……らん、からん、からん……。
鈍い音に、りりは首を傾げた。家主たる青年は手を止めることなく、何やら書き物をしている。
「みけさん、みーけーさーんー」
「なんですか、うるさいですよ」
「……そもそも、何をしているんですか?」
「……一応、僕も昇殿できませんが、宮中でお仕事もらっているんです。陰陽師の仕事があるんですよ?占いとか、禍祓いとか」
「そうなんですか。大変ですね」
「禍祓いは、駄目だということが、良く分かったんですけどねー……。それはともかく。なんですか?」
何やらちょっと落ち込んだようだが、りりは気にせずにこの音は、と聞いた。
「……音、ああ、風鐸ですか?」
「あんまり、素敵な音がしませんねぇ。別の素材で作ったら、きっと綺麗な音が鳴りそうなのに」
「…………それだけですか?」
「?」
「いえ、特にないなら別に。んー、風で占うときに使ったりするんですよ」
「そうなんですか。暇だから寝ようと思ったのにちょっと気になりますね」
「慣れれば、大丈夫ですよ。……それより、あなた、いい加減、何をしに来たのか言ってみませんか?後ろでうろちょろされると、大変気になります」
「慣れれば大丈夫だと思います」
「……慣れるかー!」

そんな会話をした、ある初夏の日。

「や、元気してる?」
「……ええ、まぁ」
「まぁまぁまぁ、いらっしゃいませ」
訪ねてきた兄は、どこか物憂げな顔をしていた。それが綺麗に見えるから羨ましい。
「今日は、何かあったんですか?」
「あー、まぁ。ちょっとお兄様と話をしないかい?」
何か、とても良くない話なんだろうなぁ、と切り出し方から思った。
「まぁ、みけさん、大変ですね。すっごい嫌われてるんですね」
「「って、いきなり台無しにしないで!?」」
恐らく、なんて言おうか凄く悩んだであろう玖朗の心を読んだりりの言葉に、2人は全く同じタイミングで叫んだ。
「ま、そういうことだね。間接的には俺が悪かったんだけど。反省してる」
「すみません、事情がさっぱりなんですが、なんで!?」
「……あー」
「私を表向き調伏したことになって、宮中の一部で評判になってしまったんですって。脅かしたあの方、なんか、私に脅かされたのが恥ずかしかったくせに、馬鹿にされたみたいで悔しかったとか」
「ちょ」
「もう大丈夫ですよ、と報告した途端、調伏したなら見せてみろとかいうお話とか、取り巻きの方々が、なんであんな陰陽師がとか、大した妖じゃなかったんだろうとか、散々な言われ方みたいですね」
「……りりちゃん、世の中には、言い方ってものがあるからさ。俺の心を読むのはもうこの際好きにして良いけど」
その後の言葉は続けない。けれど心を読めるりりには聞こえたのだろう。
「まぁ、怖い。分かりました、多少気を遣います、私を調伏した陰陽師様に」
「口に出さないで、って言ったつもりだけど?」
「はい、聞きましたけど、言われてませんね?」
表面上は、兄の雰囲気も笑みも変わらなかったけれど、りりは素直にそこで口を閉じた。怖いのでそれ以上の詮索はみけもしない。
「ええと……何やら噂で悪評が立ったのは分かりました。それで……?」
「さっき、りりちゃんがちょっと言ってたでしょ?調伏したのなら見せてみろ、って。りりちゃんがどんな容姿なのかはその方の話で取り巻きさんには広まっちゃってたんだね。せっかくこっちが黙っておいたのに。虎を檻に入れたのなら、見てみたい。安全なところから眺めたい、と言い出してね」
「…………」
檻に入ってない。
むしろ、紐も付いてない。
それどころか、放し飼い……いや、言ってみれば竹林から都に連れてきただけだ。
何ができるのか、と言われても困る。自分に彼女が御せる訳ではないと、分かっている。
そんな絶望感が浮かんでいるのを見て取ったのか、玖朗は小さくため息をついた。
「どーしようかねぇ?」
「どーにも、なりませんねー」
兄から、しばらく出仕しない方が良いよ、と言われていたが、まさかそんな話になっているとは。
