「ここが、リゼスティアルですか……」

水底から海面を見上げるという奇妙な体験に、彼は感慨深げにそう呟いた。
人魚の王国、リゼスティアル。かつては正真正銘、人魚族だけが住まう国であったという。当然だ、彼らしか海の中を自在に動くことは出来ないのだから。
何代か前の女王が他国との国交に積極的な姿勢を見せ、魔法王国マヒンダと技術提携の末、水を遮断し空気を取り込む魔道の壁を形成し、水中に巨大な空間を作り上げ、他国の商人や観光客を受け入れることに成功した。始めはいつこの壁が壊れるかわからないと不安にかられる人々もいたが、徐々に観光客も増えていき、今では移住者も少なからず見られるという。
「魔法の技術っていうのは、すごいものなんですねえ…」
自らも魔術師であるにもかかわらず、他人事のように感心する。
「…さて、行きますか」
水面越しに差し込む光をひとしきり堪能してから、彼は再び正面を向いて歩き出した。

彼の名はミーケン・デ=ピース。
魔術を得意とし、諸国を旅する冒険者として生計を立てている。
まだ行ったことのないリゼスティアルに興味を引かれ、観光がてら仕事でもあれば受けようとやってきた。
定収入のない冒険者という職業柄、時には食うに困るほど窮することもあったけれど、今は幸い懐にも余裕があり、仕事を請けなければ生活できないというほどではない。この分なら、ここでは純粋に観光気分で楽しめそうだ。
そんなことを思いながら、宿を探す。
居心地が良いなら、1週間ほど滞在していこうか。
本当に、それだけのつもりでいたのだ。

この時までは。

「…だから、申し訳ありませんと言ってるじゃないですか」
歩いていく先から、よく通る女性の声が聞こえてくる。
落ち着いてはいるが声にはらむ剣呑な響きに、ミケは思わず足を速めた。
大通りに、なんとなく広がる人だかり。足を止めてそちらを見やるが、みな係わり合いになりたくないとばかりにその場を去っていく、そんな様子で。
その中心には、ガタイのいい3人の男たちに見下ろされる少女の姿があった。
「ごめんで済みゃ自警団はいらねーんだよ、なぁ?」
「お嬢ちゃんわかってるのぉ?あんた、ケガさせちまったんだよ?こいつに」
「あぁ、痛え痛え。こりゃ~骨折れちまったかもしれねえなぁ」
ニヤニヤ笑いながら判りやすいインネンを展開している男たち。観光客だろうか、人魚ではないようだ。腕を押さえている男もわざとらしい顰め面をしているが、どう見ても本当に痛がっているようには見えない。
対する少女の方は、男たちのインネンに気づいていつつもどう対応していいかわからないという様子で、困ったように男たちを睨み上げていた。
年は15歳ほどだろうか、桃色の鰭の可愛らしい顔立ちの少女である。かなり長めの亜麻色の髪をたらして2つに括り、この街の女性がよく着ているタイプの桜色のワンピースを身に纏っていた。
「ちょっとぶつかったくらいで、骨なんて折れるわけがないでしょう?」
少女がそう言い返すも、男たちはへらへら笑うばかり。
「そんなこと言っても、折れちまったモンはしょうがねえだろ~?」
「自分でケガさせといてそりゃねえよなぁ」
「ああ、痛ぇよぉ~。こりゃあ病院行かねぇとな~」
「どうしてくれるんだぁ?お嬢ちゃん」
男たちの言い草に、少女がさらに眉を寄せる。
「…治療費を支払えということですか?」
「そんなことは言ってねぇよなぁ?」
「そうそう。でもまぁ、ケガさせた方が誠意を見せるもんだよなぁ、普通は」
「誠意ってつまり、お金のことでしょう?」
「お嬢ちゃんがそう思うなら、そうかもなぁ?」
「払えなかったら身体で払ってくれても良いんだぜ?ちょっと発育不良だが、それはガマンしてやるからよぉ」
典型的なセリフを吐いて下卑た笑い声を上げる男たちに、少女の眉がつり上がる。
その時。

「空と大地を駆け行く風よ、優しき衣でその傷を癒せ」

流れるような呪文と共に、腕を押さえた男の周りをふわりと風が取り囲んだ。
「っ、なんだ?!」
驚きに表情を崩す男の肩を、ぽん、と叩くミケ。
「治しておきましたよ、これで良いでしょう」
にこりと笑うと、男は盛大に表情を歪めた。
「あぁ?なんだテメエ!」
「通りすがりの魔術師です」
なおも笑顔で返すミケ。
「とても痛そうにしていらしたので、治癒魔法をかけてみたんですが。どうですか、もう痛くないでしょう?」
「お……おう」
笑顔のミケに多少気圧された様子の男。
だが、仲間2人はもう少しだけしぶとかった。
「治しゃいいってもんじゃねーだろ!ヒトサマにケガさせたワビいれろっつってんだよ!」
「そうだそうだ!このお嬢ちゃんのせいでこいつは痛い思いをしたんだからな!」
「困りましたね、仕方ありません」
ミケは困ったような顔をして首を傾げた。
「では、彼女があなたに怪我をさせたということできちんと届出をしましょう。その上で、彼女にしかるべき賠償をしてもらえれば良いですよね?」
「なっ……」
鼻白む男たち。
ミケはそのまま少女に微笑みかけた。
「この国の治安維持組織は、フェアルーフと同じ、自警団、で良かったですか?あなたは地元の方ですよね。よろしければご案内頂きたいんですけど」
「え……あ、はい」
同じくきょとんとした様子の少女。
対して男たちの表情はみるみるうちに歪んでいった。
「ちっ……おい、行くぞ!」
吐き捨てるようにそう言って、足早にその場を去っていく。
なんとなく出来ていた人だかりが、男たちの行く先を作るようにさっと道を開けた。
その背中を見送って、嘆息するミケ。
「ふう…今時、あんなにわかりやすい難癖をつける人がいるんですねえ。治した所で引いておけばいいのに」
呆れたようにぼやいてから、少女の方を向いて。
「あの手の人たちに正面から対抗しても時間の無駄ですよ。権力を持ち出すのが一番です」
「あっ……ありがとうございました」
少女はなおも呆然とした様子で、それでもミケに礼を言った。
「どういたしまして。ああいう人たちに遭遇することもまあめったにないでしょうが、あしらい方を覚えておくのも良いと思いますよ。
それじゃ、気をつけて」
笑顔を返してその場を去ろうとするミケ。
すると。
「あの」
少女がそれを呼び止め、ミケは再びそちらを向いた。
「冒険者の方ですか?」
「ええ、まあ」
「こちらへは、お仕事で?」
「いえ、あれば受けようとは思ってますが、今の所は観光ですかね」
「そうですか」
少女はそこまで言って、にこり、と微笑んだ。
「じゃあ、お仕事のお話、聞く気ありません?」
「あなたの、ですか?」
ミケは少なからず驚いて、少女を見返した。
笑顔のまま頷く少女。
「ええ。魔道士の方、探してたんです。これから依頼書を酒場に出しに行こうと思ってたんですけど」
ミケは少し考えて、頷いた。
「わかりました。お話、聞かせていただいて良いですか」
彼の言葉に、少女は嬉しそうに笑みを深めるのだった。


