「…このくらいにしておくか」
報告書をまとめ終え、セイカは筆をおいて首を回した。
机の上での作業をずっと続けていたためか、肩より上の血流が滞っているようだ。軽く動かすと、じわりと凝りがほぐれていくのを感じた。
時間を見れば、もうマティーノの刻に入っている。
セイカは机の上の書類を整理して、立ち上がった。
家で作業をしていたら、届け物を持って現れたアスが手伝いを買って出てくれ、居間の方で作業をしてもらっていたのだ。
さすがにここまで手伝わせるわけにはと思い、様子を見に行く。
「アス、遅くまで済まなかった、もう……」
と、声をかけたところで。
居間の中央のちゃぶ台で作業をしていたアスが、その上に突っ伏して眠っていることに気づく。
(…遅かったか)
作業に熱中していたとはいえ、寝入るまで放っておいた責任は重い。
セイカはアスに歩み寄ると、その傍らに膝をついて肩を揺すった。
「アス、こんなところで寝ると風邪を……」
ぐらり。
揺すられてバランスを崩したアスの身体が、横へ倒れ掛かる。
「っ……」
慌てて身体を支えたのでかろうじて頭を打ったりはしなかったが、華奢に見えてやはり男性の身体なのだ、魔道専門のセイカの細腕では支えきれず、ゆっくりではあるがあえなく倒れこんでしまった。

セイカの膝の上に。

「とっ……!」
膝の上にアスの頭の重みを感じ、セイカはさすがに目を開いてそれを見下ろした。
そのまま頭が落ちてしまいそうだったので、中腰だったがぺたんと腰を下ろす。
「……っ」
セイカは普段めったに晒されることのない緋色の瞳をめいっぱい見開いて、膝の上を凝視した。
アスはこれだけ体勢を崩してもまったく目覚める様子が無い。かなり熟睡している様子だ。
先ほどのはずみで眼鏡が外れかかっていたので、そっとそれを取る。
眼鏡をちゃぶ台の上に置いても、やはり目覚める様子は無い。
(…疲れていたのか…手伝わせてしまって申し訳なかったな…)
セイカはわずかに眉を寄せて、少し乱れた彼の髪にそっと指を通す。
さらさらとした黒髪は、手袋越しでも心地よい感触がした。
「………」
何故か起こすのはためらわれて、セイカはそのまま膝の上のアスを見下ろす。
そばかすの散った容貌は普段も幼い印象を与えるが、こうして目を伏せて無防備に寝入っている表情はさらに幼く見せていた。
不必要に大人びているが、彼は彼女よりも2つも年下だということを唐突に思い出す。
幼い頃から教会で育ってきて、こんな風に誰かの膝に甘えて眠ったことなど、彼にあったのだろうか。
す。
起こさないように気をつけながら、セイカはぎこちなくアスの髪を撫でた。
手袋越しに、彼の体温が伝わってくる。
セイカは胸が温かくなるような、しかしくすぐったいような複雑な気持ちで、ゆっくりと撫で続けた。
すうすうと心地よさそうな寝息が聞こえてくる。
見ていると気持ちが安らぐようでもあり、しかしどこか胸がざわざわするようでもあり、まったく落ち着かない。
セイカは心眼を使うこともできずに、目を開いたままアスの顔を見下ろしていた。

