やりながら、続けた。

「少し特殊な趣味の方がああいったものを好むと聞くのですが……最近の喫茶店では流行っているのでしょうか?あまり流行に詳しくないのでよく分からないのですが……」
「あははは、アレは僕のシュミだよー。喫茶店で流行ってるかどうかは知らないなー、そういう系の喫茶店なら置いてあるところもあるんじゃないかな?」
「そういう系……ですか?」
「ははは、まーあんまり気にしないでよ。僕のシュミがその『少し特殊な趣味』だってこと」
「こ、これは……失礼なことを申しました、すみません」
「あははは、いいっていいって、フツーの人がヒくようなシュミだってことは理解してるからさ。これでも自重してるんだよー?でも、アレひとつ置くくらいはいいかなって」
「……そうですね、その特殊なところはともかくとして、あの人形自体は、とても可愛らしいものですしね」
「そおでしょっ?!」

がば。
今まで「パンピーモード」だったマスターの態度だが、「可愛らしい」の一言で劇的にスイッチが入ったようだった。

「あれね、ミューたんっていうマヒンダのアイドルなんだよ!もー、超可愛いんだ!!」
「み、ミュータン……?」

突然のマスターの豹変に気圧されるファン。会話に齟齬が発生したようである。
マスターは構わず続けた。

「そうそう!ミューたん。可愛いだけじゃなくて、歌もすっごい上手なんだよー!マーメイドってやっぱりもともと歌の素質とかあるのかもしんないねー、ミューたんの歌はやっぱり売り線から行っても可愛い系の歌がメインになるけど、あの分ならきっとどんなジャンルの歌歌わせても歌いこなしちゃうよねー!将来年をとっても、上手くプロデュースしていければ人気も廃れることないんじゃないかなー」
「は、はあ……」

地獄の門が再びファンの手によって開かれてしまったのを、レティシアが遠巻きに眺めている。もう手紙は書き終わった様子で、しかし2人の話に割って入ることも出来ないようで。

そのまま、マスターの話は半刻ほど続く…かと思われたが。

「……おや…」

ふとファンが窓の外に目をやると、先ほどまで明るかった日差しが急に翳ってきていた。
そして。

ごろごろ…
さあああああ……

何の前触れもなく、雷の音が遠くに響き、外の景色が一変、雨模様になる。

「おや、雨ですか……先ほどまで晴れていたのに」
「夕立かなー、すぐやむと思うけど」

と、ファンとマスターがのんきな会話をしていると。

がたん、とレティシアが慌てて立ち上がった。

「雨?!いやーん!!
洗濯物、宿のベランダに出したままなのに~!早く帰らなくっちゃ!」
「ありゃりゃ、そりゃ大変だね。
えーっと、お代は銅貨6枚ね」
「あっ、うん!えーと……し、ご、六枚ね!」

ちゃりちゃり。
レティシアがわたわたと財布から出した銅貨を受け取り、マスターは笑顔で手を振った。

「はい、まいどありー。また来てねー」
「うん、美味しかったわ、ご馳走様!!」

からんからん。
レティシアは慌しく荷物を纏めると、急いでドアから出て行った。
その様子を少し心配そうに見送るファン。

「大丈夫でしょうかね……」
「あはは、ちょっとぬれるくらいなら大丈夫でしょ。お客さんはお洗濯物とか、大丈夫なの?」
「あ、ええ、私の方は心配ありません。ありがとうございます」

笑顔で礼を言って、ファンはふと手元に目を落とした。

「…おや、美味しい紅茶なのでもう無くなってしまいました。よろしければお代わりを頂きたいのですが…」
「あっ、はーい、ちょっと待ってねぇ」

ファンがカップを差し出すと、マスターはへらっと笑ってカウンターの中に戻り、先ほどのポットを持ってきた。
ソーサーに戻したカップに丁寧に注ぐと、不思議なことにまだ紅茶は温かい。何か保温具でも使っているのだろうか。
そんなことを訊こうと、ファンが口を開きかけた時。

かららん!

