この作品は、泉鏡花「海神別荘」のパロディ作品です。
話の中で一部省略している箇所があるうえに、ものすごく私的見解も混じっていますが、ご了承の上でお読みくださいませ。

【配役】
公子……レスティック・エリウス・サラディ
沖の僧都(年老いた海坊主)……ペヨン・ジョン・ウィンソナー
美女……ミカエリス・リーファ・トキス
博士……キルディヴァルジュ・ディ・エスタルティ
女房……チバ・ロッテ・マリーンズ

深く暗い、海の底。
ひとの手の決して届かぬそこに、世にも煌びやかな御殿があることは、海に暮らすものたちにとっては赤子でさえ知っている事実である。
金銀の柱、壁や床に散りばめられた宝石。瑠璃の台に珊瑚の椅子。この世の贅を全て集めたその御殿は、海に暮らすもの全ての憧れであった。
その御殿に住まうのは、海の主の正当なる血を引いた公子。金の髪に青い瞳、誰もが見惚れる端正な顔立ちに高貴さを漂わせ、また右に出るもののない剣の使い手でもある。

今日もまた、丹念に磨かれ曇りない光を放つ広い広い御殿の廊下を、いそいそと着物を引きずりながら歩く一人の老人の姿があった。
掃除に精を出す腰元衆の一人がそれに気づき、膝を折って礼をする。
「これは僧都さま。御機嫌よう」
「ほほ、今日も別嬪さんじゃの」
僧都と呼ばれた老人は足を止め、顔を皺だらけにしてそれに答えた。
ころころと笑う腰元。
「まあ、相変わらずお上手ですこと」
「なんの、この僧都、嘘を言う口は持ち合わせておらんぞ。今日はまた変わった召し物で、美しさも一段と引き立つと言うものじゃ」
「このお召し物は、今日若様にお輿入れなさる若奥様がお召しのものに合わせて、皆で着ているので御座いますのよ」
「なるほど、なるほど。陸の上の装束であったか」
「僧都さまは陸にも何度もおいでなさいますから、ご存知ではございませんの?」
「ワシが陸を覗くのはたいていが嵐の晩、暗くて陸の様子などよう見えんわい。
それより、若様にお目通りを願いたいのじゃが」
「まあ、それは丁度良い折で御座いますわ。今しがた、若様がおいであそばされました。こちらへ」
「うむ」
腰元の先導で、広い廊下を行く僧都。長い長いその廊下の先に、宝玉の散りばめられた巨大な扉が見えた。
先導をした腰元が膝を折り、大きな扉に向かって済んだ声をかける。
「僧都さま、お見えに御座います」
「通せ」
中から凛とした声が響き、ややあって扉が重々しい音を立てて開いた。
扉の先、こちらも広い広い間の最奥に、巨大な珊瑚の椅子。
それに肩肘をかけて座っていたのは、金の髪の公子その人であった。
「来たか、爺」
「これは若様。ご休息のところ失礼いたします」
僧都は椅子の前まで来ると、膝を折った。
公子は懐かしげに目を細め、立ち上がる。
「気にするな。俺に用があって来たんだろう?」
「は、このたびのお輿入れの儀につきまして、若様のお蔵より先方にお遣わしになりました品々を、念のために申し上げたく」
公子は僅かに眉を寄せ、そして思い至った様子で笑みを浮かべた。
「ああ、陸で言う『結納』とかいうものだな。あの女の父に遣ったという」
「結納、というものが正しいものかどうか……そも、陸で言う結納といいますのは、婚儀を結ぶ両家の親が仲人を立てて品々を取り交わすもの。この場合は……」
「あの女の父が宝を望み…その代わりに娘を海に沈めると誓ったものだったな」
「左様で。このようなものを陸では結納とは申しますまい。さしずめ、『身代』と言うのでございましょう」
「みのしろ、ね……ま、どうでもいい。どうせ少しばかりのことだろう、わざわざ報告しなくても」
「いやいや、鱗一枚、貝一枚といえど、若様のものなので御座いますから、それをご報告申し上げなくては」
「だからいいって言ってるだろ」
公子は面倒げに衣を翻した。
「そこは全て爺に任せてある。重要なのは、娘の父がその『身代』とやらに満足をしたかどうかだ」
と、僧都は得意げな顔で頷く。
「それはもちろん。しかし、ちっぽけな小船に乗って、泡にも足らぬ小魚を杓い、日々の糧としている人間のこと。かけた願いの分だけの魚を与えるにはまどろっこしすぎましての。こちらが用意した魚、全てあの小船で運び終えるまで待っていては、鰯が鯨に育ってしまう。
それゆえ、黒潮騎士団を少しばかり動かしまして、その魚、津波に乗せてかの美女の家に運んでやったのですじゃ。ちぃとばかり、他の家や田畑も流れてしまいましたがの」
ほっほ、と笑う僧都。
腰元衆が顔を見合わせてころころと笑う。
「まあ、お勇ましい」
「勇ましい、じゃないだろ」
公子は眉を顰めた。
「家や畑を流され、その浦の者達は迷惑じゃないのか」
「これはしたり」
意外そうに、僧都は眉を上げた。
「娘の父は、思いがけずにもたらされた海の幸に大変満足し、周りのものの迷惑などちぃとも気に留めませなんだ。若様のお気にされることではございますまい」
「そういう問題か……?」
まだ不満気味の公子。
僧都はもっともらしく頷いた。
「左様。さればこそ、自らの娘を当御殿の求めに従い、娘を海に沈めたのですからな。
もっとも、魚ほどでは満足をしなかったようでしての。それに続いて、珊瑚を三抱えほど夜の渚に置いてやりましたら、月の光に美しく輝くそれをかき抱き、竜神様、命を捧げ奉る……と、有難がって涙したのでございます」
「親父の命などいらんね」
公子は肩を竦めて嘆息した。
「そんなもので満足するなど、人間の欲というものは浅いもんだ」
「あの父は、それでも深い方じゃて。一人娘の命と引き換えに、海の宝を望んだのですからな」
「馬鹿な男だ」
あざ笑うように鼻を鳴らす公子。
「あれほどの女、海の宝と引き換えにするなど…俺ならば望めば命でもくれてやるのに」
公子の言葉に、腰元たちが切なげにため息をついた。
「そこまで若様にお思われあそばした娘御は、この広い海の中、海の上に広がる陸、その上に広がる空を合わせましても、一番のお幸せ者で御座いましょうねえ」
「若様、早くお付き遊ばせばよう御座いますね」
「わたくしたちも待ち遠しゅう御座いますわ」
「そうだな」
公子は目を細め、再び衣を翻した。
「誰か、鏡を。道中の様子を見よう」
「失礼して」
腰元たちが運んできた鏡を覗き込む公子。
その隣に腰を下ろし、同様に覗き込む僧都。
そのまわりを取り囲むようにして、腰元衆が興味津々に覗き込む。
鏡の中には、暗い海の中、波間にぼうっと彷徨う光が映し出されていた。
「ああ、これだ。もっと近寄れ。もっとだ」
公子の言葉に応えて、虚ろだった光がよりくっきりと、鮮明に映し出されていく。
美しい波間を漂う、淡い光を放つ竜。
その背に伏せて横たわる…………銀の髪の少女。

