「……な」

宿に帰ってきて、扉を開けて。
目の前に広がっていた、かなりありえない光景に、ミケは思わず絶句した。

血溜まり。
それも、かなり大量の。
普通ならそれだけで仰天ものだが。

その真ん中に倒れていたのが、おそらくは彼の中では最もありえない人物だったから。
驚くとか慌てるとかそういう次元を通り越して、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。

床の上に見事に広がる、長い長い亜麻色の髪。
無駄に布の量が多い、桜色のローブ。
そのいたるところに無残に血がこびりついていて、一瞬誰だか判別も出来ないほどだった。

だが、間違えようも無い。
かなりありえない、考えにくいことではあっても。
目の前で彼女が血まみれで倒れている、それ眼前にある事実だった。

とす。

ようやっと足が動いて、彼女に駆け寄る。

「なにやってんですか、こんなところで…!」

怪我人にかける言葉としては、おそらく落第点であろうけれども。
ミケはそんな言葉とともに、倒れていたリリィを抱き起こした。

「ちょっと!起きて下さい、なに人の部屋汚してるんですか!」
がくがく。
やはり怪我人への対処としてはおそらく落第点であろうけれども。
ようやく我に帰った彼が考えたのは、リリィの手の込んだ悪戯という線だった。
だから、早く起こして後始末をさせたかった。
が。
「……っ」
抱き起こした彼女の体は、意識があるとは思えないほどぐったりと力が抜けていて。
近づいて改めてよくわかる、血のにおい。髪の隙間や服の隙間からうかがえる傷は彼も見慣れたもので、生暖かい血も今まさにその傷口からあふれ出ているものだった。
悪戯でも冗談でもない。今彼女は瀕死の大怪我を負っている。
「…風よ、かの者に暖かな癒しを!」
慌てて、回復の術をかける。
ふわり、と柔らかい風が彼女の体を包み、抱き起こした体が僅かに動いた。
「ん……」
頭から流れる血に濡れた瞼が、僅かに開く。
はしばみ色の瞳がわずかに揺れて、ゆらりとミケを捕らえた。
「……あら…ミケさんじゃないですか……」
弱々しい声。いつもの彼女からは想像もつかない。
しかし語り口はいつもの彼女で、ミケはなにやら理不尽な怒りが沸くのを感じた。
「ミケさんじゃないですか、じゃありません!何やってんですかこんなところで!」
「ちょーっと……失敗しちゃいましてねぇ…」
自嘲するように僅かに眉を寄せ、苦笑してみせる。その様も、なんとも弱々しくて。
「逃げるのに転移魔法使ったんですけど……こんなところに出ちゃったんですねぇ…」
「こんなところってどういう意味ですか」
怒りのポイントはそこではない。
その、あまりにもいつもどおりの様子に、リリィは一転楽しそうに頬を緩めた。
「じゃ……あとはお任せしますねぇ…」
ふ。
それだけ言い残して、再び意識を失う。
「ちょ、ちょっと!」
ミケはもう一度揺さぶってみたり回復魔法をかけたりしてみたが、リリィの意識は戻らない。

「…どうしろっていうんですか、僕に……!!」

結局、宿の主人に知らせて助けを借り、その妻と娘に協力してもらって彼女を介抱することにした。
回復魔法で傷はあらかたふさがっていたので、あとは髪と体についた血を拭い、服を取り替える。さすがに自分がやるわけにも行かず、服まで借りてしまって本当に頭が上がらない。
傷もふさがり、体の血も拭って、安らかな顔で眠っているリリィを、ミケはかなり苛々した表情で見下ろした。
「まったく、目が覚めたらどうしてくれよう…」
まあ、目が覚めてもどうも出来ない予想はあったが、とりあえず苛々を解消するためにそう呟いてみる。
と、それに呼び起こされるように、リリィの体がぴくりと動いた。
「ん……っ…」
ぱち。
僅かな身じろぎとともに瞳を開ける。
「ここ…は……」
まだどこか痛むのか、頭を押さえながらむくりと身を起こして。
ミケはまだ仏頂面で、それでも声をかけた。
「僕の部屋ですよ。覚えてないんですか?」
苛々を隠そうともしない声音に、リリィがそちらのほうを向く。
が、その口から飛び出した言葉は、いつものものとは全く違っていた。

