「うーっ……つかれた……」

力ない声で呟きながら、梨紗は椅子に座ったまま伸びをした。
月末は何かと処理しなければならない仕事が多い。生徒を教育するだけでは終わらないのが、仕事とはいえ多少の面倒さを感じるところだった。
しかしおかげで明日提出の書類はどうにかまとめ終えた。生徒たちの提出課題のチェックも終わっている。
「…もうこんな時間」
時計を見てから、もうすっかり日も暮れて暗くなった窓の外を見る。
梨紗は嘆息すると、もうすっかり冷めてしまったコーヒーを飲んだ。
夕食はどうしようか、かなり疲れてしまっているから帰って作るのも億劫だが、寄っていける飲食店は結構な遠回りだし…などと考えていると。
こんこん。
ノックの音が聞こえ、返事を待たずにドアが開く。
「失礼します」
一礼とともに、悠人が入ってきた。
もはや当たり前になってきたこの風景に、梨紗も慣れた様子で言葉をかける。
「どうしたの、こんな遅くまで」
「生徒会の手伝い。プチイベントやってたんだよ、知らないのか?」
「プチイベント?」
言われてみれば、悠人は手になにやら黒い布をかけている。
新任の梨紗は自分の仕事に手一杯で、生徒たちの自主活動についてはあまりタッチしていないのだが、今日は何かあったのだろうか。
首を傾げていると、悠人はくすっと笑ってカレンダーに目をやった。
「今日、何の日だ?」
「今日?」
つられて梨紗もカレンダーを見る。
「10月31日………ああ、ハロウィンね」
「放課後に仮装イベントやってたんだよ。参加者に菓子を配って歩いてた」
「へえ…そんなことやってたのね。ここの生徒会は精力的ね」
「お祭り好きなんだよ」
「いいことだわ。勉強ばかりじゃ似詰まってしまうものね」
「そういうりいは、イベントとは縁遠い生活をしてるんだな」
「なっ」
あれから、悠人はすっかり梨紗のことを「りい」と呼ぶようになっていた。彼本人はまるで最初からその呼び方をしていたように自然に呼んでいるが、梨紗はまだ正直心中穏やかではない。
だが、動揺しているところを見せればまた何とからかい倒されるか判らないので、梨紗は少し睨むようにして彼を見返した。
「子供のお祭りでしょう、小さいころならともかく、今はわざわざ気に留めたりしないわ」
「欧米は大人も盛大なパーティーをするだろ?」
「ここは日本です。そもそも、日本でハロウィンをやるようになったのもここ最近でしょう」
「そうなの?」
「そうなの」
「さすが年の功だね」
「はいはい。じゃあ年上の言うことは聞いて、さっさと帰りなさい。下校時刻過ぎてるでしょう」
「まあ、そう言うなよ」
ぴしゃりと言った梨紗の言葉にも全く動じることなく言って、悠人は持っていた黒い布をさっと広げると慣れた手つきでそれを羽織った。
ふわり。
たたまれていたその布は、どうやらマントであったらしい。赤いビロードの裏地が僅かに見える黒いマントは、制服の白いジャケットの上に羽織るには少しアンバランスだ。
空中に広がった黒いマントに気をとられていると、悠人はいつの間にか白い仮面をかぶっていた。顔の半分だけが隠れる、オペラ座の怪人のようなマスクだ。
「っ……」
いつもと違うその様子に、梨紗は一瞬絶句する。
普段は見えている部分が中途半端に隠されるというのは、思うよりずっと背徳的で、アンバランスゆえの美しさを醸し出していた。仮面の穴から僅かに覗く瞳がまっすぐに自分を捉えていることが、そのまままっすぐに見つめられるよりずっと動揺を誘う。
悠人はもう一度、くす、と鼻を鳴らした。
「見とれた?」
「…見とれてません」
もう一度悠人を睨む梨紗。
「素直じゃないね」
「…自意識過剰よ」
「そうか?」
笑みを崩さぬまま歩み寄る悠人。
梨紗は椅子に座ったまま、少しだけ身構えた。
「そんなに警戒するなよ」
「別に、警戒なんか」
「じゃあ、はい」
悠人は言って、手のひらを上に向けて差し出す。
首を傾げる梨紗。
「?」
「トリック・オア・トリート」
「……え?」
「だから、トリック・オア・トリート。知らないのか?」
「いや、知ってるけど。お菓子なんてないわよ」
「それは知ってる」
「…お菓子がほしいの?」
「…いや、どっちかっていうと」
悠人はそのまますっと指先を伸ばすと、梨紗の前髪に僅かに触れた。
僅かに屈んで、仮面の奥からじっと彼女を見つめて。

「……イタズラがしたい、かな」

ゆっくりと、低い声で囁かれ、梨紗はたちまち頬を染める。
「なっ……」
「ほら、早く菓子くれないとイタズラするぜ?」
「だっ、だからお菓子なんて…」
「5秒待ってやる」
「え?!」
「4」
「ちょっ、だから」
「3」
「待って、ねえっ」
「2」
「もう……!!」
「1」
「っ……!」
慌ててお菓子を探そうとはしてみたものの、当然あるはずもなく。
カウントダウンに焦った梨紗は、1のカウントとともに思わずぎゅっと目をつぶった。

むに。

唇に何か、硬くて冷たいものが当たる。
思っていたのとは違う刺激におそるおそる目を開けると、悠人はピンク色のキャンディーを梨紗の唇に押し当てていた。
「やるよ、ほら」
はく。
さらに押し付けられ、思わず口の中に入れる。
口の中にイチゴの甘い香りが広がった。
状況が把握できずぽかんとしている梨紗に、悠人はくすくすと鼻を鳴らす。
「何か期待した?」
「……してませんっ!」
口の中で飴を転がしながら、真っ赤になって言い返す梨紗。
悠人はひとしきり楽しそうに笑うと、仮面とマントを外して元のようにたたんだ。
「楽しかったよ。また来る」
「いいから早く帰りなさいっ」
梨紗が悔し紛れにそう言うと、悠人はもう一度楽しそうに笑って、部屋を後にした。
ぱたん。
乾いた音を立てて閉まるドアを、まだ赤い顔で睨みつける梨紗。
「まったくもう……!」
悔しげに言って、息を吐く。
口の中で転がるイチゴのキャンディーは、普段食べるものよりずいぶん甘い気がした。

ハロウィンネタです(笑)せっかく現代モノなので、ファンタジーではいちいち設定描写からしなくてはならないハロウィンを楽しんでみたいと思い(笑)
エリリーでは出来そうでなかなか出来ない、「ひたすらエリーにからかわれるリー」というのをこちらで堪能させてもらってる感じです(笑)形勢逆転する時が、この話が動く時なんだろうなあ。