白百合姫と侍従長

「侍従長様」
背後から声をかけられ、黒い官服に身を包んだ青年はくるりと振り返った。
女官の装束を着た女性がそわそわと辺りをうかがいながらたたずんでいる。
「どうしました?」
「白百合姫様をご存知ありませんか?先ほどからお姿が……」
「また、ですか」
優しげな青色の瞳に呆れの表情を浮かべ、彼は嘆息した。
「…わかりました。僕も探してみます。見つけたらお部屋へお連れしますね」
「お願いします」
女官は一礼をして、再びぱたぱたと長い廊下を駆けていく。
彼は再び嘆息して、きびすを返した。
長い栗色の三つ編みが、それにつれてくるりと翻る。
探すとは言ったものの、実のところ行き先は判っていた。
それに向かって、まっすぐに歩みを進める。

リゼスティアル王国のシンボルである、『真珠の樹』。
辺りに何も無い海の底に大きく根を生やすその樹は、枝葉に実る真珠が太陽の光をキラキラと反射して幻想的に美しい。
ゆえに、彼女の一番のお気に入りの場所であった。
厳重な警戒に守られたその樹に近づくことが出来るのは、限られた者のみ。
例えば…王族、といったような。
ふぅ、と息をついて、彼は水の壁の向こうに声をかけた。
「やっぱりここですか、姫」
空気のある一般居住区と、水に包まれた海洋区。
当然だが真珠の樹は、魔力の壁で守られた空気のある居住区側ではなく、水で満たされた向こう側にある。人魚の特徴である鰭を持たない…人間である彼は、海洋区に入っていくことは出来ない。
居住区からの呼びかけに、しかし彼の視線の先にある真珠の樹からは何の反応もない。
「…隠れても無駄です。出てきなさい、姫」
彼がにべも無く告げると、真珠の樹の向こう側からひらりと桜色の鰭が舞う。
すい、と花びらが舞うように、彼女は光をたたえた水の中を泳いでこちらへやってきた。
水の壁を挟んで、対峙する二人。
水の中からでは声が聞こえない。彼女はにこりと微笑むと、すっと手を差し出した。
ぱしゃん。
水の壁を越えたときに、水が跳ねる音がする。
するり、と壁を越え、彼女は上半身だけを空気の側に覗かせた。
「姫、って呼ばないでって言ってるじゃないですか、ミケさん」
言葉とは裏腹に、彼女の表情はひどく嬉しそうで。
ミケと呼ばれた彼は呆れたように嘆息した。
「あなたはこの国の女王で、国民からも親しまれる『白百合姫』です。それ以上でもそれ以下でもありませんよ。
また侍女の目を盗んで姿を消しましたね?心配して探していましたよ。早くお戻りください」
「ミケさんが名前を呼んで下さったら、戻ります」
にこにこと、彼女。
彼は彼女を一瞬恨めしげに見上げてから、はぁ、と息をついた。
「…早く戻りなさい、リリィさん」
彼女はもう一度嬉しそうに微笑んだ。
「着替えてすぐに行きますから。ミケさんも来て下さいね、大広間ですよ」
「何故僕が」
「侍従長でしょう?女王のお守りはするべきですよ」
「はいはい、わかりました。いいから早く行きなさい」
「はーい。それじゃあ、また後で」
彼女はそれだけ言い残すと、またぱしゃんという音とともに水の向こうに帰っていった。
彼はそれを見送ってから、もう一度こっそりため息をついた。

リゼスティアル国の若き侍従長、ミーケン・デ=ピース。
元は放浪の旅をしていた魔術師だったが、リゼスティアルを訪れた際に皇女にスカウトされ、他種族としては異例の侍従長に納まった。若い女性のような見かけによらず、仕事はてきぱきと効率よくこなし、魔道の腕も確か、種族の違う周りの者たちへの態度も分け隔て無く優しく、就任してしばらく経つが評判は上々である。

