「………江崎くん」

背後から聞こえる掠れた声に、梨紗は思わず肩を縮めた。
(……なんであたしが隠れなきゃいけないのよ)
理不尽な思いに駆られながら、それでも息を潜めて背後の気配をうかがう。
ここは校舎の一番北側にある非常階段。あまり人通りは多くない、というかほとんど使う者のいない閑散とした場所で、人目につかずに何かをするには格好の場所といえる。
同じく校舎の外れにある第一国語科準備室に向かうために梨紗自身は良く通る道だったのだが、珍しく人の話し声がすると思って近寄ってから、彼女は思わず階段の影に身を隠してしまった。
踊り場にかろうじて見えたのは、悠人と女生徒の後姿だったから。
斜め後ろから聞こえる女生徒の声に、そんなつもりはなくとも耳を澄ましてしまう。
思いつめたような声で江崎に語りかける彼女は、梨紗の受け持っているクラスの生徒ではないようだった。姿を見てすぐに隠れてしまったので江崎の表情は見えない。
「私……っ、江崎くんのこと……!」
だんだんと勢いを増していく彼女の言葉が、不意に途切れる。
「しっ」
言い聞かせるような囁き声で、悠人。
「……その続きは、言わないでください」
「…江崎くん……?」
「あなたのお気持ちはわかっています。ですからその思いは、どうか胸の中にしまっておいて下さい」
「……それって……」
涙声になる彼女。
辛そうに声を掠れさせる悠人の声が響く。
「…不甲斐ない僕をお許しください……あなたを、傷つけたくない」
「そんな……」
しかし、彼女も諦めなかった。
「誰か…彼女とか、好きな人とか…いるの?」
「いえ……」
悠人の苦笑の気配。
「今の僕は…僕自身が抱えている問題が多すぎて、きっと、誰かとお付き合いしてもその方を悲しませるばかりです。
その不安があるうちは、僕はどなたともお付き合いするつもりはありません」
「でも……」
「わかってください」
再び諭すように、悠人は言った。
「今の僕では、きっとお互いに幸せな結末を迎えることができない。それは、あなたにとっても、僕にとっても、良いこととは決して思えません。
ですから、僕があなたを幸せに出来るような男になったその時、あなたの心の隅に僕がいたなら、そのときもう一度、あなたの胸の中にあるその言葉を聞かせていただけますか」
「江崎くん……」
耳障りのいいことばかり並べているが要はお断り、という悠人の言葉に、しかし女生徒は少なからず感動した様子が声から伝わってくる。
(詐欺師の才能あるんじゃないかしら)
声しか聞いていないし第三者であるから梨紗も冷静にそんなことを考えるが、もし自分自身が悠人に正面から見つめられて同じことを言われたら同じように感動するのではないかとも思う。悠人の魔力は言葉ではない。彼のあの雰囲気には逆らえない、と。
そんなことを考えている梨紗の後ろで、順調に話は進んでいた。
「ありがとう……私、待ってるから…江崎くんのこと」
「ありがとうございます」
悠人はいたわるようにそう言って、女生徒を促す。
「さあ、もう暗くなります。僕は委員会の仕事でお送り出来ませんが、お気をつけて」
「ありがとう、また明日ね、江崎くん」
たたた……
女生徒が階段を駆け上がっていく音。
梨紗は何となく、ほっと息をついた。
すると。

