09:Pain or End

「じゃ、また明日」
「ええ、おやすみなさい」

ぱたん。

閉じたドアにもたれかかって、リンは深いため息をついた。
今日もやっと一日が終わった、と思う。
のろのろと部屋の中に足を進め、どさりとベッドに体を横たえる。
「はぁ……」
どっと疲れが押し寄せた。
肉体的な疲れもあるが、それ以上に精神的な消耗が激しい。

あの祠で、聖剣を手に入れてから。
リンは努めて、テッドに深く接しないように心がけていた。
彼をこれ以上好きにならないために、心にガードをかけながら接していた。
が、よりによって2人旅で、あからさまにテッドを避けることは出来ない。
表面上はあくまで今まで通りに振舞う必要があった。
今まで通りに接しながら、心は凍らせなければならない。これが、思ったより彼女の心に重い足かせをつけていた。

剣を手に入れてから、テッドの腕は飛躍的に上がっていた。
剣の性能もさることながら、テッドの天賦の才能も大きい。その相乗効果で、もはやこの辺りの魔物でテッドに傷をつけられるものはいなくなっていた。
どんどん強くなり、さらに魅力的になっていく彼のそばにいながら、心には蓋をして、目に入っているのに見ない振りをする。
いつものように軽口を叩きながら、言ったことも聞いたことも即座に忘れようと努める。
そんな不自然な状況を1日中続けなくてはならないのだ。
魔物との戦い以上に、一瞬でも気が抜けない。
真綿で首を絞めるような緩い苦しみが、じわじわと心を苛んでいるようだった。

こんな状態で、最後まで旅が出来るのだろうか、と思う。
これ以上彼を好きにならないという目的は達成できるかもしれないが、その前に自分の心が壊れてしまいそうだった。
かといって、心のガードを解くわけにもいかない。これ以上彼を好きになれば、待っているのはあの魔道士と同じ未来だ。
では、いっそ旅を辞めてしまえばいいのか。ここに来て帰るなどと無責任にもほどがある。テッドも不審に思うだろう。本当の理由に触れずに、上手く言い繕える自信がなかった。幼馴染のことをよく知っているのは、何も自分だけではないのだ。

「八方ふさがり、か…」

リンは自嘲するように言って、腕で目を覆った。
自分に選択権などない。こうなってしまった以上、どんなに辛くともこの状態を貫くしかないのだ。
は、と乾いた笑いがこみ上げる。
テッドと共にいたくて彼についてきた。しかしそのことがこんなに自分を追い詰めることになろうとは。
終わりのない泥沼の中を歩くような不快さに、吐き気がする。

と。

「苦しいか」

自分しかいないはずの部屋に突如響いた声に、リンは腕で覆ったままの瞳をかっと開き、一瞬後にがばっと体を起こした。
「誰!」
厳しい表情で辺りを見回す。
すると、誰もいなかったはずの空間に、ざわり、と神経を逆撫でする気配がたちこめた。
「……っ」
魔物とよく似た、しかし魔物よりも濃密な気配に、意識を集中させる。
リンの目の前に黒い霧のようなものがにじみ出たかと思うと、それは瞬く間に人の形を取り、ざあ、とその姿を鮮やかに現した。
「!……」
目を見開くリン。
そこには、確かに魔物と同じ気配を持った……しかし、目を疑うほどの美貌の男性が、静かに佇んでいた。
腰ほどまでの黒髪。切れ長の瞳は妖しい紅い輝きを放っていて。表情のない貌は彫刻と見まごうほどに美しく整っている。
髪と同じ漆黒の鎧を纏い、腰に剣を携えたその姿は、美貌の騎士と言っても不思議ではない。
しかし、その身にうっすらと纏う魔の気配が、そうではないという確信をリンに与えていた。
「…あんた………」
用心深く、訊ねる。
「……何者、なの?」
男性は一度目を閉じ、それからゆっくりと開いた。
「……私の名は、ヴィルフリート」

「…貴様らが、魔王と呼ぶ存在だ」

10:Lost or Plunder

「なっ……」
リンは目を丸くして絶句した。
こんなに濃密な「魔」の気配を纏ったものが目の前に現れたのも、それが目を見張るほどの美しい男性の姿をしていたことも、そして自らを魔王と名乗ったことも、衝撃的過ぎて言葉にならない。
「ま……魔王、って」
到底信じられない、という表情でリンが呟くと、魔王と名乗った男は無表情のままゆっくりと口を開いた。
「……エセルヴァイス王国のヒルデガード姫を浚っていった。姫を奪還せんとやってきた戦士たちを殺し、城に送り返した」
「……っ」
淡々とした言葉に戦慄するリン。
彼の表情には露悪さも改悛も感じられない。ただ淡々と事実を述べる、そのことが余計に恐怖を誘った。
「…へぇ、姫をさらった魔王っていうからどんなグロい化け物が出てくるかと思ったら、こんな美形とはね」
油断なく睨みながらも、茶化して言ってみる。しかし、これと言って反応はなく。
その不気味なほどの静かさが、かえってリンを冷静にさせていた。
彼が本当に魔王だとして、何故自分の前に現れたのか、何が目的なのか、確めねばならない。
リンはすう、と息を吸うと、極力冷静に、男に問うた。
「…それで?その魔王サマが、あたしに何か御用かしら?」
リンに対して魔王だと名乗ったということは、少なくとも彼女が魔王を倒すために旅をしていることを知っている、ということだ。
ならばなぜ、壁を一枚隔てただけの部屋にいるテッドのところでなく、自分のところに来たのか。
それが解せず、そしてなおさら警戒の材料になる。一体、何が目的なのか。
「………」
魔王はリンの問いにゆっくりと視線を動かし、テッドのいる隣の部屋の方を見やった。
「……あの戦士は、今までの有象無象とは違うようだ」
淡々と。呟いているかのような口調で言う。
「…かつての勇者が使っていた聖剣を手に入れ、私にとっても脅威になる可能性が高い」
「だから、成長しきる前に殺しに来た、って訳?」
リンが横槍を入れると、魔王は表情のない瞳を彼女に向けた。
「そうだとするならば、わざわざ貴様の前に現れずとも、最初からあの男の寝首をかいている」
「…ま、確かに?」
嘆息して肩を竦めるリン。
彼女の思うとおり、魔王がここに現れた理由はテッドを抹殺するためではない。
ならば。
「じゃあ、やっぱりあたしに用があるわけね?
一体何の御用かしら、勇者にくっついてるだけの魔法使いにはとんと見当がつかないわ」
茶化した風に言ったが、これも本当だった。
勇者を脅威だと感じている魔王が、勇者でなくその供の魔法使いの元を訪れる理由など、皆目見当がつかない。
魔王はしばし沈黙し、そしておもむろに口を開いた。
「……苦しいか」
「はあ?」
発せられた言葉の意味がわからず、眉を寄せるリン。
が、続く言葉に背筋を凍らせることになる。