そのミケを侍従長にとスカウトしたのが先ほどの姫。
名を、リレイア・イクス・ド・リゼスティアルという。
リゼスティアル王国の、若き女王。若くして亡くなった母女王の後を継いで女王になった、まだ14歳の幼い少女だが、その清らかな美しさと優しさから、国民には「白百合姫」と呼ばれ親しまれている。

「白百合姫、ねぇ」
肩を竦めて、ミケはひとりごちた。
彼女と街で知り合い、女王とは知らず会話を交わし、何がどうなったのかこんな仕事に就く羽目になった。仕事はやり甲斐があるし、不満は無い。が、自分の何がそこまで彼女に気に入られたのか、未だに彼にはよくわからなかった。
姫と呼べば名前で呼べと言い、彼に判るような痕跡を態と残しながら羽目を外す。
そのくせ、自分に好意を寄せているかというと、そうとはとても思えない。単にからかって面白いおもちゃを手に入れた子供のような反応だ。それも、彼にとってはあまり面白くなかった。
「…さて、姫様のお守りに行きますか…」
嘆息して言って、ミケは大広間へと向かった。

「女王様にはご機嫌麗しく…本日は地上の珍しい土産物を入手しましたゆえ、献上に上がりました次第でございます…」
御用商人が恭しく跪いて礼をする。差し出された飾り箱には、以前フェアルーフを旅したときに見かけた工芸品が納まっている。
リリィは優雅に微笑んだ。
「まあ、美しい。これを頂けるのですか?」
「もちろんでございます、白百合姫様。ささ、どうぞお手にとってご覧くださいませ」
御用商人によってさらにずい、と差し出された箱に、歩み寄って中の物を手に取るリリィ。
精巧な細工の施された筒だ。手の中のそれを興味深げに眺めていると、御用商人が跪いたまま注釈を入れた。
「姫様、筒の先に覗き穴のようなものがございます。そこから、陽の光に透かすようにご覧くださいませ」
「…こう……ですか?」
彼の言われたとおり、筒を日の光にかざすように上げてそれを覗き込むリリィ。
「…まあ…!」
目に飛び込んできた光景に、彼女は感嘆の声を上げた。
「綺麗な模様ですね…」
「姫様、そのまま…筒を、回してご覧下さい」
「回す…のですか?」
筒から目を離し、きょとんとして御用商人を見るリリィ。彼は微笑んで頷いた。
不思議そうな顔のまま再び筒を覗き込み、言われたとおりにそれを回してみる。
「……これは…!…筒の中の模様が、回すたびにくるくると変わっていきますわ…!」
先ほどよりも興奮した様子で、リリィは感嘆の声を上げた。
御用商人は満足げに頷くと、商品の解説を始める。
「これは、万華鏡、と申しまして…鏡を使って、そのように美しい模様を作り上げていくのです。
姫様が筒を回した角度によって、模様が変わる…同じ模様は二度と現れぬと言っていいでしょう」
「まぁ……そうなのですね…」
彼の言葉を聞いているのかいないのか、うわごとのように相槌を打って筒を回していくリリィ。
彼女はしばらくそれを楽しむと、名残惜しそうに目から離した。
「…大変美しく、そして興味深いものをありがとうございます。
この感動を、ぜひ国民の皆様とも分かち合いたいですわ。
大臣に、輸入の許可を出すよう申し上げておきますわね」
そう言って微笑むと、彼は再び恭しく頭を垂れた。
「おお…ありがたき幸せ。では、また遠方の珍しいものを手に入れました暁には、姫様の下へ馳せ参じますゆえ…」
「有難う。楽しみにしておりますわ」
商人の言葉に、リリィは再び優雅に微笑んだ。