先ほどより少し大きな音を立てて、ドアベルが店内に鳴り響いた。

「はーもー、最低……」

入ってきたのは、黒い服を身に纏った少年だった。
年のころは、それこそファンと同じくらいだろうか。少年というよりは少女と言った方がいいような、大きな青い瞳が印象的な可愛らしい顔立ちをしている。先ほどからの雨に、長い栗色の髪がすっかり濡れてしまっていて。黒いマントでかばうように何かを持っていたが、そのマントもすっかり雨に濡らされたしまっていた。

「おや、あれは……」

見覚えのあるその姿に、少し腰を浮かせるファン。

「おーっと、いらっしゃいませー?」

少年の様子に少し驚いたように、それでも声をかけるマスター。
少年はそちらに目をやると、苦笑した。

「すみません、少し雨宿りがてら、お邪魔してもよろしいでしょうか?ええと、それと……タオルがあったら貸してください。すみません、床を汚してしまって」
「あはは、気にしないでー。タオルね、ちょっと待っててね」

マスターはへらっと笑って、奥のスタッフルームに引っ込んだ。
それと入れ替わるようにして、ファンが少年の元へと歩み寄る。

「ミケさん、ですよね?お久しぶりです。覚えていられますか?ナノクニの魔術師ギルドの依頼でお会いしたファンです」

濡れたマントをばさばさとはたいていた少年は、そちらを見て相貌を崩す。

「はい。お久しぶりです、ファンさん。勿論覚えていますよ」

少年――ミケが自分を覚えていたことに少し安堵した様子で、ファンもやわらかく表情を崩した。
ちなみに、少年のような見かけだが、ミケはこれでもれっきとした成人男性である。

「覚えて下さっていた様で光栄です。少し雨に打たれたようですね。
私のタオルでよければ、どうぞ。体が冷えるといけませんから…」
「あ、どうもすみません。ありがとうございます」

ファンが差し出したタオルを、ミケが笑顔で受け取る。
と、そこに同じくタオルを持ってきたマスターがきょとんとして足を止めた。

「あれー、タオル間に合ってた?」
「あ、ええ、私が持っていたタオルをお貸ししました。差し出がましいことを…」
「いやいや、それはいいけどさ。あれ、っていうとお客さんたち、知り合いなの?」
「ええ、偶然にも。以前、お仕事をご一緒したことがあるんですよ」

ミケが笑顔で答え、それからマスターの持ってきたタオルに目をやる。

「すみません、せっかく持ってきていただいたので、良かったらこの子に使わせてもらえませんか」
「この子?」

マスターがきょとんとしていると、ミケが広げたマントの中から、ひょこりと黒猫が顔を出した。

「にゃー」
「うわあ、かっわいい!え、この子君の猫?」
「ええ、飼っているというか、使い魔なんですが…あ、ひょっとしてペットは入店禁止ですか?」
「ううん、大丈夫だよー。んじゃ、この子拭いたげようね♪名前はなんていうの?」
「ポチといいます」
「そっかー、ポチちゃ……あれ、えっと、男の子?女の子?」
「はは、オスですよ」
「そっかそっか、ポチくーん、はいちょっとじっとしててねー」

マスターはためらうことなくポチにタオルをかぶせ、わしゃわしゃと体を拭き始める。
ミケはファンから受け取ったタオルで髪とマントをざっと拭くと、ファンに改めて礼を言った。

「ありがとうございます、ファンさん。一緒しても、よろしいでしょうか?」
「ええ、久しぶりの再開ですし、せっかくですからもしお邪魔でなければお茶をご一緒させていただきたいと思います」
「じゃあ、お隣、失礼しますね」

ミケはにこりと笑って、ファンの隣に腰掛けた。
そこに、拭き終わったポチを抱えたマスターが歩み寄って。

「マント、よかったらかけとこうか?」
「あ、すみません…ポチもありがとうございます」
「んふふ、可愛い子だねー」

ミケはマントを脱ぐと、マスターが抱いていたポチと交換で渡す。
マスターは手際よくマントをハンガーにかけると、カウンター側の帽子掛けにつるした。

「これでよし、っと。ご注文はお決まりかなー?」
「あっ、そうですね……ええと」

ミケはカウンターにあった簡易メニューに目をやると、すぐに注文を決めてマスターに向き直った。

「では、アールグレイと……この子に温めたミルクを上げてください」
「はーい、かしこまりー♪」

マスターは上機嫌で伝票にさらさらと書き、カウンターへと引っ込んでいく。
ミケは改めて、ファンの方に向き直った。

「しかし、お久しぶりですね、ファンさん」
「そうですね、ナノクニ以来になりますね」
「今はヴィーダでお仕事を?」
「ええ、しばらくは。ああ、でも今日は安息日ですし、休日を楽しんでいるところです」
「へえ…休日はどういう風に過ごされるんですか?」
「休日の過ごし方ですか……。そうですね……」

