主人公の名前:笠原優衣

「で、笠原さんはいつ俺に髪の毛洗わせてくれるんですか?」
「へっ?」
唐突な久留巳の言葉に、優衣は思わず間抜けな声を上げた。
週末、優衣の部屋で。久しぶりに定時に仕事が終わり、2人でゆっくりと食事をしてまったりテレビを見ていたのだが。
テレビでシャンプーのCMが流れているのを見た久留巳が、まるでごく軽い世間話のような調子でそう聞いてきたのだ。
あまりに明後日の方向から来た質問に脳がついていかずに絶句していると、久留巳は久留巳で不思議そうに首を傾げた。
「だから、髪の毛」
「いやいや、何の話?」
「ほら、例のドラマの時に」
ドラマ、という単語に、おぼろげだった記憶がよみがえってくる。
以前、久留巳と一緒に手がけた、月9ドラマへの衣装協力の仕事で。
主人公の相手役となる年下男性が主人公の髪を洗う、というシーンが物議を醸したことがあったのだ。
「ああ……そういえば、そんな話もあったね」
「思い出しました?」
久留巳は嬉しそうに顔をほころばせ、そして再び質問を重ねる。
「で、笠原さんはいつ俺に髪の毛洗わせてくれるんですか?」
「いやいや、だから何でそうなるの」
「洗わせてくれるって言ったじゃないですか」
「言ってないよ!」
「そうでしたっけ?」
久留巳はとぼけて首を傾げて見せるが、口の端がこらえ切れない笑みを覗かせている。
これはまたからかわれている、と確信した優衣は、むっと口を引き結んで久留巳を睨みあげた。
「言ってません。久留巳くんの妄想じゃない?」
「ひどいなー」
楽しそうにくすくす笑いながら、久留巳はすっと優衣に顔を近づける。
「じゃあ、改めてお願い」
「え?」
「笠原さんの髪の毛、洗わせてくださいよ」
「っ……」
囁くように言われ、優衣の顔が一気に熱くなる。
その反応すら予測のうち、というように、久留巳は嬉しそうににこりと微笑んだ。
「ね、いいでしょ?」
「な、なんで?」
若干の動揺と共に問い返す。
と、久留巳は優衣の髪をひと房掬い、楽しそうにそれを指先で弄った。
「んー……」
感触を楽しむように指先をくるくると動かしてから、ふいに髪全体をくしゃっとかき上げるようにして優衣の頭に触れる。
「…好きだから?」
「え」
まっすぐに見つめられてそう言われ、どきりと胸が鳴った。
久留巳はにこりと微笑んで、言葉を続ける。
「優衣さんの髪、好きだから」
急に下の名前で呼ばれ、またどきりとした。
2人きりの時に、彼は時折優衣のことを名前で呼ぶ。それもいつもではなく、今のように肝心な時を狙っているようで。
明らかに確信犯の彼の手管に、まんまとハマってドキドキしてしまう自分が悔しい。
優衣は動揺を努めて顔に出さないように、視線を逸らした。
「…髪、が?」
「もちろん、髪だけじゃなくて全部好きですけど」
ゆっくりと指で髪を梳きながら、耳元で囁く久留巳。
「サラサラで、柔らかくって。いい匂いがする」
「…シャンプーの匂いじゃない?」
「ううん、優衣さんの匂いですよ」
言って、髪に埋めるようにして鼻をこすりつけてくる。
そのまま呼吸するので、息が髪と耳にかかってこそばゆい。
「くすぐったいよ」
「ね、いいじゃないですか。別に一緒にお風呂入ってとか言ってるわけじゃないんだし」
「だから、それはやだってば」
「けち」
「ケチで結構です」
「だから、髪の毛くらいはいいでしょ?」
「でも、どこで洗うの?」
「お風呂の洗い場に、ほら、あの椅子持ってって。頭だけ浴槽の上に来るようにすれば床も濡れませんよ」
「なるほど……」
確かに、程よいサイズで、背もたれの角度が自由に変えられる椅子がある。
納得していると、久留巳は嬉しそうに微笑んで立ち上がった。
「じゃ、早速準備しますね」
「ちょ、ちょっと、私まだやるって言ってない!」
「まーまー。俺が用意しますから笠原さんはゆっくりしててくださいよ」
「そういうことじゃなくて!ていうかここ私の家だし!」
「まーまー」
満面の笑顔でそう言いながら、いそいそと椅子を運んでいく久留巳。
優衣は口を尖らせてそれを見つつも、その場を立つことはしなかった。