「………ここ……は……」
美女はゆっくりと瞳を開けて、あたりを見渡した。
広がるのは一面の闇。その中にぽつりぽつりと、青白い光がほのかに揺れているのが判る。
足元を見れば、虹色に輝く龍が自分の身体を支えていて。
ゆらゆらと揺れる闇と、不気味に光る青い光が、すぅ、と移動していることから…自分は、その龍に運ばれているのだろうと察する。
龍の周りには、堅固な鎧に身を包んだ男達が、何かを見張るように油断なく辺りを見回している。
「気がついた?」
急に声をかけられ、美女は驚いて振り返った。
そこには、薄桃色の装束を纏った女房が一人、燈篭を持って佇んでいる。
「疲れちゃったでしょ。もちっと休んでく?」
「あなたは……?」
疑問を口にしてから、美女ははっとして辺りを見回した。
「いえ……あたし…あたし、どうなったの?波にさらわれて……逆さに波に沈んで…」
「あっはは。自分のカッコ、よく見てみなよ。髪も服も、なんともないじゃん?何で逆さになってるなんて思うのん?」
女房はきゃらきゃらと笑って、あっけらかんとそう言った。
美女は信じられない様子で、自らの髪に、服に目をやる。
それから、まだ夢の中を彷徨うような瞳を、あたりに投げた。
「あたし……舵のない船に乗せられて、暗い海に流されて……その最後に、お父様が、海の贄になるあたしの供養だと言って、船と一緒に流してくれた…蓮華燈籠が……見えたわ」
「それって、これのこと?」
すい、と自分の持つ燈篭を差し出す女房。
「あっ……ええ、それ…だわ」
「土産の一つでも持ってくのもいいかと思ってさ。故郷のモノ、一個あるとキミも安心でしょ?」
「え、ええ……でも、不思議……明りも消えずに…」
女房の手の中で光を放つ燈篭を、まじまじと見やる美女。
女房はくすりと笑った。
「水に入って火が消えちゃうのは、キミたち陸の世界の話でしょ。一度こっちに来ちゃったら、ここは風も吹かないし、綺麗な花の香りがするだけ。紙の細工は真珠になって、葉っぱは翡翠に、花びらは紅白の宝石に。燃える火は消えない星になるんだよ」
女房は美女に近づいて、その袖を一筋手に取った。
「ほら、見てごらん。キミの服、濡れてる?髪が乱れてる?逆さになんてなってないじゃん」
「本当……不思議だわ」
美女はうつろな視線を上へと向けた。
「波に沈む前に……故郷の山に月がかかるのを見たわ。そしてあっという間に、波が船をさらって………あら、でも」
美女はふと気づき、龍の向かう遥か先を指差した。
「あそこにも……月が。あんなに…低いところに」
「ああ、アレは月じゃないよ」
「でも、雲がかかってるわ。雲間から空が見えるわ。月から美しい光がかかって…」
「雲に見えるのは、ありゃ波だよ。空に見えるのは水。月に見えるのは……」
女房はそこで、月の光から美女へと視線を戻す。
「キミがこれから行く、海の御殿、ってやつさ」
「海の……」
美女は顔を青くして、自らの両肩を抱いた。
「その、御殿に行って……あたしは、一体どうなるのかしら」
「どうってそりゃキミ、んー…」
女房は微妙に言葉を濁し、それからぽんと肩を叩いた。
「ま、おめでたいことなんだからさ。そんなに暗い顔しないでよ、ね」
「おめでたい?」
眉を顰める美女。
「海に小船で流されて、生贄として捧げられる……それが、おめでたいことだって言うの?」
「キミのとこではおめでたくないの?」
不思議そうに首を傾げる女房。
美女は悲しげに目を伏せた。
「波にさらわれたとき、青白い光があたしの胸を離れて……ここで、命が終わるのだと思ったわ。けど、こうしてあたしは生きている。生きたまま、飲み込まれるのか引き裂かれるのか…いずれにしろ、捧げられるために運ばれていくんでしょう?あなたたちにとってはおめでたいかもしれないけど…あたしにとっては、おめでたいだなんてとても思えないわ」
「ふーん、陸の上ってのは変わってるんだねぇ。お嫁に行くのがおめでたくないだなんてさ」
「……は?」
美女は顔を上げ、眉を顰めた。
「お……よめ?」
「そだよ?」
「え……な、なに、それ?どういう……」
たちまち、美女の頬が染まる。
「え、なに、聞いてないのん?」
女房はきょとんとして、美女に言った。
「ウチの海の若様がさ、陸で見かけたキミに一目ぼれして、キミのおとーさんにお嫁に欲しいって言ったんだってさ。そしたら、キミのおとーさんは、海の宝をくれたらキミをお嫁にくれるって言ったんだよ。だから、キミんとこに海の幸どーんと運んで、代わりにキミをもらってきた、ってわけ」
それから、手をパタパタと振って苦笑する。
「んもー、ウチの若様ったら、キミが早く欲しい早く欲しいってきかなくてさ、おとーさんがちまちま小船で海の幸を取ってくのがまだるっこしかったもんで、どーんと波で運んじゃったんだよ。ゴメンね、ちょっち家壊れちゃったっしょ?」
「え、いや、あの……それは……頂いた宝で建て直したから…いいのだけど…」
まだ混乱した様子で、美女。
「で…でも、あたし、その…若様のこと、知らないわ?」
「そらそうだろうね。若様もチラッと見ただけみたいだし」
「そ、それなのに、お嫁……だなんて…」
「それほど一目ぼれだったっつーことでしょ。このこのー、にくいね!」
女房に小突かれ、両手を熱い頬に当てて視線を逸らす美女。
「……海の御殿へは、どのくらいかかるの…?」
「んー、キミたちの基準で言うのは難しいねぇ。ま、もうすぐだよ。それまでこの花の香りを楽しんでてよ」
「花の香り……」
美女は再び視線を泳がせ、あたりを漂う花の香りを吸い込んだ。
「本当…海の中は、こんなに良い花の香りがするのね………でも」
そうしてから、僅かに眉をくもらせて、辺りをうかがう。
「時々…ぞっとするような生臭い香りがするわ。これは……」
「あー、クラゲだよ、クラゲ」
「クラゲ……?」
女房に尋ねると、彼女は不機嫌そうに眉を顰めた。
「海で死んだ人の魂はさ、クラゲになって彷徨うんだよ。人間の魂は汚いからねぇ、生まれ変わることも出来ないでふよふよその辺を漂ってるわけ。んで、キミみたいに清らかな、綺麗な子を見つけるとそれに寄ってくるんだよ」
龍に引き寄せられるようにしてよってくる青白い影を、先ほどの鎧に身を包んだ兵が槍を持って追い払っている。
美女は袖で口元を隠すと、目を伏せた。
「人間の魂が……恥ずかしいことだわ」
「キミが気にすることじゃないよ」
女房は再び美女に向かって微笑んだ。
「キミは若様の奥さんになるんだからね、もう人間じゃないんだから」
「……ええ……」
美女は再び、海の御殿へと視線をやる。
女房は肩を竦めて、護衛の騎士達に声をかけた。
「さ、クラゲのうちはまだいいけど、赤鮫だの黒鰐だのが来たらやっかいだよ。急いで、さっさと行っちゃおう」
騎士達は僅かに平伏すると、再び槍を構え、その歩みを速めた。