「リリィ・イクスです。リリィでいいですよ」
「ミーケン・デ=ピースといいます。ミケとお呼び下さい」
互いに自己紹介を済ませ、2人は改めて握手をした。
「どうぞ、おかけください」
テーブルの正面の椅子を示して言う。
リリィは一瞬きょとんとした後、微笑んでその椅子に腰掛けた。
「私、王宮のお庭を整える庭師さんの下で雑用をしてるんです」
「へえ、そうなんですか」
あまり、というか全くそんな風には見えなかったので、少し驚くミケ。
庭師の手伝いをするならその長すぎる髪は邪魔ではないのかとか、この年で仕事をしているのかとか、気になることは山ほどあったが、まあそんなものなのだろうと無理に納得してみる。
「庭師さんのお弟子さんが、魔術師に依頼というのは?」
「実は、ですね」
リリィと名乗った少女は、言い難そうに眉を寄せて視線を逸らした。
「私の、気のせいかもしれないんです。だから、フランツ…あ、その庭師さんにも内緒で、1人で来たんですけど」
「気のせい…ですか?」
つっこんで訊くと、リリィはミケに視線を戻した。
「調べてみて、何も無かったら私の気のせいだけで済むじゃないですか。わざわざ大事にしなくても、それが一番いいと思って」
「とりあえず、詳しく聞かせてもらえますか」
表情を引き締めて、ミケ。
リリィは頷いた。
「先日、お庭に新しい飾りが導入されたんです。白いイルカの像で、これくらいの小さなものなんですが」
これくらい、と、子供の胴ほどの大きさを手で示して。
「これが、広いお庭の中に、100体ほど置かれたんです」
「ひゃ、100体ですか」
なにやら桁の違う話に驚くミケ。しかしまあ、王宮の庭ともなればそんなものなのかもしれない。
「それで、そのイルカの像が、どうしたんですか?」
「お庭に飾る像に、模様って必要だと思います?」
「模様?」
逆に問われ、眉を顰めるミケ。
「はい。イルカの像の台座に、模様が彫りこまれていたんです。リゼスティアルの国章でもなければ、イルカに合わせたデザイン模様でもない…何か、読めない文字のようなものも刻まれていて。
魔方陣、っていうんですか?あんな風な感じなんです」
「魔方陣……ですか」
リリィは少しもどかしげな表情で、嘆息した。
「私は魔法のことは全く判らないので、あれがただの模様なのか魔方陣なのか、魔方陣ならばどんな効果があるものなのか、判らないんです。
たとえば魔方陣であるなら、魔除けの効果だとか、像自体が光るとか、そういうものならいいと思うんですけど…」
「庭師さんには、聞いてみたんですか?」
ミケの問いに、リリィは浮かない表情のまま頷いた。
「ただの模様なんじゃないのか、って。本当にただの模様ならいいんですけど……正体の知れないものって、なんだか不安じゃありませんか?」
「気持ちは、判らなくもないですけど…」
「普通のお庭なら、私も気にしませんよ。でも、王宮のお庭だから、気になるんです」
リリィは視線を強くして、言い募った。
「重ねて言いますけど、なんでもなければそれでいいんです。ただ、『なんでもない』っていう確証が欲しいんですよ。
お庭のイルカ、調べてくれるだけでいいんです。報酬は、お支払いしますから。
頼まれてくれませんか?」
その真剣な様子に気圧されたように、ミケはぐっと言葉を詰まらせ。
それから、仕方なさそうに嘆息した。
「そこまでおっしゃるなら。いいでしょう、お引き受けしますよ」
「ありがとうございます」
ほっとした様子で微笑むリリィ。
「じゃあ、早速ミケさんがお庭に入れるように、手配してきますね。また、ご連絡に上がります」
「判りました、お待ちしています」
「よろしくお願いします」
リリィは丁寧に礼をして、早速立ち上がった。
同じく見送りに立ち上がるミケを先導するように、ドアの元まで歩いて。
そこで、ぴたりと立ち止まる。
「……?」
自らドアを開ける様子は無く、かといってミケのほうを見るでもない。ただ無言でドアを見つめ、立ち尽くしている。
「どうか、したんですか?」
ミケに問われ、リリィはそちらを向いて…それから、はっと何かに気づいたように表情を変えた。
「……あ、すみません。少しぼーっとしちゃって」
誤魔化すように微笑んで、ドアノブを回す。
かちゃ、と音を立てて、ドアはあっさりと開いた。
「それじゃ、失礼します」
「あ、はい。お気をつけて」
ゆっくりと会釈をしてから部屋を出るリリィを、ミケは不思議そうな表情で見送る。
「変とまではいきませんが……不思議な人ですね……」