ファンは少し考えてから、ゆっくりと答えた。

「先ほどのように天気の良い日はのんびりと散歩をしたり、少し遠出して薬草を探しに行ったりしています」
「ああ、ファンさん、薬師ですものね。常に薬草を準備していらっしゃるんですね。怪我や病気の時は、よろしくおねがいしますね」
「ええ、私で出来ることならお力になりますよ」
「うん、知り合いに薬師さんがいると心強いです」
「しかし、ミケさんはご自分の魔法で怪我は治せるのでは…?」
「あはは、もちろんそうですけど、魔法が使えないような状況にならないとも限らないですし」
「なるほど。ミケさんに頼っていただけるのは、光栄ですね」

ファンは嬉しそうに微笑んで、続けた。

「そういうミケさんは、休日はどのように過ごされるのですか?」
「え、僕ですか?」
「ええ。こちらにはよくいらっしゃるんですか?」
「いえ、実を言うと…魔術師ギルドに行った帰りなんですよ。本を借りて商店街で買い物をして帰ろうとしたら急に夕立にあって。たまたま喫茶店が開いていたので、入ってしまったのですが……」

そこで、きょろきょろと店内を見渡して。

「雰囲気の………………個性的な、お店ですね」

出窓のフィギュアで一瞬止まってから、笑って何かをごまかした。

と、そこにマスターが注文の紅茶を持ってやってくる。

「はーい、アールグレイおまたせー」
「あ、ありがとうございます」
「ポチちゃんにはホットミルクねー」
「にゃー」

マスターはポチの前にミルクを出し、舐めている様子をニコニコと眺めている。
ミケは紅茶を一口飲んで、ふうと息をついた。
それにタイミングを合わせたように、再びファンが口を開く。

「では、このようなお店には、よくいらっしゃるんですか?ええと…喫茶店…カフェ、と言った方がいいんでしょうか?」
「はは、カフェ、の方がお洒落な響きですね。
そうですねえ、紅茶が好きな物で……たまに喫茶店でお茶を飲んだりしているんですよ。
ああ、でも……先日まで、そんな豪勢なこと、できませんでしたが……ね」

少し遠い目をして、紅茶をもう一口。
生活費に困っていたここ最近の日々を思い返して、紅茶を口に出来るありがたさを実感する。

「……ふ、自由業って、辛い……って、実感しました……。今はどうにかなるからいいですけど……いつか、安定した給料のもらえるお仕事につけたらいいなぁ……」
「そ……そうですね……」

妙にしみじみと実感のこもったミケの言葉に、返す言葉を失う弱冠16歳のファン少年。

「え、ええと……大事な人と一緒にこういう店でお茶したりするのも楽しそうですよね。ミケさんもそういう人と一緒にお茶したりするのでしょうか?」
「大事な人、ですか?」

苦し紛れのファンの脈絡のない無茶振りに、きょとんとするミケ。
しかし、すぐさまテーブルの上で一心不乱にミルクを舐めているポチの方を見て、にこりと笑う。

「この子といつも一緒です。僕の大事な猫です!可愛いでしょ」

あっけらかんとしたその答えに、ファンは一瞬きょとんとして、それから苦笑した。

「……ふふ、なんとなーくはぐらかされたような気がしますね。まぁいいでしょう。実際、大事な友人なのでしょうしね」
「え、そういう意味じゃないんですか?
えーと……大体僕はいつも、1人ですし……デートするひとがいるわけでもないですからね。そう言うファンさんは、どうなんですか?」
「え…私、ですか?」

無茶振りを振り返されて、ファンはきょとんとしてから…やはり苦笑した。

「私はあまり一つの町に定着していませんし、知り合いも少ないので、こういう風に知り合った方と会話して過ごす休日などはあまり無かったので。ミケさんとこのようにお話できるのは、とても嬉しく思います」
「そうなんですか?僕もまあ、ヴィーダにずっといるっていう訳でもないですけど…知り合いは、これから増やしていけばいいんですよ」
「そうでしょうか…頑張ってみます」

