双子姫の謎

ミケがこの国に来てから、まだそんなに月日は経っていない。
現在の政治の状態や、王宮の人間関係などは把握しているミケも、それまでのことはよく知らないし、また知ろうともしなかった。過去のことは知る必要はないし、また過去に触れられたくない人々もいるだろうから。
しかし、エミリアの狼狽の理由は、昨日今日のことではあるまい。彼女たちが生まれた頃の記録を探ってみる必要があった。
リリィに言われてやってきた王宮の記録保管庫は、過去百年の記録が整理されて収められている。
「15年前…15年前…っと。これかな」
リゼスティアル王国史、と書かれた背表紙の本の該当の年代を抜き取って、パラパラとめくる。
リリィとエミリアが生まれた年のものだ。記録は母女王の健康診断のものから、出産の記録、皇女誕生記念式典のものまで、細かく書き残されている。
「式典は…やはり、リリィさん一人の誕生を祝うものとして行われているようですね……」
苦い顔で、ミケは呟いた。
「……皇女誕生から……日を置いて、1ヶ月…?…産後の体調を気遣ったにしても、ずいぶん遅い式典ですね…」
首をひねるミケ。
「………しかし……女王のお加減が悪くなり始めたのは、やはりお二人が生まれてから…ということのようです…健康診断の記録は良好……前から特に体がお悪いということもなかったのに…
妊娠と出産というのは、それほどに女性の体を変えてしまうものなのでしょうか…」
リリィの母、前女王であるレイミア・イプス・ド・リゼスティアルは、産後から体調を崩し、公務にも支障をきたしていた。そのまま回復することは無く、リリィが12歳のときに亡くなっている。
リリィが14歳という若さにしてあそこまで機知に富んでいるのも、彼女が幼い頃から母に変わり色々なことをこなしてこなければならなかったからであろう。
ミケはパラパラと記録をめくり、ざっと目を通した。
「……?」
と、あるページで手を止め、眉を寄せる。
「これは……」
皇女の出生の記録だ。
公式発表はどうあれ、出生の記録は記録として書かれている。双子の女児を出産。名はリレイアとエミリア。
しかし、その名前のところが、地の紙の色と微妙に違うのを、彼は目ざとく見咎めた。
「…修正…されている……?」
おそらくは当時は紙と同じ色だったと思われる塗料で、それとわからぬよう注意深く修正されているようだった。年月が経って、塗料より先に紙のほうが変色してしまったのだろう。
ミケは司書机まで歩いていくと、ペン立てに刺してあったペーパーナイフを取り、注意深くその塗料を削り始めた。
下の紙に書いてある文字まで削り取ってしまわぬよう、慎重に。
そして。
「……!これは……」
下から現れた文字は、「長女 エミリア」「次女 リレイア」とはっきり記されていた。
「…どういうことでしょうか……」
ミケの表情が険しくなる。
リリィが本来は次女で、エミリアが長女。
本来は、エミリアが皇女として表に立ち、女王の位を受け継ぐはずであった。それはいい。
だが何故、公式の記録をわざわざ改竄してまで、2人を取り替える必要があるというのだろう?
エミリアは性格以外は良くも悪くも見た目はリリィにそっくりだ。体に欠陥があるとか、知力に障害があるだとか、能力的に劣っているということも無い。
公式の記録が改竄されているということは、少なくともそれ相応の身分の人物によるものだとみていい。なまなかな身分の人物では、この記録に手を触れることはおろか、王宮に足を踏み入れることすら難しい。
ならば、相応の身分の人物が、それ相応の目的を持ってこの記録を改竄した、ことになる。
しかし、例えば自分の血を引いた娘を継承権の高い皇女にするために、と言うならばともかく、確かに女王の娘として、しかも双子として生を受けた二人を取り替えて、誰がどんな得をすると言うのか?
「………」
考えれば考えるほど、考えたくない結論ばかりが浮かんできて、ミケは奥歯を噛み締めた。
この行為を行うことで、誰か一人が利益を得る、とは考えにくい。
では、一人でないのなら。
この行為を行うことが、国家をあげての利益になるのならば。
本来は書き換えられるはずの無いものが改竄される事実も、一見意味不明な改竄の内容も、説明できるのではないか。
「では……一体何のために?」
そう、やはりそこでつまずくのだ。
リリィとエミリアを取り替えることが、国にとってどんな利益になるというのか。
ミケはしばし記録を睨みやってから、静かに本を閉じた。
その瞳に、並々ならぬ決意の色を見せて。