「……おや」
次の日。
下の酒場で朝食を済ませて部屋に戻ってきたミケは、ドアの前に立っているリリィを見つけた。
やはり昨日と同じように、ドアの正面にまっすぐ立ったまま微動だにしない。
「おはようございます」
ミケが声をかけると、リリィはそちらを向いて微笑んだ。
「あ、おはようございます」
「すみません、朝食を食べていて。鍵は開いていますよ、どうぞ」
ミケは言いながら、リリィの横から手を伸ばしてドアを開ける。
「失礼します」
リリィは一礼して部屋の中に入った。
中央のテーブルまで足を進め、椅子の傍らで立ち止まってミケに向き直る。
それに気づいて、ミケは笑顔で正面の椅子を指し示した。
「どうぞ、おかけください」
「ありがとうございます」
会釈をして椅子に腰掛けるリリィ。
(不思議と言うより…礼儀正しい、んでしょうか。ご両親の躾が厳しかったんでしょうかね…)
それを見やって自分も腰掛けながら、なんとなくそんなことを思う。ドアの前でも椅子の前でも、許し無しに開けたり座ったりしてはいけないと言われているとか、まさかとは思うがそれが人魚族の慣習とか。
などと益体もないことに思いをめぐらせていると、早速リリィが口を開いた。
「昨日の件ですけど、ミケさんがお庭に入れるように手配しました」
「早いですね」
少し驚いて言葉を返すミケ。
リリィはにこりと微笑んだ。
「といっても、そんなに手の込んだことじゃないですけどね。
フェアルーフからうちの王宮の庭を見せてもらいたいっていう人が来た、設計士さんで庭の設計の参考にしたいそうだ、っていうことにしました」
「えええ」
さらに驚くミケ。
「設計のことなんてぜんぜん判りませんよ、僕」
「いいんですよ、そんなの適当で。お庭のデザインを見せてもらいに来ました、みたいな感じで。どうせお城の人だってわからないんですから」
リリィは微笑んだままこともなげに言う。
「お庭の地図と、それからこれが通行証です」
「あ、え、ありがとうございます」
リリィがテーブルの上に置いた地図と紋章のようなものを、狐につままれたような表情で受け取るミケ。
「なんか、本当にびっくりするほど手回しが良いですね。お城のセキュリティ、大丈夫なんですか、それで」
「この国は平和ですからねぇ」
リリィは呑気な様子で微笑んだ。
「海っていう天然の、しかも鉄壁の城壁に囲まれて、他の国と戦争もないですし。人魚ばかりですから、内乱みたいなこともめったにないんです よ。本当はもっとしっかりした方が良いんでしょうけど、平和なのはいいことですよ」
「まあ、それはそうなんでしょうけど……」
ミケはどこか釈然としない表情で、それでも地図と紋章を受け取った。
「では、早速参りましょうか。お城には正面から入っていいんですよね?」
「ええ。というか、人魚以外の方は正門からしか入れません、物理的に」
「あー…そうか、他の所は空気がないんですね」
「そのとおりです」
にこり、と笑ってから、リリィは続けた。
「門番に案内するようお願いしておきましたから、後は好きに調べてくれて良いですよ」
「えっ、あなたが案内してくれるんじゃないんですか?」
きょとんとして問い返すミケに、リリィは苦笑する。
「外国から視察にやってきた設計士さんと、庭師見習いの私が仲が良かったら変でしょう?」
「ああ、それもそうですよね……」
「じゃあ、ひとまず調べていただいて。3日後にまた来ます、そのときに報告をお願いできますか?」
「わかりました。お任せください」
「よろしくお願いしますね」
リリィはにこりと微笑んで立ち上がり、ドアの所まで歩いていった。
「では、失礼します」
そして軽く礼をすると、今度はそのままドアを開けて外へと出て行く。
「お気をつけて」
ミケは地図を手に取ったまま、その姿を見送るのだった。


「これは……想像以上にすごいお庭ですね……」
王宮の中庭に案内されたミケは、目の前の光景にため息と共にそんな感想を漏らした。
いくら王宮といっても、元は海の底だった場所。空気のある場所に、つまりは人魚以外の種族を招き入れるための場所に、それほどに手と金をかけるとは思わなかったのだ。
だが、一度垣間見たフェアルーフの王宮に勝るとも劣らない広さの円形の庭に、色とりどりの花が整然と咲き乱れるその庭は、そんな思い込みを見事に打ち砕いた。柵やベンチなども統一性のある洒落たデザインのものが配置され、手入れも行き届いているようだ。美しい庭には海の屋根越しに柔らかい陽光が降り注ぎ、地上の豪勢な庭とは一風違った幻想的な雰囲気を醸しだしている。
ミケはしばし、その光景を楽しみながら庭の中をゆっくりと歩いた。
少し歩いた所で足を止め、足元にあったイルカの像を見やる。
「これですね……」
ミケの膝より少し上くらいの高さのその像は、石膏で出来ているようで真っ白い色をしていた。花畑からひょいと顔を出したようなデザインが愛らしい。
「これの……台座、でしたっけ」
問題の台座は、花に隠れて見えなかった。ミケは屈みこみ、花を傷つけないようにそっと手で避ける。
「……これは……」
そこには確かにリリィの言った通り、魔方陣のような模様が刻み込まれていた。いくつもの円が描かれ、複雑な魔術文字で彩られたそれは、台座の上のイルカにはあまりにも似つかわしくない。
ミケは眉を顰めてその模様を食い入るように見つめた。
魔術文字は専門ではないのですらすらと読み解くことは出来ない。
だが、これは………

「どうか、されましたか」

そこに突然背後から声をかけられ、ミケは驚いて振り返った。
そこにいたのは、50がらみになろうかという人魚の男性だった。やせてはいるがひょろりと伸びた背はやや丸まり、穏やかに刻まれた皺と共に年季を思わせる風貌だ。厚手の布で出来た作業着のようなものを身に纏っている。
「あ、すみません、不躾に」
像の台座を注視していたことを悟られただろうか。ミケは慌てて立ち上がると、男性に向き直った。
「可愛らしい像なので、どういう風になっているのか良く見せていただこうと思って」
「ああ……貴方でしたか、フェアルーフからいらした設計士さんというのは」
男性は穏やかに微笑んだ。
それにつられるようにして、ミケも微笑んで会釈をする。
「ミーケン・デ=ピースといいます。素敵な庭園を見せていただいてありがとうございます、とても参考になります」
「これはこれは、ご丁寧に」
男性は笑顔を崩さず、こちらも丁寧に礼をした。
「私はフランツ・エバルトといいます。ここの庭師をしております」
「庭師さんですか」
昨日、リリィが言いかけた名前だった。この男性が、彼女が手伝いをしているという庭師なのだろう。
「これだけのお庭を整えるのは、大変でしょう」
「はは、それが仕事ですからな。地上の草花の手入れをするのもまた、楽しいものですよ」
「そう考えると、すごいですよね。こんな海の底に、こんなにたくさんの陸の花々が咲き乱れるというのは」
ミケは改めて、感心したように庭を見渡した。
事実、その通りだと思う。この空気のある空間を維持しているのは、マヒンダの協力の元に膨大な魔法技術をつぎ込んで作り出した結果だし、その空間に地上の土と花々を持ってきて植えるなどと、手間を考えただけでも途方もない。もともとなかった場所に何かを作り上げるというのは、思うよりずっと大変なものだ。
「これは、この国をこのように作り変えた女王の、地上を歓迎する証なのですよ」
フランツは慈愛のこもった瞳で美しい庭を見渡した。
「それまで地上とかかわりを持つことがなかったリゼスティアルが、地上の人々を受け入れる用意をした…空気のある空間を作るだけではない、地上の人々と地上の生き物をこれだけ受け入れている、仲良くやっていきたいと示す証なのです。
地上からはるばるやってきた方々が、こんな海の底で、地上の花々を目にしたら…嬉しいものでしょう?」
「本当に、そうですね」
ミケは心から同意して頷いた。
「この庭の美しさは、見かけだけのものじゃない。地上のものを広い心で受け入れようと努力する尊い心が、この庭をさらに美しく見せているんですね」
「そう言って頂けると、嬉しいです」
嬉しそうに微笑むフランツ。
「どうぞ、心行くまでご覧になっていってください。私共の作った庭が、地上の方々の参考になるのでしたら、これ以上嬉しいことはありません」
「ありがとうございます。じっくり拝見させていただきますね」
ミケが笑顔で礼をすると、フランツは仕事の続きがありますのでと言ってその場を辞した。
「ふむ……」
ミケは息をつくと、改めて庭を見渡す。
「……ならば、余計に気になりますね……」
ぽつりと呟いて、リリィからもらった地図に目を落とすのだった。


