「失礼します」

ノックとともに響いた声に、梨紗は軽く肩を震わせた。
「石原先生から風見先生に渡すようにと言付かってきました」
ドアを開け、いつもの笑顔で告げる江崎。手に数冊の本を持っている。
梨紗は努めて冷静に笑顔を作った。
「ありがとう。悪かったわね」
チェック中だった提出物とチェック表を閉じて、立ち上がる。
入り口まで歩いていくと、江崎もこちらに歩み寄ってきた。
「どうぞ」
「ありがとう」
差し出された本を受け取ろうとして、持っていた江崎の手に触れてしまう。
「っ……!」
思わず手を引っ込めると、ばさばさと本が落ちた。
「ご、ごめんなさい」
慌ててしゃがみこみ、散らばった本を拾う。
隣で江崎もしゃがんだ気配がした。
「警戒しすぎ」
「っ……」
耳元で囁かれ、どきりとして顔を上げる。
目の前の表情は、先日のような鋭く艶めいた微笑で。
「気にしてない風を一生懸命装ってるけどめちゃくちゃ気にしてます、って顔に書いてあるよ」
「なっ……」
思わず声を上げた梨紗に、江崎は楽しそうにくすっと鼻を鳴らした。
「先生、わかりやすいって言われるだろ」
「お、大きなお世話です!」
真っ赤になってそう言って、本を持って立ち上がる。
くるりと背を向けて自分のデスクに戻りながら、背後に江崎も立ち上がった気配を感じた。
ぼす、と乱暴に本を置いて、またくるりと振り返る。
「もう何もしないんじゃなかったの?」
まだ若干目尻を朱に染めながら問うと、江崎は意外そうな顔をした。
「してないだろ?何も」
「えっ……」
「俺の手に触ったのも、本を落としたのも、冷静なフリして顔に出まくってるのも、先生。俺は何もしてないよ。違うか?」
「う……」
返す言葉もなく首を縮める梨紗に、また楽しそうにくすくすと笑う江崎。
「大人なんだからさ。何もなかったフリしてくれよ。教室でもガッチガチになっちゃって、いつボロが出るかってヒヤヒヤした」
「そ……そんなに態度に出てた?」
「まあな。クラスの奴らも最近先生ちょっと変だよねって言ってたよ」
「………」
江崎の言葉に憮然とする梨紗。
江崎は肩を竦めて嘆息した。それから苦笑して、いつもの口調に戻る。
「ですから、お気になさらないでください。僕はもう言葉の通り、先生には何もしませんから」
「やめてよ」
梨紗が思いの外強い調子で遮ったので、江崎はきょとんとした。
「何をですか?」
「その話し方。本当の言葉で話せばいいでしょう?騙されてるみたいで気分悪いわ」
「人聞きが悪いな」
くす、と笑って、元の口調に戻す江崎。
「別に騙してないだろ。嘘をついてるわけでもないし、誰かを傷つけたわけでもない。
今だって、俺が素で喋ると先生がオロオロするから戻したんだろ」
「オロオロなんてしてません」
「オロオロじゃなきゃオタオタか。まあどっちでもいい。
素で喋れば動揺して、繕って喋れば怒られて、どうしろっていうんだよって話だ」
「………」
梨紗はまた返す言葉を失って口をつぐんだ。
この短いやり取りだけでも、口では彼に敵わないと身にしみている。現国教師だというのに情けない話だが。
梨紗は嘆息した。
「ねえ、どうして?」
「何が?」
「どうしてそんな風に、演じようとするの?」
梨紗の言葉に僅かに眉を寄せる江崎。
だが、すぐにまたにやりと口の端を吊り上げて、答える。
「先生の言った通りだよ」
「あたしの?」
「社会を生きてく上で、建前で表面を覆うのは必要なこと、だったか?」
先日梨紗が言った言葉をそのまま並べて、皮肉げに笑って。
「相手の望む通りの態度で接してやれば、敵を作らずにおける。親も教師も、理想の子供になってやれば優遇するし、こちらの我侭もうまく通せる。
処世術だよ。大人だって同じことをしてるだろ?」
「そんな……」
江崎の言い草に眉を顰める梨紗。
江崎は苦笑した。
「そんな顔するなよ。さっきも言ったが別に騙してるわけじゃない。嘘もついていないし、誰かを傷つけてるわけでもない。
周りは理想の子供、理想の生徒、理想の友人を持てて満足。俺は優遇してもらえて満足。誰も損をしない、問題ないだろ?」
「そういうことじゃないわ、それも言ったでしょう」
眉を寄せたまま反論する梨紗。
「そんな、周り中に気を遣うような生活を送っていて、あなたに休まる時はあるの?
優遇してもらえてって、物理的なものが満たされれば幸せなの?そうじゃないでしょう?」
「………」
江崎は少し黙って、梨紗を見つめ返した。
梨紗も真剣な表情で彼を見据えている。
「なあ」
何かを探るような声音で、江崎は言った。
「先生は何で、俺にそんなに構うわけ?」
「えっ……」
きょとんとする梨紗に、さらに続ける。
