「滅!」
「ギャアアアアア!!」

最後の術式が発動し、断末魔と共に目の前のあやかしが黒い霧となって散っていく。
その最後のひとかけらが消えるのを確認し、ようやくみけは一息ついた。
「すごいですねー」
ぱちぱちぱち。
感心したように手を叩くりり。

彼女は最近、退屈だと言ってはみけの怨霊退治の仕事についてくるようになった。
ついてくるといっても、彼女には人の心が読めて操れるということ以外何ができるわけでもなく、こうしてただ見ているだけなのだが。

みけは手を叩くりりの方を、眉を顰めて見やった。
「なんですかそれ」
「あれ。称える意味でこうしているんですけど、京ではやらないんですね?」
「ああ、あなたの故郷の風習ですか。こちらではあまり、人を称える意味で手は叩かないですね。
神様を呼んだりする時に叩くことがあるので、あまりみだりに手を打つ人はいないです」
「手を叩くと神様来てくれるんですか!なかなかお手頃ですねえ」
「来てくださるのは神様だけではないので、そういう意味でもみだりに手は打たないですね」
「ああ、こちらは神様がたくさんいるんですものね」
納得したように頷くりり。
みけは首を傾げた。
「あなたのところでは神様はたくさんいないということですか?」
「私のところというか、海の向こうの遠い国では、神様はおひとりなんです。ただおひとりの神様しかお認めにならないんですよ」
「へぇ…神様おひとりでたくさんの人の暮らしを守っているんですね」
「ええ、異国の神様を滅して、ただおひとりの神様だけを崇めるようにお命じになっているんです。京の神様の様子を見たら、ひっくり返っちゃうでしょうね」
ころころと楽しそうに笑うりりを、複雑そうな表情で見やるみけ。

彼女が自分の出自をぼかすのはいつものことだ。時折こうして文化の認識の違いを見せてくるのでそれに乗るのだが、彼女は決して「自分の故郷」という表現を使わない。海の向こうの遠い国、という言い方で煙に巻いてくる。
それは彼女特有の人を食ったような態度であるように見えて、その実、故郷にいい思い出がないのではないかという思いもあり、みけも深く突っ込めずにいた。

そんなみけの複雑な心中を知ってか知らずか、りりは興味深げにあたりを見回した。
「でも確かに、京は空気が違いますね。日常の中に、神様……というか、人間とは違う異質な空気が、違和感なく溶け込んでる感じがします」
「そう……なんですね」
それは、おそらく彼女の言う「海の向こうの遠い国」と比べて、ということなのだろう。文化の違いは、そも異なる文化が存在する、ということを認知していなければ成立しない。海の向こうの文化を知らないみけにとっては、想像することすら難しい世界だ。
りりはあたりに向ける視線をゆっくりと移動させながら、夢見るように言葉を続けた。
「みけさんが使う術も、この空気の中の力を上手く利用しているんですね。それが『術』として系統立てられているということが、とても興味深いです」
「なる…ほど?」
わかるようなわからないような表情で、みけ。彼女の言う「系統立てられた術」が、彼の使う陰陽術なのだとすると、確かにあたりに漂う目に見えぬものを操る技術が確立されていることは興味深いといえる。こちらのように八百万の神々が存在するわけではない世界に生きていたのであればなおさらだ。
りりは空中に漂う何かにゆっくりと視線を滑らせながら、その何かを指さすように人差し指を立てた。

「確か…こうでしたか?りん、ぴょう、とう……」

「なっ……」
そのまま、その人差し指で九字を切り始めるりりに、みけはぎょっとして声を上げた。
彼女の言う通り「系統立てられた術」なのだ。その系統を学習もせずに、見ただけで使える類のものではない。
だが、りりはみけの術を見ただけで、彼が使用した術の構成をそのままに、寸分狂わぬ正確さで再現していた。
「…れつ、ざい、ぜん……はいっ」
しゅっ。
彼女の放った九字が、空を切って霧散していく。はらりと散るそのさままであまりにそのままで、みけは呆然とその様子を見やった。
「あはは、出来ました出来ました!みけさんのように威力は無いですけど、上手くいきましたねえ」
初めて蹴鞠が上手くできた子供のようなはしゃぎ方で、手を叩いて喜ぶりり。

