「先生、これはここでいいですか」

声のしたほうに振り向くと、級長の江崎が持っていたプリントをデスクの上に置いていた。
彼女はにこりと笑って頷く。
「ええ、ありがとう。悪かったわね、手伝ってもらっちゃって」
「いえ、これくらい軽いですよ。いつでも言って下さい」
こちらもにこりと笑う江崎。

江崎悠人。
いまどきの高校生にしては不思議なほどに物腰の柔らかい少年だと思う。
いくら精神的に成熟している進学校の生徒とはいえ、新任の女性教諭に対して敬語を使う男子生徒はそういない。たまに級友と話しているのも見かけるが、同年代の友達に対してさえ敬語を使っているようだ。そういう家庭環境なのだろうか。
しかし決して気が弱いというわけではないようで、男女問わず慕われている。実際、彼女も江崎の働きには感心しているし、助けられた面も多い。
今日も、一人では持ちきれない量のプリントを主任から押し付けられ、困っていたところに声をかけられて、つい甘えてしまった。
断ろうとしたのだが、いつもの丁寧で柔らかい態度でいつの間にか手伝われていた、というのが正しいか。
恐ろしいほど気が回る子だ、と、彼女――クラス担任である風見梨紗は、いつもそう思うのだった。

「江崎くん、この後用事は?」
「え?」
梨紗が問うと、江崎はきょとんとして彼女の方を向いた。
そこににこりと微笑みかける。
「まだ時間がいいんだったら、コーヒーでも入れるわ。お礼」
「そんな、結構ですよ。僕がお手伝いしたくてやったのですし」
「いいのよ、あたしが助かったのは事実だから。それとも、すぐに用事がある?」
「いえ、そういうわけでは…」
「じゃあ、いいじゃない。座って?すぐに入れるから」
「でも」
「いいから」
半ば無理やりのように、梨紗は江崎の肩に手を乗せて椅子に座るよう促した。
当然だが、高校2年生ともなればすでに彼女よりも背は高い。物腰が柔らかいので目立ちにくいが、やはり男の子なのだな、と思う。
「すみません、じゃあ、いただきます」
江崎は苦笑して、それでも椅子に腰を落ち着けることにしたようだった。梨紗は微笑んで、コーヒーメーカーに向かう。
この第一国語科準備室は、もともと現国の教員が少ないうえに校舎の端にあるため、他の教員は専ら職員室を使っていてほとんど来ない。もはや梨紗専用の準備室と化していた。コーヒーメーカーは以前誰かが持ち込んだものらしく、使われずに埃をかぶっていたので綺麗にして使っている。
「あ、コーヒーでよかった?紅茶もあるけど」
「先生はどちらを?」
「あたしはいつもコーヒーだけど」
「では、コーヒーでいいですよ」
「いいのよ?紅茶でも。たいした手間じゃないし」
「いえ、どちらも美味しく頂きますから」
にこり、と完璧な笑みを浮かべる江崎。
梨紗は苦笑して、それでもコーヒーを2人分入れた。
「はい、どうぞ」
「いただきます」
梨紗の差し出したマグカップを軽く会釈して受け取る江崎。
梨紗は自分のマグカップを持ったまま、江崎と向かい合う位置に立って、後ろの棚に寄りかかった。
コーヒーを一口飲んで、ほわっと微笑む江崎。
「美味しいです」
「よかった。あ、お砂糖とかよかった?」
「ええ、いつも入れません」
「ならいいけど。江崎くんは味覚も大人なのね」
「畏れ入ります」
(おそれいります、だって)
梨紗は内心肩をすくめて、その感想を口に出さず飲み下すようにコーヒーを一口飲んだ。
なかなか男子高校生の口から出てくる言葉ではない。
(家が相当厳しいのかしら。……お金持ちなのかな)
有数の進学校であるこの高校には、当然それなりの家柄の生徒も多く通っている。だが、家で礼儀を厳しくしつけられていても、たいていの生徒は学校では気を抜いてフランクに喋るものだ。友達が相手なら、なおさら。
(家でも学校でも気が休まらないなんて、あまりいい環境ではないわよね)
梨紗はわずかに眉を寄せて、持っていたマグカップをデスクに置いた。
「大人なのは、悪いことではないけどね」
言い置いて、江崎に視線を向ける。
「でも、江崎くんはもう少しわがままになってもいいと思うわよ?」
梨紗の言葉にきょとんとする江崎。
梨紗は苦笑した。
「先生に気を使うのは、当たり前かもしれないけど。あたしは今年ここに来たばかりだし、他の先生より年も近いんだから、あまり気を使わなくても大丈夫よ?」
「気を使ってなんかいませんよ」
ふわり、と微笑む。
だがそれが余計に、彼女を心配させた。
「そこで笑顔が出てくるところが、気を使ってる、っていうの。
あなたが無意識にやってるなら、戸惑うのが普通だと思うわ。
でも笑顔で否定したっていうことは、あなたは意識してやってる上で、あたしが気に病まないように笑顔を見せてるということよ」
江崎の表情から笑みが消える。
梨紗はさらに言い募った。
「あたしが先生だからというなら、無理もないことだけど。
あなたは友達に対してもそうでしょう?そして、おそらくご家族に対しても。
そうしてあちこちに気を使って、あなたが休まる場所はあるの?あたしはそれが心配なの」
「先生……」
江崎は少し驚いた様子で梨紗を見上げた。
苦笑する梨紗。
「社会を生きてく上で、建前で表面を覆うのは必要なことだとは思うわ。
でも、本音を言える相手も同じくらい必要なことよ。
あなたはまだ高校生なんだから、もう少し言いたいことを言ってもいいんじゃないかしら?」
「言いたいことは言っていますよ?」
にこり。
また微笑む江崎に、梨紗は苦笑のまま言葉を返した。
「でも、それはあなたの本当の顔じゃないでしょう?」
「…どういう意味ですか?」
少しだけ、江崎の声のトーンが下がる。
あたりの空気がじんわりと冷えた気がして、梨紗は表情を引き締めた。
「あなたはとても気のつく優等生。
でもそれは、あなたのご家族や、クラスメイトや、あたしたち教師があなたに望んでいる『顔』よ。
優秀なわが子、優しくて頼れる級長、気配りのできる優等生。その『顔』を作るのが、あなたはとても上手。
そして、自分たちが望んでいる『顔』だから、周りはそれに何の疑問も抱かない。
でも、そのどれも、本当のあなたの顔じゃないんじゃない?」
「本当の、僕の顔、ですか?」
江崎の表情にはまだ薄い笑みがはりついていて、まさに仮面をつけているようだった。
「先生の考えすぎですよ。僕はそんなに器用じゃありません」
「なにも、あたしにさらけ出せと言ってるわけじゃないのよ」
梨紗は慎重に言葉を重ねた。
「あたしはあなたの担任の教師で、もっとも仮面をかぶるべき相手。それはわかってるわ。
誰か、素の自分をさらけ出せる相手がいるなら、それでいい。
でも…いないなら、作ったほうがいいわ。誰のためでもない、あなた自身のために」
「……困ったな」
江崎は苦笑して、持っていたマグをテーブルの上に置いた。
わずかに顔を伏せ、座っていたパイプ椅子からゆっくりと立ち上がる。
「……だって」