「ああ、おはようございます」
それから、きっかり3日後。
朝食から戻ってきたミケは、前と同じように扉の前で立ち尽くしていたリリィに声をかけた。
「おはようございます、ミケさん」
「鍵なら開けておきましたよ。入って待っていてくださってもよかったんですが」
「そうなんですか?じゃあ、次からはそうしますね」
リリィはにこりと微笑み、しかしミケがドアを開けるのを待って中に入る。
「早速ですけど、調査の結果を聞かせていただいて良いですか?」
ドアを閉めると、リリィは早速そう切り出した。
「はい。まあどうぞ、おかけください」
とりあえず椅子を勧め、慣れた手つきで紅茶を入れるミケ。
備え付けの茶菓子と一緒にリリィに出すと、自分も正面の椅子に座る。
「それで、調査なんですが」
「はい」
テーブルの上に置いておいたレポートと魔道書に手をかけてのミケの言葉に、真剣な顔で身を乗り出すリリィ。
「…あのイルカの像は、どなたが、どういった経緯であのお庭に入れたものでしょうか?」
やはり真剣な表情で問うミケに、リリィは一瞬沈黙し、ゆっくりと問い返した。
「…やっぱり、何かあるんですか?」
「悪いものではないですよ」
ミケは嘆息して、レポートに目を落とした。
「魔法陣は専門ではないので、書き写してギルドで調べました。
あの魔方陣自体は、結界を解除する働きのあるものです。呪いであるとか、攻撃であるとか、そういった負の作用があるものではありません」
「結界を解除……?」
「はい。張られた結界…魔道的な罠であるとか、あるいは逆に攻撃からの防護結界などを無効にする陣です。
あの大きな円形の庭に規則的に配置されているのにも意味があって、あの配置自体にも魔道的な意味があり、魔法陣の働きを強めています」
「あの魔法陣が、城に張られた結界を無効にしている、ということですか?」
「いえ、あの魔方陣自体はまだ発動していません。準備されてあそこにあるだけの状態です」
「じゃあ、これから無効にしようとしている、と」
「そういうことですね」
ミケは嘆息した。
「お城に結界が張られているような話は、聞いたことがありませんか?
侵入者を防ぐ結界や、あるいは魔道的な干渉を防ぐ魔道結界とか」
「ええ、確かにあります」
真剣な表情で頷くリリィ。
「魔術師ギルドの方々に協力していただいて、侵入者を知らせる簡単な結界を張っています。
城の者以外が許可なく中心部に侵入すれば、直ちに衛兵が駆けつける仕組みになっています」
そこまで言って、さらに身を乗り出して。
「じゃあ、あの陣を作った『誰か』は、城の結界を破って侵入する目的だということですか?」
「…その可能性も、あるということです」
ミケは用心深く言って、ひとつ息をついた。
「あの像を卸した業者と、発注した人物を特定しましょう。
像の発注にかこつけて警報の結界を破ろうとした盗賊団の仕業かもしれませんし、あるいは……」
「…内部の者が手引きをした可能性もある、ということですね」
言葉を濁したミケのあとに、リリィが続く。
ミケも無言で肯定の意を示した。
「……わかりました」
リリィの表情は重い。
「…どうにか、調べてみます。明日までお時間をいただけますか」
「わかりました。僕も調べてみたいことがあるんで、また明日落ち合いましょう」
ミケはそう言って、紅茶を一口飲み、ふうと息をつく。
「というか、あなたはいいんですか、こんなに頻繁に僕のところに来て」
「はい?」
こちらも紅茶を飲みながら、きょとんとするリリィ。
「いえ、だから。あなたもお仕事あるんじゃないんですか?大丈夫なんですか、こんなにサボって」
「あはは、大丈夫なんですかねえ」
「なんですかねえって」
あっけらかんとしたリリィの様子に、ミケは呆れの混じった表情で嘆息する。
リリィは笑いながらぱたぱたと手を振った。
「まあ、私は見習いなんで。そんなにお仕事はないんですよ」
「見習いだからこそ、仕事のない時間も色々学ぶことがあるんじゃないんですか?」
「ミケさんは真面目ですねえ」
説教されているのに、何故かリリィは上機嫌だ。
「私のことより、ミケさんのお話を聞かせてくださいよ」
「は?」
「ミケさんはどちらのご出身なんですか?」
「…ザフィルス、ですけど」
「私、リゼスティアルからあまり出たことないんですよね。陸の上のお話、聞かせてくださいよ」
「え、でも」
「まあまあ」
リリィはにこりと笑って、立ち上がった。
「私、お紅茶入れるの結構上手いんですよ。お入れしますから、もう少しお話聞かせてください」
「え、ちょ」
「ポット借りますねー」
とめようとするミケを意にも介さず、リリィはポットを手に取って簡易キッチンに向かう。
「…あれ、お湯冷めちゃいましたね」
「沸かせば良いじゃないですか」
「どうやって沸かすんですか、これ」
「もう……いいからあなたは座っていてください」
ミケは嘆息して立ち上がり、キッチンにいたリリィの肩に手をやって椅子の方へと導いた。
「え、やり方教えてくれればやりますよー」
「いいですから。お湯沸かしたら、あなたがお茶を入れてください」
ミケは半ば無理矢理リリィを椅子に座らせると、改めてキッチンに向かう。
「……ふー…」
何だか、かなり彼女のペースに流されているような気がする。
ミケは嘆息しながら、そんなことを思うのだった。