みけはしばらくの間、言葉もなくその様子を眺めていた。

どさ。ばさばさ。

唐突に目の前に置かれた紙束は、量が多すぎて幾冊か零れ落ちてしまった。
それをまじまじと見てから、置いた本人に視線を移す。
「……なんですか、これ」
「陰陽術の教本…のようなものです」
置いた本人…みけは、そう言ってから仕方なさそうに嘆息した。
「陰陽術を見よう見真似で使う人を初めて見ましたが…使うからには、規則に沿った形で使わないと、周りに、何より己に対してどんな影響があるかわかりません。
ですから、基礎から学ぶ必要があるんです」
「なるほど」
りりは興味深げに、ぺらりとその書物をめくって中を見た。
みけは口うるさい師匠よろしく、言い聞かせるようにりりに言う。
「面倒でしょうが、基礎をさらうことは決して無駄ではありません。感覚だけで使っていると、後々大変なことになりますから」
「ええ、それはいいんですけど、一つ大きな問題が」
「なんですか?」
みけが首をかしげると、りりは彼をまっすぐに見上げて、端的に告げた。

「私、字が読めません」

「………なるほど、それは問題ですね」

「これは……大陸の文字がほとんどなんですね」
渡された文字の教本をぺらぺらとめくりながら、りりは興味深げにそう言った。
「そうですね、大陸から伝わってきた文字を基礎にしています。もちろん、大陸の言葉と京の言葉は違いますから、この文字が大陸の言葉そのものではないんですが」
「こっちの、もうちょっとゆるゆるした字はなんですか?」
「ああ、それはかな文字ですね。大陸の文字は画数が多いので、省略したものが定着してるんです。大陸の文字にはそれそのものに意味がありますから、大陸の文字とかな文字を混ぜて書くこともあります」
「なるほど……かな文字だったら種類が少ないのですぐに覚えられそうです」
「ならば、こちらの歌で覚えるといいですよ」
かさり。
みけはそう言って、そばの紙にさらさらとかな文字を書いていく。
1行12文字を4行、流れるように書き終えて、りりに差し出した。
「…なんて書いてあるんですか?」
「いろはにほへと、です」
みけは自分が書いた文字をなぞりながら、一文字ずつ発音していく。

いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす ん

「ん、はおまけのようなものですが、京の言葉で使われるすべてのかな文字を1度ずつ使って作られています。全部で48文字ですね」
「へぇ、よく出来ていますね。一文字ずつ書く練習用の歌か何かですか?」
「その側面はあるでしょうが、ちゃんと意味もあるんですよ」
「どんな意味です?」
「仏教の涅槃経の考え方を元にしていると言われています。
色は匂へど 散りぬるを……今はいい香りで美しく咲いている花も、いつかは散ってしまう。
これは諸行無常の考え方ですね」
「諸行無常…この世に変わらないものなどなくて、いつかはみな衰え死んでいく、ということですね」
漢字は読めないのに何故か仏教の知識があるりりに驚きつつも、みけは話を続けていく。
「次の、我が世誰そ 常ならむ…これも似たようなものですが、これはその次の是生滅法を表していると言われています。今は全盛を誇っている者も、やがては衰えて死んでいく、常に変わらないものなどない、という考え方です」
「なるほど」
りりは興味深げに頷きながらその話を聞いている。
みけは続けた。
「有為の奥山 今日越えて…有為の奥山、というのは、この無常で迷いのある現世を山にたとえているものですね。それを今日、超えていく、という意味です。涅槃経ではその次の、生滅滅己を表しています」
「迷いの多い現世を超えていく…つまり死ぬってことですか」
「入滅を死と表現するならそうなるでしょうね。仏教では解脱という言葉もありますが、現世にいる者にとっては死以外の何物でもないでしょうし」
「結構冷めてるんですね」
「僕は仏教徒ではないんで…で、最後の、浅き夢見じ 酔ひもせず…これが最後の寂滅為楽ですね。迷いから脱してしまえば、儚い夢を見ることも、酔うことも無く、心穏やかにいられる、という意味です」
「みんな最後は衰えて死ぬものなんだから、迷いだらけの現世にさよならしちゃえば楽になれますよ、という…」
「…身もふたもない言い方をするとそうですね。まあ仏教では、解脱は厳しい修行の末のものですから、単純に楽になれるから死のうという意味ではないですけど」
「なるほどー。よく出来ているんですね」
りりはなおも興味深げに、みけが書いたいろは歌を眺めている。
やがて、顔を上げてにこりと微笑んだ。
「わかりました、これを元に、まずは字を覚えますね。少しずつ、大陸の字も」
その笑顔には、いつものからかうような笑みにはない、純粋な知的好奇心がにじんでいるような気がした。