ファンはどことなく居心地が良くなさそうな表情で、今度はミルクを平らげ終えて毛づくろいをしているポチに目をやった。

「可愛らしいなぁ……動物って良いですよねぇ……」
「可愛いでしょー。僕の使い魔で、賢くて可愛いんですー。毛並みとかつやつやでー。猫はお好きですか?」

親馬鹿ならぬ飼い主馬鹿まっしぐらのでれでれとした表情で、ミケ。
ファンは笑顔で頷いた。

「ええ、猫も……動物全般が好きですよ。…少し、触ってみてもいいですか?」
「ええ、どうぞどうぞ。構ってあげてください」
「では……」

ファンは、つ、と手を伸ばして、恐る恐る指先をポチののど元に触れさせた。
ポチは嫌がる様子もなく、ファンにされるがままに喉を鳴らしている。

「ふふ、可愛いですねぇ」
「えへへ、そうでしょう」
「嫌がられないようでよかったです」
「この子は賢いですから、自分に好意を持ってる方のことを嫌がったりはしませんよ」
「そうなんですね…偉いですねぇ」

そんな、猫馬鹿フルスロットルの会話をしている2人をよそに。

マスターは、先ほどレティシアが座っていた席の片付けに向かっているところだった。
ケーキの皿の上にティーカップとソーサーを乗せ、テーブルを拭いて……

「……あれ」

マスターが声をあげ、二人はそちらのほうを向いた。

「あー、あの子、せっかく書いた手紙忘れてっちゃったみたいだねー」

ひらひら。
レティシアが先ほど鬼気迫る様子で書いていた手紙を取り上げて、マスターは苦笑した。
ファンが立ち上がって、そちらに歩いていく。

「あ、先ほどの女性ですか?そういえば何かを書いていたような…手紙だったんですね」
「どなたか、いらっしゃったんですか?」

ミケが問うと、マスターが頷いた。

「うん、さっきまでここに女の子がいてね、何か書いてたみたいなんだけど…手紙だったみたいだね。
雨が降ってきてあわてて出てったから、うっかり忘れちゃったんだねえ。
封もしてあるし、あとは出すだけって感じだけど…出しちゃえばいいのかなあ?」
「宛名が書いてあるんですか?」
「うん。えーと……ミーケン・デ=ピース様、だって」
「えっ」

きょとんとするミケ。

「それ、僕のことですけど」
「えっ、そうなの?!うっわー、なんというご都合主………偶然だねー」

驚きつつもとりあえず言い直してみるマスター。
ミケも席から立ち上がり、マスターに歩み寄った。

「え、僕に手紙なんて…誰からですか?」
「えーとね、差出人は……レティシア・ルードって書いてあるね」
「レティシアさんですか?!」

驚きと共に、マスターの持っている手紙を覗き込むミケ。

「…本当だ。レティシアさん、ヴィーダに戻ってきてたんですね。
でも、何でわざわざ手紙なんて……?」

首をひねるミケに、マスターはにこりと笑って手紙を渡した。

「ん、じゃあお客さんあてなんだね。わざわざ出すのも二度手間だし、はい、あげるー」
「え、あー、ありがとうございますー。宛名がしっかり書いてあるし、封もしてあるし。もらっちゃっていいみたいですねー」

まだ少し信じがたい様子で、それでも手紙を受け取ってしげしげと眺めるミケ。

「なんだろう。レティシアさんからですから、果たし状とか不幸の手紙とかはあり得ないですし。なにかあったから、連絡かなぁ……」
「またまたー、何カマトトぶっちゃってんのぉお客さん♪」

横から、マスターが心底楽しそうな表情で茶々を入れる。

「女の子が男の子にわざわざ手紙送るなんて、ラブレターに決まってんじゃん」
「ら、ラブレター?」

ミケは心底驚いて、マスターの言葉を鸚鵡返しにした。
傍らでファンが、こちらも楽しそうに頷いている。

「そうなのですか、ラブレターをもらうなんて、ミケさんはモテモテなんですねえ」
「と、とんでもないですよ!ラブレターなんて、生まれてこの方もらったこともありません!」

ファンに対して強く否定してから、まだ信じられないといった様子で手紙に目を戻すミケ。
マスターは楽しそうに、ミケにさらに問うた。

「ここにいたコねえ、すごい一生懸命手紙書いてたよー。
なに、お客さんのカノジョ?」
「え、か、カノジョ?」
「なんと…ミケさんにそのような方がいらっしゃったとは…」

