彼は、自分の気持ちを口にしない。
比喩ではなく、本当に口にしない。
あたしはまだ彼の口から、「好きだ」という一言を聞いたことがない。
それは、まがりなりにも恋人同士として、どうなんだろう、と思うことがたまにある。

「…あら、エリーは?」
「ん?何か買い物に行くとか言って出てったよ」
「あら…そう。言ってくれれば、あたしも外に出る用事があったのに」
眉を寄せて窓の外を見ると、ロッテが楽しそうに椅子の背もたれに顎を乗せた。
「彼、あのカッコすると別人だよね~、今さらだけどさ」
「え?ああ、ええ、そうね。初めて会った時もそうだったけど…あの人なりの武装なのかもしれないわ」

彼は、あたしたちといない時には、いつも初めて会った時のローブ姿になる。髪を下ろして、優しい微笑を浮かべて、口調も敬語になって。
彼が今まで周りの人たちに対してかぶってきた「仮面」をつける。
それは、自分が認めない人に自分を明かすまいとする、彼なりの武装なのかもしれない。

「ふーん、なるほどねえ。自分を見せたくないわけか。キルと一緒だね」
「…一緒にしないでくれるかしら」

半眼で睨んで、あたしは部屋を出た。
仕方がないから、一人で買い物に出かけよう。ロッテを連れて行くのも、今はそんな気分じゃないし。

買い物が済んで店を出ると、向かいの店に見慣れた黄金色の人影があった。
ここで会った偶然に少し嬉しくなって、駆け出そうとして…足が止まる。

彼と楽しそうに談笑している、女性の姿に。

見かけは、あたしより少し年上くらいだろうか。こんな光景は初めてじゃない。どうも、彼は年上に好かれるきらいがあるようだ。
甘い香りのするケーキ屋さんの前。声をかけられた様子で、楽しそうに何かを話している。
女性に何かを質問されて、彼が少し考える。
そして、わずかに首を傾げて微笑んで。
出た言葉が、不思議なくらいに耳に残った。

「……ええ、好きですよ」

身体が、何か魔法でもかけられたみたいに硬直する。
別に、あの女性に対してかけられた言葉じゃない。ケーキか何かの話なんだろう。それは判ってる。
でも、身体が動かない。その一言だけが、頭の中にこだまする。

自由にならない手足をもてあましているあたしに気付いて、彼はこちらに顔を向けた。
「リー。お待たせしました」
仮面の口調で言って、再び女性に向き直る。
「では、連れが来ましたので、僕はこれで。楽しい時間をどうもありがとうございました」
女性は名残惜しそうに別れの挨拶をすると、踵を返して去っていく。
それを笑顔で見送ると、彼はあたしの方に歩いてきた。
「…助かりました。行きましょうか、リー」
その一言で、やっと身体の硬直が解ける。
「え、ええ…」
あたしは、彼と並んで歩き出した。

「…ケーキ、好きなの?」
帰り着いた宿屋で。
元の服に着替えた彼に、ぼんやりと訊いてみる。
「は?」
彼は一瞬眉をしかめて…それから、苦笑した。
「ああ、聞いてたのか。知ってるだろ、俺は動物性のものが好きじゃない。卵や牛乳がふんだんに使われる菓子は出来れば避けて通りたい一品だね。ああ、ナノクニの菓子は米や豆を使ったものが多かったな、あれは嫌いじゃないが」
「…じゃあ、あの人には嘘をついたの?」
責めるように、問う。彼はつまらなそうに肩を竦める。
「あのまま茶に行くような雰囲気でもなかったしな。適当に話を合わせてやれば満足するだろうと思ったまでさ」
いつものこと。彼にとっては。
でも。

「あなたは、嘘つきね」

吐き捨てるように、言う。
わかってる。
彼が嘘をついて適当に話をあわせるのが嫌だったんじゃない。

『好きですよ』

きっと、彼は他の女の人にも、何度もその言葉を言ったんだろう。
食べ物の好みというだけでなく。「自分を好きか」と訊いてきた女の人にも、同じように。
「適当に合わせて、満足させる」ために。

あたしが聞いたことのない言葉を、名前も知らないような女の人に簡単に言ったのが癪に障った。
それだけ。
何のことはない、嫉妬。
自分でも嫌になる。

しばらくの沈黙の後、彼はふっと笑ってあたしに歩み寄った。

「ああ、俺は嘘つきだね」

耳元に唇を寄せて、低く囁く。

「…だから、お前には本当の気持ちを言わないだろう?」

どきり、とする。
彼は本当の気持ちを口にしない。
本当の、気持ち、を。

顔が熱くなるあたしに、彼は嬉しそうに笑う。
あたしはなんとなく悔しくなって、彼を睨む。

信じないわ。
あなたの言葉なんて。

あなたは、嘘つきなんだから。

2006.6.16.KIRIKA