それから、四半刻ほどそうしていただろうか。
「う……ん……」
アスが僅かに身をよじり、薄目を開ける。
「あ…れ……」
眼鏡を探しているのか、ぱたぱたと手で床を探って。
「目が覚めたか」
「えっ」
セイカが声をかけると、半覚醒だった意識が一気に目覚めたらしかった。がばっと上半身を起こし、きょろきょろと辺りを見回す。
「せ、セイカさん?」
しかし、眼鏡がないせいでまったく見えないらしく、慌てた様子で手をさ迷わせていて。
普段なかなか見られない彼の慌てた様子に思わず和んでしまう。
「アス、眼鏡ならここに…」
ちゃぶ台の上の眼鏡を取ろうとしたセイカと。
「えっ、どこですか?」
声のしたほうを振り向いたアスが。
ぶつからんばかりに顔を近づけたところで、硬直する。
「っ……」
「す、すいません!」
さすがにこの距離ならセイカの顔が判別できたらしく、慌てて離れるアス。
セイカも朱に染まった目尻をごまかすように顔をそらして、眼鏡を手に取り、渡す。
「……眼鏡を」
「はっ、はい、あの、ありがとうございます」
本当に、普段なかなか見られないほどに動揺しながら、アスはそそくさと眼鏡をかけた。
もっとも、めったに見られないその様子をじっくりと観察するほどの余裕は、セイカにもなかったのだが。
セイカは視線はアスから外したまま、極力冷静を装ってアスに言った。
「…疲れていたのか。すまなかったな」
「い、いえ、そんなことは」
「しかし、よく寝ていたぞ。起こすのも躊躇うほどに」
「す、すみません……」
アスは僅かに頬を染めながら、妙にそわそわした様子で言った。
「あ、あの……僕、一体どこで寝て……」
「あ、ああ、最初はその上で寝ていたのだが、揺り起こそうとしたらそのまま倒れてしまったので……」
その先の言葉を続けられず、自分の膝に視線をやるセイカ。
その視線で言葉の続きを悟ったアスは、ますます顔を真っ赤にした。
「す、すいませんっ!」
「いや、謝らずともよい、私もすぐに起こせばよかった」
…のだが、寝顔に見惚れて起こせなかった、とは言えない。
アスは恥ずかしそうに首を縮めて俯いた。
「本当にすみません…あの、重くなかったですか」
「…そんなことはないが」
「僕、どのくらい寝てたんでしょう?」
「…四半刻くらいだったか」
「そ、そんなにですか!すみません…あの、足痺れてないですか」
「それは問題ない。気にするな」
「うう……」
会話を重ねていくうちに、アスがあまりにも恥ずかしそうに恐縮しているので、セイカは逆に落ち着いてくるのを感じていた。
頬を染め、何をどう言っていいかわからぬ様子でひたすら動揺しているのが、いつもの冷静で理知的な彼の様子と違って、なんだか可愛らしい。
ふ、とセイカの口元が僅かに緩んだ。
「ずいぶん幸せそうに眠っていたな。いい夢でも見ていたのか?」
「えっ」
「…いや、幸せそうな顔をして眠っていたから、起こすに忍びなかったのだ」
「あ、はい……」
アスはまだ僅かに頬を染めたまま、それでも幸せそうににこりと微笑んだ。
「もう覚えてませんけど…すごく心地よかったような気がします」
「…そうか」
その笑顔があまりに嬉しそうで、またどきりとする。
アスはニコニコしたまま、言葉を続けた。
「…きっと、枕が良かったんですね」
「…っ」
「なんだか申し訳なかったですけど、でも、ありがとうございました」
「……気持ちよく眠れたのなら、それで、いい」
何だか喉の奥に何かが詰まったようで言葉が途切れたが、セイカは視線を逸らしてそれだけ言うと、立ち上がる。
「…もう遅い。今日は……その、ここで休んでいったらどうだ」
少し言いよどんだが努めて冷静にそう言うと、アスは慌てた様子で立ち上がった。
「そんな、これ以上ご迷惑はおかけできません」
「しかし、手伝いを頼んだのは私だ」
「でも、途中で寝てしまったのは僕ですから。明日の朝のおつとめもありますし、やはり失礼します」
「……そうか」
セイカは少し残念そうに、しかしどこかほっとした様子で息を吐くと、アスを見送りに玄関に向かうのだった。

アスを見送ってきて、息をつく。
先ほどまで彼のいた居間は、もういつもの寒々しい部屋に戻っていた。
「………」
ちゃぶ台の側に正座をすると、先ほどのぬくもりがじわりとよみがえる。
僅かな身じろぎと、さらさらとした黒髪が膝の上をくすぐる感触。
無防備に目を伏せた、幼い表情。規則的に聞こえる安らかな寝息。
目を閉じなくても、その感触がまざまざと蘇ってきて。
「……続けるか」
今夜はとても眠れそうにない。
そう判断すると、セイカはまだ山のように残っている書類に向かうことを決めた。

“Sleepless night”2011.7.14.Nagi Kirikawa

膝枕祭作品・その3くらい。 アスセイは事故っぽいのがいいかなと思いました(笑)能動的ないちゃいちゃはこの2人には似合わぬ。
セイカは心眼を開いているので感覚が少し鋭敏です。その鋭敏な感覚がいつまでも残っているといいなとかそんなことを考えながら書きました(笑)
20のお題に似たようなタイトルがあることは見逃して下さい(笑)あっちもアスセイだな…(笑)