「おはよう、リー」
いつものように起き上がって部屋を出ると、リビングで待っていたのはいつもの笑顔だった。
「おはよう、ミシェル」
リーはその声の主に笑顔で挨拶を返すと、中央のテーブルに歩いていき、湯気が立ち上る朝食の前に腰掛ける。
「美味しそう。いただきます」
出来たてのスクランブルエッグとトーストを嬉しそうに見て、フォークを取る。ひと掬いして口に入れれば、ミルクと半熟卵の味わいがふわりと口の中に広がった。
「うん、美味しい。ミシェルは本当に料理が上手ね」
リーは嬉しそうに頷いて、それを作った主のほうを見、名前を呼ぶ。
母の名前を。
「うふふー、ありがとうー、リー」
母と同じ顔で、母と同じ微笑を浮かべ、母と同じ口調で話す彼女。
けれど、決して母と同じではない、彼女。
母はこんなにも上手に朝食を作れたりはしない。彼女の不器用さは、母の遺伝なのだ。
「…ママは、まだ?」
表情を少しだけ寂しさに歪めて、リーは『ミシェル』に訊いた。
『ミシェル』は母と同じように、困ったように眉を寄せて、右手を顎に当てる。
「うんー、まだお返事はないわー。残念だけどー」
「そう…」
リーは俯いて、トーストをかじった。

彼女の父親が亡くなったのは、もう40年以上も前になる。
老衰だった。享年95歳。文句なしの大往生だった。
が、彼女の中に父親の記憶は、ほとんどない。
当然だった。彼女は、父親とは違う長命な……天使という母の種族の血を受け継いでいたために、70年経ってもまだ自我が確立していなかったのだ。父の顔も、魔道念写でしか見ることが出来ない。ピンと来ない、というのが正直なところだ。
が、その父が亡くなって以来。
母は、この家にいなくなってしまった。
父が残した、セント・スター島の森の中にひっそりとたたずむこの家。
父と過ごした思い出が、彼女の心を苛むのかもしれない。
母ミシェルは、ゼゾに自らが作った、遺跡を模した建物の中に篭って、年に数度ここに帰ってくるだけとなった。
この、母と全く同じ顔をした彼女は、母が作ったゴーレム。母の思考回路が記録され、リーの身の回りを世話するように命令された、意思を持った人形だ。
父が亡くなり、母が遺跡に篭ってから20余年、リーはこの家でずっと、母が残した『ミシェル』と共に母の帰りを待っているだけの生活を送っていた。時折旅人の子供を装って街に出たりするが、人間と長時間接触をするのはあまり望ましくない。かといって、母が帰ってくるかもしれないのに家を出て旅をする気にもなれなかった。

「ママ…」

父の顔の記憶がほとんどないように、父が亡くなると同時に引きこもってしまった母の本当の顔の記憶も、また彼女にはほとんどない。『ミシェル』と同じ顔をしているのはわかっているが、本当の母親に触れた記憶は薄かった。まだ物心ついていないときは、それこそ絶えず共にいたのだろうが。
寂しさを感じないわけではない。むしろ素直に寂しかった。父がいなくても自分がいるのだから、多くの時間を母と共に過ごしたい。そう思っている。
だが同時に、かけがえのない半身を失ってしまった母の気持ちも、わからないでもなかった。自分が母を必要としているように、否、それ以上の重みで、母は父を必要としているのだ。このような精密なゴーレムを作る頭脳と知性、天界から降下するほどの意志を持ちながら、それでも現実を直視することが耐えられない。それほどに深く、母は父を愛していたのだ。そう思うと、感情に任せて母を憎むことも出来なかった。

「…ごちそうさま。少し、読書するわ。何かあったら、パパの部屋に来て」
「わかったわー」

『ミシェル』に言い置いて、リーは居間を出た。
この、森の中の小さな家は、父がこの島の生態を研究するために建てたものだという。そもそもが一人で生活をすることを目的に建てられたのだから、部屋数は少ない。食事をするための居間と、寝室、それに父が研究に使っていた書斎のような部屋があるだけだ。
リーは寝室の奥にあるこの父の部屋で本を読むのが好きだった。父の研究用の書物が多くあったが、それ以外にも魔道の本や経済の本、意外に推理小説なども多く、研究室というよりは父の書斎のような感じがする。
本棚は、それがそのまま持ち主の性質を表すと思う。彼が何を好み、何を考え、何を是とし、何を選んできたのか。言葉を交わした記憶すら全くない父に、彼の集めた本を読むことで触れられる気がして、リーは本を読むのが好きになった。最近は、自分が街から買ってきた本も置いている。父が残していった本と、自分が選んだ本と。並べて置くことで、父と関われる、対話をしているような気分になる。
父の記憶はほとんどない彼女だからこそ、父を失った哀しみに苛まれることなくこの書斎と向き合うことが出来るのだろう。母にとっては、ここは父の思い出を蘇らせると同時に父を失った悲しみも思い起こさせる場所だ。