「……何者です」

「…は?」
眉を寄せるミケ。
対するリリィの表情も、怪訝を通り越して警戒の域に入っている。
「貴方は何者です?ここは一体、どこなのですか?」
「な、何を言っているんですか?」
自分でここまで来といてどんだけ、というか何か様子がおかしい。
これは、ひょっとして。
「…待ってください。あなた、自分の名前、言えますか?」
恐る恐る訊いてみる。
リリィは怪訝な表情を崩さぬまま、答えた。

「わたくしはリレイア・イクス・ド・リゼスティアル。
リゼスティアル王国の女王です」

「な……」
返ってきた答えに、ミケは今度こそ、二の句も告げずに呆然とするのだった。

「…ヴィーダ?ここは、フェアルーフ王国なのですか?」
とりあえず自分の名前と、この場所を告げると、リリィは信じられない様子で辺りを見回した。
嘆息して頷くミケ。
「…はい。ヴィーダ市街にある、冒険者用の逗留宿です」
「なぜそのような所に……」
リリィは眉を寄せて俯いた。その表情ににじみ出る不安の色は、とても演技とは思えない。
余裕のある微笑みの表情しか見たことがなかったから、それはそれで新鮮ではあったけれども。
「あー」
こほん。
気を取り直して、ミケはリリィに向き直った。
「いくつか、確認させてください。あなたは、さっきまでリゼスティアル王国にいたんですね?」
「ええ、いつもの通りに執務をこなし、湯浴みをして就寝いたしましたわ。
貴方は、わたくしをこのようなところに連れてきた輩ではないのですか?」
その表情にはなおも色濃い警戒の色。
ミケは複雑そうな表情でため息をついた。
「……頭に、怪我をしていましたからね…にわかには信じられませんが」
今まで彼女に受けてきた仕打ちが仕打ちなだけに、まだ疑う気持ちも確かにあるが。
だが、認めざるをえまい。
「…記憶を、無くされているんですね。それも、すべてじゃない。女王としてリゼスティアルにいた頃から今までの記憶だけ」
「え?」
怪訝そうに眉を寄せるリリィ。
「わたくしが……記憶を、無くしている?」
「…そうです。あなたが今、演技をしているのでなければ、ね」
「演技などと、とんでもない」
リリィはかなり心外そうに、強く否定した。
「しかし、にわかには信じられませんわ」
「僕だってそうですよ」
ミケは憮然として言って、それからため息をついた。
「…ですが、これは事実です。あなたはとてもひどい怪我を負い、僕に助けを求めてここにやってきた。僕はあなたの怪我を治療し、目が覚めるのをここで待っていました。しかし、目が覚めたあなたは、僕のことを覚えていらっしゃらなかった」
僕に助けを求めて、というのは少し誇張かもしれないが、まあおおむねそんなようなものだろう。
ミケの言葉に、リリィは青ざめて俯いた。
「……そんな……」
「治療はしましたが、僕のところにいらした時点でかなりの出血がありました。特に頭にひどい怪我を負っていましたから、それが原因ではないかと思います。しかし、僕は専門ではありませんので、医者にかかられたほうがいいと思いますが…」
「では」
ミケの話を聞いているのかいないのか、リリィは表情を引き締めてミケに向き直った。
「貴方は、わたくしと……未来のわたくしと、知己の間柄でいらっしゃるのですね?」
「えっ……ええ、まあ…」
知己と言うか、敵と言うか。ミケは微妙な顔をしたが、特に否定はせずにおいた。
すると、リリィはすっと姿勢を正した。
「わたくしを助けてくださったこと、大変かたじけなく思います。有難うございました」
「えっ……」
丁寧に例を述べられて、言葉に詰まるミケ。
リリィは続けた。
「しかし、今はこのような身。これ以上貴方のお世話になるわけにも参りません。貴方の言うとおり、お医者様に詳しく診ていただく必要があるでしょう。
幸い、フェアルーフの国王様とは親交がございます。心苦しくはございますが、ここは手をお借りして……」
「ま、待ってください」
ミケは驚いて腰を浮かした。
思いのほか強い否定に、リリィはきょとんとしてミケを見上げる。
「……何か?」
「……っ」
問い返されて、ミケは再び言葉に詰まった。

どう、説明すればいいというのだ。
あなたが女王であった頃から、すでに百年近くの時が経っていて。
あなたが女王であった時に親交のあった国王は、すでに2回も代替わりして、とうにこの世の人ではない。
あなたの体を魔法医にでも診せれば、あなたが魔族に力を与えられ、不老の体になっていることを告げられるだろう、などと。