「先生」

再び斜め後ろから声がかかり、びくっとして振り返る梨紗。
数歩階段を下りた悠人が、覗きこむようにしてこちらを見ている。
「え、江崎く……」
「ちょうど良かった。今準備室に伺おうと思っていたところなんです。ご一緒してよろしいですか?」
「へっ」
先ほどのやり取りに欠片も触れることなく、いつもの完璧な「外面」で話す悠人に、思わず間の抜けた声を返す梨紗。
悠人は階段をゆっくりと下りると、梨紗の持っていた紙袋にそっと手を伸ばした。
「お荷物、お持ちします」
「え、あ……りがと」
ごく自然な流れで荷物を持たれ、歩き出す悠人の後を追うようにして歩き出す。
国語科準備室は、階段を上ってすぐのところにあった。
きい、ぱたん、とドアの無機質な音がして、2人は部屋の中に入る。
「……ふう」
とす、と机の上に紙袋を置いてから、悠人は梨紗を振り返った。
「立ち聞きなんて、意外に下品だな」
「なっ……」
にやりと笑いながら素で話しかけてくる悠人に、思わず絶句する梨紗。
「べっ、別に立ち聞きしてたわけじゃ……」
「でも、聞いてたんだろ?」
「き、聞きたくて聞いてたわけじゃないです!」
「そりゃそうか。止めに入ってくると思ったが、意外だったな」
「え」
悠人の言葉の意図がわからずしばらく考えるが、不意に思い至って目を見開く。
「まさか、わざとあそこで話を?」
「密談をするにはなかなかいい場所だろ?」
悪びれずに笑みを深める悠人。
「どこかで話を、って言うから、あそこを勧めたんだよ。あの時間にりいが通るのもわかってたし」
「な、なんでそんな」
「告白中に教師に見咎められたら、気まずすぎてそれ以上続けられないだろうなと思って。その場でも、これから先もさ」
「な、なにそれ!」
梨紗は思わず大きな声で言い返した。
「あたしを利用しようとしたってこと?!なんでそんなこと!」
「見るからに面倒臭そうな相手だったからな」
嘆息して肩を竦める悠人。
「事実がないのに妄想だけ膨らますタイプは、想定しない方向からのショックで目を覚まさせてやるのが一番効くんだよ。『親しく話したこともない相手を一方的に好きになって交際を迫る』っていう客観的な現実を見られれば冷めるのも早い。同級生でない、逆らえない『教師』に見咎められる、ってのは最良の『冷水』だ」
「そんな……あなたを一途に好きになった子のことをそんな風に言わなくても」
「俺の?どこを?あの女が俺の何を知ってるって?」
梨紗の言葉に、悠人は酷薄な笑みを浮かべた。
「三つ隣のクラス、中学は別、同じクラスになったこともない、記憶に残るほど話した記憶もない。素の俺どころか、普段の俺とも喋ったことのないヤツが、俺の何を好きになるっていうんだよ。それは俺じゃない、あの女の心の中にだけいる『都合のいい俺』だ」
「………」
梨紗が納得のいかない表情で黙ると、肩を竦めて。
「だから、りいの助けが見込めないから、できるだけ傷つけないようにしてやったろ?待ってるって言ったが、その熱もそのうち冷めるさ。自分のことも俺のことも、『綺麗な思い出』で終わらせてやるのが一番だろ。
それとも、素の俺を見せて幻滅させた方がよかったか?」
「そういうことじゃなくて…」
「ま、俺もそんなことしてせっかく築いた『優等生』の像を壊すようなリスクはごめんだしな」
「………」
まだ納得のいかない表情で、それでも黙り込んで視線を逸らす梨紗。
悠人はその視線の先に回りこむように、眉を寄せて顔を傾けた。
「何が不満なんだよ。別にりいに迷惑かけてないだろ」
「その言い方よしてよ、迷惑かけなきゃ何してもいいみたいに」
さすがに梨紗も言い返す。
「面倒そうな子だったから適当に煙に巻いた、っていうこと?酷い人ね」
「ずいぶんな言われようだな。なんだ、付き合ってやった方が良かったってことか?」
「なっ……」
「あとくされがなきゃ少しくらい相手になってもいいが、あのタイプはあとくされがありすぎる。自分に起きたことを吹聴せずにいられないタイプだ。
せっかく築き上げた信頼関係をぶちこわしにされたらたまらない。波を立てないようにお断りするのも骨が折れるよ」
「相手に『なってもいい』とか言うところが酷いって言ってるの。何様なの?」
「安心しなよ、本人には言ってないから」
「陰で言ってれば同じでしょ」
「仕方がないだろ。俺は相手が好きじゃない。ついでに言えば彼女を欲しいとも思わない。相手の一方的な都合につきあってやってるんだ、陰で言うくらい目をつぶれよ」
「ああそう、ずいぶんおもてになることで。女のあしらい方もお手の物、っていうことね」
投げやりに梨紗が言うと、悠人はきょとんとして言葉を途切れさせた。
そして。
「………なんだ」
ふ、と息を吐いて、いつもの妖艶な笑みを浮かべる。
「やけに突っかかると思ったら、妬いてるのか」
「やっ……!」
とたんに頬を染める梨紗。
「なっ、なんでそうなるのよ!」
「だってそうだろ?俺が二枚舌なのなんか今に始まったことじゃない。
なのにこんなに絡んでくるのは、俺の女あしらいが慣れてる、つまりそれだけ経験がある、っていうことがわかったからだろ?」
「っ………」
言い返すことが出来ず、梨紗は顔を真っ赤にしたまま言葉を詰まらせた。
言い返すことが出来ない、つまり図星だということを認めざるを得ない。
いくら経験に乏しいからとはいえ、6つも年上の梨紗をこれだけ手玉に取れるということは、彼がそれだけ女性との経験をしてきたことを意味する。
それが無性に腹立たしかった。
何故かは、わからないが。
「真っ赤になっちゃって、相変わらず可愛いな」
「っ、だから……!」
くすくすと可笑しそうに肩を揺らす悠人に、弁解をしようとして口をぱくぱくさせる。
悠人は相変わらずの余裕の笑みで、すっと梨紗に顔を近づけた。
「ちょっ……」
「安心しなよ」
すっと手を伸ばし、梨紗の髪にいつものように指を絡めて。
さらりと髪を梳く感覚に、梨紗の鼓動が跳ね上がる。
「俺は今のところ、誰とも付き合う気はない。
………りいが、いるからな」
「っ……」
どくん、と、ひときわ心臓が大きく鳴った。
喉の下に何かが詰まったように、息苦しい。
梨紗は大きく目を見開いて、まっすぐ見つめてくる悠人の瞳を見返した。
と。
悠人はすっと目を細めると、囁くように言った。
「………とでも言えば、満足か?」
「っ……!」
先ほどとは別の意味で、かっと顔が熱くなる。
梨紗は悠人の手を振り払うと、憤然と言った。
「もうっ……!そんなことばかり言ってると、いつか痛い目を見るんだから!」
「はは、せいぜい気をつけるよ」
可笑しそうに笑って、コーヒーを入れに行く悠人。
いつの間にか我が物顔で準備室の私物を使い始めているのにも腹が立つ。
「ちょっと、何勝手に使ってるの。いいからもう帰りなさい、毎回言ってるけど!」
「毎回言ってるのに無駄だって気づかない辺りは、学習しないんだな」
「もう!いいから!早く!帰りなさい!」
「まあまあ、そんなに妬くなよ、みっともない」
「妬いてません!」

夕日が差し込む国語科準備室は、いつもより少しだけにぎやかだったという。

本家でもあまりエリーがどれだけモテるか描写はしないんですがモテてるんです。ただあたしがモテる男というものが想像できないだけです(笑)
マメな男は顔とか関係なくモテると思いますが、彼は間違いなくマメなタイプなんでしょうな。接する女の好みから攻略法から全部把握して無駄のない動きをするタイプ(笑)
で、りいはそれが面白くないと(笑)そんな感じで書いてみました。