「みけさんみけさん、ちょっと見てください」
それからしばらくして。
かな文字の書き取りをしていたりりが、少し声を弾ませてみけを手招きする。
「どうしたんですか」
読んでいた書物を傍らに置き、りりの方に近づくみけ。
りりは文字を書いていた紙を持ち上げ、みけに差し出した。
「この文字を、7文字で折り返して書いたんです。そしたら…ほら」
「7文字…?」

いろはにほへと
ちりぬるをわか
よたれそつねな
らむうゐのおく
やまけふこえて
あさきゆめみし
ゑひもせす

「最後の文字を読んでいくと、『とかなくてしす』……咎無くて死す、になります」
「……本当だ」
いつも七五で書いていたため、気づくことが無かった。
「…偶然じゃないんですか」
呆然とこぼすみけ。かな文字をすべて1回だけ使って涅槃経をなぞらえた歌にする、それだけでも制約が大きいのに、さらにこのような仕掛けを施せるとは思えない。
りりは面白そうにくすくすと笑った。
「偶然かもしれませんけど、ちょっと面白いですよね」
「…面白い、とは?」
「だって、諸行無常の歌にこんな暗号をしかけるんですよ?迷いを超えて安らかな悟りを得たい、という歌の裏で、無実の罪を着せられたまま死にます、なんて。この人にとっては本当に、『現世にさよならしちゃえば楽になれます』だったんですよ」
「……」
返す言葉を見つけられず黙り込むみけ。
りりは己の書いた7文字折り返しのいろは歌に目を落とし、さらに続けた。
「現世にさよならして楽になりたい一方で、誰かに、無実の罪で死んだということを伝えたかった。
この暗号が伝わらない可能性もありますし、そもそも死んでしまったら名誉の回復も何もないと思いますけど、それでも誰かに知っていてほしかった。
その気持ちは…わかる気がします」
とかなくてしす、という文字をゆっくりとなぞって。
「そんなつもりはないのに、誤解されて排斥されて。そんな世界に未練はない、ただ安らかに眠りたいと思ってはいても、それでも、自分のことを誰かに知ってほしかった。自分が虐げられているとか、傷ついているとかではなくて…ただ、自分がここに存在したということを残したかった。そうでなければ、なぜ生きているのか、なぜここにいるのかがわからなくなってしまう。
その気持ちは、わかる気がしますよ」
かな文字を見下ろすその瞳は、その文字を追っているようにも、そうではないどこか遠くの何かを見ているようでもあった。
「………」
みけは複雑な面持ちで、かな文字に触れるりりを見下ろした。

故郷を語らない少女。
海の向こうの遠い国、と、他人事のような、どこか冷めた語り口で表現する。
そうさせるだけの経験を、彼女がしてきたのだとしたら。

「……あなたも、そうなんですか」

問うつもりのなかった問いが、口から滑り出る。

誤解されて、排斥されて。
世界に未練もなく、ただ安らかに眠りたくて。

けれど……自分のことを、誰かに知ってほしくて。

みけの問いに、りりはゆっくりと視線を上げた。
まっすぐに見下ろす彼の瞳を、ぼんやりと見つめて。

そして、ふわりと微笑んだ。

「今の私には、みけさんがいますから」

「っ……」
直接の答えになっていない答え。
それでも、みけの言葉を詰まらせるには十分な威力で。
りりはさらに笑みを深くして、続けた。
「みけさんは私が見つからないようにしても見つけてくれますし、私と友達になりたいという変わった方ですし。
からかうと面白……もとい、お話しているととても楽しいので、退屈しなくて済みます、ありがとうございます」
「全く礼を言われてる気がしないんですけど?!今聞き違いと呼べない長さで『からかうと面白い』って言いましたよね?!」
「あらあら聞こえてました?うふふ」
「聞かせるように言っておいて何を…!」

あとは、もうすっかりいつもの調子に戻ってしまったけれど。
初めて見た彼女の儚い笑みは、まだみけの脳裏に焼き付いていて。

今香るこの花が、少しでも永く、散らずに咲いてくれることを、そっと願った。

“Irohanioedo Chirinuruwo” 2022.9.20 Nagi Kirikawa

相川さんが書いてくれた、りりが薬を盛られる話と、りりが調伏される話の間に、りりが見よう見まねで陰陽術を使う話を書いたはずなんですが、どこを探しても出てこないのであきらめてもう一度書きましたw
当初はたぶん、陰陽術を見よう見まねで使うのは危険だから字を覚えようね、というそれだけの話だったんですが、いろは歌をちゃんと調べたら結構奥が深かったので、りりの出自を絡めつつもうちょっと膨らめて書いてみました。書いてるうちにりりの過去とかなんとなく形になったので、またどこかで過去の話を書きたいですね。