(……あの飼い慣らされた猫には、正直賞賛を送りたいですけどね…)
リリィの様子を傍らで見ながら、ミケはこっそり嘆息した。
彼の前ではああして年頃の少女のように振舞う彼女だが、女王として公務をこなすときは驚くほどしとやかに、美しく気品のある「白百合姫」の名に違わぬ振舞いをする。
もっとも、彼女が「仮面を取る」のはごく限られた人間の前だけで、のようだが。先ほどミケに声をかけてきた侍女も、白百合姫は優しくしとやかな女性だと思っているようだった。
その二枚舌というか、変わり身の見事さは、素直に賞賛に値すると思う。それとも、王族などというものはみんなそんなものなのだろうか。
他愛も無く続く姫と御用商人の会話を尻目に、ミケはくるりと踵を返して広間を後にした。

「どうされたのです?侍従長様」
大広間を出たところで呼び止められ、振り向く。
年はもう30代後半ほどになるのだろうか。後ろでまとめられたグレーの髪に優しげなブラウンの瞳。顔には多少の皺があるものの、まだまだ若い頃の美しさを髣髴とさせる、おっとりとした女性である。
「ヘレンさん。こんにちは」
彼女の名前を呼び、ミケは微笑んだ。
ヘレン・エイザード。女王の乳母であり、幼少の頃から彼女に仕えてきた女性だった。
ヘレンはにこにこしながらミケに近づいてきた。
「まだ姫様は謁見されているんでしょう?大丈夫なんですか、出てきたりして」
ヘレンの言葉に、ミケは肩をすくめた。
「彼女なら、大丈夫でしょう。僕がいなくても。僕が出向かないと、なかなか公務に出てくれないですけど」
ヘレンはくすくすと笑った。
「姫様は、甘えてるんですよ、ミケさんに。あの姫様が、素顔をさらけ出せる数少ない人の一人なんですからね?ミケさんは」
さすがに生まれた頃からリリィを知っているヘレンは、リリィの二面性もよく知っているらしい。
娘のイタズラをほほえましく見守る母親のような様子に、ミケは憮然とした。
「…一応、光栄、と思うべきなのでしょうかね」
かなり投げやりな様子で、ミケは言った。
本性をさらけ出せる、退屈しない玩具として寵愛されたところで、大して感慨は沸いてこない。むしろ微妙に不愉快だ。
ヘレンはミケの様子に苦笑した。
「お気持ちはわかりますけど、大目に見てあげてくださいな。毎日ご公務に追われ、公務の無い日も女王としての知識と教養を身に付けるためにたくさんの先生に囲まれて…よくがんばっていらっしゃいますよ、姫様は」
「まあ、それは認めますけど、ね」
実際、彼女はよくやっていると思う。14歳という若さで、宰相に助けをもらっているとはいえ、彼女自身も積極的に政情に口を出し、できる限りのことはしてきている。もともと穏やかな国ではあるのだが、子供の女王ということで国民の不興を買うようなことは決してないようだった。
「ですから、たまに姫様のガスを抜いてあげてくださいね。姫様は、私には妙に遠慮するようなところがあるから」
「ヘレンさんは、リリィさんのお母さんも同然ですけど。それはあの方なりに、あなたに感謝をして尊重しているということだと思いますよ」
「姫様は妙なところで律儀ですねえ」
少し寂しそうに、ヘレンは苦笑した。
「ま、感謝も尊重もされない僕が、彼女のストレス解消になってれば、平和だということですかね」
「甘えてるんですよ、ミケさんに」
先ほどと同じことを、ヘレンは繰り返した。
「街から旅の魔道士を連れてきたと聞いたときには、姫様は突然何を、と思いましたけど。
でも、ミケさんが来てから、姫様の表情が豊かになりましたよ」
「そうですかー?」
「はい。あたしが言うんですから間違いはありません」
自信たっぷりに、ヘレンは頷いた。
それから、優しく微笑んで。
「姫様のこと、よろしくお願いしますね…ミケさん」
思いのこもった言葉に、ミケは何と返答したらいいかわからず、ぽりぽりと頭を掻いた。