目の前の少女は、信じていた国民によって魔物に売られ人間に絶望する前の、何も知らない幼い女王なのだ。
そんなことをここで告げて、彼女を再び絶望に叩き落すことなど、出来ない。

「……っ…」
ミケは苦しげに言葉を探して、ついと目を逸らした。
「……その。僕は、構いませんから。もう少し、ここにいてはどうですか」
「え?」
再び、怪訝そうに眉を寄せるリリィ。
「少し、休めば……何かの拍子に、記憶が戻ってくることもあるかもしれません。
そんな状態のあなたがフェアルーフ王宮に行けば……その、騒ぎになるかもしれませんし…」
目を逸らしたままのミケの言葉に、リリィは俯いて考えた。
「……そう……ですね…」
虚空を見つめる瞳は、先ほどのような不安の色は無く。
ただ現在の状況を見据えて、この先どうするべきかを考えているようだった。
「……しかし、貴方のご迷惑になるのでは……」
「仕方ない、でしょう。記憶を無くした怪我人を放り出せるほど、僕は人非人ではありません」
そうだ、仕方がないのだ。
半分自分に言い聞かせるようにして、ミケは言った。
リリィはそれでもまだ少しためらって…しかし、すまなそうにミケを見上げた。
「では……お世話になってもよろしいですか?ご迷惑にならないようにしますから…」
「…宿のご主人に、もう一部屋お願いしてきます。あなたはここで、ゆっくりしていてください」
ミケは硬い声で言って、きびすを返す。
まだ何か言いたげにしているリリィを振り切るようにして、部屋を出た。
「…っ、はぁ……」
ドアに寄りかかって、吐き出すようなため息をつく。

彼女の不安げな表情も、丁寧な感謝の言葉も、下手に出た願いの言葉も、見たことも聞いたこともないものだったから。
かといって、弱っているだろう彼女に優しい言葉の一つもかけてやる気にもなれず。

「……ほんっとうに……どうしろっていうんですか、僕に……!」
ミケは再び、誰に言うとも知れぬ悪態をつくのだった。

宿の主人に事情を話すと、快く了承してくれた。
もちろんすべて話すわけにも行かず、冒険者仲間だったが現在の逗留先は知らない、記憶が戻るまでここに置いてほしいという説明をしたわけだが。
介抱してくれた妻と娘も、食事に気を使ってくれたり、サイズの小さくなった服を譲ってくれたりと、何くれとなく世話を焼いてくれた。
始めはその様子に戸惑っていたリリィだったが、1日、2日と経つにつれ徐々に表情からも緊張が抜け、やわらかい笑顔を浮かべるようになっていった。
体の方は特に支障はなく、次の日には起き上がって歩けるようになっていた。
が、記憶のほうは相変わらずだ。