過去を知る者

「……ということなんです。どういうことなのか…教えていただけますか」
真剣なミケのまなざしに晒されて、彼女は目を逸らし俯く。
ミケは目を逸らさずに、続けた。
「当時の医師……侍女……記録係。15年という歳月の中で、未だにこの王宮に残っている方がいらっしゃらないのは当然の流れかもしれません。
しかし、その全てが、皇女が生まれてから1年と経たぬ間にこの王宮を去っている。ある者は解雇であり、ある者は本人からの申し出であり……少なくとも、記録にはそう残っています。
これは……当然の流れというにはあまりに不自然です」
一呼吸、間を置いて続ける。
「…まるで……知っていてはいけない何かを知る者たちを、残すまいとしているかのようですね」
言葉の裏に含みを持たせて。
顔を背け俯いている美しい女性に、ミケはゆっくりと問うた。
「……当時のことを知る人間で……そしてもっとも、皇女に近い人物。
あなたしかいないんです。ヘレンさん」
ミケの言葉に、ヘレンは表情を曇らせたまま黙り込んだ。
「なんら問題のない健康体であった女王が、出産を境に体調を崩し、若くしてはかなくなられたのも…何か関係があるのではないですか?」
問い詰める、といった風ではなく。
ただ静かに、ヘレンに問う。
ヘレンは黙ったまま目を閉じ…苦しげに眉を寄せた。
「ヘレンさん」
ミケは静かに、だが強さを思わせる調子で言った。
「何があったかはわかりません。ですが、このままでは姫様方の心にいつまでも重くしこりが残ったままになってしまいます。
エミリア様は、何かをしきりに思い悩んでおいででした。仲のよいリレイア様にさえ相談すら出来ぬほどの重みを、あの齢でお一人で抱えていらっしゃるのです。
乳母として…娘同然と、あのお二人を思っていらっしゃるのでしょう?このままでいいとお思いですか?」
「………」
ヘレンは、娘という言葉に打たれたように目を開いた。
ミケは続けた。
「僕は、過去の事実を暴き不正を正そうと息を巻いている訳ではありません。
ですが、その事実がまだ年端も行かぬ姫様方を苦しめているというならば、僕はそれを取り除きたい。それだけです」
「ミケさん……」
ヘレンはミケの方を見、そして再び苦しげに目を伏せた。
「あたしは……あたしが、止めるべきだったんです…何としてでも…
何も知らない…姫様たちに、こんなに、こんなにも重い荷を背負わせることになるなんて…あたしは……あたしは…!」
つ、と涙が一粒、ヘレンの頬を伝って落ち、ミケはぎょっとして駆け寄った。
「ヘレンさん…?!」