「お兄様は私に嘘をついてくれないかな、と思っているみたいですけどね」
「……みけ、お前の心を読んであげよう」
「私にもわかりますよー」
「「無理だと思ってるでしょう」」
「…………」
今、そんなに分かりやすい顔をしていたのかな、と、心底哀しくなったが。
「まぁ、でも、考えようによっては、良い機会かもしれません」
「え」
みけの言葉に、玖朗とりりが首を傾げる。
「……りりさんに、その気があればの話ですけれどね」
「まぁ、私を本当に調伏させる気なんですか!」
「そうなの!?」
「無茶振りしないでっ!」
言い返してから、りりを見る。
「……あなた、僕に付いて歩く気満々でしょう?姿が見えないからと言って」
「勿論ですよ」
「下手したら宮中だろうがなんだろうが、勝手に付いてくるでしょう?」
「勿論ですよ」
「あー、うん。見えないからねぇ……見つかったら大事になるけど」
「そこで、なんですけれど。取引しましょう?」
「取引」
「お願いといっても良いんですけど。兄上ではありませんが、僕の式になったことにしてください。姿を見えないようにしていてもらえると助かりますけれど、一緒にいて、顔をだしていても、それならおかしくはないから」
りりはみけの顔をしばらく見ていたら、唐突に玖朗を見て、にっこり笑う。
「なるほどぉ、色々利点があるんですねぇ」
「みけの心が読めないからって、俺で代用するのは止めて欲しいんだけど」
「この際良いって、先程仰っていましたよね」
自分以上に宮廷でのやりとりの上手い兄ならば、一瞬で色々利点と問題点を考えたのだろう。
「……飽きたら、逃げてもいいですよ。今でさえ、あなたの気まぐれでここにいるだけなんですから。でも、気まぐれでもここに居ようと思ったのなら、協力して欲しいんです。……僕が今、あなたにできることは多分あんまり無いけれど。できることは、協力すると約束するから」
「みけ」
「ついた嘘に、更に嘘を重ねるだけなのは分かっていますよ?こっちの都合なんですし、お願いして、協力してもらう以外に何ができると?」
「そうだけど」
彼女は、あやかし、だよ?
不安そうにそう続けるより先に。
「まずは、お願いしてみないと。断られたら条件変えますけれど……何かありますか?友人になるのに」
「「友人」」
「え、何ですか!?」
「……っふ、ふふふふ、あははははははは。みけさん、面白いです。あなたの発想も良かったですけれど、今のお兄様の心の中をそのままお聞かせしたいですよ」
「……俺は、正直今、お前の感覚を疑ったね……」
「『心を読むような化け物と友人に、とか何言ってるんだ、この弟』って」
「……でも、ほら。僕の心は読めないみたいだし。僕も読めないし。暗示で他の人に見えない、他の人の心を読むということはできますけれど、かからない僕にとっては普通の人間ですからね。……性格悪いのは良く分かっていますけれどね」
逆にそこは、最後の一言は胸にしまうべきだと、玖朗は思う。
「目の届く範囲にいれば、いい、と?今よりも私の自由を保障すると、そういうことですか?」
「衣食住も、頑張りますから」
「その代わり、嘘をつけと言うわけですね?」
「できたら」
「……いいですよ、お友達になって上げます。……うふふ、お兄様は色々危惧なさっているようですけれど」
「今より格段に苦労するし、精神的に疲れるよ?何しでかすか分からないんだからさ」
「まぁ、歯に衣着せぬ言い方ですね」
「着せてもしょうがないだろ、本音が読めるんだからさ」
「……僕もこれ以上、見張りということで家に閉じこもっているの、嫌ですし。付いてくるなら、いっそ堂々と連れ歩けるような理由はないものか、考えて……」
「……」
その言葉に瞑目した玖朗に、りりは苦笑した。
「承りましたv」
「え、何を?」
「うん。お前に言ってもしょうがないこと」
「ですねー」
兄が何をりりに呟いたのかは分からないまま、みけは首を傾げた。