「まだ、思い出しませんか」
「…申し訳ありません…」
すまなそうに俯くリリィに、ミケはばつが悪そうな顔をした。
「別に責めてるわけじゃありません。けれど、あなたの……お国の方も、心配されるのではないかと思って」
実際はそんなことは無いのだが、とりあえず不安にさせないためにそんなことを言ってみる。
と、リリィは何故か少し複雑そうな顔をした。
「心配……していてくれるのなら、良いのですけれど」
「…なぜ、そう思われるんですか」
ミケがつっこむと、リリィは自嘲気味に苦笑した。
「母上が亡くなられて…女王を継ぎはしましたけれど。
このような、年端も行かぬ女王など、ただのお飾り……わたくしがいなくても、国は回りますから」
「……」
返す言葉の見つからないミケ。
リリィはさらに苦笑を深めた。
「…申し訳ありません、このようなことを申し上げて」
「……でも」
「…?」
「……でも、それが心配しない理由には、ならないんじゃないですか」
ミケはやっとのことで、それだけ言った。
きょとんとするリリィ。
「確かに、あなたはまだお若い。国を動かすのに無くてはならないかと言われたら、首をかしげるのも仕方の無いことだと思います。
でも、あなたは女王である前に一人の人間でしょう。あなたを大切に思っている方は、たくさんいらっしゃると思いますよ。
あなたの……妹君、ですとか」
リリィはしばらくきょとんとして…それから、やわらかく微笑んだ。
「…有難うございます」
「……」
やはり複雑そうな表情のミケ。
「…貴方は、ずいぶんわたくしの事情にお詳しくていらっしゃるのですね。
王宮の関係者のようでもありませんが……失礼ですが、わたくしとはどのようなご関係でいらっしゃるのです?」
なんともおかしな言い回しだが、いずれ当然触れてくるだろうことを、リリィは訊いてきた。
それを予想していたミケは、用意していた答えを返す。
「…僕は、冒険者なんです。以前、あなたの王宮からの依頼を受けて、ちょっとした事件を解決しました。
それ以来、折に触れては顔を合わせていましたよ」
おおむね、嘘は言っていない。
「そう……なのですか?」
「…何か、おかしな点でも?」
「あ、いえ……」
不思議そうな顔をするリリィにツッコミを入れると、リリィはきょとんとしてから、苦笑した。
「おかしなことを言うと、笑ってくださいましね。
わたくしは、貴方と一緒にいると…何と言うのでしょう、とても、心が安らぐように思うのです」
「……え?」
片眉を寄せるミケ。
リリィは苦笑を深めた。
「自分でも、不思議なのですけれど。貴方という人物の存在は記憶に無くても、心のどこかで…貴方のことを、とても親しい存在であると認識しているのだと思いますわ。
現に、貴方は外部にはあまり漏れていない、わたくしの妹のことをご存知でいらっしゃいますし」
「それは……」
「ですから、ただの雇われた冒険者というだけでなく、もっと親しい間柄ではなかったのかと思ったのです。
わたくしの申し上げたこと、何かおかしいところがございまして?」
「…………」
ミケは複雑そうな顔で黙り込んだ。
「立ち入ったことを、お訊きいたしましたかしら」
リリィは、くす、と嬉しそうに笑った。
「だからこそ、大怪我を負ったわたくしは、貴方のところに助けを求めに参ったのだと思いますわ」
「…そうですかねー……間違って来たんじゃないかな…」
『こんなところ』発言をまだ根に持っているミケ。
リリィは驚いたような顔をした。
「まあ。わたくし、そのようなことを貴方に思わせるような言動をしておりましたの?」
「ええ、それはもう毎回毎回」
憮然として答えると、リリィは可笑しそうにくすくすと笑った。
「でしたら…わたくし、よほど貴方に心を許しているのでしょうね」
「はぁ?」
耳を疑うような発言に、思わず眉を寄せて問い返す。
リリィは笑顔のまま、答えた。
「わたくし、なかなか我侭の言えない立場におりますでしょう?心を許す方には、ついその方の反応を見たくて、極端なことを言ってしまうことがありますの」
「…それが、あなたの愛情表現だとでも?」
「お許しくださいませね。それだけ、貴方の事を信頼しているということですわ」
「…どーだか……」
彼女が自分以上に信頼をし、愛情を注ぐ存在がいることを、彼は知っている。
再び憮然とするミケをよそに、リリィは嬉しそうに微笑を深めた。
「でも、安心いたしましたわ」
「安心?」
ミケが問い返すと、リリィは彼に視線を返した。
「わたくし、漠然と、このままでいて良いのかと案じておりましたの。女王という責務を課せられた身には仕方の無いこととはいえ、心を通わせる殿方が一生現れぬまま、愛の無い結婚をするのではないかと…女性として生まれたからには、やはり女性としての幸せも得たいものですものね」
「はぁ……」
生返事のミケ。リリィはにこりと笑った。
「でも、未来のわたくしには、貴方のように心を許す殿方がいるのだと知って、安心したのです。わたくしの未来も、あまり捨てたものではございませんわね」
「ちょっ……」
完全に未来の伴侶認定をされている。
ミケは慌てて否定しようとし、しかし否定材料を告げるわけにもいかず、言葉を詰まらせる。
「でも……」
リリィはそれをよそに、少しだけ表情を曇らせた。
「貴方の元にとはいえ、記憶を失うほどの大怪我をするなどと…わたくしは、一体何をしていたのでしょう……?」
疑問の原点に立ち返って考えるリリィ。
ミケは少し考えて、そしてぼそりと言った。

「……さあ……僕にも、わかりませんよ」

嘘ではない。
だが、真実すべてでもない。
こんな詭弁ばかり並べ立てて、いつまでこの均衡が保てるというのか。
ミケは自分自身に問いかけた。
こんなこと、いつまでも続くと思うのか。やがて真実が明らかになる時が来る。
そんなことは判っていた。それを、見ない振りをしていることも。