「……あれ…?」

いつものように背表紙を追っていて、ふと、ひとつの本に目を留める。
「こんな本あったかしら」
いつも目に留めなかった一角にあったからかもしれない。タイトルのないその本は、父の研究書の中に埋もれるようにしてうずくまっていた。
リーは何の気なしに、それに手を伸ばした。
「…っ……?」
本に触れた瞬間、不思議な違和感を感じて、手を止める。
溢れるほどの魔道の才能と知恵とに恵まれた母とは違い、彼女自身には魔道の才はほとんど無い。
この世ならざる不思議な力を感じ取ることはできないのだが…
魔道ではなく、この本に込められた「想い」が、彼女の手を通じて流れてきたのだろうか。
そんな不思議な気持ちにとらわれながら、リーは本を棚から抜き取り、その表紙をめくった。

「……!…これ……」

彼女は母譲りの紫色の瞳を大きく見開いた。

恐ろしいほどの静けさに包まれた、遺跡の最奥。
彼女が見つけた無人の遺跡を、彼女の住みやすいように改造し、入ってくるもののいないよう様々な魔道の仕掛けを施した。もともと研究用に作った建物ではあったが、外界と完全かつ確実に遮断してくれるこの建物は、今の彼女にとってとてもありがたいものだった。
今となっては、現世界の何もかもが、彼を喪った悲しみを突きつける刃となって彼女を襲っていた。無駄に優れた記憶力が、彼女に彼との記憶を忘れさせてくれない。
このまま誰にも知られず、自分さえも存在していないかのような静けさの中で、ゆっくりと朽ち果ててしまいたかった。だが、羽根をもがれたとはいえ天界に属していたこの身体は、簡単に死ぬことを許さない。彼の残した一人娘のことも気になる。彼女は繰り返される日々の時間を、そんな風にゆらゆらと揺り動かされながら過ごしていた。

(現世界に生きる人間たちは、わたくし達とは全く異なる存在…
その中にたった一人で生きていく孤独に、耐えられますか?)

天を辞する前の、親友の言葉が蘇る。

(孤独というなら、この世界も大して違いません)

よどみなく答えた、自分の言葉も。
確かに。孤独になら、彼女はいくらでも耐えられただろう。
だが。一度溢れるほどの幸福に満たされた彼女の魂は、その半分をちぎり取られたような痛みには耐えることが出来なかった。
目覚めても眠りに落ちても、繰り返し襲ってくる悲しみ。これが、与えられた環境を拒絶し、天使であることを放棄して、現世界に降り立った自分に与えられた罰だというのか。
これから何千年という時間を、こんなに身の切り裂かれるような思いをして過ごしていかなければならないというのか。
彼女は手の平で額を多い、机の上に顔を伏せた。
と。

「………?……」

近づいてくる気配に、顔を上げる。
ずいぶん久しぶりに感じる気配。
あの少女ならば、自分の仕掛けた魔道の罠の位置も対処法も知っている。だが……
がちゃ。
静かな室内に、ひときわ大きくその音は響いた。

「……ママ……」
「……………リー……」

戸を開けた娘の、ずいぶんと成長したその顔を、ミシェルは複雑な表情で見つめ返した。
彼女のその表情に、リーは少しためらったように視線を逸らし…それでも、意を決して部屋に足を踏み入れる。
「……久しぶり」
「大きくなったわね……」
ミシェルは複雑そうに、それでも目を細めてリーの頭を撫でた。
ティフ…最愛の夫とよく似た、素直で優しい表情。それすらも、彼女を苛む刃となる。だから、彼女は娘を置いてひとりでここに閉じこもったのだ。
「ここには……来ないで、って、言ったでしょう…?」
「……ごめんなさい。でも……」
リーは言って、大切そうに抱えていた一冊の本を差し出した。
「…?……これは……?」
タイトルの無い本。濃い緑色の表紙は、年を経て変色した様子が伺える。
リーはミシェルを見上げ、言った。