「……博士か」
玉座の前でひれ伏した仰々しい装束の男を、公子はやや剣呑な表情で迎えた。
「おやおや、呼び出しておいてずいぶんな態度ですね、若様」
面を上げ、にこりと微笑む博士。
「いや、気にするな。何故この配役なのかといろいろなものを呪ってみただけだ」
「私が若様でも良かったのですが」
「美女をあいつがやるのか。それだけは勘弁してくれ」
「ではむしろ私が美女を」
「いいから本題に戻るぞ」
そうしてください。
「見てくれ、博士」
公子が指し示した鏡に映るのは、龍に乗った美女と護衛の騎士達。
「これは、この度迎える妻だ。陸から龍に乗り、この御殿まで運んでいる」
「存じております。供の女房は私のつれあいですから」
「陸からこの御殿までは遠い。いくら龍が速いとは言っても、長い旅路だ。海月が纏わり付くだけならいいが、入道鰐、坊主鮫があの美しさにひかれて寄ってきては厄介だ。
だから、黒潮騎士団を護衛につけさせた」
「至極のお計らいですね」
落ち着いた表情で頷く博士。
「だが、この僧都が」
と、公子は傍らの老人に眼をやった。
「白い衣に緋色の衣を重ね、馬に乗せ、槍を持つ騎士で取り囲むのは、陸で『引き回し』とかいう刑罰の姿に似ていると言うんだ。忌まわしく不祥のものであると」
「ほう」
博士は僅かに目を見張る。
公子は続けた。
「陸でその姿が不祥だと言うなら、あの姿を改めてもいい。保護の手段なぞ幾らでもあるんだからな。
だが」
眉を顰め、首を傾げて。
「何故あれが不祥なんだ。俺にはわからない。
見ろ、俺の領分に入ったあの女の顔は、陸にいるときよりも美しく、清く輝いている。きりりとした眉、澄んだ瞳、瑞々しい唇、流れる銀の髪。海にその身を飲まれても少しも窶れず、生き生きと輝いている。美しい衣に身を包み、髪を整え、色とりどりの珠で飾ったその姿が、龍馬に騎して進み、その周りを精鋭の騎士が取り囲む。
歩くより、籠に乗せるより、何より鮮やかで美しい。ちっとも不祥などとは思わない」
「ご馳走様です」
博士はにこにこと公子の惚気を聞いている。
「引き回しというのは刑罰なんだろう?恥を見せ、苦痛を与えるものだ。
しかし、槍で囲み、新しく装った女を馬に乗せ、街中を練り歩くことのどこが刑罰なんだ?された当人は、誰にも知られず、ただ怠惰に人生を送って死に果てるよりずっと愉快じゃないか。
陸と海、国が違い、人情が違っても、まさかそんな刑罰はないだろう」
公子は理解できないといった様子で肩を竦めた。
「だが、この爺は、おぼろげながら確かに記憶があると言う。それで、あんたを呼んだというわけだ、博士」
「成る程。僧都どのの仰せの記憶は、私にもおぼろげながらございます」
「本当か」
「ですが、念のためお調べいたしましょう。陸の刑法を一通りお調べすればよろしいですか?」
「いや、他はいい。面倒だ。ただ女を馬に乗せ、槍を立てて引き回したという記録があるかどうかだけが知りたい」
「仰せのままに」
博士がす、と手を上げると、その手のひらに不思議な輝きを放つ書物がどこからともなく現れた。
ひらり、とその本を開き、それに視線を落とす。
「では、正史より小説、浄瑠璃をお探しいたしましょう。時の風俗を調べるにはこちらの方が適切ですから」
「その本は?」
公子が尋ねると、博士はにこりとそちらに微笑みかけた。
「この書物は、仏蘭西国の大帝ナポレオンが、西暦千八百八年、西班牙遠征の折に、世界有数の読書家にして時の図書館長でありましたバルビールに命じ作らせました、実に一千巻からなるデュオデシモ型の辞典……というものの存在を、若様のお姉君、乙姫様がお聞き遊ばして、作らせたものにございます。
この国の微妙なる光に晒しますと、本を持つ者の望む知識が自然と浮き出てくるのですよ」
「姉上が、そんなものを。秘蔵のものだろうに」
「こちらの書物はお姉君が若様にもと作らせたもの、若様の所蔵でございますよ」
「そうか。ちょっと見せてくれ」
公子は書物を手に取り、はらりとページをめくった。
「……白紙じゃないか」
「畏れながら」
博士は丁寧に書物を公子の手から取り戻すと、再びにこりと微笑む。
「持つ者に予備の知識がなければ、知識は浮き出てはこないのですよ」
「……そうなのか。それは恥じ入るな」
「若様はご武勇でいらっしゃいますから」
博士の笑みは崩れない。
「黒鰐、赤鮫からこの御殿を守るそのお力は、私達には真似できぬもの、恥じ入ることなどありません。ですが、お姉気味のせっかくのお志、折を見てご覧下さい」
「そうですぞ、若様」
僧都にも畳み掛けられ、公子は複雑な表情で肩を竦めた。
「まあいい、今の引き回しの事を見てくれ」
「では」
はらり、と博士がページをめくると、白いページにうっすらと字が浮き上がってくる。
「……こちらは、浪速の町人、大経師以春の妻のおさんが不義の罪で引き回し、磔になったものを記しましたものですね」
「読んでくれ」
博士は浮き上がる字に目を走らせ、淡々と要約し読み上げていく。
「……雪の降る中を引き回されているようです。島田に結った髪は乱れ、化粧は削げ落ち、縛られた手は氷のような冷たさで、涙は手を伝い堕ち、袖を凍りつかせたと」
「……綺麗な姿じゃないか」
公子の表情は動かない。
「それで、陸の者達はその女の罪を責めたのか?」
「そうなのでございましょう」
「刑罰なのですからな」
博士と同様に、僧都も頷く。
公子はまだ理解が出来ないといったように肩を竦めてかぶりを振った。
「判らんね。馬に乗った女は、夫のある身であったとしても、燃える様な恋をして、好きな奴と思いが通じた。殺されても本望だったろう」
「袖が凍りつくほど涙を流すからには、嘆き悲しんだのではないでしょうか」
「それはその女の姿を見た奴のことを書いてるんじゃないのか。判らんな……他に例はないのか」
「ふむ」
博士は再び書物に目を落とし、はらりとページをめくった。
「……引き回しにはたくさんの人間が見物に来たようです。それほどにこの女の罪は深く、天はその罪を許さないだろうと」
公子は無言で眉を顰める。
博士は続けた。
「……引き回しをされた女の方はといえば、やつれても乱れてもおらず、在りし日のまま美しかったと。見物人に見送られ、町中を棄て札に槍を立てて引き回され、最後は火刑に処されたとのことです」
「判ったぞ。それは、お七という女だろう」
公子の表情がぱっと輝いた。
「確かに、そのような名前であったようですね」
博士の答えに、公子は笑顔で頷いた。
「やはりな。俺は大好きな女なんだ。
見ろ、その浄瑠璃のどこに、当人が嘆き悲しんだと書いてある?人に惜しまれ、哀れがられて、大満足で火に焼かれたじゃないか。そのことを誇っていい。何でそれが刑罰なんだ?」
公子は再び腕を組み、眉を寄せた。
「もしその女を罰するとするならば……そうだな、そのまま放っておいて、平凡に生き永らえさせ、皺だらけの婆さんにしてしまえばいい。そうじゃないか?」
「若様、お気持ちは判りますが」
博士は再びにこりと笑った。
「無論、私も若様と同じように思います。しかしそれはあくまで海の世でのこと。陸の出来事を知識として知ることは出来ても、陸の人々の心も情も、真に判るかと言われればそれは否と申せましょう」
「あんたに判らないものが俺に判るものか」
公子は憮然として腕を組んだ。
「陸のことはよく判らないが、ここは海だ。事情も違う。あの女の姿は、不祥などではない」
「まあまあ、若様。若様がそこまで仰るのです、この爺にも合点が行きましてございます」
公子を宥めるように、僧都がうなずく。
公子は満足げに笑った。
「そうか。それならいい」
そして、再び鏡の中の美女の姿に目をやる。
「しかし、まだ見慣れぬものがあるな。あの首にかけたものは何だ?」
「どれ」
僧都は首を伸ばし、鏡の中の姿に目をやった。
「ははあ、若様、あれは水晶の数珠ですじゃ」
「水晶の数珠?」
「さよう、海に沈みまするゆえ、冥土に行く心得として、坊主が授けたものにございます」
「冥土だと?失敬な。……まあいい、しかし、あれは本当に水晶か?あの光は……」
「水晶とは名ばかりでしょう。最近は硝子を使うことも多いようです」
博士が答えると、公子は眉を顰めた。
「硝子だと?俺の妻になる者が、そんなまがい物を身につけるなど……金剛石か、真珠か。博士、何か適当に見繕ってくれ」
「御意のままに」
「それから、あの指輪も怪しいな。どう思う?」
公子が腰元衆を振り返る。一人が鏡に寄って覗き込み、首を傾げた。
「あれは……貝ですわね」
「近頃は陸の露店で、ルビー、エメラルドなどと称して貝を売っているそうですわ」
「わたくしたちの化粧の泡が、波に流れて渚に散った物でございます」
「そんなものを宝石と言って売っているのか」
公子は目を見張った。
「ええ。ご立派な服に青い頭巾の、立派な商人の売るものにさえ、偽者も多いそうですわ」
「呆れたものだな」
公子は嘆息して、再び博士の方を向いた。
「博士、先ほどのついでに指輪も見繕ってくれ」
「御意」
そしてすぐに、僧都の方に向き直る。
「僧都、博士の用意してくれたものを持って、すぐに彼の女を迎えに行って欲しい。首飾りと指輪を渡し、身につけている紛い物を捨てさせてくれ」
「やれやれ、若様は年寄りをこき使いなさるほどに奥方様に夢中と見える」
わざとらしく腰を叩きながら立ち上がる僧都を笑って見やって。
「まあ、そうぼやくな。頼んだぞ」
「御意にござります」