秘密の妹姫

「…あれは…」
中庭を抜ける渡り廊下を歩いていると、庭の木の下に人影があった。
ブルーのマーメイドドレスを着た少女。
ミケは渡り廊下から中庭に踏み出すと、彼女に声をかけた。
「エミリア様。どうしたのですか、このようなところで」
彼の声にびくりとして振り返り、彼女は苦笑した。
「……ミケ。ごめんなさい、少し空気に当たりたくて…」
「謝られる事はありませんよ。むしろ、姫の自由を妨げた僕の方が怒られてしかるべきです」
ふっと微笑むと、彼女もふっと表情を和らげた。
「ミケは……わたくしと、お姉様を…間違えないのですね」
「…え」
唐突に言われ、ミケはきょとんとした。

彼女は、リリィの双子の妹。エミリア・ツェット・ド・リゼスティアル。
幼いころよりリリィと共に過ごし、共に知識と教養を身につけてきた。王族として文句なしの姫君…である。少なくとも、血筋の上では。
リリィがあれだけ若くして多くの公務をこなし、面倒な勉学や稽古に努めているのも、エミリアが共にそれをこなし、側で支えているからなのだろう。
そして、双子というだけあって、さすがによく似ていた。髪型も服もリリィと全く同じで、遠目で見たらさっぱり区別がつかない。侍女ですら間違えるのを、ミケも見てきた。
しかし、言われてみれば…ミケ自身は、リリィとエミィを間違えたことは無かったように思う。

「…まぐれが続いたんでしょう。お二人は、本当によく似ていらっしゃいますから、間違えるのも無理はありませんよ」
にこりと笑ってミケが言うと、エミィは何故か表情を曇らせた。
「ええ……わたくし達は…本当によく似ています……」
「…?」
その様子に首をひねるミケ。
似ていると言っても、それは外見上のことだ。エミィ自身は、リリィから「本性」を取り去ったような、まさに姫君の中の姫君らしい、優しくしとやかな性格をしている。
…まあ、リリィの妹なのだから、それも見かけだけで、本性は彼には見せていないだけの話かもしれないが。少なくともミケは、そう思っていた。
だから、その優しい姫君が、姉と似ているということでなぜそんなに表情を曇らせるのかがわからない。
「いかがなされましたか、エミリア様。僕は、何か姫のお気に触ることを申しましたでしょうか?」
「いいえ、違うのです、ミケ。貴方が悪いのではないの…ごめんなさい」
エミィは首を振って否定した。
そしてそのまま、俯いてしまう。
気まずい沈黙が落ちた。
「……あの、エミリアさ」
「ミケは……」
ミケが何か言おうとするのを遮るように、エミィが口を開く。
ミケは口を噤んで、エミィの言葉を待った。
エミィはミケからは目を逸らしたまま、言った。
「…ミケは、自分が何故ここにいるのか、考えたことがございますか?」
「…え」
いきなりそんな哲学的な問いを投げかけるとは思わなかった。ミケは少し戸惑って、返事を返す。
「…ええと。改めて考えたことは無いです。ここにいる自分が全てで…ここから踏み出す未来を考えるのが先だと思いますし」
「…そう…」
エミィの表情は曇ったままだ。
ミケは困惑しながら、しかしエミィに慰めの言葉を探した。
「…エミリア様。何をお気に病んでおられるかは解りませんが…何か、エミリア様のお心を苛んでいるものがあるとするなら、誰かに…僕でなくても、エミリア様が信頼に足ると思われる方に、お話になるのがいいですよ。それが何かの解決に結びつかないとしても、誰かに話すだけで、心は少しは軽くなるものですから。
例えば…そうですね。それこそ、お姉君にお話になるのがいいのではないですか?」
「お姉様に…っ」
エミィは一瞬びくりと肩を震わせて、それから必死にかぶりを振った。
「お姉様には…お話できません…!わたくしは……わたくしは…っ」
「エミリア様、落ち着いてください」
取り乱したエミィの肩をそっと押さえると、エミリアは潤んだ瞳をミケのほうに向けた。
どきり、とする。
リリィと同じ顔で、全く正反対の表情を向けてくる彼女に。
「…わたくしは……わたくしは、怖いのです。
自分が何故ここにいるか…その意味を考えたときに……わたくしが存在すれば、わたくしは全てを失う…わたくしがわたくしでなくなってしまう……でも、でも…わたくしは、ここにいるのを辞めるのは、今ある全てを捨ててしまうのは、もっと…もっと、怖い…!」
「エミリア様。エミリア様、落ち着いてください」
自分に取りすがるようにしてわけのわからないことを言うエミィに、ミケは必死で語りかけた。
「大丈夫ですよ。エミリア様には、エミリア様をお慕いしているたくさんの家臣がいます。僕もいます。何より、お姉君が…リリィさんがいらっしゃるじゃないですか」
「お姉様………」
「そうです。今月の末は、お2人の15歳のお誕生日でしたね。盛大な式典も行われるでしょうが、何より、エミリア様がご成長なされることを喜ばれているのはお姉君だと思いますよ。
姉君は……リリィさんは、エミリア様をとても大切に思っていらっしゃいますから」
「お姉様…が…」
うわごとのように言うエミィに、ミケは力強く頷いて見せた。
「はい。ですから、お気を強くお持ちください。お姉君と一緒に、今年も心安らかに年を重ねましょう」
エミィはしばらくの間、放心したようにミケを見つめていた。
が、ややあって、再び俯くと、ミケからすっと体を離す。
「……ごめんなさい、ミケ…取り乱してしまって。……部屋に…戻ります…」
ぼそぼそとそれだけを告げると、静かにその場を後にした。
「…エミリア様……」
ミケは複雑な表情で、その背中を見送った。