マスターの言葉にあからさまにキョドるミケと、やはり楽しそうに茶化すファン。
ミケはわずかに頬を染め、しかし眉を寄せて、答えた。

「え、いえ、そういう間柄では、ないんですけれど。…………ええ、そういうんじゃ、ないんですよねー……友達では、ありますよ。それは確実に言えるんですけど」

曖昧な言い方に、本人はもちろん聞いている2人も微妙な表情をする。

新年のイベントで、レティシアの気持ちについては色々と考えてみた。
いろんな人の意見を聞いて、レティシアが自分のことをどう思っているのか、人の目にはどう映るのか、誰かを好きだということはどういうことなのか、色々なことを知り、自分なりに考えてみた、つもりだった。

好かれている、とは思うのだが。
好かれるような自分ですか、と言われたら「ごめんなさい、違います」と言えるような。
友達としては、ちゃんと好かれていると思うけれど。

思考の方向は、そんな悪い方向への堂々巡りに入っていた。

曖昧な表情のミケに、ファンもマスターもそれ以上突っ込んで訊けないようで。

と、マスターが別の方向に話を振った。

「どんな子なの?その子」

訊きつつ、何気なくミケの椅子を引いて、元の席に座るよう促す。
ミケはマスターの意図を汲んでカウンター席に座りなおすと、どこか違う場所を見ているような表情で、ポツリポツリと話し始めた。

「そうですね……凄く、元気いっぱいで素敵な笑顔の方ですよ。優しくて、いつも元気を分けてくれる人です。
時々、身体が弱いんじゃないかなとか、ぼーっとしていることがあったりとか、一緒にいるはずなのに、いつの間にかいないとか…1人にすると心配で目が離せない気もしちゃうんですけどね。しっかりしている人なのは、分かってるんですけど、どうにも心配しちゃうんですよね。
……色々、彼女のお兄さんが心配するのも、分かる気がしてきた……」

苦笑しながら語るミケ。
実際は、体が弱いというかよくフラフラになるのは頭に血が上りすぎて貧血を起こすからだし、ぼーっとしているのは妄想しているからだし、いつの間にかいないのは妄想時に立ち止まったことに気づかずに置いていってしまっているからなのだが。ミケ自身はそれに気づいていない。

ミケに続いて席に戻ったファンが、少し言いづらそうにミケに問う。

「あの…ミケさん、読まない…んですか?」
「……あー、うん。ええと、どうしようかなぁ」
「そーだよ、お客さんあてなら、読んじゃっていいんじゃない?」
「…そう、ですかね……そう、ですね」

マスターの一押しもあって、ミケは意を決したように封を開けた。

かさかさと中の便箋を開くと、可愛らしい模様があしらわれた淡いピンクの便箋に、これまた可愛らしい文字が綴られている。

『~ミケへ~
 
 こんにちは~♪レティシアです。
 元気ですか?
 私は元気だよ~ヽ(^∇^)ノ
 
 マヒンダに帰って、魔道の勉強をし直して
 この間ヴィーダに戻ってきたの。

 心配していたルティア兄ちゃんの病状も良くなって、とりあえずホッとしたわ。
 エール兄ちゃんも、店の手伝いとルティア兄ちゃんの看病でてんてこ舞いだったから
 私が帰ってちょうど良かったみたい。
 っていうか、父さんも母さんも、商売第一!ってカンジで兄ちゃんの事構わなすぎだから
 チョット説教してきちゃった(笑)
 でも、ちゃ~んと家の手伝いもやって、一応親孝行もしてきたよ。

 で、一段落ついてホッとしたら…ね
 そろそろ、ミケに会いたくなっちゃって♪

 ミケは最近どう?
 風邪ひかなかった?
 どっか怪我してない?

 
 今、どこの街にいるのかな?
 何か依頼を受けてる最中?