「さ、ここだよ」
女房に導かれて通されたのは、見たこともないほどの広い広い部屋だった。
「もうすぐ若様が来るから。それまで座って待ってなよ」
女房はそう言い置くと、扉の向こうに消えていく。
美女は不安げに辺りを見回した。
「海の底に…こんな御殿があったなんて…」
この目で見ても、まだ信じられない。陸ではおよそ考えられない、大きな建物、金銀に輝く柱、色とりどりの宝石で彩られた壁。
どこまでも絢爛豪華で、その中に自分がいるということが信じがたい。波間に沈んだ自分が命の最後に見ている夢なのではないかとすら思う。
「来たよー」
大きな扉が開いて女房の声がし、美女は慌てて平伏した。
かつん。
硬い足音が広い部屋に響く。
「よく来たな」
優しい、穏やかな声がした。
美女は平伏したまま、その声を聞く。
と、隣に女房が同じように座ったのを気配で感じた。
「顔、上げなよ。キミは若様の家来じゃない、奥様なんだからさ」
囁くような声がして、美女は一瞬ためらった後、ゆっくりと顔を上げる。
視線の先に、端正な面持ちの若者が微笑んでいるのを見止め、美女は呆然と言葉を紡いだ。
「あなたが……海の公子…?」
「海蛇にでも食われると思っていたのか?」
公子がからかうように言い、美女は戸惑って目を泳がせた。
「だって……信じられない。海の底に、こんなに豪華な御殿が…そして、あなたみたいな人がいるなんて」
「この御殿も、女房も、俺も確かにここにある。人間の目には見えないかもしれないがな」
「海の底には…こんな栄華があったのね。この首飾りも…指輪も。この目で見ても、信じられない」
「そんなちっぽけな玉で何を驚いてる。お前の足の下にあるのは瑠璃の床、そこにある椅子は珊瑚だ」
「珊瑚」
美女は目を見張った。
「お父様に下さった…あの?」
「あんな草と比べるな」
公子はつまらなそうに肩を竦めた。
「あの草に比べたら、ここにあるものは大樹だ。陸の山々よりも大きい」
「それも、人間の目には」
「見えないだろうな」
美女は目を伏せた。
「それほどに陸の人間は…小さく、取るに足らないものなのね。こんなに豪華な宮殿があることすら知らない」
「気にするな。陸にも素晴らしいものはたくさんある」
公子は目を細めて美女を見やった。
「名山があり、名水がある。美しい峰があり、雄大な川がある」
「でも、こんな御殿はないわ」
「あるのを知らないだけだ」
公子はにべもなく言った。
「美しい山々には、紅葉の色を織る竜田姫がいる。人間は知らないのか、それとも知っていて知らないふりをしているのか?陸の景色は海にはないものだ、尊く得がたい。陸の景色を描いた絵すら、海では手に入らない。尊いものだ」
「絵なんて。この御殿に比べれば取るに足らないものでしょう?生きたものが住んでいるわけでもないのに」
「いや、住んでるよ。色は全て命を持って輝いている。ただ、人間がそれを知らないだけだ。見えているのに、見えないふりをしている。そんな人間の全てを美しいとは言わないが、陸は美しく尊い。それは認めるよ」
そこで、公子の目の色が急に寒々しさを帯びた。
「ただ……俺の海は、ひとうねりでその陸を浸し、滅ぼすことが出来る」
美女の表情が固まる。
「本当に美しいものは滅びない…お前のようにな。だから、陸の一浦を滅ぼし、お前を迎え入れたんだ。滅ぼす力を持ったものが、滅びないものを迎え入れ、愛し、守る。それは素晴らしい、美しいことだ。嘆くことはない、喜ぶといい」
「ほーらね、おめでたいことだっつったでしょ」
女房もそれに同意し、頷く。
美女の瞳に力がこもった。
「それが……あなたの力で、あなたの威光だというのね」
公子は鷹揚に頷いた。
「そうだ。もとより傅き、媚びるものに愛されたとしてそれが何になる?俺は俺の愛するものを手に入れ、そして護る。お前に仇なすもの全てから。例えばそう、宝の代わりに娘を差し出した父親などからな」
「………っ」
鼻白む美女。
「俺にはそれだけの力がある。力をもって欲しいものを手に入れ、そして力をもってそれを護る。この剣で……牙で、爪でお前を愛するんだ」
美女は鋭い瞳でじっと公子を見つめ…そして、目を伏せた。
「お父様に賜った宝も…浦を襲った津波も。この金剛石の首飾りも、翡翠の指輪も。あなたにとっては造作もないこと……その力、その威光。………よく、わかったわ」
公子もまた、美女をじっと見つめている。
「そして……あたしを愛する、と」
かすかに頬を染める美女。
「あたしは海の贄に捧げられたのではない……あなたの妻となるために、ここにいるというのは…本当なのね?」
「無論だ。お前は贄などではない。俺の愛する妻だ。嘆き悲しむことはない」
「嘆き悲しんでなどいないわ」
硬い表情で、美女は言った。
「ただ、あたしが海の贄になって死んだと思っている人たちに……せめて、無事を知らせてあげたいと。この絢爛な御殿で暮らすのだということを、教えてあげたくて」
「あー、そりゃムリだね」
女房が肩を竦める。
「さっき若様が言ったでしょ?人間の目にはここは見えないって」
「本当に?…本当に、故郷の人たちにここは見えないの?」
「人間の目には見えない。言ったはずだ」
公子がにべもなく告げる。
「お父様…お父様にも、見えないの?」
「見えると思うのか?」
「だって、こうして生きているじゃない」
「ああ、生きているさ」
公子の口調は静かで、そして冷たい。
「だが、小船に乗ってここに来る時、お前はどういう決心をしたんだ?」
「もちろん、死ぬのだと思ったわ。故郷の人たちもみんなそう思ってた。お父様も……お父様が、一番悲しまれた」
「悲しんだ?何をだ」
吐き捨てるように公子は言った。
「あの男は初めからそのつもりで、俺に宝を望んだんだろう。しかもそれで満足だと言い、俺に感謝をした。約束の通りに娘を海に沈めるのに、何を悲しむことがある?」
「娘が命を落とすのに、悲しまない親がいると思うの?!それが親の情愛というものだわ!」
「ずいぶん勝手な情愛もあったものだ。そんなものは俺には判らん。…まあいい、それで?」
公子に先を促され、美女は俯いて続けた。
「お父様は泣いて、泣いて…倒れ付したところは、ちょうどお父様があなたに珊瑚を頂いた浜辺だった。その悲しみは、宝を頂いた喜びより何十倍も大きかったと……」
「なら、その珊瑚を海に戻し、約束を戻せばよかっただろう」
「だって、その時にはもう、海の幸も宝もお金に換えてしまって、壊れた家を建て直すのに使ってしまったんだもの」
「ならば、家を焼き、蔵を潰し、金も散らして、もとの貧しい漁師に戻り、娘を助けてくださいと命乞いをすれば良いだろう」
「でも、毎夜毎夜、約束の女を寄越せと、海坊主のような黒い人が障子や屏風の向こうに立って催促をするのよ?今更そんなことをしても、と思ったのだわ」
「その海坊主に、もとの貧しい漁師になるから娘を助けてくださいと言ってみたのか?そうはしなかっただろう。娘を沈めることを嘆き悲しんだ後は、新しい豪華な家の中で、新しく招き入れた若い妾に慰めてもらってたじゃないか。それのどこが情愛だと?」
「………っ」
美女は言葉に詰まった。
公子はつまらなそうに嘆息した。
「別にお前を責めてるわけじゃない。お前がそれを情愛と言うなら言え。俺には何の関わりもない。
だが、そんな不条理な故郷を思って嘆き悲しむな、と言っているんだ」
美女は公子をまっすぐに見て…そして、静かに告げた。
「…何度も言わせないで。あたしは嘆き悲しんでなどいない」
「ほう?」
眉を上げて美女を見る公子。
美女はその目をまっすぐに見返した。
「最初は、夢だと思ったわ。お父様がした約束も、偶然もたらされた宝も。だってそんなこと、あるはずないと思うでしょう?海の宝をやる代わりに娘を波に沈めろと言われただなんて。