そして、その日はそう時を待つことなく、あっけなく訪れたのだった。

こんこん。きぃ。
「失礼しま……」
自分の部屋の隣にリザーブした、リリィの部屋のドアを開けて、ミケは固まった。
部屋の中央のテーブルで、リリィが青ざめた表情で食い入るように何かを見ている。
「リリィ、さん……?」
歩み寄って手元を見ると、それは新聞のようだった。
何の変哲も無い、街角で売っている新聞である。が、彼を動揺させるには十分だった。
がさ。
慌ててリリィの手からそれを取り上げる。
「ちょっ……どこでこんなものを」
「……宿のご主人に……読み終えたものを頂きました……何か、思い出すきっかけになれば、と……」
呆然とした表情で、それでもミケの質問に答えるリリィ。
その肩は、小刻みに震えていた。
「国王……シュライクリヒ、14世……?王国暦も……これは……これは一体、どういうことですか……?」
新聞に記されていた、現在の国王の名前。日付に印字された王国暦。
彼女に真実を知らせるには、十分すぎるものだった。
ミケは苦い表情で、くしゃ、と新聞を握り締めた。
「教えてくださいませ…ミケ様……わたくしは……わたくしは、どう……っ」
「落ち着いて、ください」
震えるリリィの肩をがしりと掴んで、ミケはリリィの瞳を正面から見据えた。
「……今の時間は。あなたが、即位してから…百年近く経っています」
「………っ」
「あなたは、今は、リゼスティアルの女王ではありません。現在は、あなたの…妹さんの、子孫に当たる方が、立派に国を治めていらっしゃいます」
「なぜ……」
震える声で、リリィは呟いた。
「なぜ……わたくしは……まだ生きているのです……?あの時と同じままに…百年の時を……」
「それは………」
ミケは眉を寄せて、言葉を詰まらせた。
それが、答えだった。
リリィは目をむいて、ミケの腕を振り払った。
「…いやぁ……っ!!」
ミケを突き飛ばすようにして距離をとり、よろよろと壁にもたれかかる。
「12世陛下も、わたくしの知っているリゼスティアルの民も……エミィも、ヘレンも、大臣たちも!皆…皆、誰一人もうこの世にはいない……
これ以上……これ以上辛いことなど、聞きたくありません……!!」
完全に錯乱した様子で、頭を抱えて座り込んで。
ミケはその様子を、なんとも痛ましげな表情で見下ろした。

いつも余裕げなその笑顔が、たまらなく憎らしかった。
いつかその顔を歪ませてやりたいと、いつも思っていた。

だが。
今、泣き出さんばかりに歪んでいる彼女の顔を前にして、どうしようもないやるせなさばかりが胸にこみ上げる。

違う。
こんな彼女は違う。
こんな顔を見たいわけではない。

ミケは表情を引き締めて、リリィに歩み寄ると、彼女の視線と同じ高さまでしゃがみこんだ。

「……リリィさん」
うつろな瞳をしたリリィに、落ち着いた、しかし緊張をはらんだ声音で語りかける。
「…あなたがかつていた王国の人々は、確かに、もう誰一人この世にはいません。
ですが……あなたは今、確かに……幸せ、ですよ」
「……嘘です……」
ぽつり、と。
うつろな瞳のまま、リリィが呟く。
ミケはゆっくりと首を振った。
「嘘ではありません」
「気休めを…仰らないで。こんな…化け物のような体になって…記憶をなくすような大怪我をするようなことを、今のわたくしはしているのでしょう……?」
「ええ、その通りです」
ミケは強い口調で、告げた。
「あなたの体は、この世のものならぬ干渉を受け、あなたは今、僕たちの倫理観では、決して褒められることではないことをしています。
あなたがそうなったのは、いくつもの悲しい出来事が重なった結果の上のことですが…あなたが語るなと言うなら、僕の口からは語りません。
ですが」
首を振って、続ける。
「今のあなたがあるのは、あなたがたくさんの悲しい出来事を乗り越えて、自分で自分の人生を選択した結果です。
あなたは、あなた自身の意思でその力を勝ち取り、大切な人を得て、分かち合える仲間を得て、あなたが選んだ人生を謳歌している。
それが、幸せでなくて何だというのですか?」
「………」
リリィは呆然とした表情で、ミケの瞳を見返した。
強い意志のこもった瞳で、それを見返すミケ。
「家族を失って嘆く気持ちはわかります。突然のことに混乱する気持ちも。
けれど、あなたが自分の力で勝ち取ってきたあなたの人生を、たとえあなた自身であろうと、否定することは許さない。
あなたを、今、大切に思っている方々は、皆さんそう仰ると思いますよ」
「……わたくしを、大切に思っている……方々……?」
「ええ。あなたが辛い過去を乗り越え、決断して、自分で人生を選んだからこそ、出会えた仲間と…そして、大切な方です」
「……?……」
「今は思い出せなくとも構いません。今あなたの周りにいる方々は、そうしてあなたと出会えて絆を結んだことを大切に思っているはずです。
あなたがかつて絆を結んだ方々と同じように…今も、あなたを大切に思っている方がいて、あなたは幸せに過ごしていますよ」
「……貴方も……」
「えっ?」
呆然とした表情のまま、呟くように、リリィはミケに問うた。
「…ミケ様も……そうですか?今のわたくしを……大切に思ってくださっているのですか……?」
「……っ」
かなり核心を突く問いに、ミケは一瞬言葉を詰まらせた。
視線を泳がせて、しかしやがて、何かをあきらめたようにため息をつく。
「……そう、ですね」
ぐい。
半ば自棄のように、少々荒々しくリリィの頭を引き寄せ、片腕に閉じ込める。
「…あなたのことは、嫌いです。あなたといると心が休まりません。苛々して、憎々しく思って、いつか叩き潰してやりたいと、いつも思っています」
「………」
全く肯定になっていないミケの言葉に、リリィは腕の中で目を丸くする。
が。