「リリィ様とエミィ様が生まれ…王宮の、あたしを含む女王に近しいごく一部の者たちは、喜びに沸いていました……そんな時、……『あれ』が、現れたんです……」
ミケがなだめ、ようやく落ち着いた様子のヘレンはぽつりぽつりと語り始めた。
「……あれ、とは……?」
ミケが恐る恐る問うと、ヘレンはぶるっと身を震わせた。
「……ちょっと、言葉では言い表せないほど…恐ろしい姿をした、怪物でした……。
女王が抱いていたエミィ様を見て、美味そうな娘だ、食べ頃になったら俺がもらってやるから大切に育てておけ、って……」
「何ですって」
不快そうに眉を顰めるミケ。
ヘレンは目を伏せた。
「女王は、エミィ様をしっかりと抱きしめて…魔物にきっぱりと言ったんです。お前などに誰が、って…」
「当然ですね」
ミケは憤慨した様子で頷いた。
「ですが……あれは、ならばこの国を滅ぼす、と。大きな触手で簡単に壁を壊し、側にいた侍女に大怪我をさせました。あたしたちは、怖くて…どうすることもできなくて……」
当時の恐怖を思い出したのか、かすかに肩を震わせながら語るヘレン。
「あれは、15年後の今日に娘をもらいに来る、差し出さないのならば国を滅ぼすと…そう言って姿を消しました……女王はそのまま気を失って…あたしも、少し怪我を負って……」
「それは…怖い思いをしましたね…そんなことがあったのですか……」
いたましげに、ミケはヘレンに言った。
ヘレンは目を閉じて、続けた。
「産後、すぐにそんなことがあって…女王はすっかり参ってしまわれて…あたしが、リリィ様とエミィさまのお世話をすることになりました。
だけど……女王がいない間に、あたしは宰相からあのことを告げられて…」
「…あのこと?」
ミケが促すと、ヘレンはゆっくりと頷いて、目を開けた。
「……エミィ様の双子の妹であるリリィ様を皇女として育て、皇女は最初から1人しか生まれなかったということにする、と……もし、リリィ様に何か……何か、あった場合は、エミィ様をリリィ様として前に出し、国民の混乱を防ぐ、のだと……」
「……な」
ミケはヘレンの言葉に唖然とした。
「…な、んですか、それは……リリィさんは、最初から魔物に差し出すための生贄として育てられたということですか?!」
ヘレンは辛そうに目を伏せた。
「国民に、魔物に国を滅ぼされるかも知れぬ不安を抱えさせてはならない、何も知らせず魔物の脅威を退けるには、それが最良の方法だと……幸い、あの時女王が抱いていたのはエミィ様一人で、魔物はリリィ様の存在は知らないはず…だったら、魔物を満足させ、国も跡継ぎを得て恙無く運ばせるには、この方法しかないと言われて……あたしは……!」
ヘレンの瞳から、再びつ、と涙がこぼれる。
「リリィ様を魔物の贄として差し出し、エミィ様から妹を奪うことを、判っていながら……あたしには、どうすることも出来ませんでした……一介の乳母であるあたしに、何を言う権限があったでしょう……でも、回復されて戻ってきた女王は…あたしなんかより、もっとお辛い思いをなさったんだと思います…あんなに…あんなにお若くてお綺麗だった女王が…あんなにやつれて…自分の娘と満足に過ごす時間もあまり無いまま…小さな炎が燃え尽きてしまうように、ひっそりと亡くなられることになるなんて…!」
ヘレンは顔を覆って、静かに嗚咽を漏らした。
「あたしが……あたしが、あの時どんなことをしてでも、クビになろうと、殺されようと、女王のために、小さな姫様たちのために、宰相を止めておくべきだったんです…!」
ミケはゆっくりと息を吐き出した。
「いずれ、リリィさんの名を譲り受けて国を治めることが判っていたから……エミリア様は、リリィさんと全く同じように育てられた…。まさに、生まれたときから…リリィさんは、生贄になるためだけに育てられていた、と……」
厳しい表情で、きり、と奥歯を噛み締めて。
「エミリア様は、このことを……」
「……知っているはずです。おそらく、宰相が…魔物の約束の刻限は、もうすぐですから……」
「15年後…15歳の、誕生日に……」
15歳の誕生日に、魔物が現れ、約束通りリリィを連れて行ってしまうこと、そしてその代わりに、何事もなかったかのように自分がリリィの後釜に座り、女王となるのだということを、エミリアは知っている。
だからこそ、あのように狼狽したのだろう。姉にすら相談できないと、取り乱したのだろう。
「エミリア様…」
『……わたくしが存在すれば、わたくしは全てを失う…わたくしがわたくしでなくなってしまう……』
彼女の言った言葉の意味を、ようやく理解する。
エミリアがここに存在し続ければ、リリィは連れ去られ、自分が代わりに『リレイア』となる。エミリアという名の少女はどこにも居なくなってしまう。大切な姉も失い、姉が今まで築き上げてきたものを横から奪い取ることになってしまう。
『でも、でも…わたくしは、ここにいるのを辞めるのは、今ある全てを捨ててしまうのは、もっと…もっと、怖い…』
かといって、全てを捨てて…生まれ育った王宮を、姉を、身分を、何不自由ない暮らしを捨ててここを去ることなど出来ない。奇しくもリリィの言ったとおり、彼女は『真綿に包まれるようにして』育ってきたのだから。
自分がここに居ることで、この先自分が意図せずとも姉に対して大きな罪を犯してしまうことを判っていながら、それでも自分の立場を放棄することが出来ない。そんな重みに、エミリアは一人で耐えてきたというのか。
「そう……だったのですね……」
ミケは苦い表情で呟き、ヘレンを見た。
「…今からでも遅くはありません。そんな魔物の要求に屈することなどないはずです。
魔物を退け、姫様方に課せられた重い運命を取り除きましょう」
「ミケさん……」
ヘレンは悲しそうな瞳をミケに向けた。
「でも……」
「大丈夫です。姫の誕生日まであとわずかですが…その前に魔物の居場所を割り出し、この国に手出しなど出来ないようにするんです。この国にも近衛軍を始め、正規の軍隊があります。皆で力を合わせれば、打ち勝てないことなどないはずです」
ヘレンは黙っている。
ミケはヘレンの手を取り、訴えるように彼女の瞳を見た。
「ヘレンさん。この先、あなたの愛する2人の娘に、生涯消えぬ傷を刻み込むんですか。
本当に娘のことを、この国のことを思うなら、勇気を持って立ち向かうことこそが必要なのではないですか」
「ミケさん……」
ヘレンの瞳に、逡巡の色が浮かぶ。
その時だった。
「やれやれ……若いと言うのは時には罪なことだな。己に出来ぬことなど何一つないと思い込んでいる」
突如後ろからかけられた声に、ミケは立ち上がって振り返った。