…でも」
ふ、と目を伏せて。
「どちらでもいいと。夢ならばあたしの乗った船は沈まない。夢でないとするなら、それはそれだけの宝をもたらすことが出来る…それだけの力がある存在だということ。それならば、その力を見極めて…その力に縋ってでも、生きていくことが出来るかもしれない、と」
「面白い」
公子はにやりと口の端をつり上げた。
「この女は面白いぞ。こんな状況でも少しも嘆き悲しみなどしない、むしろその先を見つめ、生き抜く手段を探している」
女房が心得たように礼をする。
公子は喜色を顔中に広げた。
「俺はしおらしい、可哀想な花を生けて愛でようと思った。が、違った。こいつは楽しく歌う鳥だ!面白い、それも良かろう。おい、酒を持て!」
公子の声が朗々と響き、ややあって扉が開いて腰元たちが酒を運んでくる。
運んだ酒を女房が受け取ると、腰元たちは一礼して部屋を辞した。
女房はゆっくりと酒を注ぎ、公子と美女に差し出す。
公子は受け取って口をつけたが、美女は肩をすぼめて手のひらを向けた。
「お酒は…ちょっと」
「甘いお酒だよ、大丈夫」
女房が微笑んで言い、美女は眉を寄せたまま恐る恐るそれに口をつける。
と、その眉がぱっと開いた。
「……美味しい」
「そっちは桃の露。若様が飲んでるのは菊花の雫。陸の上にはないかもね、海では最高級のお酒だよ」
「なんて爽やかな……生き返ったみたいだわ」
「生き返ったんじゃない、新しい命を得たんだ。この海でな」
公子が言い、美女は初めて花のような笑顔を咲かせた。
「嬉しい」
酒の面に映る自分の顔を確かめるようにして。
「高く真っ黒な波に飲まれたときは、本当に死んだと思ったの。それがこうして生きて、こんなに美味しいものを口にしている…本当に、夢のようだわ」
「夢じゃない。俺もお前も、こうしてここにいる」
「あたしがここでこうしていること…浦のみんなに知らせてあげたい」
「知らせる必要はないだろ」
公子が言うと、美女はそちらを振り向いた。
「でも、みんなはあたしが死んだと思っているわ」
「思わせておけばいいだろう」
「でも……」
「親子の情愛、とやらか」
公子はさめた瞳で言った。
「ええ、お父様も、浦のみんなも、あたしを思って悲しんでる。あたしは無事だって、知らせてあげたいわ」
美女の言葉に、公子はゆっくりと、慈しむように言った。
「…帰りたいか。故郷へ」
美女は言葉につまり…視線を逸らす。
「……いいえ。帰っても、きっとあたしの場所はない」
「ならば」
「けれど」
公子の言葉を遮って、美女は言った。
「ひとはひとに知られて初めて生きていられるのよ。誰からも死んだと思われているなら、それは死んでいるのと同じだわ。浦のみんなの中で、お父様の中で、あたしは死んだ娘になってる。ここに、こうして生きて、みんなには考えもつかないような、すばらしいものを与えられているのに。あたしを思って悲しむことなんかないというのに」
美女の言葉に、公子は眉を寄せた。
「………お前」
歩み寄って、見下ろし。彼女の下げた首飾りに指を這わせる。
「この栄華を見せびらかしたいんだろう?」
美女は驚いてかぶりを振った。
「違うわ」
「何が違う?誰に知られようと、知られまいと、ここにこうして生きていることに違いはない。己自身で生きていると満足すればそれでいいだろう。ましてやお前を愛すると言う俺がいるんだ、何の不足がある?宝と引き換えにお前を捨てた者たちを見返してやりたいのか?」
「違う、違うわ」
「じゃあ何だって言うんだ。俺だけでは不満なのか?お前がここにこうしてある、それだけで満足できないのか?その宝石とて、そこにあるだけで輝きを放つ、その価値は変わらない。けれどそれを見せびらかそうとする人の心が、その輝きを曇らせる」
「違う、そうじゃない」
美女はもどかしげに首を振った。
「例えばこの床の翡翠のひとかけらでも、浦のみんなにあげることが出来たら、みんなの暮らしがどれだけ助かるか。あなたの起こした波で浦はとても貧しくなってしまったのよ。このひとかけらでも、みんなに分けて上げたいの」
「お前のためにも宝物蔵を用意した、好きに使えるものだ。施しをするならそれでもいい。ただし、人知れずな。自分が遣ったと見せびらかすために施すならやめておけ」
「どう言えば信じてくれるの?」
美女はもどかしげにかぶりを振った。
「見栄や栄耀を見せようとは思わない。あなたがそう思うのなら施しもしないわ。ただ、生きているということだけを伝えたいの」
「やめておいた方がいい」
冷たく言い放つ公子。
「なぜ。言ったでしょう、故郷に留まるつもりはない、栄華を見せびらかすつもりもない、ただ、あたしはまだ生きて、命があるということだけを伝えたいの」
縋るようにして、美女は公子を見上げた。
「どうしても駄目なの?少しこの御殿を出るのも許されないの?」
公子はそれを見下ろし…息を吐いた。
「牢屋じゃあるまいし、そんなことはない。嘆き悲しむものを見るのも面倒だ、本来ならさっさと追い出すところだが…」
向けられた青い瞳は、かすかに哀れむような色を含んでいて。
「…だが、お前にはもう心を許し、秘蔵の酒を飲ませた。陸の終わりだろうと、海の果てだろうと、お前が思って行けない所はない。
今まで長くかかった旅路も、瞬きをする間に行くことが出来るだろう。
だが……哀れなものだ」
ゆっくりと問う美女の肩に手を置いて、諭すように公子は言った。
「お前にその驕りの心さえなければ、一生聞かなくてもいいことだったんだがな」
「………なに、が……?」
呟く美女に、淡々と告げる。
「よく聞け。海の世界に入って、お前はもう人間ではなくなった」
「え……?」
「…蛇身になった。美しい蛇になったんだ」
言葉もなく目を見開く美女。
「お前の身につけているその首飾りも指輪も、色とりどりの鱗と映るだけだ」
「……嘘」
かたん。
椅子からずり落ちるようにして床にくずおれた美女が、自らの手を伸ばして見、それから体のあちこちを触る。
「嘘、嘘よ。蛇になんて…蛇になんてなってない」
「もちろん、蛇にはなっていない。お前は美しい女だ」
公子はうろたえる美女に冷静に声をかけた。
「人間にはそう見えると言ったんだ。もしお前が今故郷に姿を現せば、お前の友も、父も、陸の人間の誰であろうが、人間にはお前が大蛇に見える。言葉を紡げばそれは炎に見え、吐いた息は煙に見える。流した涙は草木を枯らす毒に見える。或いは肉親には、お前のその銀の髪が幾筋か、垣間見えることもあるだろう。それが…唯一の名残だろうな」
「嘘、嘘よ!信じない!」
美女は激しくかぶりを振った。
「お父様のために海に身を沈めたのに、蛇に…蛇になっただなんて!信じないわ!そんなことを言うあなたこそ毒蛇よ!」
取り乱す美女を冷めた瞳で見下ろす公子。
美女はきっ、と公子を睨んだ。
「帰して。あたしを浦へ帰して。お父様に、友達に、人の目にあたしが蛇に映るかどうか確かめるわ」
「どこへでも行けると言ったろう」
公子は嘆息して言った。
「行けよ。そして確かめてこい。俺の言ったことが本当かどうか」
美女はもう一度公子を睨みやると、ふ、ときびすを返した。
「浦は……どこ?」
「あっちだよ、ほら」
女房が指差した先に、ぽう、と先ほどの蓮華灯篭が浮かび上がる。
「ああ…見えるわ。船の沈んだ浦が……」
夢見るようにそう言って、とつ、と足を踏み出す。
と、美女の姿は泡が水に溶けるように掻き消えた。
同時に燈篭の火も消える。
公子はため息をついて、女房に向き直った。
「鏡を持ってこい。様子を見よう」
「まぁったく……困ったコだね」
女房は苦笑して、姿見の蔽いを取る。
「…ま、可哀想だとは思うけどね」
視線を逸らしての呟きに、公子は憮然として姿見に目をやった。