 
 会えなかった間にあった事、色々聞きたいな。
 お仕事で一緒になった時、じゃなくて
 会いたいな。』

「……っ」

まるでレティシア本人の声が聞こえてくるかのような、『会いたい』の文字に、思わず息を詰まらせるミケ。
手紙はそれからまだ少しだけ続いていた。

『今度会えたら、色々話聞かせてね。
 元気なミケに会えるのを、楽しみにしてるわ。
             ~レティシア~』

かさ。
読み終えて便箋をたたみ、封筒にもう一度仕舞うと、ミケはわずかに頬を染めた。

「…元気、そうですね。レティシアさん」
「うん、すごく元気な子だったよー」

楽しそうにマスターが言い、そしてさらにつつく。

「でぇ、お客さんはどうしちゃったのー、そんなに赤い顔しちゃってさ」
「えぇ?!」

痛いところを突かれ、ミケは慌てて視線をそらして…そして、苦笑した。

「…いえ、その…………あははは。ちょっと、嬉しい、かなぁ」

その言葉に、マスターも、そして傍らにいたファンも、ふっと表情を崩す。
ミケは大事そうにその手紙を懐に仕舞うと、残る紅茶を飲み干して、立ち上がった。

「すみません、マスター。傘、借りていいですか?」
「傘?」
「ええ、来週返しに来ますから」
「え、いいけどー……夕立だから、すぐやむと思うよー?」

不思議そうなマスターの言葉に、ミケは吹っ切れたような笑みを見せた。

「思い立ったが吉日、と言いますし。すぐに行動したい気分、なんです」
「…そっか」

マスターはにこりと笑うと、スタッフルームから一振りの傘を持ってきた。
ハンガーにかかっていたコートも手にとって、一緒に渡す。

「はい、どうぞー」
「ありがとうございます。ええと、清算を」
「あーそうだった。ええとねー、アールグレイと、ミルクで。銅貨5枚ね」
「えっ、それだけでいいんですか?」
「ん?うん、そんなもんだよー。じゃあはい、これ傘ね」
「ありがとうございます。来週、必ず返しに来ますから」
「あはは、待ってるねー。良かったらお友達とか連れてきてー?」
「ええ、是非。ではファンさん、お先に失礼します」
「ええ、お気をつけて」

ファンに挨拶を終え、ポチを肩に乗せると、ミケは傘を持って店を後にした。

からん。

入ってきた時と同じドアベルの音が、静かな店内に響く。

「良かったねぇ、お手紙ちゃんと渡って」
「そうですね……」

ミケの去ったあとのドアを、マスターとファンは嬉しそうに見送った。

「お客さんは、どうするー?」
「私は…そうですね、雨がやむまでいさせていただいてよろしいですか?」
「うん、もちろん。じゃ、紅茶のお代わり入れるね。ゆっくりしてってねー♪」

マスターはそう言うと、再びカウンターの中へ。
ファンは出窓から覗く雨の景色を、優しい表情でずっと眺めていた。

第1週・ストゥルーの刻

からん。

日が落ちてだいぶ経ったころにドアが開き、マスターは顔を上げてそちらを見た。

「いらっしゃ………あれー」

入ってきた顔に、意外そうに目を見開く。

「珍しいじゃん。僕に会いに来るなんてさ」

ゆったりとした足取りで入ってきたその女性は、マスターの言葉に、にぃ、と唇をつり上げた。

「…別に、にいさまに会いに来たわけじゃないわ?」

年のころは、17、8歳くらいだろうか…少なくとも、外見は。
しかし、その身に纏うあまりにも異質で妖艶なオーラが、彼女を大人びて…大人びて、という言い方は生ぬるいほどに、妖しく、そして美しく見せていた。

褐色肌に尖った耳。長い長い黒髪を両側でアップにして垂らし、大きなオレンジ色の瞳は挑戦的な色を帯びて。
彼女が「にいさま」と言うように、確かに彼女とマスターには血の繋がりがあることを思わせた。

女性はゆっくりと歩いてきて、マスターの正面のカウンター席に腰をかけ、気だるげに頬杖をついた。

「ご注文は?」
「そうね……ジン。ロックで」
「一応、ここ喫茶店なんだけどなー」
「いいじゃない。あるんでしょ?」
「あるけどさー」

はあ、とため息をついて、後ろの棚からジンの瓶を手に取るマスター。
それをよそに、女性は面白そうに、店内をぐるりと見回した。

「まぁ……綺麗になったこと。あんなにボロい店だったのにねえ?」
「手入れが悪いからだよー。僕にかかればこれくらいどうってことないね」
「相変わらず才能の無駄遣いしてるのね…」
「君に言われたくないなあ」