「おはようございます、ミケさん」
翌日。
朝食から帰ってくると、リリィは昨日言った通り中で待っていた。
「おはようございます、早いですね」
言いながら、マントを脱いでかけ、リリィの向かいの椅子に腰掛ける。
彼女は、机の上にあった紙束を手にとって見ているところだった。
「新聞、ですか?」
「はい。図書館に行って、過去のものを借りてきました。今までに同じような事件がなかったかと思って」
「あったんですか?」
「うーん、目立ったものは。この国は本当に平和なんですねえ」
「そうですねー」
リリィは少し嬉しそうに微笑んだ。
「平和ボケが心配なくらいですよ。たまにこういう事件があるとオロオロしちゃって」
「まあ、それは仕方がないでしょうね」
ぱさ、とミケも、借りてきた新聞のひとつを手にとって広げる。
「事件になるのは、移住者や外国の観光客がメインなんですね」
「新聞に載るのは、そうでしょうね」
「というと?」
ミケが問うと、リリィは苦笑した。
「外国人が…もっと言うと、人魚でない人たちが起こした事件の方が目を引くでしょう?今まで水の中に閉じこもっていた私たちには考えもつかないようなことをしてきますからね。
でも実際は、人魚が起こした事件もあると思いますよ。扱いが小さいか、扱わないかしてるんじゃないでしょうか。
そのせいで、リゼスティアルの治安を外国人が悪くした、と思っている人たちも少なからずいると思います」
「……あなたは、冷静なんですね。意外に」
少し感心したように言うミケ。
「どーいう意味ですかー」
リリィはおどけた様子で言って、嘆息した。
「…どこの国だって、どんな種族だって、同じですよ。良い人もいれば、悪い人もいます。
……自分の中の悪を認めたくなくて、誰かのせいにしたいのは、わかりますけどね……」
「………」
暗い表情で俯くリリィに声をかけられず、ミケは黙ってその横顔を見つめる。
すると、リリィは唐突に笑顔をミケに向けた。
「それに、外国の人が問題だというなら、そうならないように法律や設備を整えれば良いだけの話ですよね。
それが、この国を改革した女王様の、外の世界を受け入れたいというお志を受け継ぐことだと思うんです」
「フランツさんも、似たようなことを仰っていましたよ」
ミケもそれに笑顔を返す。
「あの美しいお庭は、地上を歓迎する証なのだと。地上のものをこれだけ受け入れ、仲良くやっていきたいと示すものなのだと。
素敵な考え方ですね」
「フランツさんが、そんなことを……」
しかし、リリィの表情がそこで翳る。
ミケはきょとんとした。
「…どうか、したんですか?」
「………」
リリィは浮かない顔で、ミケに視線を返して。
「…あの像の発注者…フランツさんになってるんです」
「……やはり、そうですか…」
予想はしていたことだった。
あの庭に入れるものを、庭の管理をする庭師の責任者が関知していないはずがない。
「でも、フランツさんは若い頃からずっと城の庭師をしているんです」
リリィはフランツをかばうように言い募った。
「前の…その前の女王様からずっとあの庭を手入れしていて、女王様の覚えもめでたく…そのことを誇りにしていました。
フランツさんが、城に害をなすものを手引きするなんて、考えられません」
「ええ、それは僕もそう思いますよ」
ミケはリリィをなだめるようにそう頷いてみせた。
「だとすれば、残る可能性は…」
「……像を卸した業者、ですね」
リリィが声を低くして言い、二人は視線を合わせて頷きあった。


「ここですか……」
「ここですね」
リリィの資料を元にやってきたのは、街の中心部にある古美術商だった。
輸入品を広く取り扱うかなり大きな商家で、店構えも立派過ぎるほどに立派だ。
「さて、どうやって調べるか……ってちょっと!」
ミケが呟く横でさっさとドアに向かうリリィ。
がちゃ、とドアを開けて、よく通る声で中に呼びかける。
「ごめんくださーい」
「なっ、何してるんですか!」
ミケは慌てて駆け寄り、リリィの肩を引いた。
「え、だから直接お聞きしようと」
「なに考えてんですかあなたはー!」
あっけらかんと返すリリィに、全身全霊でツッコミを入れるミケ。
「直接訊いて、喋ってくれるわけないでしょう!」
「わからないじゃないですか、そんなの」
「わかりますって」
「でももうドア開けちゃいましたし」
「…ああもう!」
ミケは渋い顔で頭を掻いて、それから意を決して建物の中に視線をやった。
「しょうがない、行きましょう」
「うふ、頼りにしてますよ、ミケさん」
「その言葉がこんなに軽く聞こえたのは初めてですよ」
苦々しく言って、足を踏み入れる。
リリィは微笑んだまま、その後について入った。

「王宮の庭師の方が、どういったご用件でしょうか?」
出迎えたのは、40がらみの愛想の良い男だった。地元の人間なのだろう、ダークグレーの鰭が髪の間から覗いている。
落ち着いた穏やかな笑みを浮かべる彼に、リリィは単刀直入に問うた。
「先日搬入された、イルカの像についてなんですけど」
「はい、その節は有難う御座いました。次のご用命もぜひに」
「あの魔法陣は」
男の営業トークを遮って、リリィは強い口調で言った。
魔法陣、という言葉に、男の表情が僅かに動く。
リリィはそれを見すえ、改めてゆっくりと問うた。
「…あの、イルカの像の台座にある魔法陣は。一体どういったものですか」
沈黙が落ちる。
張り詰めた空気の中、男は再びにこりと営業用スマイルを浮かべた。
「魔法陣?何のことでしょうか。台座の模様を勘違いされたのでは?」
「この方はギルド所属の魔術師さんです。見ていただいて調べていただきました。
…結界を解除する働きがあるそうですね、あの魔法陣」
男の笑みが消える。
性急に男を追い詰めようとするリリィに内心はらはらしながら、ミケは用心深く店を見渡した。
人の気配が増えている。
姿を現してはいないが、名乗って対応の男が出てきてからずっと、壁の向こう側から見張られているようだった。
いつでも呪文を唱えられるようにしておきながら、ミケは再び二人に視線を戻す。
「さあ、何のことやら。その方の勘違いでは…」
「勘違いかどうか!」
案の定しらばっくれる男を、強い口調で遮るリリィ。
「今度はギルドの評議員の方に入って調査してもらいましょうか?
あなた方がご存じないのなら、あの像に陣を刻んだのは誰なんでしょうね?像の出所から徹底的に調べますか?」
「………やれやれ」
男は指して慌てた様子もなく、肩を竦めて嘆息した。
「心当たりがないと言うのだから、素直に帰っていれば良いものを。
若い命を、そう簡単に散らすものではありませんよ」
その言葉を合図にしたかのように、店の奥から数人の男たちがわらわらと姿を現す。
あからさまに柄の悪いその男たちに取り囲まれ、しかし2人はなおも厳しい表情で男を見据えていた。
「陣のことを、認めるんですね?」
「さあ、私の方からは何も言うことはありませんよ。
ただ、あなた方がここから出ることも、もう二度とないと思いますがね」
男たちの気配に殺気が混じる。
ミケは表情を引き締めた。
「空と大地を――」
「ミケさん」
唱えかけた呪文を、何故かリリィが遮る。
ミケはぎょっとして彼女を見下ろした。リリィは厳しい表情のまま彼を見やっている。
2人を取り囲んだ男たちは、殺気を放ったままじりじりとその輪を詰めていった。
にこり、と笑う正面の男。
「しばらく、大人しくしていていただきますよ」