「故郷はどうだった」
御殿に戻ってきた美女は、翡翠の床にぺたんと座り込んだまま、人形のように生気のない顔に静かに涙を流していた。
椅子に座ったまま、冷たく声をかける公子。
「俺の言ったとおりだったろう。浦にいたお前の友はお前の姿を見て悲鳴を上げ逃げ惑った。父親の妾はお前の姿を見て気を失い、お前の父親は下男とともに鉄砲を持ち出してお前を狙ったじゃないか。
人間達の目には、お前が……もちろん俺のことも、蛇と映るんだ。人間の目とはそういうものだ。そんなところに何の用がある。よく分かっただろう?」
美女は答えない。ただ静かに涙を流している。
公子は眉を顰めて、椅子から立ち上がった。
「……おい、泣くな。泣いていても仕方がないだろう」
傍らの女房が嘆息する。
「ね、気持ちは判るけどさ。若様、メソメソしたヤツってキライなんだよ。気も短いしさ。もっとほら、楽しい顔しよーよ?歌って踊って、ヤなことなんか忘れちゃお?」
「…そりゃあ、あなたたちは楽しいでしょう」
美女は呟いて、自棄になったような表情を女房に向けた。
「あなたたちは楽しいんだから、歌って踊るといいわ。あたしはそんな気分にはなれない……このまま涙を枯らして死んでしまいたい」
「死ぬまで泣かれてたまるか」
イライラした様子で、公子。
「あんな故郷に何の未練がある。機嫌を直せ。俺の前で嘆き悲しむのは許さない」
「許さなければどうすると?」
きっ、と美女は公子を睨んだ。
「どうぞ、あなたの望むようにするといいわ。あなたの魔法があたしを蛇にしたんでしょう。この上何をされても構うものですか」
「俺の魔法、だと」
公子は青い瞳に怒りの表情を顕した。
「お前を蛇だと思うのは、人間の目だというのが信じられないのか。それを、俺の魔法だと?」
ぎり、と歯噛みする音がして。
「……許さない。そんなに死にたいなら、今ここで殺してやる」
美女は公子の怒りを真正面から見据えた。
「ええ、殺しなさい。蛇に変えられて、どうせ生きられる身体じゃない」
「……っ、黒潮騎士団!」
公子は立ち上がって衣を翻すと、朗々と叫んだ。
ややあって、黒い鎧に身を包んだ騎士たちがどこからともなく姿を現す。
「御前に」
「この女を処置しろ」
「はっ」
冷たく言い放った公子の言葉に軽く一礼をすると、騎士たちはあっという間に美女を取り囲み、槍の切っ先を向けた。
「ちょっと、若様」
女房が眉を顰めて言い、そちらに目をやる公子。
「何だ、止めるのか?」
「……床が、血で汚れるじゃん」
嫌悪の表情で女房が言うが、ふ、と一笑して。
「美しい女だ。花を毟るのと大して変わらないだろ。花びらと蕊がばらばらになっただけの話だ」
女房は一瞬表情を険しくして…それから目を逸らして俯いた。
「……やれ」
静かに公子が言い、ちゃ、と槍の切っ先が鳴る。
と。

