「う………ん……」

ぬるま湯のようなまどろみの中から、ゆっくりと引き戻される感覚がして、ウルは薄目を開けた。
ここはどこだったろうか、とぼんやり考える。
確か今日決裁の書類に目を通していて、さすがに目が疲れて少しソファで休もうと横になって……
まだ覚醒しきらない頭でごろりと体勢を変え、天井の方を向くと。
「おはようさん」
上から声をかけられて、硬直する。
何故か目の前には、ニコニコ笑ってこちらを見るレアの顔があった。
「……んな」
ようやく自分の置かれている状況を理解し、ウルは横たわったままきょろきょろと辺りを見回す。
場所は、変わらぬソファの上。
ただ一点、自分の頭の下にいつの間にかレアの膝があったということを除いて。
「なっ……何してんだよオマエ!」
慌てて身体を起こすと、レアはケラケラ笑って手を振った。
「いやー、あんま可愛い顔して寝とったさかい、枕になったげよかー思て」

屈託のないその微笑みはこのヴィーダに来たときのままだったが、それ以外の彼女の様相はあの頃からがらりと変わってしまっていた。
ウルの心に苦い思い出として残る女性を連想させる長い髪をばっさりと切って、こちらに移り住んで商会の仕事をするのだからと、シェリダン風の服ではなくフェアルーフの洋服を身につけている。シェリダンのような厳しい日差しではないせいかはわからないが、褐色だった肌ももうほとんど白い肌に戻っている。美白がどうこうとか言っていたが、まったくもって女は恐ろしい、とウルは改めてこっそり思った。
仕事の時にはもうほとんど訛りの取れた標準語を使っているが、こうしてプライベートの時にシェリダン訛りで話すのが、ここに来た頃の彼女を思わせる最後の名残になっている。

彼女はぽんぽんと自分の腿を叩くと、からかうような笑顔で続けた。
「ほれほれ、まだ疲れとんのやろ?おねーさんの膝で寝たったらええやん」
「おねーさんって何だよ、オマエ年下だろ」
「精神年齢はアンタより上ですー」
「悪かったな!」
ひとしきりからかった後、ふ、とレアは笑みを優しいものに変えて。
「お疲れはん。残った書類、片付けといたで。ようがんばったな」
「………」
優しい言葉をかけられ、ウルは憮然として視線を逸らした。

この女性は、ウルの兄代わりとも言えるクロという青年の実の妹に当たる。
クロは、盛大にはしょって言えば、ウルが理事を務めるこの商会を手に入れようと画策し、妹をウルと結ばせるために自らの命を絶った。
レアは兄の企みを知らずにここに呼び寄せられ、そして兄の企みを知ってなお、ウルと共に商会を建て直す道を選んだ。クロの思惑通りではないものの、結果としてそれに近い状態になっている。
それが、ウルとしては少し複雑なのだった。
兄のように信頼していた青年がこんな企みを胸に抱えていたということはもちろんショックだったが、それでも一転して憎しみに変われないほどにウルの中でクロの存在は大きかった。クロの妹なら、という思いと、彼の企みを成就させるようで腹立たしい、という思いが交互に渦巻いて、どうしてもレアに向ける感情は複雑なものになってしまう。
嫌いではないが、恋愛感情になるには今一歩踏み切れない、だからといってそういう対象にはなりえないかと言われるとそれも違う、という煮え切らない思いに我ながらイライラする日々が続いていた。

「オマエさ」
憮然としたまま、ウルはレアに言った。
「正直、どう思ってるんだよ」
「なにが?」
きょとんとするレア。
「だから……この状況」
「この状況て?」
「だから!……オマエだって、結局クロの思い通りに動いちまってるんだろ?その……抵抗とかねーのかよ?」
「なんや、そないなこと気にしとったん?」
「そないなこと、って……」
言葉を濁すウルに、レアは呆れたようにため息をついた。
「ウチはな、ウチがそうしたいて思たからやったんよ。それがたまたま兄ちゃんの考えたとおりやったっちゅうこっちゃろ。
兄ちゃんの考えたことやったから、やりたかってんけどやめた、いうたら、それこそ兄ちゃんに振り回されとることにならんの?」
「……よくわかんねーよ」
「あー…どない言うたらええのやろ……せや、アンタ、プリン好きやろ?」
「なんだよいきなり。好きだけど?」
「プリンがテーブルの上置いてあった。食うか?」
「たりめーだろ」
「それが兄ちゃんの用意したもんやったらどうや?」
「う………」
ウルは視線を逸らして、かなり真剣に悩んだ。
その様子を苦笑して見やるレア。
「そない真剣に悩みなや。大事なんは兄ちゃんが用意したかどうかより、アンタがプリン好きかどうかやろ?好きやったら食えばええねん。
兄ちゃんが絡んどったから、好きなプリンも食わん、そんなんもったいないやろ?それこそ兄ちゃんに振り回されとるいうことちゃう?」
「んー………」
再び難しい表情で唸るウル。
レアは嘆息して続けた。
「ま、そういうこっちゃ。ウチは好きでやっとんねん。アンタも細かいこと気にせんで、やりたかったらやり、やめたかったらやめたらええ」
「……別に辞めたいわけじゃねえし」
「ほな、ええやん。何こだわっとんの?」
「……だから」
ウルは難しい表情のまま、視線を逸らせて言葉を詰まらせた。
「ん?」
首を傾げるレア。
ウルはしばらく視線を逸らしたまま何かを考えていたが、不意にレアに視線を戻すと、ぶっきらぼうに言った。
「……プリン」
「はい?」
「食ってもいいんだな?」
「今ここにはないで?」
「ちげーし」
怒ったようにぴしゃりと言って。
それから、ごろりと再びソファに横になる。
無論、頭はレアの膝の上に。
レアは驚いた様子で彼を見下ろした。
「ウル?」
「食っていいんだろ?」
「は?」
「……クロが用意したモンでも」
ゆっくりと言いながら、青い瞳でレアをまっすぐ見上げる。
「…好きだったら、食えばいいんだろ?」
「………」
ウルの言葉の含みを、レアはようやく理解して目を見開いた。
しばし、沈黙が流れる。
やがて、レアはふっと苦笑すると、ウルの額を撫でるように手のひらを滑らせた。
「なんや、ウチ、プリンと同列かいな」
「オマエが言ったんだろ」
「ええんちゃう?好きやったら食えばええねん。嫌いやったらやめとけばええ」
「じゃ、そうする」
むすっとしたようにそう言って、目を閉じるウル。
レアは微笑みながら、ウルの額をゆっくりと撫でた。

「……オマエは?」
「んー?」
「オマエは、クロの用意したモンでも、食うのか?」
「…ははっ」
「んだよ、何がおかしいんだよ」
「せやから、さっきから言うとるやろ」

さらり。
ウルの、ゆるく癖のかかった金髪が、端正な容貌の上を滑って落ちていく。

「…好きやから、食うとるんよ」
「…………そっか」

それきり、深夜の執務室に沈黙が落ちた。

“Because I love it” 2011.8.2.Nagi Kirikawa

膝枕祭その10。ちょっと書いてみたくてウルレア。思ったより難しかった(笑)打算の上に成り立ってる関係、でもそれだけじゃない何かもあって…みたいな、ちょっと大人な関係を書いてみたかったんですが…挫折。でもまたいつか書いてみたいです。
一応ウル視点三人称なので、「レアは兄の企みを知らずにここに呼び寄せられ」というのはあくまでウルの認識です。