からん。とくとくとく。
言葉を交わしながら、グラスにジンを注いでいくマスター。

「はい、どーぞ」
「ありがと」

女性は置かれたグラスを取り上げると、グラスを揺らして氷が酒の中を泳ぐ様を楽しんでから、口をつけた。

「でー、自分のお店がどうなったか見に来たわけだ?」
「まあ、そんなところよ」
「ふぅん。あ、そういえば今日は、たぶんチャカちゃんのお客さんだったっぽいコが来たよ」
「アタシの、客?」

チャカ、と呼ばれた女性は、わずかに眉を寄せてマスターを見た。

「うん。クルムくん、っていうんだけど。知ってる?」
「ああ、クルムならよく知っているわ…ふふ、そうね、確かにアタシの薬屋に来たことがあったわ…」
「そうなんだー。あのコなら僕も知ってるんだけど、あのコが知ってる僕は今の僕じゃないから、初対面のフリしたんだよね」
「また、面倒なことをするのね……子供の姿の方が、ええと、なんだったっけ?萌え?とやらだったんじゃなかったの?」
「えー、だって子供が喫茶店のマスターやってたらヘンでしょ?僕は喫茶店のマスターがやりたかったんだよー」
「………もう、にいさまのことを理解しようと試みるのは諦めたわ……」

はあ。
チャカは小さくため息をついて、再びジンに口をつけた。

「知ってる顔っていえば、もう2人くらいいたなー。アレもチャカちゃんのお客さんだったんじゃないのかな?」
「へぇ?どうしてそう思うの?」
「ん?だって、片方のコが、百合ちゃんの名前出してたんだよね。本人は心の中で言ってるつもりっぽかったんだけど」
「リリィの?……あぁ、当ててみましょうか?ミケでしょう?それと、レティシア、かしら?」
「おっ、当たりー。僕はレっちゃんの時に二人とも見てたんだけど、やっぱりその時の僕も今の僕じゃなかったからさ?まー、その時だって話をしたわけじゃなかったけど」
「ふぅん……まあ、ヴィーダにいるなら多かれ少なかれ、会って不思議はないでしょうけど……」

から。
チャカはグラスを揺らしながら、くすくすと面白そうに笑った。

「面白いわ……どう転がるかわからない、だから面白いのね」
「あはは、チャカちゃんらしいねえ」

マスターは同意とも呆れともつかない笑いを浮かべると、傍らにあったグラスにことこととジンを注ぎ、くい、と呷った。

「あらあら、いいの?営業時間中に」
「もう店じまいですよーだ。んふふ、開いたばっかりだけど、楽しくなりそうだよ、この店。
チャカちゃんも、また遊びにおいで?」
「ふふ…そうね、気が向いたら」

チャカはもう一度楽しそうに笑うと、グラスの残りを一気に飲み下して、ことんと置いた。

「じゃあ、アタシはもう行くわ……ごちそうさま」
「相変わらず、だねえ。今こんなとこにいるってことは、何か仕込みの最中、なの?」

マスターにそんなことを問われ、意外そうにそちらに目を向ける。

「珍しいわね、にいさまがアタシにそんなこと訊いてくるなんて」
「たまにはね、可愛くない妹の動向が気になっちゃうこともあるのさ」
「ふふ。…まあいいわ。仕込みの最中…そうね、今はまだ、種を植えているところよ?」
「そ。またハデなことやらかして、ご当主様の機嫌を損ねないようにね?」
「ちいにいさまの意向なんて、アタシの知ったことじゃないわ?…ま、覚えとくわね」

に。
赤黒く彩られた大きな唇を笑みの形にゆがめて。

チャカは妖しい微笑を残して、ゆったりと店を去っていった。

「さーて、片付けちゃいますかね…」

マスターは呟いて、もう幾分か掃除を済ませてあるキッチンを、最後に丁寧に拭いていく。
カウンターとテーブル席の椅子を机の上にあげ、ドアの外の看板を「CLOSED」に変えてから。

「よし、片付け終わりー。お疲れちゃーん♪」

ぱき。
明るく言ったマスターが指を鳴らすと、ふっと店中の明かりが消えて。

明かりと共に、マスターの姿も忽然とそこから消失する。

こうして、喫茶「ハーフムーン」の一日が、静かに幕を下ろすのだった。

…To be continued…

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