「まったく……無茶にもほどがあるでしょう」
2人はそのまま、建物の倉庫のような場所に連れて行かれ、縛られた上で閉じ込められた。
背中合わせで縛られたまま、呆れたように嘆息するミケ。
「挑発してわざと捕まるなんて。そのまま殺されても不思議じゃないんですよ?」
「でも、あの人が首謀者だとは思えませんから」
表情は見て取れないが、リリィの声は意外にしっかりしていた。
「それに、わざわざ王宮の庭師だと名乗った私たちを、話がどこまで広がっているのかも確認しないまま殺すことはしないと思いますよ。
城に内通者がいるなら、それもあぶりだせます」
「それにしたって、やり方が乱暴だというんです」
ミケはなおも咎めるような口調で、後ろの少女に言い募る。
「相手があなたが思うよりずっと短絡だったら?すでに内通者がそこにいたとしたら?
今回は上手くいっても、これが最上の手段だとは思えません」
「すみません」
彼女が素直に謝ったので、ミケは逆に拍子抜けしたような表情をした。
リリィは自嘲気味に笑って、続ける。
「この手段で行くなら、ミケさんを巻き込むべきではありませんでした。すみません」
「……っ、僕はそういうことを言っているんじゃありません」
焦れたように、ミケは首を後ろに向けた。
「何故1人で突っ走るんですか。少なくとも、事前に相談してくださいよ。
前もって言ってくだされば、今の忠告だって事前に出来た。僕の方からアイデアだって出せたかもしれません。
1人では無理をしなければできないことも、2人ならもっと良い手段があるかもしれないでしょう?」
「…そうですねー」
リリィから苦笑の気配が伝わってくる。
ミケは嘆息した。
「…なぜ、そこまでするんです」
「え?」
「こんな、命を賭けるような真似を。どうして、そこまでするんですか?」
「………」
リリィはしばらく黙っていたが、やがておもむろに口を開く。
「……この国が、好きだからです」
「……」
「この国が、大切だから。だから、間違ったことをしようとしている人がもしいるなら、してしまう前にどうにかしたいんです。
大事になる前に未然に防げるなら、それが一番いいでしょう?」
「それは……そうですが」
釈然としない表情のミケに、背中を向けたままくすりと笑う。
「もしこのまま殺されちゃったら、ミケさん化けて出ます?」
「何言ってるんですか」
「あ、ここは『私と一緒に死んでくれますか』の方がいいでしょうかね」
「一緒に死ぬつもりはありませんよ」
「あら冷たい。こういうときは嘘でもハイって言うものですよ、ミケさんモテないでしょ?」
「おかげさまでモテませんけどね、僕は死ぬつもりはないって言ってるんです」
ミケは嘆息して言って、小さく呪文を唱えた。
しゅ、という音がして、一瞬後にはらりとロープが落ちる。
驚いてそれを見下ろすリリィ。
「僕は死ぬつもりはないし、あなたを殺させもしません」
「ミケさん…」
「とにかく、ここを出て……」
と、ミケがリリィに向き直りかけた時だった。
がちゃ。
何の前触れもなく、唐突にドアが開く。
「……っ」
ミケはドアに背を向けたままのリリィをかばうようにして膝で立った。
入ってきた人物を、用心深く睨んで。

「………やはり、あなたでしたか。フランツさん」


フランツはミケの姿に驚いたようだった。
「あなたは……先日いらした、設計士の…」
「設計士というのは、嘘です。僕は彼女に雇われた、魔術師です」
「彼女……?」
「あなたの下で働いていらっしゃるという、見習いの女性ですよ」
「な……にを言っているんだ?」
フランツはミケの言葉に訝しげに眉を寄せた。
「私には下働きなどいない。あの庭は私が1人で手入れしているんだ」
「………」
フランツの言葉に、ミケは驚く様子もなく口をつぐんだ。
と、そこに。
「……どうして……」
ミケの後ろから、震える声が響く。
そこで、フランツは初めて、ミケの後ろに誰かがいることに気づいたようだった。
ゆらり、と、リリィが立った気配がした。
「何故ですか、フランツ」
ゆっくりと振り返ったリリィを見て、フランツの表情が驚愕に染まる。

「ひ……姫様……!!」

ミケは黙ってその様子を見つめていた。
この国で『姫様』と呼ばれる人物はただ1人。
先代女王の死によって若干15歳で女王の座についた、リレイア・イクス・ド・リゼスティアル。
通称、『白百合姫』。
「どうして……」
リリィは縄から解放された手を腹の前で組んで、ゆっくりと足を踏み出した。
「貴方は、お祖母様の代からわたくしたちに仕え、素晴らしいお庭を作って下さっていたではありませんか。
あのお庭は、わたくしたちへの忠誠の言葉は、皆嘘だったというのですか?」
悲しげに、フランツに訴える。
フランツは愕然とした表情でふるふると首を振った。
「そんな…嘘だなどと……私は……」
「では、何故……!こんな、よからぬことをたくらむ輩に協力など……!」
「リリィさん」
感極まって吐き出すように言ったリリィを、ミケが後ろから優しく制した。
「フランツさんの忠誠は、嘘ではありませんよ。
むしろ、その忠誠心があったからこそ、彼は今回のことを起こしたのだと思います」
「え……?」
ミケの言葉が理解できず、訝しげな顔を向けるリリィ。
ミケは静かに立ち上がり、フランツのほうを向いた。
「あの魔法陣ですが。
確かに、あれは結界を解く魔法陣です。ですが、警報用の弱い結界に対して、あんなにたくさんの像を、作用を強めるためにさらに陣形に配置する必要はないんですよ。
もっとずっと、大きく、強固な結界をも解くことができる、あれはそういう陣です」
「で、でも、王宮にそんな大きな結界なんて……」
「あるじゃないですか」
ミケは静かに言って、上を見た。
「途方もなく巨大で、強固な。海という大きな自然に対する結界が」
「…………!」
僅かな沈黙のあと、その言葉の意味を理解して驚愕に目を見開くリリィ。
ミケは再びフランツに視線を戻すと、続けた。
「あの魔法陣は、この国全体を覆う結界……人魚以外の種族を受け入れる空間を維持する魔道結界を破るためのものだった。
でも、それだけのことをするには知識も軍資金も要る。
だから、あなたはここの人たちに王宮に侵入する手助けをするともちかけ、魔法陣を作るための知識と、それを実践させるための大量の像を用意させた。
あなたは彼らに利用されたんじゃない、彼らを利用していた。そうですね?」
「………」
苦い顔で黙り込むフランツ。
「で、でも……」
リリィはなおも混乱した様子でミケに言った。
「ならばなおのこと、何故?フランツの忠誠が嘘でないと言うなら、何故こんな大それたことを?
結界を破ることが、王宮への忠誠になるというのですか?」
「もちろん、理由は忠誠心からだけではないでしょう」
ミケは僅かに眉を寄せ、俯いた。
「フランツさんの言葉に嘘はないと思います。あの素晴らしい庭は、女王が地上の人々を受け入れ、仲良くして行きたいと示す証だと。
広い心で地上の人々を受け入れ、もてなす女王を、王族の方々を、彼は心から尊敬していたと思いますよ」
そして、辛そうに目を閉じて。