「…叶わぬ想いを隠しながら愛しい男の側にいるのは、苦しいか」

「なっ……」
ぞく、と嫌な感覚が背筋を走り、一瞬後にかっと顔が熱くなるのを感じた。
何故それを知っているのか、というか何故そもそもそんなことを訊いてくるのか、秘めた想いを言い当てられたことも手伝って、疑問が上手く言葉にならない。
が、魔王はそれも承知とばかりに、言葉を続けた。
「私は貴様たちが聖剣を手に入れたのを知っている。手に入れるためのやり取りを見ていたとしても、不思議はなかろう」
「…はっ」
リンはやっとのことで声を出した。
「覗き見が趣味だなんて、見かけによらず下品なのね」
皮肉げに言って見せるが、魔王は堪えた風もなく僅かに目を閉じた。
「魔王稼業というものは存外に暇だ。自らを廃そうとする者の動向を探る時間がある程度にはな」
「…それで?あんた、何がしたいわけ?」
完全に予想外の方向から質問が降ってきたことにかなり動揺はしたが、リンはようやく落ち着きを取り戻して本来の目的を思い出した。
魔王の目的を探る、という目的はまだ達成されていない。どころか、この質問でますますわからなくなった。
一体、彼は何を考えているのか。
「あたしの恋路に興味があるわけじゃないんでしょ?」
「質問に答えないということは、肯定していると受け取っていいのだな?」
さらに押す魔王。
リンは不快そうに眉を寄せた。訊かれて気分のいい質問でもないし、何より意図のわからない質問に答えたくはない。
しかし、答えないことには話を進ませる気は無いようで、リンは仕方なく答えた。
「……そう取ってもらって構わないけど?」
用心深い答えに、魔王は僅かに沈黙する。
「……理解できんな」
「は?」
静かに言った言葉に、リンはさらに眉を寄せた。
魔王は淡々と続ける。
「何故、自らが苦しむ道をあえて選ぶ?傷つき、痛みに耐え、しかしそれをなしえた先にあるのは全ての終わりだ。
それが判っていて、何故その道を選ぶ?理解できん」
「あんたに理解してもらわなくても結構よ」
苛々した様子で言うリン。
「あんたには判らないかもしれないけど。あたしはテッドを困らせたくないの。彼の助けになりたい、その為にあたし自身が邪魔になるなんてごめんだわ。それが…一番良いのよ」
最後の言葉は自分自身に言い聞かせるようにして。
きっぱりとそう言うリンの表情は、しかし言葉ほど迷いの無いようには見えない。
魔王は無表情のまま、さらに訊いた。
「それで、何が得られる?貴様の手元に何も残りはすまい。
貴様の想い人は、貴様の助力で私を倒し、姫を救い出し、貴様の献身的な想いなぞ知ることも無く、姫と結ばれ次代の王となる。
貴様はそれで良いというのか?」
「…良いって言ってるでしょ!」
心からそう思っているとは到底思えない様子で、リンは叩きつけるように言った。

『あなた、絶対後悔するわ……わたしには、わかる……』

呪いのようにこびりついたあの魔道士の言葉が蘇り、激しくかぶりを振って。
「何がしたいのよ!あんたも、あの魔道士も!
あたしを苦しめて、そんなに楽しいの?!
人が必死に我慢して、どうにか立ってる足元を崩して転ばせるような真似をして!
それであんたたちに、何の得があるって言うのよ!!」
なおも叩きつけるように言う。
隣の部屋にいるテッドに聞こえてはいまいか。そんな気を回す余裕すら、リンには無かった。
はあ、はあ。
静まり返った部屋に、リンの荒い息だけが響く。
そして、それも静かになった頃、魔王はまたおもむろに口を開いた。
「……勘違いするな」
なおも冷たく、そして高圧的な彼の声に、リンは怪訝そうに彼を見上げる。
「貴様を苦しめているのは、私でも、あの魔道士でもない。
貴様自身だ」
「…っ……」
リンの瞳が見開かれる。
魔王はリンを静かに見下ろしたまま、続けた。
「貴様が、奴の為だなどと綺麗事で繕い、己の欲求に枷をつけているだけのこと。
その枷をつけたのも、その枷に苦しんでいるのも、他ならぬ貴様自身。
自らがもたらした苦しみを、他人に摩り替えるのは辞めるのだな」
「くっ……」
リンは何も言い返せず、魔王から顔を逸らした。
魔王はその横顔をしばしじっと見つめ、そして言った。
「…何故、枷をつける。何故、自ら苦しまねばならぬ。
それほどに愛しく思う相手を、何故手に入れようとしない?
…私には、理解できん」
魔王の声音に、僅かに感情がこもったような気がして、リンは再び彼を見上げた。
相変わらずの無表情。
けれど、その瞳の奥には、隠し切れない苦悩の炎がともっているように見える。
「…私は、そのようなことはしない」
リンの思いに気づいているのかいないのか、魔王は無表情のまま続けた。
「愛する者は、どんなことをしてでも手に入れる。
それを邪魔する全てのものを、屠り葬り去ろうとも。
幾度阻まれようと、その度に返り討ちにするまで」
「……っ、ちょっ……」
魔王がそこまで言って、リンは大きく目を見開いた。
「まさか……まさか、あんたが姫をさらったのって……」
呆然とした表情で、恐る恐る魔王を指差す。
彼はリンを静かに見つめ返し、そして淡々と言った。

「彼女に恋をした。だから、私のものにした。それだけのことだ」

11:My wish or His happiness

「ちょっ…待って、じゃあ、あんた……」
リンは混乱した様子で、頭を掻いた。
「姫をさらったのは……姫を、好きだったから、っていうこと?」
「そうだ」
魔王の答えはよどみない。
リンは呆然として言葉を失い、それから乾いた笑い声を上げた。
「はっ……そんな、バカな話……」
「馬鹿な話、か?」
魔王が変わらぬ淡々とした声で告げ、口を噤んでそちらを見やる。
相変わらずの無表情。何を考えているのか判らない。…が、その瞳には、先ほどと同じ苦悩の表情が宿っているような気がした。
「…本当なの?」
真剣な表情で、問う。
魔王は淡々と頷いた。
「…嘘を言ったところで私に何の得がある?」
「損か得かは、何とも言えないけど」
リンはようやく落ち着きを取り戻した様子で、軽く肩を竦めた。
「あんたが言ってることが本当だったとして。
じゃあ、あんたは姫を浚って脅しのために使うとかじゃなく、姫本人が目的だった、ってこと?」
「私が欲しいのは彼女だけだ。それ以外のものに興味などない」
「なるほどね……」
リンは嘆息した。
魔王の言葉が本当だとして、と前置いたものの、リン自身は魔王の言葉にかなり納得していた。それならば、姫を浚って以降何の動きもないことにも、魔王城に向かった戦士たちをことごとく返り討ちにして見せしめのように王城に送り返してきたものの、魔物の軍勢が王城に攻め込むようなことはなかったことにも、理屈が通る。
そして、色々なことが腑に落ちたところで、改めて辿り着いた結論に、この時ばかりは無駄に回る自分の頭を呪った。
「……要するに、あんたがあたしの前に現れた理由、ってのは」
魔王は、姫に好意を持っている。
そして、聖剣を手に入れた勇者を脅威と感じている。
さらに、勇者に好意を持つ魔法使いの元を訪れた。
このことが導き出す結論は。

