「……まただわ……」

目の前の黒焦げの物体に向かって、ミシェルは深いため息をついた。
書いてある通りの食材を、書いてある通りの分量で量り取り、書いてある通りに調理したはずだったのだが……これで、通算13個目の失敗作だ。どうしてこうなるのかさっぱり判らない。
「どうして…上手く行かないのかしら…」
愛しい人の妻となるためにここにやってくるまでは…曲がりなりにも彼女は、それなりに名の通った『名家のお嬢様』だった。父の期待通りに勉学に励むのが彼女の仕事であったし、当然家事などしたこともなかった。
だから、妻としてこの家で暮らし始めてからも、料理などはそれまでと同じく、夫であるティフが行っていた。ミシェルも傍で手伝いながらやり方を覚え、どうにか掃除や洗濯などは人並みに出来るようにはなった…のだが、何故か料理だけは、彼女に食材を駄目にする天賦の才があるとしか思えないほどに壊滅的だった。だから、未だに料理だけはティフが作っている状態だ。
「一般的な夫婦って…こういうもの…ではないはずよね……」
眉を寄せて呟くミシェル。
ティフはもうずっと、このセント・スター島の特殊な生態系を調査するために、人のあまり立ち入らぬ森の奥深くにこうして居を構えて生活している。これが一般的でないのは、いくら世間に疎いミシェルでもわかるのだが…彼と一緒に暮らしていて、その暮らしの助けになることが出来ないというのは歯がゆいことだった。
『貴女のその知識と洞察力が、私の研究の助けになっているのですから。それでおあいこですよ、ね』
ミシェルがそれを漏らすと、ティフはいつも柔らかい笑みを浮かべてそう言う。
『他所は他所。私達は私達です。貴女は貴女に出来ることで私を手伝ってくれたら良い。その代わりに、私も私に出来ることだけします。理にかなっているでしょう?』
彼の言う事も理解できる…のだが。
「それでも…これは、気持ちの問題だから」
ぐ、とミシェルの瞳に力がこもる。
「明日…明日までに、何とかできるようにならなくちゃ…」
ミシェルは黒焦げの物体を魔法で処分すると、もう一度材料の分量を量り始めた。