謀略と葛藤

「だが、若さと力だけではどうにもならないことが世界にはある、ということですよ。侍従長殿」
入り口に立っていた小太りの男は、皮肉げに笑みを浮かべてミケにそう言った。
「宰相……」
苦い表情で、ミケは男の役職を呟く。
記録では、皇女が生まれる前から代わらずにこの役職についている数少ない人物の一人だった。
そして、リリィとエミリアのことを画策し、実行したのも…
「…何も知らない一人の少女を魔物に売り、その姉の優しさにつけこんで共謀させることが、国のためになると…本気でそう思っているんですか」
「物は言いよう、ですな。民を徒に不安がらせないために妥協することも、時には必要なのですよ」
「妥協?仮にも女王を魔物に差し出すことのどこが妥協だと言うんです?」
「民のためにその身を犠牲にすることも、時として王族には課せられる使命でしょう」
「それは、犠牲になる本人が口にすることです。あなたが口にすることじゃない」
ミケは嫌悪感を表情に表して、吐き捨てるように言った。
「民のためにと女王がその身を差し出す覚悟をするのならば、話は別です。
しかし、あなたのしていることは、何も知らない姫を、何も知らないまま魔物に売り、そして魔物に売ったという事実すら民に知らせないまま、すべてを『なかったこと』にしようとしている、ということでしょう。
『なかったこと』にしようとしているというその事自体が、あなたがこのことを『するべきではないこと』だと認識しているということに他ならないのではないですか?」
宰相の表情がぴくりと動く。
ミケは皮肉げに笑みを作り、続けた。
「そして…新しい女王になったエミリア様は、あなたのおかげで魔物に身を売られることも無く、女王の位も得ることができる。あなたの言うことには逆らえないでしょう。女王を従順な傀儡に出来る…宰相殿にとっては、ずいぶん都合のいいお話ですよね?」
「口の減らない侍従長様だ」
宰相は苦い表情で言った。
「われわれが国のために今まで積み上げてきたものを、姫のご推薦とはいえこの国に来てまだ日の浅い貴方にどうこう言われる筋合いはない。われわれはもう引き返せないところまで来ているのだ。立ち戻ることも、行き先を変えることも出来ない。黙っていてもらいましょうか」
「いいえ、黙りません。間違っていることを、間違ったまま進ませはしない」
叩きつけるように、ミケは言った。
「取り返しのつかないことなんてない。やり直しの出来ないことなんてない。
勇気を持ち、努力をすれば出来ることを、出来ないと決め付けて、国のためだと言い訳をして、逃げているだけです。そして逃げたことをすら、上手く繕って、人を傷つけて保身を図る。そんなことを許すわけにはいかない」
「貴方に許されずとも結構」
宰相はため息をついて、吐き捨てるように言った。
「それに、貴方とここで議論する気はない」
その言葉と共に、彼の後ろにあった扉からわらわらと警備の兵が入ってくる。
「!………」
ミケは表情を変えて身構えた。
警備兵を背後に、にやりと唇の端をゆがませる宰相。
「追い出すのは簡単だが、大事な日にぶち壊しに来られても困るのでね。
皇女のご生誕式典まで、大人しくしていて貰いましょう。
こちらも鬼ではない。殺されないだけありがたいと思うことです。
もっとも、リレイア姫が居なくなれば、貴方もお払い箱になることでしょうがね」
警備兵がミケに駆け寄り、腕を取って拘束する。
ミケは厳しい視線を宰相に向け、何も出来ない自分に歯噛みした。
ヘレンは悲しそうに目を伏せ、顔を逸らして俯いた。