「……横恋慕同士、協力し合いましょう、って事ね」

自分でもうんざりする、というようにため息をついて。
不快さを隠さずにそう言ってみるが、魔王の表情は動かない。
リンは続けた。
「あたしがテッドとくっついて、テッドが姫君奪還を諦めれば、あんたは余計な消耗をせずに姫を手元に置いておける、って訳」
「…悪い話ではないだろう?」
「どこがよ」
視線を厳しくして。
「あたしがそんな話に、ホイホイ乗るとでも思うわけ?あんた、頭おかしいわ」
「何度も言うが」
リンの挑発も静かに流し、魔王は淡々と言った。
「私は姫自身が欲しいだけだ。貴様達の国にも興味はない。姫に危害を加えるつもりも、ましてや殺すつもりもない。姫には十分な食事と部屋を与え、丁重に扱っている。
姫を奪還する理由が、そもそも存在しない」
「はぁ?王城から無理矢理姫を浚っておいて、なによその言い草は。
いきなり家族と引き離されて、見も知らない遠い場所で独りぼっちにされた可哀想なお姫様。助け出す理由としては十分でしょ」
「あのままあそこにいても似たようなものだっただろう」
魔王の様子は変わらない。
「王家の姫として大切に扱われ、いずれは国の繁栄の為に見も知らぬ国の顔も見たこともない男の元へ嫁がされるだけだ。
愛してもいない他の男のものになるくらいなら、私が手に入れる」
「……っ」
リンは魔王を睨みつけ、それでも言葉に詰まった。
魔王は静かに言葉を続けた。
「私には貴様が理解できん。何故、望むものを手に入れようとしない?
苦しむことになると判っていて、何故求めようとしない?」
「何度も言わせないで」
ぴしゃりと言うリン。
「あたしはテッドを困らせたくないの。彼の助けになりたいの。その為にあたし自身が邪魔になるのが嫌なの、あんたにはわからないかもしれないけど?」
「何故、邪魔だと決め付ける?」
「は?」
思いもよらぬことを言われ、リンは眉を顰めた。
魔王は淡々と言葉を続ける。
「何故、貴様が邪魔だと決め付ける?
貴様と共に在ることより、姫と結ばれる方が幸せだと決め付ける?
ろくに話したこともない姫君と結ばれるより、幼い頃から気心の知れた娘と一生を共にする方が幸せかもしれぬだろう」
「ば……か言わないでよ」
リンは驚きの表情で、それでも嘲るように笑った。
「下町の魔法屋の娘と、お城に住む王女様、どっちを選ぶのが幸せかなんて、考えるまでもないでしょう?」
「……あの男が、そう言ったのか?」
「え?」
「貴様があの男にそう問うて、あの男が、王女の方が幸せだと、そう言ったのか?」
「それは……」
言いよどむリンに、魔王は静かに続けた。
「貴様のそれは、相手を思いやっての行為ではなかろう。
はっきりと問うて、自分を拒絶されるのが怖い、ただそれだけだ」
「っ……」
淡々とした、しかし残酷なほど切れ味の鋭い魔王の言葉に、リンは返す言葉もなく黙り込んだ。
魔王は目を閉じて嘆息した。
「…私は別に、貴様の弱さには興味はないがな。だが、これだけは言える」
静かに目を開いて。
「あちらとこちらとを比べ、どちらがより幸せか。そのようなことは関係ない。
己の手で勝ち取り、己の手で幸せを与える。それだけだろう。
元より幸せを与える気の無い者のところに幸せなど無いのは道理だ」
「そんな……っ」
リンは魔王に反論しようとして、しかし言葉が見つからず沈黙した。
リンも、そしてあの魔道士も、自分の元には幸せはないと決め付け、想いを封印して愛しい人を見送った。
しかし、本当に自分の元に幸せはなかったのか。幸せに出来る自信がなかっただけではないのか。
…自分でも自覚しているその事実を、他でもない愛しい人の口から聞くことを恐れただけではないのか。
「………」
リンは沈黙したまま、改めて表情のない魔王の整った相貌を見上げた。
どちらが幸せか、ではない。自分の手で幸せにする。
彼は少なくとも、その信念の元に、それを実行しているのだ。
つい先ほどまでありえないと突っぱねたその考え方が……今は、本当に間違っているのだろうかと思う自分を止められなかった。
「……っ、あたしは……」
迷いの滲んだ声で言いよどむリンに、魔王は静かに言った。
「貴様がどの道を選ぼうと、勝手だが。
このまま私の元に来るのなら、私も全力で相手をしよう。無傷で帰れるとは思うな」
言葉の内容とは裏腹に、淡々とした口調で言って。
「だが…よく考えるのだな。
私を倒し、姫を奪還する以外にも道はある。
貴様も…そしてあの男も。傷つき、苦しい思いをしてまで貫くべき道かどうか。よく考えることだ」
「………」
リンは黙ったまま俯いた。
重い沈黙が落ちる。
魔王はしばし俯いたリンの顔を見つめていたが、やがて小さく嘆息した。
「…貴様がもしも、違う道を模索することを考えるなら。
手助けになるものをやろう」
「…手助け?」
眉を顰めて顔をあげるリン。
魔王は黒いマントの下に手をいれ、それからゆっくりと外に出した。
ことり。
傍らにあったテーブルの上に、何かを置いた硬い音がする。
魔王が手をどけると、香水のような綺麗なガラス細工の瓶が見えた。
「…?」
眉を顰めてそれを見やるリン。
魔王は彼女の方に視線をやり、静かに告げた。
「…これは、飲んだ者の力を奪う薬だ」
「!……」
目を見開くリンを気に留めた様子もなく、淡々と続ける魔王。
「苦しみはない。ただ、小さな穴の空いた器から水が少しずつ漏れ出て行くように、これまで培った戦いの経験が失われていく。
知らずに飲めば、だんだんと力が衰えていくように感じるだろう」
「これを……テッドに飲ませろ、ってわけ?」
リンは再び、魔王をきっと睨みすえた。
「そんなことを、あたしがすると思うの?」
「何度も言うが、どの道を選択しようと、貴様の勝手だ」
魔王の口調は変わらない。
「だが、己の道に導くことを幸せと断言できぬ貴様なら、あの男の力の衰えは、旅を辞める絶好の理由になるのではないか?」
「…っ」
私が幸せにするから私を選んで、とは言えない。
が、あなたに魔王を倒す力はない、旅を辞めて帰ろう、とは言えるだろう、と。
魔王の辛辣な言葉は、しかし残酷なまでにリンの内心を言い当てていた。
「貴様が自らの苦しみに耐えてなお、この旅を続けると言うなら。
この薬は必要なかろう。好きなように処分するがいい」
魔王はなおも淡々と言って、くるりと踵を返した。
「……よく考えることだ」
冷たい声で、そう言い残して。
魔王は来たときと同じく、滲むようにして空間に溶け込み、そして消えた。
「………」
リンはしばらく魔王がいた場所を睨みやっていたが、やがてよろよろと足を踏み出した。
テーブルの上にある、可愛らしい小瓶を手に取る。

馬鹿げている。
本当に馬鹿げていた。
テッドの力を奪って、自分の元に縛り付けようなどと。
だが。

「………っ」

リンはついに、それを床に叩きつけることが、できなかった。

12:Lost Kingdom or Mysterious space

「…リン。おい、聞いてるのか?」

訝しげなテッドの声に意識を引き戻され、リンははっとして彼を見返した。
「……ごめん、ぼーっとしてた」
「おい…大丈夫か?」
不快と心配の入り混じった表情で言ってくるテッドに、苦笑を返す。
「ごめんごめん、ちょっと疲れてるのかな」
「大丈夫か?体調悪いなら、戻るまで滞在延ばすか?」
心配の度合いが増した表情でさらに言うテッド。リンは苦笑したまま肩を竦めた。
「大丈夫よ。このくらいでいちいち止まってたら、いつまで経っても終わらないでしょ」
言い聞かせるように言うが、真意は別のところにある。どんなに滞在を延ばしたところで、原因が取り除かれることがないのは判っていた。
そう、リンが上の空だったのは、疲れのせいではない。
先日、魔王が現れて置いていった薬瓶。それはいまだにリンの道具袋の隅を占拠していて、同様にリンの心の隅を占拠して離れなかった。ふっとそれが気になり、考え込む自分がいるのを止められない。
馬鹿げたことだと、判っているのに。
「でもよー……」
不満そうなテッドを無視し、リンは表情を引き締めて話を続けた。
「で?滅びた魔法王国の跡地、だって?」
「…ああ、街の人たちから聞いて、魔術師ギルドでも確認してきた」
テッドは不満そうながらも、リンが話を戻したことで仕方なさそうに話を続ける。
「2、30年前に、魔物に攻め入られて滅ぼされた魔法王国が、ここから歩いて3日くらいのところにあるらしい。
城は今は廃墟になっていて、魔物もうようよしてるっていうんで誰も近づかないらしいんだが、ギルドの人の話じゃ、その魔法王国の技術は世界一って言われてて、魔物に滅ぼされたのもそのせいだって話だ。
今の魔法技術でも到底追いつかないくらいのものが眠ってる可能性もあるけど、魔物のせいで調査に入れないらしい」
「…なるほど」
リンは片眉を寄せて、テッドの話に頷いた。
テッドはどこか嬉しそうな表情で、身を乗り出す。
「な、行ってみる価値あるだろ。おまえが使えるすげー魔法とか、あるかもしれないし!」
「そうね…魔物のリスクはあるけど、今のあんたなら大丈夫だろうし…」
胸躍る様子のテッドとは対照的に、リンは冷静に言った。
「あたしも、このままじゃあんたのお荷物になりかねないし。失われた魔法技術っていうのにも興味があるわ。
ちょっと遠回りになるけど、それだけの価値はありそうね」
「だろ!」
リンの同意に、テッドは嬉しそうに笑った。
「そうと決まったら、早速準備して明日にでも行こうぜ!」
「了解。消耗品の買出しはしておくわ。あんたは剣の手入れと、明日に備えて体を休めときなさい」
「わかった。頼むな!」
テッドは満面の笑みでそう言い置くと、足早に自分の部屋へと戻っていった。
その背中を見送って、こっそりと息をつくリン。
静けさの訪れと共に、あの瓶の存在がまた頭の片隅を掠めていくのがわかる。
リンはそれを振り切るようにして頭を振ると、買出しに向かうべく立ち上がった。

