「…っつ……!」

深く切り裂かれた二の腕から、ぽたぽたと血が滴り落ちる。
じくじくと痛む傷口を押さえながら、ティフはどうにか体勢を立て直した。

ここ、セント・スター島は世界の中心。
天界や魔界へ繋がる門があると言われており、他の大陸から完全に切り離された独自の生態系が成り立っている。
生物学者である彼は、その生態系の研究のために数年前からこの島に暮らしているのだが。
ごくまれにこんな風に、森に生息する魔物に遭遇して怪我を負うことがあった。
そんな時の為に、最低限自衛のための魔法を身につけてはいるのだが、どうやら目の前にいるこの魔物は自分の手には負えない相手であるらしい。
さて、どうしたものか、と妙に冷静に考える。
魔物との距離はごく僅か。唸り声を上げながら今まさに飛びかかろうと身構えている。こちらが気を抜けばあっという間に襲い掛かってくるだろう。
冷静に構えているが、これは明らかにピンチだった。

何年ぶりかで、死を覚悟する。
未完成の研究書類と、そして何より、家に1人残してきた妻のことだけが気がかりだった。
文字通り住む世界の違う彼女が、身一つで自分を頼りにやってきてくれたのに。
ここで自分が死んでしまったら、彼女は一体どうなってしまうのか。死ぬわけにはいかないと思う気持ちと、それでも彼女ならどうにかしてしまいそうだという気持ちがせめぎあっている。
(……何を考えているんでしょうね、私は)
ティフは油断なく身構えたまま、ふっと苦笑した。
こういう事態に直面して、最悪の事態とその後のことに思いを馳せてしまうのは、自分の悪い癖だった。まずは目の前の事態を精一杯打開しなくては。
しかし、どう考えても自分の力でどうにかできる事態だとは思えない。
ティフは厳しい表情で身構えた。
と。

「ミスト・ブラスト」

静かな、しかしよく響く声がした瞬間、音もなく目の前の魔物が黒い塵と化した。
「!………」
驚いて目を丸くするティフ。
程なく黒い塵は晴れ、その向こうに銀髪の女性が佇んでいるのが見えた。
「…ミシェル………」
彼は呆然と、女性の……彼の妻の名を呼ぶ。
ミシェルは切羽詰った様子で、こちらに駆け寄ってきた。
「……大丈夫…?!」
「…え、ええ……あの、どうしてここに」
「強い魔物の気配がしたから」
ミシェルは短く言って、ティフの肩を抑えた。
「横になって。あの魔物の爪には毒があるわ。もう身体に回ってる、動かない方がいいから」
「えっ……あ、は、はい…」
まだ半ば呆然としたまま、ティフはミシェルに促されるまま地面に座り、体を倒す。
「動かないでね」
ミシェルはそっとティフの頭に手を添えて誘導し、そのまま自分の膝に乗せ、自らも地面に腰を下ろした。
いわゆる膝枕の体勢でティフの身体を地面に横たえると、そのまま胸の辺りに手をかざして小さく呪文を唱え始める。
ぽ、と胸の辺りが暖かくなったような感覚がして、それからその暖かさが全身に回っていくのがわかった。
「……すみません」
ミシェルに言われた通りじっとしながら、ティフは申し訳なさそうに言う。
ミシェルは魔法を行使しながら、不思議そうに首を傾げた。
「何故貴方が謝るの?」
「いえ…あなたのお手を煩わせてしまって」
「そんな風に思ってはいないわ。私は私のためにやっているの。貴方がいなくなってしまうのは困るから」
「ミシェル……」
彼女の言葉に、ティフは嬉しいような切ないような複雑な気持ちがこみ上げてくる。

ひどく無機質で、淡々としていて、どこか世界の外から見下ろしてでもいるかのような彼女の物言い。
彼女がここに暮らすようになってからしばらく経つが、これでもだいぶひとらしい言い方に変わってきた方なのだ。
ここにやってきた頃、彼女はまるで人形のようだった。膨大な知識と、的確な判断力を持った、しかし自分の意思のない人形。自分は周りの望むままに成果を上げるだけの存在であり、彼女自身は何をしたいのかは関係ない、否、何かをしたいという意思すら存在しない、と思い込んでいた。
その彼女が、「自分のために」と彼を助けたことが、ティフは純粋に嬉しかった。彼を「いなくなっては困る」と言ってくれたことも。

ティフは感慨に浸りながら、ミシェルを見上げた。
「…お強いんですね」
「え?」
「魔物を、一瞬で倒してしまわれたので。私1人なら、間違いなく死んでいました」
まあ、人ならざる存在である彼女にそんなことを言うのも今更なのだろうが、純粋に感心したので言ってみる。
「あのような魔法も使えることに、少し驚きました」
「…一通りの魔法は使えるわ。あまり実践する機会はないけれど」
「そうなんですね。魔物の気配を感じた、というのも?」
「私たちは魔の気配には敏感なの。退ける術もごく当たり前に身につける。私の場合はそれが魔法であったというだけ」
ミシェルは淡々と言い終えると、すっと手を離した。
「…とりあえず応急処置だけど、命にかかわる毒は抜けたわ。しばらく安静にしていれば問題ないと思う」
「ありがとうございます」
にこりと笑って言い、しかしティフは横たわったまま動かない。
ミシェルはきょとんとして彼を見下ろした。
「…ティフ?」
「はい?」
「…帰って休みましょう」
「そうですね」
にこにこしながら言うが、やはり動く気配はない。
ミシェルは戸惑ったように首を傾げた。
「…動けない?」
「動けないことはないですが」
「……?」
「もう少し、こうしていていいですか?」
「……え?」
きょとんとしたミシェルの手に、やさしく自分の手を重ねて。

「あなたの温もりを、もう少し感じていたくて」

ミシェルの顔を見上げながらそっと言うと、彼女の頬がさっと染まった。
そんな、ひとらしい反応がとても嬉しくて。
彼もまた、頬を僅かに染めて微笑む。

「………構わない、けれど」
「ありがとうございます」
戸惑ったように視線を逸らして呟くミシェルに、やはり笑顔でそう返して。
ティフはしばし、彼女の膝の温もりを堪能した。

彼女が応急処置として施してくれた魔法が、彼の体中に染み渡ったように。
人形のようであった彼女に、まるで血が染み渡っていくように、ひとらしさが戻ってくることがとても嬉しい。
その魔法をかけていくのは自分でありたいと、ティフは口には出さずに強く願った。

もちろん、応急処置で終わるつもりは、彼にはないけれど。

“Emergency measure”2011.8.9.Nagi Kirikawa

膝枕祭その12?久しぶりに書いた(笑)ティフミシェです。積極的にイチャイチャしたりはしない2人なので、何か緊急事態を用意してあげればいいかなと。
降下したばかりのミシェルはまだお人形さんみたいなので、人形が人間になっていく過程に喜びを感じるティフ、みたいなのも絡めて書いてみました。