「男、いたんだ」

翌日。
国語科準備室にやってきた江崎が、コーヒーを飲みながらそう言ったので、梨紗はきょとんとして振り返った。
「え?」
「昨日。あの派手な友達と話してたろ」
「ちいのこと?」
「先生の友達って感じの奴じゃないよな」
「まぁ、タイプは違うわね…腐れ縁なのよ」
苦笑して答えてから、先ほどの台詞を反芻する梨紗。
「……って、あなたどこから聞いてたの?!」
「反応遅すぎ」
江崎は楽しそうに笑って言った。
「いつまでたっても触らせてくれない、のあたりからかな」
「そ、そんなところから……すぐに声かけてくれればいいのに」
「いや、俺も気になったし」
「気になったって?」
梨紗の問いに、江崎はふっと笑うとマグを置いて身を乗り出す。
「…どこまでやらせてやったんだ?」
「なっ……」
梨紗は絶句して、それからさっと頬を染めた。
「な、なんでそんなこと言わなきゃいけないのよ!」
「気になるから」
「あなたが気になっても、あたしに喋る義務はありません!大体失礼でしょ、女性のプライヴェートを!」
「だって気になるだろ、どんな付き合いしたらこんな初心な22歳が出来上がるのかってさ」
「お、大きなお世話です!」
「なあ、彼氏にもこんな感じだったのか?」
「こんな感じ、って?」
「顔近づけたり髪触っただけで、真っ赤になって動揺したり」
「そっ……」
そんなことはない、と断言できずに口をつぐむ梨紗。
今この時点、彼の言動に動揺しまくっているこの現状で、何を言っても説得力がない。
江崎はくすくすと笑った。
「そんなんじゃあ、男も手出しにくかったろうな」
「……別に」
「うん?」
「別に、何もさせなかったわけじゃ……」
「へえ?」
拗ねたように言う梨紗を、江崎は面白そうに見やった。
憮然として目を逸らす梨紗。
「…一般的なお付き合いは、してたわよ」
「先生の一般的と世間の一般的は違うかもな?まあ、あのちいとかいう友達もあまり一般的とは言えなそうだが」
「だからっ。デートでするスキンシップくらいは、普通にしてましたっ」
「ふうん。まあスキンシップの具体的な内容は聞かないでおいてやるけど。で、大丈夫だったのか?」
「別に平気よ。おつきあいしてたんだもの」
「……じゃあ」
江崎はにやりと笑って頬杖をついた。
「俺だけ、ってこと?」
「何が?」
「触られて照れるのが」
「っ……」
扇情的な笑みに、また顔がかっと熱くなる。
「それは……っ、あなたが、いきなり……」
「じゃあ、いきなりじゃなきゃ大丈夫なのか?」
「えぇ?」
「今から触るから。判ってれば平気なんだよな?」
「ちょっ……」
梨紗が止めるまもなく、江崎は彼女の髪に手を伸ばし、ひと房を掬い上げて指に絡める。
これでは『いきなり』とさして変わらないではないか。そう思いつつも言葉に出来ないまま口をぱくぱくさせていると、江崎は引き寄せた髪にそっと頬を摺り寄せた。
「…っ……!」
頬がますます熱くなる。
江崎はそんな梨紗の様子に、楽しそうにくすくすと笑った。
「ダメじゃん」
「だって、そんな……!」
「宣言したろ?」
「変わらないわよ、こんなの…!」
かすれた声で言い返す。

梨紗は混乱していた。完全に江崎のペースである。
学生時代に付き合っていた相手と接する時は、こんなことはなかった。
相手から乞われての交際だったが、話すのも連れ立って出かけるのも楽しかったように思う。
触れ合うのにも嫌悪感はなかったが、ここまで体が熱くなったり動揺することもなかった。
江崎のような大胆で扇情的なことをする男性ではなかった、ということもあるのだろうが。

くい。
そんなことを考えていると、江崎が梨紗の髪をやんわりと引く。
頬杖をついたまま顎を引き、少し上目遣いで彼女を見て。

「………りい」

どきり、とする。
江崎が自分の名を、それも愛称を呼んだというただそれだけのことで、鼓動が早くなり、体が熱くなるのを感じる。
江崎はわずかに目を細めると、低く問うた。
「…彼氏もそう呼んでたのか?」
「……いいえ、名前、で……」
何を自分は正直に答えているのだろう、と頭の隅でぼんやり思いながらも、勝手に口が動いていく。
江崎は満足げに笑みを浮かべた。
「いいね。じゃあ、これからそう呼ぶよ、ここでは」
「…え?」
「先生、って呼ぶのも飽きた。りいって呼ぶよ。もちろんここでだけだが」
「…な、何言って」
「りいも呼んでくれよ」
「え?」
さっそく呼び方を変えられて、またどきりとする。彼の言葉の内容が脳に浸透しない。
江崎はもう一度にこりと笑って、ゆっくりと言った。
「俺の名前。呼んでくれよ」
「っ……」
脳が意味を理解したところで、再び言葉に詰まる。
江崎は満面の笑みを浮かべた。
「呼んでくれるまで帰らない」
「な」
言葉に詰まって、梨紗は視線を逸らした。
冗談じゃない。何でそんなことを。いいから帰りなさい。
彼女の方が年齢も立場も上なのに、たったそれだけの言葉が出てこない。彼の雰囲気に、飲まれる。言い返せない。
「りい」
江崎はもう一度名を呼んで、顔を近づけた。
「…頼むよ」
至近距離で囁かれる。
「………」
何故か息苦しさを感じて、あえぐように口が開いた。
「……ゆ」
何を、言うとおりにしているのだろう。
先ほどと同じように、頭の隅でぼんやり思いながら、それでも口が勝手に言葉を紡いでいく。

「……悠、人、くん」

かすれる声で、途切れ途切れにそれだけ言うと、江崎は……悠人は、満足げに笑みを深めた。
「いいね。想像以上だ」
感慨深げにそう言って、立ち上がる。
「また来るよ、りい」
「………」
まだ頬を染めたまま呆然とした様子の梨紗に、もう一度くすりと笑って。
「じゃあ」
悠人はくるりと踵を返すと、部屋を後にした。

すでに夕日が差し込んでいる国語科準備室で。
梨紗はただ呆然と、それを見送るのだった。

呼称変化イベントは乙女ゲの重要要素のひとつなのですよ(力説)
悠人には呼び捨てで呼ばれるのに自分は「くん」付けなところが、梨紗の萌えポイントです。その次の段階にはまだまだ経験値が足りない模様。