「サンダーボルト!」
ぐぎゃああぁぁ…
リンの魔法で止めを刺され、魔物の最後の一体が倒れて土に還っていく。
リンは息をついて、テッドを振り返った。
「こっちは片付いたわ」
「こっちもだ」
ひゅ、と剣を振って鞘に戻しながらこちらへ歩いてくるテッド。
その表情はあからさまに辟易していた。
「魔物がうようよしてるっていうか、マジ魔物まみれだな」
「すっかり魔物の住処になっているようね」
リンも嘆息して、辺りを見回す。
彼らが侵入した建物は、昔城であったと言われればかろうじてそう見えなくもない、というほどに見事な廃墟になっていた。天井は残っている部分の方が少なく、壁も穴だらけで、崩れているところがほとんどだ。僅かに残る床を歩いていけば10歩とあけずに魔物が現れる。命を脅かすほど強くはないにしろ、さすがの2人もここまで遭遇率が高いとうんざりしていた。
「こんなに魔物が多いとなると、魔法の本とかも全部やられちまってるかもなー」
眉を寄せて頭を掻くテッド。
リンも同意するように表情を同じくして。
「そうね、せっかく来たけど………うん?」
辺りを見回し、一点で目を留める。
「どうした?」
「…ん、気のせいかもしれないけど…あそこ」
指差した先には、回りの景色と変わらない、瓦礫の山とその奥に部屋であったらしき壁と扉が見える。
「あそこが…どうかしたのか?」
「変じゃない?他の壁は崩れてるけど…あの壁だけ、汚れてるけど壊れてない」
言いながら、早速足を踏み出すリン。テッドもその後を追う。
瓦礫だらけで足場は悪いものの、さほど距離もなく、すぐに辿り着くことができた。
「やっぱり…ここだけ、崩れてないわ」
リンは不思議そうにその壁を見上げながら、指先をそれにかけ、
「…っ」
ぴり、という僅かな痛みを感じて、反射的に手を引く。
「これは……」
リンは真剣な表情でその壁をまじまじと見た。改めて壁に手を触れると、やはり触れた瞬間だけ、ぴり、と痛み…否、何かの衝撃が走る。
「魔力で…守られてる?」
壁に顔を近づけ、手の平で撫でるように確かめてから、目を閉じて指先に神経を集中させた。
目を閉じて壁に手を当てているリンを、することもなくただ見守るテッド。
ややあって、リンはゆっくりと手を話し、目を開けた。
「……できた。入ってみよう」
テッドにそう言い置いて、リンは返事も待たずにそばの扉へと足を進め、ためらうことなくそれを開けた。
「お、おい」
慌てて後を追うテッド。
ドアを開けたリンは、中に広がっていた光景に目を見開いた。
「うっ……わぁ……!」
表情を輝かせ、中に入っていくリン。それに続いてテッドも足を踏み入れ、中の様子に驚く。
そこは、図書館のようだった。どういう構造になっているのか、外側の瓦礫からは想像がつかないほど広く、そして壁一面にぎっしりと本棚が並び、たくさんの本が綺麗に整頓され並べられている。
「な、なんだ、ここ……」
少々古めかしいが、廃墟の内部とは全く思えない、というよりそもそも広さがおかしい部屋に混乱するテッド。
「空間に作用する魔法がかかってるのよ…あたしもこんな構造、見たことない…!すごいわ……!」
リンはかなり感動した様子で室内を見渡し、そして足早に本棚に駆け寄ると、その中の一冊を手に取り、夢中になって読み始めた。
「すごい…!古代セグルス語だわ……この印も初めて見る……!」
先程までのクールな様子とは打って変わって、新しいおもちゃを手に入れた子供のように目をキラキラと輝かせ、鼻先が擦れるかと思うほどに本に顔を近づけていて。
「……」
もともとその為に連れてきたとはいえ、リンがこうなってしまったら簡単には戻ってこない。
テッドは苦笑して嘆息すると、自分も部屋の中の様子を見て回ることにした。
「…何書いてあるかサッパリだな…」
ゆっくりと本棚の前を歩きながら、並んでいる本を眺める。
どうやら公用語ではない言葉で書かれているようで、魔法のことはまるで判らない彼には何の本かすら判らない。
これをすらすら読めてしまうのだから、リンの魔道知識はすごいのだろうな、と、改めて感心する。
と。
「……ん?」
一冊、タイトルの書かれていない本を見つけ、テッドは足を止めた。
「……なんだ、これ?」
やけに大きなその本に、興味を引かれて手にとって見るテッド。
ずっしりと重い本を傍らのテーブルに置き、適当なページに指を入れてゆっくりと開く。

瞬間。

「うわぁっ?!」

本の中から何かが飛び出し、載っていたテーブルと傍らにいたテッドを吹っ飛ばした。
ぶぉん、がす。ばき、ばらばら。
そばの本棚に叩きつけられ、派手な音を立てて本棚が壊れる。
「テッド?!」
さすがにリンも顔をあげ、その惨状に驚いて立ち上がった。
「…っつ……気をつけろ、リン!」

テッドはどうにか体制を整え、すらりと腰の剣を抜いて構えた。

13:Win or Despair

本から飛び出してきたそれは、一言で言うなら壷に入ったネズミのような外見をしていた。
大きさは3メートルほどになるだろうか。金属質の壷のような装甲には宝石のようなものがたくさん埋め込まれていて、その作用でかふわふわと浮いていた。
「な…なに、これ」
剣を構えたテッドと、ネズミを挟んで反対側にいたリンは、身構えながらも呆然とそれを見上げた。
「わかんねえ…なんか、いきなり本から飛び出してきて…」
「あんた、よくわかんないもんに不用意に触るんじゃないってあれほど言ったでしょ!」
「開けちまったもんは仕方ねーだろ!」
キレ気味で言って、剣を構えなおすテッド。
リンも体制を整え、早速テッドに鎧の強度を増す魔法をかける。
「シールド!」
「サンキュ!」
テッドはネズミを睨み据えたままリンに言うと、剣先を下げて駆け出した。
「であぁっ!」
剣を振り上げて跳躍し、威勢のいい掛け声とともに振り下ろす。
きんっ。
剣は硬い音を立ててネズミの装甲にはじかれた。
「なんだこいつ、かってぇ!」
「剣が効かないなら…」
リンがすばやく印を切り、杖をネズミに向けて呪文を唱える。
「ファイアービット!」
ぼぼぼ、と杖の周りに小さな炎がいくつも灯り、ネズミに向かって飛んでいく。
ごう、という音がして、あっという間にネズミは火に包まれた。
が。
「なっ…」
ぱん、という乾いた音がして、瞬時にネズミを取り巻いていた火が消えうせる。
そして焦げ跡ひとつないネズミが元のようにふよふよと浮いていた。
「効かない…あの宝石のせい…?!」
ネズミの装甲に散りばめられた数十個の宝石は一目で魔力が篭っていることがうかがえた。宙に浮いているのも剣や魔法が効かないのもそれに込められた魔力のせいかもしれない。
「剣も魔法もダメじゃ、どうしたらいいんだよ?!」
油断なく剣を構えながら、テッドが眉をしかめる。
「あの宝石をどうにか出来たらいいんだろうけど…」
リンは悔しげにネズミの方を見やった。
あの宝石を砕けば、ネズミを包む防護の魔力が霧散する可能性は高い。
だが。
「…っ、来るぞ!」
ふよ。
ネズミは鳴き声をあげることもなく、浮遊しながらゆらりと動き出した。
かと思えば。
「…うわぁっ!」
何の前触れもなく急加速し、二人に向かってつっこんでくる。
「リン!」
どん。
テッドが慌ててリンを突き飛ばし、自身も後ろに跳んでそれを避けた。
「ちょっ…!」
どん。ぐしゃ。
リンが床に尻餅をつくのと同時に、ネズミが激突した本棚が大破する派手な音が響く。
「なにすんのよバカ!」
「吹っ飛ばされるよりマシだろ!」
どうにか態勢を立て直しながら、一応テッドに文句を言うリン。
テッドも言い返しつつも、油断なくネズミに向かって剣を構える。
ふよ。ばさ。ばさばさ。
ネズミは破壊した本棚から零れ落ちた本の山から再び浮き上がると、ゆっくりと二人のほうを向いた。山積みになった本が崩れ落ちていく。
本棚は見る影もなくぐしゃぐしゃになっていたが、やはりネズミ自身には傷ひとつない。
これだけの鉄壁の防御を誇る3メートルからの球体にまともに体当たりを食らったら、間違いなくこの本棚と同じ運命を辿るだろう。
テッドは剣を構えたまま眉を寄せた。
「…あの宝石を、どうにかすればいいんだな?」
「そうだけど…思ったよりすばしっこいわね。魔法も当たらないし…」
「気を引いたり、動きを止めたりすることはできるか?」
「アレに『気』があればの話ね…おそらく、魔法生物よ。侵入者を倒すっていう命令を受けてるだけで、動物みたいに意思があるわけじゃないと思うから気を引くのは難しいわ…魔法が効かないなら、動きを止めるのもね…」
「打つ手無しか…」
「効くかどうかわからないけど…魔法でじゃなくて、物理的に動きを止めることならできるかも」
「とりあえず、やってみてくれ」
「了解」
リンをかばうように剣を構えたテッドの後ろで、リンは杖を構えて目を閉じ、複雑な呪文を唱え始めた。
「……」
低く呪文を唱え続けるリンの前で、油断なく剣を構えるテッド。
ゆら、と再びネズミが動き出したのを察し、斜め前に駆け出す。
「こっちだ!」
誘い出すように斬りかかれば、ネズミは彼の思惑通り彼に向かって突進してきた。
ごしゃ。
テッドが避けたことで、また別に本棚に激突するネズミ。威力は高いが、攻撃自体は単調なものだ。見切ってしまえば、かわすのは容易い。
横に飛んで距離を取ったテッドが、へへ、と短く笑ったところで、リンの術が完成した。
「ソーンウィップ!」
ぼごっ。
呪文と共にネズミが倒れこんだ本の山が盛り上がり、そこから緑色の巨大な蔦のようなものが数本飛び出した。
びゅう、ばちん。
茨のように棘のついた蔦はあっという間にネズミを絡め取り、地面に根を張って縛り付けた。
ぐん、ぐん、とネズミが逃れようと動くが、蔦はかなり太く、なかなか逃れられない。
「今よ、テッド!」
「よっしゃ!」
身動きの取れなくなったネズミに、テッドは改めて躍りかかった。
剣を水平に構え、突き出すようにして一番大きな赤い宝石を狙う。
「でやあぁぁっ!」
がっ。
剣先は過たず宝石に食い込み、ぱきん、という硬い音を立てて宝石が砕ける。
「やった…!」
テッドとリンが同様に表情を輝かせた。
その時だった。