「エミィと、何を話してたんですか?」
白い布に桜の刺繍を入れながら。
ミケの方を見ようとせずに、リリィは唐突にそんなことを言った。
ミケはちらりとそちらに目をやって、再び読んでいた本に目を落とす。
「…別に。世間話をしていただけですが」
「それにしては、ミケさんの腕にすがりついちゃったりして、ただ事じゃない雰囲気だったじゃないですか?」
からかうような口調。
ミケは再び本から視線を彼女に移す。
布に針を刺している彼女の視線はそちらに注がれたまま。特に不機嫌ということもなく、いつもの調子で。
ミケは嘆息して、本に視線を戻した。
「…さあ。エミリア様が、何かをお気に病んでおられるようでしたので。
僕には何も出来ないけれど、何かお慰めする言葉はないかと、探っていたんです。…あまり、お役には立てませんでしたが」
「…そうですか」
リリィの語気が、僅かに下がる。
それは、ミケとエミリアとのことを気にしている、というよりは。
「…エミリア様は、その」
どう問うていいか判らずに言いよどむと、リリィは布から視線を外して彼を見た。
「…はい。国民にはほとんど、その存在すら知られていません」
薄く微笑んだその口元は、少し悲しげに見える。
「双子として生を受け、あの子もこの国の正当な姫であるのに…誰にも知られず、ただこの巨大な建物の中で、真綿に包まれるようにして飼い慣らされるだけ」
「…なぜ」
小さく言ったミケに、リリィはにこりと微笑んだ。
「ミケさんも、うすうすは気づいてるんじゃないですか?」
ミケはわずかに眉を寄せて、苦々しげに言う。
「……影武者、ですか」
リリィは笑顔を崩さない。
「…よくある話ですよ」
「リリィさんは、それでいいんですか?」
「私に、やめろと進言しろと?」
「あなたなら出来るんじゃないですか?」
「私が、やらなかったと思いますか?」
逆に問われ、う、と言葉に詰まるミケ。
リリィは、小さくため息をついた。
「正面から、宰相にも言いました。家臣たちの説得も試みました。
ですけど…所詮、女王であるとはいえ宰相の手助けを借りてやっと国を動かしているだけの小娘。そのような者の言うことなど、国を動かせるほどのものではないですよ」
何かを諦めたような、冷めた眼差し。
リリィはふっと目を閉じた。
「私に出来ることは…エミィの身に危険が及ばないように、完璧に女王をやり遂げること。危険な場所に行かないこと。その必要性を作らないこと、遠ざけること。
そうして、一刻も早く、家臣たちを自分の力で掌握できる女王になる…それしかありません。
誰一人文句の付けようの無い女王ならば、エミィを重苦しい足枷から解放し、光の下に誰にはばかることなく名乗りを上げさせることが出来ます。
今は…それを待つしかありません」
「リリィさん……」
複雑な表情で、ミケ。
と。
「……とか言っちゃえば、過酷な境遇に一人耐える健気な乙女的演出が出来ますかね♪」
けろりと笑って言われ、ミケは脱力した。
「…あなたというひとは…」
リリィはくすくす笑って、刺繍を再開した。
「でも、そう思ってる人が一人じゃないことがわかっただけでも収穫です」
「は?」
意味を計りかねてミケが問うと、リリィはもう一度刺繍の手を止めて彼を見た。
「今まで、エミィを私と同じように扱ってくれたのは、ヘレンだけでした。ヘレンには感謝しています」
「そうですね。ヘレンさんは本当に、リリィさんたちのことを実の子供のように思ってらっしゃると思いますよ」
「はい。だから、ミケさんもそう思ってくれて、嬉しいです」
「は?」
ミケが問い返すと、リリィはにこりと微笑んだ。
「ミケさんがエミィのことを心配してくださって嬉しいです、って言ってるんですよ?」
いつもの調子で言われ、ミケは眉を寄せた。
「何ですかその顔」
「あなたがそんな風に言っても素直に受け取れないのは、決して僕のせいじゃないと思うんですけど」
「やですねー、人のせいにしないでくださいよ」
「たまに真面目にものを言うかと思えば、すぐそうやって茶化すからです」
「なんですかミケさん、私に妬いて欲しかったんです?」
「何でそうなるんです。だいたい、あなたがそんなタマですか」
「えーっ、私だって普通の女の子ですよ?」
「普通の女の子に土下座して謝って下さい」
あとはもう、いつもの掛け合いになり。
先ほどの話は、うまく流されてしまった気がした。