「あなた」

毅然とした表情で、美女が言った。
「……女一人、その手で殺すことも出来ないの?……卑怯者」
険しい顔で振り返る公子。
美女はその瞳をまっすぐに見つめ返した。
「あなたが目に留めて、摘んできた花でしょう。人に任せて見ていないで、自分の手で握りつぶしたらどうなの?」
しばし見つめ合う公子と美女。
やがて、公子が低く言った。
「退け」
騎士たちは言葉に応えて小さく礼をすると、またどこへともなく姿を消す。
いつのまにか、女房もその姿を消していた。
公子はゆっくりと剣を抜いて、よどみない動きで美女の喉元へとそれを突きつける。
ぴたりと刃を喉にあてられたまま、身じろぎひとつせず公子を見つめ返す美女。
刀を美女に突きつけたまま、それ以上押しも引きもせず美女を見つめる公子。
永遠とも思えるような沈黙が落ちた。
やがて、美女の紫水晶の瞳から、つ、と涙が一筋零れ落ちる。
「……やっぱり、死ぬのは怖いのか」
公子が低く問う。
美女はゆっくり目を閉じて、否定の意を顕した。
「………なぜ」
目を閉じたままの美女の言葉に、僅かに眉を顰める公子。
「……あなたは、お父様を宝で誘惑し、抗えない力をもってあたしを無理矢理海の中に引きずり込んだ。あたしの身体を蛇に変え、人の世界に戻れないようにして…あたしをここに縛りつけて。そしてあたしが泣いているからと、斬り捨てようとする」
美女の言葉に一瞬眉を険しくするも、公子はゆっくりと応えた。
「………ああ、その通りだ」
「そうだった。そうでなくてはいけなかった。お父様を陥れ、宝に目を眩ませた毒蛇でなくては。あたしは、毒蛇の犠牲になった可哀想な娘でなくてはいけなかった。そう思わなくては、お父様があたしを捨てたという事実を見つめなくてはいけなかったから」
美女の真意がわからず、再び眉を顰める公子。
美女は続けた。
「一生懸命、そう思おうとした。何もかもをあなたのせいにしたかった。そして、あなたに殺されれば…あたしは、あなたを憎むことが出来ると、そう思った。
……けど」
す、と手を上げて、突きつけられた刃先を掴む。
それを喉の肉に僅かに食い込ませ、美女は目を開けた。
「……なぜ、駄目なの。なぜ、あなたに斬られることを、あなたに殺されることを、嬉しいと思ってしまうの」
公子の目が静かに見開かれる。
美女は堰を切ったように言葉を紡いだ。
「あなたの瞳も、あなたの言葉も、居住まいも、立ち居振る舞いの全てが、毒蛇などでなく…どこまでも純粋でまっすぐな想いだと訴える。
認めたくなかった。認めるわけにはいかなかった。
でも、駄目だった」
く、と刃先を握った手のひらから、血が一筋あふれ出る。
「あなたが好き。故郷のことも、親のことも友のことも、何もかも忘れていいと思えるくらい、あなたが好き。
海で波に飲まれたとき、死んだと思った命。あなたに散らされるなら本望だわ。
さあ、殺して、早く」
手から流れ落ちる血に構う様子もなく、美女は言った。
公子は目を見開いたままその様子をしばし見つめ……そして、ゆっくりと剣を退く。
刃を握り締めていた美女の手を取って、跪き、流れる血にいとおしげに口付ける。
美女は夢見るような眼差しで、それから公子が自らの手の平を剣に滑らせるのを見ていた。
自分の手と同様に赤黒い血が伝って流れ、美女は吸い寄せられるようにそれに口付ける。
「………」
自然と上を向いた唇が、公子のそれと重なるのに、さしたる時間はかからなかった。
二人の唇に含まれた互いの血が、交じり合い、喉を通っていく。
指と指が絡まりあい、互いに身を寄せ合い、腕を背中に回して抱きしめあう。
その口の中から鉄の味が消えても、二人は長い間唇を離そうとはしなかった。