がしゅっ。

酷く軽い音が聞こえて、リンは一瞬で表情を凍りつかせた。
宝石の下から大きな錐のようなものが突き出て、テッドの左肩口を貫いたのだ。
「!……っ」
あまりのことに、声も出ない。
肩を貫かれた勢いでネズミから弾き飛ばされる格好になったテッドは、そのまま弧を描いてどさりと床に落ちた。
「…っぐあぁあぁああ!」
その衝撃でか、それともようやく身体がその攻撃を理解したのか、床に転がったまま肩口を押さえ、吠えるような絶叫を上げるテッド。
「テッド…!」
リンは慌ててテッドに駆け寄った。
「テッド、大丈夫?!」
「ぐうっ…あ、が…ぁ…」
呼びかけるが、あまりの激痛にそれも聞こえていない様子で。
肩口を押さえながら、苦しげな声を漏らしている。
傷口からはおびただしい量の血が流れ出て、助け起こしたリンのチュニックにもぼたぼたと零れ落ちた。
「っ、しっかりしなさい…!ヒーリング…!」
回復魔法をかけてみるが、あふれ出る血の勢いが少し弱まった程度だ。
動揺して、いつものように魔法が使えていないのかもしれない。
と。
じゅう。
何かが焼け焦げるような音がして、リンは顔をあげた。
「…っ」
ゆらり。
身体に巻きついていた茨を焦がし、束縛を逃れたネズミが、ゆっくりとその身をこちらに向けている。
大きな宝石があった場所からは、テッドの血で濡れた大きな錐が今なお突き出ていて。
リンはテッドを抱えたまま、急速に絶望していく自分を感じていた。
(このままじゃ……)
ぎゅ。
腕の中のテッドは、もう意識を失っているようだった。
ゆら、と、ネズミがこちらに向かって突撃の体制を取る。
「っ……!」
リンは襲い来る衝撃の予感に、ぎゅっと目を閉じた。

その時だった。

「夢幻の書庫の番人よ、その刃を収め、今ひとたびの眠りにつきなさい!」

凛とした声が響き、リンは思わず目を開いて顔を上げた。
すると、今まさに自分達の目の前に迫っていたネズミの動きがぴたりと止まっている。
「封呪!」
再び先程の声が響くと。
「!………」
ふっ、と。
目の前の鉄の塊が、一瞬にして跡形もなく消え去った。
ばさ。
そして、その代わりのように空に現れたタイトルのない本が、床に落ちる。
「大丈夫ですか!」
呆然とそれを見ていたリンに、先程の声の主が駆け寄ってきて、リンはようやく我に返った。
駆け寄ってきたのは、20代後半ほどの美しい女性。長い黒髪を後ろで束ね、マーメイドラインのシンプルなドレスに身を包んでいる。
「あ、あなたは……」
状況が飲み込めずに問うリンに、女性は真剣な表情で言った。
「話は後です。今はこの方の治療を」
「!」
女性の言葉に、リンははっとしてテッドを見下ろした。
その肩からの出血は、すでにリンの周りに血溜まりを作っている。
青ざめたその顔は、先程感じた目の前が真っ暗になるような絶望を再び呼び起こした。

