「あれ。室長、何してるんですか」

研究室に入ったミューは、窓辺にたたずんでいるイプシロンに少なからずぎょっとしてそう問うた。
「ああ、気にしないでくれたまえ。翼の手入れをしているだけだから」
ミューにちらりと一瞥をくれて、イプシロンは再び窓いっぱいに広がる黒い翼に目を戻し、手袋をはめた指先でその隙間を丹念に梳き始める。
初めこそぎょっとしたものの、早々に気を取り直したミューは嘆息してそちらに歩いていった。
「…忘れてましたけど、室長ってフィーザだったんですよね」
「おやおや、多くの罪深き信者たちを魅惑の檻に閉じ込めた私の黒い翼を忘れていたとは、なんと愚かな」
いつものナルシスティックな言い回しをはいはいと聞き流し、ミューはせっかくなのでその広がった黒い翼をしげしげと見やった。
と、眉を寄せる。
「……あの」
「何かね?」

「………プリンになってますけど」

そう。
黒々と艶を帯びたその翼は、根元のほうから真っ白い産毛が生えてきていたのだ。
プリンというのは金髪に染めた黒髪の人間の髪が伸びてきた状態のことを言うのだが、これもまあ間違いではあるまい。
と、イプシロンはこともなげに言った。
「そうだね、そろそろ生え変わりの時期だから、こまめに染めていかねばならないな」
「そっ、染めてるんですか?!」
仰天して問うミュー。
イプシロンは何を今更、といった風にきょとんと彼女を見返した。
「それが何か?」
「何かって、なんでわざわざ!」
「決まっているだろう」
ふっ、と。イプシロンはいつものように陶酔した表情で長いウェビーヘアをかきあげた。
「マヒンダに舞い降りた、黒衣の堕天使…その私の翼には、黒という背徳の色こそが相応しい。そうではないかね?」
「なっ……」
ミューは絶句しかけて、慌てて頭を振った。
「そのために、わざわざ染めたっていうんですか?!
黒い翼って言えば、フィーザの間では不幸を運ぶと言われてて集落によっては黒い翼の子は忌み子として殺される習慣があるっていうコテコテの中2病設定があるのに!そんな黒い翼に、わざわざ染めるなんて!」
身も蓋も無く言い切ったミューに、イプシロンは再びふっと笑った。
「だからこそ、だよ」
「え……」
「私を慕う多くの罪深き信者たちは…そのような背徳に身を焦がすことを望んでいる。
このマヒンダという、魔道によって成り立ち、そして栄えた都市にあって、満ち足りた生活を送りながら…それでもなおどこかに物足りなさを感じている少女たち。
そう、彼女たちは平凡な生に刺激を求めているのだ」
びし、とつきつける指も、どこか観客を意識したようなポーズで。
「だからといって、自ら冒険者になり命を賭するほど、勇気も力もない…しかし、平凡な生とは一線を隔した『何か』を彼女たちは求めている。そうして行き着いたのが…『背徳の美』なのだよ」
「はあ……」
だんだんわけが判らなくなりつつあるイプシロンの演説に、生返事を返すミュー。
「彼女たちは私たちに、否私に、彼女たちの心を背徳の世界に縛り付けるほどの強烈な負の魅力を求めているのだよ。
だからこそ!私はこの美しい私自身をもって!彼女たちの理想の世界を体現するのだ!」
もはや眼前のミューも見えていない様子で、語りに熱が入っていくイプシロン。
「私の翼には黒こそが相応しい。否!私の翼は黒くなくてはならない!彼女たちの夢を体現するために、私の髪の毛一筋、爪のひとかけまでも、一切の妥協をしてはならないのだよ!わかるかね、ミュー!」
(あ、あたしに語ってたこと覚えてたんだ)
どこかさめた気持ちでそう思って、ミューは嘆息した。
「まあ、言ってることはわかりますよ。あのオタク共に媚び売るのは癪だけど、やるからには素を見せないようにはしてます、あたしも」

そう、ミューもイプシロンも形は違えど「アイドル」なのだ。
ファンの夢を壊さないために、ファンの理想をその身をもって体現する。

たとえそれが、染められたにせものの色であっても。
たとえそれが、この世に決して存在しない作られた人格であっても。

にせものの夢を、彼らは作り続ける。
ファンの夢の中で、にせものを本物にするために。

「まー…でも、それ、後付けですよね」
ミューはなおも冷めた口調で、イプシロンに言った。
「だって、ファンに望まれて黒くしたんじゃなくて、翼を黒くした室長にファンがついたんでしょ?
黒くしたの、完全に室長の趣味ですよね」
「…………」
イプシロンはたっぷりと沈黙してから、ふっと笑った。
「…まあ、そうとも言うね」
ミューは再び嘆息し、持っていた書類をばさりと机の上に置いた。
「これ。こないだの実験のレポートです。目を通してはんこ押しといてくださいね。
それと。その羽根クズ、ちゃんと掃除しといてくださいよ。鬱陶しい」

冷たい口調で言うと、ミューは研究室を後にしたのだった。

投稿掲示板作品です。
お題は「翼」だったかな。「翼」と聞いて真っ先に浮かんだのがこの人で(笑)
今見ると「コテコテの中2病設定」とか言いたいこと言ってますね(笑)ミューは室長に対してはいつもこんな感じでクールです(笑)イプは自分のこと以外だと割とまともなことを言いますが、自分の事に関しては10本くらいネジの飛んだ人になります(笑)