「……パパの……日記よ」

ミシェルの瞳が大きく見開かれる。
本にかけられた手が一瞬硬直して……そして、カタカタと震えた。
「………っ……」
ミシェルの表情が、何か恐ろしいものでも見るようにひき歪んで。
やがて、何かを振り切るように顔を逸らすと、その本を押し戻すようにして手の平を押し付けた。
「…ごめんなさい……持って…帰って……」
あまりに辛そうな母の様子に、リーの瞳が一瞬悲しみに歪む。
が。

「そうやって見なかったことにして、本当に辛くなくなるの?!」

強い口調で言ったリーの言葉に、ミシェルは再び身体をこわばらせた。
リーは続けた。
「目を閉じて、耳を塞いで、辛くなるもの全てから自分を遠ざけて、それで本当に辛くなくなるの?!
パパの家も、パパの本も、パパの家も……あたしも!
ただそこにあるだけじゃない!ママがそんなに辛いのはどうして?!
ママをそんなに傷つけてるのは、ママ自身でしょう?!」
本を抱きしめる手に、力がこもる。
「パパは、ママにそんな思いをさせるために……ママと結婚したんじゃない……!」
大きな薄紫色の瞳に、涙がこみ上げて。
ミシェルはぎゅっと閉じた目を開いて、自分と同じ色のその瞳を見下ろした。
「………読んで……お願い……」
搾り出すような声で、リーはもう一度訴えた。
沈黙が降りる。
「……………」
ゆっくりと。
震えるミシェルの手が、リーの持つ本にのばされる。
はらり。
ゆっくりとめくられたページには、記憶に今も鮮明に残る、懐かしい夫の字。
男性らしからぬ、丁寧で繊細な文字で、彼の心情がつづられている。

リーが生まれた時のこと。
徐々に成長していくリーのこと。
ミシェルが誕生日にケーキを焼いてくれたこと。
…リーが、自分が老いてもなお、物心もつかない幼子であること。
このまま、自分の記憶を彼女に刻み付けることも無いまま、自分は寿命を向かえるであろうこと。
どうすることも出来ない運命を惜しみつつ、それでも家族に囲まれた生活をこの上ない幸せとして綴っていた。

…そして。

最後のページには、それまでとは違う文体で、メッセージが綴られていた。
日記を綴る言葉でなく、彼自身の……愛しい妻に宛てた言葉で。

ミシェル。
私がこの世から姿を消した後に、
貴女は、どんなに永い時を過ごしていくことでしょう。

私と過ごしたひとときは、
貴女にとってはほんの一瞬のことなのでしょうね。

けれども。
私は、貴女に会えて幸せでした。

一生を、貴女と、そしてリーと共に過ごすことが出来て。
私は、とても満ち足りた気持ちで、生を終えることが出来ます……

TAシナリオ「賢者のわすれもの」に登場するティフの日記と「ママをさがして」に登場するコピーゴーレムを繋ぐ話として、イベント販売のみで発行していたコピー本です。
下の漫画とセットで1話。漫画は鉛筆描き+パソコンで加工しました。時期的には多分「Hide and Seek!」を書いてた頃だと思います、一応この時点で大雑把な設定は作っていました。
喋り方はコピーを真似てー、とかはママさがで付け足した設定なので多少齟齬があるかもしれませんが見逃してください(笑)かなりミシェルを恋しく思ってるような描写になってますが、結局ミシェルを迎えに行くに至った動機は「自分が寂しいから」じゃなくて「ミシェルに立ち直って欲しいから」なんですよね。そういうところ、他人目線というか。「親」ではなくて、「心弱い親友」に対する感情なんだと思います。
ミシェルは落ち着いて達観しているようで意外にメンヘラさんです。引きこもって子供放り出してっていう設定は賢者からこの話書いた位の時点で決めてました。改めて読んでも酷いし暗いですね(笑)
ちなみにこのあと、もとの時間軸でリーとミシェルが「……だったら自分で(日記を)取りに行くべきじゃ?」「だって罠の場所と内容忘れちゃったんだものー」という会話をしているイラストがついておりました(笑)