「テッド……!!」

14:Happiness or Peaceful

「…これで、いいでしょう。後は少し休めば目を覚ますはずです」

テッドの身体の上にかざしていた手を退け、女性はにこりと微笑んだ。
「あ…ありがとうございます」
リンもほっと肩の力が抜け、女性に礼を言う。
ベッドに横たわるテッドはすでに血の気も戻っていて、普通に眠っているように見える。あんなに大量の血を流したのが嘘のようだった。
「あの……あなたは…?」
かなり今更な気もするが、リンは恐る恐る女性に尋ねた。
怪我をしたテッドを、あの図書館の床から地下に続く部屋に運び込み、女性の術で治療を施した。彼女が使う術はリンも初めて見る形式のもので、その強力なパワーと構成の緻密さに驚いた。
彼女は一体、何者なのか。この廃墟に、見たところたった一人で暮らしているようだが…
女性は微笑して、答えた。
「わたくしの名はアウレーリア。アウラ、とお呼び下さい」
「アウラ……」
リンは女性の名を呟いてから、はっと我に返って居住まいを正した。
「…失礼をしてごめんなさい。あたしはリン。こいつはテッド。エセルヴァイス王国から来ました。
助けていただいたこと、感謝します」
困ったように苦笑するアウラ。
「お気になさらないで。侵入者を撃退するための装置がまだ動いていたのね。こちらこそ、酷い怪我を負わせてしまってごめんなさい」
「装置…あの、ネズミのような魔法生物のことですか?」
身を乗り出すリン。
「あの不思議な空間といい……ここは、いったいどういう場所なんですか?」
「ここは……」
女性は言いよどむように言葉を切って、それから辺りをゆっくりと見回した。
「……ここは、魔法王国として栄えたシルヴェリア…その残骸が残る場所です」
「シルヴェリア…王国」
聞きなれない名前をもう一度つぶやくリン。
アウラはやわらかい笑みをリンに向けた。
「…魔道士の方でいらっしゃるのね?」
「あっ、はい。ここに、滅びた魔法王国があるって聞いて…何か、その…あたしでも使える技術が残ってるんじゃないかと思って。
廃墟ばかりに見えたのに…驚きました。こんな空間があるなんて……」
「この空間を維持するのが、精一杯でした」
アウラは悲しそうに俯いた。
「魔物たちが攻め入ってきて…城はあっという間に廃墟と化しました。魔物の干渉できない空間を作って、少しでも多くの人々を避難させたかった…でも、あっという間でした。何もかも遅すぎました。お父様はわたくしをこの中に残して、一人魔物へ挑み…そして、帰らぬ人となりました。
今…シルヴェリアの民で生き残っているのは、おそらくはわたくしだけ…ここを離れる気にもならず、一人ここで暮らしています」
「お父様…って、まさか……」
リンが目を丸くして言うと、アウラは苦笑した。
「滅びた王国の王女という肩書きに、どれほどの価値があるのかは存じ上げませんけれど…
アウレーリア・リエナ・シルヴェリアス……先王アレクサンドルの長女にあたります」
「王女様…!」
さらに目を見開くリン。
滅びた魔法王国の生き残りであり王女。あれほどの強力な魔法生物を操り、そして自分には治せなかったテッドの傷もこともなげに治してしまった。
自分の想像を超えた存在を目の前に、言葉もない。
アウラはにこりと微笑んだ。
「もうこの国はわたくし一人なのですから、どうか王女様はおやめくださいな。
ご覧の通り、廃墟ばかりで何もないところですが…テッドさんの傷が完全に治るまで、ゆっくりしていって下さい。
先ほどの図書館の本は、自由にご覧いただいて構いませんし…わたくしの持てる技術でよろしければ、お教えいたしますわ」
「…ありがとう、ございます」
リンは複雑そうに微笑んで礼を言った。
「では、わたくしは向こうの部屋におりますので、何かありましたら仰ってください。失礼いたしますわ」
アウラはそう言うと立ち上がり、丁寧に礼をして部屋を辞した。
ぱたん、と扉の閉まる音がして、部屋に沈黙が訪れる。
地下にあるため窓はないが、やはり魔法の作用で外気を取り入れているのか、息苦しさは感じられない。簡素な家具はあまり使われた形跡がなかった。本当に、ここには彼女一人しか暮らす人間がいないのだろう。
廃墟と化した故国に、たった一人で住み続ける王女。その心中は、あまりにも別世界過ぎてリンには想像もつかなかった。
「………」
ベッドで眠るテッドに視線を落とし、僅かに眉を寄せる。
目を閉じれば、おびただしい量の血溜まりの中に倒れる彼が今も鮮やかに映し出される。
心臓が止まるかと思った。
抱き起こして回復魔法を施しても止まることのない血。自分の装束にもまだ鮮やかにその証を残している。
急に血の匂いが強烈に感じられ、リンはかぶりを振って立ち上がった。着替えなければ。
「確か…まだあったと思うけど」
入り口の傍らにあった小さな棚に無造作に置いた道具袋。中を探ると、まだ袖を通していない代えの服があった。
リンは出来るだけ血の跡を見ないようにして手早く服を脱ぎ、代えの服に袖を通した。血のべっとりついた服を丸め、無造作に袋につっこんで道具袋に戻す。
と。
ことん。
小さな音がして、道具袋から何かが落ちた。
「……っ」
慌ててそれを拾おうとし、息を飲んで手を止める。
それは、魔王が置いていったあの瓶だった。
「………」
リンは恐る恐る、ゆっくりとその瓶を拾い上げた。
飲んだ者の経験を少しずつ奪い、力を奪っていくという薬。

『傷つき、苦しい思いをしてまで貫くべき道かどうか。よく考えることだ』

魔王の言葉が蘇る。
テッドを助け、その望みを叶えたい。それがたとえ、自分を傷つけることになったとしても、それが彼にとっての幸せだから。
本当にそう思っていた。彼をその未来に導くことは、間違ってはいないと。
だが。
(……本当に、そう、なの?)
テッドの実力は本物だ。彼ならば魔王を倒すことが出来る。
そう信じて疑っていなかった。
(でも……)
それは、過ぎた欲目だったのではないか。
現に、あのネズミには全く歯が立たなかった。剣も魔法も効かない。致命的なダメージを受け、あの時アウラが来てくれなかったら間違いなく2人とも死んでいただろう。

『このまま私の元に来るのなら、私も全力で相手をしよう。無傷で帰れるとは思うな』

本当に、魔王に勝てるのだろうか。
今回のように返り討ちにされるのでは?魔王の根城で、味方などいようはずもない。
他の多くの戦士たちと同様、無残に命を奪われ、エセルヴァイス城に見せしめのごとく放り出されるのではないか。
「……っ」
ぞくり、と背中を悪寒が駆け抜ける。
新聞に描かれていた、尖塔に串刺しにされた戦士の絵。
あの戦士の顔に、テッドの顔が重なった。
先ほどの、心臓がつぶれるかと思うような苦しさと、目の前が闇に包まれたかのような絶望が蘇る。
(……死ぬ…?テッドが…)
可能性として、考えていないわけではなかった。そんな結末を迎えぬよう、常に最善の策を考え、実行してきたつもりだった。
だが、自分の予想など、現実は簡単に超えていく。
思い通りにならない想い。想像を超えた強さを持つ敵。見たこともない緻密な構成の魔法。
とめどなく流れていく血、腕の中でどんどん冷たく重くなっていく身体。
自分が抱いていた死への覚悟が空想上のものでしかなかったことを、肌で感じて初めて理解する。
(……死ぬ……)
今回はたまたまアウラがいたから免れた。
しかし、明日以降も同じことが起きるという保障はどこにもない。
自分たちが相対するものが、想定内の実力である根拠など、どこにもありはしないのだ。

『何故、貴様と共に在ることより、姫と結ばれる方が幸せだと決め付ける?』

魔王の言葉がまた蘇る。
魔王の言わんとしていた意図とは違うが、リンは今更のようにこの言葉を強く噛み締めた。
テッドの助けになり、魔王を倒す道が一番幸せなのだと信じていた。
しかし、そう決め付けることはなんと傲慢なことなのだろう。
一歩間違えば、それは彼を死へと導く道だというのに。そんな危険に連れ出すことが本当に幸せだというのか。
生まれ故郷で、大きな名誉も富もなくとも、淡い初恋が実らずとも、気心の知れた娘と平穏に暮らすことも幸せなのではないか。
少なくとも、若い命を無残に散らしてしまうよりは。
「………」
リンは瓶を手に取り、立ち上がって唇を噛んだ。
きゅ。
汗に濡れた手で握り締めた瓶が、小さく音を立てる。
噛み締めた唇から、僅かに鉄の味がした。
と。

「う……ここ…は……」

後ろからテッドの声がして、リンは瓶を胸に抱いたまま勢いよく振り向いた。

15:To do or Not

「テッド…!」
リンは瓶を手にしたまま、目を覚ましたテッドに駆け寄った。
ベッドから身を起こしたテッドは、不思議そうに辺りを見回す。
「なんだ……おれ、どうなったんだ…?」
リンはベッドの傍らに膝をつき、テッドの顔を覗き込んだ。
「大丈夫?身体、痛くない?」
「身体?…っつ」
テッドはリンの方に体を向けた拍子に痛みが走ったらしく、左肩を押さえて呻いた。
「テッド!」
「つー……大丈夫だ、これくらいなら」
「ホントに?」
「ああ。つうか、どうなってんだ?おれ、あのネズミみたいのに肩やられて…それからよく覚えてねえんだけど」
「ここに住んでた、この国の生き残りの王女様が助けてくれたの」
「生き残り…王女様?」
きょとんとするテッド。
リンはひとまずテッドが会話が出来る程度に回復したことに安心し、立ち上がって傍らの椅子に腰掛けた。
「ええ。アウラっていう、すごい美人よ。あんたの怪我を治してくれたのも彼女。後でちゃんとお礼言ってね」
「そうだったのか……」
「彼女がいてくれなかったら、ホント危なかったわ。あんたの怪我が治るまで、ここに置いてくれるって」
「そっか……ちゃんと礼言わなくちゃな」
「肩は…どう?ちゃんと動く?」
リンが心配そうに肩のほうを見ると、テッドはギクシャクした動きで肩を回した。
「ん…ちょっと痛いかな。ま、リハビリすればどうにか」
リハビリ。
その響きに、リンの動きが止まる。
(リハビリ……身体が思うように動かない今なら……)
力の衰えも、怪我のせいに出来るのではないか。
そんな考えが頭をよぎる。
「リン?」
表情をなくしたまま止まってしまったリンに、訝しげに声をかけるテッド。
リンははっと我に返り、ごまかすように髪をかき上げた。
「…そっか。あたしも、アウラから魔法とか教わりたいし…せっかくだから、ゆっくりするのもいいかもね」
「なんか、悪いような気がするけど…仕方ないな。甘えさせてもらおう」
「そうしときなさい」
リンはごまかせたことに安心し、ほっと胸をなでおろした。
「…それはそれとして、なんだ、それ?」
「えっ?」
テッドの問いにきょとんとする。
テッドは比較的自由に動くらしい右手で、リンが先ほどから大事そうに胸に抱えている瓶を指差した。
「それ。いつもの回復薬の瓶じゃないよな?」
「……っ」
再び緊張に身をこわばらせるリン。
「……これ……は…」
ごくり。
唾を飲み込む音が、妙に大きく聞こえる。
ぎゅ、ともう一度瓶を握りしめて。