からーん、とこの時期には涼しい風が風卓を揺らした。

「ほう、これが」
「本当に心が読める鬼なのか?」
玖朗が実家を使えば、と言ってくれたので、久々に帰り、件の公家に声をかけてもらった。そうして集まった者たちは10人程度。そのぶしつけな視線にみけが顔をしかめる。当の本人は気にした風もなく涼しげな顔であるが。
姫君の装いをさせたりりは、酷く美しかった。元々の服もよく似合っていたけれど、と考えて、心が読めなくて幸いだと胸をなで下ろした物だ。
本当は御簾を間に入れていたのだ。姫君の顔を見るのは不作法。わざわざそのために着せたはずだったのだが、妖には必要ないと無理矢理外された。それも密かに腹立たしかった。
「あの、心は読まれて楽しいものではありませんし、これ以上は」
「……お前如き下級の輩の言など聞きたくない。とっとと語らせてみろ、口だけならば一族まとめて追いだしてやる、とお思いになっておられますよ、我が主さま?」
「!?」
「!?」
心を読まれた公家が顔を引きつらせ、最後の言葉にみけが驚いた顔でりりを見やった。
「どういたしましょう?端から読んでいっても構いませんが、ご命令が無くては。ね……?」
扇を開いて隠している顔は、にやにやと笑っている。
「それなら、私が今考えていることを……」
「親に内緒で文を交わしている姫君を浚おうとなさるなんて、良くはありませんよ?いくら長官の娘で、身分が釣り合わないからと言って」
(そ、それは言っちゃ駄目だー!?)
後ろの方にいた玖朗の悲鳴が聞こえた気がして、みけもやや気が遠くなった。小声でぼそぼそとりりは続ける。
「奥の人なんて、怯えて今すぐ逃げ出したいと思っておいでですよ。ふふ、そんなに読まれて困ることがあるんですかねぇ?私の顔を見てちょっと見とれたくせにねー」
「あ、あの、命じなければ特に心は読みませんからっ!りりさん、戻って!」
「仰せのままに、我が主さまv」
暗示が行き渡り、姿が消えたように見えただろう。本人はそこで面白そうに見やっているが。

「こ、これで収まってくれるといいんですけどねぇ」
「そうでしょうか?……もしかしたら、あなたが首になるかもしれませんねー、あなたがいたらみんな安心して住めないですから」
「?」
「……私が、言われていることを、あなたが言われるということですよ。その気になれば心が読まれる。怖い。邪魔だ……って。そして言われることでしょうね。……出て行けと。それとも、自分の傘下に入って、その力を使えと言われるかしら?ふふふ」
「そこまでは、考えていませんでしたね」
青ざめた顔で部屋を出て行く彼らを見ながら、みけは感慨もなくそう呟いた。
「あら、全部分かっていて、やらせたのではないんですか?」
「まさか。……でも、そうしたら、衣食住は保証してあげられなくなっちゃいますね、申し訳ない」
はは、と苦笑したみけをりりはじっと見つめる。やはり、彼の心は読めない。
「兄上、すみませんねー。仕事が無くなったらどうしましょう?」
「うちは……武士は、刀があればご飯食べられるだろ。農具に変えたって良いし。きっかけは俺だからねぇ。そこが責任取るし」
軽く肩をすくめる貴公子然とした兄。りりが苦笑して何も言わないところを見ると、本音らしい。
「都落ちすると姫君達に泣かれるかなー」
「余裕そうですね、何よりです」
「いいじゃないですかー、どうせ誰も本気じゃないんですしぃ?みけさんに1人分けてあげたら良かったのにね」
「大きなお世話です!」