だが。
エミリアがリリィの影武者である…エミリアの狼狽は、ただそれだけが理由ではないのではないか、と思う。
(…自分が何故ここにいるか、考えたことがあるか、か……)
エミリアの言葉の意味を考え、虚空を睨む。
それだけを聞くなら、確かに影武者としてリリィの身代わりになり死んで行く運命を気に病んでいるのかとも取れる。
が、エミリアの様子は、そうではないような…そんな気がする。何故かと問われれば、直感としか答えようがないのだが。
『……わたくしが存在すれば、わたくしは全てを失う…わたくしがわたくしでなくなってしまう……でも、でも…わたくしは、ここにいるのを辞めるのは、今ある全てを捨ててしまうのは、もっと…もっと、怖い…』
(存在することで…全てを失う?自分が自分でなくなる…かといって、それを捨てることも出来ない…どういうことでしょう)
その言葉は、影武者として身代わりになることを恐れているとは到底思えない。
自分の数奇な運命に、精神が混乱しているのだと言われればそれまでなのだが…彼女のその言葉と、尋常でない様子が、何故か心に引っかかった。
(少し…調べてみましょうか)
ミケはふぅ、と息をついて立ち上がった。
「どうしました?」
リリィが再び刺繍の手を止めて彼を見上げる。
彼は彼女の方を向いて、言った。
「この国の、最近の記録が見たいんですが……どこに行けばあるでしょうか?」