「……だからこそ、その女王の心にあぐらをかき、踏みにじった地上の人々を、許せなかった…」

フランツの表情がぴくりと動く。
訳が判らないといった様子でミケとフランツを交互に見るリリィ。
ミケはふうと息をつき、懐から紙を取り出した。
かさ、と広げるその紙は、どうやら今朝広げていた新聞らしい。
「……外国人による犯罪が増えているそうですね。今まで海の中で他国とあまり交流していなかったリゼスティアルの人々には、ある意味新鮮な手段を用いる外国人はセンセーショナルに映ったでしょう。
3年前に起こったこの事件……地元の女性を拉致、一週間もの間監禁し、暴行を加え続けたという外国人は、かなり大きく報じられています」
ひら。
見ていたその紙面をフランツに向け、ミケは言った。
「被害者の名前はクリスティン・エバルト……あなたの、娘さんですか?」
「えっ……」
驚いてフランツを見るリリィ。
フランツは苦い表情のまま俯いている。
ミケは続けた。
「被害者は保護され、加害者である外国人3名はこの国の法律で裁かれることになりました。
が、被害者がその後どうなったかは報道はされていません。まあ、報道というのはそういうものですけれどね。
しかし、察するに……」
「……娘は、自殺したよ」
なおも苦い表情で、フランツは吐き捨てるように言った。
「保護され、安全な場所に移されても…来る日も来る日も、よってたかって暴行され続けた記憶がこびりついて離れなかった。
寝ても夢でうなされ、起きていても幻覚に悩まされる。治療を試みたが、少し席を外した隙に……」
そこから先は声にならず、くっ、と悔しげな呻きが漏れる。
「女王が広いお心でこの空間を作り、地上のものを手間と金をかけて持ち込んで、地上の人間を迎え入れた……だのに、あいつらはそれを当然と思うどころか、我々を、女王のお心を踏みにじり、傷つけ、蹂躙する……我々の心の痛みなどお構い無しに!
そんな奴らに、これ以上リゼスティアルを荒らされるのは我慢ならない。こんな空間など、無くなってしまえば良い……!」
吐き捨てるように言うフランツを、リリィは痛ましげに見やった。
「そんな……そんなお話、わたくしは一度も……」
「あの頃は、先代の女王もまだご健在でしたから。まだ御年12歳の姫様にお聞かせする話ではないと思われたのでしょう」
苦笑をリリィに向けるフランツ。
「だが、奴らが刑に処されても、私の心は晴れなかった。
相変わらず地上の輩は我が物顔でこの海の底を歩き回り、我々を傷つけ、食い物にする……」
「………」
ミケは、最初にここを訪れたときにリリィに絡んでいたならず者たちを思い出していた。
ああいった者たちは、絶えることはないのだろう。フランツの言うように、この空間がある限り、ずっと。
フランツは、ぐ、と拳を握り締めた。
「このままにしておくわけにはいかない、と思った。
だが、一介の庭師でしかない私になにが出来よう?この年まで土をいじることしか知らなかったこの私に。
だから……こうするしか、なかったのです……」
フランツはがくりと膝をつき、祈るように両手を頭の上に差し上げた。
「こうして姫様に知られてしまったからには……」
その手には、手の平サイズのほどの白く薄い板が握られている。
それに描かれていた模様を見て、ミケが仰天した。
「いけない、ダメです、フランツさん!」
ミケの叫びも空しく、フランツはぐっと目をつぶり、さらに高く手を差し上げた。
「今ここで、この陣を発動させるしか……!」
「フランツさん!」
ミケが足を踏み出すより早く。

「フランツ!!」

凛とした声があたりに響いた。
ミケも、そしてフランツも驚いて声のしたほうを見やる。
そこには、毅然とした表情で立つリリィの姿があった。
「…リリィ…さん……」
少し驚いて呟くミケ。
先ほどまでの、少女然とした彼女とはまったく違う。
街娘と同じ服を纏っていても、堂々としたその立ち姿は言いようのない高貴さを放っていた。
この少女は、紛れもなくこの国の女王なのだと納得させる、神々しいばかりのオーラ。
フランツもそのリリィを前に、呆然としている。
リリィはすっと足を踏み出した。
「貴方がそこまでの決意でいるのなら、良いでしょう。止めません」
「り、リリィさん?!」
リリィの言葉に、驚いて声を上げるミケ。
リリィはそちらには構わず、続けた。
「ですがその前に、その手でわたくしを絞め殺しなさい」
「なっ……」
「ひっ…姫様……」
続くリリィの言葉にさらに目を剥く2人。
リリィはさらに一歩、足を踏み出した。
「わたくしはこの国の女王です。この国に暮らす全ての人たちの命を預かる責任があります。
それは、人魚以外の人たちも変わりません。彼らは、いつ結界が破れ水が流れ込むかも判らぬこの国に、わたくしのことを信用して暮らしているのです。
ならば、その方々が受ける苦しみは、わたくしの苦しみでなくてはならない。
でも、わたくしは水の中でも息ができます。水の中でもがき苦しみながら味わう死の恐怖を知ることは出来ません」
また一歩。
「ならば、貴方が。貴方がこれから、地上の人々にもたらそうとする苦しみを、同様にわたくしにも与えなさい。
貴方が奪う多くの命を、そのような板切れではなく、あなた自身の手に刻み込みなさい。
それが、覚悟というものでしょう」
「姫様……」
リリィの気迫に慄いた様子のフランツ。
リリィはさらに一歩、足を踏み出した。
「出来ませんか?
貴方が、地上の人々を追い出すことがこの国のためだと本気で思うのなら、それを邪魔する者は滅してでもやり遂げなさい。
貴方にそれだけの覚悟がありますか。
貴方のその気持ちが、娘を失った無念からでなく、この国のためのものであると。その為に、この国に暮らす何の罪もない地上の人々を皆殺しにするべきだと、信じていますか。
おのが種族だけ暮らしていければ良いというその気持ちは、自らの快楽のみに従って貴方の娘を蹂躙したならず者とは違うのだと、心からそう言えますか」
リリィの口調は静かだったが、次第に迫力が増していくようだった。
手を差し上げたまま、カタカタと震わせるフランツ。
す、ともう一歩足を進め、リリィはついにフランツの眼前にたどり着く。
「さあ、おやりなさい、フランツ」
自分より頭二つは背の高いフランツの瞳を、毅然と見上げて。

「…フランツ!!」

ひときわ大きなリリィの声に、びくりと震えた手から紋章入りの板が滑り落ちる。
からん。
ひんやりとした倉庫に硬い音が響いて。
「……姫様……」
がくり、と、フランツは両膝をついた。
頬に伝う涙が、はたはたと床に落ちる。