「……ミケさんはどうしたの?」
公務が終わっても自分の元に来ない侍従長を不思議に思い、リリィは側にいたヘレンに訊いた。
ヘレンは一瞬硬直して…それから、笑顔を作ってみせた。
「それが、急な知らせがご実家から届かれましてね。急に帰省されることになったんですよ。
姫様に挨拶もせずに行かなければならないことを、悔やんでいらっしゃいましたよ」
「…そう」
リリィは表情を変えずに呟いて、窓の外に視線をやった。
ヘレンはそれを、複雑な表情で見やる。
「……リリィ様」
「なに?ヘレン」
彼女の方を向き笑顔を作ったリリィに……ヘレンは、再び笑顔を作った。
「いえ…何でもありません」
「早く帰ってくるといいわね」
「えっ?」
「ミケさん。私の誕生日までには、帰ってくるといいわね」
「………ええ…本当に…」

しかし、彼女の待ち人は、結局生誕式典の日まで彼女の元に現れることはなかった。

「…くっ……」
がっ、と牢の格子にこぶしを叩きつけて、ミケは呻いた。
王宮の地下にしつらえられた牢は、人魚族以外の者も入れられるよう空気のある空間もある。が、入り口は水で満たされており、彼らの助けなくしては出ることは難しそうだ。入るときもかなり苦しむことになった。
当然、外の様子など判るはずもなく、日数は体内時計と見張りの兵士の交代でしか測ることは出来なかったが……自分の判断が間違っていなければ、今日が生誕式典の日だ。
今日、リリィが魔物に連れ去られることになる。
「…手段を選んでは、いられない…」
自分に言い聞かせるように呟いて、ミケは意識を集中させた。
このために、今日のこの日までおとなしくしていたのだ。観念したと大臣に思わせ、油断させるために。
ミケが呪を唱えると、彼の周りを薄い靄のようなものが取り巻き始める。
「…スリープクラウド…!」
ばた。
見張りの兵が、声もなくその場に倒れ付した。深い呼吸をしている。眠っているようだ。
「風よ、拳となりて邪悪なものを討て!」
続けて放たれた、空気の塊。ぐしゃ、と鈍い音を立てて、ミケを閉じ込めていた牢の鍵がつぶれて落ちる。
ミケは急いで牢の扉を開けると、牢から出て走りだした。
じめじめとした空間に、ぱしゃ、ぱしゃとミケの足音が響く。
やがて、出口の水辺でミケは足を止めた。
「躊躇している暇はない……上手く、行くといいのですが」
言って、目を閉じ精神を集中させる。
「風よ、荒ぶる水から我を守れ…!」
ふわ。
ミケの周りの空気が、流れとなり、彼を守るように取り囲む。
「…もって下さいね…!」
その流れを纏ったまま、ミケは水に飛び込んだ。

「お綺麗ですよ、姫様」
鏡の前でリリィの髪を整えながら、ヘレンは言った。
「ありがとう、ヘレン」
リリィは笑顔で鏡越しにヘレンに言う。
「エミィも…後でちゃんと、3人でお祝いしましょうね」
「姫様……」
ヘレンは眉を寄せて、リリィを見た。
「私とエミィと、同じに見てくれるのはヘレンだけだもの。…あ、最近はミケさんもそうだけど。
今年も、来年も、ずっとエミィとヘレンと一緒に誕生日をお祝いできるように、頑張るわね」
「……っ」
ヘレンの表情が歪む。
櫛を持った手が、カタカタと震えて。
「……っ、姫様……!」
「姫様。お式の用意が整いまして御座います」
ヘレンが何かを言おうとしたとき、部屋の扉が空いた。
「今参ります」
リリィはそちらに返事をして立ち上がり、笑顔でヘレンを振り返った。
「じゃあ、行ってくるわ。また後でね、ヘレン」
言い残し、しずしずと部屋を後にするリリィ。
ぱたん、と乾いた音が部屋の中に響き…ヘレンは、沈んだ表情でうなだれた。