「………はぁ………」
次の日。
オーブンから出したものを前に、ミシェルは再び深い深いため息をつく。
火力と時間がまずかったのだろうと、それを調整してみたのだが……真っ黒にはならなかったものの、型から出したとたんに空気が抜けたようにつぶれてしまった。
「なんでこうなるの……」
今度は上手く行くと思ったのに。
ミシェルは目の前が真っ暗になるような錯覚に襲われた。
今日。
今日上手く行かなければ、今までの何もかもが無駄になってしまうのに。
「……ふぅ……」
ミシェルは肩を落として、気の抜けたような表情をした。
「…なんて思ってるのは、私だけかもしれないけど…」
この日にこんなにこだわっているのは、自分だけかもしれない。
夫は優しいがとてもマイペースな人。今日のことを覚えているかどうかも微妙だ。
だが、自分が満足したいからやるのだし。気持ちの問題だ、と。
その気持ちだけが彼女を今まで支えてきたのだが…ふいに、何もかもどうでもよく思えてくる。
こんなにこだわっているのが自分だけなら、そもそもそのこだわり自体をやめてしまえばいいのでは。
相手も同じように思ってくれるとは限らない。ましてやこんな失敗作では、嫌がられてしまうかもしれない。その時に、自分は悲しまずにいられるだろうか。
「………」
そんなことを考えていると、とてつもなく不安な思いに駆られる。
彼を好きになる前は、こんな思いをしたことなどなかった。ただ言われるままに動いていればそれだけで評価を得られ、望まれる結果を出せば疎まれることはなかった。
けれども、彼を好きになってからは。
言われなくても「したい」と思ったり。
その結果の予測がつかないことに、こんなに一喜一憂したり。
彼に不快な思いをさせるかもしれないと不安になったり。
そんなことばかりだった。
ならば、そんなことなど辞めてしまえば…ふいに、そんな思いに駆られることもある。
だが。
こつ、こつ、こつ。
「………!」
聞こえてきた足音に、ミシェルはびくりと身を震わせる。
思いに夢中になるあまり、夫の返ってくるタイミングを見誤った。
慌てて、しぼんだ失敗作を見えない位置に移動させる。
がちゃり。
「ただいま帰りました」
「…おかえりなさい」
いつものように笑顔で入ってきたティフを、ミシェルも笑顔で迎えた。
「今日は、早かったのね」
ティフが失敗作に気づかぬように微妙に立ち位置を変え、何事もなかったかのように振舞うミシェル。
「ええ、目当てのものがすぐに見つかったので」
ティフはにこりと彼女に微笑みかけ…
こつ、こつ。
そして、彼女にゆっくりと歩み寄る。
「それに」
す。
そして、ミシェルの肩にそっと手を乗せると、彼女の身体を優しく脇に退けた。
「……貴女の作ったケーキを、早く食べたいと思いましてね」
「!……」
ティフの言葉に目を丸くするミシェル。
ティフは笑みを深くすると、彼女が先ほど除けた失敗作にまっすぐに手を伸ばした。
「少し、味見をしていいですか」
ミシェルの返事を待たずに、ティフはしぼんだ失敗作……ケーキの端をひとかけ摘んで、口に運んだ。
「…あ……っ」
ミシェルが止めようとするが、時すでに遅く。
だが、ティフはしばらく咀嚼すると、再びにこりと微笑んだ。
「美味しいですよ。つぶれてしまったのは、泡立てが足りなかったのかもしれませんね」
「……ティフ……知ってたの?」
毒気を抜かれたような表情で言うミシェルに、ティフは笑顔のまま首をかしげた。
「貴女がケーキを作っていたことですか?そうですね、知っていましたよ。
毎日、特定の材料だけが、微妙に量が変化していましたから。上手く買い足していたようですが、私の目はごまかせませんよ」
ミシェルは驚きの表情から…苦笑した。
「……ふふ。あなたを見くびっていたみたい」
「今日のために、準備をしてくれていたのでしょう?
貴女のその気持ちが嬉しくて、気づかない振りをしていました。ありがとう、ミシェル」
「……っ……覚えて、いたの?」
「忘れるものですか」
ティフは再びミシェルの肩に手を置いた。
「貴女が、私のところに来てくださって…ちょうど、1年ですね。
結婚記念日…に、相当するんでしょうか。結婚式も何もしていませんが…」
ティフは申し訳なさそうに苦笑すると、ミシェルの肩に乗せた手を優しく背中に回した。
「貴女は、私に対して出来ていないことがあると、思い悩んでいるようですが…
…私も、貴女に、妻らしいことは何もしてあげられていないと、ずっと思っていたのですよ」
「……えっ」
ミシェルは再び驚いてティフを見上げた。
「結婚式もしていません。2人で出かけたこともない。貴女が来て下さっているのに、貴女が手伝ってくださるのに甘えて、私は夫婦らしいことを何一つせずに、研究に没頭している。
いつも、申し訳なく思っていたんですよ」
「そんな……私は、そんなこと」
「貴女と、同じですね」
言い返そうとして、ティフの言葉にまた口をつぐむ。
ティフはにこりと微笑んだ。
「だから……私も、貴女に贈り物を持ってきたのですよ」
「……え」
ごそごそ。
ティフは空いたほうの手でポケットを探ると、小さな箱を取り出した。
「貴女に、妻らしいことを何一つ出来ていませんでした。
お詫びにもなりませんが…受け取っていただけませんか?」
「………これ……」
小さな箱を開けると、シンプルな銀のリングが収まっている。
ティフを見上げると、彼は恥ずかしそうに頬を染め、自分の左手を差し出して見せた。
その薬指にも、同じリングが嵌められている。
「……ティフ……」
ミシェルは目じりに涙をにじませて、微笑んだ。
ティフはその左手でミシェルの髪にくしゃりと指を通す。
「……さあ、ケーキを頂きましょうか。せっかくの、記念日ですからね」
「……ええ」

こんな不安な思いをするくらいなら、いっそ好きであることも辞めてしまえば。
そんな思いに駆られることもある。
でも。

不安を抱えながらも、相手のために何かしたいと…その想いが、何よりも嬉しくて。
その、何にも代えがたい贈り物が、自分を支えているのだと。
それが、何よりの幸せなのだと。

今は本当に、そう思うのだ。

“Mistake” 2008.1.6.Nagi Kirikawa

投稿掲示板作品です。
前々から描いてみたいと思っていたティフミシェ。
恋愛に対しては真摯だけど初々しい、そんな萌え。
指先が触れ合っちゃったりして「あっ…」「す、すみません…!(ぱっ)」とかやるといいよ(笑)