「………あ…」
ひらり、と舞い降りた何かを、女房は指先で受け止めた。
「…花びら…?」
「竜胆と…撫子の花ですね」
傍らにいた博士が、花びらの花の名を口にする。
「きれーだね……星みたい」
「若様と奥様のお心が通い、咲いた花でしょう」
「へぇ」
女房はしばし指先でその花びらを弄ぶと、ふ、とそれを離す。
「あの2人のとこにも?」
「ええ、もちろん。この広い海の全てが、あのお二方を祝福しているのですから」
「……ふふ」
女房は降りしきる花びらを嬉しそうに見上げ、博士に身を寄せた。

「…綺麗……それに、いい香り…」
降る花びらに手をかざして、美女はうっとりとそう言った。
「どこからか…楽の音もするわ。ここは……極楽なの?」
「そんなものと一緒にするな」
公子は僅かに微笑んで、美女の肩を引き寄せる。
彼の方を向いた美女の顎に、指を滑らせるようにして。
「女の行く極楽に男はいない。
…男の行く極楽に女はいない」
美女はふわりと微笑んだ。
「…ずっと、この幸せが続くといい……」
「続くさ」
公子も柔らかく微笑み返す。
「続かせてみせる…言ったろう。世界のすべてからお前を守ると」
美女は嬉しそうに笑みを深くし、目を閉じて公子の胸に額を預ける。
公子はいとおしげにそれを見やって、指先で銀の髪を梳いた。

花びらが星のようにきらめいて、海の世界を光で満たす。
海に暮らす生き物のすべてが、祝福の歌を歌い、楽を奏でる。

すれ違いを経て……2人の時間が、今、ようやく始まった。

“The Villa of Neptune” 2007.4.25.KIRIKA

泉鏡花原作「海神別荘」のパロディです。
この作品を一番最初に知ったのは、サクラ大戦の歌謡ショウだったわけですが(笑)とにかく言い回しがとても美しく幻想的で、田中公平さんの曲もすばらしくて(笑)DVDでしか見なかったのですが、感動した覚えがあります。その時から、原作を見てみたいな、という思いはあったんですよね。

というのも、日記で少し語りましたが、この美女がとにかく意味不明で(笑)宝の代わりに半ば父親に売られて無理やりつれてこられた割に、首飾りだの指輪だので簡単に機嫌を直し、こんなすごいの見せなきゃ勿体なーいと言い出して公子に叱られ、それでも故郷を一目見たいとダダをこね、蛇になっちゃったんだよーと言われて公子を恨み、殺されそうになって「お前の手で殺せよ」と煽り、いざ剣を突きつけられて「あなたが私を殺すのね、嬉しい、愛してる」といきなり言い出す(笑)とにかく唐突で、そして意味不明(笑)なぜ公子に惚れたのかもさっぱり判らない、という印象があったんです。

で、機会があってお友だちと久しぶりにそのDVDを見て、何故か熱が再発し(笑)公子と美女をエリリーでパロってみたいなあと思い立って、アマゾンで原作を買い(笑)トライしてみたわけです。
で、原作を読んでみて。まず台本であったことに驚き(笑)そして問題のシーンが舞台の通りであったことにさらに驚き(笑)やっぱり美女の心の動きはわからないなあ、と思いながら読んでいました。
ですので、思い切って、リーが美女なら、この場面でどう思うだろう、同じセリフを言わせたとして、どういう思いでこのセリフを言っているのだろう、という見方をしてみました。

で、結論として「悔しい……!でも好き…!」という感じになりました(笑)美女にしてみたら、おとっつぁんに宝をちらつかせて自分を捨てさせた相手っていうのは、憎しみの対象にしかならないと思うんですよ、実際のところ。逆に、公子を憎めてさえいれば、「自分を捨てた父親」に対する憎しみを公子に転嫁できると。だから、「宝や指輪をくれてありがとう」のシーンも、「そんな力を持ったあなたには所詮逆らえないのよね」という風にし、美女自身は宝石にも宝にも興味はない、という解釈をしてみました。「貴方の御威徳はよく分かりましたのでございます」というのも、「心酔」と取るか「畏怖」と取るかで、解釈はだいぶ違ってくるのかなと。…まあ、ト書きに指輪を嬉しそうに見る、とはあったんですけどね(笑)
あと、どうしてもリーには「栄華を見せびらかしたい」という見栄の感情を持たせたくなかったので、それをどうするかに悩みました。結局公子が邪推をしたみたいな形になってしまいましたが、あれが精一杯です…(笑)
で、いろいろ言ってみて、蛇になったのも公子のせいにしてみて、自分を殺すように差し向けてみたけど、憎めなかった、自分の気持ちに嘘はつけなかった、本当は一目見たときからぞっこん(死語)だったんだよー、という感じにしてみました。自分的には、満足(笑)

出来るだけ原作の言い回しはそのままに、解釈だけを変えて、というのを意識してみたんですが、とにかく言い回しが難しくて(笑)こういう意味でいいのかしら、という言葉もあります(笑)是非原作を読んでみて、そしてあなたの美女を見つけてください(笑)

…博士と女房は勝手にくっつけただけです(笑)

いやー……(自己)満足(笑)