「申し訳……ありませんでした……」


「それで、フランツさんの処遇はどうなったんですか?」
王宮の庭園にしつらえられたテラスで。
色とりどりの花に囲まれ、いかにも高そうなティーカップに入れられた茶を居心地悪そうに飲みながら、ミケはリリィに訊いた。
「どうって、どうもしていませんよ」
同じようにカップを傾けながら答えるリリィは、今は水色のドレスを纏い、髪も後ろでひとつに纏めている。ワンピースを纏った彼女はどこか違和感があったが、今の姿はとても自然に見えた。
「どうも……って」
「フランツは何もしていませんもの。これまで通り、庭師をやっていただきます。あのイルカの像も、可愛らしいからずっとここに置きます。まあ、魔法陣には傷をつけて無効にしておきましたけど」
にこにこと答えるリリィに、ミケは嘆息した。
「いいんですか、そんなことで」
「初めから大事にしたいなら、こっそり街に出てきてこっそりミケさんに頼んだりなんかしませんよ」
楽しげに語るその口調は、初めて出会った時の明るい街娘の口調そのままで。
フランツに迫ったあの女王然とした気迫が嘘のようだ。
「驚きませんでしたね」
唐突に言ったリリィに、ミケはきょとんとして視線を向ける。
口にした茶を飲み下して、改めて視線を合わせるリリィ。
「私が女王だって言っても」
「…まあ、驚かなかったと言ったら嘘ですが、納得はしましたよ」
ミケはつまらなそうに嘆息した。
「最初は、そういう習慣か、度が過ぎて礼儀正しい人なのかと思っていました。
けど、違ったんですね」
「何がですか?」
「あなたが、ドアの前で何もせずに立ち尽くしていたことです」
茶を一口含んで、それからまた改めてリリィに視線をやって。
「あれは、部屋に入る許しを待っていたのじゃない。
あなたは、自分でドアを開ける立場の人ではないんです。いつもあなた以外の誰かが、ドアを開けていた。
だから、自分でドアを開けるという発想そのものがなかった。それが当たり前のことだったから」
「あー、そうですよねえ。ちょっとあれは、変でしたよね。気をつけてないと、つい」
苦笑するリリィ。
ミケはまた嘆息した。
「最初に、おや、と思ったのは、あなたが僕を庭に入れる手続きをして下さった時です」
「え?」
「あなた、『門番に案内するようお願いしておきました』って言ったんですよ。もしあなたが庭師見習いだとしたら、身分としては門番を始めとする使用人と変わらない。見習いならむしろそれより低いはずです。いくら外部の僕に対してとはいえ、門番さんに対して敬語を使わないことに、違和感を感じました。あの言い方はそう、門番を雇用している立場の人の言い方です」
「ああ……」
リリィは感心したように表情を広げる。
ミケは続けた。
「そうしてあなたの発言を聞いていると、時折そういうことがありました。『王宮』ではなく『城』と呼ぶこと、魔術師ギルドに『協力していただいて』という言い方。どちらも、使用人のさらに見習いが使うものではありません。その言い方では、主語は『国』そのものになる。
ですから、見習いというのは偽りで、王宮内部の、しかも重要な役職の方なのではないかと思っていましたよ。ただ、いくらリゼスティアルが女王の治める女系国家だとしても、あなたの年齢で重要な役職につくとは考えにくい。
だとしたら、『国』を主体とした言葉の使い方をする残りの可能性は、王族です。
…まあまさか、女王本人とまではさすがに思ってませんでしたけど」
「いやー、さすがですねえ、ミケさん。御見逸れしました」
リリィは苦笑して言った。
「すみません、騙していて。でも、名乗るわけには行かなかったんですよ」
「まあ、わかりますけどね」
仕方なさそうに嘆息するミケ。
「まあ、今回は上手く行ったからいいようなものの。やっぱり、やり方は乱暴ですよ。秘密裏にやるにしても、もう少しやり方があった」
「そうですね、それは私もそう思いました」
リリィは笑顔で頷いて、そのままミケに楽しそうな表情を向けた。
「ところでミケさんって、冒険者さんなんですよね?」
「?ええ、そうですけど」
「世界を回ってあちこちでお仕事受けてるんですか?」
「まあ、そうですね」
「拠点としてるところがどこかあるとか?」
「拠点…と言われると、定宿がフェアルーフにありますが、別に契約して借りているわけではないので」
「これから先、お仕事のご予定は?」
「いえ、特にありませんけど……なんですか、突然」
唐突なリリィの質問攻めにきょとんとするミケ。
リリィはにこりと笑みを深めた。

「この国で働いてみる気、ありません?」

「はぁ?」
突拍子もない言葉に思わず眉を寄せるミケ。
リリィはなおもニコニコしながら、言葉を続けた。
「先日、侍従長がお年で退官してしまって、そのポストがずっと空きっぱなしなんですよ。
ミケさんが代わりに入って下さるなら、心強いと思って」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、何言ってるんですか」
慌てて身を乗り出すミケ。
「侍従長って、あなた。そんな重要なポストに、一介の冒険者を就けられるわけがないでしょう」
「いやですねえ、私これでも女王ですよ?それくらいのわがままは利きますよ」
「僕はこの国の人間でも、人魚ですらないんですよ?」
「大丈夫です、公務をするスペースはちゃんと空気がありますから」
「そういう問題ではなくてですね」
「この国には、人魚だけいればいい時代は、もう終わったんです」
落ち着いた声音で、リリィはゆっくりと言った。
「単一民族のみが暮らす、閉鎖された世界には限界がある……この空間を作った女王は、そう言っておられたそうです。
けれど、いくら見掛けだけを整えても、人々の心が変わらなければ、真に国を開くことは出来ません。
今回のことで、本当にそう思いました。
人々の心が変わるには…まず率先して、指導者が変わるべきです。これは、前から考えていたんですよ。
要職を人魚以外に務めさせる。ミケさんに、その第一号になってもらいたいんです」
「えー………」
あからさまに不満顔のミケ。
「ダメですか?」
「ダメも何も、僕に務まる訳ないと思いますけど」
「そんなことないですよ」
リリィは心外そうに言った。
「私がまた、乱暴な手段をとらないように。ミケさんが見張って下さいよ。ね?」
にこり。
綺麗に微笑むリリィは、無邪気な街娘のようであり、そしてまたこの国という重責を背負う女王の気品もたたえていて。
ミケは苦い顔でため息をついた。

「……………考えてみます」
「ええ、たっぷり考えてくださいね」

にこにこと微笑むリリィの前で、渋い顔をして茶を飲むミケ。

それでも遠からぬ未来、きっと、彼女の言う通りになるのだろう。
そんなことを思いながら。

海の底に広がる美しい庭園でのひと時が、静かに過ぎていくのだった。

“Dolphins Garden” 2010.10.3.Nagi Kirikawa Happy Birthday to Mike!!

ということで、女王と侍従長の出会い編でした(笑)ページ分けせずにお渡ししたのでページ分けしてません、長くてごめんなさい(笑)
コンセプトは、「リリィが『素』で喋るような=身分を隠した状態での出会い」「大事にしたくはないけどそれなりに国の命運を揺るがす事件」「リリミケがお互いに惹かれあうきっかけ」という感じでしょうか。
ですので、ミケさんはふんだんに推理をしていただき頼りになるところを見せてもらって(笑)リリは女王らしい毅然とした態度とロイヤルデューティーを垣間見せる感じで行ってみました。
うん、まあ、言われる前に言っておきますが、ストーリーの展開がモロ「相棒」ですよね…(笑)DVD見すぎ(笑)
お話書くのって難しいんだなあ。精進します(笑)

で、街娘リリィもちょろっと描いたので置いておきます(笑)