「…でも……それはそれだけ、あなたが、僕の心を占領していると……
……そういうことなんだろう、とは……思っていますよ」

全く不本意そうに。
しかし、確かな本音を呟くミケ。

そのまま、部屋に沈黙が訪れた。

およそ抱きしめあう恋人同士には程遠かったが、あまりに長く続く沈黙に、ミケがそろそろ後悔を始めた頃。
突然、頓狂な声がその沈黙を破った。

「………あれっ、ミケさん?」

がば。
腕の中から聞こえてきたいつもの声に、慌てて腕を解き、そばの少女を見下ろすミケ。
しかし、その当人は……不思議そうに、あたりをきょろきょろと見回した。
「…あれっ?私何でこんなところに?……って、あれーっ?!何ですかこの服!髪型も昔のだし!」
宿屋の娘にもらったフェアルーフ仕様の服を見下ろし、自分の髪型を確認し、プチパニックな様子のリリィ。
ミケはしばらくそれを呆然と見やってから…やっとのことで、呟いた。
「お……覚えて……ない、んですか?」
「え、何をですか?!あっ、まさかミケさん、私に何か変な催眠術でもかけて、ダッ(以下自主規制)にして楽しんでたんじゃないでしょうね!」
「なっ、何てことを明るいうちから口走ってるんですか!だいたい、僕にあなたをどうこうできる術が使えるわけがないでしょう!」
「まぁ、それもそうですねぇ」
「む、ムカつく…!ていうか、何が悲しくてこんなつるぺたをわざわざ」
「ミケさん、ほんっっっとに懲りませんよねー。そんなに三途の川を渡りたいなら、回りくどいこと言わなくてもいつでも協力してあげますよ?」
「本当のことじゃないですか。ていうか、元に戻ったんならさっさと帰ってください。あ、あなたの分の宿賃は置いていってくださいね、僕も生活苦しいんで」
「何言ってんですかミケさん?あっ、私に養ってほしいっていうことですね?もーそれも回りくどいこと言わなくてもいつでも協力しますのにー」
「ちーがーう!!もぉぉっ、それはもういいから、帰れーーーーーー!!!」

あとは、全くいつもの調子に戻って。

奇跡のような偶然から出会った昔日の女王は、再びうたかたの夢の中へと消えていってしまったのだった。

―――わたくしの未来も、あまり捨てたものではございませんわね。

“The Queen in old times”2009.10.5.Nagi Kirikawa ….Happy Birthday to Izumi Aikawa!!

相川さんのお誕生日に差し上げました。
人様に差し上げておいてアレなんですが、このお話にはモチーフというか、軽くパクリ元がありまして(笑)遠藤淑子さんの「マダムとミスター」というお話の中の、主人公のグレースが催眠術で幼児に戻ってしまうというお話を元に作りました。
元のお話ではグラハムさんは幼児になってしまったグレースに親身に接するのですが、ミケさんの胸中は複雑だろうなあと思いながら(笑)その複雑さ加減が表現できていたら嬉しいです(笑)
めったに見ることのできない、警戒したり泣き叫んだりするリリィが、ミケさんへのプレゼント、ということで(笑)いらないですか、そうですか(笑)