ふ、と。
再び顔を上げた江崎の瞳は、先ほどまでの穏やかなものとは明らかに違う光を宿していた。

「いきなりこんな顔見せられても、困るだろ?」

低い声が耳元で聞こえた時には、すでに江崎の顔が至近距離にあって。
その表情は、さっきまで浮かべていた穏やかな笑みとは程遠い、鋭く、そして…喩えようのない艶を帯びている。
ぞくり。
背筋を冷たいものが駆け抜けた。
「……な」
突然のことに、脳がついていかない。言葉が出ない。
江崎は梨紗の後ろの棚に片手をつき、少しかがむようにして梨紗に顔を近づけていた。後ろに下がりようのない状況に、梨紗はただ固まるばかりだ。
ふ、と、江崎が楽しそうに微笑んだ。
「それとも、先生が俺の素を受け止めてくれるのか?
それなら……少し、考えなくもないが」
垂らされた梨紗の髪のひと房をすくい、ごく自然なしぐさで口付ける。
それが驚くほど扇情的で、かっと顔が熱くなった。
「え、えさ……きく…」
「真っ赤になっちゃって、可愛いね」
くす。
髪を引き寄せたまま、可笑しそうに鼻を鳴らす江崎。
「まさか先生、男知らないのか?」
「なっ……!」
「図星」
「ちっ、違います!」
真っ赤な顔のまま必死に言い返してもあまり説得力がない。
江崎はもう一度、くす、と可笑しげに笑った。
「安心しなよ」
江崎はそれだけ言うと、手を離してすっと身を引く。
にこり。
浮かべた笑みは、いつもの優等生のものだった。
「先生もお困りでしょうから、僕はこれ以上何もしませんよ。
先生も、今日のことはお忘れ下さい」
本当に何事もなかったような顔で言う江崎。
梨紗はまだ顔を真っ赤にしたまま、呆然として言葉も返せない。
江崎は無言を了承と取りました、というように再びにこりと微笑むと、一礼した。
「コーヒー、ごちそうさまでした。失礼します」
ぱたん。
改めてドアの前で丁寧に礼をすると、部屋を辞する。
部屋が再び沈黙に包まれた。
「………」
ずる。
棚に寄りかかった梨紗の体が、そのままずるずると下に崩れ落ちていく。
ぺたん。
とうとう床に座り込んでしまってから、梨紗はやっとか細くつぶやいた。

「………なんなの…あれ……」

前々からやってみたかったエリリー教師と生徒パロ。名前も外見も何もかもが違いますがエリリーと言い張る(笑)
腹黒優等生に翻弄される新任教師が書いてみたかったのです…(笑)