そうして、3人は笑った。部屋に満ちた気味悪い沈黙をぬぐい去るような、明るさで。

「りりさん、どこか行きたいところはありますか?」
「まぁ、珍しい」
「出仕しなくて良いって言われましたし」
本当に怖がられて、出仕しなくて良いと言われた。その一方であちこちから山のように金銀と文が送られてくるようになった。幸い、兄たちの方には特に何もないらしい。……手を出したら報復が来るとでも思われているのか。
「でも、陰陽師の仕事の依頼は、凄く増えましたけどね」
「……怨霊調伏には連れて行ってもらえるようになりましたが、もう少し雰囲気の良いお出かけがしたいと思っていました」
やれ、化け物が出ただの、吉凶を占えだの。「目の届く範囲にいろって言いましたね」と面白半分でりりもよく付いていくようになった。みけが出てきた怨霊に、吃驚したりするのも、大変面白かったが。
「みけ様、お客様ですが」
「あ、良かったですね、お出かけ先が決まりそうです」
「……お花でも愛でに行きたいです。もっと綺麗な物を見たいです。怨霊関係だったら流石にちょっと飽きました」
「わかりました、その場合は屋敷で待ってると良いですよ。このお仕事が終わったらどこかに行きましょうか」
「あらあら、目を離していいんですか?逃げちゃうかも知れませんよ?」
「そうしたら、探しに出ますけどもね」
「ま、いいですよ、おとなしくしていましょう。……でも、2人で雅な場所へ、なんて。逢い引きのようですね、きゃ。私、和歌が欲しいです、お誘いの」
「…………」
その瞬間浮かべた顔は、どんな物だったのか。
りりはその顔を見て、声を上げて笑った。

「りりさま」
「はぁい?」
「お茶をお持ちしました」
す、と戸を開けて現れたのは、女の童。聞くまでもなく、妖が怖いと思っているのが良く分かる。
「ありがとうございます。あ、そこでいいですよ、怖いのでしょう?」
これ以上近寄らせたらお茶が折敷に零れて無くなってしまうのではないかと思うくらいに震える手に、りりはにやりと笑う。
「いいんですよ、怖がらなくても。別に、みけさんがいないからといって、取って食べたりはしませんから……ねぇ?」
「ひっ」
にじりよると、がたんと尻餅をつき、戸を閉めるのもそこそこに駆け出していった。
「うふふふ、随分、可愛らしいですねぇ。あそこで居座るくらいに度胸があったら、暇つぶしくらいにはなったのかも知れませんけど」
格子を上げて、外を見る。からん、と風鐸が音を立てて揺れていた。静かに暮れゆく空は、もうすぐ逢魔が時。夕立を予期させる風に僅かに目を細めてから、障子際に置かれたままの茶を取りに戻る。
「……つまらない、ですね……」