強引に振り回しているようでいて、彼は優衣が本気で嫌がることは絶対にしない。
だから、優衣が本当はまんざらでもないと思っていることなど、彼にはお見通しなのだ。
そのことが若干悔しくもあるが、それ以上に胸を暖かくしてくれる。
優衣は仕方なさそうに笑いながら、準備を終えた久留巳が呼びに来るのを待った。

「かゆいところはございませんかー」
「大丈夫でーす」
ふざけて美容師のようなことを言うので、こちらもふざけて客のように答えてみる。
急ごしらえの椅子は首元にタオルを置いただけだったが、意外に辛い体勢ではなく、ゆったりとくつろいでいられた。
意外に大きな手で、それでも細やかに指を動かしながら丁寧に髪を洗う久留巳を、優衣は下からじっと見上げてみる。
「楽しそうだね」
「楽しいですよ?」
ちらりと視線をやって、にこりと微笑む久留巳。
「長い髪の毛洗うのって新鮮ですよね。自分の頭洗うのとまた違う感じ」
「そう?」
「そうですよ。それに……」
ちゅ。
髪を洗う手はそのまま、久留巳は少し顔をずらして軽くキスをしてきた。
「……こんなこともできるし」
「ちょっ……!」
時間差で頬を染める優衣に、くすくすと楽しそうに笑って。
「優衣さんかわいー」
「もうっ…!」
「あ、でも美容師さんはいつもこんな感じなんですよね」
「そうだね、シャンプー台に似てるね」
「…どうしよう、美容院行かせたくなくなってきた」
「えー、大丈夫だよ。シャンプーの時は顔にガーゼかぶせるし」
「でも、こんなに無防備な状態の笠原さんを男がシャンプーするんですよね」
「久留巳くんみたいなことしたら営業停止になっちゃうよ。それに、女の人がほとんどだよ?」
「でもー…」
むっと口を尖らせる久留巳を見上げ、優衣はくすっと笑った。
「久留巳くんかわいー」
先ほど彼が言ったのと同じセリフでからかうと、ますます口を尖らせる。
「笑い事じゃないですよ。笠原さん、ほんと無防備なんだから」
シャワーの温度を確かめながら、拗ねたように言う久留巳。
彼の言い草に、優衣は眉を顰めた。
「えー?」
「会社で他の人と仕事してるの見るたびにはらはらするんですよ?」
「そんな、考えすぎだよ」
「やっぱり無自覚だ」
さっ、と適温のシャワーで泡を流しながら、指で丁寧に髪を梳いていく。
その気持ちよさに目を閉じていると、久留巳はなおも不満げに言葉を続けた。
「他の人たちだって、密かに笠原さんのこと狙ってるんですよ?」
「まさか。気のせいじゃない?」
「本当ですって」
「えー。他の人って、例えば?」
「創さんとか。桜澤さんもそうだし」
「まっさかー!ないない」
可笑しそうに笑う優衣。
久留巳は水気を切った髪の毛にコンディショナーを丁寧にすりこみながら、続ける。
「笠原さんが気づいてないだけですよ」
「えー、だって創さんだよ?綺麗なモデルの彼女がいるって言ってたし。私なんて眼中にないよ。
桜澤さんが女の子にああいうこと言うのはいつものことだし。私だけじゃないよ」
「南雲さんだって…笠原さんと同期なんですよね。仲良いじゃないですか」
「そりゃあ、同期だし…でも、チエだって同じように喋るでしょ」
「課長や部長だって、笠原さんと喋る時は心なしか嬉しそうだし」
「それこそまさかだよ。課長はいつもムスっとしてるし、だいたい部長は奥さんいるんだよ?失礼だよ。
そんなにモテるわけないでしょ、私が」
「もーっ」
再びシャワーでコンディショナーを洗い流しながら、久留巳は優衣の目を正面から見つめた。
「笠原さんがそんなだから、目が離せないんですよ」
「だから、考えすぎだって」
「わかるんです」
シャワーを止め、優衣の頭を抱えるようにして両手で挟んで。
「俺も同じだから、わかるんです」
「……同じ、って?」
至近距離で見つめられ、鼓動が跳ねる。
おそるおそる尋ねた優衣に、久留巳はいつものように小悪魔な笑みを浮かべた。
「俺も同じように、優衣さんに夢中だから」
「っ……」
喉の奥に何かが詰まったように、言葉が出ない。
久留巳は壊れ物を扱うように、濡れたままの優衣の髪を愛しげに撫でた。
「…本当は、みんなに言いたいんですよ。
優衣さんは俺のものだって。近づくなって」
「久留巳くん……」
優衣を覗き込む瞳が、切なげに揺れている。
他に知られるわけにはいかない、2人の恋。
優衣だって、同じ思いをしたことは少なからずあるのだ。
「…私も、同じだよ」
「……え」
頬を包む久留巳の手にそっと自分の手を重ねて言うと、久留巳はきょとんとして声を漏らす。
優衣は優しく微笑んで、そっと囁いた。
「久留巳くんは私の彼氏だよって、言いたくてうずうずしてる。
久留巳くん、モテるから」
「そんな、俺は笠原さんが俺を見てくれればそれでいいです」
「うん、だから、私も同じ」
形のいい指をなぞるようにしてそっと撫でてから、久留巳の頬に手を伸ばして。
頬にかかるくせっ毛にくしゅりと指を絡める。
「私も、久留巳くんが私を見ててくれれば、それでいいよ。
こんな風に部屋に呼ぶのも、お風呂で髪の毛洗ってもらうのも、久留巳くんだけ」
「笠原さん……」
呆然と優衣の名を呟く久留巳に、首を伸ばしてちゅっと口付けると、彼は珍しく戸惑ったように頬を染めた。
「…ったく、ずるいよなー」
「え、なにが」
拗ねたように言うので、きょとんとする。
「笠原さんはこんなに簡単に、俺を喜ばすんですもん。ずるいですよ」
「意味わかんない」
くすくす笑って言えば、久留巳はぶすっとして顔を上げ、タオルを手にとってふわりと優衣の髪にかけた。
丁寧に水分を拭き取りながら、再び顔を近づける。
「ね」
「うん?」
「やっぱり一緒にお風呂入りません?」
「ダメです」
「ちぇー」
不服そうに言いつつも、その表情はどこか嬉しそうで。