するりと零れ落ちた自分の言葉を、リンはどこか他人の言葉のように聞いた。

「……アウラが、作ってくれた薬よ。怪我が早く治るって…魔法薬」

自分で、自分の言った言葉に驚いた。
心に残る理性が危険を訴える。駄目だ、それはおかしい、間違っていると。
だが、瓶を握りしめていた左手が、意思に反してテッドの方へと動く。
テッドは差し出された瓶を右手で受け取り、申し訳なさそうに苦笑した。
「そっか、なんか、何から何まで悪いな…マジ、ちゃんと礼言わないとな」
その言葉に薄い笑みだけを返すリン。
喉の奥がカラカラに乾いて、声が出ない。
テッドは受け取った薬をすぐ飲むそぶりはなく、両手で持って僅かに俯いた。
「何か…おまえにも、悪いことしたな」
「……え」
意外な言葉にきょとんとするリン。
テッドは彼女の方を向いて苦笑した。
「おまえ、最近元気なかったろ。
モンスターもどんどん強くなってくるし、おれも精一杯やってるけど、やっぱり女の子にはきついよな。
だから、おまえが元気取り戻せればと思ってさ。でも、おまえ服や食べ物じゃつられないだろ。そんなもんに金使うなとか怒るしさ。
魔道士のギルドに聞きまわって、滅びた魔法王国の話聞いたとき、これだ、って思ったんだ。おまえ、魔法の本読んでる時すげー楽しそうだったしさ。自分の力にもなるなら怒らないだろうと思って」
「テッド……」
かすれた声で言って、リンは目を丸くした。
再び、僅かに俯いてため息をつくテッド。
「でも、こんな目にあっちまった。あんなヘンテコな敵に全然歯が立たなくて、あげくこんなケガして、足止めさせちまってさ。
見ず知らずの王女様にも迷惑かけて、みっともねーな、おれ…」
「…そんな」
ことないわよ、という言葉は、声がかすれて続かなかった。
テッドは再び苦笑して、リンに顔を向ける。
「済んじまったもんはしょうがねえけどさ。ホント、ごめんな。
せめて、ケガ早く治して、早く旅に戻れるようにがんばるよ」
申し訳なさそうな笑顔。
ずき、と胸が痛んだ。

こんなに、自分に全身の信頼を向けていて。
自分を思って行動し、心の底から申し訳ないと謝ってくれている彼に対して。

自分は、何を、しようと、している?

手に取った瓶の蓋を開け、なんのためらいもなく口に運ぼうとする。
自分の与えるものに間違いはないと、彼はそう信じきっているのだ。

ずきん。

その動作がやけにゆっくりと見えて、また胸が痛んだ。
その薬は。
その薬を口にしたら、彼は。

ずきん。

渇いた喉から、ひゅう、と音がする。
瞬きも惜しいというように大きく見開かれた目は、彼の口に接触しようとしている瓶を食い入るように見つめていた。
彼の口が薄く開き、瓶がその下唇に触れ。

ずきん。

再び、自分の意思とは関係なく、勝手に手が動いていた。

「ダメ……!!」

ぱし。
リンは身を乗り出して、テッドが口に運んだ瓶をはたき飛ばした。

かしゃん、と甲高い音を立てて、瓶は床に落ち粉々に砕け散る。
驚いてそれを見やり、そしてリンに視線を戻すテッド。
「お、おい、おまえなに………っ」
そうして、リンの顔を見て絶句した。

はた、はた。
大きく見開かれた両目から、大粒の涙が零れ落ちている。
「リン……?」
呆然と、テッドはリンの名を呼んだ。
それを合図にしたかのように、リンの表情がくしゃりと崩れる。

「ごめっ……ごめん、なさい……っ、ごめ……」

しゃくりあげながらそう繰り返し、リンは手で顔を覆って泣いた。

テッドはどうしていいかわからぬ様子で、ただ困ったようにそれを見下ろすのだった。

16:His happiness or Ours

「…と、いうわけなの」

ひとしきり泣きじゃくって落ち着いたリンは、今までのことをテッドに話した。
剣を手に入れるときに魔道士に言われたこと、魔王がやってきて薬を置いていったこと、テッドが大怪我をしてこの先の旅に不安を感じ、死んでしまうくらいなら魔王の薬を使って力を奪った方がいいと思ってしまったこと。
魔道士と魔王の言葉は間接的に自分の想いを伝えてしまうようでためらわれたが、そのために彼を陥れようとまで暴走してしまったのだ。包み隠さず話すべきだと思った。出来るだけ淡々と、言われたことだけを語る。
「……ごめん。どうかしてたわ」
最後にそれだけ言って、リンは俯いた。

彼に迷惑をかけたくなくて秘めていた想いを、こうして話すことになってしまった。それも、こんなに最悪の形で。
気まずさといたたまれなさは感じたが、しかしリンはどこかすっきりしている自分も感じていた。
ずっと抱えていた重苦しい胸のつかえが取れたような、不思議に清々しい気持ち。
ひょっとしたら、自分はこうなることをずっと望んでいたのかもしれない。
これでもう、彼と旅を続けることは出来ないだろう。けれど、それでもいいと思った。自分の弱さが招いた、自業自得だ。そもそも自分が旅についてきたことが間違いだったのだ。
それでも、一緒に旅が出来てよかったと思う。思い出を残すことができて。

「……おまえ」
テッドが不意に言ったので、リンはそちらを向いた。
罵倒の言葉が来るだろうか。いや、彼は優しいから、彼女のした事を水に流して旅を続けると言い出すかもしれない。そうなればきちんと断らなくては。
そんなことを考えていると、テッドは半眼で言った。
「…ここんとこ様子がおかしかったのは、それだったのか?」
「……まあ、そう」
が、言われたのは予想外の言葉で、少し拍子抜けながらも、憮然として答える。
テッドは半眼のまま、さらに眉を寄せた。
「…どうせおまえ、もうおれと旅は続けられないとか思ってんだろ」
どき。
直球で心中を言い当てられ、言葉を失うリン。
が、すぐに彼女も眉を寄せた。
「…当たり前じゃない。あんたに嘘ついて毒を盛ろうとしたも同然なのよ?」
「でも、最終的には止めただろ」
「やろうとしたことが問題なの!あんた、何でそんなに呑気なのよ、自分のことでしょ?!」
自分が加害者なのにもかかわらず苛々したように言うリン。
いつもは彼女がこんな風に強く言えば折れるテッドだったが、しかし今回は譲れないというように言い返した。
「おまえ、ホントにいっつもそうだな!一人でポンポン考えて、勝手に決めて、おれのことなんかお構いなしだろ!」
「なっ……」
思わぬ反撃に絶句するリン。
いつも彼のことを考えて、彼のためにと振舞ってきた彼女にとって、その一言は深く深く胸に刺さるものだった。
「あたし…が、あんたのこと考えてない、っていうの…?」
怒りか、嘆きか、よくわからない感情に声を震わせるリン。
が、テッドもそれに怯む様子はなかった。
「そうだろ」
「どこが、あんたのこと考えてないのよ」
「考えてないだろ」
抑え目の声でそう言ってから、テッドは身を乗り出して声を荒げた。
「だいたいなあ、おれがいつ、おまえ……っ!」
そこで言葉を詰まらせ、それからくしゃくしゃと頭を掻いて首を振る。
「……っ、あーもう!おまえ、無駄に頭いいクセして、どうしてこう……!」
「……?」
様子のおかしいテッドに、怒りも忘れて訝しげな顔をするリン。
テッドはちらりとそちらを恨めしげに見て、はあ、とため息をついた。
「……つか、わかってんだと思ってた…魔王倒そうなんて旅についてきてくれるからさ、てっきり……」
「…わかってるって、何が?」
「……そうだよな、おまえはそういうやつだったよ、忘れてたのはおれか…はは」
「ちょっ、なに一人で納得してんのよ」
さすがにリンが言いつのると、テッドはもう一度彼女を恨めしげに見て、それからヤケになったように言い放った。

