この第一国語科準備室には、誰が持ち込んだのかわからない、どう考えても教員準備室に不要なものがいくつかある。
梨紗が愛用しているコーヒーメーカーを始め、旧式の低周波治療器や、時代を感じさせるレコードプレイヤーまである。
おそらくは梨紗同様、ここを休憩室代わりにしていた教員が持ち込んだものなのだろうが、いいのだろうか、といつも思う。ゆるいにもほどがある。
そして、そのゆるさ極まれり、という象徴が、この窓際にあるソファだった。誰が、というより、どうやって持ち込んだというのか。私物を持ち込むというレベルの大きさではない。準備室は応接室ではないのだから、もともとあったというのも無理がある。
相当年季が入っていて、ひょっとするとここにも粗大ごみ置き場かリサイクルショップから運ばれたものではないのか、という勢いのボロさだ。ガムテープなどで地味に補修されてしぶとく使われているようだった。
かくいう梨紗も、少し疲れたときはこのソファに座って窓からの陽を浴びながら休憩することが多い。今日のような暖かい陽気ならなおさらだ。
梨紗は誰もいないのをいいことに、ソファに座って提出物のチェックをしていた。
窓から差し込む日差しが、背中を心地よく照らして暖める。
「…これでよし、と……」
一通りチェックの終わった提出物をそろえてサイドテーブルに置くと、梨紗は伸びをして背もたれに寄りかかった。
と、そこに。
こんこん。
ノックの音がして、どきりとする。
数少ないこの部屋の来訪者の中で、ノックしてから入る人物は一人しかいなかった。
「失礼します」
落ち着いた声と共にドアが開く。
ノックの主――江崎は、いつもの穏やかな笑みで部屋に足を踏み入れると、パタンとドアを閉めた。
「今日はそっちか」
口調を素に戻して言いながら、ソファのほうへと歩いてくる。
梨紗は肩を竦めて、言葉を返した。
「今日は学年委員会じゃなかった?」
「今終わった。疲れたよ」
言葉の通りの疲れた表情をして、梨紗の隣に座る江崎。
いきなり近づいた距離に戸惑いつつも、梨紗は努めて平静を装った。
「疲れたなら、早く家に帰ったら?」
「帰って疲れが取れるならそうしてるさ」
江崎は不敵に微笑んで言ってから、ふわ、と珍しく欠伸をする。
「眠い」
「寝てないの?」
「古田のヤツ、どう考えても1日じゃ無理な課題出しやがって…提出したの俺一人しかいなかった」
「ああ……」
「なあ、古田って奥さんに逃げられたっていうの本当?」
「えっ。そ、そんなプライベートまで知らないわよ。確かに最近少しイライラしてるみたいだったけど…古田先生」
「ったく、生徒でウサ晴らすなっつーんだよな……」
ふわ。
もう一度欠伸をして、江崎はそのままごろりと横になった。
「ちょっ…?!」
いきなり自分の膝に頭を乗せられ、思わず声を上げる梨紗。
「え、江崎くん?!何するのいきなり!」
「だから、眠いんだって」
「眠いのはわかったけど!」
「まあまあ、いいだろ」
ごろ。
江崎は頭を上に向け、梨紗と視線を合わせた。
「っ……」
いつもと違う視界に戸惑う梨紗。
江崎はにっと笑って、すっとあげた右手で梨紗の頬に触れた。
「ちょ……」
「見上げるのもなかなか、新鮮でいいね」
「だから…!」
梨紗は動揺のあまり言葉が続かず、代わりに頬を真っ赤に染める。
くすくす笑いながら、指先を梨紗の髪に絡める江崎。
「真っ赤になっちゃって、本当可愛いな、先生」
「あ、あのねえ!」
「相手してやりたいけど、今日は本当に眠くて疲れた。ちょっと寝かしてくれ」
「だから、疲れてるなら帰って…」
「何度も言わせるなよ」
くん。
指に絡めた髪を、やんわりと引っ張って。
「帰ったって、疲れなんか取れないさ。
眠るだけなら出来るだろうがな」
「江崎くん……」
その、静かに追い詰められたような声の響きに、梨紗は思わず眉を寄せた。
江崎はふっと寂しそうに微笑んで、そのまま目を閉じる。
ぱたり、と、梨紗の髪に触れていた手が力をなくして落ちた。
すう。
ほどなくして、規則正しい寝息が聞こえてくる。
「……もう……」
梨紗は小さく嘆息して、膝の上の江崎の顔を改めて見下ろした。
品行方正な級長らしい、端整な顔立ち。伏せられたまつげは意外に長く、少女のような印象を与える。これくらい中性的な方が、今時の高校生には人気なのだろう。江崎の噂をする女生徒は決して少なくない。
適度に伸ばされ整えられた髪の毛は、細くて癖が無い。まさか染めてはいないだろうが、少し色素が薄かった。
くしゅ。
触れると猫の毛のような心地よい感触がして、思わず指を絡める。
「ん……」
江崎が僅かに身をよじったので慌てて手を止めたが、そのまま目を覚ます様子が無いのに何故か少しほっとした。
先ほどより心なしか安らかな表情をしているような気がして、髪に触れていた手でそっと頭を撫でる。
指の間を滑っていく髪の毛の感触が思ったより心地良くて、梨紗の表情も自然と緩んだ。
(…って、何やってるのよ、あたし)
そこで我に返って、かすかに頬を染める。
だが、撫でている手は止まらない。
(…よく寝てるし、気持ちよさそうだし……いいわよね)
自分に言い聞かせるように理屈をつけて、そのままそっと髪を撫で続ける。

そのまま、日が沈んで下校時刻になるまでの僅かな時間だったが。
無防備に眠る江崎の顔を見下ろしながら、梨紗はずっと、優しくその髪を撫で続けていた。

その胸に灯る不可解な感情に、名前をつけることが出来ないまま。

膝枕祭作品、その2。飛び火したての作品です(笑)ソファの設定とか、すごい後付け(笑)まあいいんだ、膝枕のためだ(笑)
悠人くんが優等生ヅラを保つのも、意外に大変なのです。