柔らかい布越しに久留巳の手が髪を優しく撫でている。
優衣はうっとりと目を閉じて、その心地よさに身をゆだねた。

“Let me wash your hair” 2012.8.23.Nagi Kirikawa

GREE版「社内恋愛2人のヒミツ」の久留巳くんSSです。久留巳くんは私がボルテージの乙女ゲで初めてドハマりした子なので思い出深いですね…こんなSSも書いてたんですね…w当時は夢小説も結構調べて、名前を変更するスクリプトとかも入れてましたが、今回はもうめんどくさいので主人公名を固定にしています。アパレルメーカーに勤めるキャリアウーマンで、バリバリ仕事もこなすけど可愛い面もある…というイメージで付けた名前です。活躍の場はもうないな…w
GREE版とわざわざ言ってるのは、100恋+の社恋はめちゃくちゃ別物だからです…w久留巳くんには敬語で喋ってほしいし、僕じゃなくて俺って言ってほしいし、あざとすぎない小悪魔でいてほしいんですw
話のモチーフになってるのはイベントストーリーだったと思います。月9のスポンサーになって自社製品を売り込むためにスタイリスト的なことをやるみたいな話だったような…(うろ覚え)あっちの社恋、ストーリーだけでもどこか移してくれたら買うんだけどな…w