「何とも思ってないやつに、2人で旅に出ようとか言うわけないだろ!」

思考が停止する。
脳が彼の言葉を理解するのを拒否しているかのように、言葉の意味が浸透してこない。
「………は?」
やっと出たのは、そんな間抜けな声だった。
そんなリンを見返し、テッドは仕方なさそうにため息をついた。
「……おれさ」
どさ、と枕に背を預けて。何かを思い出すように視線を上げる。
「魔王を倒す旅に出ようって思ったのは、もちろん姫様も可哀想だと思ったし、自分の力を試したいってのもあったけど。
……もったいない、って思ってたんだよ」
「……なに、が?」
まだよく回っていない頭で問い返すリン。
テッドは苦笑した。
「おまえが」
「……あたし?」
「おれ、おまえともよくちょっとした頼まれごとでモンスター倒しにとか行ってたけどさ。
剣の師匠のつてで、王宮のやつとかともたまにパーティー組んでモンスター討伐に行ったりしてたんだよ。
でもさ」
どこか誇らしげに微笑むテッド。
「宮廷魔術師なんて肩書きつけて偉そうにしてるやつら、正直、おまえほどのやつは一人もいなかったよ。
魔法の威力も、技術も、戦術も機転の早さも。
なのに、おまえはいつまでも魔法屋の店番から動こうとしねえし。こんなに力があるのに、それを他の誰も知らないんだぜ?
もったいないだろ。国一番の魔法使いがここにいるのにさ。
だから、魔王を倒せば、おまえの功績が国に残るって思ったんだ」
「あ……あんた…」
初めて、こんなに真正面からテッドに誉められ、リンは顔が熱くなった。
そういえば、剣の師匠づてに宮廷に出入りするようになって、宮廷魔術師を目指せばいいのに、と言われていたのを思い出す。彼女としては好きな魔法の研究が出来ればそれでいいので、興味を持てず話はそれきりだったのだが。
しかし、テッドが自分をこんなに評価していて、あの時の言葉にそんな意味があったとは思わなかった。
「それに……」
テッドは言葉を続けようとして、それから口ごもった。
「……なに?」
リンが促すと、テッドは少し言いにくそうに視線を逸らした。
「…おまえの親父さん、こえーしさ……」
「…父さんが?」
「おまえ、知らないだろ。おまえの親父さん、おまえに男が近づこうとするとすげー睨むんだよ。おれは幼馴染だし、亡くなったお袋さんの親友がおれの母さんだからそれでも大目に見てるみたいだけど、おまえの肩にでも触ろうもんならもうすげーよ。オーラが」
「そ、そうなの…?」
リンは初めて知る事実に軽く驚いたが、すぐにあの父ならやりかねん、と納得した。早くに母を亡くし、残った一人娘への父の溺愛ぶりは近所でも評判だったのだ。
テッドはため息をついた。
「だから、魔王を倒すっていう王様お墨付きの目的があれば、さすがに親父さんも口出ししないだろって思ったんだよ。
ま、出発のときに釘は刺されたけどな」
「…くぎ?」
リンが呟くと、テッドは乾いた笑みをそちらに向けた。
「俺の娘に手ぇ出したらただじゃおかねえ、ってさ」
「……っ」
リンは頬を染めて絶句した。
ふふん、と悪ガキのような笑みを浮かべるテッド。
「ま、旅に出ちまえばこっちのもんだと思ってたけどな」
「…っ、じゃああんた、姫のことは…」
リンの言葉に、テッドは心外そうに口を尖らせた。
「言ったろ?千年祭のときの1日だけの友達だって。友達が酷い目にあってたら助けに行くだろ、当然。
ガキの頃1日喋ったきりで今はどんな子かもわかんねえのに、恋愛感情なんてねえよ」
「………」
リンはまだ頬を染めたまま、それでも返す言葉もなく黙り込む。
はぁ、ともう一度ため息をつくテッド。
「…おまえ、マジでそう思ってたのか?おれが、姫のために魔王討伐に出て、魔王倒したら姫と結婚して次の王様になるってさ」
「…普通はそう思うじゃない……」
「普通って何だよ、普通って……」
がっくり、と頭を垂れるテッド。
「あーもー…おまえがさっき言ってた、この剣の『勇者』にマジ同情するぜ……」
ベッドの傍らにある剣に、ちらりと目をやって。
「笑顔で『結婚おめでとう、幸せになってね』とか言われたら脈ねーんだなって思うじゃんよ…化け物になるほど後悔してたってなんだそれ…」
「…っ、それって……」
リンが思わず言い、テッドはそちらに目を向けた。
「おれはそいつじゃねえから、断言はできねえけどよ。
おまえみたいに先回りして気持ち決め付けられて諦められたから、諦めて望まれた道を選んだっていう可能性だってあんじゃねえの?」
「そんな……」
リンと同じように、勇者のことを思って気持ちを封印した魔道士。
けれどそのことが決定的に、2人の間に溝を作っていたとしたら。
勇者も同じように、魔道士の態度から望みはないと、想いを封印して諦めたのだとしたら。
なんと、皮肉なことだろうか。
悲しげに眉を寄せて胸を押さえるリンに、テッドは苦笑した。
「…おまえはさ」
ベッドの上掛けを除け、足を出してベッドの縁に腰掛けて、リンと向かい合わせに座って。
「頭いいし、すげー魔法も使うし、いろんなこといっぺんに考えて行動できて、すげーと思うよ。
けど、自信満々なくせに自分の価値わかってなくて、強気で強引なくせに臆病で、なんでも自分ひとりで抱え込んで苦しんでさ。見てて危なっかしいよ」
くしゃ。
右手を伸ばして、俯きぎみのリンの頭を撫でる。
「おまえ、もっと甘えていいんだよ。なんでも一人で考えんなよ、何のためにおれがいるんだよ。
おまえみたいなめんどくせー女、相手できんのおれくらいなんだからな」
リンはテッドの手を頭に乗せたまま、苦笑した。
「………ばか」
ほろり、と涙が落ちる。
だが、悲しみや苦しみの涙ではなかった。暖かいものが胸を満たすのを、じんわりと感じる。

自分には幸せには出来ない、と決め付けるのも。
自分が幸せに導くのだ、と決めるのも。
どちらも傲慢だったのだ。
相手の気持ちを聞かずに、自分ひとりの考えを押し付けたのだから。

幸せは、当人自身が決めるもの。
そして、力を合わせて作り上げていくもの。
相手の気持ちも聞かずに独りよがりな幸せを押し付けたところで、それは本当の幸せではない。

ほんの少し、勇気を出せば。
一人で幸せにしたと悦に入るよりずっとずっと、満たされることが出来るのだから。

「…な、なあ」
手を下ろしたテッドが妙に真剣な表情で言うので、リンは涙をぬぐって問い返した。
「なに?」
テッドは一瞬ぐっと言葉を詰まらせ、それからおそるおそる訊いた。
「その……キス、していいか?」
リンはきょとんとして、それから頬を染めて苦笑した。
「………ばーか」
身を乗り出して、顔を近づけて。

「……そんなこと、いちいち訊くんじゃないわよ」

テッドの顔が近づいてきて、ゆっくりと目を閉じた。

プリマジ2つめは魔王にいじめられてからテッドとラブラブになるまでです。いやラブラブには程遠いかw
正直ここまで書いてもうほぼ書きたいことは書ききったんですがw あともう少し、エンディングまでひと悶着(魔王との闘い)があります。