ざああ、と雨の音がし始め、蛙の声が響き始める。
ぜぇ、とりりは苦しそうに息をついた。
手から零れた碗から茶が広がっていった。あの童の持ってきたこれに、薬でも混ぜてあったのだろう。
(でも、あの子はそんなこと、欠片も意識していなかった)
薬を入れたのなら、読めないはずがない。薬を飲ませようと思っていたのなら、それを聞けないはずがない。それなのに。
がたん、という音を聞き、ゆっくりと頭を向ける。開けたままにしてしまった格子から、入り込む人影。
「……うまく、効いたようだな」
「……ああ、ええと……この間の時に、いました、ね……?」
あの見せ物の時に、確か、いた公家の1人。やけに怯えていた彼を、とても心が弱い男だと密かにせせら笑ったものだが。
「うまく、お前の主人を引き離せた物だな。……何が調伏した、だ。心を読むことしかできぬ妖一匹、斬り殺せばすむことだというのに。どうせ魅入られたのだろう、この妖に」
太刀がすらりと抜かれる。それをりりのすぐ側に突き立てた。
「怖いか、化け物。命乞いでもしてみるか?」
「……ふふ。随分と、無謀なことを」
くく、と喉の奥で笑う。身体は酷く重い。
「その、勇気。その、……力。あなたのものでは、ありませんでしょうに」
うるさいほどの音で叫ぶ、心の声。
「……我が主さまは、報復しますよ……?」
「うるさい、あんな飛ばず鳴かずの男に何ができる!?」
衣を捕まれて、仰向けに転がされる。その肩を押さえつけられて男の顔に視線を向ける。そのまま、唇を笑みの形に歪めた。
「『欲しい。私の物にしたい。あんな男になど相応しくない。奪ってしまえ』人の心を読んだつもりで口にしているのが、あなたの真実。……先程から、がなり立てておいでですけれど……っふふ、つまらないこと……。全部、全部……見通せる。とても、つまらない。でも、一番つまらないのは」
「うるさいっ!」
体重をかけて押し倒されてりりは小さく呻いた。衣に手をかけられ、引き裂かれかけた瞬間。……さぁっと、強い風が吹き込んだ。同時にあの鈍い鐘の音がする。
「ぐあっ」
「……?」
途端、耳を押さえて蹲った男を、りりは不思議そうに見やる。
「ぐぅ、なんだこれは……!?」
「……は、良かった、全く効かないわけじゃなくて。……人伝に依頼をくださったのは、あなたですね?」
走ってきたのだろう、僅かに息切れしながらも、凛とした響き。
「お早い、お帰りで……我が、主さ、ま」
「何故……」
「言われたその場所に妖力が全くないくらい、見れば分かりますよ。おかしいと思って、すぐに引き返してきたんです」
夕立に降られ、濡れた衣に構わず、ずかずかと歩み寄る。男はりりを掴んだまま後ずさった。無理な姿勢を強いられたりりは小さな悲鳴を上げた。
それを聞いたみけは僅かに眉をしかめ、通り際に男が差した太刀を引き抜いて、更に歩み寄る。
「来るな!」
「お断りします」
男の背が障子に当たり、それ以上は下がれなくなる。そのまま睨み付けてくる男の肩にみけは刃を当てる。
「その手、離しなさい」
「断る!貴様、公家である私に対してなんという無礼を……」
ちゃき、と刃を返し、切っ先が男の首へと突きつけられる。
「その薄汚い手を、離せと言っている」
「……っ!貴様如きが……」
「っ」
からからと強い風に煽られた風鐸の音に男は一つ呻いて手を離す。そして人間離れした動きで外へと飛び出した。弾かれた太刀が部屋の片隅へ転がり、調度に当たって派手な音を立てた。その音を聞きつけて人が来る音がする。
「ちょっと、そのままでいてくださいね。すぐ、終わらせますから」
「言われなくても、動けません」
りりの返事を効いてから、みけは廂へ出る。
「まったく……人んちの結界を勝手に動かした挙げ句、入り込むなんて。腹立たしい」
男は既に人には見えなかった。雷光に映った影は、狗か。
す、と手を構えて小さく、縛と呟く。地に光が満ち、狗を縛り上げた。そうして呟いた呪により、鈍い輝きを宿す太刀がその手に現れた。
「滅せよ」
ひゅ、と軽い音を立てて刃は振り抜かれた。影だけが咆吼を上げて虚空へと溶けるように消えていく。
ばしゃん、と水たまりに倒れ込んだ公家を冷ややかな視線で見やってから、式神の猫を呼び出す。
「まぁ、命に別状はないでしょうし、捨ててきて。大通りに捨てておいたら、誰か拾うでしょう」
「にゃあ」
見る間に猫は大きくなり、彼を咥えると軽々と小柴垣を飛び越えていった。
「みけ様、お召し物が……」
「ああ、着替えます。それより先に、彼女を」
心配そうに見やると、りりは静かに笑った。
「風邪を召されぬうちに、着替えてくださいな、我が主さま」
「……分かりました」