「先生に迷惑かけたわけでもない。自分で言うのもなんだが気配りの優等生だ。成績も申し分ない。俺の内面がどうだろうと、先生に迷惑かけることはないはずだろ。
何でそんなに俺に構う?先生にメリットはないだろ?むしろ俺が素を出したことで優秀な生徒を一人失うかもしれない。理解できないね」
「メリットとか、そういうことで動く人間ばかりじゃないわ」
梨紗はきっぱりと言い返した。
「あたしは、あたしの生徒が、誰にも知られないところで疲れて壊れていくなんて嫌なの。
できる限りのことをしたい、それがあたしに直接のメリットはなくてもね。
ひとの気持ちって、そういうものじゃない?理由なんてない、ただそうしたいだけ」
「それが理解できないって言ってるんだよ。自分の損得を考えないで動く人間がいるか?それを非難してるんじゃない、俺自身がそういう人間だから、その行動原理は当然だと思うしむしろ共感できる。
俺からしてみたら、先生みたいなのの方が理解できない。理解できないものは信用できない。当然だろ?」
「江崎くん……」
梨紗はいたましげに江崎を見やった。
「…あなたの周りにそういう人が多かったのは事実かもしれない。けど、そんな人ばかりじゃない、本当よ。
あなたが人間をそういうものだと言うなら、あたしはそうじゃないって言い続ける。
あなたがそんな状態なのを知ってしまった以上、あたしは忘れることも、見ないふりをすることもできないわ」
きゅ、と自分の手を握り締めて。
「………あなたが、心配なの」
梨紗の言葉を、江崎は黙って聞いていた。
感情の見えない表情は、用心深く相手を見極めているようにも見える。
「……先生」
江崎は何か考えてから、ゆっくりと梨紗に言った。
「素の自分をさらけ出せる相手を作れ、だったな」
「……ええ」
先日梨紗が言った言葉を繰り返され、頷く梨紗。
江崎はにっと笑って、梨紗に歩み寄った。
彼女の前で足を止め、屈んで顔を近づける。
「な、なに?」
先日のことを思い出して思わず身体を引く梨紗。今日は後ろがデスクなので、かろうじて上半身が逃げるスペースはある。
江崎は梨紗の様子に、くす、と鼻を鳴らした。
「じゃあ、先生でいいや」
「はっ?」
「素の自分をさらけ出す相手。先生にはもう見せてるんだし、面倒がなくていい」
「え、ちょっ……」
そういうことではなく、心を許せる友達を作れ、という意味で言ったのだが。
と言いかけた梨紗に、さらに顔を近づける江崎。
「っ……」
梨紗は出かけた言葉を飲み込んで、さらに身体を引く。体勢はかなり限界に近い。これ以上やればデスクに倒れこんでしまう。
江崎はにっと笑みを深めて、デスクについた梨紗の手に自分の手を重ねた。
「え、なっ…!」
江崎の腕に囲われるような形で再び追い詰められ、真っ赤になる梨紗。
鼻が触れるか触れないかの距離で、江崎が低く囁く。
「俺のこと、心配なんだろ?」
「っ、それは……」
「じゃあ、俺の休まる場所になってくれよ」
「っぇえ?」
「できる限りのことをしてくれるんだろ?」
「いや、でも……」
「それとも」
すう、と。
江崎の瞳の光が、僅かに暗くなる。
「…メリットがないのに動く人間がいるなんて、嘘か?」
「っ……」
先ほどと同じ、茶化した調子ではあったけれど。
その瞳の光が、彼の心の奥底を映していた気がして、言葉に詰まる。
何の表情も映していないその色は、だからこそ何かに縋ろうとしているようにも見えた。
底知れぬその瞳から、なぜか目が離せない。
梨紗はそれを振り切るように首を振ると、重ねられていた江崎の手から自分の手を抜き出して彼を押し返した。
「わ、わかったから、ちょっと離れて」
ぐい、と押されてあっさりと身体を離す江崎。
その表情は先ほどのような暗さはなく、妙に嬉しそうにニコニコと微笑んでいた。
「じゃあ、よろしくな、先生」
「………」
梨紗は釈然としない表情で、それでも黙って江崎を見る。
江崎はにっと笑みを深めた。
「じゃあ、俺はお礼に先生に男を教えてやろうか」
「はあ?!」
「先生、男知らないんだろ?」
「ち、違うって言ってるでしょ?!」
「見栄張るなよ。6つも年下の高校生に詰め寄られて真っ赤になってて、この先マトモに男と付き合えるのか?」
「だから大きなお世話です!」

静かな第一国語科準備室に、2人のやり取りだけが響く。
この日を境に、江崎はちょくちょくこの部屋に顔を出すことになったのだった。

ちょっとエリー的な内面を出してみました。本物もそうなんですが、どうせ現実なんてそんなもんだよねと割り切りつつ、どこかでそうじゃないと思いたい複雑な優等生心というのか。そんな感じで。