「あのキモノは、もう着ないんですか?」

不意にそんなことを訊かれ、顔を上げて彼の方に向ける。
彼女は身につけている『心眼』で、目を閉じていてもそこに何があるのかを感じ取ることが出来る。何がどこにあり、誰がどこにいて、そして軽く相手が何を思っているのかも、心の目には感じ取ることが出来るのだ。

つい最近までは、心眼で何もかもを感じ取る事が出来るのだから、相手のほうに顔を向けて話すことなど無意味だと思っていた。
しかし、自分は確かに変わったのだと思う。今では話しかけられれば自然とそちらの方に顔を向ける。必要ならば目も開く。そうしなくてはならないからでなく、そうしたいと思う。これは今までの自分にはなかったことだった。
…彼が、変えてくれたのだと。そう、素直に思う。

それはともかく、そちらに顔を向けると、彼のにこりと微笑む気配がした。
「以前、お義母さまの形見だというモミジのキモノを着ていらっしゃったでしょう。
あれはもう着ないんですか?」
「……そうだな、特に着る機会はないと思うが」
淡々と答えると、彼から少し残念そうな気配が伝わってくる。
「そう…なのですか?他に、あのタイプのキモノは持っていらっしゃらないんですか?」
「あのタイプ、というと?」
「ええと…ハカマではないものです。この国では、ハカマというのは基本的に男性の服なのでしょう?」
「そうだな」
浅く頷く彼女。
彼女がいつも身に纏っている物は、彼の言う通りハカマと呼ばれるものだ。このナノクニに伝わる伝統的な服装だが、これも彼の言う通り、通常は男性、それも武術をたしなむ男性が好んで着用するものだ。女性が着るとまず間違いなく「変わり者」の烙印を押される。
だが、そのようなことは魔術師ギルド長という立場にいる彼女にはあまり気にならなかった。
「しかし、通常女性が着るものは、やはりどうにも動きにくい。家事などをするのに支障はなかろうが、魔道を使ったり、荒事をするのにはやはり向かぬ。実用性を考えれば、やはりこの姿が一番良い」
「あなたらしいお考えですね」
彼は苦笑して言った。
「ですが、勿体無い気がします。あんなに似合っていたのに」
「だが、私が日常着るとなると相当の汚れや乱れを覚悟せねばならぬ」
彼女は僅かに眉を寄せた。
「汚したり傷つけたりしてしまっては義母上にも申し訳が立たぬ。やはり、大切に仕舞って置くのがよいだろう」
「いえ、何も普段着にする必要は」
彼は少し慌てたようだった。
意図がわからず、彼女は再び眉を寄せる。
「では、何だと言うのだ?」
彼女がはぐらかしているのでも非難しているのでもなく、純粋に彼の意図が理解できないのだと察したのか、彼も困ったように眉を寄せた。
「ですから…たまのお休みなどに、着て外に出てみては、と」
「何故?」
「何故、って…」
淡々と問う彼女に、彼は言葉を失ったようだった。
彼女は僅かに首をかしげる。
「あの折は、クルム殿がナノクニの民族衣装を着てみたいと仰るので、クルム殿に義父上の服をお貸しした上で、標準的な民族衣装をお見せするのが良いと判断した。それ以上でも以下でもない」
彼が言った、紅葉柄の着物を着た折のことを説明する。
つまりは、『外国の知人に標準的な装束の例として披露する』という目的があったから着たのだと。
「目的もなしに…しかも、動きが制限されると判っていてなお、身につけるものを変える意味が判らぬ。
私があの着物を身につけることで、何か有用なことがあるのか?」
「………本当に、あなたらしいお考えですね」
彼は再び、困ったように苦笑した。
「この国では、花より団子、と言うのでしたか?
見た目の優美さや風雅より、実用性や機能性を重視する、という」
「色欲より食欲優先だ、という意味で捕らえている者も多いがな」
彼女はわずかに肩を竦めて見せた。
「だが、私はその考え方を支持する。花など愛でても腹の足しにはならぬ。同様に、あの着物を着ることに私は意味を見出せぬ。それだけだ」
「………」
彼から少し寂しそうな気配を感じる。
が、彼女にはそれが何故なのかあまりよく判らなかった。
なぜ、彼があの着物に固執するのかも。
訊いてみたい気もするが、何故か訊きたくない気もする。
彼女は無表情のまま、どう言葉を切り出すかを考えた。
が。
「……実用性が、あればいいのですよね?」
彼の言った一言に、俯きかけていた顔を上げる。
彼が、再びにこりと微笑む気配がした。
「ありますよ、実用性なら」
「………?」
彼の言葉の意味が判らず、僅かに首をかしげる。
彼は変わらぬ口調で、さらりと言った。

「僕の目を楽しませる、という」

あまりに予想外の方向から降ってきた答えに、完全に絶句する彼女。
奇妙な沈黙が流れる。
ぱち。
彼女の瞳が開いて、緋色の輝きを外気に晒す。
口を開いてみても、言葉が上手く出てこなくて。
「……ぬし、は」
搾り出すような声は、本当に自分のものかと思うほど。
「………?」
いつもと違う自分の様子に、きょとんとした表情を作る彼。
彼女はしばらく言葉を失っていたが、やっとのことで言葉を紡いだ。
「……ぬしは、時々思いも寄らぬことを言う」
「……そうですか?」
わかっていない様子で、不思議そうに首を傾げる彼。
彼女は開かれた緋色の瞳でしばしその様子を見ていたが、ふいに顔を背けた。
「………」
喉の奥に何かが詰まったような、もどかしい苦しさを感じる。
目元が熱く感じるのは気のせいだろうか。
だが、それは何故か不快なものではなくて。
「………そう、だな」
目を閉じて息をつき、どうにか言葉を並べてみる。
「……それならば、実用的だ」

全く理解は出来ない。
彼の言うことも。
その言葉に苦しさを感じる自分も。
そして、本来取り除かれるべき苦しさを、あっても良いと思う自分も。
まったく、実用性などない。愛でても腹の足しにはならない、不要のものだ。
理屈をこねる自分が、そう訴える。
だが。

「ぬしの目を楽しませるために、何かの折に、あの着物に袖を通すことにしよう」
彼女がそう言うと、彼が再び微笑む気配がした。
…先ほどのように、心眼はうまく使えないのだけれど。
何故か、そのまま目を閉じていたかった。
「……ありがとうございます」
嬉しそうな彼の声音。
苦しかった胸元から、じわりと暖かさが広がっていくような気がする。
そう言って良かったと、素直に思える自分がいる。
全く、不可解ではあるのだけれど。

「…………ぬしのそれは…態となのか?」
「?…何がですか?」
「……いや……いい」

不可解だけれど。
不要のものだけれど。
大切なもの。

自分は確かに変わったのだと思う。
…彼が、変えてくれたのだと思う。
そして、これからも変わっていくのだろうと思う。

何故だろうか。

それを嬉しく思う自分が、確かに……ここにいるのだ。

Practical 2007.12.30.Nagi Kirikawa

投稿掲示板作品です。
気付けば、投稿板ではアスセイばっかり書いている気がする…(笑)
アスセイの萌えは、なんつうか、徐々に芽生えていく感情に戸惑うセイカ萌えというか(笑)
でも、うちのアスは間違いなく本来の意味での確信犯です(笑)