からん、と未だ風に揺れて音を立てる風鐸の音を聞きながら、褥に横になったまま、りりは呟く。
「あの風鐸、魔物を祓う効果があったんですね」
「ええ、音で魔物を追い払うんです。そうやって結界を作ってあったんですよ」
『禍祓いは駄目だと分かった』とは、そういうことなのだろう。りりにあっさり入り込まれたのだから。
「あの方は、あまりにも怯えすぎて逆におかしな物に憑かれてしまっていたみたいですね。欲望を増幅させるような物に。そんなに脅かしたつもりはなかったんですけどねぇ……目があったから笑いかけてあげただけなのに」
「……だからじゃないですか……?」
「まぁ、酷い」
恐らく、彼が一番怯えた理由は『りりを美しい』と思った心を読まれること、ではなかっただろうか。妖に抱いた恋情を、あの場で口にされでもしたら。
心を奪われたことすらも恐ろしいと思ったのかも知れない。その感情を他の妖に突かれたのではないか、と。
「薬はしばらくすれば抜けるようですから、今日はこのままお休みなさい」
「……今回のことは、みけさんが私から目を離したのが原因だと思うんです」
「はい?あ、ああ、まぁ、そうですね。連れて行けば良かった。偶然が重なってしまいましたね」
多分、連れて行こうとしたら何かしらの理由を付けて、屋敷に残すようにしたかもしれない。憑かれている割に、だからこそか、手段は講じてきていた。りりを手に入れるために。
「だから、責任を取って、添い寝すべきだと思うんですが、どうでしょう?」
「馬鹿言わないでください。僕はこれから、結界張り直さなきゃいけないんですから」
「ええー」
「……全く、うちの女房に金を掴ませて結界石ずらすわ、薬入りの茶を仕込ませるわ……返す返すも腹が立つ……」
苛ついた様子で言いながら立とうとしたみけの衣を掴む。
「一緒に、いてほしいんですけど」
「……張り直さなきゃ、そうでなくても妖と関わりのある仕事なんですから、寄ってくるんですよ。あなたのことだって、守りにくい。簡易的に張り直してきますから」
「…………女心が分からない人だと、言われませんか……?」
「やかましい」
言って、それでもみけは座り直す。
「とりあえず、この部屋だけ結界を張り直します。残りは明日に、しますよ」
「ありがとうございます。で?」
「で?」
「……薬を盛られて、動けないんですが、無体を働いてみる気は」
「ありませんっ!」

翌朝、りりは、竈の側で座り込んでいた。
「どうしたんですか、こんなところで」
「ああ、みけさん。ほら」
指さした先で茶釜が二つ並んでいた。
「昨日まで、1個だったと思いましたが。どうしましょう、これは幸いだと思っておいたらいいでしょうか」
「ああ。……心が読めるんじゃありませんか?」
「驚きませんね?」
「ええ、久しぶりに見ました。おいで。この女はあなたを火にかけようとしているから」
その言葉を聞いて慌てたように、茶釜から四肢と頭、尻尾が生えてみけのもとに転がってきた。きゅう、と鳴いて見上げてくるつぶらな瞳。
「まぁ、可愛い。たぬきさんだったんですね」
「ええ、昔うちに居たことがありましてね。ちょっと仲良しでしたが……山に帰りなさい、と諭したはずだったんですが」
「…………」
「ああ、やっぱり結界張り直してないから、あれこれ入り込んでいますねー……昔の友達が」
しょうがないなー、とにこにこしながら茶釜を抱えて別の部屋に行こうとしたみけに声をかける。
「…………ねぇ、みけさん。私と友人に、って……この子達の延長みたいな気分で、言ってませんでしたか……?」
「え」
「…………みけさん、もうちょっと色々取り繕えるようになったほうが、いいと思います」

深く深くため息をついたりりは、こちらもしょうがないですね、と口にしてみけの後ろを着いていくことにした。
「早く結界を修復してくださいね」
「はいはい、この子達を外に出したら、すぐに」
「……あなたの側にいる妖は、私1人でいいと思いませんか?」
「そうですねぇ、他の子たちを面倒見る余裕はありませんしね」
りりは、出会ってから幾度目かのため息をついて、呟いた。
「……本当に、女心の読めない人ですね」

おしまい。

相川さんからお誕生祝いに頂きましたv
そもそもの発端はあたしの夢なんですけれども(笑)りりが薬を盛られて公家さまに無体を働かれそうになっていて、ぶち切れたみけさんが剣先を口の中につっこんで「その汚い手を離しなさい」と高山ボイスで(なぜw)言っている、という夢を見まして(笑)多分同時期に執筆された「マジカル・ウォークラリー!」のミケさんとルキシュのシーンのせいだと思いますが(笑)
相川さんにメールしたところ、このような素敵なものをいただきました(笑)
まあ、あたしの夢は実はその剣は紙でできていて、ぺらぺらして上手く口の中に入らず何度もリテイクして、動けないはずのりりが小さく肩を震わせているところに「紙なんだからしょうがないじゃないですか!」とみけさんが逆切れしている、というものだったんですけど(笑)
ギャグテイストは置いておいて、こんなに素敵に仕上げて下さいましたv大変美味しく頂きました、ありがとうございましたーv